日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

わたしの宝

2019-11-24 15:59:13 | メッセージ

主日礼拝宣教 マラキ書31324

 

本日は旧約聖書のマラキ書第313節~24節より御言葉を聞いていきます。

まず、この個所は主なる神の審きの日が来ることを語っています。私たちはここを、主イエスの再来による最後の審判、それによるこの世の終りの到来の予告として読むことができます。17節、さらに21節に「わたしが備えているその日に」とあるのが、その主の再来の日、終りの日です。

まず、私たちはこの聖書の箇所が、神を知らない者にではなく、神とその恵みを知る「神の民」に語られたものであることを知らなければなりません。

その民について、今日の箇所は神の審きを前に大きく2つの立場がある、と指摘しています。

1つは、神さまを悲しませる神の民についてです。

すでに前回礼拝で読んできましたように、このマラキ書の時代は捕囚となった民がバビロンを倒したペルシャによって、エルサレムへの帰還が許され神殿の再建をするのですが。しかしその後彼らの期待したような復興は進みません。そういう中で神への思いと信仰は冷えてゆき、神に仕える祭司をはじめ、多くのイスラエルの民は、神の律法を蔑ろにし、主の名を軽んじていました。

主はまず祭司たちに対して、「神の前に汚れたパンや傷んだ捧げもの献げて、神の食卓と主の名を軽んじ、さらに一部の権力者や富裕層におもね、人を偏り見つつ教えた」と、告発されます。(2:5-9

また、36節以降には、イスラエルの民に対して、「あなたたちは先祖の時代からわたしの掟を離れ、それを守らなかった」と主は語っています。

神さまの祝福と約束は確かにある、変わらずに注がれているのですが。思い通りの状況がなかなか実現していかない現実に、民は不平不満をもち、主の恵みを見失い、信仰者としての生き方にも、人間関係にも、礼拝の姿勢にも、ささげものにも、破れが生じ、ひいては共同体全体の腐敗と滅びに向ってゆく。これは旧約の民の歩みの1つのパターンです。

そういう民に対して神さまは37節で、「立ち帰れ、わたしに」と御自身への信頼の回復を繰り返しよびかけられるんですね。

民の信仰が萎えた共同体の中では、神の教えは曲げられ、人々は呪術を行い、裏切りや偽り、不正や搾取が起り、貧富の格差が生じ、増していきました。

 

祭司はじめ、イスラエルの民は1415節にありますように、神さまが嘆かれるようなことを口にします。

「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても 万軍の主の御前を 喪に服している人のように歩いても 何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え 神を試しても罰を免れているからだ」と、つぶやいていたのです。こうした不信のつぶやきが神さまを深く悲しませるということです。

彼ら民にしてみると、神は人間の出来事に対してはっきりと正義を示して介入するべきだ、そうでないのなら神は不公平だ、とそう言いたかったのでしょうか。

 

神さまが残念に思われたであろうことは、この神への不平不満やつぶやき、反逆の思いがまったく神のことを知らない異邦人や異教徒ではなく、神に仕える祭司やイスラエルの民のうちから出ているという事であります。それが、神の心を深く痛め、悲しませたのです。

 

私ども主の御救いに与って生きるクリスチャンも、同様でありましょう。罪の滅びから贖われ、救いの恵み、感謝な思いを与えられて、希望をもって始まった信仰生活が、いつのまにか色あせ、アスファルトに落ちた種みたいに干からびたり、いばらが生えてきて恵みを感じられなってきてしまい、再び世の力や権勢、神でないものを主として依り頼んで生きることになるのなら、主イエスの十字架の苦難と、死は、その人にとって無意味なこと、偽りの歩みとなり、人の心を見通しておられる神さまを悲しませることになるのではないでしょうか。

この世の見える現実に心奪われてしまいますと、一体信仰が自分のために何の役に立っているのだろうか?信仰している意味は何なの?と、そのような思いが起ったことがあるという人は少なくないかも知れません。一体私たちクリスチャンの信仰とは何でしょうか?

聖書は物質的な又、社会的な祝福を否定していません。このマラキ書でも神さまはゆたかにささげることにおいてわたしを試してみよ、と言われ。必ず天の窓を開き、祝福を注ぐ、と言われます。

けれど、その祝福に先立つのは17節にありますように、神さまが「わたしの宝」だと言って、「神の宝」とされることです。

それは、主イエス・キリストなる神さまが、わたしのことをどんな時も、どこにいても、責任をもって引き受け、愛するためにこの神なき罪の世界から、私を「宝」(317)として愛し、その罪の滅びから救い、選び取ってくださったところにあります。それは私たちを取り巻く現実の問題が如何に厳しくとも変わるものではない神さまの恵みです。

 

罪深き、罪多き私が、全き聖なる神さまの前にとうてい立ち得ない者が、主イエス・キリストによって、罪の滅び、その捕われの身から贖い取られ、神の子とされている。もはや天の父よ、子よという関係とされている祝福であります。私たちはその主が私たちを全面的に愛し、信頼してくださっているという絶対的な恵みのゆえに、たとい苦難にあったとしても、主に祈ることができるのです。ここに信仰の大いなる希望があります。神さまに大いに期待していいのです。

 

さて、先に神の審きを前にして、今日の箇所は大きく2つの立場がある、と指摘していると申しましたが。

2つ目の立場は、神さまを喜ばせる神の民についてです。

神への不信を露わにする人たちがいる一方で、主を畏れ敬う者たちもいる、ということが16節に記されています。

「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。」

厳しい現実の中でも、又不信仰のつぶやきの中でも、ひたすらに隠された神のご支配を、信仰の目で見つめ、それを信じて神に従って生きる者たち。彼らはむなしく泡のように消える「つぶやき」ではなく、「互いに語り合う」ことで、それは信仰の言葉で互いを励まし合うということではないでしょうか。そのことによって自らがを罪から守るのであります。教会という共同体がどうして存在しているのだろうかと思うとき、この「互いに語り合う」ために教会は存在しているんだと思えるんですね。

そしてここで注目すべきは、そういう語り合いによって交される主なる神を畏れる者たちの言葉を、主がみ逃すことなく耳を傾けて聞いてくださっているというということです。そのように神を畏れ敬う者を神さまは喜んでくださり神さまの命の記録の書に書き留められるという世にはない次の祝福を与えてくださるのです。

 

さらに1718節では、 「わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると、 万軍の主は言われる。(先ほども触れましたが、すごいことですね。神さまの宝ですよ)人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう。」

17節に「わたしが備えているその日に」とあるのは、はじめに申しましたように、終りの日です。その日に何が起るのでしょうか。

の日、裁きの日、主イエスの再来の日には、主を畏れ、神に従う信仰者たちが、神によって神さまの宝として憐れみを受けるのです。

ここのヘブライ語の「憐れみ」の原語は、「選び取る」というという意味があります。つまりそれは神さまのものとなる、具体的には神の子としてこの世界から選び取ってくださるという意味です。

それはまさに、「正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別」が 明らかにされるときです。それがまさに審きです。その審きにおいて神のご支配が目に見える仕方で明らかになる。「神を信じて仕えても虚しいではないか」というつぶやきと不信仰は打ち砕かれます。世にあって神を畏れ敬い、信じ仕えてきた信仰者の歩みが明らかにされ、神の大いなる憐れみ、恵みを受けるのです。

 

さらに21節の「わたしが備えているその日に」と、主が言われるその終わりの日を、私たちクリスチャンは主イエス・キリストの再来・再臨の日として待ち望んでいるのです。

主イエスの再臨において、すべてが神さまの憐れみのうちに、その愛のうちに報われる、神の宝とされる。だから、今のこの、主のご支配がなお隠されている世界においても、その日その時に向って、主を畏れ敬い、信仰をもって忍耐強く、希望をもって主に仕えて生きるのです。

この、再臨によって明らかになる神さまの憐れみ、神さまが今すでにわたしの宝わたしの子としてこの罪の世から選び取ってくださっている恵みが、損なわれることのないように日々新たな救いの喜びに生きる者でありたいものです。

日々、私たちが健やかに生きるために呼吸が必要であるように、生ける神さまと向き合って日々祈りの対話を努めていくこと。又、私たちが健康を保つために日毎の糧が必要なように、日々霊の糧である御言葉を頂くこと。さらに、霊的な成長を助けてくれる信仰の友、兄弟姉妹との交わりに身をおいて、共に主に仕える時、神さまは聖霊をお送り下さり、私たちの信仰を刷新し、いつもみずみずしく新鮮なものとなしてくださいます。

目的のない人生ほどむなしいものはありません。

私たちクリスチャンにとって真に幸いなことは、私たちがどこへ向かって歩んでいるか、ということを今日の御言葉のごとく、知ることが許されているということですね。

 

本日は世界バプテスト祈祷週間を覚えての礼拝です。私たちの歩みが、主を悲しませるものでなく、主に喜んでいただけるようなものとなりますよう、今日は特に世界宣教の働きを祈りに覚え、捧げつつ、又わたしたちも身近なところから、その生の全領域において、主イエスの福音を伝え、証し、共に分かち合っていくものとされてまいりましょう。

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岸義紘先生特別集会の報告

2019-11-22 09:35:39 | 巻頭言

過ぐる11月17日(日)岸義紘先生を迎えての特別集会&チャペルコンサートが行われました。

聖書のおはなしは大変わかりやすく、当日は関西の大阪女学院、桃山学院、梅花女学院、同志社香里と、4つのミッションスクールの学生たちも集われ、

岸先生のおはなし&ソプラノ・アルト・テナの3つのサクソフォンの演奏に聴き入っていた様子でした。

毎日3時間はサクソフォンの練習を欠かさない、とおっしゃっておられ、その音色は繊細で時に大胆なもので、わたしたちの心を元気にしてくださいました!

岸先生ありがとうございました。

感謝して

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秋の特別礼拝&チャーチコンサート ご案内

2019-11-16 19:23:05 | イベント

17日 岸義紘先生をお迎えしての午前は特別礼拝と午後はチャーチコンサートが開催されます。

①特別礼拝 午前10時30分~特別演奏 メッセ-ジ「赦されているのに赦されていない人がいます」 自由献金はあります。

②チャーチコンサート 午後2時(1時半開場)~三つのサクソフォンの演奏&トーク 入場無料

 

【岸義紘先生 プロフィール】

☆1941年8月、東京都に生まれ、岡山県育ち。キリスト教系の高校を卒業後、早稲田大学第二文学部西洋哲学専修科入学。

 早稲田大学第二文学部卒業後、聖契神学校卒業。米国フラー神学大学大学院世界宣教学部修士課程卒業、神学部で学ぶ。

 米国ゴードンコンウェル神学大学より名誉神学博士号授与される。現在、ミッション2001伝道者、説教者。 宣教神学校

 創立者、前学長。

☆著書「あなたと考える愛というテーマ」「おかあさんだいじょうぶです」「お父さん、出番です」「キリストのたとえ話」

「男女・結婚・恋愛」「躍動する神の愛」「明るい日本のクリスチャン」「試練をこえて」「クリスマスをあなたに」

「日本の信徒伝道はこれだ」新約聖書注解書シリーズ他

☆音楽活動 サクソフォン奏者で、68歳のときタワーレコード渋谷でデビュー。

 サクソフォンアルバム「ああ 主のひとみまなざしよ」「このすばらしき世界」「マイハート オン」「アメイジング グレイス」

「名歌名曲の世界」「聖歌讃美歌の世界」他

☆国体神奈川県代表他、日本マスターズ水泳25メートル自由形(45~49歳)前日本記録保持者

 ムラサキスポーツ競泳チーム監督・選手。            

 

興味のある方はどうぞお気軽にご来会ください。

 

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こども食堂;親子ひろばのご案内

2019-11-10 20:19:07 | お知らせ

☆11月13日(水)


☆午後3時~7時

 

☆ばしょ:大阪教会の2階ホール


☆こんだて オムレツ、スープ、サラダ


☆さんかひ こども 50円

      親・おとな 200円


みんなでいっしょにたべて、うたい、あそぼうー。

宿題もっておいでや~。

赤ちゃん連れのママ・パパも、歓迎いたします。


ボランティアさん、ほぼ10人おります。


お気軽においでや!

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わたしを試してみなさい

2019-11-10 19:54:34 | メッセージ

礼拝宣教 マラキ書2章17-3章12節 バプテスト福祉デー 

 

今日は、バプテスト福祉デーをおぼえての礼拝でもございます。福岡にあるバプテスト心身障害児(者)を守る会・久山療育園、キリスト者奉仕会・大牟田敬愛園、京都にありますバプテストめぐみ会・バプテストホーム、大阪にありますしんもり福祉会・平和の子保育園、都城にあります相愛会・相愛保育園と全国に5つの社会福祉団体があります。どうかその一つひとつのお働きのためにお祈りとお支えをお願いいたします。

 

さて本日は聖書教育の箇所にもどりマラキ書からみ言葉に聞いていきます。

このマラキ書は、紀元前5世紀頃に活動した預言者の書といわれていますが。

 

 イスラエルがバビロンに討ち滅ぼされ、捕囚となったイスラエルの民は、後にペルシャの王キュロスの許可を受け、神殿を再建する為のエルサレムへの帰還が実現しました。

 そうして預言者ハガイやゼカリヤの奨めと励ましによって、崩壊していた神殿がついに再建されます。

 ところが、一部の富裕者を除き、多くのイスラエルの民は飢饉や貧困に悩み苦しんでいたのです。

同年代のネヘミヤ記5章を読みますと、飢饉や貧困の中、イスラエルの一部貴族や役人が、イスラエルの庶民に税の取り立ての強要や、搾取を繰り返し、「同胞に重荷を負わせていた」(ネヘミヤ5章)とあります。

 そればかりではありません。神さまとの「いのちと平和の契約」を結んだレビ族の祭司たちも又、神を畏れ敬うことなく御名を軽んじるような悪を働いていました。

そのような彼らに、主は預言者を通して言われます。

「あなたたちは道を踏みはずし、教えによって多くの人をつまずかせた。レビとの契約を破棄してしまった」「あなたたちがわたしの道を守らず、人を偏り見つつ教えたからだ」。

 

「裁きの使者」

 そう言う社会的状況の中で、民もまた神さまに不満をぶつけます。

民は「なぜ悪を行う者を神が良しとされ、彼らを喜ばれるのか」。「裁きの神はどこにおられるのか」などとつぶやくのです。

 神殿は再建されたものの、社会的な格差が生じ、庶民の現実の生活は変わるどころか悪くなってゆくばかり。その不満と怒りが、次第に神さまの御名を軽んじることとなってゆくのです。

 確かに困窮した状況もあったでしょう。しかしそれがだんだん露骨に現れてきます。神殿で捧げる奉納物について「何と煩わしいことか」と言って神様をがっかりさせ、1章にありますように、その手元にある家畜の中から、なるべく価値の低い傷もの、欠陥ものをごまかし、偽って主にささげていたのです。

これも又、政権者や富裕層、また祭司と同様に、神を偽り軽んじる行為でありました。

 そんな彼らに対して神さまは預言者をお遣わしになるのですが。

 彼らは「我々はどのようにして御名を軽んじましたか」また「どのように主を疲れさせたと言うのですか」と問うのでありますが。

 しかし主はすべてをご存じです。彼らの心がもはや救いの神への感謝と賛美から離れ礼拝を軽んじ、神さまとの契約において期待された命と平和と正しさ(2章5節)とを疎んじていたこと。それは不信仰と神の愛に対する裏切りでした。

 

 それでもなお主はその民に向け、預言者を通して悔い改めと立ち返りの命の道をお示しになるのですね。本当に何と主は憐れみ深くご忍耐強いお方かと思います。

私自身を省みましても、数々の至らなさ又弱さ、失敗を繰り返すような、到底主の許しがなければ神のみ前に立つことなどできない者であることを知らされます。

ただ主の憐れみにおすがりする他ないものであります。

日々自分の思いと行動を吟味しつつ、主のみことばと救いのお恵みに応えて生きるものでありたいと心底願うものです。

 

 さて、主はこの預言者を通してイスラエルのレビの子祭司と、民の全てに向けて語られます。

3章1節「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る」と万軍の主は言われる。

メシヤの到来に関する預言でありますが。

 これは、私たちキリスト者が読みます時に、使者はバプテスマのヨハネを、待望の主はまさに主イエス・キリスト、私たちの救いの原型をここに見るのではないでしょうか。

 

 2節には「だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁(あく)のようだ」。3節「彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである」とその方のお姿を示します。

 実際主イエスさまは、その正しいお言葉と行ないによって、祭司や律法学者、又民衆の罪と不正を露わにされ、罪を清めて汚れを除くお方としてこられたのです。それはまた私たち異邦人にもそのような救いがもたらされるためでした。

 4節に「このお方を通してユダとエルサレムの捧げものは遠い昔の日々、過ぎ去った年月にそうであったように主にとって好ましいものとなる」とありますように、救いの感謝と賛美を持って捧げられる霊と真の礼拝がやがて主によって実現されてゆくのであります。

 ここでは5節で、イスラエルの民のなした数々の罪に対して、主は自ら裁きのために近づかれ直ちに告発すると言われます。告発と言うのは非常に強い表現でありますが。しかしそれほどまでに罪が指摘されている彼らに対して、神さまは悔い改めの勧告をなさいます。

「立ち帰れ、わたしに。そうすれば わたしもあなた方に立ち返る」。神はそう呼びかけ続けておられるのですね。

しかし、民は頑なで、あるいは自分たちがどういう状況であるか心が鈍くなっていたために「自分たちは一体どのように立ち返ったらよいのか」と問い返すのみであります。

 

「回復される信仰」

 祭司の責任は大変重いものでありました。

祭儀に携わるレビ族の多くは嗣業の土地をもたず、収穫や所有地がありませんでした。神に信頼して行く中で、すべての必要が備えられる信仰をもって主と人に仕えたた。これが祭司でした。

祭司たちが人を偏り見たり、「いのちと平和」の契約を軽んじるようなことをするなら、そのレビの子たちの言動に民たちは戸惑い、多くをつまずかせてしまうことになったのです。

 だから、まず祭司であるレビの子ら自身が主によって精錬され、清められる必要があったのです。

それは「彼らが主に献げ物を 正しくささげるものとなるため」であります。

 

神を神として畏れ、敬う道を真っ直ぐに自ら進む姿勢であります。

主はレビの子らに立ち帰れと呼びかけ、罪にまみえる汚れ、神ではなく自我への執着という不純物を主が取りのぞいて、主に捧げ物を正しくささげる者となることが求められていたのです。

「正しくささげる」とは、どれだけささげたか、という何か量で計れるようなものではなく、まことの神を神として畏れ、敬う姿勢にあります。

わたしどもの罪を贖ってくださった主の御愛は、わたしどもがどんなに富や宝を積んでも買うことのできないか神さまの恵みであります。

主はただ、わたしどもが罪贖われたものとして、主に立ち返って、新しく造られた者として生きる事を願っておられます。

又、一度主のもとから離れてしまっても、やり直す道を主は備えていてくだいます。

わたしどもの信仰は小さく、弱いものです。しかし、主は真に立ち帰るものを憐れみと慈しみをもって迎えてくださるお方です。

 

この主に立ち返って生きることこそが、私個人にとどまらず私をとりまく人や社会の「命と平和」へと繋がってゆくのです。

 

「わたしを試してみなさい」

 さて、イスラエルの民がずっと守り続けてきた10分の1と奉納物の教え。それはエジブトの奴隷状態であった彼らが、そこから解放されて神さまの選びの民とされてゆく中で、神さまとの契約に応える形で捧げられてきたのですが。

 

この時代におけるユダの人々は一向に繁栄を取り戻せない状況の中で疲れ果て、その不平不満が主に向けられ、信仰が萎えていたのです。

これに対して、主は預言者を通して厳しく臨まれます。

8節「人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一と献納物においてである。あなたたちは、甚だ呪われる。あなたたち民全体で、わたしを偽っている」。この「偽っている」という言葉を新改訳聖書では「盗む」と大変ショッキングなかたちで訳されています。が、

ニュアンスや意味としては「盗む」の方が「偽る」よりも原意に近いかと思います。

 

 神がイスラエルの先祖とその子孫に命じられた十分の一と献納物の掟、レビ27章、民数記18-19章を見ますと、祭司と祭儀を担うレビ族は土地や資産を所有せず、他の部族の捧げる10分の一の捧げ物と献納物の中から生活の必要を受け取り、その務めを果たしていました。また彼ら自身も十分の一を納めていました。

 そして彼らレビ族は、真理の教えを語り、それらの捧げ物を町の中に常に蓄えておき、在留異邦人、みなしご、やもめたちが十分に食べられるように管理、分配するように定められていたんですね。本日はバプテスト福祉デーですが。それは福祉のためにも活かされていったのです。

まさに「いのちと平和」が保たれていくための十分一の捧げものであったんですね。

それは、イスラエルの民が与えられている全てのものは神のものであり、それらが共同体で豊かに分かち合われることによって神の愛と慈しみが現わされるため行為であったのです。

 

 ところが、このマラキ書の時代イスラエルの民の多くは、自分たちが所有するすべてが主から与えられたもの、管理を委ねられているものであって、それは「命と平和を創り出すため、神から委ねられているものである」という意識が大変希薄になっていたようです。

 

 祭司やレビ人は本来の役割をないがしろにし、裕福な人や力を持つ人は不正や搾取といった不法を行い、民衆は神への不信を引き起こしました。これはもう不信仰のスパイラルとでも言いますか。

バビロン捕囚の時代から解放されて国の再建と神殿の建築がせっかく完成したのにです。

 そこで主は7節「立ち帰れ、わたしに。そうすればわたしもあなたたちに立ち帰る」と呼びかけられて、10節にあるように「十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと 万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために 天の窓を開き 祝福を限りなく注ぐであろう」と言われます。

それを持って「命と平和」が告げ知らされ、共同体の誰もが困窮から救われるためであります。

 

 さて、キリスト者がここから献金について学ぶとき、丁寧な解き明かしを欠く為に、ともすればこの「試す」ということについて誤解をしてしまうことがあります。

それは例えば、「神さまを試すことは普通慎まなければならないが、この十分の一をささげる時だけは神を試してもいい」と解釈する人もあります。

「だまされたと思って試してみなさい」と安易に口にしてしまう人もいるかもしれません。

 

 そこで覚えたいのは、聖書には「神を試みてはならない」との戒めがあり、又、新約ではイエスさまが荒れ野でサタンの試みに遭われた折、イエスさまがサタンに対して「あなたは神である主を試してはならない」と指摘された事です。

この場合の「試す」(ニッサー)は、悪魔や誘惑する者が、悪意や疑念をもって神を試みるときに用いる言葉であります。しかし聖書にはもう一つ「試す」という原語があります。それがこのマラキ書の「主を試してみなさい」という「試す」(バ―ハン)であります。

 それは先のように悪意や疑念をもって私たちが神さまを試すものではなく、神さまが愛のまなざしをもって、その民、その子に「さあ、わたしに信頼してごらん」という信仰的応答への招きの言葉なのであります。

 同じ日本語で試すと訳されていますが、意味が全然違うのです。聖書を原語から読みってだから大切ですよね。

ここで主は、疑う者、不信仰なイスラエルの民をあきらめることなく、「わたしに立ち返り、十分の一のささげものに対しても、わたしを信頼してごらんなさい」と語りかけ、自らも、また共同体全体も祝福の恵みと豊かさに与って生きるよう招いておられるのです。

 これはまさに、主の恵みの招きに、信頼と心からのささげものをもって応えていく者に、主は天の窓を開いて、その必要を満たしてくださる。そればかりでなく、その豊かさが溢れて隣人の必要までも満たしていく、そのように用いられていくと言う神の国の喜びがそこに開かれていくのであります。

 

 私も神学校に行くとき、又牧師と立てられてからの長い年月において、エリヤのからすのお話しではありませんが。本当に主は、私的にピンチと思えるようなことがあっても、その必要を主は十分に備えていてくださいました。

 こうして今日もお用いいただき主の恵みをわかちあうことの許されている幸いを心から感謝しています

今日のみ言葉を私自身、主の戒めとして肝に銘じ歩んでいきたいと願うものです。

 

 神さまへの捧げものは、救いの喜びと感謝の応答です。それは献金に限らず、生活のすべてにおける時間、からだ、与えられた能力や賜物が神と隣人を愛し、分かち合い仕えるために神から託されているものであります。

私を信頼して試してみなさいと招かれる主の愛のみ声にこたえつつ、今週もこの礼拝から希望をもってそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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バラムとロバ(更新)

2019-11-03 14:00:08 | メッセージ

礼拝宣教 民数記22・21-35 

 

「背景」

モーセとイスラエルの民がエジプトを出て、モアブの平野まで進んできた時のこと。

 モアブの人々は、イスラエルがアモリ人に対して勝利し、その国を支配下においたあり様をことごとく見て、恐れを抱き、気力もうせて「今やこの群衆は、牛が野の草をなめ尽くすように、我々の周りをなめ尽くそうとしている」と口にします。

 そこでモアブの王バラクは、ペトルの地に住んでいた霊能者バラムに「イスラエルの人々を呪ってほしい」と使者を送るのです。使者は礼物を携えていました。まぁ大層な報酬を持って行ったわけです。

その夜神はバラムに、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」と命じられます。

そこでバラムは神の言葉を王の使者に語り、帰るように伝えます。

しかし王は、前よりも多くの身分の高い指導者たちをバラムに遣わし、「あなたを大いに優遇します。言われることは何でもします。どうか来て、わたしのためにイスラエ

ルの民に呪いをかけてください」と伝えさせます。

王バラクは、先に送った使者と同じように再度「わたしのために、彼らに対する呪いをかけてください」と言わせています。

 

王は霊能者バラムから「神が呪ってはならないと言われる」と、神さまの御心を聞いていたのです。

ところが王は、全能者なる神さまの御意志ではなく、自分の個人的な思いや願望によって相手を破滅させよう、と再度、霊能者バラムに依頼をするのです。これはまさに異教的、呪術的な考え方です。この願いの出所は、真の神を神とせず、「自分の願望こそ実現されるべき」という神への背神と傲慢です。


 聖書を読みますと、神は占いやまじないを嫌われると随所に出てまいりますが。

それは神の御心を尋ね求めること、又、神に信頼して生きること、一言でいえば「神を神として生きる」。そう言う信仰に反して、人が自分の願望や欲望を満たすために神さまを自分の思い通り動かそうとまでする、そのような人の心のさもしさと傲慢を、神さまが大変いとわれるからです。

私たちは物事が思い通りにいかない時も、又窮地に立たされるような時も、唯、全てをご存知で、祈りと願いに耳を傾け、万事において最善を成してくださる神さまにどこまでも信頼して生きてゆく。これこそが最善の祝福の道であり、信仰であります。

 

さて、王のそのような申し出に対して霊能者バラムは、「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません」と答えます。

素晴らしい、信仰者の受け答えですね。が、しかし一方で彼はバラクの使者たちをすぐに帰らせることをせず留まらせて、「主がわたしに、この上何とお告げになるか、確かめさせてください」と言います。

確かに口では、「わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません」と言うのですが、何かの思いが、王の使いをすんなり返そうとさせはしないんですね。ここにはバラムの心が2つに割れ、揺れ動いている様が表れています。

神に仕える心と自分の思惑(おもわく)。神のみに仕える心が、地上の王と貢物を前に揺らいでしまったのかもしれません。

 

その夜、神はバラムに「これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない」とお告げになります。

ただ、それは「これらの者があなたを呼びに来たなら行くがよい」とあるように、主なる神が「行きなさい」と命じておられるのではないのです。

イエスさまは「あなた方はただ然りは然り、否は否でありなさい」とおっしゃいましたが。ここでバラムは神さまに従うがどうかを試みられているのです。

そういう中で結局、「バラムは朝起きるとロバに鞍をつけ、モアブの長と共に出かけた」というのです。ここからが本日の箇所でありますが。

 

「バラムとロバ」

まあそうして彼が出発しましたところが「神の怒りが燃えあがった」というのであります。

神は、バラムがバラクの高官たちと共にモアブに行くことを許されながらも、バラムに対して怒りを現わされたというのですね。これは一体どうしてなのでしょう?
それは先に触れたように、二心となり神に従う道をあやふやにしたバラムの心を知って非常に憤られたからです。


神さまは全てのものをお造りになられた父なるお方です。

その愛はねたむほどに強く、ことにご自分の民としてお選びになった者にはその愛が裏切られるような場面において、燃え上がるような怒りと悲しみをもって臨まれるのであります。

バラムに関しましても神さまはお怒りになられますが、それならなぜ神さまはきっぱりとバラムに「行くな」と禁止されなかったのでしょうか?

 

それは先に申しましたようにバラムを試みられた、どのようにバラムが行動するか見守っておられたのだと思います。

バラムが自分でも気づかないうちに二心を起こし揺らいでいることを神さまは見通しておられ、彼がどのようにするのかをじっと注視しておられたのです。      神さまは人間をロボットのようにはお造りになりませんでした。自分で考え、自分で選び取ることを一人ひとりに委ねておられるのです。

こと信仰者に対しては、その人が何をどう選び取っていくのかを、神さまは期待を持

ってじっと見守っておられるのです


バラムは自分がどう行動するかを自分で決めなければなりませんでした。            

結局彼は、「よかった、Goサインがでたぞ」ということで自分の思いを果たすべくモアブの地に向かおうとします。

しかしそれは彼が神さまの試みであることに気づけなかったと言う事であり、神さまの御意志、すなわち「神はイスラエルの民を祝福し彼らを呪ってはならないと願っておられる」ことに、従いえなかったと言うことでありましょう。

私たちは様々な試みとも言える状況の中で何をどう神の前に選び取ってゆくかが問われています。

コロサイの信徒への手紙1:9以降には、「どうか、”霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神のみ心を十分に悟り、全ての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行なって実を結び、神をますます深く知るように」とあります。

 

自分の判断最優先で、主の御心を見失うことの無いように聖霊のお助けをいただきながら祈り、み言葉に聴き、歩む者でありたいと願う者です。

 

さて、バラムはロバに乗り、二人の若者を従えていたのですが。そこへ主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっていました。

この主の御使いを見たロバは、道をそれて畑に踏み込みました。一方、バラムはロバを打って、道に戻そうとします。

 すると今度は主の御使いは、ぶどう畑の間の狭い道に立っていました。ロバは主の御使いを見るや、その道の石垣に体を押しつけ、バラムの足も石垣に押しつけたのです。するとバラムはまた、ロバを打ちました。

さらに進むと、剣を手にした主の御使いは、今度は右にも左にもそれる余地のない狭い場所に立ちふさがっていました。ロバはその主の御使いを見るや、バラムを乗せたまま、もうよけようが無いものですから、とうとうその場にうずくまってしまいました。するとバラムは遂に怒りを燃え上がらせ、まあ本気でロバを杖で激しく打ったというのです。


まぁつまりロバは三度剣を手にした主の御使いの姿を見ているのに、バラムにはそれが全く見えていなかったんですね。

バラムは何とかして自分の願う道を通したいと急いでいたために、主の御使いに気づきません。それに気づいて災いを避けようとしたロバは、彼にとって自分の願望を邪魔するものに過ぎません。

 しかし本当は命の恩人(ロバなのに恩人というのも変ですが)、ロバはバラムに罪を犯させまいとする存在なのです。

それがわからないバラムは、ただ自分の思いを妨げるかに見えるロバに対して、激しく怒りを燃え上がらせたのです。


これは一つの教訓とも言えます。

私たちには人としての願望があります。しかし余りにもそれに固執してしまったり、自分は絶対正しいと頑なになってしまうと、周りの忠告にも聞く耳持たず、せっかくの助言もいまいましいものに聞こえてしまうでしょう。それは危機から守り罪を犯させないため、又大きな過ちから遠ざけるために神が遣わされた人、あるいは出来事かも知れないのに、それを疎んじてしまうということがあるかもしれません。

 この事を通して、主は私に何とおっしゃっているだろうか、と謙遜さを持って耳を傾ける者でありたいと、私自身思わされる訳ですが。


「ロバがしゃべる」

 さて、そこで主はロバの口を開かれます。

ロバが「わたしがあなたに何をしたというのですか。あなたは三度もわたしを打ったのです」といいますと、

それに対してバラムは「お前がわたしを侮(あなど)ったからだ。わたしの手につるぎがあれば、いま、お前を殺してしまうのだが」と答えます。

バラムは主の御使いの剣が自分に向けられているのも知らず、そのように言うのです。

さらにロバはこう言います。「わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか」。

バラムは「いや、しなかった」としか答えることができなかったとあります。

何だか漫才のやりとりでも見ているかのようで、思わず関西弁に翻訳したくなりますが。

聖書で動物が言葉を話すのは他に創世記のヘビがおりますけど、主が口を開かれたのはこのロバだけなのですね。何ともユニークな個所でありますけれども。


「バラムの心の目が開かれる」

 さてそこで、主は今度はバラムの目を開かれます。すると、彼は、主の御使いが抜き身の剣を手にして、道に立ち塞がっているのを見るのです。

 驚き身をかがめてひれ伏すバラムに、主の御使いは「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤った道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。ロバはわたしを見て三度も身を巡らしてわたしを避けた。もしろばが身を巡らしてわたしを避けなかったなら、わたしはきっと今あなたを殺して、ろばを生かしておいたであろう」。

それを聞いたバラムは主の御使いに言います。「わたしは罪を犯しました。あなたがわたしをとどめようとして、道に立ちふさがっておられるのを、わたしは知りませんでした。それで今、もし、お気に召されないのであれば、わたしは帰りましょう」。

 

ここでバラムは自分の罪を主である神さまの御前で悔い改めています。

「自分の中に神に従い得ない所があったかもしれない」「どこか不従順な思いがあったかもしれない」そのように彼の心の中が探られたんですね。

 

私たちも時にこう言うことがあるのではないでしょうか。

「信仰のあり方が今問われているなぁ」「あのことは主の御心に叶わなかったのではないだろうか」。そう自問自答したり後悔したりと。そう言うときは本当に謙遜にされますね。

 

 さてそのように、主のみ前で身を低くするバラムに対してみ使いは言われます。

「この人たちと共に行きなさい」。今度は「行きなさい」とお命じになっていますね。
ただし釘を刺して「ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」とおっしゃるのです。

ここで主の御使いはバラムになぜ「引き返せ」とおっしゃらなかったのでしょうか?

それは、バラム自身がその信仰を問われ、改めて主に従う道を見出したからではないでしょうか。

主は、この新しくされたバラムを遣わし、「神が告げられる言葉」のみを伝えるという「使命を託された」ということなのでしょう。

 

バラムはこの後、モアブの王バラクに対して、主に命じられたとおり、主の告げられることだけを告げます。

 多くの宝を積まれ、王がイスラエルの民を呪うよう願っても、バラムは「主がわたしの口に授けること。わたしはそれだけを忠実に告げるのです」と答えます。

もし彼にロバと御使いの一件がなく、そのまま目的地に辿り着いていたなら、もしかすると王と多くの宝を前にして、主の御心に反する事を行い口にしたかもしれません。

 私たちは色んな出来事に遭遇した時、心変わりしたり、揺さぶられたりしやすい者であります。ただ、自分のそんな弱さを認めて心から謙遜にされ、主の御心に尋ね求める他ありません。

 詩篇103編にございますように、「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。そのようなお方」であられます。

私たちの救いの主にいつも目を向け、信頼をし、誠実に従っていく道を歩んでいくものとされたいと願います。


最後に、今日の箇所で興味深いのは、このバラムとロバの出来事は当面のイスラエ

ルの民の全くあずかり知らないところで起こったという事であります。主の民は敵の呪いから守られ、主の祝福は奪い去られることはなかったのであります。隠れた神さまのお守りとお導き、御配剤があったということであります。

 

 私たちも、なかなか気づくことができませんが、後になって、「あのとき、主が助けを送っていてくださったのだなあ。あの出来事を通して私を守っていて下さったんだなあ」というようなことが後になってわかった、そういったことはございませんか。

主は愛するものを、気づかないうちにも守りのみ手を持って持ち運んでいてくださるのです。

 

ローマ8章28節で使徒パウロは次のように記しています。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っています」。

アーメン。

私たちは、日々神さまに愛され、守られ、祝福されています。そのことを知っているということは、どんなに感謝で、ありがたいことでしょうか。又、さらに主にある兄弟姉妹に祈られ、執り成されています。

主にある愛のつながりによる、このキリストのからだなる教会が私たちに与えられています。それもまた本当に世にはない恵みであります。

主に益々信頼して、主の見前に共に進む神の民とされますよう祈り求めつつ、この礼拝からそれぞれの持ち場へと遣わされてまいりましょう。

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集会のご案内

2019-11-02 15:23:25 | 教会案内

「集会案内」を更新いたしました。

興味のある方は、お気軽にご来会ください。問い合わせも受付けています。

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秋のチャーチ・コンサート~3種類のサクソフォンによる~ ご案内

2019-11-02 08:34:16 | イベント

来たる17日 岸義紘先生をお迎えしての午前は特別礼拝と午後はチャーチコ

ンサートが開催されます。午後のチャーチコンサートはサックスフォンの演奏

とお話しがなされる大変楽しみなコンサートとなっています。

入場は無料です。

興味のある方はどうぞお気軽にご来会ください。

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