日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

帰るべき家あり

2015-02-22 16:23:55 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ15章11~32節 

今日は受難節(レント)の最初の主日礼拝となります。主イエスの十字架の受難と死を心に留めつつ、4月5日の復活祭・イースター礼拝に備えてあゆんでいきたいと思います。
先週は礼拝後ここで連合壮年会講演と総会があり、月曜には連合牧師研修会で、白浜の三段壁で自殺を水際で防ぎ、保護して受入れるまでの活動をされている藤藪庸一牧師の貴重な講演をお聞きしました。又、水曜祈祷会をはさんで木曜には関西地方連合の役員会、そして古賀教会の金子敬牧師の講演による連合教育信徒研修会と、大阪教会を会場にした諸集会が目白押しに開催されました。会場教会としてこのように用いて頂けるというのは、本当に会堂を建て替えた意義があったとつくづく思いますね。これかたも益々主に用いて頂き、連合や連盟との信徒の絆をつなげる一助になる事を願うものです。
季節は春に向かっての三寒四温とはいえまだ寒さの厳しい日々が続いております。1月から始りました路上生活をされている方々への越冬夜回活動もいよいよ今週金曜日のあと1回を残すことになりました。この日は静岡県にあるルーテル教会の施設「デンマーク牧場」の少年少女十数人が参加合流しての夜回りになると伺っています。どうか苦境に立たされている方々をおぼえ、お祈りください。

さて、先々週は「善きサマリア人」のたとえ、先週は「愚かな金持ち」のたとえと、主イエスのたとえ話を読んできましたが。本日もまたルカ15章のいわゆる「放蕩息子」のたとえから御言葉を聞いていきたいと思います。
「ある人に息子が二人いた」。彼は二人の息子の父親であり、多くの財産を所有する人でありました。ところがその弟の方が、父親が生きているというのに、将来自分がもらえると予想される財産を、今欲しいと言い出すのです。父親がまだまだ元気でいるのに財産を分けてもらいたいとはとんでもないと思いますけれども。まあ、なぜこの息子がそう言いだしたのか分かりませんが、自分一人で立派に生きていけると息がっていたのか。あるいは、誰からも拘束されない気ままな人生を送りたかったのかも知れません。けれども、その弟息子が自分一人でいきるための資金は、自分自身で稼いだものではなく、不当に要求した父親の財産であったのですね。まあそのようなどら息子を持つこの父親でありますが、何とこの父親はその弟息子の不当な要求に対して、「財産を二人に分けてやった」というのですね。何という親ばかでしょうか。この父親は弟息子だけに財産を分け与えたのではなく、兄息子にも同様に分けてやったのですね。もはや気前がよいというレベルを超えて非常識なくらいです。
しかしそこには、このたとえ話の中心を貫いているメッセージ(大前提)が示されているのです。
それは、この父親がこれほど惜しみなく与え尽くすほど、2人の息子をそれぞれに愛してやまないということです。弟息子がかわいいから、心配だから彼だけにというのではなく、財産を要求していない兄息子にもそれを与えたように、この父親にとってはどちらも惜しみなく愛してやまないかけがえのない息子たちなのですね。

さて、父親から財産を分けてもらった弟息子のその後についてですが。彼は何と父から譲りうけた財産の全部をお金にかえてしまい、遠い父の目の届かない国へ旅立ち、そこで放蕩の限りをつくして、そのお金を無駄使いしてしまうのです。そして何もかも使い果たしてしまったそのような時に、追い打ちをかけるように飢饉が起こり、彼は食べる物にも困り始め、結局、彼は異邦人のある豚を飼う主人のもとに身を寄せることになります。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物とされていたので、飼ったりその肉を食べることはありません。が、彼はそういうユダヤの人々が忌み嫌うところのその家に身をおく以外ないような状況に追い込まれるのです。しかも彼は極度の飢えから、豚の餌さえも食べたいほどであったのですが、何とそれさえ分けてくれる人がいないという、どん底のような惨めな目に遭うのです。

17節、「そこで、彼は我に返って言った」。彼はそのような状況になって初めて「はっ」と我に返るのですね。彼は肉体的に飢え死にしそうな状態でしたが、それは単に肉体の飢え死にだけでなく、魂の飢え渇きを自覚するのです。「いったい自分はこうなるまで何をしていたんだ」「何と愚かなことをしたんだろう」。そうして父の家を思い出すのであります。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」
 
そして、彼はそこをたち、父親のもとに向かいます。そこにはきっと意気揚々と出て行った時の面影もなく、弱り、やせ細り、身なりもボロボロだったのではないでしょうか。ところが、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」とあります。
 父親は息子のやせ細り変りはてた姿を見て、これは単に可哀そうに思ったとか、哀れんだというのではありません。ここで、息子を見て「憐れに」思ったというのは、腸がちぎれんばかりの思いという原語の意味です。父親はまさに「断腸の思いに駆られ」走り寄って息子の首を抱き、接吻するのです。この父親はどれ程息子を愛しているか、と思うのでありますが。イエスさまはまさしく、ここに父なる神ご自身のお姿をお示しになっているのであります。父なる神さまは、これ程までにさまよい出た一人の人のその魂を愛しく思い、その魂が立ち返ることを待ち望んでおられる、ということなのですね。
そこで、息子は父に対して心に決めていた言葉を口にします。「お父さん、もう息子と呼ばれる資格はありません」。実はここに「雇い人の一人にして下さい」という言葉が入るはずでした。しかし息子がそれを口にする前に父親は僕たちに、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう」と言うのです。
(岩波訳聖書)24節「なぜなら、私のこの息子は死んでいたのにまた生き返った。失われていたのに、見つかったのだ」と言うのですね。
 もう息子と呼ばれる資格はない。雇い人(奴隷)の一人にしてくださいと息子は思うのでありますが、この父親にとってはたとえどんな状況にあったとしても、変わることのない息子なのです。息子が奴隷のような者になることを決して望まれないのです。
棄てるように家を出て行き財産を食いつぶされ、周囲には恥をかかされたあげくボロボロになって帰って来た息子を、世間一般の考えであれば、そんなもん関係ない。まあ奴隷となっていたのなら理解できますが。しかし、その彼を奴隷としてではなく息子として無条件に受け入れ、その喜びを最大限に表すこの親の姿。それはまさに父なる神さまの愛を表しています。この罪を犯した息子を赦し、受け入れたという背後には、父なる神さまの大きく尊い自己犠牲があります。
私たちはどうでしょうか。かつては父なる神さまの愛を知らず、思うままに生きる者ではなかったでしょうか。しかし神はそんな私を愛し、無条件で受け入れて最大の愛、犠牲を払われたのです。そうです、御独り子のイエス・キリストの十字架の痛みと苦しみ、そして悲惨な死という大きな代価を払って私の罪を贖い、ゆるし、子として受入れて下さったのですね。「この息子は死んでいたのにまた生き返った。失われていたのに見つかった」。今こうして主によって「新しい命」と「神の国の幸い」とに与らせて戴いていることを心から感謝するものです。

たとえの後半に移りますが、そこは兄息子と父親に焦点が向けられています。
兄は畑で変ることなく労働に勤しんでおりました。弟は父から財産をもらうと出て行きましたが、兄は父から財産をもらった後も、忠実に父の家に仕えて来たのです。そこにはユダヤの民が様々な歴史的な困難な中でも信仰を守り、神の律法を守るよう努めてきた背景が読み取れます。そしてそれは又、その民を指導してきた祭司や律法学者たちの姿にも重ねられています。
兄息子は放蕩のあげくに帰ってきた弟のために催されているお祭り騒ぎを知った時、怒って父の家に入ろうとはしませんでした。彼はこの父に対して、「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会するために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」と怒りをぶちまけます。
世間の常識で言えば、この兄の抗議というのはもっともな気もいたします。この兄は父の家でひたすら仕え、従ってきたのです。それだからこそ、「何であんな放蕩の息子のために。不公平だ」と激しい怒りが込み上げてきたのですね。

すると、父親は兄息子を優しく諭すように言われます。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。失われていたのに、見つかったのだ」。

父親は兄息子に、三つのこと言います。
一つは、「あなたはいつもわたしと一緒にいる」。
確かにそうですね。兄はいつも父親と一緒でした。けれども彼はその父親の愛情の深さになかなか気づくことができません。実際にはそいうものかも知れません。身近にいる時の方がなかなか気づくことができないのが親の愛情なのかも知れません。
二つ目は「わたしのものは全部あなたのものだ」。
兄は「わたしのためには子山羊一匹すらくれなかった」と言うのですが。父親はちゃんとこの兄にも財産を分け与えているんですね。彼はその大きく尊い恵みに気づいていない。心が鈍くなっていたのです。
そして父親が言った三つ目は、「あなたのあの弟は死んでいたのに生き返った。失われていたのに、見つかったのだ」。
父親が「あなたのあの弟」と言ったのは、兄が弟のことを「自分の弟」とはいわず、「あなたのあの息子」と他人のように呼んだからです。そんな兄息子に父は「あなたの弟は死んでいたのに生き返った。失われていたのに見つかったのだ」と諭すのであります。

そもそもイエスさまがこのたとえ話をなさったのは、15章の冒頭にありますように、で「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」という事態に対して、イエスさまは「見失った羊」のたとえ、続く「失くした銀貨」のたとえ、そして今日のたとえ話をなさったのですね。

イエスさまはこれらのたとえ話を通して、ファリサイ派の人々や律法学者たち常に主なる神のみもとにある存在と描きます。迷っていない九十九匹の羊、又、失われていない九枚の銀貨、また父の家にいる兄息子として描きます。その一方で、イエスさまは罪人といわれていた人たちや徴税人を、迷い出た一匹の羊、失われた一枚の銀貨、父の家から遠く離れていた弟息子というかけがえのない存在として描きだされるのです。
そのメッセ―ジの中心は、ファリサイ人や律法学者然り、また徴税人や罪人と呼ばれていた人々然り、この両者に「父なる神さまが注ぎ込まれる愛」なのです。
そしてこのたとえ話のクライマックスは、羊飼いが100匹の中の迷い出た1匹を見つけ出すまで探し回り100匹の群れとして取り戻されたように。又10枚の銀貨の中の失われていた1枚を家じゅうで探し回って見つけ宝の10枚として取り戻されたように、父にとってかけがえのない2人の息子が、兄弟として共に父の家にある、ということを父なる神さまは切に願っておられるということであります。そこに言い尽せない大きな天の喜びと祝福が、この弟の帰りを祝う父の家に満ち溢れるというメッセージであります。
 この父なる神の愛によって受け入れられている私たちも又、御子イエスさまの十字架をとおして示しお与えくださった神さまの愛を分ち合うべく集うお互いを喜び合い、祝福に溢れる主イエスの救いの証しの教会とされてまいりましょう。

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「愚かな金持ち」のたとえ

2015-02-15 15:17:29 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ12章13~21節 

本日はルカ12章の主イエスがなさった「愚かな金持ち」のたとえ話より、御言葉を聞いていきたいと思います。

イエスさまの教えを聞くために集まってきた群衆の中の一人が、イエスさまに嘆願して言います。「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。
彼は遺産相続の問題で、兄が弟である自分に分け前をくれないから何とかしてほしいとイエスさまに訴えます。彼がそのように訴えたのは、当時の裁判や相続分配については、律法学者が主にそれを裁いていたからです。律法に基づき調停役を担っていたからです。

それに対してイエスさまは、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言われます。それは一見冷たい答えのように思えますけれども。イエスさまご自身はその律法学者のような者ではないと言われているのですね。この人の訴えや悩みを拒絶したというのではないのです。
現実に、遺産相続の問題は、ほんとうに深刻で根深いものがあります。肉親という近い間での争いとなりますから、複雑に問題が絡みあい、憎しみや恨み、陰湿さの様相も呈します。そういう中で、この人もいたたまれない思いに苦しみ、イエスさまに何とかしてほしいとその苦情を訴えたに違いありません。
イエスさまはこの人の苦悩や痛みをきっと察しておられたことでしょう。遺産の相続の分け前に与っていない事への怒りや悔しさ、「この先どう生きていけばいいのか」というほどの危機もあったかもしれません。それについてはイエスさまも勿論法的なかたちで律法学者に解決を仰ぐことを否定なさらなかったはずです。
ただイエスさまはここで、ご自身については律法学者のように解決する者ではないとおっしゃっているのです。否、イエスさまの眼はこの人のうちに迫っているもう一つの危機に注がれていました。それは金銭や財産にからむ貪欲によって神の前に豊かに生きることを見失いつつある「魂の問題」です。
イエスさまは、そこでこの人だけでなく、また周囲にいた弟子たちや群衆に対して、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」とおっしゃって、この「愚かな金持ち」のたとえ話をなさるのです。

ではここで、16節以降のたとえ話を少し丁寧に読んでいきたいと思いますが。
「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らした」とあります。

彼は予想もしなかった豊作で、大喜びし、ふっと気づきます。作物を保管する場所がない。それであれやこれやと思い巡らした結果、「やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまおう』」。
ちなみに、たとえの金持ちは一介の農夫ではなかったようです。大きな倉を新しく建替えることができたくらいですから、農夫らを雇っていた大地主であったことが想像できます。彼はあり余る程の物をすでに持っていたんですね。「そこに穀物や財産をみなしまい云々」とありますが、一つ残らず全部自分の物として倉にしまいこもうとしたところに、この人の貪欲さがよく表されていますよね。
そうしてしまいこんだら、「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と」。

イエスさまは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」とおっしゃいました。
ここからは、ではなぜそれに気をつけるべきか、ということについてのお話です。
ちょっとこの19節の箇所を口語訳の方で見てみたいと思います。週報の巻頭言に記しておりますが。読んでみますね。「そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」。おわかりですね、「魂」という言葉が出てまいります。魂はギリシャ語で「プシュケー」:生命とも訳すことができ、それは肉体的な生命とは異なる意味をもっており、「永遠の命」と結びつく言葉なのです。新共同訳ではその大事なことが省かれてしまっていますが。「魂の問題」こそが、今日の重要なテーマなのです。
この金持ちはここで、穀物や財産をしまいこめる大きな新しい倉を作れば、自分の「魂」も同様に保証される、保証することができると考えました。イエスさまはこのたとえをして、人間の「重大な危機」を伝えておられるのです。人は財産やおかれた状況によってあたかも自分の命、魂までも保証されているように思うことがあるものです。
それに対してイエスさまはきっぱりと、あり余るほどのものを持っていても、「人の命は財産や富によってどうすることもできない」とおっしゃっています。富や財産そのものが悪いというのではありません。肝心なのは、それをどんなに貪り蓄えていても、それでよい医療を受けたとしても、人の命、魂をどうすることもできはしないという真理です。

たとえはさらに続き、20節には直接「神」が出てまいります。
イエスさまはたとえ話を多くなさいましたが、その多くのたとえ話では神さまが「主人」や「父」として間接的にたとえられています。神さまが直接出て来るのはこのたとえだけです。つまり、このたとえ話、このメッセージには、神が直接登場なさるのでなければ言い表すことのできない重要なことが語られているということです。では、それは一体何でしょうか。
そこを読んでみましょう。20節(口語訳)「すると神が彼に言われた。『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるか』」。
ここに魂の主権者が一体「だれであるか」ということが語られています。この金持ちは、「さあ、自分の魂に言おう。安心せよ、飲め、食え、楽しめ」と自分で言うのでありますが。この魂を司る方は、ただ唯一天創造の主である神さまのみであります。どんなに財産を持っていても、たとえときの権力者であったとしても、何人もその神さまに替わることはできません。それは神さまの領域の事柄であります。自らの魂を保証したこの金持ちの魂は、その夜取り上げられるのであります。
イエスさまはこのエピソードの前に弟子たちに向けて次のように語っておられます。
12章4節以降です。「友人であるあなたがたに言っておく。体は殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。
箴言14章27節には「主を畏れることは命の源」とありますように、私たち一人ひとりを生かし、治めておられる主を知ること。人の魂に対する権威を唯一持っておられる方を畏れて生きること。それを抜きにして人は真の平安を得ることはできません。

今日のたとえ話は、人間の富や財産への執着や貪欲について戒めているお話ともいえるでしょう。私たちの心のうちには実に様々な欲の芽があるものです。しかしそれ自体が悪かというのではなく、たとえば食欲が無くなれば命に関わってくるように、本来は人が生きるために神さまが人に備えてくださる命の力ともいえるでしょう。
問題は、それが単なる命の欲求を超えて、むさぼりとなっていくことです。貪欲は満たされることを知りません。22節以降に語られるように、そこには「命」のことでとなっていますが。正確には「魂」です。人は「魂」を満たすためにいくら食べ物や着る物のことで思い煩っても、「魂」が満たされることはないというのですね。

金持ちは豊作による作物に満たされました。そのこと自体は神さまの祝福を表しています。けれども彼は、18節にあるように、その神さまの恵みと祝福である作物をはじめ、財産を、自分のための大きな倉を建てて、そこに「みなしまい」込んだ、というのです。
実はこの「みなしまい」込んでしまったところに、せっかくの神の恵みと祝福が封じ込められてしまい、台無しにしたのです。イエスさまのお言葉で言えば、「自分のために富んでも、神の前に豊かにならなかった」という非常に残念な結末を迎えることになるのですね。
お金や財産は現実の生活をしていくうえで必要なものでありましょう。ただ、その使い方や用い方によって、その人が何を大事にしているかという価値観がよく表れると言われます。
それはお金や財産に限らず、能力や時間、その命さえも、すべては主なる神さまがお一人おひとりにあずけられている賜物なのです。それをしまい込んで自分の安心、楽しみ、飲み食いだけのために使うのなら、実にむなしいことです。それらすべては、神の前に豊かに生きるために神さまが私たちに託してくださっているものなのですね。
 私たちキリスト者の何ものにもかえがたい財産。それは、主イエスさまの十字架の贖いによる「永遠の生命」「魂」、プシュケーであります。

今週水曜からレント:受難節に入りますが。私たちが神の前に豊かな者とされるために主イエスがその命さえお与え下さったことをおぼえつつ、お一人おひとりに与えられた賜物を自分の倉にしまい込まず、この地上にあって生かし用いて神の前に豊かな者とされるよう、今日もここから歩み出してまいりましょう。
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隣人となる

2015-02-08 14:59:26 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ10章25~37節 

1月から恒例の釜ヶ崎キリスト教協友会主催する「越冬夜回り」が始まり、今年も夜9時から行われる毎週金曜日の「喜望の家」担当の夜回りに参加していますが。先々週の夜回りでは、自動販売機に寄りかかって仰向けに倒れている人を見つけて、大丈夫ですか?と尋ねたところ、「左胸が痛い、救急車を呼んでほしい」と、苦しそうにおっしゃいますので、これは事態を急がねばと判断し、一緒に回っていた「喜望の家」のリーダーとすぐに救急車を呼んで、事なきを得ました。ご本人から「3、4時間前くらいからここに居たけれど、声をかけてくれる人がだれもいなかった」というのをお聞きして、もし気づかずにいたら、この凍てつくような寒さの中でどうなっていたことかと想像し、ぞっといたしました。先日、回復され退院なさったという報告を聞いてホッといたしましたが。この天王寺、恵美須町、阿倍野、西成周辺において、寒さの厳しい中、野宿生活を余儀なくされている方々が大勢おられることを心にとめ、祈りにおぼえてください。

本日はルカ10章の「善きサマリア人のたとえ」話より、「隣人となる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。実は2012年の3年前にも、この箇所から同様「隣人となる」と題して宣教をしていたことを後で気づきました。今日の宣教もその時と重なる点があるかとは存じますが、新たな気持ちで主の御声に耳を傾けたいと思います。

今回改めてこのテーマの中心がどこにあるのか繰り返し読み、黙想しながら準備をして思い至った事は、「神とのいのちの交わりを回復された人は、人と人との間にそのいのちの交わりが生きている」ことを、主イエスは「善きサマリア人のたとえ」を用いてお示しになられたのではないか、という事であります。

さて、ある律法の専門家がイエスさまに質問します。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。彼はイエスさまを試そうと問いかけたとあります。彼は律法の専門家であることを自負していたのでしょう。イエスさまはそんな彼に「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるか」と逆に問い返されます。
彼はすかさず「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」とそのように答えます。すると、イエスさまは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃるのです。永遠の命を得るためには、「それを実行しなさい」とおっしゃるのですね。「神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」との律法の精神を彼自身が生きて行くように促されるのです。
そこでこの律法の専門家は「はい」そのようにいたします、と答えたかといいますと、そうではありませんで、イエスさまに、「では、わたしの隣人とはだれですか」となおも聞き返してきます。ここに「彼は自分を正当化しようとして」と記されていますけれども、恐らく彼は小さい頃からユダヤ人としての宗教教育を厳格に教えられ育てられてきたのでありましょう。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」との戒めを繰り返し聞いてきたことでしょう。その彼が「では、わたしの隣人とはだれか」と尋ねるのには訳がありました。レビ記19章18節を開けてみましょう。旧約聖書p.192 「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。ここに「民の人々に」とあります。前の17節には「同胞」という言葉が出てきますね。今日のこの隣人の原語:プレシオンは「すぐそばの人、自分の身近に感じる人、兄弟姉妹、同じ民族、同信の友など」を表していますことから、彼には彼なりの「隣人」という枠組みや対象があり、それらの人々に対しては「そのように行ってきた」という自負があったのではないでしょうか。それで彼は、もうそんなことはとっくにやっていますよ、と言わんばかりに主イエスに「では、わたしの隣人とはだれですか」と逆に問い返したのでしょうね。
又、彼はイエスさまが罪人とされる人やユダヤ人にとって異邦人である人たちと関わりをもっているということで、その言動に疑問を感じていたのかも知れません。まあそのような彼の問いかけに答える形で、イエスさまは「善きサマリア人のたとえ話」をなさるのです。
サマリア人とその町は、かつてイスラエルが北王国と南王国とに分かれていた時代、サマリアは北イスラエル王国の主要都市でした。しかしその崩壊後、他民族がそこに侵入し、偶像礼拝や倫理的堕落などが生じました。以来、ダビデの子孫といわれるユダヤ人たちは、サマリア人を神の名を汚した堕落の民、異教徒などと呼び、罪人のように見なし、見下し、彼らとの交わりを絶ってきました。もともとはイスラエルという一つの民、同胞の民であったにも拘わらず、強い確執が続いていたのです。
ユダヤ人であったこの律法の専門家もまた、そういう歴史を教えられると同時に、敵意と対立、そして差別という見えない壁を意識しながら育ったのです。彼はサマリア人を忌み嫌っていたのです。当然彼にとってサマリア人は、「隣人」とは決して言い難いものであり、その対象とは成り得なかったのであります。

では、このたとえ話を少し丁寧に見ていきますと。
ここに出てくるエリコは、エルサレムから下ってヨルダン川の西側にあり、現在では道路も整備され、住宅が建ち並ぶパレスチナの人々の住む町となっていますが。イエスさまの時代はエリコといえば殺伐とした荒れ地で、そこを往来する旅人にとっては危険な道のりであり、追いはぎに襲われるようなこともあったのです。
たとえに出てくる追いはぎにあった人は、エルサレムからエリコに下っていたとありますことから、律法の専門家と同じユダヤ人であったと考えられます。被害に遭い半殺しの状態で路上に倒れているユダヤ人を前に、同胞の祭司、さらにレビ人が通りかかりますが、彼らはそれぞれ道の向こう側を通って行きます。彼らは共に神に仕える身でした。助けを必要とする同国人、又同信の隣人に手を差し伸べることは、わけても神に仕える者にとって律法に適う行動でした。「隣人を自分のように愛しなさい」との律法を知らないはずありません。何て無関心で無情なのか。偽善者なのか、と言いたくなるところですが。
けれども、追いはぎが行き倒れの旅人を装って人を襲うようなことも実際あったのです。又、仮に追いはぎにあった人が亡くなっていて、もし死体にでも触れたとなれば、これも律法によって祭司はある期間神殿での務めを行う資格を奪われることになり、その責任を果たす事が出来なくなります。つまり関わろうとした彼ら自身が身の危険や厄介に巻き込まれるかも知れなかったのです。どうでしょう、善を行う思いがあったとしても、果たしてリスクを冒してまでとことん関わることができるだろうか?それを自分のこととして考えた時、決して彼らを責めることはできない自分自身に気づかされるのです。

さて、そこに3人目の通行人、サマリア人が現れます。サマリア人については先に触れましたように、彼らはユダヤ人たちから汚れた者として忌み嫌われ、見下されていたのです。イエスさまはこのたとえ話にあえてその「サマリア人」を登場させ、事もあろうに瀕死の状態にあるユダヤ人を介抱し、助けたのは「このサマリア人であった」と語られるのです。
このたとえ話を聞いた律法の専門家は、どう思ったでしょう。半殺しに遭って倒れていたユダヤ人を同胞の神に仕える祭司やレビ人は見て見ぬふりをし、通り過ぎたという点はやはり気になったでしょうが、何よりも彼がひっかかった事は、「汚れた民」「罪人」と見下し、侮蔑してきたサマリア人が、傷つき倒れていたユダヤ人を助けたという点でしょう。
サマリア人はこの傷つき倒れたユダヤ人に対して、日頃から受けてきた差別や偏見を理由に、「ざまみろ、それみたものか」と憎悪の念をもって素通りしてもおかしくありませんでした。これがある意味世の中の見方です。「目には目を、歯に歯を」とあるように、自業自得だ、当然の報いだ、という感情がそうですし、一時前は「やられたらやり返す、倍返しだ」などという言葉が流行りましたが。実にそういった空気が今の世界、社会にも覆いかぶさり、蔓延しているように思えます。
けれどもこのサマリア人は、傷つき倒れたユダヤ人を見て、ただ「憐れに思った」と主イエスは語ります。この「憐れに思う」とは、単に「可哀そう」とか「お気のどくに」というような思いではなく、相手の痛みを「自分のはらわたが引き裂かれるような思いで強く感じる」という意味があります。このサマリア人は傷ついたその人を目にした時、自分自身心を痛め、何とかしなければと、荒れ野での危険を顧みず、さらに2日の労働に価する身銭を切って介抱するのです。そこに「隣人を自分のように愛しなさい」との律法が単に戒めとしてではなく、行いを伴った実体をもって現わされていくのですね。
この下りを読みながら、私は先週かの地で犠牲となったと報じられた後藤健二さんのことが思い浮かんでしょうがありませんでした。シリアをはじめ各国の紛争地に入り、戦争が激化する中でも、自らリスクを負いつつ、苦しみと悲しみのうちにおかれた人たちの現状を知ってほしいと最期まで世界に発信してくださった後藤さんです。
先日「脱・憎しみ合いの拡散」という新聞記事のコラムに目が留まりましたので少しご紹介します。「暴力や憎悪を鎮める知性。それは紛争地の日常をリポートしてきた次の後藤さんの言葉にも息づく「目を閉じて、じっと我慢。怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。・・・そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。」
レビ記19章18節の「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分を愛するように隣人を愛しなさい」というユダヤ教、イスラム教、キリスト教に共通するこの教えが、今ほんとうに世界中でおぼえられていくことを祈るばかりです。

実は今日の聖書のエピソードの1頁前のルカ9章51節で、イエスさまはサマリア人から歓迎されなかった、ということが記されているのですね。それは、イエスさまがエルサレムを目ざして進んでおられたからだとあることから、そこに民族の確執の根深さを知らされるわけですけれど。その時イエスさまのお弟子の2人が「主よ、お望みなら、天から火を降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言うと、イエスさまはその2人を戒められたとあります。イエスさまご自身そのような体験をなさる中でも、自ら復讐することなく、むしろ今日のたとえで、その確執、差別、偏見といった隔ての壁を乗り越える。また、それを取り除くそのような物語として語っておられるのですね。

さて、このたとえから想像しますに、追いはぎに襲われ瀕死の重傷を負ったこのユダヤ人にとって真に悲しく思えたのは、これまで自分の隣人と信じていた同胞であり、同信のユダヤの祭司やレビ人が、半殺しの目に遭って倒れていた自分を避けるように通り過ぎていった、ということでしょう。
その一方で、敵対するような者でありはずのサマリア人にこうも手厚く助けられることによって、今まで自分が持っていたサマリア人に対する偏見や差別意識、抱いていた憎悪や敵対心がきっと覆されたのではないでしょうか。追いはぎに遭ったユダヤ人の彼は、この出会いを通して、きっと「隣人とはだれか」を改めて知ったのではないでしょうか。むろんこれはたとえ話です。けれどもこの話を聞いて深く考えさせられたのは当のユダヤ人の律法学者であります。
 イエスさまはたとえ話を終えられた後で、この律法の専門家に尋ねます。
「あなたはこの三人の中で、だれが追剥に襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家は、「その人を助けた人です」と答えます。すると、イエスさまは彼に、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われるのです。

主イエスのこのたとえ話は、律法の専門家の「では、わたしの隣人とはだれですか」との問いかけに対してなさいました。彼は同族や同信の者を隣人の対象者として捉え、関わって生きてきました。けれども、主イエスはこのたとえ話をとおして、「隣人となってゆく道」をお示しになられるのです。だれも初めから隣人なのではないのです。隣人となってゆく。それが「行っておこなう」ということです。

私たちもかつては、世の力によって打ちのめされ、罪に滅ぶしかない者でありましたが。主イエスはその私たちに近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をし、介抱して下さった。価高い十字架の代価をもって、その滅びゆくしかない私たちを救い出して下さいました。ご自身が想像を絶する深く大きな犠牲を払って、私たちの隣人となってくださったのです。そこに私たちの命の交わりの原点がございます。主イエスが罪に滅ぶ以外にないような私たち一人ひとりの隣人となられた。ここに私たちの「隣人となる」愛の出発点がございます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」この御言葉をもって私たちもここからそれぞれの「隣人となる」あゆみへと遣わされてまいりましょう。
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赦されて愛する

2015-02-01 14:30:11 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ7:36-50 

イスラム国に人質となっていた後藤さんの解放のために祈り続けておりましたが、今朝は彼が殺害されたという衝撃のニュースを知り、怒りと憤りで言葉にならない思いです。今はただ悲しみに打ちひしがれれているご家族の方々に、主の御憐れみを祈るほかありません。


本日はルカ福音書7章36‐50節より御言葉を聞いていきたいと思います。
この箇所は、ファリサイ派のシモンという人物が自分の家にイエスさまを食事に招いた、その場で起こった出来事を伝えています。ファリサイ派はユダヤ教の一派で、旧約聖書の教えの律法を熱心に守り、行ってきたグループでした。彼らは特に安息日を守ること、又その安息日の規定を守ることや断食し祈ること、施しを行うことなどが、神の前で正しく、清い者のあかしであると考えていました。へブル語で「ファリサイ」とは「分離した者」という意味がございますが、彼らはその自分たちの信仰観に照らして、神の前に清く正しくない者から遠ざかり、分離するようにしていたのです。
ところが、そのファリサイ派のシモンがイエスさまを自分の家に招いて「一緒に食事をしてほしいと願った」というのです。イエスさまは徴税人や罪人と呼ばれる人々と一緒に食事をされ、ファリサイ派や律法学者たちから非難されていました。それがファリサイ派のシモンの方から「一緒に食事をしてほしいとイエスさまに願いでた」というのですね。シモンは民衆をひきつけるこのイエスという人がどのような考えを持っているのか議論してみたいと思ったのかも知れません。又、イエスさまのなさる業やその言葉に、「この人は預言者なのだろうか」と大変興味を持っていたようです。

さて、そのシモンとイエスさまの会食が始まって間もなく、一人の名もない女性がどこで聞きつけたのか、「イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」というのですね。聖書はこの女性について、ただ「一人の罪深い女」とだけ伝え、詳細については何も触れていません。が、恐らく「娼婦」のような立場であったと考えられます。
この光景を目の当たりにしたシモンはさて、どう思ったでしょうか。
「この人(イエス)がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。
シモンにしてみれば、突然自分の家に侵入し、勝手にこのようなことをされたのですから、苛立ちもあったでしょう。けれどもそれ以上にシモンにとってショックだったのは、「この女がだれで、どんな者か」と言う点です。イエスさまがそのことをご存じであれば、この「罪深い女」を追い払われるはずではないのか。しかし女を追い払われないそのイエスさまを見て、シモンはイエスさまに不信感を抱いたのです。「この人(イエス)がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。
けれども、イエスさまはシモンがそれを口にするまでもなく彼の心にあるその思いを見抜いておられたのです。シモンはけっぺきなまでに律法を厳守してきました。その点においてはイエスさまご自身も、マタイ福音書5章で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためでなく、完成するためである」とおっしゃっていますように、どちらも神の御教えを忠実に守り、行うことの重要性についての認識しは共通していたのであります。
ところが、この一人の「罪深い女」とされていた人の行動を通してシモンとイエスさまの根本的な違いが明らかにされるのです。シモンは、その罪深い女から自分を遠ざけておくこと、隔て分離し、関わらないことが自分の正しさ、清さを守る。それが神にある者の義の道だと思って生きていたのです。一方、イエスさまは、一人の人が神の前に立ち返って生きること、神の前に失われていたような人が、一人の尊い人間として見出されてゆく出来事の中に神の義を示されたのです。その最たるものこそ、イエス・キリストの十字架の贖いの業です。
今日の礼拝の招詞でもローマ3章23節以降が読まれました。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。

この罪人とされて生きてきた女性はむろんまだ十字架の救いに与ったわけではありませんでしたが、イエスさまの分け隔てなく神の祝福を語られるその言葉と業に、まさにその救いを先取りするもの、多くの罪を帳消しにされた存在として次のたとえ話が語られていくのであります。
イエスさまは、シモンに「二人の負債者」の話をなさいました。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった」。
ちなみに1デナリオンはおよそ一日の労働の賃金にあたります。500デナリオンとは500日分の労働によらなければ返済することの出来ない者ということです。イエスさまの「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」の問いに、シモンは迷いなく「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えます。

そこで、イエスさまはそのシモンに「この人を見ないか」と言われるんですね。
「シモン、あなたが罪深い者としか見ていなかったこの人をよく見ないか」。そこには涙で頬をぐちゃぐちゃにぬらした一人の女性がいました。それは、自分の負い目がどれほど多く重いものであるかを知っている人でした。ハッとするシモンにイエスさまは続けて、「シモン、わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足をあらう水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」とおっしゃいます。

イエスさまは自分の家の客であるのに、実際にイエスさまを手厚くもてなしたのは「この罪深い女」とされていた人の方であったではないか。彼女がそうしたのは、神の前に到底負いきれない罪の負い目を赦されたことを知る者であったからなのです。そのことに気づかされたシモンは、どう思ったでありましょう。

ちなみに、マタイ21章31節には「娼婦」についての言及があります。
イエスさまがユダヤの指導者であった祭司長や律法学者に対して次のようにおっしゃっています。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義を示したのに、あなたたちは信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ」。
「信ぜず」というのは神の罪人に対する救いを自らの事として受け入れなかったということです。彼らは自分の罪など徴税人や娼婦からすれば小さなものだ、そのように神の救いを拒んだのです。
今日の箇所の少し前の29節にも次のように記されています。
「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもそのバプテスマを受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」。

ユダヤの宗教的指導者たちやファリサイ派の人たちは、バプテスマのヨハネやイエスさまがお語りになられた「神の国とその義」を拒絶しますが、罪人と呼ばれて差別され、排除されていた人たちは、自らの負い目を知るがゆえに、「神の国とその義」を心から頼みとして救いの感謝にあふれる人生を歩み出すのです。
 
イエスさまはこう言われます。
「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。

多くを赦されていることを知る人。だからこそ感謝があふれ、あふれ、あふれ出て、そういう恵みに対する応答となって表れている、ということです。

私たちの礼拝もささげものも、奉仕も、献身も、又、主によって見出され、救われた人生のありとあらゆる業も、主イエスの贖いによって罪深い者が完全に赦されている。
そういう到底言葉では言い表すことできないような喜びと感謝から生まれるものであります。その感謝。それをお与え下さった主イエスへの愛こそがすべての源泉なのです。
最後にイエスさまはこの人に、「あなたの罪は赦された」と宣言され、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とおっしゃって、祝福し、日常の場へと送り出されます。
「安心して行きなさい」と言われて帰る彼女の帰るべき所とはどこなのでしょうか。
それは彼女の相変わらず厳しい現実、人々から見下されもするような日常です。しかし彼女はもはや以前のようではありません。「あなたの罪は赦されている」。主イエスの言葉はまさしく彼女の救いであり、その信仰が彼女を救い続けるのです。後にあのイエスさまの十字架を見守っていた女性たちの中に彼女もまた、いたのかも知れません。
悲しみの先には、自分と同じように、主イエスよる神のゆるしと愛によって見出され、受け入れられた人々と、その救いの恵みによって互いに仕え合い、愛し合うイエス・キリストの教会があり、そこにこそ彼女の拠りどころとなる「帰るべき場」があったのではないでしょうか。
今を生きる私たちもまた、真に主によって赦された者が集う共同体とされているのか、そのことが今日の聖書から問われているようにも思えます。主イエスの愛と恵みの尊さに心新たにされて、主による出会いとその御業に期待し、またここから歩み出していきたいと思います。

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