日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

私たちの祈り

2020-11-29 16:52:51 | メッセージ

礼拝宣教 マタイ6章7~13節 世界祈祷週間・アドベント

 

本日から来年の4月迄礼拝ではしばらくマタイによる福音書を読んでいきます。今日は世界祈祷週間ということもあり、イエスさまが教えられた「主の祈り」から聞いていきたいと思います。

聖書の言葉が命のパン、霊の糧なら、「祈り」は私たちにとりまして呼吸のように大切な信仰生活の一部です。朝の始まり、一日の終わり、目覚め、食事の感謝、さらに個人的な祈り、又兄弟姉妹、家族や友人、知人のことをおぼえて、主に執り成す祈り、といとまがありません。

イエスさまは今日の箇所でこう仰せになります。7-8節で「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」まあ、くどくどとした祈りと聞きますと、あんまり長い時間いろいろなことを祈るのは良くないのかなとお考えになる方もおられるかもしれませんが。そういうわけではありません。

イエスさまはお忙しい合間にあっても祈りを欠かさず、山に登られては祈りのときをもたれていました。又、いよいよ十字架の道へと向かわれる前夜、世を徹して父の神に祈られました。使徒パウロも絶えず祈り続けるようにと勧めています。本当に「神よ、どうか耳を傾けてください。どうか、助けてください」という時には祈り続けないではおれません。

では、どういう祈りがくどくどというのかと申しますと、一言でいえば「神との信頼関係を欠いた祈り」ではないかと思うんですね。

イエスさまはここで祈りについて大事なことを言われています。「あなたがたが願う前から、父の神はあなたがたが必要なものをすべてご存じなのだ。」父なる神さまに対して「信頼」と「期待」をもって祈るようにと、イエスさまは教えておられるのです。対する異邦人の祈りは、自分はこれだけのことをした、だからお聞きください、思い通り願い通りになりますようにという祈りです。それは信頼ではなく取引ですね。キリスト者、クリスチャンは自分が神の前に如何に罪深い者、至らない者であることを認め、主イエスの赦しと救いを受けたのです。そして父なる神との和解、交わりの回復が与えられ、「父よ」「子よ」という畏れ多いことでありますが、親しい交わり、信頼の関係に与っているのです。そこに、いわゆるキリスト教の「祈りの本質」があるかと思うのです。

イエスさまはこの父なる神への信頼において「だから、こう祈りなさい」とおっしゃったのです。ある人は日毎に、また、毎週の礼拝の中では毎回みなで心を合せて祈っていますこの「主の祈り」であります。それは又、主の日において世界中の教会で共に祈られている祈りでもございます。

先に申しましたように、わたしたちの必要をご存じである父なる神との親しい交わりの関係を築いていく前半の祈り、それが「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」という祈りです。このように祈ることから私たちの心は天に開かれ、父なる神との信頼の関係が深められていくのです。

 

さらに、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」「わたしたちの負い目を赦してください」「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪いものから救ってください」との「日毎の糧」「罪・負い目の赦し」「悪いものからの守りと救い」という「私たちの祈り」が続きます。この「わたし」ではなく「私たち」とイエスさまがおっしゃったところに、大切なメッセージが込められていると思うのです。

日用の糧は、すべての人にとって生きるため必要なものです。けれど世界中で飢えて亡くなる人が絶えません。この日毎の糧が今必要な方々のもとに届くように祈ります。又、人はパンのみで生きるのではない、との御言葉の糧が必要であります。今日は世界各地における福音宣教と和解の福音の大切なお働きをされている方々を共に覚え、祈る礼拝を捧げていますが。まさに、この祈りは神の国の幸いを分かち合うものといえるでしょう。

先日Iさんから、お母さまが行かれているMバプテスト教会の方々が作られたお手製のクリスマスカードをお預かりし、女性会のご理解を得て礼拝後に販売されることになりました。通常天城山荘での連盟総会、女性大会の場でアピールし販売がなされ収益のすべてを世界祈祷献金として捧げられていたようで、今年はコロナ禍で連盟総会も女性大会も中止となり、アピールの場がなくなったということを壱岐さんから伺いました。この事も又、協力伝道の尊いお働きを分かち合える機会になるんですね。

話を「主の祈り」の「「わたしたの負い目をおゆるしください」といういう祈りに移りますが。人間はみな誰もが「罪」ある者です。その問題から、意識、無意識に拘わらず人を傷つけていたり、躓かせていたりと、様々な事どもが起こってきます。その罪の「負い目」を私たちはそれぞれに抱えて生きています。もし、そういった負い目に対するゆるしがなければ、それはほんとうに苦しいものです。その負い目から解かれるために必要な努めや悔い改めは必要です。しかしその「負い目」からの根本的な解放は、父なる神さまの赦しのうちにのみあるのです。

ダビデ王は詩編51編において、自分の罪深さに気づいた時、「神よ、わたしはあなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」と言って悔い改めました。そして彼は「神よ、あなたの求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれは悔いる心を、あなたは侮られません」と、神に深い信頼をもってゆるしを嘆願したことが記されています。

世に生きている限り、わたしたちは生身の人間です。悪の誘惑にもさらされ、神の愛から引き離そうとする力は常に働きます。もちろん悪の誘惑から離れていくようにすることは必要です。しかし、もし悪の誘惑に陥りそうになったとき、そこから救い出すことがおできになるお方にすべてを願い求めなければなりません。父なる神に向き直り、向き合い、その信頼の関係が築いていくためにこの祈りが私たちに与えられているのです。

 

さて、ここまで「主の祈り」を読んでまいりましたが、ここで肝心なことを申します。

実に私たちすべての人の造り主である父なる神は御独り子、イエス・キリストを世に遣わし、十字架を通して私たちの罪のためのあがないを成し遂げて下さったのです。その「神の愛と救い」のゆえに、私たちは信頼をもってこの「主の祈り」を祈ることができるということですね。「わたしたちに必要なもの」を主はすでに知っていて下さいます。だから、わたしたちもまた、父なる神さまに期待をもってこの「主の祈り」を祈ることができるのです。なんと感謝なことでしょうか。

先週の水曜日の午前中の祈祷会に出席されたM宣教師が、こういうことをお話してくださいました。「イスラエル、ユダヤでは神の御名を呼ぶことは、畏れ多いこととされていました。私は物心つく頃に父と離別した。そういう中、イエスさまは、この主の祈りの中で「天におられるわたしたちの父よ」と言って祈っていい、その畏れ多い神さまを『父よ』(アラム語・アッバ)と、幼い子どもが、父ちゃんとほんとうに全幅の信頼で呼びかけるように、父なる神さまに祈っていいと、イエスさまは」おっしゃった。そこに真の父の存在を私は知ることができた」と。実にわたしも同様の経験をしていますので、心の内でアーメンと言いましたが。この天の神さまはモーセに、「わたしは有って在る者」と自己紹介されましたけれども。それは、どこにいても、どんなことがあっても、わたしはあなたと共にいる存在だ」ということですね。

本日よりアドベントに入りましたが。まさに、クリスマスはその父なる神さまが御独り子のイエス・キリストをわたしたちの救い主として遣わしてくださったことを祝い、喜びを共にする記念の日です。わたしたちが「どこにいても」「どんなことがあっても」、共にいてくださる。これが主イエス・キリストがインマヌエル(神が私たちと共におられる)と呼ばれるゆえんであります。何という恵み、救いでしょうか。

世界祈祷週間とはまさに、この喜びを世界中の人たちと一緒に分かち合っていくための働きであるといえるでしょう。主イエスの宣教と和解の福音をそれぞれの地に遣わされておられる方々のお働きと健康が守られ祝されるよう祈ってまいりましょう。又、今、世界の人々がコロナ禍によって苦しんでいます。心が痛み傷ついています。日本もそうです。先行きが見えない中で、苦しみあえいでいる人がおられます。しかし主はすべてをご存じであられ、その必要が満たされるようにとだれよりも願い、祈りのうちにお働き下さるお方なのです。

今日、わたしたちもこの「主の祈り」を、全世界の造り主であられる主の御もとにあって、今週もここからそれぞれの馳せ場へと遣わされるべく祈りつとめてまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11/29主日礼拝宣教題・聖句

2020-11-27 07:30:33 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真理のことば

2020-11-22 15:54:14 | メッセージ

 主日礼拝宣教 コヘレトの言葉12章9-14節

 

先週私は母の納骨のために小倉に帰省しておりました。礼拝宣教のご奉仕をN先生に、又お証をSさんにしていただき感謝いたします。本日は宣教の後にMさんより当教会への入会の表明がなされます。又、ずっと祈りに覚えておりましたKさんが入会決心へ導かれました。これからクリスマスに向けて準備会をしてまいります。どうかお祈り下さい。

そしてさらに、信仰の確信と決心へ導かれましたOさん。6月21日ご自分の誕生日の日に礼拝に初めてご出席なさいましたが。その後は他の教会にも行かれたそうですが、11月1日不思議とこの大阪教会の礼拝に戻ってこられたということです。現在は信仰入門のクラスを開始しました。どうかお祈り下さい。もうお一人は、先週の午前の祈祷会にいらしたCさんという方です。インターネットをあたって初めて教会に足を運ばれたのがこの教会だそうです。この方は御自分で聖書を持っておられ聖書を一人で通読されたそうです。その後人づてにキリスト教のことを聞く機会があり、教会に一度行きたいとの思いが起こされて訪ねて来られたのが先週水曜日の祈祷会だったのです。大変勇気がいったと思うのですが。その祈祷会後メールで、「はじめての教会で少し緊張していたのですが、みなさん温かく迎えてくださったので嬉しかったです。またぜひ伺わせていただきます」と、うれしいことばを頂きました。Oさん、そしてCさん、ともにキリスト教について人づたえに以前から聞いていた福音の種が、いろいろな出来事を経て今芽吹きはじめたのではないでしょうか。

「すべてに時があり、神のなさることは時に適って美しい」とコヘレトの言葉にありますが、その通りですね。そしてそこには聖霊のお働きを覚えます。なぜならお二人はともに聖書を開き、ともに祈り合うキリストの教会と主にある兄弟姉妹の必要性を感じたからです。聖霊は個人の救いにとどまらず、キリストの証人、あかし人として立てておられます。御言葉の広さ深さを体験していくためには一人では無理です。他者との出会いと主にある学び合いが不可欠です。不完全な私たちに主イエスにある救いと神の国の交わりを導き与えて下さるのは聖霊のお働きであります。

 

まぁ、今年はイースター礼拝からコロナ感染症の蔓延によって礼拝が2ヶ月間休止となり6月から念願の礼拝が再開されるようになりました。このところにおいでになるのが困難になった方々も多い中、礼拝席も半分に減らし、礼拝プログラムを一部割愛し時間を短縮してのこの主日礼拝と祈り会ですが、そのともし火を消すことなくここまで守られてきたことは大変感謝なことです。そのような中、まか不思議と申しますか。9月にIさんの転入会、今日はMさんの入会表明、さらにKさんが入会の決心へ導かれ、さらにOさん、Cさんという求道者を主はおこされるのですね。主である神さまには、世の状況によってお出来にならないことなどなく、むしろ人の不可能と思える時、自分の力では無理だと思える時にこそ、その力を発揮され、その主の栄光を仰ぐことになるのです。これぞ信仰ですね。このコロナ禍で大変なことがあり、今後も何が起るかはわかりませんが、この時を通して実は神さまは私たちに向けて、「真の拠り所」「真に求めるべきお方」が誰であるかをお示しになられているのではないでしょうか。

イエスさまは次のようにおっしゃいました。マタイの福音書7章7節「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」今、このコロナ禍において神さまは世のすべての人を「真理のことば」へとお招きになっておられるのではないでしょうか。

さて、10月から礼拝で読んできましたコヘレトの言葉も今日で最後となりました。

今日は12章9節-14節より「真理のことば」と題して、ともに御言葉に聞いていきたいと思いますが。まず9-10節を見ますと、「コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした」とあります。

以前にも申しましたように、コヘレトというヘブライ語は、「集める者」という意味があり、「真理の言葉」を集めて記録をするとともに、聞くものを集会へと招集して「民を教え、知識を与える」という役割を担っていたようであります。そうしてみますと、コヘレトの働きは「いつも、真理を求め続ける」、いわば求道者であり、それを分かち合う共同体の一員であったといえるかも知れません。

使徒パウロはフィリピの信徒への手紙3章12節でこう書きとめました。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となったわけでもありません、何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスから捕えられているからです。」そのようにしてパウロは福音を確認しながら、諸教会はじめいたる所で御言葉を宣べ伝え続けました。

まぁ、コヘレトのメッセージには「人間の人生、この地上での生涯はみな終わりがある。だから、限りあるその時、その時を労苦とともに、その報酬として悔いのないように楽しみ、与えられた恵みを享受して生きるように」との奨め、生き方の指南が語られています。しかし創造主を知らない人生は実に空である、と語るのです。

先々週12章を読んだように、それだから「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えなさい」ということであります。その時には、「いつも、青春の日々」という題をつけて、お話しましたが。若くして主と出会い、御言葉に生きることは確かに幸いでありますけれども。聖書にあるように、たとえ私たちの外なる人は衰えたとしても、主のみもとにあるなら、私たちの内なる人は日々新しくされるのです。30年近く牧師をさせていたく中で、ご高齢になってからも主イエスにある希望と平安のうちに身を寄せ、その内側からにじみ出る魂の輝きを放っておられるクリスチャンの兄弟姉妹がおられ、どれだけ私自身力づけられ、励ましを頂いてきたことでしょうか。

さて、コヘレトは11節で次のように申します。

「賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。」

この突き棒や釘とは何のことかと思われるかもしれません。それはこのすぐ後に「牧者」とありますように、その昔、家畜を牧するための棒(杖)を用いました。大きな家畜の場合は、その棒の先に釘をつけたようです。あの詩編23編に描かれる「羊飼いの鞭と杖」を思い起こさせます。その1-4節を読んでみたいと思います。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりを伴い/魂を生き返らせてくださる。主の御名はふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」口語訳聖書では「主は、わたしの牧者」となっています。コヘレトが「ただひとりの牧者」というのは、単なる牧者、羊飼いのことではなく、唯おひとりの創造主である神さま御自身のことなのです。

羊のように目の前のこと、生きることに精いっぱいの私たちが迷い出たり、滅びの道に向かわないために、時に釘のついた突き棒でもって、正しい道に引き戻してくださる牧者なる神さまのお姿がここに表されています。ただおひとりの主である大牧者が「突き棒や釘」でもって羊である私たちを、それは私たちにとってはある意味「痛い」と感じるような御言葉を通して、迷いと危険の道から守ってくださるということであります。その「突き棒や釘」とは、真理の言葉、私たちにとりましては天地万物の造り主なる神の言、聖書の御言葉なのです。

ヘブライ人への手紙4章12節以降には次のように記されています。

「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからである。」これほどまでに「神のことば」は威力あるものなのです。それはしかし痛みを伴うだけに私たちがそれを如何に聴き、受け取るかが重要なのです。聖書のことば、耳障りのよいことは感謝、喜んで聴くことができても、自分にとって痛い、出来れば逃げたい、スルーしたいという時も起ってまいります。自分を守ろう守ろうとするとき、御言葉は決して心のうちに響いてこないでしょう。大事なことは、羊は羊飼いを信頼するからこそ、その声に聞き、突き棒に正されます。同様に主に信頼する者は御言葉に従って生きる時、平安が訪れるのです。

コヘレトは言います。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」

多くの人がその身に鎧をつけ、一人で生きているように強がり、自分の人生は自分のものだ、自分で決めると、神とその御言葉から離れて生活します。しかし人の世のはかなさと空虚だけでなく、自らのうちに大きな心の穴、空虚に気づいたとき、飼い主のいない羊のようにどう生きていったらよいか、不安が押し寄せてくるのです。コロナ禍にある今も、そういった気づき時代なのかもしれません。そこで、人は唯、打ち砕かれた魂こそが、真に信頼に価する確かな存在、「ただひとりの牧者」なる主を見出し、その御声、真理のことばに聞き従うことができるのです。頑なな思いをすべて神の前に開き、ゆだね切る。神を畏れるとはそういうことです。

コヘレトは1章2節においてこう言いました。「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」しかし、今日の最後のところでこう言います。「『神を畏れ、その戒めを守れ。』」これこそ人間のすべて。」

神を知らず、神を拒み、神に背を向け、その愛を信じない。なんと空しくすべてはかないことでしょう。それこそが聖書は罪であると言い、その罪のゆえに人は滅びに向かうと教えます。神のひとり子、主イエス・キリストはその滅びの法則からすべての人をあがない、救うため、人となり十字架で身代わりの死を遂げられました。主は聖霊をお送りくださり、今も私たちを生かし、守り、導いて下さるお方なのです。

目に見える世界の情勢や世に起る不条理や理不尽な出来事を見れば、神はどこにいるのか。信仰者であっても、神はどうしてこの状況を見過ごしになられるのかと、思うようなこともあるでしょう。しかし、天地万物を造り、いのちの源であられる主なる神さまは唯ひとりの牧者として世のいっさいを司っておられます。来るべき主の日、裁きの日に至るまで人のすべてを見極めておられるのです。それは主を信じる者には希望であります。この厳粛な時に備え、主を畏れ、御言葉に聞き従って生きる者とされてまいりましょう。

「神を畏れ、その戒めを守れ。それこそ人間のすべて。」主イエス・キリストの救いのいのち。その義と愛による光の証人として、、今週もこの私たちが生かされている世に遣わされてまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11/22礼拝宣教題・聖句

2020-11-18 14:38:34 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11/15 礼拝宣教題・聖句

2020-11-12 09:42:29 | 教会案内

次週の礼拝宣教は中島久子先生(元大阪旭伝道所副牧師)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いつも、青春の日々

2020-11-08 15:45:34 | メッセージ

礼拝宣教 コヘレトの言葉11章9節-12章1節 

               

本日はコヘレトの言葉の中でもなじみ深いこの箇所から御言葉に聞いていきたいと思います。

Yさんが味わいのある達筆で礼拝の4日前の水曜日に毎週の宣教題と聖句を筆でお書きくださるのですが。いつも多くの方々が掲示板の前で足を止め感慨深げに見入っておられます。またそれを写真で撮って教会のブログに載せるようにしておりますが。翌日には毎回100人以上の方がご覧になっておられます。今回も興味を持ってご覧になる方が多くいらっしゃいましたけれども。いくつになっても持てる賜物で神に仕え、証を立てる日々新たな人生は素晴らしい恵みですね。

今日のこの箇所はミッションスクールで学ぶ学生たちのチャペルに迎えられた折によく話してきた箇所ですが。本日の礼拝の宣教題をつけるのに悩んだ末?与えられましたのが「いつも青春の日々」と言うものでした。今日が青春。いつも青春。何かのキャッチコピーのようですが…。まぁそんなことを思いながら聖書から聞いていきたいと願っております。以前にもお話ししたかもしれませんが、もう昔のことで記憶にないのですが、何かの本に書かれていた寓話であったかと思いますが。

『ある男が仕事をなくし、サーカス団に飛び込みました。団長が男に言いました。「呼び物のゴリラが腹痛で起きられない。君、どうか。今日午後からのご縁でゴリラの皮をかぶってやってみるか」。男は「はい」と即答し、それから夢中で練習をしました。午後になり、会場はいっぱいのお客が詰めかけました。いよいよゴリラ君の出番です。ゴリラの皮をかぶった男は自転車に乗って登場しました。それから縄跳びもして、逆立ちの真似をしてバナナを食べました。ものすごい拍手と歓声です。いよいよクライマックスです。最後は1本のロープにぶら下がって空中ブランコをしました。舞台の端にはライオンの檻が置かれていました。その真上をゴリラが来ると、ガオー、ガオーとライオンが吠えます。にもかかわらずゴリラが恐れないところがまた受けてすごい拍手と歓声です。と、その途端、ゴリラは手を滑らせてライオンの檻の中に真っ逆さまに落ちてしまいました。観客は息をのみました。その時ゴリラになりきっていた男が我慢できず、鉄格子にしがみついて叫び声を上げました。「助けてくれー」。すると、うなり声を上げながらライオンが飛びかかって、男の耳元で言いました。「おい、声を出すな。ばれてしまうじゃないか」。お分かりの通り、実は両方とも獣の皮を被っていたと言うお話です。確かその本の寓話の後にこう書かれていました。人物や人格のことを英語で「パーソン」。その語源はラテン語の「ペルソナ」から来てきている、それは役者が舞台でかぶるお面のことだ』というのです。古代ギリシャ、ローマ時代の大昔から、「人は役者だ」「人は皆仮面をかぶっている」というのが、笑えるかな、悲しいかなお互いの観察であった』と言う事です。

なるほど興味深いですね。誰もがみんな自分の人生を演じるための仮面をかぶっていて、お互いその仮面を観察しているに過ぎず、人の本質より、そんな仮面を見てその人がわかったような気になり、見た目や評価したりしているかも知れませんね。人の本質は創造主の神さまだけがご存じなのです。

 

本日読まれましたコヘレトの言葉12章9節には「若者よ、お前の若さを喜ぶが良い。青年時代を楽しく過ごせ」とありますが。まぁ若いうちは特に様々な仮面をつけて人生を楽しみ充実させようとするのではないでしょうか。仮面と言うと怪しく暗いイメージをもたれる方もおられるかもしれませんが、そういうわけではなく例えば学生の顔、仕事の顔、友人と楽しむ顔、家庭でくつろぐ顔、やりがいや生きがいを持って取り組む顔などがあって、人生のその時々に輝きをもたらしてくれるものでもあるわけです。コヘレトは若い時にしかできないことを悔いなく楽しめ、とそれを肯定しています。若い時にしかつけられない仮面があるんですね。年齢を重ねるとそれを実感してくるわけですが。

まぁ私たちは社会環境や人間関係の中で仮面にヒビが入ったり割れたりといったことが度々起こってきます。そうしますと人間はそこでまた別の仮面をつけて人生を演じ続けるわけですが。一定の年齢を超えたあたりから仮面の数も減ってきましてそれが不要になってまいります。それはそれで素に戻っていくと言うことで、良いことなのかもしれませんが。

しかし今日のコヘレトの言葉11章1節には次のように記されています。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。歳を重ねることに喜びがない」と言う年齢にならないうちに」。

若くていろいろな仮面を持っている人生を楽しみ謳歌しても、創造主なる神の存在を認めず過ごしていくなら、思いがけず苦しみの日々がやってきたときそれらの仮面は一体何の役に立つでしょう。また、歳をとって人生劇場を演じ楽しむ仮面をつけることがなくなっていく時、全てが虚しい空であると言うことになりはしないでしょうか。魂を喜びで満たすことのできるお方を若いうちから心に留めよ、とコヘレトは言うのです。

確かにここに「青春の日々」とございますが。まぁ文字通りに受け取れば青年時代、若い人の歩みと考えますけれども。先の表現で言えば、まだまだ仮面をかぶって人生を楽しめているうちにと言うように読んでも良いと思いますけれども。何しろ今は超高齢化社会で元気なご高齢の方々も多いですからね。ともあれこの「青春の日々」にあなたを生かし、あなたのすべてのことをご存知であられる創造主なる救いの神と出会い常に手を心に留めて日々を生きることができる人こそ、たとえ仮面が破れても、はぎとられても幸なのであります。

私もまだ若かった頃、ミッションスクールで学ぶ学生たちのチャペルに招かれたおり、よくこの聖書箇所からお話をさせていただいたものですが。私自身もう、お世辞にも若いとは自分では言えませんね。今回これは単に若者や青年たちに向けたメッセージではなく、限りある人生を生きるすべての人間に向けて語られた言葉だと、しみじみ思ったわけです。

ですから、今日の宣教題は「いつも、青春の日々」。これは創造主なるお方に心を留めて生きるなら「いつでも青春の日々」と言う天の法則であります。

老年になって行くにつれ、若い時のように体も思うように動かず、忘れっぽくなり、身体的な機能が衰えていくようなことが増えてまいりましても、創造主により頼んで日々を歩む人のうちに、主は世にはない救いの喜びと平安、感謝と祈りの霊を注いで下さるのです。そればかりではありません。主を信じる兄弟姉妹との信仰の交わりを通して、御言葉の奥深さを体験させて下さり、祈り合い証を立てる生活には、まさに「今も青春」。「いつも、青春の日々」を歩む力が与えられるのです。

ここにいらっしゃる方の中には歳を重ねてから創造主と出会い、その救いを信じてクリスチャンになられたと言う方もおられるでしょう。まぁそうした方の中には、もっと若い頃に信仰を持つことができたら良かったのにと思われる方もおられるかもしれません。

けれども、聖書の中に確かにこう記されています。アブラハムが、その父祖の地を離れ、親族に別れを告げて、神さまが指し示す約束の地へ向けて旅立ったのは、75歳の時でありました。またモーセが、エジプトの奴隷状態からイスラエルの民を導き出すようにとの神さまからの召命を受けたのは実に80歳の老年になってからでした。まぁ今の年齢の数え方とは多少違うのかもしれませんが、それにしても高齢であった事は確かです。神さまのお働き、御業は人間の肉体的年齢によって決まるものではないのです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙第2、4章16節で『私たちは落胆しません。たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされて行きます』と書いています。大切な事は、今この時を、限りのある人生の2度と繰り返されることのない今日という日を創造主とつながって生きる幸い、その確信と確認です。

礼拝や祈祷会に毎週参加されておられるあるご高齢の方(いつもご夫妻で行動を共になさっておられますが)は、この聖書の箇所を読みながらこうおっしゃいました。「肉体の弱さ、歳をとることの現実を日々知らされています。でも、神さまは支えてくれている。そして何が嬉しいか。ここに集うことが1番の安心と喜び」。歳を重ね体の弱さや衰えを日々感じられる中でも、共に生きて下さる神さまに喜びと希望を持って集う方々の交わりの中に身をおきつつ、揺るがぬ平安を得る今が青春の日々。

今日は奏楽者のFさんが賛美歌の選曲してくださったのですが。Fさん曰く「2曲とも輝いてなんだかまぶしい選曲になってしまいましたが」と言うことでしたけれども。まさに今日のコヘレトの言葉から受けた「いつも、青春の日々」にふさわしい選曲であります。私たちの今この時、その折々が「輝いて生きる」ものとされて今週もここからそれぞれの馳せ場へと遣わされてまいりましょう。

 

祈ります。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちを老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:3-4)主なる神さま今日の御言葉をありがとうごいます。私たちを造り、生かしてくださるあなたがいつも私たちと共に歩んでくださっていることを、どうか日々忘れることがないように、私たちの信仰をどうか強めて、お支えください。そして、この地上にあっての歩み、人生が「いつも、青春の日々」として、あなたが私たちを導いてくださいますよう、お願いいたします。すべてを感謝し、この祈りを尊き主の御名によってお祈りします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11/8礼拝宣教・聖句

2020-11-05 13:19:55 | 教会案内

11/8礼拝宣教・聖句

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたのパンを水面に投げよ

2020-11-01 13:30:28 | メッセージ

礼拝宣教 コヘレト11・1-6 

先日、ある方が著名な医師の直近のビデオをご覧になっていると「コロナ禍の終息が見通せず今後も暫くこういった状況が続くと、さらに人と人とが出会い交流する機会が少なっていき、病になる方も増えて来るというようなことをおっしゃっていた」ということを伺いました。又、別の方からは「コロナ禍の状況下で多くの事件や事故が増加してきています」とおっしゃっていましたが。人との交流やコミュニケーションが不足しますと、ストレスが強くなり、苛立ったり逆に憂鬱になったりする場合が多くなるのでしょうか。さらにそれが続くと心だけでなく体にも不調が表われ、生きる力や魂まで萎えてしまうことにもなりかねないということです。さらなる社会的セーフティーネットも必要とされていることでありますが。

私たちにとりましては、まず、どんな時も共におられる主なる神さまと、又こうして主にあってつながる兄弟姉妹と共に礼拝を捧げ、祈り合うことができる世にはない平安と幸いを与えられていることは、実に尊い恵みであるといえます。

本日はコヘレトの言葉11章1-6節より「あなたのパンを水面に投げよ」と題し、御言葉に聞いていきます。まあこの聖句は比較的よく知られていると思うのですが。この聖句を聞いてまず思うのは、「私が何か行動を起こすことによって結果が生まれる」という人の働きや業についてでありましょう。

ただこの5節に「すべてのことを成し遂げられる神の業」とありますように、そこには人の働きや業に先立つ神の業に信頼をしてゆく信仰が、今日の御言葉の根底にございます。まずそのことを念頭おきながら読んでまいりたいと思います。

1節でコヘレトは「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう」と語ります。

「コヘレトの言葉」が編纂された時代はヘレニズム文化が栄え商業、海上交易が盛んでありました。そういう中、如何に利益を得、それを守り管理しながら運営するかということは、現代の企業や事業も同様といえましょう。まあこのパンを水に浮べて流すという表現は海上交易を連想させますが。パンを水に浮かべればふやけて沈んでしまいやすいということを考えますと、海を渡る交易には危険が伴うことをも表しています。しかしそういったリスクを負ってでもなしたことに対しては、月日が経ってから得るものを見出すと、そんな風にも読めます。ただパンは単なる商品に限ったものではないでしょう。人が生活するうえで必要なすべての糧、衣食住然りであるといえるでしょう。

コヘレトは「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」と言いますが。聖書で水、あるいは海は、しばしば不安なもの、恐るべきもの、危険なものを象徴して用いられます。私たちもよく「大海に投げだされた気持ち」などと言いますが。「恐れ」や「不安」は、私たちの心のうちにつきまといます。

最初に申しましたように、このコロナ禍では社会全体に恐れや不安が増幅してゆくような感覚を持たれる方も少なくないかと思います。けれど、今日の御言葉は、私たちに恐れや不安、思い煩うことを神にゆだね、人生に漕ぎ出す積極的生き方へと私たちを促します。

マタイ福音書6章25節以降において主イエスはこうおっしゃいます。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥も養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。・・・・信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。

この「これらのもの」とは、私たちに必要なパン・生活のすべてであります。生きがいや人生の充実もそうです。今日の5節にありますとおり「すべてのことを成し遂げられる神の業」を主に求め、期待し、神にゆだね、信頼して行く人には不安と恐れからの解放と共に、主がその人の必要を必ず備え、満たしてくださるのです。

又、コヘレトは2節「七人と、八人とすら、分かち合っておけ/国にどのような災いが起こるか分かったものではない」と語ります。

これは、たとえば1隻の舟にパン・財産をすべて載せてしまうと、万が一その船が事故に遭えば財産のすべてを失うことになる。だから、7、8隻の船にパン・財産を分けて交易を行えば先行き何かあっても対処できる、そういう賢明な奨めとも読めます。

まあ、担保するわけですね。これは現代においても当てはまることでしょう。それを一言でいうなら「分かち合っておけ」ということであるかと思います。信仰する者が万が一にも担保するのだの、備えて分かち合っておけだの打算的なことを言うのかと、いう意見はあるかも知れません。けれども、ここで言おうとしているのは、自分と人を生かすための信仰者に向けた教訓であります。

コヘレトの言葉4章では、人間の心の内に潜在する「孤独」について取り上げられていました。「ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない(これは人との関わりを拒む人のことですが)。際限なく労苦し、彼の目には富に飽くことがない。自分の魂に快いものを欠いてまで/誰のために労苦するのかと思いもしない。これまた空しく。不幸なことだ」。

コヘレトはここで自我に欲求を満たすため富に執着し、富を手元に集めることばかりを追い求め、人との関りを疎んじる人の結末の空しさを示します。そこで、コヘレトはこうした孤独な人に対してこう語るのです。「ひとりよりはふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れてれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のいない人は不幸だ」。なぜならそこには「慰める者」がいないからです。コヘレトは人としての人生に不可欠な他者との関り、分かち合いの大切さを語っているのです。神は人間が孤独であることを決して望まれません。分かち合える友がいるなら「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」とコヘレトは語るのです。

三つよりとありますのは、そこにその人と人の間に神さまが共におられるという恵みと幸いの確かさを表しています。そのことを踏まえつつ、本日の「七人と、八人とすら、分かち合っておけ」との言葉を読みますなら、主から与えられています私のパン、それは富に限らず、才能や時間、知恵や知識や労力を惜まず分かち合う「交わり」の中に、主ご自身が3つめの糸となって力強く、又ゆたかにお働きくださるということであります。

さて、コヘレトは4節、6節で次のように語ります。

「風向きを気にすれば種を蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない」「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、わからないのだから」。

先の海上交易の情景からここでは農作業の情景へと移りますが。ここも同様に「主なる神にゆだね、信頼する生き方」について物語っています。

古来よりパレスチナでは農夫は風向きをよんで種を放り上げ、風に乗せて地に種を蒔きます。風向きばかり気にしすぎれば何ヘクタールもの広大な地に種はまけやしません。それはリスクばかりを考え、それで頭がいっぱいになり何もできなくなってしまう人のことを示しています。又、せっかくの刈り入れ時に、雲行きばかりを気にしていますと刈りとることがでません。それも、人の意見やデータばかりが気になり、せっかくの機会を失ってしまう人のようです。そのような機会、チャンスを逸してしまっている人に、コヘレトは5節でこう語ります。「妊婦の胎内で霊や骨組みがどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない」。人間の憶測が最善ではなく、すべてを司られるのは神なのだ、とさとします。それだから6節「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから」。

先にも申しましたイエスさまが「思い悩むな」と言われた文末には、「それだから、まず神の国と神の義を求めなさい」と語られています。時が良くても悪くても、その風向きや雲行きに左右されることなく、まず神の国と神の義を祈り求めつつ、前へ歩みだすとき、必要なものすべてをご存じの主がその必要を満たし、備えてくださるのです。この私たちを罪の滅びから守り、必要を満たし備えてくださるいのちの言葉に堅く信頼してまいりましょう。

イエスさまは、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の労苦は、その日だけで十分である」と、おっしゃいました。私たちはつい明日の事まで考え、いろいろと思い悩むことがいっぱいです。しかし今日という日を精いっぱい生きることこそが大事、それで十分だとイエスさまはおっしゃるのです。明日のことは神さまが心配くださる。だから、明日のことは神さまにお任せして、私たちは「今日」というこの時この一日を、主に信頼して歩めば良いのです。この「その日の労苦は、その日だけで十分である」と訳された「労苦」の原語は、「悪」とか「災い」とも訳すことができます。

コロナ禍の先行きが見えないような状況に私たちは確かにございますけれども、大事な点は、その「労苦」「悪」「災い」を明日のことまで思い煩い囚われてしまうのではなく、「明日を守られる主イエスがおられる」と、そんな賛美がありましたが。

このように主に信頼して、今を精いっぱい生きる。そこに「あなたのパンを水面に投げよ」と、コヘレトは私たちにいのちの言葉を投げかけます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする