日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

ヒゼキヤ王の祈り

2011-02-27 08:25:10 | メッセージ
宣教  列王記下19章1~20節  

18章17節以降で、アッシリアの高官ラブ・シャケがユダの高官に対して、降伏するよう勧告します。28、29節「ラブ・シャケは立ってユダの言葉で大声で呼ばわり、こう言い放った。「大王、アッシリアの王の言葉を聞け。王はこう言われる。「ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない。31節「ヒゼキヤの言う事を聞くな。アッシリアの王がこう言われるからだ。「わたしと和を結び、降伏せよ。そうすればお前たちは皆、自分のぶどうといちじくの実を食べ、自分の井戸の水を飲むことができる。」32節「ヒゼキヤ王の言う事を聞くな。彼は、主は我々を救い出してくださる、と言って、お前たちを惑わしているのだ」。これをユダの民に聞こえるようにわざと大声でユダの言葉で話したというのですから、これらは降伏の勧告と言うよりも、ヒゼキヤ王を誹謗する挑発的なものであったのです。

ヒゼキヤ王はその挑発的な攻撃に対しどのように向き合ったでしょうか。
彼はそこで、その挑発にのってしまうということ、つまりそういう愚弄するような言葉に対して、同じようにやり返すことは敵の策に落ちる、心理戦に巻き込まれることだということを熟知していたのでしょう。予め高官たちに相手の巧みな心理戦に対して36節「答えてはならない」と戒めていたのです。ヒゼキヤ王の高官たちや民たちもまた、彼に聞き従い、どんなにひどい暴言や愚弄するような言葉がはかれても、36節「押し黙ってひと事も答えなかった」というのであります。

もしそこで、ヒゼキヤ王の高官たちやその民らがラブ・シャケの誘いの言葉に反撃し答えていたなら、敵の思うつぼ、恐らくすぐにでもアッシリア軍がエルサレムに攻めのぼり、ユダ王国は完全にアッシリアに侵略されていたかも知れません。ある意味このヒゼキヤの高官たちの王への忠実と忍耐によって、その最悪のシナリオは免れ得たということができたといえます。ともすれば感情的になり、怒りを露わにしてしまう。それが私たち人間の弱さであります。しかし、真の王である主は、私たちに如何にあるべきかをいつも示しておられます。私たちもまた、主への忠実さとその教えである愛と忍耐をもって、感情に振り回されるのではなく、主に従うことで真の勝利を勝ち取っていきたいと願うものです。

さて、19章冒頭ヒゼキヤ王は高官たちの報告を聞くと衣を裂き、あら布を身にまとって主の神殿に行ったとあります。彼は真っ先に主の神殿に行き、神の人、預言者イザヤのもとに遣いを送り、イザヤの助言と祈りを乞います。彼はイザヤに、「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない」と、その心境を吐露しています。ユダに臨みつつある大きな危機に打ち勝つだけの力がなくなっていることを嘆いたのです。そして、エルサレムに残された者たちが守られるように、執り成し、祈ってほしいとイザヤに求めます。ヒゼキヤ王にとって預言者イザヤの存在が如何に大きかったかということがわかります。このように祈り、執り成してくれる存在が身近にいることは、どんなにありがたく、心強いことであったでしょうか。私たちにとりましても、そういう祈りのネットワーク、支え合い、執り成し合う人の存在は本当に主からの賜わりものです。そのような方々の背後の執り成しがあって私たちは問題や難題に対処してゆく道が拓かれていくものです。

さて、預言者イザヤはヒゼキヤ王の訴えに対して、その家臣たちに次のことを伝えるように言います。6節、「主なる神はこう言われる。あなたはアッシリアの従者たちがわたし(主なる神)を冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼(アッシリアの王)の中に霊(怖れの霊)を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される」。
その後、アッシリアを取り巻く周辺事態が変わり、アッシリアの王は遣いを送って、今度は直にユダのヒゼキヤ王に対して降伏するように勧告します。このところでも巧みな心理戦が企てられてゆくのですが、先と違っていたのは、アッシリアの王がここで、ヒゼキヤ王についてではなく、主なる神を冒涜してヒゼキヤの動揺を誘ったということであります。ヒゼキヤはまさにイザヤの預言どおり「主なる神を冒涜する言葉を聞く」事になるのです。
このことは真に耐えがたいものであったに違いありません。

しかし、ここでヒゼキヤはイザヤの預言を握りしめ、真先に神殿に上ります。そして、アッシリア王の神を冒涜するその手紙を「主の前に広げ、主の前で祈った」のであります。彼はまず何はさておき、主の宮に向かい、「主に助けを祈り求めた」のであります。ここが本日の「ヒゼキヤの祈り」の重要なポイントであります。

主なる神を冒涜されたヒゼキヤ王は、それを自己の赴くままの感情に任せて、応戦したり、報復したりはしません。それは、巧みな心理戦にのって、エルサレムの都と残りの者たちに危害が及ぶことを知っていたからでありましょう。しかしそれよりも重要なことは、イザヤの預言による主からの御言葉、すなわち、「わたしを冒涜する言葉を聞いても恐れてはならない」というみ言葉によって「主が必ず立ちあがってくださる」という強い確信がヒゼキヤ王のうちに与えられていたからではないでしょうか。だから、まずヒゼキヤ王は主の前に出たのです。その主に訴え祈ったのであります。

15節以降のその祈りの言葉を読みますと、まず、イスラエルの神が地上の王国をすべ治める神であり、天地万物をお造りになった方である、とその信仰が告白されています。「主よ、耳を傾けて聞いて下さい。主よ、目を開いて御覧下さい。」ヒゼキヤ王の祈りは、この生ける主なる神に信頼し、幼子のように愚直なまでに主に訴えてゆく、求めてゆく信仰、祈りであります。さらに19節「わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください」と、このように祈られております。

そしてこのヒゼキヤ王の祈りが主に聞かれたと、預言者イザヤはヒゼキヤのもとに人を遣わすのであります。その後、イザヤの預言どおり「アッシリアはエルサレムに入ることなく滅び、センナケリブ王も殺害されてしまいました」。あの軍事力を誇るアッシリア帝国が、小さなユダのエルサレムを落とす事ができず、しかもエルサレムに入ることなく滅んでしまうという実に驚くべきことが起こるのであります。こうしてアッシリアの王は自ら蒔いた傲慢の種を刈り取っていくはめとなり、滅んでしまうのであります。

今日のこのヒゼキヤ王の祈りから、私たちは多くのことを学びとることができます。
聖書教育の少年少女科のところで心が留まった言葉がありましたのでご紹介いたします。「人間は、常に間違いを犯しますが、その時どうするかが大切です。ヒロシマに投下する原爆「エノラ・ゲイ」を載せた戦闘機に、出発の際に祈りを捧げた牧師は、「全能の父よ、敵に一撃を与えんとするこれらの者とあなたが共にいてくださるように。その飛行を擁護し、、、、戦争が早期に終結し、再び平和が地に戻りますように。飛行する者らを守り、無事にわれわれの元に帰還させてください」と祈ったと伝えられています。神に祈るとは、どういうことなのでしょうか。祈るとは、何を祈るべきなのでしょうか。」
本当に深く考えさせられるものであります。この問いかけに対し、今日の個所からそれぞれみ言葉を聞きとっていきましょう。
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ヒゼキヤ王の宗教改革

2011-02-20 18:04:58 | メッセージ
宣教 列王記下18章1~12節  

今週、来週、再来週の3回の礼拝宣教はユダ王国のヒゼキヤ王に関する聖書個所からみ言葉を聞いてゆきます。今日の個所はその第一回目として、ヒゼキヤ王の宗教改革やその信仰姿勢についての記事であります。このヒゼキヤ王については、歴代誌下29~32章に詳細な記事がありますので、そこと読み比べてみるのもよいかと思います。

ヒゼキヤは、ユダの王アハズの子であり、25歳でユダの王になり、29年間王位にありました。それは他のユダの王と比べれば長期政権であったといえます。聖書にはヒゼキヤの人となりについて、3節「彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目に適った正しいことをことごとく行い」、さらに5節以降「その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、かた彼の前にもなかった。7節「主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した」と、列王記の記者はすべての点でヒゼキヤ王をほめちぎっています。他の多くの王たちが神に背き罪を犯すいわゆる悪王であった中、ヒゼキヤ王は主の目に適う正しい行いとともに、民の心を真の唯一の神、主に立ち返るために具体的な宗教改革を行いました。それは4節にあるように「聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシュラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。」6節「彼は主を固く信頼し、主に背いて離れることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った」とあります。又、7節「彼はアッシリアの王に刃向い、彼に服従しなかた」と述べられています。それは思いますに、神の民として立てられた使命感と純粋性を重んじるゆえに異教の国に服することがなかったということでしょうか。

それにしても25歳で王に即位したとありますから、そんなに若くして国を治め、守っていくのは現実大変なことであったでしょう。北イスラエル王国やこのエルサレムのあるユダ王国は、地図で御覧になられるとおわかりのように、本当に小さな国であります。周囲にはアッシリア、ぺリシテ、バビロン、エジプトなどの大国に囲まれ、絶えず侵略の脅威にさらされ続けていたのです。そういう中で例えば、ヒゼキヤの父アハブが王であった時は、アッシリア帝国に貢ぎ物を贈り、協力することで軍事的脅威を軽減する政策を取りましたしかし、若きヒゼキヤ王は宗教改革を前面に打ち出し、アッシリアの王に従わなかったのであります。外からの外圧や侵略の脅威に対する怖れや不安があったでしょうが。それはいわゆる大国の傘の下で守ってもらう安全保障のようなものに依るのではなく、5節「彼は
イスラエルの神、主に依り頼んだ」6節「彼は主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った」というのです。そうすることでユダの国は主の国として必ず栄えるということを信じて、改革を打ち出したのであります。

その彼の宗教改革はまず、「聖なる高台を取り除いた」ということであります。
イスラエルの人々はいつしか異教の神々を礼拝しながら、一方で真の唯一の神を拝むという神への信仰を混在させていました。その根は深く、これはイスラエル、ユダ王国のこれまでの歴代の王は誰もその事に対して手をつけることができなかったのですが。ヒゼキヤ王は偶像礼拝が行われていた異教の礼拝施設を取り除き、石柱を打ち壊し、アシュラ像を切り倒したというのです。

さらにヒゼキヤ王は驚くべきことをなします。それはユダの民たちの内なる罪を取り除くべく、「モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた」というのであります。それはかつて神の人モーセが奴隷の状態にあったエジプトから脱出し、荒野でその民が毒蛇に噛まれ命を落としていく中で、主の啓示を受けて造ったのが、このモーセの青銅の蛇であったのです。それは民が噛まれてもその青銅の蛇を仰ぎ見るなら死なずにすんだという伝説の像でありました。ヒゼキヤ王はそれを打ち砕いたというのですから、尋常なことではなかったでしょう。
しかしその像がイスラエルの人々にとって、主なる神よりもすごい力やご利益をもたらすものとして偶像礼拝の対象となっていたのです。唯一まことの生ける神以外のものを拝んではならないことは、モーセの律法に厳しく戒められているとおりであり、それはモーセの意に反することであったのです。

モーセの造った青銅の蛇は確かにイスラエルの歴史において重要かつ尊いものでありましたが。それ自体神でも、生ける主でもありません。神ならざるものを神のように崇拝し、拝む時、信仰は歪んでいきます。多くの偶像礼拝がそうであるように、人の欲望や願望を満たすだけのものになり、結局生ける神にではなく偶像に仕える者になってしまいます。
しかし、ヒゼキヤ王はよくもモーセの造った青銅の蛇を打ち砕いたものだと思いますが。
彼は偶像崇拝による罪の怖さを知っていたからでありましょう。それは前の17章に詳しく記されていることですが、つまり先に北イスラエル王国が陥落してしまったのは、真の神を礼拝せずに、神でないものを崇拝する偶像礼拝にその悪の根があると聞き知らされたからではないかと思われます。本日の18章12節の「彼ら(北イスラエルの人々)が自分たちの神、主の御声に聞き従わず、その契約と、主の僕モーセが命じたすべてのことを破ったからである。彼らは聞き従わず、実行しなかった」との記述からも伺えます。

ここのところから語りかけられますのは、「信仰の回復」ということであります。
私たちの信仰は、私たちの体の細胞が日々新しく活性化され、新しい血液が体中を絶えず循環しているように、日々新しく回復されなければなりません。古き自己の罪に日々死んで、新しくされていくことが重要であります。その柱としての週の始めに主の日の礼拝、又週の半ばに祈祷会があるのは本当に恵みであります。勿論日々の祈り、主との対話も欠かせません。そこで真の神に立ち返り(悔い改め)、神との関係が回復されていくからであります。真の主との関係をしっかりと築いていく、それは私どもの信仰の生命線であります。私どもの信仰も日々、ヒゼキヤ王が「聖なる高台を取り除いた」ように、あらゆる偶像を取り除いて回復されなければ、どんなに形や表面上はよく思えることでも、青銅の蛇の偶像崇拝のごとく、やがて主から引き離す罠になってしまいます。

先週ある方が私に、「礼拝に出席しなくなると怖しいです。自分の信仰が弱っていきます。世の力に支配されて乱れた言葉使いをしてしまいます。礼拝は本当に大事です」とそう話してくださいました。私どもの周りには神以外にも頼るものがたくさんあります。それは自分であったり、人であったり、お金であったり、世の間違いのないような保証であったり、会社であったりいたしますが。それを神のように崇め、偶像化する罪に陥りやすいという点で、この聖書時代も私たちも変わりません。そこで、真の神を知って生きるか、知らないで生きるかで、その人の生き方や人生はまるで違ってくるのです。

先日の宣教においても、聖書のみ言葉は単に「悔い改めなさい」ではなく、「悔い改め続けなさい」といっているということを申しました。その悔い改め続けるというのは、単なる反省や後悔ではありません。聖書のいう悔い改めは、真の神の懐に立ち返り続けていくことであります。帰るべきふところがあるのです。そこに魂の平安を伴う魂の回復があるのです。私たちは主イエスによる罪の贖いと赦しの力に与り、真の救い主であられる神のもとに立ち返ることを通して、霊の恵み、回復を戴くのであります。それが礼拝であります。

歴代誌下29章以降を読みますと、南ユダ王国のヒゼキヤ王のなした宗教改革は、祭司と民の運動であったことがわかります。その国を統治する王さまだけがなすものではなく、祭司や民たちの協力が不可欠であったということです。神を仰ぎ見る人達の祈りと行動です。
世の中には神との和解といいましょうか、真の魂の回復を必要としている人がたくさんおられます。主なる神さまは、私どもと和解し、私どもを回復し、又回復のみ業に携わる者として召し出されました。真の魂の回復者であられる主イエス・キリストと共に、回復の働き人と共にされてまいりましょう。
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主の勝利の矢

2011-02-13 07:58:44 | メッセージ
宣教 列王記下13章14~21節  

北イスラエル王国にあって神の預言者として働きを成した後、死の病を患い床についていたエリシャのもとに北イスラエルの王ヨアシュが訪れます。彼は弱ったエリシャを前に、「わが父、わが父、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と泣いたというのです。それは如何にヨアシュ王にとってエリシャが国を統治していくために重要な人物であったかを如実に示していました。ヨアシュ王はエリシャのことを神の預言者としてではなく、政治的軍事的ないわゆる肉的な世の指導者としてより頼んでいたことがわかります。当時北イスラエルはアラム(シリア)の脅威にさらされ続けていたからです。

死の病に床にふすエリシャを前に、すっかり弱気になったヨアシュ王に15節、「エリシャが「弓と矢を取りなさい」と言うので、王は弓と矢を取った。エリシャがイスラエルの王に、「弓を手にしなさい」と言うので、彼が弓を手にすると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、「東側の窓を開けなさい」と言った。王は開けると、エリシャは言った。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを撃ち、滅ぼし尽くす」と言ったと、このようにあります。

預言者エリシャも又、「北イスラエル王国において働きを成す事で神に仕える」という信念を持った人だったようであります。エリシャは死の病を患うなかで国の行く末を案じつつ、主のお命じになることを王であるヨアシュに伝えたのです。病室を訪問しますと、励ます側が逆に励まされるというようなことが多々ありますけれども、このエリシャの信仰から滲み出る思い、イスラエルの人々を絶えず執り成してきた人の手のぬくもりというものが、この弱気になったヨアシュを少なからず力づけたことでしょう。

ここに記された「東側」とはアラムの方角を指しています。すなわち戦う方向であります。そこに向かう窓を開けて、矢を射る。それは後ろ向きになっていたヨアシュ王の心の窓を開け、額をあげて、目を向けて成すべき業に向かうべきことを、象徴的に表しているのでしょう。私たちは日常の中で直面する様々な問題に、落ち込んだり、狼狽したり、後ろ向きになったりします。そしてそれはえてして人や世の力に依存したり、頼っているときにそのような心理に陥ってしまうものです。神の人エリシャは祝福の祈りの後、王が自ら信仰を持って外の世界に心を開き、額を上げ、成すべき業にしっかり目を向けて行うようにと促しました。それは今日の神の人のメッセージであります。

さて、エリシャはその「矢を持って来なさい」と命じ、王がそれを持ってくると、今度はそれを「地面を射なさい」と王に命じて言うのですが。すると「王は3度射てもうそれでやめ」てしまったというのですね。「こんなもんで如何でしょうか」と気弱に振り返る王の顔を何だか想像してしまうのでありますが。エリシャのこの「地面を射なさい」とは現在進行形でありますので、信仰の「矢を絶えず、あきらめずに射続ける」ということだったのでありましょう。3度で射るのを辞めた王に対し、聖書記者はここで「神の人は怒って王に言った」と伝えます。それはエリシャ個人としてではなく、神の人として怒りをあらわにしたというのです。「5度、6度と射るべきであった。そうすればあなたはアラムを撃って、滅ぼし尽くしたであろう。だが今となっては、3度しかアラムを撃ち破ることができない。」
このくだりのところを読みますときに、いろんな思いが示されるのでありますが。

まず、このイスラエルのヨアシュ王についてですが。11節に「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れず、それに従って歩み続けた。」と記されています。つまり、北イスラエルの王として統治する16年の期間、ヨアシュは終始、主の目に悪とされることを行い続けたということです。今日の個所でも預言者エリシャの言葉に始めは従うのでありますが、エリシャの伝えんとする「神への信仰によって勝利を勝ち取っていく」というスピリットが彼には響いていかない。伝わらないのですね。だから「一体このようなことをして何になるのか」と3度程度で辞めてしまったのでしょう。それとは対照的に預言者エリシャは、死の病を患う中、全身全霊をもって王に主の命を伝え続けたのであります。

さて、この個所にはあたかも特定な国を名指しして「滅ぼし尽くす」という聖戦思想が伺えます。旧約聖書には確かに時代的な背景があり、攻め込んで来る異教の国々を武力や軍事力でもって「滅ぼし尽くす」ことが起こったのです。けれども、ここで神の人である預言者エリシャは世の権力や軍事力に依存しなさい。もっと言えば、それら世の力に依り頼んで敵を滅ぼし尽くせと言っているのではないということです。「主の勝利の矢」。それは「神の言葉に聞き従い続ける」。そこから放たれる信仰の矢であり、もたらされる勝利は一国家の勝利というよりも、神の国の勝利、広い意味でいえば、世の力、神に敵対する勢力に対する御神の勝利であります。

イスラエルの王ヨアシュはまあ世の力、軍事力による統制を考えていたのです。ですから預言者エリシャの命じる言葉を主のみ言葉として最後まで聴き従い得なかったのであります。始めにも言いまいたが、王ヨアシュは名実共に力あるエリシャを取りこんで世の覇権のために政治利用しようとしただけだったのです。エリシャもそのことはすでに見通していたことでしょう。エリシャはそういう中で、決して譲ることなくイスラエルと王が主を真の神として生きていくことが、本当の勝利につながる道だと最後の最後まで示し続けたのであります。それはまさに、エリシャが死の病を患う中で全身全霊をもって訴えているメッセージであります。

ひるがえって今、キリスト者として生きる私たちの戦い、それは血肉によるものではなく世の諸霊との戦いだと使徒パウロは言っておりますが。その戦いにおける私どもの勝利は救い主・イエス・キリストにあります。「あなた方には世にあって苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と、そのように言われる主イエス。イエス・キリストこそ私たちの「勝利の矢」であります。キリスト者は血肉で戦うようには召されていません。キリストの救い・真理と愛に満ちたその教えに聞き従うことで世の力や自らの罪と戦い勝利してゆくのです。

人と言うものは、人生の最期、その間際になりますと、大抵何も持つものがなくなっていきますから、そこでほんとうに素にもどると言いますか、その人のホントの姿が現れます。エリシャは死の病を患うようなただ中で、なおも主により頼んで生きることが、勝利の道につながることを証しし続けた人でありました。その預言者としての生涯、「主の勝利の矢」を放ち続けた人なればこそのことです。
私どもにとりましても、イエス・キリストこそ、私たちの罪を滅ぼし、死に打ち勝つために放たれた矢」「神の勝利の矢」であります。「主の勝利の矢」を射続けるものとして、キリストのみ言葉に、絶えず耳を傾け、聞き従い続けてまいりましょう。

エリヤは孤高の人としてイスラエルの王と妥協や協議も一切せず主の預言を語って対決した人でしたが、エリシャはイスラエルの国や王との関わり続けながら、主の預言を語り、非難ばかりでなく、忍耐強く諭し続けた人でありました。
キリスト者は、政教分離なので日本の国やその政治と一切関わるべきではないというような間違った政教分離の考え方がありますが。キリスト者は自分の国や政治に携わる方々に対して関心をもち、見守り、祈り、執り成し、時としては警告を発していくそういう役割といいますか、姿勢は大事だと思います。イギリスからアメリカに渡り開花したバプテスト教会はその精神を大事にしてきたのです。イデオロギーや単なる政治運動としてではなく、主イエスさまのみ言葉に基づいた平和を築く働きのためにキリスト者は召し出されています。
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時、満ちて

2011-02-06 07:49:27 | メッセージ
宣教 マルコ1章14~15節  

本日は大阪教会創立60周年を記念する特別な時であります。昨年の9月が宣教60周年、天王寺のこの地、正確には少し北に行った逢坂にA.Lギレスピー先生ご夫妻の宣教師館を構え、広島教会の伝道所として私たちの教会の前身は始まりました。そのわずか4カ月も満たない1月28日に、大阪教会の教会組織がなされたということであります。

今日は折しも、私たち大阪教会の旧会堂時代に教会員として学生時代を過ごされ、又この大阪教会から献身されて関学と西南の神学部で学ばれ、名古屋教会の牧師として尊いお働きを永年に亘りなさっておられます池田巍義先生よりお証しを戴くことができましたのは、ほんとにタイムリー、時に適ったことで、主の御名をたたえ、先生にも感謝しています。お証しから当時の大阪教会の様子が伝わってきました。時代は変わっても、その福音の本質、み言葉の真正、教会に託された福音伝道の使命は変わるものではありません。そこにまず教会の存在意味がございます。

本日は新約聖書マルコによる福音書1章14~15節のみ言葉が与えられ、特に「時、満ちて」というみ言葉に目が留まりました。
この個所は、主イエスが福音を宣べ伝えられた始まりのところでありますが、それはバプテスマのヨハネが捕えられた後であったというのですね。どうしてわざわざここにそういう事が書かれてあるのでしょうか。ヨハネはまっすぐに神の言葉を説き、神に立ち返ることを教えた正しい聖なる人であったのですが、その正しさのゆえにヘロデ王から恨まれ捕らえられてしまうのです。やがてヨハネは惨殺されてしまうのでありますが。それは世の王をはじめ、人々の心がまことの神の方へ向いていない世相といいましょうか、そういった世の情勢を象徴していました。「王をはじめ人々の心が神の方へ向いていない」。神の招きを拒絶するようなまさに罪に閉ざされた闇のただ中に、主イエスさまは闇を照らす光として来られたのであります。「ヨハネの捕らえられた後」というのはそういう時代状況を示しているのです。

そのただ中で主イエスさまは、「時は満ち、神の国が近づいた」との福音をガリラヤから宣べ伝え始められたのであります。まさに、神のお定めになった時(救いの到来)ですね。これはカイロスという時であります。ギリシャ語には時を表す言葉としてクロノスとカイロスの2つがあるのですが、クロノスが時計に表される人の世の時間であるのに対し、カイロスの時は、神の計らいによって定められた神の介入の時を意味しています。それはまさに主イエスさまによって到来し、十字架と復活によって救いが完成されるその時のことです。それと共に、「神の国が近づいた」と主イエスさまは言われます。この神の国はヘロデ王に象徴される王国やイデオロギーによる人間主義の国家とは全く異なる、神のご支配、神の統治される国であります。

このイエス・キリストの到来から2000年余り経ちますが、主イエスさまの宣べ伝えられる「時は満ちた神の国は近づいた」との福音は、このガリラヤから始まり、今や全世界にも広がって、多くの福音を信じる人たちが世界中に興されてきました。しかし今日の時代にあってもなお神の国から程遠いようなこの世界であります。憎悪や恨みや妬みによる争いも絶えません。ヘロデの時代と同様、依然人々の心は神の方へ向いていないといえるのではないでしょうか。そのような人の世に向けてイエスさまは、「悔い改めて福音を信じなさい」と呼びかけるのであります。

このみ言葉は、確かに私たちが主イエスをまったく知らない、初心者や未信者の方に福音を伝え、福音唱歌などの勇ましい歌詞に「悔い改めて信ぜよ」というようなものがありますが、そのように伝道しなさいと言っているようにとれます。けれどもここで注意したいのは、この「悔い改め」や「信じる」という原語を正確に読みますと、それは単に一度限り「悔い改めなさい」「信じなさい」ということではなく、「悔い改め続けなさい」「信じ続けなさい」とイエスさまはおっしゃっているのです。ここが今日のメッセージの大事なポイントであります。

それは伝道ということ、あるいは福音宣教というのは確かに自分の信じている神と救いの恵みについて人に証しし、伝えていくという大切なことでありますけれども。同時に、いやこれよりも大事なことは、福音を伝え、証しする者自身がまず日々主と向き合いながら、「悔い改め続ける」「信じ続ける」ものでなければならないということであります。主イエスさまの「悔い改めて福音を信じなさい」との呼びかけは、まず福音に生きる私たち向けられたものであるのです。そこを抜きにした伝道や福音宣教は人々に響きませんし、届きません。実はそこから、その招きに忠実に応え続ける中から、ほんとうの福音伝道というものが、生きた証しができるのであります。主の前に感謝と、又悔い改めと、そしてそこに希望を戴いてまいりたいと願っています。

最後に、「時、満ちて」という神の定めた時(ご計画)について、先週お読みしました箴言5章21節のみ言葉を読んで宣教を閉じます。
「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」
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