日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2023/10/29  主日特別礼拝

2023-10-26 10:09:50 | 教会案内
2023/10/29  主日特別礼拝
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神に立ち帰れ

2023-10-22 13:59:41 | メッセージ
主日礼拝宣教  イザヤ40・1-11    

ロシアとウクライナに続き、現在イスラエルとパレスチナに起っている状況はすでにみなさまもご存じのとおりであります。多くの市民が戦争状態に巻き込まれ、実にいたたまれない思いです。このまま負の連鎖が続けば様々な勢力が働き、とんでもない惨事になりかねません。
ニュースで知ったのですが、アメリカの中心部でこのイスラエルの空爆に対する即時停戦と、これに加えて、アメリカの戦争協力に反対を訴える市民のデモが行われており、それはユダヤ系の人たちのデモだということでした。平和を求めて祈り、行動するユダヤ人たちがこんなにもおられるという事実。今のガザに対する強硬な態度を見て、「ユダヤ人は皆、好戦的だ、残虐である」というのは偏見であり誤りであることに気づいた方も多いのではないでしょうか。イスラエル国内にも実に平和を祈り、いのちが軽んじられことに反対する市民が多くおられるのではないかと思います。パレスチナにおいても、又ロシア、ウクライナの国内においても同様です。分断から和解へと憎しみの連鎖を断ち切る決断をもって、平和を願う人たちがいるのです。
私どもも又、キリストによる和解と平和に招かれている者として、平和の主の義と愛を掲げつつ、共にこの世界の状勢を覚え、祈り続けましょう。

本日はイザヤ書の40章の御言葉からですが。南ユダの国と民は預言者イザヤによる神の戒めの言葉を聴いて悔い改めません。不正や搾取ははびこり弱者は顧みられず、神ならざるものの力と勢力に依存し堕落した彼らはとうとうバビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。そして、技能を持った者などの働き手を中心にバビロニアの捕囚とされてしまうのです。その彼らは神に見放されたと嘆くのでありますが、神は彼らを見捨てられることなく、その中から一人の主の預言者を召し出されるのです。それが第二のイザヤとされる人物でした。
彼は、先週まで読んできました預言者イザヤとは異なる人物ですが、その第一イザヤの影響を受け、その後を受け継いだとされています。
その預言の中心は、バビロニアの捕囚からの解放とエルサレムに残されていた民の救いと回復の希望であります。それはエルサレムと神殿の崩壊から約半世紀以上の年月を経て、不思議な主の導きにより、遂にペルシャ帝国による捕囚の解放というかたちで実現されていくのです。
もはや激しい審判の苦役の時代は去り、主の慰めを受ける新しい時代が始まります。第二のイザヤは、主なる神から見捨てられた者のようであった捕囚の民、又ユダに残された民に向けて、主のお言葉を取り次いでいくのです。

その冒頭1-2節、イザヤは主のみ声を聴きます。「慰めよ、わたしの民を慰めよ。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。」
主なる神は、罪と咎のゆえに打たれたユダの民を、いつまでも捨ておかれず、その「苦役の時は満ち、咎は償われた」と宣言なさるのです。このお言葉は、心打ち砕かれ、罪を悔いるユダのすべての人々にとってどれほど大きな魂のいやし、心の平安、拠り所となったことでしょう。
私たちキリスト者も又、主のみ前にあって罪の赦しの宣言を戴いた者として大いに共感を覚えるものでありますが。ここに神との和解が生じていることに注目したいと思います。

さらに3節には、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と語られています。これは新約聖書のバプテスマのヨハネがキリストに先がけて登場する際に引用された言葉であります。
そして重要なのは、5節「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」ということです。荒れ野に切り拓かれた道を通り、囚われの民が約束の地、それは実に神との和解、神との平和に立ち帰ってゆくことによって、主の栄光が現れされるのです。
ただその道備えは、人ではなく主である神ご自身が整えてくださるのです。
この「荒れ野に道を備え」の「備え」というもとの意味は、「一つの方向に体を向ける」ということです。人が行うことは唯、主が備えて下さった道と、その招きに心と思いと体とを向けて歩み出すこと。そのことが重要なのです。主なる神御自身が、荒れた地に広い道、平坦な道を通し、人の立ち帰るのを待っていて下さる。ここに救いと希望の良き知らせ、福音が語られています。

そしてさらに6節以降、「呼びかけよ、とみ声は言う。」「何を呼びかけたらよいのでしょうか」とイザヤが答えると、このような声が返ってきます。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の草のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけるのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしの神の言葉はとこしえに立つ。」
ここには人の世の「虚しさ」と「はかなさ」が語られています。この地上のいかなる栄華を極めた王や権力者、財を築いた者、又どんな勇者であっても草や花が枯れしぼむのと同様、すべては例外なくいずれは朽ち果てていくのです。ですから、この地上のもの、肉なるものに依り頼み、それにしがみつき、固執しようとすることは虚しく、はかないものであるのです。戦争をしているところではありません。                                     ニュースで伝わってくる悲惨な状況を目の当たりにすると、力が抜けるような無力さを覚えます。草は枯れ、花はしぼむことを思い知らされます。しかし、なおも「わたしたちの神の言葉、その約束はとこしえに立つ。」それは決して揺ぐことがない。この希望に私たちも又、生かされているのです。
新約聖書のヨハネ第一の手紙2章17節にも、「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし神の御心を行う人は永遠に生き続けます」と、記されています。「肉」に属するものはすべて朽ちていきます。しかし、わたしたちの神の言葉によって御心に生きる人は、荒れ野のような人生にも永遠のいのちに至る道が拓かれているのです。

そして9節、「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力をふるって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。」主は良い知らせを告げる使者を派遣なさいます。
この「良い知らせ」、福音は、エルサレム(シオン)といった中心の都だけでなく、荒れ果て、廃れた近郊のユダの町々にも伝えられる必要があったのです。
かつては主とその御言葉に逆らい、背いて滅びに向った民。「聞くには聞くが理解することなく。見るには見るが悟ることのなかった」ユダとエルサレムから主の栄光は去っていかれました。
しかし今や、主なる神ご自身が再び民のもとに戻って来られ、ユダの国、その都エルサレム、そして小さな町々までも慰めと回復が告げられるのです。
私たちにとっての福音、ゴスペル、良き知らせ。それはまさに、神の言(ことば)が人となった主イエス・キリストであり、その救いであります。主がおかれたその所で福音の伝達者としての人生を歩んでゆきたいと願うものです。

9-11節、「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前に進む。主は羊飼いとしての群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」
ここで「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神」と、「見よ」と3度も呼びかけられています。
第二イザヤが最も大事にしているのは、この主なる神、救いの神をしっかりと仰ぎ見て生きるように、というメッセージです。
「主なる神は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。」
それは、かつてイスラエルをエジプトから導き出された時と同じように、捕囚とされた民をバビロニアから救い出された事を示します。さらには、多くの日の後、遂に「見よ、わたしたちの神」「見よ、主なる神」として、主イエス・キリストがお出でになるのです。主は、「羊飼いがその群れを守り養い、散らされた羊たちを集め、小羊をそのふところに抱く」ように、ご自分の民を慈愛といつくしみをもって導き、お治めになられます。その主なる神の統治のもとで、主を仰ぎ見ていく民、それは福音によって救いに与ることがゆるされた今や私たちでもあります。
本日は、「神に立ち帰れ」と題し御言葉を聞きましたが。
実に私たちも主イエス・キリストの十字架、その御救いによって日々主に立ち帰り、新生のいのちに与っています。主のいつくしみは私たち一人ひとりに注がれているのです。
それだけではありません。主イエス・キリストは死に打ち克たれた復活の主であられます。「草は枯れ、花はしぼむが。わたしたちの言葉はとこしえに立つ。」永遠なのです。ここに確かな希望があります。
「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」と語られたように、主は最終的な完成の日にすべての権能をもって来臨されます。主を仰ぎ見、その御言葉に生きて来た者は霊のからだをいただいて復活の主と相まみえるときが与えられる、その終末の希望が私たちに与えられているのです。
「マラナタ」:主よ、来たりませ、と待ち望みつつ、恵みに応えて生きる希望と喜びを感謝します。第二イザヤに臨んだ主の言葉は、主イエス・キリストを通して実現されています。今日のこの日も永久(とこしえ)までも!日々、羊飼いなる主イエス・キリストのふところに抱かれて、主の愛と平和に生きてまいりましょう
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2023/10/22  主日礼拝式

2023-10-19 09:45:57 | 教会案内
2023/10/22  主日礼拝式
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TOT3コンサート 感謝!

2023-10-16 13:47:44 | イベント
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回復されたぶどう畑

2023-10-15 15:22:23 | メッセージ
礼拝宣教 イザヤ書27章2-9節  

ニュース・報道等でご存じのように、先週イスラム原理組織ハマスによるイスラエルへのテロ攻撃を機に、イスラエルとパレスチナ(ガザ)が大変な事態になっております。イスラエルの圧倒的な軍事力を使ってガザを実効支配することは可能でしょう。しかし、もしそのようなことをすれば、それは中東全体の危機に、さらに世界の様々な国々間で生じている火種を誘発し、世界中を戦争に巻き込んでいくようなことになりかねません。ここは指導者たちが冷静に判断し、自制できるようにと切に願います。
歴史は繰り返すと申しますが。戦争が起こるとき偽りの正義、偽りの平和が大義として唱えられていきますが。私たちも世界の至る所で起こっている戦争や紛争に対して神の義と神の真の平和を祈り求め続けてまいりましょう。

先週はイザヤ書5章の「ぶどう畑の歌」から共に聴いていきました。ぶどう畑はエルサレムの民、ぶどう園のあるじ(主)は神さまです。すべての必要は満たされていたのに、実ったのは酸っぱい野ぶどうでしかなかった。その嘆きがうたわれていました。今日の箇所はそれに続くイザヤ27章から、「回復されたぶどう畑」と題し、御言葉に聴いていきます。
この2-3節には、「その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ、害する者がないよう、夜も昼もそれを守る」と、うたわれます。
ここには、「その日には」と何度も「その日」にはという言葉が繰り返されています。実にイザヤ書において「その日」という歴史における神の決定的な介入の時が来る。必ず来るということが語られているのです。
では、「その日」といつのことでしょうか。
それは特に24章~27章の小見出しにあるように、「神の世界審判「審判と崩壊」「主の審判の日」であります。紀元前587年において南ユダとエルサレムはバビロン帝国(現・イラク)に滅ぼされた、その日であり、ユダとエルサレムの人びとはバビロンの捕囚とされたその崩壊の日です。
しかし「その日」とは又、神と人とが「和解」へと導かれる日であります。ユダとエルサレムの捕囚民はバビロン帝国がペルシャ帝国(現・イラン)に呑み込まれ、不思議としか言いようのないあり方で、彼らは自由と解放を得るのです。その中でエルサレムに帰還することもでき、神殿と町の再建、神の民としての復興が始まるのです。それも又、神の時でありました。
忘れてはならないのは、始めに申しましたように人の世の歴史は繰り返されます。しかし、決定的審判が全世界のすべての人に必ず臨むその日が来るということです。
それを知ることで、今自分が置かれたこの世界と状況の中で、イザヤが伝える神の言をどう聴くか、どのように向き合って生きるのかという現実が生じて来るのです。

さて、今日の箇所の9節にありますように、やがて咎があがなわれ、罪が除かれた彼らは、回復された見事なぶどう園になるということです。「その日」には主なる神さま自らそのぶどう園を守り、ぶどうの木にたえず水をやり、損うことがないように夜も昼も守られるというのです。ここに良き訪れを告げる「福音」があります。そしてこの福音は、神と人との和解によって確かなものとされるのです。
4節で、「わたしは、もはや憤っていない」と神は言われます。神は愛するご自分の民に裏切られ続けました。「神を愛し、隣人を愛する」その戒めをないがしろにし、神のお心を求める事なく、大国や金銀に寄りすがる彼らに悪がはびこり、不正や搾取が日常化し、弱くされた人たちは救済を得ることなく捨て置かれる社会。彼らはそのように神に対する背信行為をもって自ら滅びの道を辿るほかありませんでした。ところが、神はそのような者に対して、「わたしは、もはや憤っ(激しく怒っ)ていない」と、仰せになるのです。人と人の関係であれば当然破たんです。しかしイザヤはここで、尋常でない主の愛といつくしみを語るのです。

ここに、「茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば、わたしは進み出て、彼らを焼き尽くす」とあるのも、取り戻された宝の民に茨やおどろをもって戦いを挑む者に対して、人ではなく主が自ら処罰なさるということです。
しかし、5節「そうでなく、「わたしを砦と頼む者は、わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。」ここで、イザヤはおそらく声を大にして語ったんだろうと想像しますが。
主なる神が南ユダとエルサレムの人びとに対して求めておられるのは、神でない偶像にではなく、「わたしに依り頼んで、わたしと和解するがよい」ということです。
この「和解するがよい」との訳は、口語訳では「和らぎをなせ」と訳されております。それは神さまと仲直りする、という意味ではありません。
実は「和解」「和らぎ」と訳された原語をヘブライ語聖書・原典で見ますと、「シャローム」となっております。本来の意味は「平和」であります。しかしそれは、単に戦争や紛争がない状態をさすのではなく、一人の人の平安から社会全体までも神の和らぎのうちにあるというような、そのシャローム、平安、平和であります。
実は、その平和の主体は人間ではなく神ご自身であられ、神のみ心に適うところに平和が成るのです。それゆえに、ここで神さまご自身の方から、「わたしを砦と依り頼み、わたしの平和のうちにあれ」と、招かれるのです。
「わたしを砦と頼む」、神に依り頼むということですね。
私たちは日毎の生活、仕事、あるいは様々なことに追われる中で、ほんとうに困った時、行き詰まった時、何とか解決しようと努めます。もちろんそれも必要です。だれかに相談に乗ってもらったり、今時はAIに尋ねるなどということもあるかも知れません。
しかし、「わたしを砦として依り頼め」と招かれる平和であり、平安である神ご自身が導かれることに信頼することです。祈り、訴え、神のご采配に期待するのです。感謝なことに、主の教会の兄弟姉妹は祈りとりなしてくれます。主はその時に神の言、聖書の御言葉をもって語りかけ励ましてくださいます。神の与えて下さる平和、平安は、世が与えるものとは異なります。それは損われることのない希望です。神との平和、和解は私達意の人生の歩みを確かなものとしてくれるのです。

そして、イザヤはさらに語ります。6節「時が来れば、ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、地上を実りで満たす。」
ここでは、先週の「野生の酸っぱいぶどう」ばかり」であった状態とは異なり、主なる神によって「回復されたぶどう畑」の祝福が語られます。
神と和解し、霊的な更新が与えられた新しいイスラエルは、時が来れば芽を吹き、花を咲かせ良い実りでこの地上を満たすことになる、とイザヤは預言します。
それは事実エルサレムの復興の中に起こっていくのであります。しかし、神のご計画はさらに人知を超えて、イザヤが活動した時代から約700年後、切り倒された切り株から若枝であられる、世界の救い主、キリスト(メシア)が到来なさるのです。切り株は神と人との分断の象徴といえますが。その若枝であるキリストは、神と人の真の平和をもたらすためにこの地上において神の国を伝え、貧しい者、小さく弱くされている人たちと交わり、共に歩まれました。
そして最期に、全く罪のないキリストは訴えられ、捕えられ、常識ではありえない裁判を受け、権力者からも民衆からもあざけられながら十字架刑によって無残に処罰されるのです。
キリストは無実でした。しかしそれは神のご計画でした。それは罪に滅び行く外ない私たちが神との平和、真の和解をいただくために、傷のない犠牲の小羊キリストが十字架のあがないを果たして、その身を捧げてくださったのです。

先週も申しましたように、この世界のために、十字架の上で血を流し、「父よ、彼らの罪をゆるしてください」と、敵対し迫害するような者のためにも神に赦しをとりなして、最期は絶叫されて死なれたイエス・キリスト。この方こそが私たちの、全世界の罪のために死なれ、そのあがないを成し遂げられた救い主です。
今、確かに現実の世界は混沌としていますけれども、このイエス・キリストのあがないによって主の愛と裁きは実現しているのです。平和の神と人との和解、人と人との平和の道はすでに開かれています。慈愛の神は罪ある私たちを赦し、神さまとの平和、交わりの回復を私たちに与えてくださっているのです。そこに真の平和、平安、救いがあります。この祝福、この福音をすべての国、すべての人びとが知って、受け取って神さまの平和を基に生きていくとき、本物の人と人との平和、交わりの回復シャロームが起こされていくのです。私たちは「その日」に向け今日も祈り続けていかなければなりません。

先週の8日夕方、ルワンダから一時帰国された佐々木和之さんの報告会がオンラインでも行われ、参加させていただきました。ルワンダのジェノサイド後、から2005年より、日本バプテスト連盟の国際ミッションボランティアとして佐々木和之さんはルワンダに遣わされ、かの地で被害者と加害者の和解と共生のために、加害者が被害者の失われた家を造る「償いの家づくりプロジェクト」や生活の自立支援のために共生の「養豚プロジェクト」などの活動を支え導いてこられました。
現在、佐々木さんはプロテスタント人文社会科学大学・PIASSの平和紛争学科を立ち上げ、教員としても「癒やしと和解」のミッションに取り組んでおられます。学生と現場を繋ぐことを通して、平和を担う次世代を育てる活動を行っておられます。
報告会ではそのルワンダでの18年間をとおしての「和解と共生」の活動とPIASSでの現場訪問やフィールドワークの経験をされた学生たちの報告はじめ、現地の方々と交流しながらワークショップをなさっておられる佐々木恵さんからの報告、さらにPIASSで学んでおられるルワンダと様々な国の留学生たちも来日されて、貴重な報告を伺うことができました。
ジェノサイドの後、こうした被害者や家族と、加害者との和解や共生の出来事が実際に起こっていることに対して、ルワンダ町の人たちの多くはそのことが信じられない、といった状況だそうです。それはそうでしょう。もし自分の家族が殺されたら、その殺した者をゆるせるでしょうか。自分が大きな損傷を負わせ背られたなら、はたしてゆるすことなどできるでしょうか。又逆に、社会の状況とはいえ生死に関わる傷を負わせた相手と対面し、ゆるしを乞うことにも恐れや苦痛が伴います。多くの場合逃げ出すでしょう。「和解」と、口に言っても決してそんな簡単な事ではないでしょう。ここに主イエス・キリストによる和解のとりなしがなかったなら、果たして実現したでしょうか。
今も時折襲ってくる憎しみや恐怖に直面しながらも、被害者が加害者の謝罪を受け入れ、加害者は被害者の家作りや償いの歩みを続けているその途上にこそ、「和解」がある。
今回の報告会の中で、佐々木さんが「和解とは和解の途上の出来事の中にある」というようなことをおっしゃっていたんですが、その言葉が心に残りました。

今日は「回復されたぶどう畑」と題し、御言葉に聴いてきました。
現実の世界に目を向ければ、見事なぶどう畑とは言いがたいような状況があまりにも重たく、心折れそうになることばかりですが。「わたしを砦として依り頼み、わたしにあって平和を築け」と仰せになる、主に信頼し、主に聴き従って歩み続ける者でありたいものです。そして、この回復された主のぶどう畑の実りが、世界中の人たちと分かち合われていくことを願い、祈り求めてまいりましょう。
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2023/10/15 主日礼拝式

2023-10-11 13:43:11 | 教会案内
2023/10/15 主日礼拝式
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ぶどう畑の歌

2023-10-08 14:24:55 | メッセージ
礼拝宣教 イザヤ書5章1-7節  

暑さもだいぶ収まり、秋を感じる時節を迎えました。朝の通勤通学時には長袖の方がとおりを行き交う姿を多く見かけるようになりました。秋といえば「収穫の秋」とも言われますように、たくさんの農作物、果物が実ります。冬に備えてでしょうか、食欲も出て収穫されるものは何でも美味しくいただくことができます。
その中で「ぶどう」は秋の旬のひとつですが。いろんな種類、品種のぶどうが色とりどりに店頭に並ぶようになりました。ただ例年と比べますと、気候変動の影響もあって出来はどうなのでしょう。農家の方がたは本当に大変な状況が続いているのではと思います。栽培管理の人件費、水道光熱費、肥料や害虫駆除、運送などの費用ものしかかって高価になり、購入し辛くなりましたね。

今日はその「ぶどう」に関係する聖書のお話から、共に聴いていきます。
このイザヤ書5章の始めに、「ぶどう畑の歌」と小見出しがつけられています。
これは、イスラエルやユダの人たちが収穫の感謝のために集まって来たときに、預言者のイザヤが主の霊によって導かれて、なかなか彼らがイザヤの声に耳を傾けようとはしなかったため、イザヤはこのタイミングでこの歌をうたったのであろうといわれています。

「わたしイザヤは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。」
イザヤは、主なる神さまを大胆にも、「わたしの愛する者」と表現します。
それは、神さまとの近しい愛の関係性。ユダとエルサレムに住む人たちは神の民として、だれもがそのようなうるわしい神との愛の関係性に生きていたはずでした。
イザヤは、その愛する神をぶどう畑の主(あるじ)にたとえます。
「わたしの愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るの待った。」
まあそこまでイザヤの歌を聞いていた人びとは、頷いて聞いていたでしょう。人びとも収穫したぶどうの実を神に献げ、祝っていたのです。
ところが、そこでイザヤは恐れず率直に語ります。「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」
酸っぱくてとても食べられず、顔をしかめて吐き出すほかないぶどうのようなユダとエルサレムの人たち。イザヤはそのぶどう畑のあるじ(主)である神のお心を伝えます。
「さあ、エルサレムの人、ユダの人よ、わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑(ユダとエルサレムの人たち)のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ酸っぱいぶどが実ったのか。」

イザヤはうたいました。「わたしの愛する者、神さまは肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。良く耕して石を取り除き、良いぶどうを植えた。」又、「その真ん中にはぶどう園が荒らされないために見張りの塔を立て、良いぶどうの実の収穫を期待して、早々にぶどうをしぼりぶどう酒にするための酒ぶねを掘って待った。」
そのように、神さまご自身が、エルサレムとユダの人びとのために良いぶどうの実を結ぶために必要なあらゆる整備、又条件をも整え、神の愛と平和を喜び祝う、神の民となることを期待されていたわけです。それにも拘らず、「実ったのは酸っぱいぶどうであった」のです。

ところで、この「酸っぱいぶどう」と訳されたヘブライ語をヘブライ語辞典で調べますと、他には野生のぶどう、未熟なぶどう、渋いぶどう等とも訳すことができるようです。
欽定訳(キング・ジェームス バージョン)・英語訳では「wild grapes」;「野生のぶどう」と訳されております。「なぜ野生のぶどうになったのか」の理由については、彼らがぶどう畑のあるじ(主)、つまり神さまの愛を裏切り、その意に反して生き、神から離れていったために渋くてまずい野ぶどうとなった、ということであろうかと考えられます。愛する神さまにしっかりとつながっていたならば、野生の酸っぱい、まずいぶどうになることがなかったのです。

そうして、ぶどう畑の歌は、「裁き」についてうたわれます。
5-6節「さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。」
これまで神ご自身が、良い実を結ぶために、すべてを整え、恵みの雨を降らせて、万事を整えていてくださったわけです。神さまは格別な恵みをもってユダとエルサレムの人びとを愛し、忍耐をもって手をかけ、関わり続けておられたのです。

この「裁き」は、神ご自身が手を下す天罰ではありません。エルサレムとユダの人たちが自分たちの救いの神を愛し、隣人愛をもってその律法と戒めを守り行い、神の国と神の義を実現すべく裁きなのであります。神はその事が行われる都エルサレムを、期待されていたのです。
しかし、ユダとエルサレムの人びとは主である愛の神にでなく、大国に依り頼み、その軍事力を後ろ盾に都の安泰と繁栄を維持しようと画策し、神の愛を軽んじたのです。その「偽りの平和」は民にとって自らの裁き、結果となって跳ね返ってくるのであります。神の愛と力がいくらあっても、神に背を向け続け、偶像に等しいそれらに依存し、依り頼む者には、神のその愛と力は及ぶことがなかったのです。
その後、ユダの国は崩壊し、エルサレムは陥落します。しかし神はユダとエルサレムの人びとをお見捨てになったのでしょうか。決してそうではありませんでした。ユダの人びとを捕囚としたバビロン帝国はその後滅び、ペルシャの支配のもとでユダの人びとは不思議な仕方で解放され、再び都エルサレムにおいて信仰の復興が起こされていきます。
そうです。ユダの人びとは国の崩壊とバビロンの捕囚を経験することによって、深い悔い改めをもって神に立ち返ったのです。神ご自身がそのためにありとあらゆる準備とその必要な備えをなしてくださっていたのです。彼らは救いの神の偉大な驚くべき恵みを再び経験しながら信仰の復興の象徴といえる神殿の再建を果たしていくのです。

最後のところの7節、「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人びと。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ-)。」
ここを読んで思い浮かんきますのは、新約聖書のルカによる福音書で主イエスがたとえで、「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えた」(同13章6-9節)というお話です。そのぶどう園の主人はいちじくの実がなるのを待っていましたが、いっこうに実がつきませんでした。そこで手入れをする園丁に、「もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ」と言うのです。すると、園丁が、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます・・・もしそれでもだめなら、切り倒してください」と答えた、と言います。
この園丁とは誰でしょうか。おわかりのように、罪に滅びゆくほかないような私たち、そしてこの世界のために、十字架の上で血を流し、「父よ、彼らの罪をゆるしてください」と、絶叫されて死なれたイエス・キリストです。この方こそが私たちの、全世界の罪のために死なれ、そのあがないを成し遂げられた救い主です。今、確かに現実の世界は混沌としていますけれども、このイエス・キリストのあがないによって主の愛と裁きは成就しているのです。神と人間の和解、人と人の和解の道が開かれ、すべての人が、民族、国境、立場、性差そういった違いを超えて、「神のぶどう畑」で良い実を結ぶ者として招かれているのです。

先に、ニューヨークから、コロナ禍が3年近く続きましたので、本当に久しぶりに日本に一時帰国なさった木地さんから、ご自身の体験をもとに主のあかしと、作詞作曲された賛美を捧げていただきました。主に救われ、生かされている感謝と平安。湧上がる喜び。主なる神への愛を隣人とわかち合いたいとの願い。それは私どもも同じく、神に見いだされた救いを実感するごとに主の恵みに応えて生きてゆきたいとの思いがあふれてまいります。

今日はイザヤの「ぶどう畑の歌」から御言葉を聞いてきました。私たちも愛なる神さまに日々立ち返って主との平和・平安に与ることがゆるされています。真に依り頼むべき主に依り頼んで生きる者として、イエス・キリストによって打ち立てられた平和の福音に仕えてまいりましょう。
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日曜午後のひととき、素敵な演奏を聴こう

2023-10-07 09:05:55 | イベント
ヒーリングJAZZ・サプリ
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2023/10/8 主日礼拝式 おしらせ

2023-10-04 12:51:45 | 教会案内

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終末の平和

2023-10-01 14:06:11 | メッセージ
礼拝宣教 イザヤ書2章1~5節 

本日より11月いっぱいまで、礼拝ではイザヤ書を読み、御言葉を聞いていきます。
イザヤは6章にありますように、南ユダの王であったウジヤ王が死んだ年、紀元前736年頃に預言者として召命を受け、その後おおよそ35年間その務めを担ったといわれます。彼の生まれ育った時代、南ユダの国は高度成長を遂げ繁栄いたしますが、次第にその繁栄の陰でゆがみが生じ、様々な社会問題が起こります。それは遠い昔話ではなく、世界の至るところで繰り返される今日の社会とも重なり、神と人との関係性の回復を基に据えた、人と人との関係性、人間社会の回復に向けた私たちへのメッセージなのです。

1章にはイザヤが、南ユダとエルサレムについて見た幻について語られています。それは主の託宣と裁きについてでした。
16~17節でイザヤは、「おまえたちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び。裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」と、主の託宣を語ります。
又、23-24節では「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間になり、皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守れず、やもめの訴えは取り上げられない。それゆえ、主なる万軍の神、イスラエルの力ある方は言われる。災いだ、わたしは逆らう者を必ず罰し、敵対する者に報復する」と語り、主がその腐敗したユダとエルサレムの現状を確かにご覧になり、裁かれると、訴えます。

このようにユダの社会には富の不公正と弱者への搾取、利権による収奪といった社会悪がまん延していました。又、ユダは大国と軍事力による同盟関係を結んでいきます。その大国の保護を見返りとして、ユダの国と民は先祖たちから受け継ぎ大切にしてきた生ける神への信仰、又、その高い倫理観をもって人を生かしてきた戒めと教育に、異教的なものが入り混じり、生ける神ではなく、金や銀で出来た偶像に染まり、社会は荒廃していくのです。
その根本の問題は、宝の民を愛し、慈しんで下さる生ける神さまを畏れ、敬う心が失われていたところにあったのです。
イザヤはユダの社会が神でないものに依り頼もうとする心を悔い改めて主に立ち返り、畏れをもって律法の精神を取り戻すようにと、ユダの王や指導者たちに訴えるのです。2章22節には、自分たちの安泰を謀ろうとするその彼らに対して、「人間に頼るのはやめよ、鼻で息をしているだけのものに」と、主の力にこそ依り頼むことの大事を説きました。

しかし、このようなイザヤの訴えは、民の指導者たちや力を持った宗教家、さらに民にも聞き入れられません。それでもイザヤはなおその訴えをやめません。ユダの人々が再び神の民として、その信仰と主の配慮に満ちた戒めの御言葉によって生きる生活を取り戻し、裁きを免れて命を得ることをイザヤは強く願っていたからです。
誰よりもそのユダの国と民のために心痛め、苦悩しておられたのは父なる神さまご自身でありました。
1章18節「論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえお前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる。」このように和解と悔い改め道を示し続けておられたのです。
残念なことにイザヤの警告に耳をかそうとしなかったユダの国はその預言の通り、バビロ二ア帝国によって滅びることになるのです。
ユダの民にとっての終末とは、エルサレムの滅亡でありました。しかし、イザヤが伝える「終末」の預言は神の審判と共に、何と、救いの希望が語られているのです。少し前の1章27節をご覧ください。お開き下さい。そこに「シオンは裁きをとおして贖われ、悔い改める者は恵みの御業によって贖われる」と、裁きは厳格なものでした。しかし、それで万事が終わるのではなく、その裁きの出来事をとおして恵みの御業による贖いがなされ、悔い改める者は贖われて、救いに与るのです。

そして本日の2章「終末の平和」の預言へと、つながっているのです。
その小見出の「終末の平和」ですが。夜の祈祷会に出席しておられる台湾の方によると、中国語の聖書には、「永久(とこしえ)の平和」という小見出しがつけられていると伺い、なるほどと思いました。先の、恵みの御業による贖いをとおしてもたらされる神との和解が、永久の平和へと民を招きます。

その2-3節。「終りの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。

ここには神との和解による平和が、ユダとエルサレム、つまりシオンから全世界に実現するという預言が語られております。
それは先ほど読みました、「主の裁きを通して贖われるシオン、さらに恵みの御業によって贖われ、悔い改める者」すべての人びとへの、すべての人びとのです、まさに「永久の平和」なのであります。
この南ユダ王国、イザヤの時代の前に北イスラエル王国は神に立ち返ることなく、アッシリア帝国によって滅ぼされました。そして南ユダ王国もそれに追従するようにイザヤの預言に聴くことなく、バビロン帝国によって滅んでしまいます。働き手となる者たちはみなバビロンの捕囚民となります。しかしその半世紀以上後、そのバビロンはペルシャ帝国によって滅ぼされ、ユダの捕囚の民は解放され、エルサレムに帰還した者たちによってエルサレムの神殿が再建されていくのです。こうして彼らは神の民としての新たな歩みをはじめ、トーラー(律法)を確立し、そのもとで教育が重んじられ、信仰の継承がなされていくのであります。そこから幾度となく神の民は迫害の歴史が続き、ギリシャ、さらにローマの圧政を経て、遂に救い主、イエス・キリストがお生まれになるのです。
「悔い改める者は、だれでもイエス・キリストの十字架と復活による「恵み御業」によって贖われ、神の方へ向き直って生きる者には「永久の平和」をお与くださる、これこそ福音であります。

「主の神殿の山は、どの峰よりも高くそびえる。」
そこをめざして全世界から、今も聖地エルサレムを訪れるキリスト者の方がたが大変多くいらっしゃるのは、この預言者イザヤの御言葉の成就でありましょう。
しかし、なにもエルサレムにまで足を運ばれなくても、主の神殿の山は、主イエス・キリストご自身なのです。全世界の贖い主であるキリストを信じる者は、永久に変わることのない平和・平安が与えられています。聖霊なる神は時を超え場所を超えて、今も私たちと共にいてくださいます。

今日の宣教題は、新共同訳の小見出しにそって「終末の平和」とさせていただきました。
終末ということでみなさんは何を思い浮かべるでしょうか。「世の終り」「世界の終り」、中には最終戦争等を思い浮かべる方もおられるかもしれません。ただ、それはいつ来るのか、ということについて聖書はなにも語っていません。ただ、終末がいつくるかわからないからこそ、主イエスは「目を覚ましていなさい」とおっしゃいました。世界の終末というのはいつくるのかわかりません。けれども間違いなくやって来るのは、「自分自身の終末」です。それは、生まれて来たのと同様、だれの上にも分け隔てなくやってまいります。わたしは例外なんて人はいません。

9月はその終末、「死」について思いを馳せる月となりました。
前の教会で共に礼拝し、主にお仕えくださった壮年のお連れ合いが1年以上前に天に召されたということを知り合いの方から伺い、大変ショックでした。九州に帰省の折にはお会いすることもありましたが、コロナ禍もあり、連絡も途絶え、家族葬であったそうですが。先日はその壮年のもとをお訪ねし、しばし信仰の分かち合いと祈りの時がもてました。又、9月17日には、やはり前の教会の時代に青年であった方が1年半にも及ぶ闘病生活の末、50歳の若さで天に召されました。3月に埼玉の自宅療養されているご自宅をへ訪問させていただきました。が、その6ヶ月後に彼は天に召されました。少年少女会時代の教会の仲間たちの祈りと励ましと祈り、ご家族の誠心誠意の介助の中、ご家族に見送られた終末のときでありました。そして9月21日、鳥取教会のメンバーで98歳になられる姉が天に召されました。かねてよりその息子さんのお連れ合いさんから、葬儀の依頼を受けておりましたので、ご自宅で前夜式、教会で告別式のご用をさせいただきました。最期のときには、息子さんご夫妻と孫にあたる3人のお嬢さんたち、さらに曾孫さんに見守られて、天の神のもとへ帰っていかれました。告別式にはご遺族はじめの教会の方がたで会堂の席がうまり、神への賛美の中、故人の証しが分かち合われました。1ヶ月のうちに3名の主にある姉妹、兄弟の終末の時を覚えることとなりました。

祈りのうちに感じましたのは、私たち主を信じ、主に依り頼んで生きる者にとりまして、この終りの日は、中国語の聖書のように「永久の平和」であるということです。私たちにとっていつかは必ず訪れる終わりの時、しかし、それは恵みによって購われ、命の源なる神との和解を経た平安のもとにあります。今も、そして永久に。
この地上におけるところから、その復活の主と共に生きる喜びと恵みに感謝し、主の御名をほめたたえるひと日ひと日でありますよう、祈りつつ歩んでまいりたいと願います。

さて、さらにイザヤは「終末の平和」について語ります。
4節「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向って剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」
イザヤの時代同胞であった北イスラエルとの間に戦争が起こりました。日常の生活の糧を生みだす農具は権力者に奪われ、殺す道具へ姿を変えます。日本でも武器を作るために鍋などの金属が徴収されたと聞いていますが。
尊い命が皆一かたまりの戦力として戦争に組み込まれていきました。それは何もイザヤの時代に限ったことではなく、同じように人類は戦争を繰り返してきたのです。今もそうです。
神がいるならなぜ戦争が起こるのか?宗教戦争があとを絶たないのはなぜかという人もいます。けれどもそれは果たして神のせいでしょうか?否、イザヤ書を読みますとお分かりのように、神は常に「立ち返って生きよ」と、愛をもって人を招かれます。それにも拘わらず人はかたくなです。人が幸せに生きるための道具が人を不幸にするものに変えられるとき、誰よりも私たち人間をお造りになられた神さまは嘆き、悲しまれ、痛んでおられるのです。
神はそれらの破壊的な武器が、再び人を生かす平和の道具に打ち変えられる日が来る希望を預言者イザヤをとおしてお語りになるのです。そのイザヤが見た終末の平和は単なる理想郷でもユートピアでもありません。
それは、今から2千年前、この地上に肉をとってお生まれ下さった主イエス・キリストが救い主として世に現われて実現された神と人との和解、平和です。
主イエスが私たち全世界の人間の罪のためにその裁きを自ら身に負い、裁かれ、贖いを果たしてくださった。その尊い救いの御業により、私たちだけでなく、世界のすべての人に主なる神さまとの和解の道、回復の道が開かれています。
主イエス・キリストによってもたらされた平和は、個々人にとどまらず、「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という、全世界に向けた平和の拡がりへと向かいます。私たちもまた、このイザヤが預言する「平和の宣言」に生きるように努めてまいりたいと願うものです。
「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」永久の平和をめざして、主の光の中を歩んでまいりましょう。
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