礼拝宣教 使徒言行録章17章16-34節
本日はパウロのアテネでの伝道について記された個所から、御言葉を聞いていきます。
アテネはギリシャ哲学の中心都市でありソクラテスやプラトンの出生地でした。当時のギリシャの首都コリントと並んで政治、文化が栄えていました。
哲学をはじめ、科学、天文学、医学、美学などの学者や大家が世界中から集まるところであったのです。しかしその先端の文明、文化が栄えるアテネの丘や街頭、家々にも偶像が祭られ、祭壇があり、大理石に刻んだ女神像や男女の像、動物の像などがアテネの市内外のいたるところに立ち並んでいたのです。当時アテネには3000の宗教施設があり、数えきれないほどの偶像があったようですが。
私の前任地、福岡県にある篠栗キリスト教会は新四国霊場の札所の只中に建っております。この町は春秋のシーズンになると白装束に杖を持ったお遍路姿の人びとでにぎわいます。又、アジア最大級の涅槃像が建造された南蔵院というお寺がありますが、そこのご住職が「ジャンボ宝くじ」の1等が当たり一躍有名になられ御利益に与ろうという参拝者で大変にぎわったこともありました。教会はそのようなただ中に建っていましたので、教会堂の玄関に向かって拝む人、玄関先にお賽銭を置いていく人など様々おられました。
その後、私は2005年4月にこの日本バプテスト大阪教会に転任いたしました。教会のある天王寺も古くから多くの宗教施設が建ち並ぶ町です。商業地であり学校や予備校も多い中、聖徳太子ゆかりの四天王寺をはじめ、宗教問わずに納骨を受け入れておられる一心寺さん、お隣の金光教会さんはじめ、ほか様々なお寺や神社、諸宗教施設がたくさんございます。
かのアテネならずとも、現代社会のこの日本で、都会のど真ん中に建つオフィスビルなど様々な施設に「赤い鳥居」や「祠(ほこら)」があったりいたします。科学や文明がこれだけ進んだ社会の中でこういったものがあるというのはどこか不釣り合いのようにも思えます。が、そこには文明や科学がいくら進んだとしても、使徒パウロが言うように、「人間は創造主に造られた者として、本来の真に拝むべきお方を慕い求める存在である」ことを、それらは物語っています。
今日は使徒パウロが如何にそのようなアテネの人たちと向き合い、生きておられる真の神を伝えようとしていったのかに目を留めつつ、同様の社会に生きる私たちに向けられた御言葉のメッセージとして聞き取っていきたいと思います。
冒頭16節で、「パウロはアテネでシラスとテモテが来るのを待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した」と記されています。パウロにしてみれば、真の神は人間が作った偶像に留まるようなお方ではなく、自由に生きてお働きになるお方であるのに、人がそれら偶像を神のように崇拝の対象としていることに強い憤りをおぼえたのであります。
そこで血気盛んなパウロは、アテネのユダヤ会堂に向かい、ユダヤ人や神をあがめる人々と論じ合い、又広場では居合わせた人びとと毎日議論を交わします。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者とも討論しますが。「このおしゃべりは何を言いたいのだろうか」「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」などと言う者もいたようです。
そのパウロが「イエスと復活についての福音」について話したところ、それが「目新しい教え」に映った人びとはパウロをアレオパゴスの評議場に連れていきます。様々な学問の見聞を広げたような、又それなりの立場のある人びとを前にしたら、何とも萎縮しそうなものですが。パウロは怖じ恐れません。彼のアレオパゴスでの福音宣教はよく準備されたものであり、かつ大胆なものでありました。何より自分に出会ってくださった救い主、キリストを伝えずにいられません。
パウロはまずこう語ります。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。」
それはアテネの人びとに対して敵対的な立場をとるのでなく、又上から目線で優越的に教えるような態度でもなく、まず彼らの信仰心や世界観に一定の理解を示すところから始まります。それはかつて自分自身が生きておられる神を知らず、キリストとその信徒の迫害者であったその反省からの態度であったのかも知れません。パウロは最初から、「あなたは間違っている」と、一方通行にねじふせようとはせず、相手が心閉ざすことがないよう配慮しつつ話します。
このパウロの演説を読むと、確かに彼は多くの偶像を見て憤慨します。しかしそれはアテネの人たちに直接向けられたものではないことが分かります。アテネの人たちは信仰篤く、神を畏れ敬う心を持っている。が、その方向性が的外れであり、偶像という神ならざるものに囚われ、支配されている。その現状に激しい憤りをおぼえていたのであります。
そういった思いをもってパウロはアテネの人たちに語りかけます。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」
この「知られざる神に」と刻まれた祭壇とは、古代ギリシャ作家によればこうあります。「BC600年頃、恐ろしい疫病がアテネを襲った。町の指導者たちは、彼らの祀る数多くの神々のうちいずれかが怒ってその疫病を起こしたのだと信じた。神々にいけにえがささげられたが、何の効力もなかった。その時エピメ二デスが立ちあがり、その原因は恐らくアテネの人々が知らない神を怒らせたために違いないと主張し、そのまだ「知られていない神」のための祭壇がアテネの至るところに築かれ、いけにえがささげられると、疫病は治まった」。そうして建てられたものだということです。
このような話を聞きますと、アテネの人たちの宗教心はパウロが認めたように確かに篤いものであったといえるでしょう。そのことを踏まえたうえでパウロは、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの」、それこそが「世界とその中の万物とを造られた神、その方です」と語ります。
パウロは続けてアテネの人たちの理解と大きく異なる点を次のように説明します。
「この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」
かのダビデの子ソロモンがエルサレムに初めて神殿を建てた時。その献堂式で「神は果たして地上にお住みになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください」(列王記上8章27-28節)と、祈りました。
教会もそうです。この教会堂に神が住んでおられるということではなく、神に招かれた者が御声に聞き、共に祈りをささげる中に神も共にお働きくださるのです。救いの神をたたえる私たちの賛美に神は臨んでくださるのです。
語られたとおり神は、「人の助けを必要とされるような方ではなく」、逆に真の神は私たちが生きるために必要なものをすべて備えてくださるお方であります。自然の空気や水も太陽の熱や雨も、命の糧も、その源は神であり、すべて神からの賜物です。その生ける神を知らず、手で造った偶像を神として拝むことが虚しいのです。現代にあっても神ならざるものを崇拝し、神がお与えになる恵みが損なわれています。如何に虚しく、神と人との関係性を損ねているといえるでしょう。
さらにパウロは語ります。「神はひとりの人から、あらゆる民族をつくり出して、地の全面に住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」
ひとりの人とは初めの人であり、これは人に神を求めさせるご計画だというのです。そして又、それは人が探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにという神の御心であるということです。
パウロは続けて、「実際、神は私たち一人一人から遠く離れておられません。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです」と、万人に対する神の招きを語ります。
実に、「知られざる神に」と刻んだ祭壇まで築いて、神を探し求めているアテネの人たち、あなたがたは神の子孫であって、探し求めさえすれば、真の神さまを見出すことができることができます。神はあなた方の近くにいます。そう熱く神の福音を語るのですね。
パウロはここで、アテネの人たちを前に、自分の持てる限りの信仰とその知識と、又彼らに馴染み深いギリシャの詩人の言葉を引用し、彼らの土俵にあがって神の存在を説き明かすのです。
彼は後に生ける神を信じ受け入れた信じ受け入れたコリントの信徒たちへの手紙にこう書き記しています。
「わたしはユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして幾人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(第一コリント9章)
パウロは主イエスの福音に共にあずかるため自分を神に明け渡し、キリストの愛を伝えあかしするのです。
そして、パウロはアテネの人たちに最後の訴えかけをします。
「神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させ、すべての人にその確証をお与えになったのです。」
このアテネでのパウロの福音伝道の成果について、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った、と記されています。
彼らはもうそれ以上は聞こうとはせず、外の目新しい話しをする者のところへ散って行きます。
「いずれまた」とはいつのことでしょう。それはいつか必ず来る日のことではありません。人は「いずれまた」と口にする時、すでに真理から顔を背けているのです。
パウロは適切に、「神は今はどこにいる人でも皆悔い改める(真の神を信じ、立ち帰る)ようにと命じておられます」と語りました。「今」というのは、イエス・キリストによって万人のための救いが成し遂げられた今なのです。それは、差し出された恵みを受ける今なのです。「いずれまた」とは、その機会を失ったということです。
その一方、ここには「信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシモ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた」と記されています。
このパウロの福音伝道は失敗したかのようにも見えるわけですが、決してそうではありません。町の人から信頼を得ていたアレオパゴスの議員と、一婦人と、他にも何人かが、パウロの説き明かしを通して、神の恵みと計画によって悔改め、福音を信じるに至ったのです。
このアテネでの伝道、さらにこの後のコリントでの伝道はパウロにとって厳しく、苦しい体験をすることになりますけれども、しかし着実に聖霊の導きによって神の福音の種があまたの地に蒔かれ、救われる人たちが起こされていくのであります。こうして教会小アジア一帯、そしてアテネを含むローマ全土へ、そしてヨーロッパ、さらに全世界に福音が拡がっていき、世々の時代、国境を越えて、私たちのもとにも神の福音が届けられているのです。
本日はパウロのアテネでの伝道からメッセージを聞いてきました。
パウロがこうして神の福音を語り得たのは、彼自身救いようのない罪深い者であるにも拘わらず、ただ神の恵みによって救われ、生かされているという体験をしていたからです。であればこそ、神の福音、救いはどのような立場の人にも与えられていると確信し、このように伝え続けることができたのでありましょう。
伝道とは本当に不思議な働きです。それは人間の計算や計画によるものではなく、神の御業なのです。神に用いられ、神に動かされて、神のご計画の中を生きる。そこに神の偉大な業が働いているのです。そこに私たちの真の平安と幸いがあります。
今日は「知らずに拝んでいるもの」という題をつけました。私たちを造り、今も生かしておられる神は、一人ひとりの魂のうちに、「わたしを探し求めさえすれば、見出すことが出来る」と、語りかけておられます。ここに救いがあります。「今」、「今日」という日にこの真の神のもとに立ち帰り、神の子として生きる者とされてまいりましょう。