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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の前に如何に生きるか

2016-08-28 22:57:34 | メッセージ
礼拝宣教 列王記上21章1~24節 

先週は北九州での全国壮年大会に参加でき感謝でした。教会の消滅という辛く悲しい体験をされた北九州地方連合では、地域共働プロジェクトを立ち上げ、教会間交流や祈りと連帯をして、互いに近隣教会のことに関心を寄せて関わりあうことをとても大切にされているお話を伺い、元気を頂きました。

本日は列王記上21章の「ナボトのぶどう畑」をめぐるエピーソードから「神の御前に如何に生きるか」と題し、御言葉を聴いていきたいと思います。
ここには4人の登場人物が出て参ります。まず農夫のナボト。彼はイズレエルの地におけるぶどう畑の所有者であります。それから北イスラエルの王アハブとその妻のイゼベル。そして預言者エリヤであります。
アハブ王はイスラエル人でしたが、先々週お話しましたように妻イゼベルはシドンの国王の娘でありました。彼女は異教のバアル宗教を持ち込み、アシュラ像を北イスラエルの都サマリヤに建てさせ、偶像崇拝を持ち込みます。それはイスラエルの人々にとって罠となりました。人々はいつの間にやら自分たちの救いの神と、バアルのご利益宗教とを混同してしまうようになったのです。それは私たちと関係がないとはいえないでしょう。この世の中にはあらゆる偶像、神なぬもの、それは人、もの、地位や名誉もそうです、自己もそうです、それを神のように奉る偶像崇拝があふれています。神の愛から引き離すそのような力や働きかけにNO!と、否といえる信仰を今日のナボトとそのエピソードから聞き取っていきたいと思います。

「ナボトのぶどう畑を巡る問題」
さて、アハブ王はサマリヤを夏の都にしていましたが、冬の宮廷をイズレエルに持っていたと言われています。そこで王は宮殿のそばにあったナボトのぶどう畑に目をけるのであります。
 王はナボトに、「お前のぶどう畑を譲ってくれ。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい」と話を持ちかけます。まあこういう要求の仕方は一般的に考えれば、王としては丁寧であるようにも思えるのですが。それに対してナボトは、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と返答します。
「嗣業の土地」とは「神の約束として与えられた地」であり、神から「代々に亘って守り治めるように託された土地」のことであります。
神の律法には、「嗣業の土地を売り渡すことはできない」と定められていました。神に託されているわけですから人の思いつきや判断でそれを売買するものではありません。それゆえナボトは、「たとえ王さまであろうと嗣業の土地を引き渡すことはできません」と、はっきりと断るのです。
それを聞いたアハブ王は、「ナボトの言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった」と記されています。まあ駄々子のようですが、ここには王ですら神の戒めに従わなければならない、ということが示されています。

「神の律法を知らなかったイゼベル」 
まあこうしてアハブ王は引き下がり事は終わったかに見えたのでありますが。ところが事態は王女イゼベルの介入によって一変いたします。
 王から事情を聴いたイゼベルは、「今イスラエルを支配しているのはあなたです。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」と王に言い放つのです。
イゼベルの郷里シドンでは王の権威は絶対的でしたので、おそらく彼女はこの事態に大変憤慨したのでしょう。彼女にしてみれば、イスラエルの律法などは固苦しい決まりに過ぎず、自分には関係のないことでした。ですから、「ナボトからぶどう畑を取り上げること」に対して何の抵抗もなかったのです。神ならざるいくつもの偶像を拝し、物質的繁栄を追い求めていくような国で育ったイゼベルには、すべてを治めたもう生ける神への畏れの念などありません。彼女は王の権力を笠に着て、無実のナボトを罪に陥れ、抹殺し、そのぶどう畑を奪い取るという恐ろしい策略を立て、実行したのです。
 アハブ王は全面には出てきませんが、彼はイゼベルの策略を後方から支持したという点において、同罪でありその罪を免れ得るものではありません。そうしてアハブ王はイゼベルによって、自らは直接関与することなくナボトのぶどう畑を手にします。イゼベルもまたアハブに借りを作り、彼の心を手中にしてコントロールしていくのです。生ける神を畏れないイゼベルの欲望は留まることを知りません。

「罪の裁き」
さて、「ナボトが死んだとの知らせを聞いたアハブ王は直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下っていきます。その時、主の言葉がエリヤに臨みます。「アハズ王に裁きを告げよ」と主はお命じになります。
エリヤは主の言葉どおりアハブ王に、「あなたは人を殺したうえに、その所有物を自分のものにしようとするのか」「犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる」と宣告するのであります。

主はすべてをご存じでした。アハズは「主の前に如何に生きたか」が問われたのです。
アハブ王はイスラエルの主を知り、律法の何たるかを知らされていながら、20節にあるように、「自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねた」のです。そのことが厳しく裁かれます。「イゼベルにそそのかされたのだ」といえばそうかも知れませんが、彼は主の目に悪とされるその恐ろしい策略が実行されることを知っていながら、そのれに身をゆだねて罪に手を染めたのは事実であります。それはまさに、十戒にある「殺してはならない」「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人のものを欲してはならない」との4つもの戒めをアハズ王は破ったということです。これに主は非常に厳しい裁きをもって臨まれます。それは又、アハブ王のみならず、その指示に従ったイスラエルの長老と貴族たちも同様です。主の目に悪とされることを知りながら身をゆだね、指示されるままに偽証を工作してナボトを死に至らせたのですから。神の律法は、偽りの証言をして冤罪を作り出すことに対して、厳格に戒め、それを禁じています。それを知っていながら主の目に悪とされることに長老たちや貴族らも身をゆだねたのです。それはたとえ一国の王であろうとも、神さまから託された嗣業の地を売り渡すことを拒んだこばナボトとは何と対照的であり、その罪は大変重いという事であります。

「神を畏れて生きる」
次にそのナボトについて見ていきましょう。
彼のぶどう畑の土地は、先祖から引き継がれたものでありました。そこには彼の先祖たちの眠るお墓があったかも知れません。けれどもそれ以前に、神から与えられた約束の地として代々に亘って守り続け、治めるよう託された土地であることを、彼は主の御前に果たすべき責任として認識してしました。彼はアハズ王に対して、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」ときっぱりと断りました。たとえ相手が王であろうとも売り渡すことはできない。ダメなものはダメ。ナボトの主への信仰はほんとうにまっすぐで骨太なものでした。

しかし、「主にかけてわたしにはできません」と断ったために、彼は嗣業の地だけでなく、自分の命までも失ってしまうことになりました。このナボトの最期は、この世的に人の目から見れば実に悲惨極まりないものであったといえましょう。彼は神に対して忠実に生きようとしたのに、「イスラエルの神と王を呪った」という根も葉もない濡れ衣を着せられ、石で打ち殺されたうえ、嗣業の地まで奪われたのですから。
 彼は明らかに無実であり、冤罪でした。ナボトがもし、主なる神でなくアハズ王を恐れて、「わたしの土地を譲りましょう」と言っていたのなら、彼は平穏無事であったでしょうし、その生活も補償されていたことでしょう。けれどもナボトはそのような生き方になびかず、唯、主なる神をこそ生けるお方であると信じ、従ったのです。
 王の権力に屈することなく、主の掟に忠実に生きたナボト。神に従い、生きようとするとき、世の力との戦いが生じます。それは時に孤独な戦いであります。ナボトはならず者らから不当に訴えられた時、誰からも擁護や弁護もされず、ひとり孤独に石で打ち殺されたのであります。 
それは、無実の主イエス・キリストが十字架につけられて殺された、そのお姿と重なります。イエス・キリストはユダヤの社会にあって、弱い立場におかれていた人々、差別や偏見を受け苦しんでいた人々、罪人とよばれていた人々、外国人や病の人々と、日夜出会われ、いやしと解放をもって神の国を宣べ伝えられました。   
しかしそのことが、いわゆる自分たちこそ正当派だと主張するユダヤ人たちから恨みと妬みを買い、イエスは神を冒涜したという偽りの証言によって不当に裁きの座に引き出されました。そしてユダヤ民衆までもがこぞって、「イエスを十字架につけろ」と叫び出し、遂にイエスさまは十字架につけられました。あのナボトがそうであったように、主イエスは父なる神さまの御心に従っていかれた、その結果、無残な最期を遂げられたのです。
しかしそれは、まさにそのことで人の罪が露わになり、その罪のため罪無き神の子が死なねばならなかったという、その神の義と愛によって、私たちがほんとうの悔い改めと救いとに導かれるためであったのですね。主の十字架を見上げるとき、私たちはナボトのように神に従う人の死がどれほど価高く尊いものであるかを知らされるものであります。

「久山ワークキャンプに参加して」
最後になりますが、今年も福岡県糟屋郡久山町にある重症心身障害児者施設・久山療育園のワークキャンプに参加してきました。このワークキャンプも今年で27回目となるそうですが、今年も小学生から80代の方々の老若男女100名を超える参加者がありました。
毎年ほんとうこういう素敵な出会いとゆたかな学びの場が提供されているのです。
プログラムは、実際に入所されている方々のことを知る体験学習やふれあいのとき。職員の方や保護者の方のお話を伺うことができます。又、福岡市内街頭に立って「街頭募金」のお手伝いもするのですが、これも多くの方々の善意と出会えてうれしい時間です。今回は久山療育園のためではなく熊本地震で被害に遭われた障害者施設への寄付を呼びかけ、小中学生たちに混ざって街頭に立ちました。そしてメインは療育園周辺の草刈ワークでありますが。これがかなり厳しい暑さとの戦いでもあるのですが、後にもたれるバーべキューを楽しみに汗を流します。
 今回それらのプログラムの中で特に印象に残ったのは、久山療育園に今年16歳になるお子さんを通所されているお母さんが次のようにお話しなさったことでした。「相模原市の障がい者施設で殺傷事件が起こりました。その加害者は、『役に立たない人は排除したほうがいい』という思いで犯行に及んだということですが。わたしの子どもも重い障がいを抱えて生まれました。子どもに手はかかる。思いを汲み、常に見るから手はかかる。けれど手がかかる、ただそれだけでしょうか?この子は生きるのに一生懸命。その子の存在によって私は支えられ、生かされています。私はこの子に「生まれてきてありがとう」って心からそう思い、感謝しています。人は一人じゃない。だれも支えられて生きている。犯行に及んだ加害者にはその気づきがないのではないか」と、実際の日常のご経験からこのような言葉をわたしたちにも発してくださったんですね。
 この事件は、何でも目に見える効率や成果、又経済原理によって、人の価値や評価までも決めてしまうような私たちの社会の病巣を映し出しているように思えます。役に立つかどうか。お金になるかどうか。そんな判断基準ばかりが横行するならこの世界は何と殺伐としたものでしょうか。
 久山療育園はミット レーベン「ともに生きる」という標語を掲げて今年で40年となりますが、わたしたちはだれひとり、一人じゃあ生きることはできない存在であるということを、この久山療育園の働きをとおしていつも教えられます。
 天地創造の記事の終わりにこうあります。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」神さまは人が「役に立たないから排除する」なんておっしゃっていません。人が神さまに成り代わっていのちに優劣をつけることは大きな罪です。私たちは神さまに愛されるために生まれ、ともに生きるために存在しています。
 今日はナボトのぶどう畑のエピソードから「神の前に如何に生きるか」を聞いてまいりました。神さまが私たちに託されている嗣業の地を私たちも又、受け継ぐものとして立てられています。
それはまさにイエス・キリストとその救いの福音を基とした神の国であります。父なる神の御心に聴き従い、隣人を自分のように愛する。主イエスはそこに「律法全体と預言者とがかかっている」おっしゃいました。ナボトの骨太の信仰に倣い、「神の前に如何に生きるか」そのことを、神が与えてくださる出会いや体験、関わりの中に見出す者とされてまいりましょう。祈ります。
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どっちつかずの民に

2016-08-14 15:27:56 | メッセージ
主日礼拝宣教  列王記上18章20~40節 (平和をおぼえて) 

本日は平和を覚えての礼拝として主に捧げています。
先ほどSさんから戦争体験を通しての貴重な証言・あかしを伺いました。
戦争を知らない世代が増えていくなかにあって、過去の過ちを繰り返さないために
も、実際に戦争をご体験された方からの貴重な証言をお聞きすることができ感謝します。

本日の聖書箇所は、バアルの預言者450人と主の預言者エリヤとの真の神を巡る対決の場面でありますが。アハブ王はエリヤの要請どおりバアルの預言者450人をカルメル山に集めました。
 そこでエリヤはすべての民に近づいて問いかけます。
「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」
 ところが「民はひと言も答えなかった」というのです。
 それはまさに、民がどっちつかずの状態であったということを表していました。

先週申しましたように、アハブ王は異国の王女イゼベルと政略結婚しました。それにより北イスラエルの地にイゼベルが持ち込んだバアルの神殿を建てて拝んだり、アシュラ像を建立したりとしていくうちにその民たちも惑わされて、主なる神から心が離れていったのです。人々は護国豊穣をもたらすとされるバアルの偶像礼拝をなし、主の目に悪とされることを行っていました。
 エリヤは王や民の心が神ならざるものに向かっていることが嘆かわしくてなりません。人々は、主なる神さまを忘れてはいないけれども、バアルも大切だと、まさにどっちつかずの宙ぶらりんの状態にあったのです。

明日8月15日この国の71回目の終戦記念日を迎えますが。
戦時中の教会は、クリスチャンであることと日本国民であることとの間で自らを問われました。そのような中で、天皇を現人神として拝することと、教会で主なる神を礼拝することとが混在していった近代の歴史があります。
それは、エリヤが民に問うた「どっちちかず」という問題性を今日のわたしたちの課題として示してします。
 戦時下という異常な状況の中でなされたことに、今のまがりなりにも平和のうちにいるわたしたちが安易に批判することはできませんが。そのような時代と過ちが二度と繰り返されることがないように平和の祈りと決意を新たにもつときとして覚えたいと願います。
8・15の平和祈祷集会(関西連合社会委員会主催)が大阪教会で行われます。こちらにもどうぞ足をお運びくださり、ともに祈りを合わせたいと願っております。

さて、エリヤは「どっちつかずに迷っている民」に対してある提案をします。
それは犠牲の裂かれた雄牛を、エリヤとバアルの預言者450人の双方の薪の上に火をつけず載せておいて、自たちの神の御名を呼んで火をもって答える神こそ神であるはずだ、というものでした。
 バアルの預言者たち450名は朝から真昼まで、祭壇の周りを廻りながらバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈るのですが、何の答えもありません。彼らが祭壇のまわりを飛び回って叫ぶ様子を見たエリヤが嘲笑って、「神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう」と挑発すると、バアルの預言者たちはさらに大声を張り上げ、剣や槍で体を傷つけ、血を流してまで必死にバアルの神に叫ぶのであります。それでも薪に火はつきません。
 一方主の預言者エリヤは、イスラエルのすべての民に向かって「わたしの近くに来なさい」と呼びかけます。民が彼の近くに来ると、エリヤはそこでまず何をなしたでしょうか。
 それは、バアルの神々を祀るために「壊された主の祭壇を、彼はすべての民の前で修復した」のです。このエリヤの行為は、神に罪を犯し荒廃していた民が自分たちに与えられた本来の祝福の源、「生ける救いの神の祭壇を築き直す」そのことを象徴的に表していました。
 
エリヤは31節以降にこのように行ったとあります。
「先祖ヤコブの子孫の部族の数に従って12の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築いた。そこに献げものの雄牛を薪の上において、4つの瓶の水を3回、合計これも12回という数ですが水を注いだ」のです。
 かつては同じ一つの民であった12の部族。それが北と南に分裂してしまったのですが。そのイスラエルの12部族の大本、その根源は、かつて囚われの奴隷状態から導き出された救いの神にある。その事がここに示されているように思えます。この光景はその場に集まった民のひとり一人に先祖より伝えられてきた「生ける主なる神」のみ恵みと慈しみ、又戒めをもしみじみと思い起こさせたのではないでしょうか。そういった彼らの魂といいますか、アイデンティティーの修復作業がここで丹念になされているということであります。

わたしたちクリスチャンも時に世の中の動きや力、誘惑や弱さの中でこの民のように主の救いの恵みを忘れ、どっちつかずのような状態になることはないでしょうか。
 そんな時、エリヤが主の祭壇を築き直したように、心の祭壇を築き直さなければならないでしょう。如何にわたしは主の憐れみと犠牲によって救い出され、どのように滅びから導き出されたかを思い起こす。わたしの救いの原点に立ち返ることの大切さを、ここのところは表しているんですね。
さらに、エリヤは主にこう祈ります。
 「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」
 ここでエリヤははっきりと民の先祖の名を連ね、「あなたがわたしたちの神であることをお示しください」と民の前で祈ります。
 主の預言者エリヤは、騒々しく自虐的なバアルの預言者たちとは対照的に、神によって与えられる知恵と霊性をもって、又、生ける主への確信をもって呼びかけ、祈るのであります。

そうしたところ、祭壇の上に主の火が降って、牛と薪は焼き尽くされたというのであります。
この主の火については、創世記19章で、主が偶像の町ソドムとゴモラの上に天から、硫黄の火を降らせ滅ぼされたとされる、その硫黄の火を示しているともいわれていますので、まあバアルの偶像礼拝における審きともとれますけれども。一方で、新約時代に生きるわたしたちは、あのペンテコステの炎、火を彷彿とさせます。贖いの犠牲の上に主の火が臨み、主がその栄光をあらわされた。それはわたしたちのための贖い捧げものとなられた主イエス・キリストによって聖霊の火が下り、今も注がれ続ける御霊の火です。焼き尽くされた犠牲の捧げものは、神の民に対する愛とご自身が情熱の神のであるということを物語っています。
それほどまでにご自身の民を、又、救いに与るわたしたちを愛しておられるということであります。
 さて、これを見たすべての民はひれ伏したとあります。このことをして人々のうちに聖なる主への畏れが生じたのです。彼らは「主こそ神です。主こそ神です」と繰り返し口にしました。イスラエルの民はそれぞれ、もはや世の権力や偶像によらず、又周りの人がしているからというのでもなく、自ら進んで「主こそ神、主こそ神です」と主体的にいのちの基となる神を告白して主を賛美します。
彼らは自分たちの依って立つ処、存在の源がアブラハム、イサク、ヤコブの神にあり、囚われの地より導き出した生ける主であることを再び見出し、主に立ち返る者となったのですね。
 エリヤが、「主よ、あなたが答えてくだされば、この民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう」と祈ったそのとおりになったのです。主が民の「心を元に返した」という出来事は、まさにエリヤがまず民たちとともに壊れた主の祭壇を入念に修復して、救いと恵みの原点を思い起こさせ、備えていったからではないでしょうか。
 これはわたしたちにとって日常的にいえば、一緒に奉仕したり、作業したり、集会を持ったりすることもそうですね。もちろん礼拝や祈りの場はその最たるものでありますが。そうやって主の前に祭壇を築き直す作業が、主体的な信仰をゆたかに育んでくれるのですね。

今回のエピソードを宗教間の対立という構図で読みますと、本来のメッセージは見えてきません。この対決は、どっちつかずの民が、本来の救いの神に立ち返って生きるための戦いです。エリヤは民に命じ、バアルの預言者を粛清しますが。それは、救いを妨げる自分の中に潜む敵、罪と徹底的に戦うことの必要性を示していると読むべきでしょう。

先週は、やもめとエリヤのお話でした。
そこでの大きなテーマは、「何を第一とするか」です。
エリヤは一握りの粉でパンを焼き、息子と死を待つばかりというやもめに、「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」と伝えます。
 エリヤを通して語られた主の御言葉の真意は、「まず、すべてを造り、すべてを治めておられる主なる神さまに、それを捧げなさい」ということです。エリヤは異教のやもめに生ける主なる神さまを指し示し、その「神に信頼をし、従って命を得なさい、きっとあなたがたを顧みてくださる」と、そう伝えたのです。
 エリヤはほんとうの神さまを知らないやもめに、生けるいのちの源なる神さまを示して、その神によって、いのちを得るよう促しました。やもめは神の言葉に全存在をかけて、「行ってエリヤの言葉どおりにした」のです。すると、「彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」のであります。まさに「何を第一としていくか。」「何によていのちを得るか」というメッセージが、実は今日の「戦い」のエピソードの中にも込められているのです。
 
今日わたしは生ける主を第一としているでしょうか。ヨハネ黙示録3章15節をとおして主はこのように警告しておられます。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」
 「神との交わり、人との関わり、生の全領域において、まず「神の国と神の義」を求めていくことが期待されています。わたしたちが心を定めてそのように生きていくところに、主の答えと祝福が用意されています。「主の祭壇を建て直す」ことが、どっちつかずのわたしたちが抱えるあらゆる問題の解決につながっていくのです。

祈りましょう。
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いのちの御言葉

2016-08-07 16:17:24 | メッセージ
主日礼拝式 宣教箇所 列王記上17章1~24節 

先週は青年の方々が礼拝のご奉仕を担ってくださり、主にお捧げすることができて感謝でした。又、目には見えませんがお花や受付、台所、お掃除と、世代を越えて共に教会を担い建てあげてゆくゆたかさと広がりを見せられたことも感謝でした。

さて、この8月は原爆投下と敗戦記念の月で、私たちは特に平和を覚えて祈る月間としています。10日ほど前になりますが、又、沖縄高江の米軍北部訓練所周辺で座り込み、軍事ヘリコプターの着陸帯で集落が取り囲まれることに反対の意思を示していた住民らが突如無理やりに排除され、運び出されるということがなされました。中には体調が悪くなり救急搬送された方もいらっしゃるようですが。辺野古でもキャンプシュアブでも、報道されていないのでその現状が見えません。このようなことが現実に起こっているのです。大阪に住む私たちは、原発事故の福島のこと、あの4月の大地震が起こった熊本のことさえも、いまやなかなか報道で伝えられてされていないので、どのような状況であるのかがわりません。痛みや苦しまれている方々の痛みと苦しみが除去されることこそ、私たちの平和につながっていくことになると信じます。イエスさまは「平和を実現する人たちは、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」とおっしゃいました。それは自分が何事もなければよいというのではなく、共に平和を実現する人たちの連帯が示されています。
来週の8月15日の終戦記念日には関西地方連合のおとなとこどもの平和祈祷集会がもたれます。祈り心をもってぜひご参加ください。今年もそれぞれの教会や連合の平和礼拝や集会を経て、また8月を迎えて、与えられた平和への思いを、祈りをひとことにして送ってください、というバプテスト連盟平和宣言委員会より「平和の祈り」の依頼がきております。どうぞ、それぞれのお祈りをお寄せくださると幸いです。よろしくお願いいたします。

「御言葉の飢饉」
さて、本日は列王記上17章から「いのちの御言葉」と題し、聖書から聞いていきます。ここに登場するエリヤという人物は、紀元前9世紀前半、今から約3000年前の北イスラエル王国の預言者でした。彼は決して平和とは言いがたい時代の中で、神のいのちの言葉を語りました。
 その当時の北王国を統治していたのはアハブ王でした。このアハブ王は政略結婚によりめとった異邦人王家妻の影響で神ならざる偶像、バアルの神殿と祭壇を築きそれに仕えました。彼は北イスラエルのこれまでの王の中のだれよりも主の目に悪とされることを行い、主の怒りを招くことを行った、と16章の末尾に記されているとおりです。
預言者エリヤはその王に対して、主の言葉を語ったのです。エリヤの人となりについてはギレアドの住民でテシュベル人であったということ以外、何も記されていません。
彼が誰の子で、どういう家系かということについて何も触れられていません。それはこのエリヤという人が、何か身分や地位のある人から、あるいは権力のある人から遣わされたのではなく、直接「神から遣わされた預言者」であるということを表しています。
そのアハブ王にとってどこの馬の骨か知れないようなエリヤですが、アハブ王の前にただ一人で出て行き、臆することなく主の言葉をまっすぐにこう伝えます。
 「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで(主の御言葉が臨むまで)数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
 それは、アハブが主に罪を犯し、その民にも背信を犯させていることから起こるのだから、それらの罪を悔い改めるように、との警告であったのです。
 それにしても、まあ一国の王様の前でよくぞ言ったものだ、すごい度胸、勇気がある人かと思いますけれども。きっとエリヤだって不安や恐れがなかったわけではないでしょう。唯そこには確固たる神の言葉を示すべき悔い改めの機会があったということです。エリヤは地上の王ではなく、すべてを司る生ける神こそ真に畏れるべきお方であるということを知っていたからこそ、そのように振舞うことができたのではないでしょうか。

ところがアハブ王は「いのちの言葉」を受けても、神に立ち返ろうとはしません。彼は神の言葉を軽んじたのです。
ところで、神が天を閉じ、雨も降らず、露も降りない、となりますと、これは一大事であります。飲み水だけでなく、野菜も作物も採れなくなり、飢餓が来ます。けれども、それが単なる干ばつとして起こるというふうに読むと、ほんとうに大切なことが理解できません。この預言者エリヤが語った言葉に注目してみましょう。彼は「わたしが告げるまで(神の御言葉が再び臨むまで)数年の間、霜も雨も降らない」と言っています。
 つまり大地に露も雨も降らないこの危機的状況は、単なる自然現象ではなく、「神の御言葉の飢饉」であるということです。
 神ならぬ偶像を拝み、目に見えることだけを優先して利をむさぼってきたアハブ王は、神の御言葉がないということの危機的状況が全く理解できません。
 私たちを取り巻くこの今の時代の現象や諸問題の背景にも、このように神の御言葉がないという飢饉とその危機的状況があるのではないでしょうか。いのちの御言葉に生かされる私たちはそのことを見抜き、主の御言葉を乞い求めて祈り続け、御言葉が途絶えることがないように努めべく招かれています。

「神のお計らいと養い」
さて、アハブ王に神の御言葉を告げたエリヤに危険が及んだのでしょうか。
主はエリヤに、「ここを(北イスラエル・サマリア)を去り、東に向かい、ヨルダンの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」というお告げがありました。
 このケリトの川というのは、「断ち切られた小川」という意味があるそうです。その川のほとりはまさにその名のとおり、人里離れ、分断されたような、寂しい地でありました。当然食べ物も無いようなところで、誰だってそんな処に行きたいとは思わない場所であったのです。
 しかしエリヤは直ちにその御言葉に聞き従い、行動に移します。
するとまさに、お告げどおり、「数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ」というのであります。それは御言葉に聞き従う者に約束された神の養いの祝福であります。

私どもも時に、ほんとうに神のみ心だと確信し歩み出したものの、まるでケリトの川のほとりのように、寄る辺なく孤独で、想像した以上に厳しい状況に留まる他ない時もあるかも知れません。けれどもほんとうに神の言葉に養われるのは、実にこういった時なんですね。送られて来た1枚の葉書に書かれた御言葉に力を得たり、何気なくかかってきたような信仰の友の電話に、希望を見出せた、というご経験があるのではないでしょうか。そんな時「ああ、主は私のことを覚えていてくださるんだなあ」と深い慰めと励ましを感じることでしょう。

ところで、烏が人間にパンや肉を運んでくるなんて何ともユニークです。天王寺周辺の烏といえば生ごみや残飯の入ったごみ袋を突いて物色し、辺りかまわず散らかしまくって去っていくという迷惑もの、嫌われものという印象があります。旧約聖書の中でも、烏は汚れた鳥として食べることが禁じられていたり、人の目を突き、荒れ果てたような地に住みつくことから嫌われ、不気味な鳥として見られていたのです。

そのような烏ですけども、実はイエスさまのお話にも登場します。
イエスさまは烏を引き合いに出しこうおっしゃいました。
「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる」(ルカ12章24節)
神は烏にも深いご配慮といつくしみをもっておられるのです。烏も神がお造りになられた神の作品であり、愛されるべき美しいもの、神の目からご覧になれば、つまらないものでも、存在価値のないものでもないとうことです。イエスさまは敢えて空を飛ぶ鳥の中から烏を選び、神ご自身の私たちに対する愛と配慮を教えてくださいました。今日の箇所では、神はその烏をお用いになってエリヤを養われたというのですね。
身も心も疲れ果て、不安の中にいたエリヤ。神の御言葉を伝えても理解されない虚しさと孤立無縁のやるせない状況にあったエリヤに、、嫌われもののカラスが寄り添うように日々食物をもって養った。何という神のお計いでしょうか。「神のなさることは、その時に適って美しい」という伝道の書の御言葉が思い起こされますが。
 私たちも行き詰まったように思える時、万策尽きたと思いあぐねるその時、ある意味もう失うものは何も無いとの思いに至った時、私たちはそこで下を向き続けるのか、主を仰いで一日一日を主に養われて生きるのか。そこで人生の質は大きく違ってまいります。私自身今日、明日の食べるもの、生活の必要がどうなるか、という時に、不思議と必要が満たされた、という経験を幾度となくいたしました。そのような時ほんとうに主は私のことを覚えていてくださるのだと大いに励まされたものです。
 主は今も生きておられます。烏を用いてエリヤを養われたように、時に適った御言葉と共に生きる必要を満たしてくださるお方なのです。

聖書には、「神のお計らいと養い」についてもう一つのエピソードが続きます。
ケリトの川のほとりでカラスに養われたエリヤでありましたしたが、やがてこの地方に雨が降らなくなり、川は枯れてしまい飲み水もなくなってしまいます。

そのとき主の言葉が再びエリヤに臨みます。
8節「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」。
今度もエリヤは主の言葉どおりに、立ってサレプタの町に行きます。この町は異教徒の地でありましたから、エリヤはそこに入ることに躊躇や戸惑いがあったと思われます。ある意味エリヤは御言葉に聴き従う信仰が試されたのではないでしょうか。しかし彼は主が言われたようにそこに入り、一人のやもめが薪を拾っているのを見つけると、「器に少々の水を持って来て、わたしに飲ませてください」と声をかけます。この時代薪を拾って生活していた人たちは非常に貧しかったということです。それをエリヤは知っていました。その服装から彼女がやもめであることもわかっていたのでしょう。エリヤは、この女性に「パンを一切れ、手に持って来てください」と願ったというのです。まあ、水を分けてくださいというのは許せるかも知れませんが、薪を拾っている貧しいやもめにパンを一切ください、というのはあまりに非常識といいますか、ずうずうしく思えます。

案の定このやもめは、「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしとわたしの息子の食べ物を作ってそれを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」と答えたというのです。
そこまで言われると、普通人間的に考えればそりゃあ最もで無理も無いことと、相手を思いやることを優先するのではないでしょうか。
ところが、エリヤはそこで引き下がらないのですね。エリヤは彼女に「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。」 そして、「主が雨を降らせるその日まで、ずっと壷の粉はつきることなく、瓶の油はなくならない」との主の御約束を伝えるのです。
すると、やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした、というのです。それは驚きではないでしょうか。今その粉でパンを作り、食べれば死を待つばかりの人が、このどこの誰とも分からない人の言葉どおりに、たとえ小さなパン菓子といってもそのような状況の中で作って持ってきたのです。主はエリヤを養われるのに、何も持たない、何も頼るものがないやもめをお用いになるのです。 それは、かえって神にすがる他ないような貧しい彼女だったがゆえに用いられた、といえるのかも知れません。逆に、これがゆたかで何不自由なく満たされて人であったなら、わずかな粉であっても祈りながら、神の言葉にかけて他人のためにパン菓子を作って持っていくことなど果たしてできたでしょうか。
イエスさまはおっしゃいました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」
彼女が主の御言葉に聞き従った時、「主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壷の粉はつきることなく、瓶の油もなくならなかった」と聖書は伝えます。
いのちの御言葉に聞き従っていく人のうえに、神さまのすばらしい御計らいと養いがあること、そこに証しがゆたかに立てられていくのですね。

「主に祈れる特権」
烏とエリヤ、やもめとエリヤのエピソードから、御言葉に生きる人に臨む主の御計らいと養いについてのメッセージを聞いてきましたが。この17章の最後には、やもめの息子が病気で亡くなるという悲しい出来事が起こります。これには思わず「なぜ、どうして」と言いたくなりますが。悲嘆にくれるやもめの思いはいかばかりであったでしょう。夫を亡くし女手1つで子を養い、その成長だけが彼女の希望と慰めであったのではないでしょうか。
彼女がエリヤに「神の人よ、あなたはわたしとどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と痛烈な言葉で訴えます。クリスチャンであっても、予期せぬことは起こります。
「聖書の言葉、あるいはイエス・キリストとわたしがどんなかかわりがあるのか」と思ったり、「あの罪のせいだろう」と後悔に責めさいなまれたり、「なぜ神はそのような仕打ちをなさるのか」と感情的になることがあるかも知れません。そしてそんな自分を情けなく思ってしまうものです。
 けれどもエリヤはそんな彼女を一言も責めたりしませんでした。エリヤは彼女の悲しみとその息子の遺体をその身に重ね、主に必死に訴え、「命を元に返してください」と取り成し祈るのです。すると、主はエリヤの声に耳を傾けて、その子の命を元にお返しになった、というのであります。
ここでのエリヤは預言者というよりも神と人との間を取り持ち、つないでゆく祭司のような働きをなしているようにも思えますが。私がここで何より心を動かされますのは、エリヤがやもめと同じように感情をあらわにして「あなたは私が身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらされるのですか」と、激しく主に訴えているということです。又死んだ子どもの身を自分の身に重ねて3度祈ったとあるように、その子の哀れな姿の中に自分を重ねて彼は主に必死に訴え祈るのですね。生と死を司っておられる主なる神さまを一心に信じていたがゆえに、激しいほどに主に強く訴えているその姿であります。
 主は、その信じるがゆえに激しく訴えるエリヤ祈りの声に耳を傾けてくださるのです。
祈りは心の中で祈っていれば主がすべてをご存知なのだから聞いてくださっている、と思われる方もおられるかも知れません。しかし主は何よりも私たちの心のうちにあるほんとうの思いを心開いて表すのを待っておられるのではないでしょうか。ストレートな飾りのないほんとうの思い。心のうちにあるうめきや叫びをまっすぐに神のまえにさらけ出し訴えることを待っておられる。そのことがここに伝えられています。
 私たち主を信じる者にとってのすばらしい特権は「祈り」です。
先週の信徒研修会の中で、今給黎先生が「教会も社会の一部であり、からだ性をもつがゆえに様々な問題や課題があるということを認識する必要がある」ということをおっしゃったんですが。同時に何より幸いなことに、人と人との関係修復が人間の力によってはできないものがあるとき、私たち主に生かされた者は、主に祈り、取り成され、又、祈り合う中で、主のいのち御言葉と聖霊の導きが人知を超えて働かれる。その生ける恵みを私たちは体験することができるということですね。主が生きてお働きになられていることを共に知り、励ましを受けていく。そのようなキリストにある証しと平安を私たちは体験していく機会を教会をはじめとする、あらゆる関係性のの中で与えられているということであります。

 故郷を追われ孤立無縁の中にあったエリヤは、烏に、そして異邦人のやもめに養われ、こうして命が取り戻されるという出来事を目の当たりにすることで、エリヤはさらに神のいのちの言葉を語る預言者としての復活を果たしていきます。
 一方、やもめはエリヤの激しい取り成しの祈りによって、息子の命が元に返ったことによって、主の言葉は真実です、といのち言葉なる神への信仰告白を表明します。眞の主との出会いを経験した彼女の人生も新たなものとされたことでしょう。

 私たちも、世の日々の生活の中で様々な出来事が起こっていきますけれども、私たちの信じる主は、生も死もすべてを治め、私たち一人ひとりの存在を喜び、その一人ひとりの必要をご存知です。私たちのうめきも、痛みも、嘆きもその身に引き受け、知っていてくださる主をどこまでも信頼し、そのいのちの言葉と祈りの武具を身につけて、歩みゆくものでありたいと願います。
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