今年も日本バプテスト大阪教会のブログにご訪問いただき、ありがとうございました。
コロナ禍にあっても何とか毎週の礼拝宣教を中心にお届けすることができました。
新年も引き続き聖書からのメッセージを中心に発信していきたいと願っております。
今後ともよろしくお願いいたします。
皆様のうえに神の守りと祝福をお祈り申上げます。
感謝して
2020年12月31日
今年も日本バプテスト大阪教会のブログにご訪問いただき、ありがとうございました。
コロナ禍にあっても何とか毎週の礼拝宣教を中心にお届けすることができました。
新年も引き続き聖書からのメッセージを中心に発信していきたいと願っております。
今後ともよろしくお願いいたします。
皆様のうえに神の守りと祝福をお祈り申上げます。
感謝して
2020年12月31日
2020年 歳晩礼拝宣教 マタイ2・13-23
音声→https://drive.google.com/file/d/1Rmh71fjlxzPFXWdMPdkdQbt-W7Elvtam/view?usp=drivesdk
アドベントから先週のクリスマス主日礼拝、そして24日のキャンドルライトサービスには主の招きのもと初めて教会に来られた方々ともご一緒に救い主イエス・キリストのご降誕をお祝いすることができ感慨深い時となりました。
今年はその始まりから世界中が不安と恐れに震撼するような事態となり、未だに収束の兆しさえ見えない状況でありますが。こうして歳晩礼拝の場へ帰ってくることが許され心から感謝します。礼拝の音声データや宣教原稿、ブログ等を通して共に礼拝を持たれている方の上にも、等しき神の守りと祝福をお祈り申しあげます。
人類の歴史には様々な時代がありましても、天地万物をお造りになり、すべてを司っておられる主なる神さまの統治はとこしえに変わることはありません。あらゆる予期せぬ出来事が如何に強く働きましょうとも、活ける神にのみ救いは確かに日々生まれ、人の世の理不尽ともいえる状況の中にも主は共にいまし、守り導いてくださることを、今日のメッセージから受け取ってまいりましょう。
本日の聖書箇所には、聖家族のエジプトへ避難、ヘロデ王のベツレヘムにおける幼児虐殺、再び聖家族がイスラエルの地へ帰って来て、ナザレの町に移住するという記事が綴られております。クリスマスの全世界に与えられた救いの喜びから一変して嘆きと悲しみの出来事が起こるのです。ヨハネ黙示録には、火のように赤い竜が男の子を産んだ女に対して激しく怒り、その子もろとも亡きものにしようと後を追ったと記されていますが。まさにそのように、すべての人に向けられた神の大いなる救いの誕生に、世の力と罪とが敵対して、神の恵みを亡きものにし、損なわせようとするのです。
この新しい王メシアはもちろんユダヤの人々、エルサレムの住民、そしてヘロデの救いの喜びのためにお生まれなったになったのです。それも拘わらず、ヘロデは自分の地位と栄誉が損なわれるかもしれないという猜疑心から喜びを失うことを非常に恐れるのです。占星術の学者たちからの報告を待っていたヘロデは学者たちが戻って来ないので大いに憤り、ベツレヘムで生まれることになっているその子を亡きものにするために、ベツレヘムとその一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させるのであります。ヘロデは神を畏れることよりも、自己保身と野心から起こる激しい妬みが神の招きを拒み、神に対して敵対させます。古今東西の世界の歴史においてこのような事は繰り返されているように思えてなりません。
話は変わりますが、以前にもご紹介した聖書教育を執筆した方の記事ですが。この幼児虐殺の記述について、ある方がこんな質問をしたそうです。「この子どもたちはイエスさまが助かるために犠牲になったのですか?」。それに対して、ある牧師が答えて、「むしろイエスさまは、この悲しい出来事の中での生存者・生き残った人々(Survivor)となったと考えることはできないでしょうか。イエスさまは、その生涯の始まりから、人々の死と嘆きを背負って歩まれたのです」とおっしゃったそうです。それを受けて、その執筆された方は、「震災被災地のことを思いました。被災地では多くの方が亡くなりました。被災された方々の中には、そのことの悲しみから、自分たちが助かったことを喜べない方がいます。生存者・生き残った者(Survivor)としてのイエスさまについて考えながら、イエスさまはそのような方々の痛みや嘆きさえも知っていてくださるのだと思いました」と記していたのです。
この記事を読みながら、世の力や予期せぬ出来事によって損なわれた人びとの苦しみを自らのこととして担われるイエス・キリストのお心を知らされた思いがいたしました。
さて、占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と言います。
すると、ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ逃れて行きます。
実に、この聖家族はエジプトからイスラエルに帰って来る折にも、主の天使がヨセフに夢で現れて、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい」とのお告げがあり、そこでもヨセフは起きて、すぐ幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来るのであります。先のマリアを妻に迎え入れる決断に際しても、主の天使がヨセフに現れなさるのです。
ヨセフとマリアと幼子イエスとの前に立ちはだかるあまりにも大きな問題、あまりにも強い力の前に、なすすべもない彼らでありますが。そこに神はご意志をもって天使をお遣わしになり、守り導かれるのです。
ヨセフは主の天使の「起きて」という御声に、まっすぐに聴き従うのであります。彼は世の力を前にして、唯神に依り頼むほかなすすべがない、神こそ私の力と、すぐさま起きて、従ったのではないでしょうか。それは先の神の救いと恵みを拒み、敵意をむき出しに表したヘロデ王とは対照的であります。
「起きて」という言葉。それは、イエスさまが「目を覚ましていなさい」ということをよくお弟子たちにおっしゃっていますが。ヨセフもそうであったように、不安や恐れで心が揺れている私たちに、神さまは「起きよ」、「目覚めよ」と呼びかけ、真に生きるべき道へと導こうとしておられるのです。大切なのは、主の呼びかけに心開いて応えるか否かということであります。
今日は最後のおまけではありませんが、スウェーデンの女流作家ラーゲルレーヴという方の書いた「ともしび」という小説をご紹介したいと思います。この小説をもとに絵本が邦訳されておりますが。その主人公も、神の与えられた自分の人生を真に見出すものとなった、そんなお話であります。
昔、イタリアのフィレンツェに住んでいたラニエロは、勇ましく力も強く、喧嘩ぱやいい男で、彼はその勇気と豪傑ぶりとをいつもみんなに認められたがっていました。ところが、彼が人の気を引こうといろいろとやらかすので、町の人々は彼を乱暴で傲慢な男だと思っていたのです。「みんなに認められるためには兵士になって、戦で手柄を立てるのが一番だ。そして、いくさの戦利品をフィレンツェのマリアさまの前にささげればみんなのうわさにのぼるだろう」。そう考えたラニエロは兵士となり、その名を国中にとどろかせます。その頃、エルサレムにあるキリストのお墓をイスラム教徒からとりもどすために十字軍とよばれる多くの兵士たちが遠いエルサレムに出かけていきました。ラニエロも手柄をたてたい一心でその十字軍に加わり、大きな手柄を立てます。そのため、彼はキリストのお墓の前に燃える尊いともしびを最初にろうそくに移すことをゆるされるのです。その時だれかが「ラニエロ、いくらなんでもそのともしびをフィレンツェのマリアさまにお届けするわけにはいくまいな」と言うと、他の者も「ともしびを運ぶなんてできっこない、ともしびは消えてしまうに違いない」と言って笑います。それを聞いたダニエロはむきになって、思わず「よし、このともしびを、おれさま一人でフィレンツェまで運んでみせるぞ」と宣言してしまいます。
こうしてあくる朝早く、ラニエロはマントの下に鉄のよろい、刀とこん棒を着け、馬にまたがってともしびを手にエルサレムを出発するのです。「なーに、こんなことは簡単なこと」と、たかをくくっていたラニエロでしたが、そうやすやすとはいきません。馬が足早になるとともしびは揺らめき、今にも消えそうになりマントでかばったり、後ろ向きに乗ってなんとかともしびを守ろうとします。山辺ではおいはぎに襲われ、取り囲まれて、ふだんなら簡単に追い散らすことが出来るのですが、そんなことをしていたら、ともしびが消えてしまうかもしれません。彼は無抵抗のまま身ぐるみ剥がれ、残されたのはおいはぎのひどいやせ馬と、ぼろぼろの着物、そして二束のろうそくだけでした。まあ、ともしびは無事だったということで旅を続けます。途中、エルサレムを目指す人のむれに出くわしますと、ともしびを手にみすぼらしい格好をしてうしろ向きでやせ馬に乗っているラニエロを見て、人々はあざ笑い、からかいます。ラニエロはさすがにかっとなって彼らにになぐりかかり、気がつくと、ともしびが枯れ草に燃え移っています。慌てて火をろうそくにともし、また旅を続けます。
「ひとふきの風、ひとしずくの雨でも、ともしびは消えてということで、何とか消えないようにと、そればかりを願いながら、こんなかよわいものを必死で守ろうとするなんて、生まれて初めてのことだ」と彼は考えます。
とうとう替えのろうそくがなくなってしまい、もうこれで終わりだと思ったその時、巡礼たちが岩山を登って来て、その中の年取った女の人をラニエロは助けて山の上まで登らせてあげます。その人はお礼に自分の持っていたろうそくをくれたので、ともしびは守られました。彼はそうやってともしびを大事に守って、旅を続けるうちに、いくさでの数々の手柄や名誉や戦利品など、もうどうでもよくなってきました。荒々しいいくさよりも、優しく和やかなものを喜ぶようになっていくのです。
そしてとうとうフィレンツェに着き、その城門から入っていくと、町は大騒ぎになり、ラニエロはともしびが消されるのをふせぎ、高くかかげながらようやく祭壇の方へと進んでいきます。前のラニエロを知る人々は「エルサレムからともしびを運んで来たなんて、うそだ、証拠を見せろ」と騒ぎ、ラニエロを取り囲みます。その時です、急に一羽の小鳥がまいこんできて、ともしびにぶつかり、火を消してしまうのです。ラニエロの目に涙がにじみます。ところが、だれかが「小鳥が燃えている、羽に火が燃えついたぞ」と、叫びます。小鳥はひらめく炎のように、聖堂の中を飛びまわり、遂に祭壇の前に落ちて、息が絶えるのですが。ラニエロはかけよって、小鳥の翼を燃やした残り火で、祭壇のとうそくにあかりを灯すのであります。
私がこのお話を初めて聞いたのは35年前に行われた大阪教会の秋の特別集会でした。
ラニエロが新しい人に変えられていく過程が印象的で、それ以降このお話がずっとすきになり私の心のうちに残っています。
大変な今の時代ですが。もっと強くならなければ、乗り越えなければ、という思いで逆に押しつぶされそうになるような状況が多くの人に起こっていると思うのです。また、世の力、社会のひずみによって弱い立場に立たされたまま切り捨てられるような人も多くおられます。
よく小さい命、かよわき命を脅かし蔑ろにするなら、その者、その勢力、その国は滅びると言われています。その破れやひずみの大きい社会構造の中で、小さくされた者、弱くされた者に益々重い負担やしわ寄せがのしかかっており、暗く息苦しい今日の社会。
小さくか弱い「ともしび」を守っていくことによって、ラニエロ自身が新しい人に変えられていったように、どんな状況の中でも守るべき命のいとなみを大切にしていく中で、私たちは真のゆたかさを知るものへと変えられていくように思います。
本日の聖書のヨセフとマリアは、小さくか弱き幼子イエスさまの命を守りぬいていった旅路であったかと思うのでありますが。実は、この懸命に命の灯を消されないように守ろうとした小さき幼子イエスさまこそが、全世界を罪の滅びから守る存在、「共に苦しみ、共に歩まれる」神として、幼子の姿をとって私たちのもとへ来てくださったのです。その尊い恵みを心に留め、インマヌエル、共におられる主に導かれつつ、新しい年も希望の光を消すことなく歩んでまいりましょう。
宣教「わたしたちの居場所となられた主イエス」
聖書「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」ルカ2章6-7節
メリークリスマス、救い主イエス・キリストのご降誕を心よりお祝い申しあげます。
キャンドルサービスの中で、救い主に関する旧約聖書の預言から、さらにその預言の実現であります救い主イエス・キリストご降誕の記事を、新約聖書から聞きました。
この主イエス・キリストによる救いは、ユダヤから始まって全世界のもたらされるものであることが、歴史を導かれる主なる神さまによってご計画されていたのです。
そうして遂に、救い主イエスさまがお生まれになろうとしていた時の状況ついて、聖書は「宿屋には彼らの泊る場所がなかった」と記しています。
住民登録のためユダヤ以外の各地方からエルサレムに上って来る人たちで町はごったがえしていて、どこの宿屋も満室でした。しかし、これは単に宿泊所が不足しているという問題ではありません。神の救い、主イエス・キリストが世に来てくださったというのに、世の人々に受け入れる余地がなかったことを象徴的に表わしているのです。
それは現代における経済や効率性を第一に優先させていくような社会の中で、大人からこどもまでもが能力主義や競争に追いたてられ、ともすれば我を失うほどになっている状況と重なるように思えてなりません。
そのような世の人びとのせわしない、慌ただしい生活のただ中に、人が気づかない内にも確かな神の救いが訪れたという事実は、まことに感慨深いものがあります。
クリスマスはまさにそのような私たちの救いのために贈られた神からのプレゼントであります。
今年はコロナ禍の下で、これまで私たちにとってあたりまえであった生活が一変してしまいました。この時代を私たちは生きていかなければなりません。様々な事や不安で頭も心もごったがえしています。けれども、敢えてこの時、神さまの救いの御計画に信頼し、このクリスマスを祝うために私たちはここに集いました。今も変わることなく共におられる神さまは、命の力と愛を私たちに注いでくださいます。
さて、クリスマスの良き知らせが最初に届けられたのが、当時の社会から律法を守ることすらできない者、とさげすまされていた羊飼たちでした。住む家はなく、昼も夜も羊を預り野宿生活であった彼らには、泊るところ、宿るところを持つことのできない人たちでありました。又、救い主に尊い贈物を携えて来たのは神の祝福とは無縁であると見なされていた東方の人たち、救いから除外されていたユダヤ人以外の異邦の人たちでした。いわば彼らもそこに居場所を持たなかったのであります。
居場所があるというのは単に立派な建物や家があるということではありません。いくら立派な建物や家があっても居心地が悪く、居場所がないという人は実は多いのではないでしょうか。
ほんとうの居場所とは自分をありのままに受け容れ、迎えて入れてくれるところです。羊飼いも東方の学者たちも神に導かれ、招かれ、迎えられた。神が居場所となって下さった。ここに救いがあります。
不思議な事に羊飼いも、異邦人の学者たちも、神の救いが生まれたばかりの幼子によって実現すると信じることができました。彼らがそれを信じることができたのは、彼らがまことの居場所を必要とし、求め続けていたからです。
さて、私はみなさん方と多分同じかと思いますが。小さい頃クリスマスの日って、サンタクロースからプレゼントがもらえる日だと思っていました。でも、なぜその日にプレゼントがもらえるのかと考えたことはありませんでした。
私は小学4年生の頃に、学校の友達に誘われて教会学校に通うようになりました。その時代、取り巻く環境から自分の心は結構すさみ、荒れていて、自分の居場所を探し求めていました。そこで12月に行われたクリスマス聖誕劇(ページェント)で、クリスマスは救い主イエス・キリストがお生まれになられた事を記念する日であることを知ったのです。しかしそれはまだ自分とは関係のないことのように思えました。それからも教会学校に毎週のように出席するようになり、中学生になると少年少女会に入り、同級の友だけでなく高校生のお兄さんやお姉さんたちとも交流する機会があり、教会のこと、信仰のこと、学校や友達のことなど語り合えたことが、徐々に私にとって大変有意義なものとなっていきました。そういう中、私は高校1年のイースター(キリストの復活祭)の日にイエス・キリストを自分の救い主として信じる告白をし、バプテスマ(洗礼)を受けたのです。その時、私は神さまから本物のクリスマスプレゼントを受けとることができたんですね。暖かく自分を迎え受け入れてくださった教会の方々を通して、私は自分にとってかけがえのない居場所を見出すことができました。どんなに高価なプレゼントをもらっても、それはいつか朽ちはてるものです。けれども、神さまからのプレゼントは決して朽ちるものではありません。それどころか永遠の命につながる喜びを与えてくれるものです。ほんとうに神さまのお導きによって今日がありますことの感謝と喜びは尽きません。
最初のクリスマス。羊飼たちは喜びのあまり、普段は何の関わりも持てないような街の人々に救い主の誕生の知らせを伝えて回りました。東方の学者たちも又、ひれ伏して御子イエス・キリストを拝み、黄金、乳香、没薬という彼らの最も大切な宝を世界の救い主にささげました。
その彼らのように、主イエスがわたしたちの真の居場所となってくださったことに最高の感謝、最高の讃美、そして分ち合う喜びを日々お捧げしてまいりましょう。
最後に、この後、献金の時を持ちます。このイブの献金は毎年支援を必要としている方々のもとへプレゼントさせていただくものです。今年は、日本聖書協会の目のご不自由な方のための点字聖書作製に、又、滋賀県にあります重い知的障がいを抱える方々の施設・止揚学園に贈らせて頂きます。
2020年12月20日 クリスマス礼拝音声データ&一部画像
https://drive.google.com/file/d/1HvFWMVPHFlCqg3MROrFgQ0uCqli681bD/view?usp=drivesdk
https://drive.google.com/file/d/14GW-isFaPNjeoJri12JUvFe9Y8Unb7DZ/view?usp=drivesdk
礼拝宣教「喜びの道」マタイ2章1—12節 クリスマス
「お帰りなさい。」全世界に与えられた救いの主、イエス・キリストのご降誕を心よりお祝い申し上げます。お暗き世の地の果てにまで救いの主、イエス・キリストが世を照らす真の光としてお生まれ下さった、この福音が今日もすべての人に届くように切に祈ります。
12月になっても新型コロナ感染症は収束の兆しが見えず世界中が不安と恐れを覚える状況にあります。実際、医療体制の逼迫や生活や経済状況が大変厳しい状態に陥っている方々が急増してきています。公的なかたちの迅速な救済支援と事態が収束へと向かうことを祈るばかりでありますが。4月に緊急事態宣言が発令され、教会も又、3つの大きな祝祭のうち4月のイースター礼拝、5月のペンテコステ(聖霊降臨)礼拝が集会として開くことができず、メールでの宣教原稿、礼拝の音声データ等の添付、又、ブログでの宣教公開となりました。現在も礼拝に来たくても来ることのできない方々には継続しておりますが。6月に緊急事態宣言が解除されてからは集まる形での礼拝が再開され、その恵みを感じつつ現在に至っております。しかし12月に入ってからコロナの感染者が再び増大し、大阪府では可能な限りの不要不急の外出自粛、さらに府外への越境の自粛要請が出されました。が、私たちの教会としては、礼拝席の間隔を十分にあけ、感染対策を万全にして礼拝の場を継続することにいたしました。
今日こうしてクリスマス礼拝をもって、世界の救いの主、イエス・キリストのご降誕をお祝いすることができますことはこのうえない喜びです。しかし、同時に様々な事情から今日このところに集いたくても集うことができない方々がおられるということも私たちは忘れません。皆が安心して礼拝に集う日が帰ってきますよう主に願うばかりです。
又、今日初めて教会のクリスマス礼拝に導かれ、ご出席された方もおられるかと存じます。心から歓迎いたします。ご一緒に礼拝を共に捧げ、そのメッセージを聖書から聞くことができますことは喜びです。
皆さんは、このクリスマスの礼拝に様々な思いを持っておいでになられたことでしょう。しかし、それは人の側の思いや意志の決定以前に、「神さまの先立つ選びと導き」とがあってこの礼拝の場に招かれたのであります。
先程読まれました聖書の中に登場します占星術の学者たちもそうでした。彼らは神の救い、主イエスを最初に礼拝する異邦人として神に招かれた人たちであったのです。
ユダヤの王やエルサレムの住民でなく、遠く国境を隔てた東の国に住む人たち。ユダヤ人からすれば祝福を受け継ぐべきアブラハムの子孫ではない異邦人たちであった彼ら。それはかねてより預言者たちを通して語られてきた異邦人の祝福への招きが、キリストを通してまさに実現されたことが示されるためでした。
彼らは東方の国、ペルシャ方面から来たとも言われておりますが、何人いたのかは定かでありません。贈り物が3つだったことからよく3人だと思われておりますが、その贈り物からみてかなりの地位があり、多くの供を引き連れての旅であったと考えられます。
その東方の占星術の学者たちが、エルサレムのヘロデ王のもとを訪れ尋ねます。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。
ペルシャといえば、その昔ユダヤの民がバビロンの捕囚となり、その後ペルシャの統治下におかれたという経緯があります。こでは比較的ユダヤ人たちの自由が守られていたようです。その時のキュロス王により解放されてエルサレムに帰還した人たちもいれば、その地に残った人たちもおり、預言者イザヤを通して語られた「ユダヤの王、メシアの預言」が、そのペルシャの地でも語り継がれ、実に600年の時を経て、東方の占星術の学者たちに受け継がれていたのかも知れません。
決定的だったのは、その彼らが「ユダヤの王、メシアの星」を東方の地で見たということでした。まさに神の「時」、カイロスが訪れたのです。
東方の地で星を見た。星は申すまでもありませんがユダヤの国の上にだけ輝いているのではありません。全世界の国々のどこにあっても同時期の星の配列が観測されるのです。つまりこのメシア、キリストの誕生は世界中に告知されたのであり、イエス・キリストは全世界の救い主としてお生まれくださったのです。
このことからも東方の学者たちは、神のご計画による特別な王の誕生に強い確信と求道の心を募らせていたのです。彼らはただひたすらその星を頼りに、遥々国境を越え、危険を冒し、時間も労力も費やしても、ユダのエルサレムにまで足を運んで、ヘロデ王のいる王宮を訪ねるのです。しかし、メシアはそこにはいません。そこは神が導かれる星の示す場ではなかったのです。
ヘロデ王はメシアが生まれる場所についてユダヤの祭司長や律法学者たちに調べさせると、「ベツレヘムです」と答えます。まあこれは、当時のユダヤでは一般的な理解でした。ヘロデ王やエルサレムの住民はメシアがお生まれになる場所は一般的にはわかっていても、肝心なその「時」を知らなかったのです。救い主、キリストに出会う上で決定的なことは「時」ということであります。
どんなすばらしい企画があって、場所を知っていても、その日時がいつなのかわからなければ、そのすばらしさを体験することはできません。
ヘロデ王やエルサレムの住民はせっかく救い主が来られたのに、その時をわきまえていなかった。それは今を生きる私たちにとっても重要な教訓ではないでしょうか。
救いが今訪れていることに気づけるか否か。神の時のしるしを尋ね、祈り求めながら生きているかどうか。主イエスの「いつも目を覚まして祈っていなさい」との御声が聞こえてくるような思いがいたします。
さて、東方の学者たちは「時」はわかっていましたし、ユダヤのベツレヘムだということもわかりました。しかしその一体どこに新しい王がおられるのかはまだわかりません。
けれど9節に「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」とありますように、彼らを星が先導して、新しい王、救い主のおられる場所へと導くのです。
今、このコロナ禍の折、ヘロデ王やエルサレムの住民同様、多くの人が不安を抱いていますが。しかしこういう状況の中で主に祈り求める私たちに、主はうれしい出来事を起こして下さっています。
私たちの教会に11月から不思議な神さまの招きと導きを感じて礼拝に、祈祷会に、集われている2人の求道者がおられます。この方々はそれぞれに、神さまがお招きくださっている「時」をキャッチされ、信仰の準備、聖書の学びを続けられ、大切な備えの時を今もっておられます。
私どもにとりまして救い主が来て下さったことを示す星、それは「聖霊」による神の救いの確信であります。
「時」は、目には見えませんが聖霊なる神が人の魂に臨んでくださり、あの東方の学者たちに先立っていった星のように、救い主のもとへと確実に導いてくださるのです。
聖霊のお導きは、この東方の学者たちが何とか神のご計画による新しい王に出会い、礼拝したいという一心で探し求めていく中でゆたかにお働きくださるのです。 すでに主イエスを信じてバプテスマを受け、クリスチャンになった私たちも又、いつも新鮮な思いで生涯求道の心をもって歩むところに、聖霊があの星のように確かなお導きを与えてくださるに違いありません。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)との御言葉と向き合い、日々を歩み続けてまいりましょう。
さていよいよ、東方の学者たちは星に導かれ、遂に救い主・キリストと出会うのであります。ところがその救い主は、まだほんの小さな幼子の姿であり、貧しいその家には王座も王冠もなく、権力をもつ王としての風貌は何もありません。けれども彼らはこの幼子こそ救い主・キリストであると信じることができたのです。
それこそまさに、聖霊の御業なのです。肉の眼、世間の常識とされるものに囚われない霊的な眼を通して、幼子イエスさまのうちに神の救いのご計画、キリストを見ることができたのです。
東方の学者たちは、幼子にひれ伏して礼拝をささげます。単に挨拶したとか、謁見したとかでなく、幼子イエスさまを礼拝するのです。
クリスマスとはキリストのミサ。つまり「キリストの祝祭」のことです。救い主であるキリストが受肉された、肉の体をとって私たちのところに来られた。そのことを心から祝い、礼拝を捧げる、これがクリスマスの原点であります。私たちもまた、霊の眼を開かれ、この救い主、神の御子キリストを真に拝することができますよう、聖霊の助けとお導きを切に祈ります。
東方の学者たちは宝の箱を開けて、彼らの最も大切な宝をキリストにお捧げしました。
黄金は、今でも変わらない高価な宝ですね。乳香は、アラビア産の、芳香のある貴重な樹脂であり、礼拝の時にささげる香としてもちいられたようです。没薬も、香料の一種で高価なものでした。それは又、それぞれに重要な意味合いをもつ贈り物でありました。
喜びあふれる中で最高のものを幼子イエスさまにプレゼントした東方の学者たち。
しかし、それよりも遥かに優るプレゼントを神さまは私たちに与えてくださいました。
それは神の独り子イエス・キリストです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。「一人も滅びないで永遠の命にあずかる」。それはユダヤの民ばかりでなく、ユダヤから遠く隔てられていた異邦人、世界中のすべての人が神さまからのプレゼントを受けとる者として招かれているのです。
私たちがこうして喜びにあふれるため、神さまは御自分の最高の宝を私たちにお与えくださったのです。その独り子イエスさまは十字架に御自身を引き渡され、私たちの抱えている罪、苦しみと悩み、痛みもろと背負われて死にますが、復活なさったのです。この主イエスの尊い捧げものによって全世界の人々の、私たちの救いが実現したのです。
私たちは今、その救いを見、世のものでは得ることのできない大いなる喜びに満たされるのであります。
東方の占星術の学者たちは「ヘロデのところへ帰るなと夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」とあります。救い主を礼拝した彼らはもはや世の習わしに歩まず、希望を胸に新しい喜びの道を通っていくのです。
私たちもまた、それぞれに困難や悩み、問題がありますが、「神は我らと共にいます」というインマヌエルの主、救いの主、イエス・キリストにある喜びの道を、このクリスマスから新たに歩み出してまいりましょう。
礼拝宣教 マタイ1章18—25節 アドベントⅢ
今年も早いもので残り半月余りとなりました。特にこの師走と呼ばれるこの時期は一年で最も日照時間の短い折で、午後4時を過ぎますともう暗くなります。聖書に「光あるうちに光の中を歩みなさい」とありますように、日々一刻を大事にしていきたいと思います。
今年は新型コロナウイルスの感染症に始まり、4月から2ヶ月間初めての経験でしたが共に集まる礼拝を休止いたしました。その経験を通して、礼拝に集うということはこんなにも貴重なことか。それは決していつもあたりまえにできることではないということを、礼拝と祈り会が再開された時、これは神が備えてくださった恵みなのだと改めて気づかされました。未だ収束の兆しは見えず、世界とその社会にほころびやきしみが強く生じているように思えます。けれどもどのような時代にあっても、全世界の人々のために救い主イエス・キリストがお生まれくださったそのクリスマスという「神の救いの約束」は変わることはありません。こういう先行きの見えない不確かな時代だからこそ、確かなる不変の神の御言葉に聞き、祈りと執り成しをもってクリスマスに備えていくことが自他ともに平安をもたらします。
このアドベントは「救い主を迎え入れていく」という時であります。それはヨセフがマリアを妻に迎え入れることによって実現しました。
本日の箇所の冒頭に、「イエス・キリストの誕生の次第について」とありますとおり、ここには神の御子イエス・キリストの誕生、すなわち神の救いの到来のエピソードが綴られています。救い主の到来ですから、何か華々しく美しいエピソードを期待する、というのが世の人の求めるところでありましょう。ところがそれは、けれども、何とそのエピソードは「マリアが婚約者ヨセフと一緒になる前に、身ごもっていることが明らかになった」という衝撃的な記事から始まるのです。
自分のあずかり知らぬところで婚約者が身重になるという事態は、ヨセフをどんなにか失望させたことでしょう。
正しい人であったとされるヨセフは思い悩みます。彼は律法の規定に従ってマリアを訴えることもできました。けれども、そうするとマリアは石打ちの刑で殺され、その胎の子のいのちまで奪うことになります。ヨセフにはそれはできませんでした。では、身重のマリアを妻に迎えるということになりますと、それは律法に反することでした。ヨセフにはそのどちらも神の前にできないことだったのです。そこでヨセフが出した答えは、神の律法に反することなく、しかもマリアと胎の子のいのちが守られるようにひそかにマリアと縁を切るということでした。この方法がヨセフにとって賢明な道だと彼は自分に言い聞かせるようにそのように決めたのでありましょう。
ところがです。ヨセフが「このように考えていると、主の天使がヨセフに現れて言います。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」
ここで主の天使は5つのことをヨセフに告げます。
第一は、「ヨセフがまぎれもなく王ダビデの子孫である」ということです。それはヨセフがイスラエルにおけるダビデの王位を継承する者であり、神の救い主イエスの法的父親として、神に認定されていることを表します。
第二は、「恐れずマリアを妻に迎え入れなさい」という奨めであります。この事は後で触れます。
第三は、「マリアから生まれる子は聖霊によって宿った」ということです。
これはイエスが歴史的にダビデの家系に属する者であるだけでなく、神の権威による霊的な王、メシア(救世主)として聖霊によって生まれた、そのような神の子であるということであります。
第四は、「その子にイエスと名付けなさい」ということです。イエスという名は、この時代よく付けられたポピュラーな名前でありました。ヘブライ語で「イェシュア」、旧約聖書のヨシュアと同じで、それは「神は救い」という意味をもち、イスラエルでは生まれた子によく付けられた名前であったのです。私たちが「イエスの御名」を呼ぶことは、神の救いを求めることであり、それは「十字架の救いの御業」をとおしてもたらされたものであることを知っているからであります。
第五は、「その子は自分の民を罪から救う」というお約束であります。ダビデの子であり王なるイエス・キリストは、聖霊によって生まれたもう神の子、まことの人間にして神聖なるお方であります。
神の救いはまずエルサレムから始まって、神の民とされたユダヤから起こされますが、旧約聖書の時代から預言者たちを通して語られたように、ユダヤ以外の異邦人に、そして全世界に伝えられます。主は信仰によってご自分の民とされた全ての人をお救いになられるのです。このように主の天使は5つの大切なメッセージをヨセフに伝えたのです。
さて、ここで先ほどの第二の主の天使がヨセフに「恐れずマリアを妻に迎えよ」と奨めたことについて思いを深めてまいりたいと思います。
ヨセフは夢から覚めると、マリアを妻として迎え入れます。それはマリアを断罪するという律法的な選択ではなく、又マリアとその子に対する人間的善意の道でもありません。ヨセフは主である神の御心とそのご計画を受け入れ、主に従っていくことを選び取った。主の御言葉に従いマリアを妻として迎え入れ、その出来事もろともヨセフは引き受けて生きる決断をしたのです。
それは当時の常識には全くあてはまらない、社会的に受け入れられず、ヨセフが信用の全てなくしてしまうような事でした。けれどもヨセフがその道を選び取ったのは、自分ではどうすることもできないような重荷が彼の肩にすべてかかっているのではなく、一切は主の御手のうちにあり、主がご計画をもって導こうとされているのだと信じることができたからです。
誰にも言えず、孤独の中で惑い悩んだヨセフは、「恐れることはない」との御声に、神さまがわたしたちと共におられる、インマヌエルと。その確信をもってマリアとその子を迎え入れていくのであります。そのヨセフの信仰をとおして神の御子イエス・キリストの御降誕が実現していくのです。
ひそかにマリアと縁を切ろうとしたヨセフ同様、私たちもいろんな困難な状況になった時、自分の思いや考えでのみ解決しようとすることがないでしょうか。人はほんの一部分しか見えていません。自分の計算や思考によって物事を計り、それをよかれと思ったりします。そんな時には神の御心とは異なる過ちを犯すことがあるかも知れません。
又、人間的な心遣いや配慮は大事ですが。それを優先するあまり愛情や正しさを取り違えるかも知れません。神の前に正しく生きるとはどういうことなのでしょう。ヨセフは確かに心揺れる中でありましたが、シンプルに主に従うことを選び取りました。何が主の御心であるか。聖書に「知る力と見抜く力を見につけ・・・本当に重要なことを見分けられるように」(フィリピの信徒1:9)とございますが。自分の感情や考えにではなく、主の御心を祈り求めていくことがほんとうに大切なのであります。
私たちはどこまでも、まず神の国と神の義を求めていかなければなりません。そこに人の思いに先立つ聖霊の力がお働きくださるのです。そこから本物の、人を思いやる優しさや配慮が生まれてくるのであります。
先日、テノール歌手であられる荒垣勉さんの、「いのちをささえる うた と ことば」という某生命保険会社が主催する公演を聞く機会がありました。新垣さんは西南学院大学神学部の大先輩で、以前福岡にいた折、博多の教会コンサートでも「うたとお話」をお聞きしたことがありました。今年コロナ禍で8ヶ月間コンサート活動を休止していて、今回8ヶ月ぶりにうたわれるということで大変緊張されているということでしたが。新垣さんは御自身の生い立ちを辿りながら、少年時代に教会のキャンプに参加した時に、そこで出会った牧師との出会いがその後の人生を生き直す勇気と希望となったことを証しておられました。その教会のキャンプで自分を見捨てた父親が憎くてたまらない怒りを、この牧師に話すと、普通だったら許してあげなさいよ、といわれるのかと思いきや、牧師はただ新垣少年の話をじっと聞きながら、涙を流して泣いていたそうです。新垣さんはその時これまで経験したことのない思いに包まれ、心がジーンと温かくなったのだそうです。新垣さんはこうおっしゃっていました。「ことばに出来なくても、ことばにならなくても、通い合うことばがある」と。その時に私の心のうちにある聖書の言葉が思い浮かんだのです。
ローマ8章26節の「霊(聖霊)も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちがどのように祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
私たちが思い悩む時、人の助言も慰めの言葉も何の役にも立たないような時、まさしく神ご自身が私たちをおもんばかってくださり、私たちの言葉に表すことのできない思いを呻きをもって執り成していてくださるのです。
今日の箇所から私は「喜びの約束」という題をつけました。全人類に向けた救いのご計画の、まさに「喜びの約束」が実現するため救い主の父となったヨセフ。
それは当初喜ばしいものとはとても言えない、苦悩の末の苦渋の選択でありました。しかし主の御声に聞き従い、主に信頼しきっていく決断をした時、ヨセフの心に世にはない平安が訪れるのです。こうして人の思いを超えた聖霊のお働きによって「喜びの約束」、インマヌエル、神はわたしたち共におられる救いの主、イエス・キリストがお生まれになるのです。
私たちはそれぞれに個々人のあゆみにおいて課題を抱えているでしょう。答えが出ない悩みもあるでしょう。しかし、主はその課題の時にこそ、私たちの信仰を問われています。今も決して変わることのない主イエスにある「喜びの約束」に生き続けるかを。
いよいよ来週はクリスマス礼拝です。クリスマスの礼拝が守られ、祝されますようお祈りください。
礼拝宣教 マタイ1章1~17節 アドベントⅡ
本日待降節の第二週・アドベントクランツに2本目の灯がキャンドルにともされましたが、今日はマタイ福音書の1章1-17節の「イエス・キリストの系図」から聖書のメッセージを聞いていきたいと思います。
イエス・キリストのイエスは人を示し、キリストは神の救い主、メシアを示します。神は100%人となられ、このイエスを通して罪の赦しと救いの御業を成し遂げて下さったという意味が、このイエス・キリストというお名前にこめられております。
まぁ新約聖書を初めて手にして読まれた方の中には、このイエス・キリストの家系の記事から読み始めて、さっぱり意味不明でいきなり読み飛ばされたという方もおられるかもしれません。私も最初はそうでした。けれど聖書を読めば読むほどこの系図から見えてくる神のメッセージがあるのです。
まずこの系図は「アブラハムの子であり、ダビデの子であるイエス・キリスト」とはじめられています。それは「信仰の父祖アブラハム」から始まり、さらに「イスラエル建国の王、ダビデ」につながっています。しかしその後、イスラエルと南ユダの王国は神に背き、国は滅び、捕囚の経験をすることになります。12節の捕囚後の時代は、罪を悔い改めた民が神殿の再建と主を礼拝することを尊び、御言葉に聞いて従うことを重んじるようになります。が、13節以降の時代は、国としての再建を果たせないままのイスラエルの民は大国の支配の中で翻弄され、厳しい抑圧や迫害といった暗黒の中にありました。その時代においてほとんどの人は歴史に名も残せぬ人びとでした。
しかし、イザヤ書9章1節に「暗の中に歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と記されていますように神の選びと救いの歴史はその暗黒の時代をも貫かれ、イエス・キリストによる救いの到来の時を迎えるのです。
さて、このマタイ福音書におけるイエス・キリストの系図の中に5人の女性の名が出てまいります。そしてその誰もが素性のはっきりしない女性たちなのです。マリアはユダヤ人でありますが、その家系さえもここにはありません。そして旧約時代のタマルは、夫を亡くして寡婦となりますが、彼女の身を引き受ける義務を持つ義父ユダの冷淡な態度に苦しみ、自分の存在意義をかけて遊女を装いユダの子孫を宿した女性です。彼女をそういった行動に向かわせたのは男性優位の社会構造にありました。次にラハブは、貧困を抱えエリコの町の娼婦として生きざるを得ない女性でした。彼女は神を畏れる信仰によってイスラエルの偵察に来た兵士をかくまうのです。そして、ルツは異邦の地の人でしたが、故郷でユダヤ人の夫を亡くし寡婦となってしまいます。彼女はユダヤの神を慕い姑とともにユダヤの地に移り住んでいましたが、信仰によってユダヤ人ボアズと結婚しました。さらに、ウリヤの妻とはバテシュバのことですが、ダビデ王はバテシュバに横連坊してその夫ウリヤを戦地の最前線に送り、ウリヤは死んでしまうのです。ダビデは犯した罪を覆い隠し、バテシュバを妻に迎えます。ここで系図がウリヤの妻と敢えて記しているのは、ダビデの罪をあからさまにするためです。
ダビデは神を畏れ敬う偉大な王であった一方、こういった罪を犯してしまいます。聖書はそのことを包み隠さず記すのです。己の罪の恐ろしさを知ったダビデは「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐みをもって/わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」と、詩編51編にはそのダビデの「悔い改め」の詩が綴られています。
この4人の女性たちはそれぞれに悲しみや重荷を背負って生きていました。時に力をもつ男性たちの罪を背負わせられながら、彼女たちは必死で生き抜き、こうしてイエス・キリストの系図に名を遺すこととなったのです。
人の世の間では、恥となるようなことは隠したい。立派な父方の系図の方が箔がつくということで、ユダヤでは一般的に男だけの家系が記されます。そのような女性たちが名を遺すことはまあなかったわけです。どの家でも大概は一族の名誉のためと、恥ずべきことは極力それを秘めたまま公表しないようにするでしょう。ところがこの系図では男性優位の力による支配や罪、咎を敢えて記しているのです。実はそこに新約聖書の初めに記すにふさわしい新しい時代の幕開けに向けたメッセージがこめられているのです。むしろ新しい時代が訪れたからこそ、この系図を記すことができたといえるでしょう。
マタイによる福音書は主に、マタイの教会のユダヤ人に向けて書き記されたものとされていますが。当時の多くのユダヤ人たちは、このイエス・キリストの系図を見た時どう感じたでしょう。
彼らは神から選ばれた民として、律法に忠実で戒めを守り行う優れた民族性を誇りに思っていたことでしょう。又、そうであるように教え諭されてきたのです。
イエス・キリストの系図を目にした熱心なユダヤ主義者たちは、自分たちのル-ツにユダヤ人以外のしかも女性が系図に連なっていることに強い憤りもった人も多くいたことでしょう。しかしイエス・キリストによって新約聖書の時代が到来したことで、新しい価値観がもたらされたのです。
それは血筋によらず、性別によらず、民族によらず、ただイエス・キリストによる罪のゆるしの信仰によってすべての人が、神の救い、神との和解の祝福に招かれているという福音の価値観です。
そのことを指し示すこのイエス・キリストの系図は世に言う系図とは全く次元が異なるものなのです。それは、天地万物の造り主なる神の救いの祝福の約束がアブラハムの子、ダビデの子、無名の先人たちを経て、イエス・キリストの誕生を通して、全人類に実現するに至ったことを明らかにしているのです。
アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストが、まさに、神に背き、罪を犯す私たちの罪のゆるしのために来られたこと。又、世にあって傷つき、心痛んでいる人びとのいやしと解放のためにお生まれくださったということが、この系図を通して明らかにされているのです。
私たちもルツのように異邦人であり、ユダヤの血肉、血筋とはいえません。しかし創世記22章18節には「地上の諸国民はすべてアブラハムの子孫によって祝福を得る」と、地上のすべての国民が神の祝福に入ること。ローマ4章13節には「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」と、信仰による義と異邦人の救いが語られています。
キリストによって私たち如何に罪深くとも、救い主、イエス・キリストによって神に立ち返る信仰に立つ時、主の贖いの御業を通して罪の赦しと父なる神との和解に与るべく、この神の民の系図に接ぎ木され、アブラハムに約束された神の国とその祝福を受け継ぐ者とされるのです。新しいキリストの時代、新しい契約の新しい価値観によって生きる者について、使徒パウロはガラテヤ3章28節に次のように記しています。「そこではもはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
最後に、12月1日映画の日に、ずっと気になっていました映画「I can Only Imagineアイ・キャン・オンリー・イマジン」を一人で観てきました。シアターは100席以上あるのですが、入館者は10名程度でソーシャルディスタンスが十分とれで安心して鑑賞できました。この映画はシカゴのMarcy Me「マーシーミー」というバンドのボーカルであるバートの小学生時代から「I can Only Imagine」という曲が世界中で大ヒットするまでを描いた作品です。バートは家庭内暴力(DV)の父親に育てられ、母親も小学生の頃家を捨てて逃げてしまうという悲惨な状況に陥ってしまうのです。そんな彼にとってただ一つの希望は音楽を聴くことでした。彼が高校生の時に部活のフットボールで大けがをしてしまい、そこで彼は合唱のグリークラブに入るのです。顧問の先生がバートの歌唱力を発見します。そうして彼は音楽家への道を求めて歩みだすのであります。当初は順調にいくのですが、ある日プロとして歌っていくには無理だという音楽の専門家たちからの審判を受けて自信を失くし、すべてを捨てて自分の家に帰っていくのです。すると暴力を奮っていた父親が歓喜して息子を迎え、何と彼のために朝食まで作っていたのです。あの時の父親とは別人のようでした。バードが家を出ている間に父は教会に行き始め、ラジオで牧師の説教を聞いたり、聖書を読むようになっていました。朝食の感謝の祈りを捧げた父に対して、バードは過去の記憶がよみがえってきます。そうすると父を許すことができない。そこで父に向って初めて自分の心のうちにずっとうずいていた傷について話し出すのです。バードは感情が抑えきれなくなって、父がこれまで自分や母親に負わせた暴力の数々をぶちまけ、父と取っ組み合いのけんかとなります。そして家を飛び出し父の車のエンジンをかけようとすると、そこに父に関する1枚の診断書を発見するのです・・・。このバードと父との物語から生まれたのがI can Only Imagineアイ・キャン・オンリー・イマジン」という歌曲なのです。私はマスクが足りないくらい感動(涙)しましたが。音楽も映像も素晴らしい。しかし映画は現況の状況から残念ながら10日で終わります。きっとDVDビデオになるでしょうから、その折はぜひお楽しみ頂ければと思います。
傷ついた心のいやし、ゆるし、人や家族との和解と平安をこの映画は取りあげていました。自分という存在のル-ツを辿っていく時、自分自身の歩んできた歴史にもドロドロとした罪や咎、人を傷つけ、人に傷つき、人を躓かせ、人に躓くといった負の歴史という事ごとがあった事実を認めないわけにはいきません。だれもがそうなのではないでしょうか。
今日のイエス・キリストの系図のメッセージは、私たち人間の偏見、虐げや搾取、破れと傷だらけの人の人生、その只中にイエス・キリストが救い主としてお生まれになった、というメッセージなんですね。イエス・キリストはその私たちの間に、神の国とその祝福をもたらし、それを受け継ぐ者としてくださったのです。今週も御言葉によって世に遣わされてまいりましょう。