日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

希望の言葉

2016-11-27 16:23:14 | メッセージ
礼拝宣教 ダニエル12章 待降節Ⅰ・アドベント

先週23日はラブソナタ大阪が中之島の大阪国際会議場で10年ぶりに開催されました。
教会からも数名が参加いたしました。先日のFAXで23日の集会は日本、韓国の参加者とスタッフを加えると総参加者3320人となり、そのうち116人の方がクリスチャンになる信仰決心をされたというご報告をいただきました。私たちの中にもお友達や知人をお誘いしてご一緒された方もおいででしたが。まずホールに入りますと、韓国からこの集会のために自費で訪日し、ご奉仕くださる方々が、次々と歓迎の挨拶をして出迎えてくださると、さらに会場に入りますと一人ひとりに丁寧な案内をして下さり、感激しました。
又、メインのラブソナタの集会では世界的にも活躍されている、砂絵を描くアーティストの、父なる神の愛を思い起こさせるパフォーマンスやフルート演奏者、オペラ歌手や声楽家による賛美がささげられました。自分の栄誉や称讃のためでなく、創造主であられる神さまの作品として、その神さまを賛美しておられるお一人おひとりのオリジナルな主イエスにある救いの証をとともに最高の賛美にふれ、心熱く、主の臨在の迫りを強く感じました。日韓の人たちが主イエスにあって一つとされ、和合し、国境を越えた天の国の喜びを頂いた思いです。「天の国は私たちの間にすでにあるのだ」と、おっしゃる主イエスのお言葉をまさに実感した貴重な時となりました。

さて、本日はこれまで4週に亘り読んできましたダニエル書も最後となります。
今日はダニエルの見た幻:黙示にあたる最後の12章から「希望の言葉」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

まず今日の箇所は、前の10章からなるダニエルの黙示録といわれるような「終わりの時についての幻」の記述でありますが。そこに示されたとおり、ユダヤの民に対する迫害は権力の移り変わりとともに厳しさを増し、ダニエルの後の時代には凄まじい弾圧と迫害が起こるのであります。
そのような中で、主の契約を破り偶像を拝む人たち。一方、権力に従わず、信仰を守り抜いた人たち。又、中には厳しい迫害下で殉教を遂げる人たちも預言されています。

今日の12章1節には、それらの預言とともに、「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は」と語られています。
聖書には7人の大天使長がいてミカエルはそのうちの一人で、ユダヤの民を守る天使でありました。神に忠実に生きるために苦難に遭うイスラエル、ユダヤの民。その信仰の闘いの先には神の救いが必ずもたらされるという約束がここに宣言されているんですね。苦難はある。艱難は来る。信仰の闘いは主を信じる者すべてに起こってきます。しかし、必ず主なるお方による救いとすべてが報われる時が訪れる。それが聖書の変わることのないメッセージであります。
けれどもその日、その時まで主はいらっしゃらないのかというと、決してそうではありません。6節の「川の流れに立つ、麻の衣を着た人」もまた天使の一人でありましょう。その天使が激流のような厳しい迫害下で主に忠実に生きようとしていた人たちの間に立って共に闘っておられるということが象徴的に示されています。主は厳しい状況の中にも共におられるお方なのです。
2節-3節には「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々(多くの者を主の救いに導いた人々の意味)は、とこしえに星と輝く」と記されています。
ここには、いわゆる死者の復活が語られています。それは永遠の生命に入る者だけではなく、永久に続く恥と憎悪の的となる者も地の塵の中から、すなわち死から目覚めるというのですから、驚きです。
人はだれもこの世の人生をどう生きたかがすべて問われる日が来るのです。いわゆる裁きの座に着くべき時です。主イエスは、その時があたかも羊飼いが羊と山羊を左右に選り分けるように、その時にはそれぞれの業が明るみにされて、主に忠実に生きた者たちは永遠の命に与り、不義の者たちは永遠の罰を受ける事になるとおっしゃいました。
日本では死んだ後の世界のことを、いわゆる天国とか地獄とかいうわけですが。それは何かきらきら光あふれる所とか、真っ暗闇で鉄棒をもった鬼に苦しめられる所だろうかとかぼんやりと想像する人も多いかも知れません。しかし聖書は大変明確です。それは永遠の生命と永久に続く憎悪の的。前者は、主なる神さまとの永遠の交わりに入れられること。そして後者は神さまとの交わりが永久に絶たれてしまうことです。一言でいえば、神と共にある世界か、神なき世界かです。人間にとって本当の地獄というのは、
神との関係や交わりが断絶した状態のことなのです。それを聖書は罪といいます。
「光あるうちに光の中を歩め」との聖書のお言葉がありますように、日毎日毎の延長線上に来たるべき時があるということを覚え、日々励み務めたいと願います。

さて、5節~7節は、艱難の時代を経た成就に向けての宣言です。
しかしダニエルはこれらの主の幻を見せられても理解できず、「主よ、これらの終わりはどうなるのでしょうか」と尋ねます。それに対して天のお方は、「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらのことは秘められ、封じられている」と告げます。このところを口語訳聖書は「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい」と訳しています。それは、この先行き見えない時代にあって、神のご計画がはっきりとは分からない。否、分からなくなってしまうような状況にたとえなったとしても、「あなたの道を行きなさい」「神が与えてくださるあなたの人生をひたすら行くんだよ」といわれているんですね。私たちクリスチャンも主イエスの、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14章)という、その道に招かれています。

水曜日の聖書の学びの時にある方が、この今日の箇所を読まれてこうおっしゃいました。「自分の死も近いかな。体重も減り不安になり悩むことはあるけど、今の自分は幸いであることを感謝できる。ダニエルがこの先の結果を知りたいということに対して、神さまは何も答えられなかったことに共感できる。未来を不安に思わずに今を幸いにいれることが感謝」と、その方はおっしゃったんですね。これってすごい証だと思いませんか。
もう今日の聖書のメッセージをそのままにご自分の言葉で話してくださったように思います。この私に与えられた救いの道を、たとえそこに茨が生えていようが、砂利道であろうが、でこぼこ道だろうが、感謝をもってひたすら歩む。なぜならそれが神が共にいてくださる道だからです。今日からアドベント、クリスマスを待ち望んで行く時節に入りましたけれど、それがインマヌエル、主が共におられる「命の道」なんですね。

冒頭でもお話しましたが。ラブソナタの集会で韓国のオンヌリ教会の牧師がお話しくださったのですが。その中で、「あなたは誰」「あなたは何者ですか」と、大阪市内の人たちに次々とインタビューしていくという映像を見せてくださいました。その問いかけに戸惑う人、驚く人、分からないという人、と反応は様々でしたが結局誰もその問いかけに答えることができなかったのです。多くの人は普段そんなこと考えたりせず過ごしているし、若い人だと自分探しの旅を内に外にすることもあるでしょうが。その答えを見いだす人は少ないのではないでしょうか。
しかし、この「わたしは誰で、何者か」という人間にとって根本的な答えをもっている人と、もっていない人とでは、その生き方は全然違ってくるのですね。聖書にその答えがあります。
聖書の中で「人は何ものでしょう」と問いかけている箇所がいくつかございますが。
たとえば、ヨブ記7章17節以降で、その激しい試みの中でヨブはこう言っています。「人間とは何者なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。朝ごとに訪れて確かめ、絶え間なく調べられる。いつまでもわたしから目をそらされない。唾を飲み込む間すらも、ほうっておいてはくださらない」。
ヨブはその非常な苦しみの中で、自分を知っておられる方の中に自分の存在を見いだしています。ダニエルもまた大変厳しい時代状況、恐れと悩みが絶えない中にあったと想像できますけれども。そういう「わたしは何ものか」、「我ら神の民とは如何なる存在なのか」という苦悩の中で、彼はなお「神は我救い」と主を賛美して、自らの道を歩み続けたのでありましょう。

今日の箇所で、ダニエルが先行きも見えず、主の啓示が理解できない中で、「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」と、その日、その時がいつ来て、どうなるのかを知らせてくださるように尋ねてますが。それに対して天の使いは、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。終わりの時までこれらのことは秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、練られる」と答えます。
 私たちの信仰も何か心地の良く順調に事が進むような時よりも、むしろ逆境の中で問われ、試され、育まれていくものですね。御言葉に聞き、よりたのみ、信じて待ち望んでいく中で、主に「清くされ、白くされ、練られていく」のですね。
まさにヘブライ人への手紙12章にあるように「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。」
 このように、艱難は忍耐を忍耐は練達を練達は希望を生むということを私たちは知っています。そうですね。主は愛する子を鍛錬し、清め、白くし、練られるのです。

そうして13節の最後には「希望の言葉」がこう綴られています。
「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がる(復活する)であろう。」
ここでも、世の先行きの見えない状況に思い悩み、振り回されず、ただ「あなたの道を行き、憩いに入りなさい」と招かれています。
今日何度も申しました。世の中の多くの人は、『自分は何もの』かという問いかけについて、答えることができない。又、知らずに過ごし、一生を終えているのです。
「わたしは誰であるのか」「わたしは何ものか」このことを知っている人は、いろんな試練や試みに遭っても、その根底のところで揺らぐことがありません。
私たちは主の愛と恵みによって「罪を贖われ、神の子」とされた者です。
その根底のことを日々確認し続ける。それがクリスチャンの道であります。そこに「わたしの道、命の道」があります。神の民、神の子とされ、今を生かされている喜びと感謝にあふれる者でありたいと願います。
今日聖書のメッセージ、「希望の言葉」を胸にまたここから今週のあゆみ、クリスマスに向かってそれぞれが「自分の道に従って」主に整えられてまいりましょう。
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恐れ悩みの中で

2016-11-20 14:26:37 | メッセージ
礼拝宣教 ダニエル7章15-28節

本日はダニエル書7章から御言葉を聞いていきたいと思います。
この箇所はダニエル書の黙示(録)といわれる部分にあたります。ダニエル書の1~6章までにおいては、ダニエルがバビロン王のネブカデネツアルの夢を幾度も解き明かしてきたわけですが。この7章からはダニエル自身が幻と夢を見るのです。しかし彼はその幻と夢について自分で解き明かすことができず、「大いに憂い、悩まされた」というのであります。
それは7章初めのところに「天の四方から風が起こって、大海を波立たせ、その海から四頭の大きな獣が現れる、というものでした。第一のものは獅子のようで、第二の獣は熊のようで、第三の獣は豹のようであった。さらに夜の幻で見たのは第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、他の獣と異なって、これには十本の角があって、その角を眺めていると、もう一本の小さな角が生えてきて、先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった。その角には口もあって尊大なことを語っていた」とあります。

何だかこども頃に見たヒーローものの怪獣のようですが。注解書や略解などを読みますと、この4つの獣について、第一の獅子のような獣がバビロン王国とその王で、第二の熊のような獣がメディア王国とその王で、さらに第三の豹のような獣がペルシャ王国とその王で、そして4番目のものすごく、恐ろしく、非常に強い獣とは、ギリシャ王国を指し、特にその中心はシリヤで、10の角は歴代のシリヤの王を指し、「尊大な事を語る」口をもつ小さな角とは、アンティオコス4世であるという説です。
アンティオコス4世の王在位は前175~164年の9年で、それはユダヤ人にとって最悪の暴君でした。彼はギリシャ文化をシリヤばかりかユダヤにも導入し、ユダヤの人々にゼウスやディオニソスといったギリシャの神々を崇拝するように強要しました。前167年にはユダヤ人に対して徹底した宗教弾圧を開始しました。そして最もユダヤ人の人たちが大切にしていたエルサレム神殿内にギリシャの神の像を建てて拝ませ、ユダヤ人たちの伝統的な宗教行事を禁止し、ユダヤ人たちに対して律法への不服従を誓わせようとします。そして、その命令に従わない者たちを処刑したのです。これはイスラエル・ユダヤ民族がそれまでの歴史で体験した最大の宗教迫害だったのです。こうしたことがダニエルの幻と夢とに示されたということですね。そのような最も厳しい迫害の只中においてこのダニエル書は信仰をもって主に忠実に従って生きる人々を、神が励まし希望を与えて、勝利を与えてくださる、とのメッセージを伝えるために編纂されたのです。

本日読みました15節からは、そのダニエルの見た幻と夢を、一人の人が解き明かしていくという箇所ですが。この一人の人とは神に仕える天の使です。この天の使いによれば、「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。しかしいと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう」ということでありました。

そこでダニエルは「第四の獣について知りたい」と願ったとあります。
それは彼が見た幻の中でも、非常に恐ろしく、強く、不可解であったからです。
20節に「これは、他の角よりも大きく見えた」。さらに21節「見ていると、この角は聖者らと闘って勝った」とも言われています。それは、神を神としていく信仰を貫いたユダヤの人々の多くが迫害や殉教に遭うようになり、世の悪の権力者が勝利したかのような状況が象徴的に表されています。このことは実際には先ほど申しましたように、獣の十本の角の中からさらに出てきた一本の角すなわち、シリヤの王アンティオコス4世が。真の神を汚す尊大なことを語り、エルサレム神殿にまで偶像の神々を建てて、ユダヤ人たちに偶像礼拝を強要し、ユダヤの祭り事や彼らが神の民として大切に守ってきた律法を彼らから奪うために、実に凄まじい迫害を繰り返してユダヤ人たちを大いに悩まし苦しめていることが語られています。ダニエル自身も王室仕える身でありながらも、その信仰を貫いたがために、ライオン穴に投げ込まれ、あわやとう経験をしたのです。

そのダニエルは恐ろしい幻と夢を見て、大いに憂い、悩みます。
主に従う者がどうしてこのような災いや苦難に遭わなければならないのか。悪の力が勝つというのはなぜなんだろう。それはまさに暗たんたる嘆きの中からの問いであります。

しかし、一方でダニエルは希望ともいえる幻を与えられていました。
9節には「王座」が据えられ、「日の老いたる者」が「そこに座した」。さらに13節には「見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることはない。」

私どもにとりましては、それはまさに主イエス・キリストの再臨を彷彿とさせる描写でありますが。繰り返し22節には「やがて、『日の老いたる者』が進み出て裁きを行ない、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである」とも語られています。
それは天の使いの解釈によれば26節、27節。「やがて裁きの座が開かれ、彼(第四の獣の王権のこと)は、その権威を奪われ、滅ぼされ、絶やされて終わる。天下の全王国の王権、権威、支配の力は、いと高き方の聖なる民に与えられ、その国はとこしえに続き、支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う」と、そのように示されたということであります。

『日の老いたる者』。それはこの歴史の初めからおられるお方のことです。そのお方こそが真に王座に就くに相応しいお方であり、すべてを裁く権威者であります。その裁き主がやがてまったき裁きを行ない、信仰者を迫害してきた暴君の権威は奪われ、滅ぼされ、絶やされて終わる。さらに、いと高き者の聖者ら、すなわち最期まで、死に至るまで神に忠実に生きようとした信仰者たちが、それらすべての王権、権威、力を神から与えられて、それはとこしえまでも続くという実に壮大なビジョンを、ダニエルは見せられるのですね。

これらのダニエルが見たもの、天の使いから語られた御言葉は、迫害の最も厳しい時代にあった信仰者たちにとって、にわかに受け入れること、又理解できることがらでは決してなかったでしょう。ダニエルでさえ「大層恐れ悩み、顔色も変わるほどであった」と述べられているとおりです。
人は得たいの知れない事、先行きに何が待ち受けているか分からない状況の中で恐れを抱き、不安になります。もしかすると今の時代の私たちも、そのような恐れや不安が増大しているのかも知れません。そんな捉えようのない恐れ悩みの中でダニエルは、それでも28節「しかし、わたしはその言葉を心に留めた」とあります。

もうじきクリスマス、次週はアドベント(待降節)に入りますけれども、その「御言葉を心に留めた」というのは、あの救い主イエスさまの誕生のエピソードにおいて幾度も語られております。
ルカ福音書で救い主がお生まれになったという喜びの知らせが最初に届いたのは、当時ユダヤの社会から疎外され、軽んじられていた羊飼いたちでした。その彼らに天の軍勢が現れ、彼らのために救い主が生まれたという喜びの知らせを天使から聞き、早速赤ん坊の救い主イエスさまをお祝いするために、仕事をおいて聖家族のもとを訪ねて、その喜びの知らせを人々に伝えるのであります。ところがその喜びの知らせを聞いたユダヤの人々は不思議に思った。疑問に思った、疑ったのですね。そこには、羊飼いなんぞにそんな救い主メシアな王がお生まれになったなどという知らせが届けられるものか、という偏見や思い込みが人々のうちにあったからではないでしょうか。
しかし、母マリアは違いました。「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とございます。母マリアは、羊飼いをとおして示された知らせ、メッセージに驚きつつも、それを「心に納め」、何度も何度もそのことを咀嚼し、反芻していったのですね。

まさにこの今日のダニエル書7章28節の「わたしはその言葉を心に留めた」というのは、そういうことであります。現実的には一体どこに救いの徴があるのかといえるような現状でした。目に見えるところでは先も見えず、ただ絶望するしかないような状況であったのです。けれども、すべてを裁かれる神はおられ、やがて必ずその時は訪れるのです。厳しい迫害の中で最期までその神を信じて忠実に生きる一人ひとりを神さまはご存じであり、まったき裁きを行ない、天の御国を与えてくださるのです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)
それは今や、救い主イエス・キリストによって私たちの間に実現されていることであり、さらにキリストの再臨における完全な統治に向けて成し遂げられる。その事を、今を生きる私たちもそれぞれの困難な中で、待ち望む者であります。

「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブライ11:1)。その信仰がほんとに私たちにも問われている、否、益々問われる時代になってきているように思います。

今日の箇所は非常に難解なところで、それを解釈しようとしても様々な説があり、どれが正しいと人の知恵等では分かりませんが。代々の権力者による悪政と迫害が尽きず、ほんとうに人々が絶望する外ないような状況において見せられ記された、それがこの書であります。
翻って、昨今の政治の混迷、世界の国々、又日本が今後どのような様相を帯びてゆくのかまったく見当がつかない今の世界の状況。ニュースを見、有識者らの見解を聞いても同様に確かなことは分かりません。それはあたかもダニエルの幻のようです。
しかし、唯、確かなのは、そのような不確かな時がいつまでも続くのかという私どもの不安や困難の先には、必ず来たるべき時が訪れ、まったきお方の裁きがなされ、約束の「人の子」による完全な統治が実現される。その希望の約束の言葉を、私たちもダニエルのように「心に留め」ていきたいと切に願います。「主は生きておられます」。今週もここから主の約束を胸に抱き、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
 
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チャペルコンサートのお知らせ

2016-11-19 17:09:10 | イベント
日 時  12月11日(日) 開場 13:30
               開演 14:00(90分を予定)


出 演  ベル・フィリア (ハンドベルクワイア)

     ゆかり☆ゴスペル(萱原有香理さんゴスペルライブ)

     腹 話 術   (カンちゃん&栗谷加代子さん)


入場無料
(震災支援のための自由献金はございます)



主催・会場

   日本バプテスト大阪教会 大阪市天王寺区茶臼山町1番17号


尚、駐車場のスペースはございませんので公共交通機関でお越しください。
  JR天王寺駅中央口出口及び・地下鉄御堂筋線・谷町線各6番出口より北へ徒歩5分。

   
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真の神にのみ仕える

2016-11-13 15:11:06 | メッセージ
主日礼拝宣教 ダニエル3章  

先週の大きなニュースは米国の新大統領としてドナルド・トランプ氏が選出されたことでしょう。大方のマスメディアの予想とは異なる結果となりましたが。今も反対する人たちの抗議が続いているうようですが。いずれにしろ、アメリカ合衆国の人々の抱える諸問題が大きく深刻な事態であることの一端を垣間見せられた思いです。
アメリカはもともと移民の人々が多くおられ、二代目の大統領ジェファーソン氏も移民の一人であったそうですが。今も53という多くの州による合衆国として今日まで成り立っています。そこには多様性や寛容性、自由と民主主義が尊重されてきた長い建国からの歴史があります。そのことが今後も堅持されていくのかどうか、先行きは不透明でありますけれども、今世界から注目されています。日本にも大きな影響を及ぼすことになることが予想されてもいます。一国の長たる人がどのような判断をしていくのか、神の介入を祈らないではおれません。

さて、本日はダニエル書3章のネブカデネツァル王と3人のユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴのエピソードから、御言葉に聞いていきたいと思います。
イスラエルの国は壊滅的状況とされ、異教の地バビロンの捕囚とされた人々、そのダニエルら4人の物語を先週より読み始めました。
バビロンの王に召し上げられ養成を受けて王に仕えることとなった4人でしたが。ある時、ネブカドネツァル王の見た不思議な夢を、ダニエルは主なる神によって解き明かすことになります。そうしてダニエルは非常に高い位につくことになり、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴもバビロンの行政官に任命されます。ところが、ここは異教の地であります。王は巨大な金の像を造り、「もしひれ伏して拝まないなら、燃え盛る炉の中に投げ込む」というのでありますから、大変なことです。

そうした事態の中で、カルデヤ人の役人たちは、ユダヤ人のシャドラク、メシャク、アベド・ネゴら3人が、ネブカドネツァル王の造った金の像を拝まなかったという理由で、彼らを王に訴えます。
カルデヤ人らにとっては、捕囚の民である彼らが自分たちの行政官であることがうとましかったのかもしれません。それを聞いた王は怒りに燃え、彼ら3人を自分のもとに連れてこさせて、「わたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。今・・・ひれ伏し、わたしが建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もし拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」と彼らを詰問するのです。

それに対してシャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません」と、ピシャリと言い放ちます。彼ら3人の態度は断固たるものでした。如何なる地上の権力者の前であろうとも、彼らの立ち処は変わりません。それは彼らの神への信仰の確信から来たものでした。

昔からどのような国であっても、為政者や権力者たちはその民に特定の崇拝の対象を強要することで、国をまとめようとしてきました。現代の社会においては、「国家経済」という名の偶像を拝することが奨励され、優先され、それがかえって市民を不安や生きにくいくさせているように思えてなりませんが。とにかく、この当時のバビロンは多神教でしたので、ネブカデネツァルのこのような政策も受け入れられていたのです。

けれども、ただ唯一の神のみを信じ仕えるユダヤ人の場合は異なっています。ネブカデネツァルが造った金の像にひれ伏すことは、その自分たちが信じ仕える神に背くことになるからです。又、十戒の1,2の戒めにあるとおり、神が最も忌み嫌われることが、偶像礼拝ですから、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは王の臣下ではありましたが、金の像を拝むことだけには従うことができませんでした。異教の地バビロンにおいて王に対しても敬意をもって忠実に仕えていたであろう彼らでしたが、「神でないものを神のように崇拝する。」そのことに対してはきっぱりと拒否する態度を堅持したのです。あの内村鑑三先生をはじめ、有名無名に関わらず、このシャドラク、メシャク、アベド・ネゴたちのように権力に屈せずただ主なる神、自らの救いの神のみを拝していった信仰の先達のことを想うとき、彼らの姿勢から私たちも学び倣うことがあるように思えます。

シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは王の前で、17節「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます」と、その信仰の告白を言い表します。
さらに彼らはこうも言っています。18節「そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
まあここをお読みになって、彼らが口にする「そうでなくとも」と言うのは。先の「必ず救ってくださる」と述べた言葉と矛盾しているように思われるかも知れません。「何だ、必ずと言っておきながら、そうでなくともというのは変だ」と。この新共同訳はあまりよい訳とはいえません。口語訳聖書では、ここは「たとえそうでなくても」となっています。
この、「たとえそうでなくても」という言葉には彼らの強い意志、「生ける主こそ神である」「このお方に従う」という決意がにじみ出ているように思えます。

私たちも「主が共におられるのだから」と信仰をもって踏み出します。けれども、神さまだけがほんとうに人の道の何たるかを知っておられるのですから、「たとえそうでなくとも」というのは、何かうまくいかなかった時の逃げ口上ではありまん。「たとえ自分の考えどおりでなかったとしても、主は知っておられる。主がすべてを導かれる。」そういう信仰の表明だということですね。このような主への信頼の言葉を私たちも日々口にする者でありたいと願うものであります。

ダニエルらの時代も、また彼らのエピソードが書物として編纂されていった時代も、ユダヤ人たちは権力と悪政による激しい迫害下におかれていました。そう状況のもと、不条理ともいえる死を遂げる信仰者が多かったのであります。そういう中で、「神は救えなかったのか」「神はどこにおられるのか」という不信へ誘う囁きが、信仰者に向けられていったことでしょう。
このシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの「たとえそうでなくとも」と言う言葉の中に、彼らは真に畏るべきお方がおられることを知っていたことが分かります。マタイ福音書のイエスさまのお言葉に、「体は殺しても魂を殺すことのできない者を恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方を恐れなさい」とあります。その真に畏るべきお方にどこまでも従い行く。この「たとえそうでなくとも」という言葉が、まことに壮絶な迫害にさらされていたユダヤの人々に、どんなにか大きな励まし、支えとなったことかと想像いたします。
この日本でも大きな迫害の歴史を経て、又戦後の民主主義や自由を保障する日本国憲法によって、今のこの信教の自由は認められるようになりましたけれども、それがどんなに貴重なことかと心底思います。一方で時を同じくして迫害にさらされている地もございます。「思想信条、信教の自由」が与えられ、守られるよう心から願うものです。

さて、バビロンのネブカドネツァルは彼らの3人の言葉を聞くや、「血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた」とあります。
王は兵士の中でも特に強い者に命じて彼ら3人を縛り上げ、燃え盛る炉の中に投げ込ませました。
するとどうでしょう、彼ら3人を引いていった屈強な男たちさえその吹き出る炎が焼き殺したというのです。この後のダニエル書6章も、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルは無事で、彼を告発者たちが逆にライオンに食べられてしまう、そんな出来事を伝えています。「復讐はわたしのなすことである」とは神さまのお言葉でありますが。ここには義人を苦しめる者は、その犠牲者のために用意した刑罰そのものを自ら被ることになるということが、伝えられているのであります。

こうして「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った」のでありますが。「間もなく・・王は驚きの色をみせ」とありますね。その「間もなく」の間に何が起こっていたのか。それについて、旧約聖書続編の「ダニエル書補遺アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」の中で、彼ら三人が若者は神をたたえ、主を賛美しつつ、炎の中を歩んでいた。そしてアベド・ネゴことユダヤ名のアザルヤは立ち止まり、火の中で、口を開いて祈ったとあり、その言葉が記されています。
 そこには、「あなたは、お造りになったすべてのものに対し正しくあられ、その御業はすべて真、あなたの道は直く、その裁きはすべて正しいのです」(4節)と祈られ、「あなたが主、唯一の神であり、全世界で栄光に輝く方であることを彼らに悟らせてください」(22節)との祈りが続きます。
そうしてまさにその祈りは聞かれるのであります。
続編には、その炉の中に天使が降り炎を吹き払ったので、炉の中は露を含む涼しい風が吹いているかのようになった。火は全く彼らに触れず、彼らを苦しめることも悩ますこともなかった、と書かれていますが。

その時ネブカドネツァルは炉の中に、「四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている」と言ったというのが25節ですね。王は燃え盛る炉の口に自ら近づき、3人の名とともに「いと高き神に仕える人々よ出て来なさい」と呼びかけ、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうとしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた」と、3人が祈ったように王が主を賛美するのです。

バビロンの多神教という宗教的地盤をもつ中で、その王がこのような信仰を言い表したことは驚きといえないでしょうか。先にも申しましたが、王は多神教という地盤を利用して国家的な一つの宗教を打ち立て、より強固で団結力のある一つの国家としてつくりあげようとしていました。その権力をもって優秀なユダヤ人たちをバビロン化させ、その信仰をも簡単に変えることができると高を括っていたのかも知れません。けれども、エルサレムの神殿の崩壊とバビロン捕囚下において、ユダヤの人々は深い悔い改めによりその信仰はより堅固なものとされていたのです。試練の中で揉まれながら主に向かう信仰は、天と地を創造し、生と死を司っておられる神によって導かれ守られるのです。

バビロンのネブカドネツァル王は、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神、すなわち真の神々の神、すべての王の主をたたえよ」と、すべてをおさめたもう生ける神を賛美してさらに言います。「彼ら3人が王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にいかなる神にも仕えず、拝もうとしなかったから、神はこの僕たちに御使いを送って救われた。」
この王の言葉は、おなじく多神教のこの日本に住む、私たちキリスト者にチャレンジを与えているように私には思えます。仏教の影響が根強く、又地域や家族とのかかわりの中で異教的な行事や慣習も多くあり、私たちはそういう中でいろんな信仰の闘いにさらされます。そこで闘いが起きないのはむしろ信仰の危機といえるのかも知れません。
どこかでいいかげんに妥協し、いつしかそれが習慣化してもはや自分の中に葛藤さえ生じなくなった時、そこに果たして救い主への感謝、それどころか主とのいのちの交わりが保たれているといえるのか。主の御前にあっての自己吟味が必要かも知れません。
私たちは信仰の闘いが起こることを通して、自分と神さまとの関係、又、何を第一としていくかが問われます。それは又、より深く神さまの栄光を仰ぐための実は機会でもあることを覚えたいものです。

もう一つ、このネドカドネツァルも見た四人目の者については、先に申しましたように、
神に仕える天使だとも言われていますが。他に、主に忠誠を尽くして最期を遂げた殉教者たちを表している、とも読めなくはありません。
しかし、ここで4人目の者についてネブカドネツァルが、「神の子のような姿をしている者」と言ったように、それは、燃え盛る炉で火に囲まれるような状況に投げ込まれる中にも、「わたしはあなたを決して見捨てない」といって、共にいて守り、希望を得させ、賛美をささげさせてくださる、インマヌエルの主であられます。
真に神に仕え従い行く者の道がどのように厳しく、闇のような中にあっても、主は必ず共にいてくださる。そのことを今日は三人の若者の主への信頼と、「たとえそうでなくとも」という信仰の確信の御言葉から聞いてまいりました。

最後に、先週の水曜日にお二人の方が教会を訪ねてこられました。お一人はキリスト教について教えてほしい、という内容で、1時間くらい朝の祈祷会前にその方とお話する機会がありました。又、夕方の祈祷会に10年前に1ヶ月でバプテスマ受けたが、その後教会から離れて家が仏教のためにキリスト教の信仰と仏教の信仰の違いが分からなくなり、悩んでいるということで教会を訪ねてこられたということです。祈祷会の祈りの時に御自身からそのことを勇気をもって打ち明けてくださり、共に祈り合いました。
 ほんとうに、キリスト教について知りたいという方や、クリスチャンになられてからもいろんな問題で悩み苦しんでおられるかたがたがまだまだ多く地域におられるということを改めて実感した二つの出会いでした。
 この大阪教会に連なるわたしたちそれぞれに託された務め、働きがあります。それは主が今も生きてお働きくださっていることが、証しされていく主のご計画と栄光のためにそれぞれが用いられている、ということです。そのためにさらに主に祈り求めつつ、今日もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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神に仕える者の決心

2016-11-06 15:10:57 | メッセージ
礼拝宣教 ダニエル書1章1-21節 

11月に入り米国の大統領選、お隣りの韓国大統領の問題、そして日本では、なんでそんなに慌てなければならないのか分かりませんが、TPP法案が強行採決によって国民不在のなかで決議されています。便利さや安いコストだけを引き替えに食の安全やいのちが危機にさらされるようなことはほんとうに避けるべく、じっくりと慎重に審議していただきたいと願うものであります。

この11月は4週に亘りダニエル書から御言葉を聞いていきます。
ダニエル書は先週まで読んでまいりましたエゼキエル書と重なる紀元前586年~539年のバビロン捕囚時代、さらにその後のキュロス王による捕囚解放によるエルサレム帰還の時代を背景としています。異教の地で捕囚として暮らすイスラエルの人々。
このダニエル書からは、主なる神を信じる彼らが激しい宗教的弾圧と迫害によって苦しめられていた歴史的背景が読みとれます。
これらのエピソードと語られた預言の言葉は、バビロン捕囚の下におかれた人々のみならず、解放されてエルサレムに帰った後も、大国の侵略や激しい迫害にさらされるユダヤの人々にとっても、神の民としての歩みを確かなものとし、励ましを与える書であったのです。
現代の日本において憲法で「信教の自由」は保障されており、私たちの信仰生活も自由に行なうことができるのでありますが。比率からいえば全人口の1%にも満たないキリスト者として、どのような心構えをもって信仰を貫き、いのちの基としていくのか。そういうメッセージをこのダニエル書から聞き取っていければと願っております。
本日は①神の民としての危機と試練 ②神の民として生きる者に与えられた賜物・知恵 ③神に仕える者の決心 それぞれテーマのもと御言葉に聞いていきたいと思います。

①神の民としての危機と試練
当時のイスラエルの人々は、バビロンの侵略によって神殿もろとも都は破壊され、バビロンの国策のもとでユダの指導者をはじめ、貴族や技術者、宗教的などが捕囚とされました。又、ユダの多くの一般は壊滅したユダに残されたのです。そういう事態から
、「イスラエルの民はもはや神の選ばれた民ではなく、神から契約を破棄されたものと考える者がでてきました。さらに彼らの多くが「自分たちの先祖の神、主なる神が唯一絶対的神ではなく、異教の神々よりも劣っている」などと考えはじめていたのです。
 信仰の父祖アブラハムから始まって、エジプトの奴隷の状態から導き出され、約束のカナンの地においてダビデ王による建国、ソロモン王の時代の神殿建設と、神の民としての歩みを導かれてきたイスラエルの民でした。しかし神の言葉と戒めが軽んじられた結果として、イスラエルは南北に分断され、さらに双方は大国に滅ぼされてしまったのです。そうしてそれら神の民としてのアイデンティティーが崩壊しそうな状況の中で、ダニエルたちの出来事が起こされたということです。
捕囚の地において、バビロンの王は3節にあるように、侍従長に命じて「イスラエル人の王族と貴族の中から、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年を何人か連れてこさせ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた」とあります。その中に含まれていたダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤ。
バビロンの王は、彼らが自分に仕えるにふさわしい者となるようにと、かの地の言語、文書を学ばせます。同時に、バビロンの文化や慣習に従った宮廷の肉類と酒を毎日与えるように定めたというのですね。「定められた」ということですから、それはいわば強要であります。さらに彼らを受け持った侍従長は、4人の名前をそれぞれ、ベルテシャツアル、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴと変えて呼んだのです。まあどこの国もたいがいそうでしょうが、名前には意味がこめられているものです。
ダニエルという名は「神は私の裁き主」という意味ですし、ハナンヤは「主は憐れみ深い」、ミシャエルは「誰が神か」、アザルヤは「主はわが助け」という神の民であればこその意味をもっていたのです。
ところが、その4人の名前がみな、バビロン式の名前に変えさせられたのです。それは、彼らの存在や尊厳を奪うことでした。ダニエルのベルテシャツアルのベルは異教の偶像の名であり、「ベルよ、彼の命を守りたまえ」という意味です。他の3人の名前も、バビロンの偶像の神々にちなんだ意味があったということで、それはまさにこの4人の神の民としての存在意義(アイデンティティー)が否定されるというとてつもない屈辱を彼らは経験するのです。日本もかつて近隣諸国の方々に対しての「同化政策」の一つとして、名前を改名させて日本名をなのらせるという強要した過った歴史の汚点があるわけですけれども。
このダニエルたちにとっては、それはまさに神の民として生きるうえでの大きな危機であり、試練の時となったのです。ところがどっこい、その試練こそが、彼らを神の民たらしめる機会となっていくのです。彼らの、「わたしが私であるための闘い」「私は神の民である」という闘いが、ここから始められていくのであります。

まず、「ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心」します。
「郷に入れば郷に従え」というような諺がありますけれども。ダニエルにはどうしてもゆずることのできない理由がありました。それは、この宮廷の食卓のごちそうの中には、偶像にささげられた食べ物も混じっていたのです。レビ記11章に規定があるように、ヘブライ人(イスラエルの民)には、食べることのできるものと、食べることのできないものが定められているからです。
たとえば、肉は完全に血を抜いて火をしっかり通さなければならなかったのですが、その食卓に出されるのは、血が滴るぐらいレアな肉であり、しかも偶像の神々にささげられてきたものとなれば、なおさらのことそれを食べることは主の御前にあって身を汚すことを意味していたのです。

ダニエルらは決断を迫られていました。育ち盛りの彼らはやっぱり肉を食べたかっと思いますね。野心が芽生える年齢です。命じられるとおりにすれば、自分たちの身分は捕囚ではなく、かの地においての将来も保証され、出世の機会を得ることになるでしょう。

けれども、それを受け入れていくということは、自らの、神の民としてのアイデンティティーを失うことになる。そればかりか、命令を拒否するなら、命を危険にさらすことにさえなりかねない。

②神の民として生きる者に与えられる神の知恵
そういう中、少年たちの多くはいわれるままに従うのですが、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの4人は重大な決心をします。それが「神の御前に自分を汚すまい」という決心でありました。そうして彼らは一切の肉類と酒を飲食することを拒むのであります。正直すごいなあと思います。現代の豊かさの中で、また信仰の面でも主イエスにあるきよめと自由の恵みを享受して、食べる物は何でも食べてきた私たちからすれば、彼らはほんとうにすごい決断をしたもんだなあと思うものでありますが。

そのようにダニエルら4人は力をもつ者のいいなりになって身を汚して、自分の出世や栄誉を得ることで、神の民としての尊厳や存在意義を失ってはいけないと、神の御前で誠実に生きる道を選び取ります。

ダニエルはそのけっしんしたことをすぐに実行にうつしました。彼は「自分を汚すようなことはさせないでほしい」と侍従長に願い出たのです。
それを聞いて大変困惑し、ダニエルに「同じ年頃の少年に比べてお前たちの顔色が悪くなったら、お前たちのためにわたしの首が危うくなるではないか」と、まあ侍従長からすれば当然ともいえる言葉が返ってきます。

ここで、ダニエルにも侍従長の立場を考えるという人の思いもきっとあったと思うのですが。しかし、そこでダニエルは妥協しません。では、どうしたか。そこが今日の聖書の大きな一つのポイントだといえますが。ダニエルはここで、侍従長が自分たち4人のために定めたに世話係にある提案をいたします。
それは「10日の間、食べる物は野菜だけ、飲む物は水だけにさせて試してください」「その後、わたしたちの顔色と、宮廷の肉類をいただいた少年の顔色をよくお比べになり、その上でお考え通りにしてください。」
 そうしたところ、その世話役はこのダニエルの願いを聞き入れたというのです。そこに「神の御計らいがあった」からです。人にはできないが、神にはできるのです。
そうして10日間試した結果、「彼らの顔色と健康は宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かった」というのですね。この「どの少年よりも」というのは、いわれるまま妥協した少年たちのことでしょうね。肉をしっかり食べていたいたその人たちよりも、ダニエルら4人は顔色も健康状態も良かった。それは単に肉体的にがっちりとなったということでなく、魂の健やかさがあった、生気が満ちあふれていた、ということではないでしょうか。

17節「この4人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた」とございます。
又、20節「王は知恵と理解力を要する事柄があれば彼らに意見を求めたが、彼らは常に国中のどの占い師、祈祷師よりも十倍も優れていたと」とございます。
まあ古今東西。権力者もその地位にのぼりつめますと、神に祈るのであればよいのですが。いろいろと伺いを立てたくなる。助言を周りの人にではなく、あやしげな口寄せや占師に求めるということがあるようで、かの大バビロニア帝国のネブカドネツアル王にも、おかかえの祈祷師や占師がいて、それが国策に大きな影響を及ぼしていたということですね。

しかしここで問題はダニエルら4人が、怪しげなえたいのしれない占師や祈祷師とは異なり、「神から恵まれ、賜物を与っていた」ということです。箴言に「主(神)を畏れることは知恵の初め」(1章7節)とございますように、心から神を畏れ敬うダニエルたちをこのような形でお用いになろうとしたのですね。
神に信頼して生きる者に、いうならば世の知恵でなく、神の知恵が備えられるのです。
それはあらゆる危機や誘惑から救い出してくださる神さま恵みの賜物であります。

私たちもこのダニエルたちほどにはないとしても、日本という異教の地ともいえるこの社会、また神をも畏れないような世において、様々な問題や困難に突き当たることもあるでしょう。家の宗教、親族の信仰観、中には様々な事情から主日礼拝に集うことの困難をおぼえていらっしゃる方もおられるかも知れません。
それは、このダニエルたちのように「主に信頼して生きるその信仰が試され、練られている時」ともいえるでしょう。そこで、「主こそ、私の救い」と、主から受けた新しいいのちに自分の存在意義を見いだし続けていくとき、主は天来の知恵と御計らいをお与え下さるのですね。ダニエルたちのように、信仰に立ってそれを表明し、一歩を踏み出せる私たちでありたいと願います。

③神に仕える者の決心
最後に、今日は「神に仕える者の決心」という宣教題をつけました。
5節で、バビロンの王は、自分に仕えさせる目的のためにダニエルら4名に養成したと記されています。王はその権力のゆえに自分を神のように崇めさせ服従させようとしたのです。ダニエルはそれが、偶像礼拝にも等しいこと、また自らのアイデンティティー(存在意義)を否定されることであると、敏感に察知しました。
異邦人の侍従長は「わたしは王様が恐ろしい」と言っていますが。ダニエルは真に恐れるべきお方を知っていました。
ダニエルの名前は「神はわたしの裁き主」です。彼はまさにその名のとおり、自分の裁くお方がだれであるのかを知り、主を畏れて生きる道を自ら選び取ったのです。

私たちはどうでしょうか。恐れなくてもいいものを恐れ、ほんとうに畏れなければならないお方を二の次にしていないか。その主なるお方にまっすぐに信頼して歩んでいるだろうか。又、わたしは生き方の基準をどこにおいているのだろうか。このダニエルたち4人の若者から問われているように思います。

私たちにとりましてのいのちの源、存在意義、それは主イエス・キリストにある御救いです。自ら十字架におかかりになるほどに、私を愛して、新しい救いのいのちに入れて下さったこのお方によって、神の子、神の民として迎えられた。その大いなる恵みに生かされて、私たちもまた、ダニエルたちのように血色よい輝くそれぞれの顔にされてまいりましょう。たとえ困難のなかにありましても、主に信頼をおいて今週もここから歩み出してまいりましょう。
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