日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主イエスは生きておられる

2016-03-27 18:30:40 | メッセージ
イースター礼拝宣教 ヨハネ21章1-14節 (マルコ16章1~8節 参照)

イエス・キリストのご復活・イースターおめでとうございます。
イエスさまは私たちが罪に滅びることがないように、御自身が十字架にかかることによって私たちの罪をすべてあがなってくださいました。その神の子イエス・キリストによって今日も私たちは救いに与かっています。そればかりではありません。私たちが死という絶望から天の希望、すなわちいつまでも主と共に生きるいのちに移されるために、主イエスは死から3日後、よみがえられたのです。私たちはこの神さまの愛と救いを思い起こすためにイースターを祝い、互いに「おめでとう」と喜びを分かち合うのです。
また、昨日はイースター特別公演の「ゴスペル音楽劇&トークライブ」(大阪教会&桜人企画コラボ)が行われ、たいへん有意義な時をもつことができました。本日も午後3時から2回目の特別公演が行われます。

本日はヨハネ福音書21章から「主イエスは生きておられる」と題し、御言葉に聞いていきます。
この箇所は復活のイエスさまが7人の弟子たちに現れる記事ですが、イエスさまはすでにエルサレムにいた弟子たちに2度にわたってご自身を現わしておられました。
鍵をかけた狭い家の中、絶望的な思いに閉じ込められていた彼らの間にイエスさま現れ、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃった、とあります。
残念なことにそこに居合わせてなかった弟子のトマスが他の弟子の体験を聞き、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言うのであります。イエスさまは8日の後再び弟子たちの真中に立たれ、そのトマスにご自分が生きておられることをお示しになられたのですね。そうしてトマスは「わたしの主よ、わたしの神よ」と言うと、イエスさまはトマスに、「見ないで信じる人は、幸いである」と言われた、と記されています。人は見えるから必ずしも信じるのではないのですね。「見ないで信じる者は幸い」なのです。

それから、さらに主イエスさまは3度目にガリラヤのティベリアス湖畔で、ヨハネ、シモン・ペトロら含む7人の弟子たちにご自身を現わされました。
マルコ福音書16章には、女性たちが墓に葬られたイエスさまのもとを訪れた時、真白な長い衣を着た若者が現れ、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と伝えたとあります。
 先に申しましたように、エルサレムでもイエスさまはご自身を現わされましたが、彼らの出発の原点となったガリラヤの地で、今一度彼らを福音の使者として召し、任命する。そのようなご計画を主は持っておられたのです。

イエスさまが捕えられることになると、それまでイエスさまを慕って来た弟子たちは怖れや不安にかられて身を隠しました。又、筆頭格の弟子であったペトロも、官邸内までイエスさまの後について行きましたが、そこでイエスさまのことを3度も「知らない」と否んでしまったのです。
復活の朝、白い衣を着た若者が「弟子たちとペトロ」と、あえてペトロを名指ししているのは、ペトロが人一倍自分のとった行為を恥じ、深い絶望の淵にいたからです。
復活の主イエスはそのペトロの心のうちをよくご存じであられたのです。己のふがいなさ、罪深さに自分を責め続けていたペトロに、復活の主イエスは「ガリラヤで今一度待っているよ」と、天の使いを通して伝言なさったのです。そして、今日の箇所はまさにガリラヤから始まる彼らの再出発の物語なのです。

さて、ペトロら7人の弟子たちはティベリアス湖で漁をしたが、その日は何もとれなかった、と記されています。
ペトロやゼベタイの兄弟らはイエスさまの弟子になる前は漁師でした。イエスさまがいなくなってしまい、食べて行くため、その仕事に戻っていたとも考えられますが定かではありません。ただ単に、お腹を満たすために漁に出たのかも知れません。ともかく元漁師であった彼らをしてもその夜は1匹すら捕れなかったのです。

そうして、既に夜が明けた頃、復活の主イエスが向こう岸に立っておられました。けれども弟子たちはそれがイエスさまだと分からなかった、とあります。イエスさまが「何か食べ物があるか」とお尋ねになると、彼らは「ありません」と答えたので、イエスさまは弟子たちに、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ」と言われます。そこで弟子たちがそのとおり「そこで網を打ってみると、魚ふぁあまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」大漁になったというのですね。

この大漁のしるしを見たイエスの愛しておられた弟子のヨハネは、ある記憶がよみがえります。(ルカ5:9)それはペトロはじめ、漁師であった彼らがイエスさまに従っていくことになった時のことです。その時もイエスさまの言われる通り、網を降ろすと舟が傾くほど大漁になったのです。漁師であった彼らが主イエスに弟子として従っていくことになった時のことです。(ルカ5:1-11)彼は向こう岸へ立つお方はイエスさまだ!といち早く気づくのです。ヨハネからそれを聞いたペトロは、「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」とありますね。

私はこのペトロが湖に飛び込んだ場面を何度も読んできました。これまでペトロのとった行動は、「主だと聞いて」一刻も早く主のもとに向かおうとする純粋な姿だと思ってきました。それはかつて海の上を歩いて来られたイエスさまを見て、ペトロが水の上を歩いてイエスさまの方へ進むも、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた、とい記事(マタイ14:22-33)が印象深く、ここと重なっていたせいもあるのでしょう。
しかし、よくよく考えてみますと、何でペトロは水に飛び込むのに、わざわざ上着をまとったんでしょう。普通は脱いで飛び込みますよね。そんな彼の慌てふためく姿の中に、イエスを3度も否んだ罪を恥じ、主の前で何とか体裁をととのえようとし必死になっていたんだなあ、と今回気づきました。

イエスさまはそんなペトロたちの弱さや心情をすべてご存じだったんですね。
陸に上がってきた弟子たちをほんとうに暖かくお迎になる様子がここに記されています。彼らが陸に上がってみると、夜通しの漁で冷えた体を暖める炭火が起こしてあり、その上に魚が焼かれていました。パンまで添えてありました。そのすべてをイエスさまが準備され、弟子たちを待っていてくださったのです。

主イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招き、「パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」
この光景はかつてイエスさまが5つのパンと2匹の魚を5千人にお与えになったヨハネ6章の場面を思い起こさせますが。ここでもイエスさまは自ら弟子たち一人ひとりにパンを割き、与え、彼ら一人ひとりの必要を満たしてくださるのですね。
このイエスさまの愛。私たちの主は、たとえ私が、どうしたってとり繕いようもない者であったとしても、このように愛し、何度でも迎え励ましてくださるお方なのですね。そんなイエスさまの愛と許しが骨身にしみたのは、他ならぬペトロであったでしょう。彼はイエスさまが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」とおっしゃると、真っ先にお言葉どおり舟に乗り込んで網を陸に引き上げます。すると、「153匹もの大きな魚でいっぱいであった」というのです。
 それを見た時、7人の弟子たちはほんとうに知ったのではないでしょうか。「ああ私は、主イエスがいなければ魚一匹すら捕ることもできない。」それはこの後、彼らが主イエスの救いと祝福を伝えて行く中で何度も直面する無力さです。人が人を救うなんてできることではありません。身近な人でさえその心を変えることは人にはできません。結局は主に祈るしかない無力をおぼえます。そんな時こそ、主のおっしゃる言葉に望みをおき、従っていく。そこに私たちは主の栄光を拝することが起こされていくのですね。

先程、信仰告白をされてバプテスマをお受けになられたKさんの新しい歩みは今日からスタートしました。初めからこう言うのも何ですが、クリスチャンになれば悩みや苦しみは問題が無くなるとは限りません。これからもいろんな出来事が起こることでしょうが、大切なのは、どんな時も主イエスが必ず共にいて、乗り越えることが出来るように見守っておられるということです。様々な体験がいつか証に変えられていく時が来ます、今日もまさにそうでありますけれども。その深い「私個人」の希望と喜びが、「私たち」の希望と喜びとして分かち合われていく、ここにキリストの教会のゆたかさがあります。

キリストの教会に足を運んでそこに身をおくことによって、目には見えない力や働きを感じ、いやされ、平安が与えられる。それは主イエスが生きてお働きになっておられるからです。主イエスは肉眼では見ることはできませんが、主イエスを信じ、仰いで生きる人たちの間に神の憐れみと恵みをもって生き生きと働かれるのです。

聖霊は召し集められたキリストの教会、エクレシアに神の愛の力を注ぎ、その一人ひとりをその神の証し人としてお遣わしになります。主イエスは、弟子たちに食卓の準備をして招かれたように、私たち一人ひとりをもその主の食卓へと招いてくださっています。
十字架の御業という尊い犠牲によって、私たち一人ひとりが主のご愛いっぱいに満たされるように主は今日も待っておられます。主のご愛でいっぱいにされた者は又、その恵みと喜びとともに霊の食卓の準備をする者とされていくでしょう。イエスさまの愛を分ち合う喜びを知るからです。イースターおめでとうございます。主にあって今日新しく生まれ変った河さんとご一緒に、このイースターから新しい歩みをスタートいたしましょう。
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自ら十字架を背負う救い主

2016-03-20 14:23:11 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ19:16b-30 受難週

「主への信頼によって」
いよいよ主イエスのご受難を覚えて過ごす受難週を迎えました。先日聖書の言葉を紹介するアプリが送られてきたものを見ますと、「もしも、これがあなたの人生の最期の1週間であることを知ったなら、あなたはどのように過ごされますか?」とありました。みなさんはどうお答えになりますか?そんなことを急に言われたとしても、そもそもあと1週間で地上での人生が終わるなんて言われても、果してきちんと受け止めることができるのだろうか、と考えたりしましたが。
私は闘病生活の果てに天に召された方々と接する機会が幾度もありました。始めはご病気のことを受け入れられずに苦悩する日々をみなさんそれぞれに通られるのですけれども、主イエスへの信仰のゆえに、やがてはほんとうに平安に満ちたりたお顔で、主の御もとに帰って行かれます。そんな時、私の方こそ逆に力づけや慰めをいただくのです。命の終わりが近づくと人は自分の一生を顧みるのでしょう。その時様々な思い出と共に、自らのぬぐい難い罪をも思い出すでしょう。ほんとうの意味で十字架の贖いを知り、体験するのはまさにその時なのかも知れません。救いの主、イエス・キリストが共にいてくださる。それは人生の終わりを前にした人にも、又、今を生きる私たちにも、命に輝きを与える生ける力です。

さて、今日は、イエスさまの十字架と死の場面から「自ら十字架を背負う救い主」と題し聖書のメッセージを聞いてきたいと思います。このレント(受難節)の1ヶ月あまりイエスさまの人生の最期の1週間の記事をともに読んでまいりました。今日はイエスさまの最期の1日に起こった出来事から聖書に聞いてまいります。
17節で「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴダという所へ向かわれた」とあります。それは処刑場でした。
たくさんの奇跡や不思議な業をあらわされた神の子イエスさまです。何とかして十字架刑の苦難と死の道から逃れることもできたはずです。ユダの裏切りも始めからご存じだったのですから、そこから逃れることも十分できたはずです。けれどもイエスさまは敢えてそうなさらなかったのです。それは一重に、父の神の御心である救いの業を成し遂げるためでした。前夜ゲッセマネの園で血の汗を流しながら祈られたイエスさま。そこでイエスさまは十字架の道こそ、すべての人のための救いを成し遂げる唯一の道であり、それを父なる神は望んでおられることを知り、受け入れて自ら十字架を背負われたのです。ローマ兵の鞭に打たれ、いばらの冠をかぶせられ、身体じゅうから血を流しながらも、主イエスは私たちの救いのために自らあゆんでいかれたのです。

「神のご計画の実現」
このヨハネの福音書は、旧約聖書で預言された、来るべきメシア(救世主)がイエスさまであられることを証しています。
18節には、「イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真中にして両側に十字架につけた」とありますが。それは預言者イザヤの書53章12節に、「彼は罪人のひとりに数えられた」と記されたことが実際に起こったことを示しています。
又、23節以降には、「兵士たちがイエスさまの服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着は一枚織の衣になっていたのでくじ引きをして決めた」とあります。これはメシアの苦難を預言したといわれる詩編22編19節に、「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」と記されていることと同様のことがなされたということです。そのようにイエスさまの十字架の苦難と死は、旧約聖書に予め預言されていた神さまのご計画の実現であったということなのです。
さらに、イエスさまの死の場面において28節には、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」とあります。
この「渇く」というのも先程の詩編22編16節の「口は渇いて素焼きのかけらとなり」という描写を受けて「旧約聖書の言葉が実現した」とヨハネ福音書は伝えているのです。
兵士たちが、酸いぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出した」とありますが、これも詩編69編22節に「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇くわたしに酢を飲ませようとします」と、記されたメシアの苦難の成就ととれます。
この酸いぶどう酒を差し出すために使われたヒソプの枝は、過ぎ越し祭の祭で用いられたものでした。それはかつてイスラエルの民が囚われのエジプから神さまによって導き出される折に、それぞれの家の門柱に「ほふられた小羊の血」を塗ることで、滅ぼすものから守られ、災いを過ぎ越すことができたのです。そのほふられた小羊の血はヒソプの枝に浸してから門柱に塗られたのです。
バプテスマのヨハネは、イエスさまを「世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。そのとおりイエスさまはまさに世の罪を取り除く過ぎ越しの小羊として十字架上でほふられたのです。ヒソプの枝はその神さまのご計画の実現の証しとなっているのです。

「主イエスの十字架」
だれしも不当に捕えられたりすれば、無実と汚名を晴らすために必死になって弁明したり、抵抗したりするでしょう。ところがイエスさまはそうなさいませんでした。ローマの総督ピラトもイエスさまの無実を認めており、なんとかイエスを釈放しようとしたことが分かります。しかし、イエスさまはイザヤ書の言葉をかりますなら、53章7節「屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった」のです。それはまさに、イエスさまが神の小羊として世界の、私たち人類すべての罪を自ら負われた。私たちの罪をご自分の裁きとして「お受けになった」ということであります。重ねて言いますが、イエスさまは自ら十字架を負い私たちの罪をご自分の身に負うことによって私たちを滅びから解放し、神との交わりを回復してくださったのです。
無実のイエスさまを十字架につけていった者、それはだれでしょうか?他ならぬ私自身ではないでしょうか。罪に滅びゆくしかない、又死の淵にあっては到底神の前に立つことができない私。その私が滅びることのないようにと、その罪をイエスさまはご自分の罪として自ら背負ってくださった。そうして私が神に向かって父なるお方、お父さんと呼べるような和解を与えてくださった。それほどまでにこの私をイエスさまは愛してくださっているのです。このイエスさまの十字架の御救いは、人間の知恵や知識によるのではなく、むしろ罪を犯さずには生きていけないような私たちの弱さや破れの中に、唯恵みとして与えられているのですね。私たちはその神さまの愛を知さられ、その愛に生かされていく中に、主の御救いのゆたかさとみ恵みを体験させていただけるのです。唯、唯感謝であります。

「十字架のもとで始まる新しい関係」
さて、本日のイエスさまの十字架の場面の中で、もう一つ心に留まる光景がございます。
それは、十字架のイエスさまとそのもとに居続けた女性たちのことであります。
25節「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」とあります。この女性たちはイエスさまがガリラヤにおられた時からいつも付き添い従ってきたようです。彼女らは表舞台にではなくイエスさまとその一行の身のまわりのことや食事のお世話をしてきたのであります。ところが、イエスさまが捕えられて主だった弟子たちが逃げて行く最中、なおイエスさまの十字架のもとにとどまり続け、その死の最期を見届けた彼女たちの姿はひときわ存在感があります。 
女性の存在感といえば、朝ドラの主人公の広岡浅子さんが注目をあびています。彼女はキリスト者として女子高等教育や大阪YWCAの創設、又キリスト教界においても大きな貢献をされたそうですね。見えるところ見えざるところで、女性の祈りと働きというのは大変優れたものであると尊敬いたします。

聖書に戻りますが。苦しみの果てにいまわの息であられたイエスさまは、十字架上から母とそのそばにいた愛弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。それから愛弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われます。
愛弟子とはヤコブの兄弟ヨハネであったようですが。彼はそれ以降本当に言われたとおりに、イエスさまの母マリアを引きとって世話をしたとあります。

死ぬ直前に自分の母親を家族や親族に託すということは一般的な事としてこの時代もあったのでしょう。しかしここでイエスさまは、何人もの兄弟がいたにも拘わらず、自分の肉親ではない愛する弟子に母を託したのです。恐らく当時のイエスさまの肉親の兄弟姉妹たちはイエスをメシアと信じていなかったのでしょう。聖書には「兄弟がやってきてイエスのなさっていることをやめさせようとした」という記述がございます。又、イエスの母と兄弟が訪ねて来たことを聞かれた時、「わたしの母、わたしの兄弟とは神の言葉を聞いて行う人のことである」(マタイ16章)とお答えになったともあります。
ここでイエスさまが母にその弟子をして、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われ、弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われたその時、この主イエスの十字架のもとで、新しい人間関係が生まれたのであります。キリストにある者はみな、血縁関係、肉の親子、兄弟姉妹に関係によってではなく、十字架の主イエスのもとこの新しい関係によって結び合わされるのです。ここにキリストの教会の本質がございます。あらゆる違いを超えた神の家族としてのゆたかさ、和解の福音の原点がまさにここから始まっていくのですね。私たち一人ひとりも又、この主イエスの十字架のもとにあって神の家族として互いを大切にして生きるよう招かれているということを今日改めて思い起こしたいと思います。

最後になりますが、十字架につけられたイエスさまの身体は鞭で皮膚は裂けぼろ布のように傷だらけでした。迫る死を前にされ、苦悩と痛みをただひたすら耐え忍ばれたのです。その姿は人の目に敗北者と映ったことでしょう。しかしそれはイザヤ書53章5節に、「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と預言されたとおりのことが主イエスによって成し遂げられるためであったのです。
人生の苦しみや悩み、痛み、悲しみの中でこの十字架の主イエスのお姿を想う時、そしてその愛を知る時、私たちは深い慰めをそこに見出します。又、人生の荒波の中で主にある家族の祈りと支えをいただく時、どんなに私たちは勇気づけられることでしょうか。さらに、そのような主イエスの執り成しのもとにある関係性を築いていくようにとの、主のお言葉と招きに留まり続けることは大切です。
悩みや問題を抱え、苦しんでいる時は人と顔を合わせるのもしんどいと礼拝を休もうと考えることがあるかも知れません。しかし実はそういう時にこそ、主イエスのもとに足を運び、主のいやしと平安に与かる必要があるのです。しんどい時にこそ、礼拝に足を運び、主の御前に出で、そこに身をおくと、しんどかったけれど教会に来てほんとうによかった、と思うことがきっと多いはずです。主から離れると魂は欠乏をおぼえ心は益々重くなっていくものです。何よりもそのしんどさを抱えて苦しむ一人ひとりを主が執り成してくださっています。一人ひとりがかけがえの無い存在として大切におぼえられ、神の家族として招かれています。そのメッセージに応答しつつ今週も歩み、来るイースターを共に迎えてまいりましょう。
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ペトロの裏切りとイエスの愛

2016-03-13 15:36:50 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ18:15-27 レント(受難節)Ⅴ

このペトロがイエスさまを否む場面はマタイ、マルコ、ルカとすべての福音書に記載されているのです。それだけ弟子たちや初代教会にとって深い示唆を与えるペトロの証しであった、ということでしょう。なぜなら初代教会は激しい迫害を経験しなければならなかったからです。そしてヨハネ福音書だけは、そのペトロの否認の間にイエスさまが大祭司から尋問を受ける記事が挿入されています。まずそこに焦点を当て、この出来事から聞いていきたいと思います。

この箇所の前段ともなっています13章36節以降をちょっと開いてくださいますか。新約聖書(新共同訳)p.196 です。そのところでイエスさまは、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」とペトロにお語りになります。それに対してペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命まで捨てます」とイエスさまに言うのです。するとイエスさまは「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と、そのようにペトロがご自分のことを否認する予告をなさっておられたのです。

イエスさまが「わたしの行くところ」とおっしゃったのは、神の御子だけが行くことのできる十字架の受難の道、罪の贖いによって救いを成し遂げるための道でした。
ペトロはイエスさまが敵対者によって殺害の危機に直面していることはどこかで感じていましたから、「なぜ、あなたは一緒に行き、死のうと言ってくださらないのか。わたしはあなたのためなら命を捨てる覚悟はできています」と、そう公言したのです。
ペトロは心から純粋にそのように願い、その思いに偽りはなかったと思います。けれどもイエスさまは、そのペトロの決意がどれほどもろいものかをすでにご存じであられたのです。

さて、いよいよイエスさまが捕えられて大祭司の家に連れて行かれた時のこと、ペトロは大祭司の知り合いであったもう一人の弟子とその後を追ってゆきました。そうして家の外門で様子を伺っていたのです。そこへそのもう一人の弟子が、門番の女中に話をつけてペトロをその庭に入れるようにしました。彼はおそらく12弟子ではなく、多分地位のあった役人か議員であったようです。そうして大祭司の家の庭に入ることができたペトロは、まず門番の女中から言われます。「あなたも、あの人(イエス)の弟子の一人ではありませんか。」
すると、ペトロはとっさに「違う」と否認します。又、大祭司の僕や下役たちが寒い中「炭火」をおこして火にあたっているところにペトロも一緒に立って、火にあたっていると、ペトロはその人々から、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言われます。すると、ペトロは再度「違う」と打ち消して否認します。決定的だったのは、そこに大祭司の僕の一人でペトロに片方の耳を切り落とされた人の、身内の者がおり、その人が「園であの男(イエス)と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」と、問いただされてしまうのです。これはまあ公然と見られていたわけですから、ペトロには否定しようもないことであったはずです。にも拘わらず、彼は再び打ち消して、イエスなど知らない、関係ないと「否認」してしまうのです。ほんの数時間前に「あなたのためなら命を捨てます」と、イエスさまに公言したペトロはどこにいってしまったのでしょう。彼はその忠誠心をもってどこまでもイエスさまについて行くと考えていたのです。ところが、肝心要の時が来て、実際に自分が窮地に追い込まれてしまうと、そういうものはどこか吹き飛んでしまいます。彼は自分を守ることしか考えらない弱さ、もろさをまざまざと突きつけられるのですね。

さて、そのようなペトロの状況に挟まれるように、19節から24節には「イエスさまが大祭司から尋問を受ける」場面が記されています。ここでのイエスさまは、周囲がみな自分をおとしめようとする中、唯一人ご自分の言うべきことを口になさるのです。

イエスさまは、大祭司から「弟子のことや教えのことについて」尋ねられます。それはその答えからイエスを死刑に処する口実を拾うためでした。それに対してイエスさまは、「自分は、世に向かって公然と話した。ユダヤ人が集まる会堂や神殿の境内で教えた。  
ひそかに話したことは何もない」と、いわば、何らやましいことなど一切ないことを明言なさいました。

そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスさまを平手で打ったのです。そこでイエスさまは「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と権力の横暴を正し、問われます。何という権威のあるお言葉でしょうか。それはまさに天の父とイエスさまとがつながっている確信から発せられたものであったと言えるでしょう。それは又、窮地に追い込まれる中で言うべきことを言えないペトロと、権力者の前にあっても正しいことを明言なさったイエスさまが対照的に浮かびあがってきます。
自分の身を守ることしか考えらない弱さをさらす以外なかったペトロ。
人間の持つ情熱や感情から来る正義感や忠誠心など如何にもろいものであるのかを、聖書は赤裸々に示します。けれどもそれは、決して人ごとではなく私たちの姿でもあるのではないでしょうか。あの、遠藤周作さんが知り合いの神父と食事をしている時、「もしあなたが踏み絵を前にしたならどうするか」と尋ねたそうです。するとその神父は顔色を変え、「いや、わからん。そんなことはその時になってみなければわからない」と言ったそうです。
そのような状況が万が一直面することになったとしたら私たちはどうするでしょうか?もはやきっぱりと「私は大丈夫」「絶対どこまでもついて行ける」とは言えないのではないでしょうか。ではそのようなペトロは、又、私たちはもうだめで主の弟子として生きる資格がないと、主から言われたならもはや救いはそこにはないでしょう。
けれどもイエスさまはそんなペトロのすべてをご存じで、「あなたは鶏が鳴くまでに、3度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告しつつも、先週の16章のところでイエスさまは「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」と言われているのですね。

ペトロがイエスさまのことを三度否認した後すぐ、「鶏が鳴いた」と書かれています。
ルカ福音書には「主イエスが振り向いてペトロを見つめられ、ペトロは主の言葉を思い出して激しく泣いた」と書かれてあります。ペトロはこの時、どれほど深い主イエスの愛とゆるしを知らされたことでしょうか。
その後、ペトロはぬぐってもぬぐいきれない自責の念とともに、すべてをご存じの上でゆるし受け入れてくださった主イエスの愛によって再び立ち上がって行くのであります。このヨハネ福音書の21章には、他の福音書には記されていない復活のイエスさまが再びペトロと会われ、「わたしの羊を飼いなさい」と牧会者として招き、ペトロはそのイエスさまの招きに応えていく独特のエピソードが記されているのです。その後ペトロは初代教会において牧会的働きをもってイエスさまに従っていったのであります。
それはもはや、世の忠誠心や使命感というものではなく、唯、自分のように弱く、罪深い者を赦し生かしてくださる十字架の主の愛のゆえでありました。

そしてペトロと同様、主イエスをおいて逃げ去った他の弟子たち、又キリスト教会とその信徒を迫害した後に回心したパウロも、初代教会の人々も皆、自らの罪深さと弱さの中で本当の意味で主の愛を知らされ、その愛を、救いの福音を伝え、証しする弟子とされていったのです。私たち一人ひとりも又、その主の愛と救いを頂いて、主の弟子として生きる召命に与かっていることを今日おぼえたいと思います。
それはまさにヨハネ福音書15章16節以降にこう書かれているとおりです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

私自身、ほんとうにこの主の愛とゆるしがなければ到底立ち得ない者であることをつくづく思い知らされています。日々祈らされ主の救いに与らなければ到底務めを果たしてゆくことができません。自分の能力や思惑、計画で立っていこうとするのなら主の栄光を現わすことはできません。なぜならガラテヤ書5章6節にあるように「ただ愛によって働く信仰だけが尊い」からです。その愛はまさに、今日私たちが聞いた主イエスの愛であります。
キリスト者はいつもその主にみもとに立ち返っていかなければ、逸れていってしまう存在だということを肝に銘じておくことが大事です。主は私たちが弱さや失敗の中にも主の愛を知り、その救いによって互いに愛し合うキリストの弟子とされていることを喜んでおられます。今日から新しい週が始まりました。今週も日々のあゆみの中でそれぞれが主の前に出て祈りつつ、主の愛に生かされて、その恵みを分ち合っていく者とされてまいりましょう。
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イースターエトセトラ

2016-03-10 18:14:33 | お知らせ
EASTER
イースター特別礼拝ご案内

3 月 27 日 (日)
10:30~
主イエスのご復活の栄光仰ぐ
永遠の命と希望のメッセージ。

イースター特別企画 

ゴスペル音楽劇藍色のシャマール公演
~彼の目線の先にあったもの~

3月26日(土)2:00PM(開演) 1:30開場
  27日(日)3:00PM(開演) 2:30pm開場 公演(ゴスペル音楽劇&トークライブ)は2時間を予定しています。

紛争地域のこどもたちや市民の生活を取材し続けたフリージャーナリスト後藤健二氏。
後藤健二氏の児童書籍執筆の元となった、紛争地の子ども達との体験をゴスペル劇に仕立て大変見応えのある構成となっています。
ゲストのトークライブも濃い内容となっておりますので、ぜひこの機会にご鑑賞頂ければ嬉しく思います。

後藤健二氏の著書紹介 「ダイヤモンドより平和がほしい」「エイズの村に生まれて」
           「ルワンダの祈り」「もしも学校に行けたら」以上(汐文社) 他


先回お見逃しになられた方 
まだご覧になっていない方はぜひこの機会に!

会場 日本バプテスト大阪教会
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キリストにある平和と勝利

2016-03-06 15:40:18 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ16:1-33 レント(受難節)Ⅳ

本日はヨハネ16章より「キリストにある平和と勝利」と題し、聖書の言葉に聞いていきたいと思います。この福音書を記したヨハネが教会の指導者として生きた時代、それはキリスト教会とその信徒への激しい迫害の最中でありました。私たちは今、現在幸いにも「信教の自由」が憲法によって保証されておりますが、イエスさまの時代から2000年がたった今日の世界においても、混迷を深める中東において、又中国において、あるいは明るみにはなっていないけれども様々な地域で、いまだ主イエスを信じるキリスト者への激しい弾圧や迫害が起こっている現実がございます。今の日本ではそんな直接的に迫害や弾圧を受けることはめったにないでしょうが、キリスト者としての信仰や信条を貫こうとする時、バッシングを受けたり、脅されたり、職務を追われたりする方々も実際におられます。家族、親族、又地域コミュニティーから疎外感をおぼえたことがあるという方もこの中においでかも知れません。そういう中で私たちが「平和」を得、キリストにある勝利の人生を生きるためのメッセージを、今日のイエスさまのお言葉から聞いていきたいと思います。

さて、私たちは受難節に入り、イエスさまが御自分の時が来たことを自覚されて、弟子たちに決別説教をなさったそのところをこれまで読んできましたが。先先週は弟子たちの足を洗いながら「互いに足を洗い合いなさい」とお命じになった箇所を、そして先週は「ぶどうの木であるイエスさまに、その枝としてしっかり実を結ぶものとならせていただくように」との勧めをいただきました。いずれも共通しているのは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。これが父の神の掟である、というメッセージであったのです。

本日の16章はそれらのイエスさまの決別説教のクライマックスともいえる箇所でありますが。ここでイエスさまはまず、弟子たちに「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と語られました。

イエスさまは5章18節以降の「迫害の予告」の中で、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」と弟子たちにおっしゃるのです。それはつまり、弟子たちが迫害を受ける前に、イエスさまご自身が迫害を受け、十字架の苦難と死を遂げられるということが述べているのです。そうしてイエスさまが捕えられて死なれた後、弾圧と攻撃の鉾先は福音を受け継いでいく弟子たちに向かっていくのです。
イエスさまの存命中、弟子たちはイエスさまが一緒におられたので直接そういった危害が及ぶことはなかったのですが。しかし、イエスさまは御自分が去っていった後、弟子たちにそのような事態が生じることを十分見こされて、弟子たちが慌てふためき、つまずくことがないようにと、弟子たちに大切なお言葉を語られるのです。
ですから4節にこう記されています。「これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

この後必ずつまずきを覚えるようなことがある。迫害も起こってくる。しかしその折に、信じていたのに思いがけないことがふりかかって来たと、意気消沈するのではなく、「ああ、イエスさまがあのようにおっしゃったなぁ」と思い出すようにということですね。
このようにイエスさまは、弟子たち、それはさらにイエスさまを信じるすべての信徒たちの将来を十分見こして、危険や災難が間近に迫ってきた時にも慌てふためき信仰を失うことのないようにと、これらのことを語られたのです。

ではその中身をもう少し丁寧に聞いていきたいと思いますが。
イエスさまは5節以降でこう言われます。
「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、、、、しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。」

イエスさまが彼らのもとから離れ去ることを聞いて、弟子たちは「本当にイエスさまが去って行かれるとしたら自分たちは一体どうなるのか」と、その心は悲しみと不安でいっぱいになりました。そのような弟子たちにイエスさまは「わたしが去って行くのは実を言うとあなたがたのためになる」と、思いがけないことを口になさるのです。さらにイエスさまはおっしゃいます。「わたしが去って行かなければ弁護者はあなたがたのところに来ない。わたしが行けば弁護者(助け主)をあなたがたに送る。」
それは12節にありますように「主の弟子、さらに信徒たちを導いて真理をことごとく悟らせるお方、真理の霊」、聖霊であります。

イエスさまは16節で「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と、おっしゃっています。それは御自身が十字架におかかりになって死なれ、ご復活されて天に昇られた後、あの聖霊の降臨によって主イエスが共におられることを知るようになる、そのことをおっしゃっているんですね。しかし、弟子たちはこの時まだイエスさまの言われた事がまったくわかりません。別れの悲しみと先の見えない不安の中で一層頭は混乱するばかりだったでしょう。  

その彼らにイエスさまは言われます。
「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変る。」そして 22節にありますように「今は、あなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はない」とおっしゃるんですね。何とも力強いイエスさまからのお約束です。

それから2000年を経た今日の私たちはイエスさまを目で見てはいませんが、確かに弁護者、真理の霊、助け主なる聖霊が私たちのうちにも来られ、生きいてお働きになっていることを知っています。この聖霊はキリストの教会を通してお働きになり、主が生きておられること、その救いの御業を与え続けていてくださるのです。
「悲しみは喜びに変る。」「心から喜ぶことになる。だれもこの喜びを奪い去る者はいない。」聖霊に満たされた生活はそのおかれた状況如何に関わらず、主にある喜び、何ものも奪うことのできない喜びが溢れます。

ちょっと話が逸れますが、杉本竜一さんという方のBELIEVEという曲があります。ご存じの方もおいでだと思いますが。それはこんな歌詞です。「たとえば君が 傷ついて くじけそうに なった時は かならずぼくが そばにいてささえてあげるよ その肩を 世界中の 希望のせて この地球は まわってる いま未来の 扉を開けるとき 悲しみや 苦しみが いつの日か 喜びに変わるだろう アイ ビリーブ イン フューチャー 信じてる 」 
この「かならずぼくがそばにいて」という言葉や、「悲しみや苦しみが、いつの日か喜びに変る、アイ、ビリーブ イン フューチャー 信じてる」という言葉が、今日のイエスさまのお言葉と重なっているように思えて何だかずっとこの曲が頭から離れなくなったんですが。

さて、23、24節でイエスさまは「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。わたしの名によって願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と、言われます。

弟子たちはこれまでも祈りについてイエスさまから学んできました。しかしイエスさまの御名によって祈ったことはなかったのです。イエスさまが一緒におられたからそう祈る必要はなかったのです。けれどもイエスさまはここで弟子たちに、この地上を去るにあたり、今後御自分の名によって父の神に祈ることを教えられます。
聖霊が送られてきた「その日には」、26節にも「その時には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」とございます。 それはイエスさまの十字架の贖いを通して与えられる私たちの祈りです。聖霊がそれを悟らせて下さり、それによって父なる神さまが直接、私たちを愛して、祈りを聞いてくださるのです。これはものすごい約束の言葉です。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる。」
アーメン。私たちも聖霊のお働きによる救いの業と喜びが起こされるように、祈り続けましょう。

さて、弟子たちはイエスさまの言葉を聞きながら、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言っています。それはその時の弟子たちなりの信仰の表明でした。しかし、イエスさまは「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」と、おっしゃるのですね。
弟子たちは、その後イエスさまが捕えられ引き渡される事態を目の当たりにして、イエスさまを置き去りにして逃げて行くのです。「信じます」と言った言葉が吹っ飛んでいく、そんなやるせない経験を彼らはすることになるのです。けれど実はイエスさまはそのような弟子たちの弱さをすでにお見通しであられたのですね。それを十分ご存じのうえで、弟子たちに今日のこの言葉を語っておられるのです。

ここでイエスさまが弟子たちの弱さやについて予告なさったのは、彼らを落胆させるためではなかったのです。それは33節にあるように、イエスさまは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」とおっしゃいました。   
イエスさまを見捨てて逃げ、その無残な最期を遂げられたことを知り、自責の念にさいなまれたであろう弟子たち。その失意のどん底で、イエスさまの今日のこのお言葉を思い出した彼らは、どんなにかイエスさまの深い愛と招きに胸を打たれたに違いありません。主イエスがお語りになった言葉、それはまさに1節「あなたがたをつまずかせないため」4節「その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためであった」ということです。
そうして主の愛に生かされた彼らは、主のご復活と聖霊降臨によって何ものも奪うことのできない神の愛と救いの喜びに満たされ、真の平和(平安)を得るのであります。誰にでも失敗はあります。人の決心も、ともすれば吹っ飛んでしまうものです。にも拘らず主はそんな私たちの弱さもあるがままに、その愛によって導き、聖霊をもって何度でも立ち上がることができる勇気をくださるのです。

イエスさまは最後に言われます。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
私たちも又、世の罪と死に勝利してくださった十字架のイエスさまを見上げつつ、その愛と平和のうちにあって力強く主の証し人とされていきましょう。
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