宣教 列王記下19章1~20節
18章17節以降で、アッシリアの高官ラブ・シャケがユダの高官に対して、降伏するよう勧告します。28、29節「ラブ・シャケは立ってユダの言葉で大声で呼ばわり、こう言い放った。「大王、アッシリアの王の言葉を聞け。王はこう言われる。「ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない。31節「ヒゼキヤの言う事を聞くな。アッシリアの王がこう言われるからだ。「わたしと和を結び、降伏せよ。そうすればお前たちは皆、自分のぶどうといちじくの実を食べ、自分の井戸の水を飲むことができる。」32節「ヒゼキヤ王の言う事を聞くな。彼は、主は我々を救い出してくださる、と言って、お前たちを惑わしているのだ」。これをユダの民に聞こえるようにわざと大声でユダの言葉で話したというのですから、これらは降伏の勧告と言うよりも、ヒゼキヤ王を誹謗する挑発的なものであったのです。
ヒゼキヤ王はその挑発的な攻撃に対しどのように向き合ったでしょうか。
彼はそこで、その挑発にのってしまうということ、つまりそういう愚弄するような言葉に対して、同じようにやり返すことは敵の策に落ちる、心理戦に巻き込まれることだということを熟知していたのでしょう。予め高官たちに相手の巧みな心理戦に対して36節「答えてはならない」と戒めていたのです。ヒゼキヤ王の高官たちや民たちもまた、彼に聞き従い、どんなにひどい暴言や愚弄するような言葉がはかれても、36節「押し黙ってひと事も答えなかった」というのであります。
もしそこで、ヒゼキヤ王の高官たちやその民らがラブ・シャケの誘いの言葉に反撃し答えていたなら、敵の思うつぼ、恐らくすぐにでもアッシリア軍がエルサレムに攻めのぼり、ユダ王国は完全にアッシリアに侵略されていたかも知れません。ある意味このヒゼキヤの高官たちの王への忠実と忍耐によって、その最悪のシナリオは免れ得たということができたといえます。ともすれば感情的になり、怒りを露わにしてしまう。それが私たち人間の弱さであります。しかし、真の王である主は、私たちに如何にあるべきかをいつも示しておられます。私たちもまた、主への忠実さとその教えである愛と忍耐をもって、感情に振り回されるのではなく、主に従うことで真の勝利を勝ち取っていきたいと願うものです。
さて、19章冒頭ヒゼキヤ王は高官たちの報告を聞くと衣を裂き、あら布を身にまとって主の神殿に行ったとあります。彼は真っ先に主の神殿に行き、神の人、預言者イザヤのもとに遣いを送り、イザヤの助言と祈りを乞います。彼はイザヤに、「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない」と、その心境を吐露しています。ユダに臨みつつある大きな危機に打ち勝つだけの力がなくなっていることを嘆いたのです。そして、エルサレムに残された者たちが守られるように、執り成し、祈ってほしいとイザヤに求めます。ヒゼキヤ王にとって預言者イザヤの存在が如何に大きかったかということがわかります。このように祈り、執り成してくれる存在が身近にいることは、どんなにありがたく、心強いことであったでしょうか。私たちにとりましても、そういう祈りのネットワーク、支え合い、執り成し合う人の存在は本当に主からの賜わりものです。そのような方々の背後の執り成しがあって私たちは問題や難題に対処してゆく道が拓かれていくものです。
さて、預言者イザヤはヒゼキヤ王の訴えに対して、その家臣たちに次のことを伝えるように言います。6節、「主なる神はこう言われる。あなたはアッシリアの従者たちがわたし(主なる神)を冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼(アッシリアの王)の中に霊(怖れの霊)を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される」。
その後、アッシリアを取り巻く周辺事態が変わり、アッシリアの王は遣いを送って、今度は直にユダのヒゼキヤ王に対して降伏するように勧告します。このところでも巧みな心理戦が企てられてゆくのですが、先と違っていたのは、アッシリアの王がここで、ヒゼキヤ王についてではなく、主なる神を冒涜してヒゼキヤの動揺を誘ったということであります。ヒゼキヤはまさにイザヤの預言どおり「主なる神を冒涜する言葉を聞く」事になるのです。
このことは真に耐えがたいものであったに違いありません。
しかし、ここでヒゼキヤはイザヤの預言を握りしめ、真先に神殿に上ります。そして、アッシリア王の神を冒涜するその手紙を「主の前に広げ、主の前で祈った」のであります。彼はまず何はさておき、主の宮に向かい、「主に助けを祈り求めた」のであります。ここが本日の「ヒゼキヤの祈り」の重要なポイントであります。
主なる神を冒涜されたヒゼキヤ王は、それを自己の赴くままの感情に任せて、応戦したり、報復したりはしません。それは、巧みな心理戦にのって、エルサレムの都と残りの者たちに危害が及ぶことを知っていたからでありましょう。しかしそれよりも重要なことは、イザヤの預言による主からの御言葉、すなわち、「わたしを冒涜する言葉を聞いても恐れてはならない」というみ言葉によって「主が必ず立ちあがってくださる」という強い確信がヒゼキヤ王のうちに与えられていたからではないでしょうか。だから、まずヒゼキヤ王は主の前に出たのです。その主に訴え祈ったのであります。
15節以降のその祈りの言葉を読みますと、まず、イスラエルの神が地上の王国をすべ治める神であり、天地万物をお造りになった方である、とその信仰が告白されています。「主よ、耳を傾けて聞いて下さい。主よ、目を開いて御覧下さい。」ヒゼキヤ王の祈りは、この生ける主なる神に信頼し、幼子のように愚直なまでに主に訴えてゆく、求めてゆく信仰、祈りであります。さらに19節「わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください」と、このように祈られております。
そしてこのヒゼキヤ王の祈りが主に聞かれたと、預言者イザヤはヒゼキヤのもとに人を遣わすのであります。その後、イザヤの預言どおり「アッシリアはエルサレムに入ることなく滅び、センナケリブ王も殺害されてしまいました」。あの軍事力を誇るアッシリア帝国が、小さなユダのエルサレムを落とす事ができず、しかもエルサレムに入ることなく滅んでしまうという実に驚くべきことが起こるのであります。こうしてアッシリアの王は自ら蒔いた傲慢の種を刈り取っていくはめとなり、滅んでしまうのであります。
今日のこのヒゼキヤ王の祈りから、私たちは多くのことを学びとることができます。
聖書教育の少年少女科のところで心が留まった言葉がありましたのでご紹介いたします。「人間は、常に間違いを犯しますが、その時どうするかが大切です。ヒロシマに投下する原爆「エノラ・ゲイ」を載せた戦闘機に、出発の際に祈りを捧げた牧師は、「全能の父よ、敵に一撃を与えんとするこれらの者とあなたが共にいてくださるように。その飛行を擁護し、、、、戦争が早期に終結し、再び平和が地に戻りますように。飛行する者らを守り、無事にわれわれの元に帰還させてください」と祈ったと伝えられています。神に祈るとは、どういうことなのでしょうか。祈るとは、何を祈るべきなのでしょうか。」
本当に深く考えさせられるものであります。この問いかけに対し、今日の個所からそれぞれみ言葉を聞きとっていきましょう。
18章17節以降で、アッシリアの高官ラブ・シャケがユダの高官に対して、降伏するよう勧告します。28、29節「ラブ・シャケは立ってユダの言葉で大声で呼ばわり、こう言い放った。「大王、アッシリアの王の言葉を聞け。王はこう言われる。「ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない。31節「ヒゼキヤの言う事を聞くな。アッシリアの王がこう言われるからだ。「わたしと和を結び、降伏せよ。そうすればお前たちは皆、自分のぶどうといちじくの実を食べ、自分の井戸の水を飲むことができる。」32節「ヒゼキヤ王の言う事を聞くな。彼は、主は我々を救い出してくださる、と言って、お前たちを惑わしているのだ」。これをユダの民に聞こえるようにわざと大声でユダの言葉で話したというのですから、これらは降伏の勧告と言うよりも、ヒゼキヤ王を誹謗する挑発的なものであったのです。
ヒゼキヤ王はその挑発的な攻撃に対しどのように向き合ったでしょうか。
彼はそこで、その挑発にのってしまうということ、つまりそういう愚弄するような言葉に対して、同じようにやり返すことは敵の策に落ちる、心理戦に巻き込まれることだということを熟知していたのでしょう。予め高官たちに相手の巧みな心理戦に対して36節「答えてはならない」と戒めていたのです。ヒゼキヤ王の高官たちや民たちもまた、彼に聞き従い、どんなにひどい暴言や愚弄するような言葉がはかれても、36節「押し黙ってひと事も答えなかった」というのであります。
もしそこで、ヒゼキヤ王の高官たちやその民らがラブ・シャケの誘いの言葉に反撃し答えていたなら、敵の思うつぼ、恐らくすぐにでもアッシリア軍がエルサレムに攻めのぼり、ユダ王国は完全にアッシリアに侵略されていたかも知れません。ある意味このヒゼキヤの高官たちの王への忠実と忍耐によって、その最悪のシナリオは免れ得たということができたといえます。ともすれば感情的になり、怒りを露わにしてしまう。それが私たち人間の弱さであります。しかし、真の王である主は、私たちに如何にあるべきかをいつも示しておられます。私たちもまた、主への忠実さとその教えである愛と忍耐をもって、感情に振り回されるのではなく、主に従うことで真の勝利を勝ち取っていきたいと願うものです。
さて、19章冒頭ヒゼキヤ王は高官たちの報告を聞くと衣を裂き、あら布を身にまとって主の神殿に行ったとあります。彼は真っ先に主の神殿に行き、神の人、預言者イザヤのもとに遣いを送り、イザヤの助言と祈りを乞います。彼はイザヤに、「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない」と、その心境を吐露しています。ユダに臨みつつある大きな危機に打ち勝つだけの力がなくなっていることを嘆いたのです。そして、エルサレムに残された者たちが守られるように、執り成し、祈ってほしいとイザヤに求めます。ヒゼキヤ王にとって預言者イザヤの存在が如何に大きかったかということがわかります。このように祈り、執り成してくれる存在が身近にいることは、どんなにありがたく、心強いことであったでしょうか。私たちにとりましても、そういう祈りのネットワーク、支え合い、執り成し合う人の存在は本当に主からの賜わりものです。そのような方々の背後の執り成しがあって私たちは問題や難題に対処してゆく道が拓かれていくものです。
さて、預言者イザヤはヒゼキヤ王の訴えに対して、その家臣たちに次のことを伝えるように言います。6節、「主なる神はこう言われる。あなたはアッシリアの従者たちがわたし(主なる神)を冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼(アッシリアの王)の中に霊(怖れの霊)を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される」。
その後、アッシリアを取り巻く周辺事態が変わり、アッシリアの王は遣いを送って、今度は直にユダのヒゼキヤ王に対して降伏するように勧告します。このところでも巧みな心理戦が企てられてゆくのですが、先と違っていたのは、アッシリアの王がここで、ヒゼキヤ王についてではなく、主なる神を冒涜してヒゼキヤの動揺を誘ったということであります。ヒゼキヤはまさにイザヤの預言どおり「主なる神を冒涜する言葉を聞く」事になるのです。
このことは真に耐えがたいものであったに違いありません。
しかし、ここでヒゼキヤはイザヤの預言を握りしめ、真先に神殿に上ります。そして、アッシリア王の神を冒涜するその手紙を「主の前に広げ、主の前で祈った」のであります。彼はまず何はさておき、主の宮に向かい、「主に助けを祈り求めた」のであります。ここが本日の「ヒゼキヤの祈り」の重要なポイントであります。
主なる神を冒涜されたヒゼキヤ王は、それを自己の赴くままの感情に任せて、応戦したり、報復したりはしません。それは、巧みな心理戦にのって、エルサレムの都と残りの者たちに危害が及ぶことを知っていたからでありましょう。しかしそれよりも重要なことは、イザヤの預言による主からの御言葉、すなわち、「わたしを冒涜する言葉を聞いても恐れてはならない」というみ言葉によって「主が必ず立ちあがってくださる」という強い確信がヒゼキヤ王のうちに与えられていたからではないでしょうか。だから、まずヒゼキヤ王は主の前に出たのです。その主に訴え祈ったのであります。
15節以降のその祈りの言葉を読みますと、まず、イスラエルの神が地上の王国をすべ治める神であり、天地万物をお造りになった方である、とその信仰が告白されています。「主よ、耳を傾けて聞いて下さい。主よ、目を開いて御覧下さい。」ヒゼキヤ王の祈りは、この生ける主なる神に信頼し、幼子のように愚直なまでに主に訴えてゆく、求めてゆく信仰、祈りであります。さらに19節「わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください」と、このように祈られております。
そしてこのヒゼキヤ王の祈りが主に聞かれたと、預言者イザヤはヒゼキヤのもとに人を遣わすのであります。その後、イザヤの預言どおり「アッシリアはエルサレムに入ることなく滅び、センナケリブ王も殺害されてしまいました」。あの軍事力を誇るアッシリア帝国が、小さなユダのエルサレムを落とす事ができず、しかもエルサレムに入ることなく滅んでしまうという実に驚くべきことが起こるのであります。こうしてアッシリアの王は自ら蒔いた傲慢の種を刈り取っていくはめとなり、滅んでしまうのであります。
今日のこのヒゼキヤ王の祈りから、私たちは多くのことを学びとることができます。
聖書教育の少年少女科のところで心が留まった言葉がありましたのでご紹介いたします。「人間は、常に間違いを犯しますが、その時どうするかが大切です。ヒロシマに投下する原爆「エノラ・ゲイ」を載せた戦闘機に、出発の際に祈りを捧げた牧師は、「全能の父よ、敵に一撃を与えんとするこれらの者とあなたが共にいてくださるように。その飛行を擁護し、、、、戦争が早期に終結し、再び平和が地に戻りますように。飛行する者らを守り、無事にわれわれの元に帰還させてください」と祈ったと伝えられています。神に祈るとは、どういうことなのでしょうか。祈るとは、何を祈るべきなのでしょうか。」
本当に深く考えさせられるものであります。この問いかけに対し、今日の個所からそれぞれみ言葉を聞きとっていきましょう。