日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

ご来訪者のみなさまに感謝!

2014-12-30 11:01:00 | お知らせ
 1年間、このブログをご覧くださったみなさま、ありがとうございました。
 
 まだまだ改善や課題はのこりますが、何とか1年が守られ、感謝です。
 2015年も、よろしくお願いします。
  みなさまも、よき新年をお迎えください。平安

日本バプテスト大阪教会 年末年始予定

 12月31日(水)
     歳晩祈祷会Ⅰ:午前10時30分~12時
     歳晩祈祷会Ⅱ:午後7時~8時

 2015年1月1日(木)
     元旦礼拝:午前11時~11時40分

    1月4日(日)
     新年主日礼拝:午前10時30分~12時


   みなさまのご来会をお待ちしております。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シメオンの祝福

2014-12-28 15:22:07 | メッセージ
歳晩礼拝宣教 

今年も残すところあと4日、2014年最後の主日礼拝となりましたが。主にあってこの1年雪の日も嵐の日も52週の主日礼拝が導かれ、守られてきました。又、私たちそれぞれの一年が主に守られ導かれ、試練の時にも多くの恵みが与えられたことを覚え、この一年の終わりに、賛美と感謝を捧げて、また新しい年のあゆみに期待し備えていきたいと思います。

先程、聖書の箇所でありますルカ2章22節~38節が読まれました。
両親は、天使に示されたとおり生まれてきた幼子にイエスと名付けます。二人はモーセの律法に沿ってその子を主に捧げるため、エルサレムの神殿に連れて行った、ということでありますが。まあ教会では、よくこのところを引用しながら、献児式が行なわれているところもございます。幼子とそのご家族のうえに神の恵みと祝福があるようにと、教会あげて祈り一家を見守っていくのは素敵なことですね。

そして、今日のこの幼子イエスが主に献げられる、というエピソードには、もう一つ実に深いメッセージが示されております。
それは、2人の年老いたシメオンとアンナという人物をとおして明らかにされます。
シメオンについては、「この人は正しい人で信仰あつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼に留まっていた」とあります。イスラエルではすでに400年にもわたって預言の言葉が与えられていませんでした。その間近隣の大国による厳しい弾圧を受け続け、それはとりわけ主を礼拝する者にとって迫害と屈辱の歳月であったのです。あまりにも長く続いた「神の沈黙」とも言われるその時代を経るのですが。イスラエルの多くの人々は、どこかもうあきらめの思いもあってか、救い主が到来することを待ち望まなくなっていました。しかしそういう中で、このシメオンは旧約の預言を握りしめながら、「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」数少ない人の一人であったのです。彼はシメオン;「聴く」というその名が示すように「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とお告げを受けていました。
一方のアンナについては、12部族の一つのアシェル族出身の84歳となる女預言者でした。嫁いで7年で夫と死別し、この年まで神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えておりました。幼子イエスが神殿にいた丁度その時、アンナもそこに居合わせ、この幼子のことを知り、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。このシメオンとアンナに共通していたことは、どちらも「旧約時代の救い主到来の約束を信じ、その実現を待ち望んでいた人たち」であったという点であります。
二人は年老いていくなかで、独りであることの寂しさや恐れを人間である以上感じていたと思われますが。しかし、彼らはただ孤独の中で、死を待つ外ない老人ではありませんでした。彼らは、来たりたもう方、メシアを待望し、信仰による希望をもっていたのです。
老人になっても神殿を離れず、祈り続け、昼も夜も神に仕えていたシメオンとアンナ。彼らは神の救いを、幼子イエスの中に見出し、神をたたえ、アンナは救い主の到来を待ち望んでいる人々皆に、主イエスのことを話します。今日の時代の私たち主の教会、又大阪教会おいても、このシメオンとアンナを見つけることができるのではないでしょうか。そこに、教会の希望が証しされているといえるでしょう。

今日の箇所の最も感動的な場面。
それは、幼子を腕に抱いたシメオンが、神を賛美し、幼子イエスの両親を祝福したシーンではないでしょうか。シメオンは神をたたえてこう述べています。
「主よ、今あなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
 この日、シメオンは聖霊に導かれて神殿の境内に入って来た時、折しもマリアとヨセフが幼子イエスを連れてそこへやって来るのです。シメオンは聖霊にその子こそ待ち望んでいた救い主であることを示され、幼子イエスを腕に抱いて神をほめたたえます。
主に会うまでは決して死なないと言われ、イスラエルが慰めを受けるその日を祈り望んで来たシメオンでした。ところが、彼はその幼子の中に、そんな彼の願いをはるかに超えた31節「万民のための救い、異邦人を照らす啓示の光」を見出すのです。それはイスラエルのみならず全世界の救い、そして希望であります。それを知ったシメオンに安堵と共に大きな平安が訪れます。感謝と賛美があふれます。
その時から2000年あまりが経過しました。今私たちはあのシメオンのように直接幼子イエスを腕に抱くことはできません。けれどもシメオンを導いた聖霊、主イエスにあるペンテコステの聖霊によって「万民の救い、異邦人を照らす啓示の光」を見ています。私たちも又、こうしてシメオンと共に神をたたえる者とされているのです。

さて、シメオンが幼子イエスの両親を祝福したところにはこうも述べられています。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。―多くの人の心にある思いがあらわにされるために。」
シメオンは聖霊によって、この幼子がやがて人々からどういう受け止め方をされるか、さらにその母マリアがそのことのゆえに受けることとなる苦しみについてもいわば預言をします。34節にははっきりと「シメオンは彼らを祝福し、言った」とあるわけですが。しかし一般的に考えると、この預言の一体どこが祝福といえるでしょうか。その祝福とは何でしょうか。
この預言は主イエスの公的宣教活動が始められると同時に現実のものになっていきました。主イエスは救いの真理について証しますが、ユダヤの律法学者やファリサイ派の人たちはイエスを目の敵にし、母マリアは心を痛めます。遂に主イエスが瀕死の状態で十字架に磔にされ、息絶えるのを彼女は一体どんな思いで目にしていたことでしょう。それは祝福という言葉とはあまりにかけ離れた現実でありました。
けれどもすべては「神の業があらわれるため」であったのです。イエス・キリストの苦難とその死によって、遂にイスラエルのみならず全世界、すべての人々を贖う救いの業が成し遂げられたのです。さらに主イエスはその真実を世に現すために3日の後に復活なさったのであります。マリアはそのすべての人を照らす光であるキリストの栄光を間近に見る者とされたのであります。

今日このシメオンの祝福は、幼子イエスの両親に向けられたものであります。しかし同時に主イエスによっての新しくされたキリスト者も又、地上における様々な苦難の中にあっても、この「主イエスが共におられる」という約束によって大きな祝福のうちに生かされているのであります。ヨハネ16章33節の「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」との主イエスの御言葉は真実です。
みなさまにおかれては、今年実現したこと、叶えられたことがございましたでしょうか。その一方で、目標や課題に対して道半ば、途上にあることもおありでしょうが、それぞれのあゆみに主が伴って下さった一年であることに変りありません。

最後になりますが、今年は世間では「税」に象徴されるように、生活がさらに重苦しさを増した年となりました。経済的な格差社会は拡大するばかりです。それはまた人の心をむしばんでもいます。又、巨大台風が猛威をふるい、白馬の地震、御嶽山の噴火災害、広島の土砂災害、大雪による災害が続き、ほんとうに人は自然の力を前になすすべもない者であることを思い知らされますが。それはまた、あくなき経済優先による開発や産業が異常気象や地球温暖化とも関わる私たち人間の側の問題でもございます。
天地創造の主が、「すべて造られたものを治めよ」と人間に託されたその使命について、人類が主の御前に悔改めをもって、応えていけるように私たちもまた、今日のシメオンやアンナのように約束されたキリストによる新しい天と地の出現をとりなし祈る者とされてまいりましょう。主は共におられます。

今年の主の恵みを数えあげ、感謝しつつ、すでに主によって新しいことが始まっていることに期待し祈りながら、2015年のあゆみを始めていきましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリスマスの喜び

2014-12-24 22:43:29 | メッセージ
キャンドルライトサービス宣教 コリント二:8・9 

メリークリスマス。救い主イエス・キリストのご降誕を心より讃美いたします。
本日はこのクリスマスイブの礼拝にようこそいらっしゃいました。
クリスマスは、クライスト;キリストのマスはミサ、つまりキリストの祝祭という意味です。イエス・キリストが神のご計画により、全世界の救い主としてこの地上にお生まれくださったことを記念し、喜び祝う、このクリスマスであります。
この時期は街並みがきらびやかなイルミネーションに彩られ、様々なところでイベントが行なわれているようですが。「キリスト教会でほんとうのクリスマスを過ごしたい」という思いをおもちになってこの場に初めておこしになられた方もいらっしゃるかも知れません。心から歓迎いたします。

先に、クリスマスの聖書の箇所の朗読があり、キャロルが歌われました。
クリスマスのよい知らせを最初に聞いたのは、21日の礼拝でもお話しましたが。「定住する場がなく夜通し羊の番をしていた羊飼いたち」でありました。彼らは天使の告げた救い主誕生の知らせを確かめるために急いでベツレヘムへと向かいます。そして遂に、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てると、その喜びを人々にも知らせ、神をあがめ、賛美しながら帰っていったのでありました。
又、もう一つのエピソードとして、ユダヤ人ではない東方からの学者たちが救い主誕生のしるしを天に見て、遠い国からはるばるベツレヘムへやって来たこと。そして、ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて黄金、乳香、没薬を贈物として献げたことが読まれました。彼らは預言者イザヤの「救い主メシアに関する預言」を研究し、遂にその時が訪れたことを知って遠路こうして祝うために遥々やって来るのです。

皆さまもまた、寒く暗い中を歩いて来られ、遠い方も車や交通機関を使ってここにお出でになりました。年末で何かとご多用な中、羊飼いらのようにひとまずそれらをおき、イエスさまの誕生をお祝いするため教会にこうしていらっしゃいました。皆さまがこの小さな幼子イエスさまの中に救いの希望をご覧になり、彼らと一緒に喜びに満たされるこのクリスマスとなりますよう祝福をお祈りいたします。
 又、今日この日に同時に祈りたいことがあります。それは喜び祝いたくともおかれた状況があまりに過酷な方々のことです。
教会の近隣にもこの寒さの厳しい時期に路上で長い夜を過ごさざるをえない方々が現におられます。凍てつく厳寒のこの時期には特に「路上で死者を1人も出さない」を合い言葉に、毎年釜ヶ崎キリスト教協友会主催で様々な教会関係者やボランティアによる越冬夜回りが行われます。格差社会が急速に拡大していく中で、子どもたちの貧困や虐待。若い人うちからファーストフードやネットカフェで寝泊まりして生活をつないでいる方々もおられます。

東日本大震災と原発事故から3年9カ月が過ぎますが、未だに先行きも見えず生活せざるを得ない方が大勢いらっしゃいます。又、休みなく危険なフクシマの原発の廃炉のために働いておられる方々もおられます。バプテスト連盟現地支援委員会の瓦版には、岩手、宮城、福島にある諸教会において、それぞれの地に建てられた仮設住宅に入居されている被災者の方々への訪問や交流を今も地道に続けておられることが報告されています。
その瓦版の中に、「私たちは、万事を益としてくださる主を信じ、被災された方々と共なる歩みをこれからも継続します」と記されていました。
関西にいる私たちはなかなかその現地の厳しい状況を感じ取るアンテナが鈍くなっていることは否めません。けれどもその想像を超える状況の中でクリスマスを過ごしておられる方々を祈りに覚えたいと思います。
 又、広島の土砂災害や先日の大雪の被災者の方々、そしてもう20年が経とうとしている今も、阪神淡路大震災の被災者であり続ける他ない方々のことを覚え、それらの方々のもとにどうか希望の光が灯されますようにと、祈りたいと思います。

そして、今日このクリスマスのイブ礼拝に足を運ばれたお一人おひとりも、それぞれに悩みや痛みを抱えつつこの1年を過ごされたと思います。病気やその人たちの看病で礼拝に来れない人たち、仕事で時間のとれない人たち、心の元気をなくしている人たちがおられます。主イエスはそのような悩み多き私たち、寄る辺なき私たちと、共に生きるために自ら貧しい者、人間というもろく弱い存在としてお生まれくださいました。インマヌエル、主我らと共におられるとは、そういうことであります。

もう一度本日の聖書のお言葉を読みましょう。
「あなたがたは、わたしたちの主イエスの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」
あなたがたが豊かになるため。その豊かさとは、私たちのクリスマスの喜びが決して独りよがりの喜びではなく、世界中で主の救いを必要としているすべての人々と喜びを共にし、つながり、分かち合われる「豊かさ」であります。

この後、献金の時を持ちます。この献金は対外の支援を必要としているところにプレゼントさせていただくものです。今年も昨年と同じく、日本聖書協会の点字聖書作製のために、滋賀県の知的障がいを抱える方々の施設・止揚学園、そして越冬夜回り支援活動の母体の釜ヶ崎キリスト教協友会へ贈らせていただきます。
神さまがその独り子である御子イエス・キリストを私たちに与えて下さったその大いなる慰めと励まし、その喜びを私たちも又、分かち合えたらうれしいですよね。

祈ります。天の父なる神さま。新会堂が与えられて2回目のクリスマス・キャンドルサービスを感謝します。
私たちはこんなに立派な会堂で礼拝をお捧げしていますが。イエスさまは「その貧しさによって私たちが豊かになるため」に家畜小屋の飼い葉桶に寝かされ、それが世界の最初のクリスマスであったことを忘れません。
どうか、この地上の隅々に訪れたクリスマスのその喜びと、私たちのクリスマスの喜びをひとつにしてください。又、ここに集われたお一人お一人の課題に御手を添えて、新しい年へと歩み出す力をお与えください。そして、苦闘している隣人のために留まり、寄り添う優しさを持つ私たちとしてください。そのために用いられますように、私たちの心も体も時間もお捧げます。救い主・イエス・キリストのご降誕を心から感謝してお祈りします。
                               ア―メン。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

救い主誕生の知らせ

2014-12-22 09:54:04 | メッセージ
クリスマス礼拝宣教 ルカ2章1~20節  

「居場所のない世に」
本日はルカ2章1~20節の「救い主誕生の知らせ」の記事より、クリスマスメッセージを聞いていきたいと思います。 
聖書はイエス・キリストの誕生が単なる物語ではなく歴史上に起こった事実として伝えます。しかもそれは、旧約聖書のミカ書(5:1)に「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中で最も小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る」と預言されているとおり、すべては神のご計画であるのです。ヨセフと身重となったマリアはそのベツレヘムへと導かれ、遂に紀元前BC:ビフォークライスト・キリストが生まれる前の意味ですが、そこから紀元後AD、キリストの年代が始まる、その世界の歴史が大きく変えられてゆく時(カイロス)が訪れるのであります。

さて、ベツレヘムに着くとマリアは月が満ちて2人は宿を探します、しかし宿屋はどこも一杯で泊る場所がなかった、彼らのいる余地がなかったのです。結局、なんとか彼らが落ち着いた場所は家畜小屋でした。マリアはそこで乳飲み子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。
先週はマリアへの受胎告知の記事を礼拝で読みました。その後マリアは神を賛美して、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」(1章49節)と言うのでありますが。ところが実際それが現実となってみると、「神の子」であるはずの御子をみすぼらしい家畜小屋で出産せねばならないのでした。何か手ちがいがあったのでしょうか。なにしろユダヤの人々が待ちに待ったメシア、全世界の救世主であるなら宮殿でお生まれになって当然でしょう。宮殿でなかったとしても、せめてちゃんとした部屋の中で、助産婦に手伝ってもらいながら出産して、産湯につけられ、きれいにしたベットに寝かされるのが当然と思うのが人の思いです。だれも愛する子や孫が生まれようとしている時にわざわざ家畜小屋を用意して父親に子を取りあげさせるなどという人はいないでしょう。しかし、マリアが「どんなことでもお出来になる」と信頼した父なる神さまは、あえてそのようにご計画なさったのです。そこに神の深いメッセージがあります。

居場所のないマリアとヨセフ。
私たちも時に居場所がないという経験をしたことはないでしょうか。ときに職場で、ときに街中で、ときに友人たちの中で、家族でさえもそう感じることがあるかも知れません。ここがあなたの居場所ですよと人に言われても。そこが必ずしも自分の居場所のならない時もあります。そういう私たちに聖書は語りかけるのです。キリストは居場所のないマリアとヨセフのところに来る。居場所を見いだせない彼らに、そして私のもとにキリストは来る。自らが居場所、自らがよりどころとなるために、寄る辺なき我らのもとにキリストはお生まれになられたのです。

「恐れが平安へ」
さて、この御子の誕生は、「野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた」羊飼いたちに最初に知らされます。当時、羊飼いは今以上に大変な仕事でした。羊と一緒に生活をし、悪臭にまみれながら、定住する場所もありません。寒さ厳しい折は羊にうずもりながら寝ることさえあったようです。そういうことから律法や規定を守ることが難しく、社会からは外れた者として市民権も認められず、裁判の証人に立つ権利も認められていませんでした。旧約時代あのイスラエルの代表的な王であったダビデは羊飼いであったことから、羊飼いは名誉ある職業とされ尊敬された時代もありましたが、この当時はすでに、ある意味では社会的に偏見の目で見られるような状況におかれていたようです。

その夜、彼ら羊飼いはエルサレムからかなり離れた小さな村ベツレヘムのはずれで羊の群れを飼っていました。恐らく寒い時期であったと思いますが、焚火をたきながら夜通し野獣から羊を守るため寝ずの番をしていたのでしょう。

そこへ主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れました。
勿論、あり得ないことがあまりに突然起こったので驚いたということもありましょう。けれども、たとえば天使が旅人の地味な出で立ちで現れ、彼らを祝福したとしても、やっぱり彼らは驚き恐れたでしょう。それは、彼らが神の祝福から遠い者とされ、彼ら自身もへりくだりを感じて生きていたからです。彼ら羊飼いらは、人々が神に捧げるための羊を育て飼いながらも、自らは律法や安息日を守ることができないあきらめとやるせなさを抱えていたのでしょう。にわかに天の光に照らしだされた時、彼らのその心はふるえおののきました。
主の天使は彼らに言います。
「恐れるな。わたしは民全体に与える大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子をみつけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。
ここに「あなた方のためにお生まれになった」。又、「あなたがたは見つける」「あなたがたへのしるしである」とありますね。
この救い主の誕生の知らせを最初に伝え聞いたのが、彼ら羊飼いであったということは決して天使の思いつきや偶然ではありません。神のご意志なのです。神はもっともキリスト(救い主)を必要とするのがだれであるのかをご存じであるのです。

「恐れることはない」と天使は告げます。
その天使に天の大軍も加わり賛美します。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地に平和、御心に適う人にあれ」。
ここに羊飼いらの人の恐れと対比させるように、「平和」という言葉が出てまいります。ギリシャ語で「エイレネー」は人と人の間に争い、妬み、憎悪のない状態をも含みます。ヘブライ語では「シャローム」で表され、それは「平安、繁栄、健康」と、全人的な意味をもちます。そして何よりこの平和という言葉に貫かれているのは「神との平和」「神との和解による平安」であるのです。
私どもは誰しも様々な恐れを抱いて日々を過ごしているといえましょう。人間関係による恐れ。あるいは病に対する恐れ。死に対する恐れ。しかし聖書は人間の根源的な恐れは「罪」から来ることを教えます。神との関係の歪みからそれは生じるというのです。

天の大軍は「神に栄光、地に平和」と賛美しました。それは地に平和、神に栄光、という順序ではありません。神に栄光があるところに、地に平和があるというのです。地上の平和は、神に造られ生かされている私ども一人ひとりが、神との関係を回復され、神の栄光が顕わされることをとおしてもたらされるのです。

キリストはまさに神と人との交わりの回復がなされるためにこの地上にお生まれになられた。キリストによって私たちは神との平和を得ているのです。そしてその平和は個々人に留まるものではなく、人と人の和解、地の平和に導く神の力なのです。
エフェソ2章14節「実にキリストはわたしたちの平和であります」。

主の栄光に非常な恐れを抱いた羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話合い、急いでマリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」とありますね。原語では「今、見ようではないか」と、非常に強い意志をもって彼らがそこに向かったことがわかります。彼らは神の言葉を自らの目で確認しようとそこへ向かったのです。彼らの魂の飢えと渇きがその足を急がせます。そして遂にその光景を目にした時、彼らの心は満たされ喜びが湧き溢れるのです。「わたしは神の救いを見た」もはや恐れは消え去り、彼らの心に平安、平和が訪れます。それこそがキリストにある喜びの福音であります。

20節に「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていった」と記されています。
私たちも又、世の恐れ、人の恐れを取り除く平安・平和の主イエス・キリストをあがめ、賛美しつつ、このクリスマスの祝福を分かち合ってまいりましょう。「神に栄光、地に平和あり」。救い主のご降誕を喜び、心から感謝いたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたへクリスマスプレゼント!

2014-12-20 17:34:29 | イベント
HANNA クリスマスゴスペルコンサート

~Hanna 魂(ソウル)を代弁して伝え癒すライブ~

出演:文屋範奈(Hanna)

Hanna(vo),宮 詠子(pf)

日程:2014年12月21日(日)

開場:13:30 開演:14:00~15:30
主催・会場:日本バプテスト大阪教会
場所:大阪市天王寺区茶臼山町1番17号

会場は駐車場がありませんので、公共の交通機関でお越しください。
参加費:無料 ※自由献金あり(日本バプテスト連盟東日本大震災現地被災地支援として献げます)

 新会堂が建ってちょうど1年が経ちました。
 今回は、日本・世界でも活躍されていますゴスペルシンガー・ハンナさんが来てくださいます。
 きっと、あなたへのクリスマスプレゼントとなるでしょう。ご来場を心よりお待ちしています。

プロフィール

文屋範奈(ぶんや・はんな)
日本を代表するゴスペル・クイーン。大阪のクリスチャンファミリーに生まれ、16歳で単身渡米。ジョージワシントン大学大学院安全保障学部卒業。病気をきっかけに世界平和に加え「心の平和」を考える。幼少から親しんだゴスペル音楽に救われシンガーに転身。国内外のライブ活動、キリスト教会での奉仕、学校公演やゴスペルの歴史と歌を交えた人権や男女共同参画の講習を行う。近畿大学で英語講師や国際関係コメンテーターとしてラジオ&TVに出演。2015年3月にはNYカーネギーホールでのコンサートに出演予定。


宮 詠子(ピアノ伴奏)
大阪芸術大学演奏学科卒業。 4歳よりクラシックを学び、音楽大学では声楽オペラを専攻しながら、ホテル、レストランなどでピアノ弾き語りを始める。イベント、パーティー、結婚披露宴など、ベースデュオ、トリオ、カルテットなどで出演。学校公演、ジャズビックバンドに参加。ジャズライブ、病院や福祉施設などのサロンコンサートで出演。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お言葉どおり、この身になりますように

2014-12-14 15:41:58 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ1章26~45節 

舞台は先週の祭司ザカリア夫妻のいたエルサレムから100キロ北に向かったガリラヤの地ナザレに移ります。ザカリアにバプテスマのヨハネ誕生の告知があってから6カ月目のことです。天使ガブリエルはナザレの町に住むマリアにも現れてこう告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」それは救い主イエスの誕生の告知でした。しかし「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」。
もっともなことでしょう。初対面でいきなり「おめでとう、喜べ、大いに恵まれた者」と言われたら、一体どういう意味なんだろうと誰でも考え込んでしまうでしょう。それも天使とおぼしき者に「主があなたと共におられる」と言われたのですから、まだ10代半ばのマリアはさぞかし驚いたにちがいありません。
クリスチャン生活も長くなってまいりますと、知識は増えてまいりますが、一方で感受性が鈍ってしまい、「喜べ、大いに恵まれた者、主があなたと共におられる」と言われても「ああそうですか」となると、さびしいことですね。私は神から恵みをいただいた者である、という喜びをいつも新鮮な気持ちで持ち続けたいものです。まあそうは言っても、神から与えられる出来事が即座にうれしいものばかりとは言えないかも知れません。このマリアも初めはそうでした。

天使は言葉を続けて、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と語りかけます。
それは身の憶えのないマリアリアには信じ難い内容でありました。彼女は当然のことながら恐れ、戸惑います。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えるほかなかったのです。
このマリアが抱いた「恐れ」は、「自分が預り知らないうちに子を宿すという到底あり得ないことを告知された不安や恐れであったでしょう。又、婚約者ヨセフのこと、世間からどう思われるか、結婚も将来もどうなるのか、という思いや考えが一度に頭を駆け巡り、不安や恐れとなったのでしょう。むろん自分が到底神からそんな恵みを戴くに価しない、ましてや「偉大な人、ダビデの王座に与る方を宿すなど畏れ多いことだと、戸惑ったのではないでしょうか。
このマリアについてでありますが、聖書は彼女の素性については何も語られておりません。先週のザカリアやエリサベト、そしてマリアの婚約者ヨセフについてはその血統が明らかにされているのに対し、彼女はヨセフのいいなずけとだけ記されているにすぎません。又、マリアの住んでいたガリラヤ地方のナザレの町は、ユダヤ人と異邦人の両方が住む国境地方であることから、都エルサレムの人々に、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とか、「メシアはガリラヤから出るだろうか」などと、まあそんなことは到底あり得ない、というような偏見の目で見られていました。加えて、ローマ帝国の統治下にある抑圧的状況の中で、人々はメシアが到来して、その解放の日を切に待望していたのであります。そしてマリアもそのような偏見や差別、又、自身の乏しさや貧しさからの救いと解放を祈り待ち望んでいたに違いありません。

そして天使ガブリエルがこのマリアのもとに神から遣わされた日、遂に旧約聖書の時代から預言者たちを通して語られてきた神のご計画が動きだすのです。
ミカ書5章に、「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。主は彼らを捨ておかれる。産婦が子を産むときまでは。彼らは安らかに住まう。彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である」。

本日の聖書は、世の中から排除され、除外され置き去りにされているそのような人々のうちに、「神の子」が住まわれ、救いと解放がもたらされてゆくという、神さま大いなる御業を指し示しています。
そう考えますと、このマリアの天使に尋ねた、「どうして、そのようなことがありえましょうか」との問いかけは、マリアの不信から出たものというよりも、このようないと小さき者、かの辺境の地において、神さまが偉大な業をなさろうとすることへの、畏れと感嘆の言葉だったのではないかとも考えられます。

天使はこのマリアの問いかけに対して次のように答えます。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
人の優れたことによるのではなく、地位や権力によるのでもなく、ただ神の霊によってこのことは成る、というのです。
その昔、旧約聖書の時代に、あらゆる国々の中から神さまがイスラエルをご自分の宝の
民としてお選びになられた時、主は次のようにおっしゃったと記されています。
申命記7章ですが。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」。その約束のゆえに選び立てられたのです。
それは、たとえ世にあって小さく弱く見なされていたとしても、神さまは、その愛のお約束のゆえに、価値あるものとしていつくしみ、顧みてくださるのです。
天使は「(もう)恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいたのだから」と。そして「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と天使はマリアに伝えます。原文ではここに「見よ」という言葉が入っているのです。「マリア見なさい、あなたは身ごもって男の子を産む」と。
マリアはもう自分が小さい者だからと畏れることはないのです。天使の「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」とのお言葉に、マリアもまたそれは神の力によるものとの信仰によって、顔を上げ、原文ではここも「見よ、わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と力強く宣言するのであります。
私どもも又、主に顧みられ、見出された者として、信仰をもって顔を上げ、生きてゆきたいものです。

さて、マリアの胎内に宿る子どもダビデ家のヨセフの子ではありません。それはこの地上の王を超えたメシアであり、世界の救い主なのです。
「いと高き方の力がマリアを包んだ」。この「力」はギリシャ語でデュナミス、それはダイナマイトの語源となっている言葉で、爆発するほどとてつもない影響を与える力であるという意味であります。それがマリアに出来事として臨んだのです。
イエスさまは人の目には小さな赤子の姿でこの地上においでになりますが。実にこの世界に爆発するほどとてつもない影響をお与えになりました。それは2千年以上もの時を経て、なお世界中に影響を与え続けています。それは真理を明らかにする力であり、救いの力であり、暗闇に光をもたらす希望の力です。隔ての壁を打ち崩し、平和を造り出し、愛によって働き、死の絶望に打ち勝つ力です。私どもクリスチャン一人ひとりも又、今やペンテコステに臨んだ聖霊の力に満たされ、その主と共に生きる者とされていることを覚えたいと思います。主イエスがおっしゃったように、私ども一人ひとりも世の光、地の塩なのです。

ところで、天使ガブリエルはマリアの「どうして、そのようなことがありえましょう」との言葉に対して、親類のエリサベトを引きあいに出し、彼女も「年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」と答えます。
「神にはできないことは何一つない。」
この言葉はマリアの信仰を強めました。「信仰は、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」です。証と信仰生活は必ず力を帯びてきます。なぜなら「神にできないことは一つもない」からです。
先程も触れましたがマリアは次のように表明します。「見よ、わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。

マリアがか細い女性であったかどうかは分かりませんが。10代半ばどこの家のものか分からないという女性がこのような力強い宣言をしたのです。それは彼女が強い人であったからではないでしょう。マリアのこれまでのあゆみは人々から軽んじられ、世のはしためという思いの中で小さくされて生きてきたのかも知れません。しかし「主がこの自分を選び、価値ある者として愛してくださっている」そのことを知って、マリアは「そんな過去の自分とは決別しました」とでも言うかのように、「見よ、わたしはこの世のはしためではなく、主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と高らかに宣言するのです。
この決断の先に待ちうけていた現実の問題は確かに厳しいものでもありました。マリアが引き受けていこうとしていることは、ごく若い一人の女性が負うにはあまりに大きな課題がありました。婚約者や社会からも何と言われるか、どんな仕打ちに遭うか分かりません。神さまのお言葉以外の保証は何もありません。彼女は目に見える保証によらず、唯、その信仰によって将来の出来事を受けとってゆくのです。
高齢のエリサベトがバプテスマのヨハネを宿すという告知も、このおとめマリアが救い主イエスを宿すという告知も、神のご計画は人の思いを遥かに超えており、それは人の計画とは異なるものであります。差し出された神のご計画が、自分の計画や願望と異なった時、マリアのように「お言葉どおり、この身に成りますように」となかなか言えないのが私ども人の弱さです。けれども、そこで私どもも又、マリアと同様、神から恵みをいただいた者、主イエスをとおして主の御救いに与り、愛され価値ある者とされているのです。そのことをいつも忘れずに思い起こしつつ、神のご計画の中をあゆむ者とされていきたいと願います。

さて、マリアは「エリサベトの受胎」の知らせを聞くと、急いで山里に向かい、山路を越えて彼女のいるユダの町へ行った、とあります。その道のりは、まさに祈りの旅路であったことでしょう。
今自分の身に起こっていることを理解し合えるのは、まさしくこのエリサベト唯一人でした。エリサベトは天使の予告どおり、子を宿してから6カ月が経っていました。
彼女はマリアの挨拶を聞いた時、聖霊に満たされて声高らかにマリアこう言います。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。
マリアはまだ自分に告知された胎内の子どもについてエリサベトに何も話していないのに、エリサベトはマリアが胎内に子どもを宿していること、又、それがエリサベトにとって「わたしの主」であること、さらに自分の胎内の子ヨハネも、それを知って喜びおどったことを告げます。

不思議なことに、マリアはただ挨拶を交わしただけなのに、エリサベトに会ったら聞いてみたいと彼女が思っていた以上のことを、エリサベトから知らされることになるのです。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。
そう主を信じ、主の御業がなることを受け入れていったマリアは、同じく主のご計画に導かれるエリサベトによって、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と、祝福の言葉を受けるのですね。
そしてこのエリサベトも又、出産までその身を隠す不安な中でのマリアの訪問に、どれ程励まされたことでありましょう。信仰の友、主にある交わり、共なる祈り、とりなし、信仰の言葉はお互いにとってどれ程力となることでしょう。そしてそこには豊かに聖霊がお働きくださるのです。

主の救いが現わされる日を待ち望み互いに祈るマリアとエリサベト。アドヴェントとは、まさにこのように神の恵みの出来事を待ち望む時なのです。解き放たれたい自分、変えられたい自分がいます。しかし、まさにその自分の貧しく、弱いところに聖霊は臨まれ、お働きになられるのです。主は今日もインマヌエル。共におられる方として信じる者と共に主のご計画とみ救いを実現しておられます。私どもも又、主に愛されている者として祝福の挨拶を互いに交わしつつ、来週の主のご降誕・クリスマスに備えてまいりましょう。

祈ります。
主なる神さま。マリアが聖霊によって救い主を宿し、迎えていく箇所から御言葉を戴き、感謝いたします。今日は日本の先行きを方向づける大切な国政選挙の日でもございます。世の力によってなに人のいのちも生活も切り捨てられることがありませんように。武力によらず平和を忍耐強く造り出していく社会となることができますように。神のお造りになったこの世界と自然のいとなみを、利権や搾取によって破壊することがありませんように。どうか主よ、あなたのみ救いと解放の業のためにあなたのご愛と御恵みによって私たちが祈り、働くことができますように。これらの願いを込めて、主の御名によって祈ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変えられる時

2014-12-07 13:26:32 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ1章5~25節      

10月からイザヤ書を丁寧に読んでまいりましたが、そこには罪深いイスラエルの民を一貫して愛し、救いへと導かれる主なる神さまの恵みが満ちていました。そしてその「喜びの約束」は、やがて全世界にもたらされる祝福であることを共におぼえました。それは私たちにとりまして、この「神の愛と救いの約束」が救い主イエス・キリストによってイスラエルの人々はもちろん、すべての人々のもとに時満ちて実現されている。その素晴らしい祝福をイザヤの預言に導かれながら、このクリスマスの月、ルカによる福音書から御言葉を聞いていきたいと思います。

さて、先程その救い主イエス・キリストの道備えをなしたバプテスマのヨハネの誕生にまつわる記事が読まれました。その19節で天使が祭司ザカリアにこう言っております。
「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話かけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」。この「喜ばしい知らせ」とはザカリアと妻エリサベトの夫婦に子供が与えられるという知らせでありますが。しかしそれは単にこの夫婦の喜びに留まるものではありません。聖書にございますとおり、「その子は多くの人を神のもとに立ち帰らせ、来るべき主、イエスの救いの時の道備えをする」という大きな使命をもって生まれてくるのです。

「主のご計画」
本日はそのバプテスマのヨハネの父となったザカリアのエピソードから、御言葉を味わっていきたいと思います。
まず聖書は、ザカリアが祭司であり、妻のエリサベトもまたアロンの家、つまりモーセの兄祭司アロンの血筋に生まれた女性ということで、二人とも幼い頃から神を愛し敬う心を培われてきたということでしょう。ここには「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と記されています。非の打ちどころないといえば、社会的地位や学歴があり教養豊かな人を指すことが多いでしょうが。しかし彼らは勿論そういった面も備えていたのでしょうが、神さまの前に正しく、偽りのない人であり、神と人に仕えていた人であったのでしょう。
ところで、この二人には長年に亘る切なる願いがありました。それは子どもです。聖書には「二人には子どもがなく、既に年をとっていた」とあります。当時のユダヤ社会においては、子どもがないことを「祝福されていない」とか「神から見放されている」などと考える心ない人たちがいたわけです。子どもを望んでいた二人にはそれがどんなにか寂しく、悔しく、時には肩身の狭い思いをしたでしょう。ザカリア夫妻は祭司の家の者という社会的立場もありましたから、そのような中で大きな葛藤を抱えて日々を送ってきたと想像することもできます。
さて、そのような折、「ザカリアは祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って、香をたくことになった」とあります。この神殿内で香をたくという務めはユダヤに2万人以上いたといわれる祭司にとってはあこがれであり、名誉なことでありますが、それに当るのはかなり難易度の高いものであったのです。まあ一生に一回当るか当らないか、そういう千載一遇の特権をザカリアは引き当てるのです。実はこのことは神さまのご計画のうちになされたことでありました。

しかし、ザカリアはどういう気持ちでこの当りの結果を聞いたのでしょうか。
恐らく自分の立場や現実を考えると単純に手放しで喜べるものではなく、その心境はきっと複雑であったことでしょう。
後で明らかになりますが、神さまはそんなザカリアとエリサベトをヨハネの両親として選ばれヨハネを育む重要な役割を託されたのであったのです。

「祈り、愛」
さて、その日が訪れザカリアは聖所で香をたきます。彼がそこで何を祈っていたのかについては分かりませんが、恐らくイスラエルとその民の守りと祝福を祈ったのではないでしょうか。ローマ帝国の圧政からの解放をイザヤが預言した救いの日の到来と重ねて祈っていたのではないでしょうか。しかしその祈りは又、ザカリア一人の祈りではなく、聖書は「ザカリアが聖所で香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた」とありますように、それは多くのユダヤ民衆の願いであったのです。そういう執り成し、祈り合いによる関係がしっかりと築かれていたのです。
私たちは祈りを一人で捧げていると思いますが、見えませんが背後にあって自分のために執り成し祈ってくださっている方々が必ずいらっしゃいます。それがキリストの教会である所以ですが。教会はその意義があるのではなく、主イエスが言われたように「互いに愛し合い、足を洗い合う(祈り執り成し合う)ところにその存在意義があるのです。

「あなたの祈りは聞き入れられた」
聖書に戻りますが。
ザカリアが聖所で香をたいていますと、主の天使が現れ、不安と恐怖の念に襲われた彼にこう言います。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。そこ子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」。
ここで天使は二つのことを告知します。
一つは、ザカリアと妻エリサベトに子が与えられる、という喜びと楽しみであります。
けれどもそれだけではありません。その子の誕生は多くの人にとっても喜びとなる、というのです。ここが一つの大事なポイントだと思うのですね。神さまの祝福というのは、受ける本人だけに決して留まらないのです。

天使の告知の二つ目は、「その幼子にヨハネと名付けなさい」というものです。
ヨハネという名前は「主はいつくしみ深い」という意味があり、名は体を表すと言われますように、彼は16節「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせ、父なる神の心をその子であるイスラエルに向けさせ、逆らう者に正しい分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」という使命をもって生まれてくるのです。
その御業はまさしく父なる神のいつくしみそのものです。祝福の源は「神さまのいつくしみ」。それは豊かな拡がりをもって人々に分ち合われてゆくのです。

さて、ザカリアに話を戻しますが。彼は天使より「あなたの願い(祈り)は聞き入れられた」という言葉を聞くのでありますが。彼にとってそれは必ずしもよき知らせとは聞こえなかったようです。彼は天使に「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言っています。
ザカリアは年老いて、もはや子どもを欲していたことが過去の事となっていました。確かに心の願いは変りません。けれどももう口に出して祈ることはありません。現実とどこかで折り合いをつけねばと考えていたような折、唐突に「あなたの願いは聞き入れられた」と言われても、ザカリアは戸惑うばかりだったに違いありません。

そんなザカリアに天使は次のように語ります。
「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。

主イエスは「あなたは見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」とおっしゃいましたが。ザカリアは、直接神が語りかけておられるにも拘わらず、それを自分に実現することして聞き、受け入れることが難しかったのです。むろんこの状況は特殊ともいえるかも知れません。けれども私たちはどうでしょうか。「あなたの罪はイエス・キリストによってすべて赦されました。あなたは救われ神の子とされました。永遠のいのちの中に入れられました」との福音。受け入れる人には、たとえそれがどんな人でも無償で与えられるこの神の祝福を、しかし残念なことに多くの人が受け取ろうとしないのです。それは心の中に様々な考えや思いがひしめき合っているからです。

「信じる者へ変えられる時」
聖書は「ザカリアは聖所からやっと出てきたけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった」と伝えます。

ひしめく言葉を口にすればつぶやきになり、不信の言葉になったかも知れません。沈黙せざるを得ない状況の中でこそ、ザカリアは7日の務めの間様々なことを静かに思い巡らすことが出来たでしょう。旧約の預言の言葉。神のあわれみと約束。天使の知らせ。民の救い。そして妻エリサベトの思い。その沈黙の中で心を澄ませて神さまの御心を受けとっていったのではないでしょうか。
この「ザカリア」という名前ですけれども。それは「神は忘れない」「神は覚えている」との意味があるそうです。ザカリアはその願いがどんなに祈っても叶わないということで本当に悩み苦しみ、もはやその現実を受け入れる以外ないような状況の中で、彼はどこか心のうちに「自分は神に忘れられているのではないのか」「神は私を覚えては下さらないのか」という思いに苛まれ続けていたのではないでしょうか。けれども、人の思いの何たるかを知っておられる神は、その心の願いを、実は私たちが祈る前からご存じなのであります。ザカリアは天使ガブリエルの告知、そして神が与えられた沈黙の中で変えられてゆきます。「神は忘れない」「神は覚えておられる」。どんな状況の中でも。そう、神に信頼してゆく者へとザカリアはその名の示すとおりの者へと変えられるのです。

今日のこの箇所から「祈り合うこと」「信じること」「祈りは聞かれていること」についてメッセージを聞いてまいりました。その根幹のところには、熱しやすく冷めやすい信仰の弱い私たち、躓きやすい私たちを見放すことなく御目を注ぎ、「あなたを忘れない」「あなたを見捨てない」と励まし続け、共に歩んでいてくださる主がおられるということです。今日、主がザカリアにお示しになられたように心新たに宣言いたしましょう。「神はわたしを忘れてはおられません」「神はわたしを覚えておられます」。アドヴェントのこの時期、今日の御言葉を杖に、私たちも又、主の大いなるご計画の中へあゆみ出してまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリスマス・ゴスペルコンサート

2014-12-03 17:21:22 | イベント


~Hanna 魂(ソウル)を代弁して伝え癒すライブ~

出演:文屋範奈(Hanna)
Hanna(vo),宮 詠子(pf)

日程:2014年12月21日(日)
開場:13:30
開演:14:00~15:30
会場:日本バプテスト大阪教会
住所:大阪市天王寺区茶臼山町1番17号
会場は駐車場がありませんので、公共の交通機関でお越しください。
参加費:無料 ※自由献金あり(東日本大震災現地被災地支援として全額捧げます)


プロフィール

文屋範奈(ぶんや・はんな)
日本を代表するゴスペル・クイーン。大阪のクリスチャンファミリーに生まれ、16歳で単身渡米。ジョージワシントン大学大学院安全保障学部卒業。病気をきっかけに世界平和に加え「心の平和」を考える。幼少から親しんだゴスペル音楽に救われシンガーに転身。国内外のライブ活動、キリスト教会での奉仕、学校公演やゴスペルの歴史と歌を交えた人権や男女共同参画の講習を行う。近畿大学で英語講師や国際関係コメンテーターとしてラジオ&TVに出演。2015年3月にはNYカーネギーホールでのコンサートに出演予定。


宮 詠子(ピアノ伴奏)
大阪芸術大学演奏学科卒業。 4歳よりクラシックを学び、音楽大学では声楽オペラを専攻しながら、ホテル、レストランなどでピアノ弾き語りを始める。イベント、パーティー、結婚披露宴など、ベースデュオ、トリオ、カルテットなどで出演。学校公演、ジャズビックバンドに参加。ジャズライブ、病院や福祉施設などのサロンコンサートで出演。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする