礼拝宣教 イザヤ書2章1~5節
本日より11月いっぱいまで、礼拝ではイザヤ書を読み、御言葉を聞いていきます。
イザヤは6章にありますように、南ユダの王であったウジヤ王が死んだ年、紀元前736年頃に預言者として召命を受け、その後おおよそ35年間その務めを担ったといわれます。彼の生まれ育った時代、南ユダの国は高度成長を遂げ繁栄いたしますが、次第にその繁栄の陰でゆがみが生じ、様々な社会問題が起こります。それは遠い昔話ではなく、世界の至るところで繰り返される今日の社会とも重なり、神と人との関係性の回復を基に据えた、人と人との関係性、人間社会の回復に向けた私たちへのメッセージなのです。
1章にはイザヤが、南ユダとエルサレムについて見た幻について語られています。それは主の託宣と裁きについてでした。
16~17節でイザヤは、「おまえたちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び。裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」と、主の託宣を語ります。
又、23-24節では「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間になり、皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守れず、やもめの訴えは取り上げられない。それゆえ、主なる万軍の神、イスラエルの力ある方は言われる。災いだ、わたしは逆らう者を必ず罰し、敵対する者に報復する」と語り、主がその腐敗したユダとエルサレムの現状を確かにご覧になり、裁かれると、訴えます。
このようにユダの社会には富の不公正と弱者への搾取、利権による収奪といった社会悪がまん延していました。又、ユダは大国と軍事力による同盟関係を結んでいきます。その大国の保護を見返りとして、ユダの国と民は先祖たちから受け継ぎ大切にしてきた生ける神への信仰、又、その高い倫理観をもって人を生かしてきた戒めと教育に、異教的なものが入り混じり、生ける神ではなく、金や銀で出来た偶像に染まり、社会は荒廃していくのです。
その根本の問題は、宝の民を愛し、慈しんで下さる生ける神さまを畏れ、敬う心が失われていたところにあったのです。
イザヤはユダの社会が神でないものに依り頼もうとする心を悔い改めて主に立ち返り、畏れをもって律法の精神を取り戻すようにと、ユダの王や指導者たちに訴えるのです。2章22節には、自分たちの安泰を謀ろうとするその彼らに対して、「人間に頼るのはやめよ、鼻で息をしているだけのものに」と、主の力にこそ依り頼むことの大事を説きました。
しかし、このようなイザヤの訴えは、民の指導者たちや力を持った宗教家、さらに民にも聞き入れられません。それでもイザヤはなおその訴えをやめません。ユダの人々が再び神の民として、その信仰と主の配慮に満ちた戒めの御言葉によって生きる生活を取り戻し、裁きを免れて命を得ることをイザヤは強く願っていたからです。
誰よりもそのユダの国と民のために心痛め、苦悩しておられたのは父なる神さまご自身でありました。
1章18節「論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえお前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる。」このように和解と悔い改め道を示し続けておられたのです。
残念なことにイザヤの警告に耳をかそうとしなかったユダの国はその預言の通り、バビロ二ア帝国によって滅びることになるのです。
ユダの民にとっての終末とは、エルサレムの滅亡でありました。しかし、イザヤが伝える「終末」の預言は神の審判と共に、何と、救いの希望が語られているのです。少し前の1章27節をご覧ください。お開き下さい。そこに「シオンは裁きをとおして贖われ、悔い改める者は恵みの御業によって贖われる」と、裁きは厳格なものでした。しかし、それで万事が終わるのではなく、その裁きの出来事をとおして恵みの御業による贖いがなされ、悔い改める者は贖われて、救いに与るのです。
そして本日の2章「終末の平和」の預言へと、つながっているのです。
その小見出の「終末の平和」ですが。夜の祈祷会に出席しておられる台湾の方によると、中国語の聖書には、「永久(とこしえ)の平和」という小見出しがつけられていると伺い、なるほどと思いました。先の、恵みの御業による贖いをとおしてもたらされる神との和解が、永久の平和へと民を招きます。
その2-3節。「終りの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。
ここには神との和解による平和が、ユダとエルサレム、つまりシオンから全世界に実現するという預言が語られております。
それは先ほど読みました、「主の裁きを通して贖われるシオン、さらに恵みの御業によって贖われ、悔い改める者」すべての人びとへの、すべての人びとのです、まさに「永久の平和」なのであります。
この南ユダ王国、イザヤの時代の前に北イスラエル王国は神に立ち返ることなく、アッシリア帝国によって滅ぼされました。そして南ユダ王国もそれに追従するようにイザヤの預言に聴くことなく、バビロン帝国によって滅んでしまいます。働き手となる者たちはみなバビロンの捕囚民となります。しかしその半世紀以上後、そのバビロンはペルシャ帝国によって滅ぼされ、ユダの捕囚の民は解放され、エルサレムに帰還した者たちによってエルサレムの神殿が再建されていくのです。こうして彼らは神の民としての新たな歩みをはじめ、トーラー(律法)を確立し、そのもとで教育が重んじられ、信仰の継承がなされていくのであります。そこから幾度となく神の民は迫害の歴史が続き、ギリシャ、さらにローマの圧政を経て、遂に救い主、イエス・キリストがお生まれになるのです。
「悔い改める者は、だれでもイエス・キリストの十字架と復活による「恵み御業」によって贖われ、神の方へ向き直って生きる者には「永久の平和」をお与くださる、これこそ福音であります。
「主の神殿の山は、どの峰よりも高くそびえる。」
そこをめざして全世界から、今も聖地エルサレムを訪れるキリスト者の方がたが大変多くいらっしゃるのは、この預言者イザヤの御言葉の成就でありましょう。
しかし、なにもエルサレムにまで足を運ばれなくても、主の神殿の山は、主イエス・キリストご自身なのです。全世界の贖い主であるキリストを信じる者は、永久に変わることのない平和・平安が与えられています。聖霊なる神は時を超え場所を超えて、今も私たちと共にいてくださいます。
今日の宣教題は、新共同訳の小見出しにそって「終末の平和」とさせていただきました。
終末ということでみなさんは何を思い浮かべるでしょうか。「世の終り」「世界の終り」、中には最終戦争等を思い浮かべる方もおられるかもしれません。ただ、それはいつ来るのか、ということについて聖書はなにも語っていません。ただ、終末がいつくるかわからないからこそ、主イエスは「目を覚ましていなさい」とおっしゃいました。世界の終末というのはいつくるのかわかりません。けれども間違いなくやって来るのは、「自分自身の終末」です。それは、生まれて来たのと同様、だれの上にも分け隔てなくやってまいります。わたしは例外なんて人はいません。
9月はその終末、「死」について思いを馳せる月となりました。
前の教会で共に礼拝し、主にお仕えくださった壮年のお連れ合いが1年以上前に天に召されたということを知り合いの方から伺い、大変ショックでした。九州に帰省の折にはお会いすることもありましたが、コロナ禍もあり、連絡も途絶え、家族葬であったそうですが。先日はその壮年のもとをお訪ねし、しばし信仰の分かち合いと祈りの時がもてました。又、9月17日には、やはり前の教会の時代に青年であった方が1年半にも及ぶ闘病生活の末、50歳の若さで天に召されました。3月に埼玉の自宅療養されているご自宅をへ訪問させていただきました。が、その6ヶ月後に彼は天に召されました。少年少女会時代の教会の仲間たちの祈りと励ましと祈り、ご家族の誠心誠意の介助の中、ご家族に見送られた終末のときでありました。そして9月21日、鳥取教会のメンバーで98歳になられる姉が天に召されました。かねてよりその息子さんのお連れ合いさんから、葬儀の依頼を受けておりましたので、ご自宅で前夜式、教会で告別式のご用をさせいただきました。最期のときには、息子さんご夫妻と孫にあたる3人のお嬢さんたち、さらに曾孫さんに見守られて、天の神のもとへ帰っていかれました。告別式にはご遺族はじめの教会の方がたで会堂の席がうまり、神への賛美の中、故人の証しが分かち合われました。1ヶ月のうちに3名の主にある姉妹、兄弟の終末の時を覚えることとなりました。
祈りのうちに感じましたのは、私たち主を信じ、主に依り頼んで生きる者にとりまして、この終りの日は、中国語の聖書のように「永久の平和」であるということです。私たちにとっていつかは必ず訪れる終わりの時、しかし、それは恵みによって購われ、命の源なる神との和解を経た平安のもとにあります。今も、そして永久に。
この地上におけるところから、その復活の主と共に生きる喜びと恵みに感謝し、主の御名をほめたたえるひと日ひと日でありますよう、祈りつつ歩んでまいりたいと願います。
さて、さらにイザヤは「終末の平和」について語ります。
4節「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向って剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」
イザヤの時代同胞であった北イスラエルとの間に戦争が起こりました。日常の生活の糧を生みだす農具は権力者に奪われ、殺す道具へ姿を変えます。日本でも武器を作るために鍋などの金属が徴収されたと聞いていますが。
尊い命が皆一かたまりの戦力として戦争に組み込まれていきました。それは何もイザヤの時代に限ったことではなく、同じように人類は戦争を繰り返してきたのです。今もそうです。
神がいるならなぜ戦争が起こるのか?宗教戦争があとを絶たないのはなぜかという人もいます。けれどもそれは果たして神のせいでしょうか?否、イザヤ書を読みますとお分かりのように、神は常に「立ち返って生きよ」と、愛をもって人を招かれます。それにも拘わらず人はかたくなです。人が幸せに生きるための道具が人を不幸にするものに変えられるとき、誰よりも私たち人間をお造りになられた神さまは嘆き、悲しまれ、痛んでおられるのです。
神はそれらの破壊的な武器が、再び人を生かす平和の道具に打ち変えられる日が来る希望を預言者イザヤをとおしてお語りになるのです。そのイザヤが見た終末の平和は単なる理想郷でもユートピアでもありません。
それは、今から2千年前、この地上に肉をとってお生まれ下さった主イエス・キリストが救い主として世に現われて実現された神と人との和解、平和です。
主イエスが私たち全世界の人間の罪のためにその裁きを自ら身に負い、裁かれ、贖いを果たしてくださった。その尊い救いの御業により、私たちだけでなく、世界のすべての人に主なる神さまとの和解の道、回復の道が開かれています。
主イエス・キリストによってもたらされた平和は、個々人にとどまらず、「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という、全世界に向けた平和の拡がりへと向かいます。私たちもまた、このイザヤが預言する「平和の宣言」に生きるように努めてまいりたいと願うものです。
「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」永久の平和をめざして、主の光の中を歩んでまいりましょう。