日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主の慈しみに生きる

2011-10-31 07:57:21 | メッセージ
 宣教 申命記24:14-22

ここには、寄留者・貧しい人・孤児・寡婦などの権利を奪われている人々への社会的保護の規定であります。それは申命記以外にも出エジプト記、レビ記などにも繰り返し規定されています。これはイスラエルの王国時代の階級や格差の違い、現代でいうところの「格差社会」によって、これらの人々の命と生きる権利が奪われないように、又生活を守ることが如何に重要であったかを示しています。

「寄留者」とは、イスラエルの町の中に所有地のない人を指していました。彼らは他人から仕事をもらったり、地域の人々の好意に頼って生きなければならず、孤児や寡婦と共に社会的弱者でありました。今日でいえば、文字通り貧しい外国人労働者といえますし、又日本人であっても戸籍や住民票の無い人、あるいは寄せ場という釜が崎や山谷、寿町など流れながら生きている日雇い労働者でもあるといえましょう。

さて、本日の14~15節は、イスラエルの民であれ、イスラエルに寄留している人であれ、貧しく乏しい雇い人には賃金を日が暮れる前に支払わねばならないという規定です。雇い人は日雇い労働者のように、その日その日の生計を維持していくような状態でしたから、きちんとその日に一日分の賃金が支給されなければ、その一日は飢えることになります。家族がいたとしたなら家族を飢えさせてしまいます。ですから、雇用主は労働の対価をその日のうちに雇用人に支払わなければならないと規定します。

又17~18節は、イスラエルの町に寄留する人たちや孤児の権利をゆがめてはならないという規定であります。又、寡婦の着物を質にとってはならないという規定であります。これと似た規定が出エジプト記22:20-24にもあります。「寄留者を虐待したり、圧迫してはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す」とあります。

このように神は貧しくて弱い者の訴えを最優先に聞き、保護しようとなさるのです。もしこのような貧しくて弱い立場におかれた者の権利を奪い、訴えをゆがめる者がいたら、神はその者を厳しく処罰されるというのですね。あのマタイ25章31節以降の羊と山羊を分けて裁かれるというイエスさまのたとえの最期で言われた、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしてくれなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」との言葉を思い起こされます。 

さらに、19~21節は、寄留者、孤児、寡婦のために食物を残しておくようにする規定が記されております。一つは、畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。彼らのものとしなさいというのです。貧しい者を顧み、憐れまれる心について教えています。
同様にオリーブの木やぶどうの木の実を収穫する際は、全部くまなく取り尽くしてはならい。一旦取ったら後でまたくまなく取り尽さず、あとは貧しい人たちが食べられるように残しておきなさい、と神は誰もが糧に与ることができるようにと配慮してくだるのです。

神はモーセを通して、それらの規定の根拠を示されます。
それは道徳的に善いことだらでしょうか?いいえ、それは何よりもまず、イスラエルの民自身がかつてエジプトで寄留者として抑圧されていたことを思い起こして、抑圧されている者の立場に立って生きるようにと繰り返し語られているのです。このことを思い起こすならば、イスラエルの民は謙虚にならざるを得ません。ただ恵みによって生かされていることを知っているからです。ただ主の慈しみに生きることこそ恵みなのです。
それはイエス・キリストの十字架を通して救われた者にとっても同様のことであります。
Ⅱコリント8章9節に「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」とあるように、今、私たちが主の救いと平安を得ることができるのは、主が十字架の尊い犠牲をささげられ、私たちが当然受けなければならない罪の裁きを主が自ら担って裁きを受けて下さった。そのことをいつも忘れるわけにはいきません。

最後に、今日の聖書で、神の規定は「~してはならない」という禁止命令の口調に聞こえますが。その本質は、神が罪深く、小さなイスラエルの民を罪の咎もあるまままるごと抱えこんで、エジプトにあって寄留の民であり奴隷の状態から救い出して下さった、という大いなる恵みであります。ですからその「~してはならい」というお言葉は、この大いなる恵みを体験したあなたがたは、決して「~しないであろう」という積極的で未来志向的な意味の言葉なのです。

イエスさまはマタイ7:9-12でこう言われました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。
 それはまさに、~してはならないという否定形でなく、~しなさいという積極的な関与なのであります。ただで受けたのだから、惜しみなく分け合う豊かさを主は示しておられるのです。
それは又、自分自身が悲しみ、苦しみ、寂しさ、辛さを知っているのなら、今同様の悲しみや苦しみ、寂しさや辛さを抱える人が、何を求め、欲しているのかを知り、接することができるでしょう。
神はキリストのからだなる教会を通してなされる救いと平安に大きな関心をよせておられます。まず主にある兄弟姉妹が互いに支え合い、助け合い、主の霊がキリストのからだなる教会に満ち溢れるほどに充満していきますように、アーメン。
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神が選んだ宝の民

2011-10-23 16:48:07 | メッセージ
宣教 申命記7:6-11

モーセの物語の出エジプト記から始まって、レビ記、民数記、そして本日の申命記、さらにヨシュア記と続く聖書物語を礼拝で読んでいきますが。旧約のイスラエルの民のお話を今日、私たちはどう聞いて受けとっていけばよいのでしょう。そこでまずその読み方について触れておきます。
聖書教育の執筆者が「物語」の始まり、という欄で次のように述べておられます。ここまで読んできました聖書記事を、「一つとなるためのひけつ」を語る書物として読むのではなく、「一つとなろうとする時になお切り捨ててはいけないもの」があると語っている点に注目したい」。今日はこのような視点で私たちの信仰の歩みにリンクさせながら聖書のみ言葉を聞いていきたいと思います。

本日の個所ですが。イスラエルの民がこれから入っていこうとしているカナンの土地には、多くの神々の偶像があり偶像崇拝や農業神が祀られていました。これらの偶像によって、人が神ならざるものを拝み、利用して人が栄え、豊かになることによって、様々な弊害が生じていくのです。
これはある意味現代の私たちの生きている世界や社会と重ねて読むこともできるでしょう。
カナンの土地には多くの神々の偶像の他にもアシュラの母神(70神の母神)が崇拝されていました。それは目に見える繁栄や豊かさを称える文化として圧倒的な力をもっていました。
現代社会も又、都市や地方、都会や田舎の如何を問わずそういった異教世界は様々に形を変えて、私たちの身近なところに存在します。私たちは文明や科学技術の進歩や発展によって確かにその恩恵に与り、快適な生活を送っているわけですが。その一方で、繁栄や豊かさ、効率性、利便性、快適さをあたかも崇拝するごとくに追求していくことで、自然や環境が破壊され、それが生態系を狂わせ、想定しようのない大災害を引き起こす要因にもなっています。
3月11日に起こった未曾有の東日本大震災と福島原発によって、多くの方がたがお亡くなりになり、未だに行方不明の方も多くおられます。又多くの町が壊滅的な被害に遭い、多くの家も地域のつながりも無くなってしまい、職場や仕事を失った方々も数知れません。又、原発の事故は、人が生きることを根底から危うくしています。そこからまさに「いのち」の問題、又「人として生きるとはどいうことなのか」、ライフですが。その本質的な事柄が問われています。
戦争もそうですが、いつもこのような時、真っ先に災害の犠牲となったり、影響を受けるのはお年寄りであり、小さな子どもたちであります。又原発事故処理のために貧しい日雇い労働者が雇われている現実であります。小さな命、弱い立場にある人たちの「いのち」「生きる」権利は保障されなければならないでしょう。国をあげて復興を目指していこうとする中で、なお切り捨ててはならないもの、置き去りにしてはならない人々がいるのです。

聖書に戻りますが、本日の個所は荒れ野ですでに語られた教えであり、民数記にも出てくるものでありますが、これからまさに偶像の土地カナンに入ろうとするイスラエルの民に向け、改めて述べているのです。申命記の申とは、「重ねる」という意味があるということから、主の教えを重ねて、つまり大事なこととしてモーセの口を通して語られているのです。
それは、イスラエルの民が偶像をほめ称えるカナンの土地において、目に見える繁栄と豊かさに足もとをすくわれ、まことの神を捨て、神ならざるものに心奪われ、罪を犯すことのないように、との強い願いがあったからであります。

モーセはイスラエルの民に向けて、「あなたは主の聖なる民である」「主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」と告げます。「神が選んだ宝の民」として生き貫きなさいと命じます。
その「主が選んだ宝の民」。主のお選びになったその理由が何とも興味深いのでありますが。
7節「主が心引かれてあなたを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と述べられています。
一般に宝といえば、最も素晴らしいもの、何ものにも替えることのできないようなものでありましょう。それは大概、麗しいもの、秀でたものであり、高価なものであるのではないでしょうか。   

ところが、聖書は「あなたを宝の民として選んだのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民より貧弱であった」と述べます。まさに驚きです。
それは何か数が多くて強大で力があるという理由ではなく、他のどの民よりも貧弱であった、つまり他よりも小さく弱々しかった。そこに主が心引かれて選ばれたというんです。
8節で「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」と述べられていますが、主のこの愛はへブル語で「ヘセド」;それは腸がちぎれんばかりに憐れむというとこから来た言葉ですから、主はただ、その小さく弱い民を深く憐れみ、共にその痛みと苦しみに共鳴されるしかなかったというのであります。子をもつ母親には、その子が何か優れているとか、才能があるとかという理由で愛するでしょうか。中にはそういう母親もいるかも知れません。しかし、たいていの母親は、その子が優れているとか、才能があるという理由ではなく、本能的に、ただ愛おしいという事以上の理由はないでありましょう。神の愛、神の憐れみのゆえにとは、そのイスラエルの存在そのものを値なしに受け入れられた。殊にその子が小さく、弱いのなら、なおさらのこと強く愛されたというのですね。これが主の愛であります。

今日の個所の「貧弱」であったというところから思い浮かびましたのは、使徒パウロの言葉です。
彼はイエス・キリストと出会い、救いを得て大伝道者となる前迄は厳格なユダヤ教徒として、バリバリのエリートであり、優れた才能や功績を得ていました。そのおごりと熱心さのゆえにキリスト教会とその信者を激しく迫害した人物でありました。ところが、イエス・キリストとの出会いを経験した彼は完全に打ち砕かれ、イエス・キリストに敗北宣言をするのです。
彼は自らの経験に基づいて次のように言っています。一コリント1:26‐28「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみてください。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるために、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」。
パウロは自分が迫害をしていた人々のうちにまさにイエス・キリストを見たのです。
そして神の愛、その深い憐れみは、世に小さくされている人、弱い立場に置かれた人に注がれていることを痛いほど思い知らされたのです。

本日の聖書の個所は、イスラエルの民が偶像崇拝や神ならざるものを拝んでいたカナンの土地に入ってからの心得について述べられています。それはイスラエルの民自身が、先祖の時代から主の約束と「ただ主の憐れみ」によって選び出され、主の「宝の民」として救い出され、導かれて来た。そのことを心に留め続けて生きる。それを「忘れてはならない」ということであります。

カナンの土地には様々な神を祀る偶像礼拝が満ちておりましたから、イスラエルの民にとってもそれは大変な誘惑となるのです。殊にイスラエルの民がカナンのい土地に入るや、そこにあぐらをかき、目に見える豊かさや繁栄に目を奪われて、主の選びとその救いを忘れて偶像礼拝の罪に陥ってしまう危険性がありました。それとともに、イスラエルの民は旅をしている最中は飢え渇きという一種の危機感からモーセや神に不平不満をぶつけて、過去の奴隷の状態の方がまだましであったなどと言っていましたが。さらにカナンの定着後に予想されますのは、目に見える繁栄や豊かさや、又効率性や才能のあるものが大事にされていくなか、小さくされた人、弱い立場の人が置き去りにされたり、群にとどまれず孤立してしまうという事態がおそらく想定されたのではないでしょうか。

そういう時にイスラエルの民の本質というのでしょうか。その依り所としてる原点は何かという事が非常に重要なのです。それは「おまえたちイスラエルの民はもともと小さく弱い立場」の者でなかったのか。「ただ、主の愛、深い憐れみによっておまえたちは選ばれ、宝の民とされた」者ではないのか。「主はその小さく弱い立場にある者たちのうちにおられる」のではないのか。世の繁栄や豊かさを第一としていく偶像にではなく、愛と憐れみの生ける神を仰ぎ見、その神に聞き従っていくところに、イスラエルの民の希望があります。その点に立ち返ることこそ重要なのです。

ひるがえって、今日のこの「イスラエルの民」について述べられた個所は、私たちの大阪教会にも向けられたものではないでしょうか。私たちの教会はイエス・キリストの体であると同時に、共にそのキリストのからだを建てあげていく働きが託されております。
一番最初に触れましたが。「教会が前進していく時」、又「一つになろうとする時、なお切り捨ててはいけないものがある」という視点は新鮮です。敢えてそこで取り残され切り捨てにされがちになっている事柄はないのか。自己完結せず、正論だけを振りかざさず、声なき声に耳を傾け、弱さに共感できる感性をもち心に留めてゆくことは大切なことです。
特伝の講師でお出でくださった安藤榮雄先生のお話にもありましたが、「私の中のキリストではなく、キリストの中の私」という立ち位置から、共に謙虚にされ、主のみ言葉に聞き従っていく。そのことが今日私たちに語られているメッセージであります。
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バラムとロバ

2011-10-16 17:42:13 | メッセージ
宣教  民数記22:22-35

① 背景
モーセとイスラエルの民がモアブの平野まで進んできた時のこと。モアブの人々はイスラエルがアモリ人に対してした事、すなわち彼らが全軍残らず撃ちまかし、その国を占領したのをことごとく見て、恐れを抱き、気力もうせて、「今やこの群衆は、牛が野の草をなめ尽くすように、我々の周りをなめ尽くそうとしている」と言います。そこでモアブの王バラクは、ぺトルの地に住んでいた霊能者バラムに「イスラエルの人々に呪ってほしい」と、礼物を持たせた使者を送るのです。
その夜神はバラムに、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」と命じられます。バラムは神の言葉を王の使者に語り、帰るように伝えます。
しかし、王はバラムのもとに再度使者を送るのです。今度は前よりも多くの身分の高い指導者たちをバラムに遣わし、「あなたを大いに優遇します。言われることは何でもします。どうか来て、わたしのためにイスラエルの民に呪いをかけてください」と伝えます。
ここで王バラクは「わたしのために呪いをかけてください」と言っていますが、彼は個人的な願望によって呪いや祝福をコントロールしようとします。これはまさに異教的な手法です。この呪いの出所は神にではなく、自分のためにという所にあります。
聖書を読みますと、神は占いやまじないを嫌われると随所に出てまいりますが、それは神の御心を求めること、又信頼することに反して、願望や欲望を満たすために神の力まで利用しようとする人の心のさもしさを神はいとわれるからでありましょう。

さて、王の申し出に対してバラムは、「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません」と答えます。
が、しかし彼はバラクの使者たちをすぐに帰らせることをせず留まらせて、「主がわたしに、この上何とお告げになるか、確かめさせてください」と言います。
確かに口では「わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません」と語ったバラムですが、その本心ではそうきっぱりと言い切れるものではなかったのです。ここにはバラムの心が2つに割れ、揺れ動いている様が表れています。神に仕える心と己の利権や富のために仕える心です。彼の脳裏に「神を自分の願いに従わせたい」との思いがチラリと横切ったのではないでしょうか。
その夜、神はバラムに「これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない」とお告げになります。が、ここに「これらの者があなたを呼びに来たなら行くがよい」とあるよう、これは主が自ら「行きなさい」と言っておられるのではないのです。まあ結局「バラムは朝起きるとロバに鞍をつけ、モアブの長と共に出かけた」というのであります。

② バラムとロバ
「ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃えあがった」というのです。
神は、バラムがバラクの高官たちと共にモアブに行くことを許されながらも、バラムに対して怒りを現わされたというのですね。これは一体どうしてなのでしょう?
それは先に触れたように、二心となり神に従う道をあやふやにしたバラムの心を知って非常に憤られたからです。
聖書の神、特に旧約の神は、ねたむほどに愛する神と自らを言い表されるごとく、その愛が裏切られるような場面においては、燃え上がるような怒りをもって臨まれるのであります。しかし、それならなぜ、神はきっぱりとバラムに「行くな」と禁止されなかったのでしょうか? 
これが聖書の神のご性質なのです。神は人間をロボットのように上から指示命令してそのとおりに従わせようとはなさいません。それは人を奴隷としてではなく自由を持つ人として扱われるからです。バラムにも自分で考え、祈って、主の御心が何で、どこにあるのかを聞き取っていく道を委ねられたからなのです。
たとえとして適切かどうかわかりませんが、例えば、子どもが友だちとゲームセンターに行くといったら、親としては「それはやめときなさい」と言います。それでもある程度大きな子なら、親としては「じゃ、これこれは気をつけるように、しないように」と念を押しつつ、心の中では「行くのはやめてほしい」「わかってくれないのかなあ」と、イライラするでしょうが。ある程度大きな子どもには、自分で気づいてほしいと願うのは親心でありましょう。

神がバラムに、「これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない」と語られたのは、まさにバラムの信仰を試し、問うたものだったのです。バラムにはそれを自由に選ぶことが任せられていたのです。結局彼は「よかった、ゴ―サインがでたぞ」ということで自分の心の願いが果たせると喜んでモアブの地に向かったのでありますが、結局それは神が「行くな」と言っているその御心が見えなかったということであります。

さて、バラムはロバに乗り、二人の若者を従えていたのですが、そこへ主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっていました。この主の御使いを見たロバは、道をそれて畑に踏み込みました。一方、バラムはロバを打って、道に戻そうとしました。すると今度は主の御使いは、ぶどう畑の間の狭い道に立っていました。ロバは主の御使いを見るや、その道の石垣に体を押しつけ、バラムの足も石垣に押しつけたのです。するとバラムはまた、ロバを打ちました。さらに進むと、剣を手にした主の御使いは、今度は右にも左にもそれる余地のない狭い場所に立ちふさがっていました。ロバはその主の御使いを見るや、バラムを乗せたままもうよけようが無いものですから、とうとうその場にうずくまってしまいました。するとバラムは遂に怒りを燃え上がらせ、まあ本気でロバを杖で打ったというのです。
ここを読むと、ロバは3度剣を手にした主の御使いの姿を見ているのに、バラムにはそれが全く見えていなかったことがわかります。それどころか彼は3度そのロバを打ったのです。バラムは何とかして自分の願う道を通したいと急いでいたために、主の御使いに気づきません。それに気づいて災いを避けようとしたロバは、彼にとって自分の願望を邪魔するものに過ぎません。本当は命の恩人(ロバですが)、まあ罪を犯させまいとする存在なのです。彼は自分の思いと違うところに行こうとしたロバ、多少痛い思いをさせたロバに対して、激しく怒りを燃え上がらせたのです。
これは一つの教訓とも言えます。私たちには人間として願望があります。それは決して悪いことではありません。しかし、主の御心以前にそれに固執してしまうと、周りの忠告も妨げるもの、助言もいまいましいものに聞こえてしまうでしょう。それは危機から守り罪を犯させないため、又大きな過ちから遠ざけるために神が遣わされた者かも知れないのに、それに気づかないことがあるのではないでしょうか。

さて、そこで主はロバの口を開かれます。ロバは「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは」。それに対してバラムは「お前が勝手なことをするからだ。もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう」と答えます。バラムは主の御使いの剣が自分に向けられているのも知らず、こういっているのです
ロバはバラムに更にこう言います。「わたしはあなたのロバですし、あなたは今日までずっとわたしに乗って来られたではありませんか。今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか」。バラムは「いや、なかった」としか答えることができなかった、とあります。聖書で動物が言葉を話すのはこのロバと創世記のヘビだけですが。神が口を開かれたというのはロバだけなのですね。何ともユニークな個所でありますけれども。

そこで、主は今度はバラムの目を開かれます。すると、彼は、主の御使いが抜き身の剣を手にして、道をふさがっているのを見たのです。バラムはどれだけ自分の目が罪で覆われていたのかを知り、身をかがめてひれ伏しました。
主の御使いは、バラムが非難したロバのとった行動について弁護いたします。
「なぜ、このロバを三度も打ったのか。見よ、あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから、わたしを妨げる者として出て来たのだ。このロバはわたしを見たから、三度わたしを避けたのだ。ロバがわたしを避けていなかったら、きっと今は、ロバは生かしておいても、あなたを殺していたであろう」と語られます。

バラムは主の御使いに答えます。
「わたしの間違いでした。あなたがわたしの行く手に立ちふさがっておられるのをわたしは知らなかったのです。もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します」。
彼はモアブの長たちと共に旅立ったことが間違いだったと認めます。そして、主の御目に悪しければ、引き返すと言います。

それに対して主の御使いはバラムに次のように言われます。
「この人たちと共に行きなさい」。今度は「行きなさい」とお命じになっていますね。
「しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」と。
主の御使いは唯一つの条件として、神が告げられる言葉だけを告げるようにと言われます。
ここで主の御使いはバラムにどうして「引き返せ」とおっしゃらなかったのでしょうか?それは、バラム自身がその信仰を問われて、改めて主に従う道を見出したからではないでしょうか。この新しくされたバラムを主は遣わし、「神が告げられる言葉」のみを告げるという「使命を託された」ということなのでしょう。
バラムはこの後、モアブの王バラクに対して、主の告げられることだけを告げます。多くの宝を積まれ、王がイスラエルの民を呪うよう願っても、バラムは「主がわたしの口に授けること。わたしはそれだけを忠実に告げるのです」と答えます。
 
私たちはいろんな出来事に心変わりしたり、揺さぶられたりしやすい者です。けれども主は決して変わることのないお方です。私たちもまた、その変わることのないお方に信頼し、誠実に従っていく道が問われているのです。

最後に、聖書教育の少年少女科のところに、とてもよい視点が記されています。
このバラムとロバの出来事は、当面のイスラエルの民の全くあずかり知らないところで起こっていたという事であります。後で、「あのとき、主が働いていて守っていて下さったんだなあ。支えていて下さったんだなあ」というような事が、私たちにもあるのではないでしょうか。
私たちもまた、祈られています。祝福されています。主に益々信頼し、主のみ業に参画する者とされていきましょう。
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メリバ(争い)の水

2011-10-09 11:37:08 | メッセージ
宣教  民数記20:1-13

① イスラエルの人々の過ち・罪(的外れ)
荒れ野の旅40年目の最初の月、イスラエルの人々はツィンの荒れ野のカデシュの地に入りました。しかしその荒れ野には飲み水がなかったため、イスラエルの人々は徒党を組み、モーセとアロンに逆らって、こう抗弁します。「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ」。あの時に死のうが、今死のうが、まったく同じだと、自暴自棄の感情が現われます。さらに「なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえないではありませんか」と言って、モーセとアロンが悪い所へ導いたとつぶやき、不平不満をぶつけます。
しかし、このようなつぶやきは初めてのことではありません。民数記14章に記されているように過去にも同じカデシュでなされたのです。その時も、イスラエルの民はカナン偵察にいったリーダーの報告を聞いて、夜通し泣きごとを言い。「エジプトの国で死ぬかや荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。それくらいならエジプトに引き返した方がましだ」とモーセとアロンに不平を言いました。
そのため、イスラエルの民はカナンの地に入ることを許されず、40年間荒れ野でさまよわなければならなかったのであります。

カナン偵察後の38年の時を経てイスラエルの民は再びこのカデシュに戻って来るのですが、
彼らはまたもや、モーセとアロン、そして神につぶやき、同じ罪を繰り返します。イスラエルの人びとの心が全く変化しなかったことが分かります。

イスラエルの人々の過ちは二つあります。
一つは、彼らは、荒れ野で困難な状況に遭うたびにエジプトを思い起こしました。エジプトがまるで楽園であるかのように語り、そこに帰ることを望みました。しかしどうでしょうか。彼らは、エジプトの時、厳しい苦役を課せられた奴隷でした。ある程度の食べ物が与えられていたかも知れませんが、支配されていた奴隷には変わりなかったのです。
彼らはそのことを忘れ、いろんな食べ物を食べたことだけを回想しています。過去の奴隷生活を回想する彼らに未来は見えませんでした。

二つ目は、確かに荒れ野に水がないというのは、死活問題であり深刻であったことは理解できますが。しかし彼らは、そこで主に寄り頼み、助けを求めることをせず、モーセとアロンを責め立てました。神に対する信仰を失えば、困難に陥る度に不平不満を言う悪循環を繰り返すようになります。

② モーセの過ち・罪(的外れ)
さて、そのようなイスラエルの人々に対して、主はモーセに「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」と、仰せになります。主は、水がなくて不平を言う民を責めず、彼らに水を与えてくださいます。

ところが、モーセは民に対して、「反逆する者らよ、聞け。この岩から「私たちが」(原語に忠実に訳せば)あなたたちのために水を出さねばならないのか」と、怒りをぶつけました。そして、「モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ」とあります。

すると、そのすぐ後に主は、モーセの過ち・罪を厳しく指摘されます。
それは、主がこのモーセのとった態度を非常に不愉快に思われたということであります。
主はモーセに、「わたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」と仰せになります。

ではこの「わたしの聖なることを示さなかった」、そのモーセの過ち・罪とは具体的に何でしょうか。
それはひと言でいえば、怒りの感情に捕われてしまって罪を犯したということです。
モーセは「反逆する者らよ」と、民に怒りをぶつけます。それはまた、「私たちがあなたのために水を出さねばならないのか」と言うつぶやきでもありました。さらに、「杖で岩を二度打った」とありますが、これも主が「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と言われたことを聞かず、怒りに任せて杖で岩をバンバンと二度打ったんですね。一言岩に向かって「水を出せ」と命じたなら水は出たはずなのですが。
モーセは怒りの感情に捕われて、自分を見失い、神になり代わって民を罪に定めたということが示されています。姉ミリアムの死という悲しみを負っていたモーセに、民たちの不平不満と反逆はそれに追い打ちをかけ相当の重荷となってのしかかっていたことでしょう。モーセの心境も分かる気がいたします。
しかし聖書は怒りという人間の感情を押し殺せとは言っておりません。イエスさまも福音書で何度か厳しく怒りをあらわにされたからです。大切なのはその怒りは主の御心に沿ったものか否かという点であります。

主は、罪を犯し、逆らい続ける民に対し、怒られるのではなく、7節「彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」と仰せになられたんですね。そのように罪深い者であっても、その必要を満たされるお方なのです。モーセにとっては、ここで、「主があなたたちのために水を与えてくださる」と、主に栄光を帰すことこそ重要な役割であったのです。

主はそのモーセとアロンに対して、「あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」と言われます。モーセとアロンはカナンの地に入ることができないと主は宣言されるのです。これはあまりに厳しく、重たい審きの言葉ではないでしょうか。しかし、これはモーセが人間の怒りの感情でもってそのまま人間を裁いたこと、又主のイスラエルへの深い憐れみを受けとめず、「主の聖なることを示さなかった」ことへの、厳しい審きであったのです。

③ 「メリバ(争い)の水」から私たちへのメッセージ。
本日の個所には、イスラエルの会衆の罪とその指導者モーセとアロンの罪が記されています。私たちは今日の個所を通して、自分たち自身の立ち位置を再確認していくことが必要であります。まず、会衆の一人ひとりの不平不満はモーセらを責め立て、主への不信仰を示していました。私たちも日常生活において、また教会生活においても、時に不平不満やつぶやきが募り溜まることがあります。それは有る意味人間のもつ弱さゆえです。
しかし主は、罪を犯し、逆らい続ける民に対して、怒られず、「彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」と仰せになられたように、罪深い者の必要を満たされるお方なのです。私たちの不平不満やつぶやきが、他者を攻撃したり、非難したり、排斥したり、裁くものにエスカレートしていくことがないように、まず主の御前にあって主にそのあるがままの思いを注ぎ出して、訴え、祈る道が備えられているということを再確認してまいりましょう。

また、指導者のモーセが人間の怒りの感情に捕われて、怒り任せに罪を犯してしまいました。このようなことは牧師も犯しやすい過ちでもあります。又、信徒同士の間にあっても犯しやすい過ちでもあります。感情を制するというのは本当に難しいことです。ただ主はここで、「彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませなさい」と命じられたように、たとえ罪ある民であっても恵みを与えようとしておられるのです。これが「主の聖なること」であり、「主の御心」なのであります。怒りの感情に捕われた人の裁きではなく、主の御憐れみを態度で示すよう主に召された私たちは招かれているのです。

この主の「聖なること」が示された究極は、イエス・キリストの十字架であります。神に不従順である人間の罪を自ら担い、贖い、解放してくださった主イエスの十字架。
先日の安藤榮雄先生は、主イエスが「わたしの手を見なさい」と仰せになったみ言葉の真髄を私たちに力強く語って下さいましたね。私たちの罪のために十字架にかかって釘打たれたままの主の御手こそ、主の聖なることの証しであり、私たちの救いと解放の原点であります。「メリバ・争いの水」ではなく、主イエスによって戴いた「命の水」「生ける水」を共に戴いた者として、主の聖なることを指し示す証し人とされていきましょう。

イエスさまは言われました。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)

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安息の日とは?

2011-10-02 17:30:13 | メッセージ
宣教 レビ記25:1-7

ここには「安息の年」について記されています。
それは天地万物を創造された神さまが、七日目に休まれたことに由来します。
聖書ではこの7という数や日、月や年が特別なものとして捉えられてきました。
安息の日ということが最初に明確にされたのは、先日礼拝で読みました出エジプト記16章にあります「マナ」が与えられた時でありました。一日目から六日目迄日毎に与えられるマナですが、六日目には主がいつもの二倍のマナを与えられたので、イスラエルの人々は七日日には働く必要がなかったのです。それはまた、神さまご自身が七日目にマナの供給を休まれたということでありました。ですから安息の日は、神さまが創造の業を休まれたことを思い起こさせるものでもあったのです。

出エジプト記23章12節以降には「安息日」についての律法が次のように記されています。
「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それはあなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。
それはまた、忙しく、慌ただしい現代社会にも通じる戒めでもあるでしょう。

さて、本日の個所はその安息日の精神が活かされるかたちで、イスラエルの人びとに対し、主のための安息を「土地にも与えなさい」というもので、七年ごとにそれを履行するよう命じられています。「6年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない。土地に全き安息を与えねばならない」とあるとおりです。

農業やガーデニングを経験なさった方はご存じのとおりでありますが、「土地を休ませてあげることで土に養分が戻り、再び豊かな実りが与えられる」というのは今やどの国の農業でも実践されていることです。しかし、当時40年間荒野の旅をして定住するのは初めての人ばかりであったイスラエルの民にとって、それは安定した実りを得るためには素晴らしい教えとなったことでしょう。

この聖書が語ります「安息の休み」の律法については、「土地を休ませる」ということ以外にも、先ほどの安息日の律法にもあるとおり、奴隷、寄留の人はもちろん、さらに家畜や動物にまで休みを与えるというものでした。

そしてこの「主のための安息を土地に与える」ということがですね、6節以降読んでみますと「安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。(植えたり、草取りや清掃をしなくてもその年には実はなりますからね。それは)あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている、滞在者、更にあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる」とあるんですね。
つまり「主のための安息を土地に与える」ことが、結果的には奴隷や雇い人、滞在者、又家畜やすべての動物までもが恩恵に与る。そして共に生きる恵みを味わう、ということにつながっていくわけです。
安息の日、又年に与えられた地の産物は、人間の労働によって生じたものでないわけですから、すべてのものがその恵みに与る権利が神から与えられているということですね。

「主のための安息を土地にも与えなさい」というのはイスラエルの民にとっては律法です。
しかしそれは、すべてを創造され万物の摂理を定められた神さまの知恵であり、神の民とされた彼らへの愛の戒めなのです。人間は有ればあるだけ消費してしまう生きものです。
しかし、人間が大地の生産力を使い尽くしてはならず、時には人も、家畜も土地も本来の自然の姿に返して休ませ、それによって、労働者、又貧しい者を助け、創造されたすべての動物を生かすこと。それが主なる神さまのご意志なのです。

さてここでもう一度、安息の日について考えてみたいと思います。
十戒の第4戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とありますが、申命記5章15節には、それを支えている根拠が、つまり「どうしてそれを守るのか」という理由が次のように記されています。
「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」。
そうですね、この「主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出された」ということがまずあって、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と主は命じておられるのです。

イスラエルの人々はかつてエジプトで奴隷として強制労働を強いられていたわけですが。彼らがその非人道的な労働から解放された事が、安息日の必要性と結びつけられているのですね。
出エジプト記5章には「モーセとアロンがファラオと交渉する」場面が記されておりますが。それは荒れ野で主なる神を礼拝するために数日間労働を免じて休暇を与えてほしい、という訴えでした。それに対してファラオは、そのような休暇を求める者たちを「怠け者」と呼び、更に過酷な苦役を課したのであります。ファラオの労働を休ませない権威的でかたくなな態度と、休暇をとって荒れ野に出て主なる神を礼拝しようとするイスラエルの人々の態度とが対照的に描かれています。
このように出エジプトの出来事は、強制的な労働を強いられていたイスラエルの人々が主なる神を礼拝するための、それは休暇の要求から始まったということです。そのような中で、イスラエルの民は、主を礼拝する安息日の休息を遵守する十戒を手にしたのです。

本日は「安息の日とは?」と題し、み言葉を聞いています。
現代の私どもは、かつてのイスラエルの人々が奴隷であった時のように過酷な労働に強いられたり、搾取されているとはいえないでしょうが。逆に、不況や景気の低迷によって、仕事を失ったり、又仕事がないという問題が深刻にあります。
そういう中で、日曜日を主のために礼拝を捧げるということが難しい方々も確かにおられることも実情であります。もちろんキリストの福音によって救われている私どもは、律法主義的にそれを強制したり、捕われたりする必要はありません。主イエスご自身がおっしゃったように、「安息の主」が共におられること、それこそが真の安息の日なのです。
そういう中でも、やはり私どもは共に礼拝し、共に恵みに与っていく「安息の日」が必要なのであると、聖書は語ります。

今日の聖書から特に目に留まったのは、「主のための安息」というみ言葉であります。
この安息の日ですが、これはクリスチャンにとっては、イエス・キリストが死よりよみがえられた日曜日、「主の日」を示しております。それはまさに主が、罪人である私たちの罪を担い、贖いと解放をなしてくださった日であり、そのことを覚える日であります。

この主の日が、旧約の安息の日のように、真の休息と解放の日なのであります。
イエスさまは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とおっしゃって今日も私どもすべを招いておられます。ほんとうにありがたい、ほんとうに十字架のイエスさまにしか語ることのできない招きであります。主の日の礼拝に与ることは、まずこの主にあって休む、憩うということなのであります。

しかしその一方で、イエスさまは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とおっしゃいます。
礼拝に集い休みと憩いを得て、そこで終わりじゃないんですね。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、安らぎを得られる」というのです。ここが肝心だと思います。この安らぎは、主のために働く、又イエスさまと共に働くことによって得られる恵みなのです。このように「休み」と「安らぎ」という二つの恵みに与る日、これが安息の日であり、主の日であります。
安らぎは、単にじっと静かにしていれば得られるというものではありません。
主のために、安息の日の律法にあるように隣人や他者のために奉仕して体がへとへとになっていても、どこか魂に安らぎや平安を得ているということが確かにあります。それが礼拝というものがサービス、奉仕と呼ばれているゆえんです。それは仕事ではなく奉仕、仕え合う愛の日なのです。今日もう一度、安息の日、主の日について、その原点を見つめ直し、互いに主の日が来るのがわくわくして待ち遠しい、そのような思いに満ちた一人ひとりとされていきたいものです。
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