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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

平和月間に寄せて

2024-08-04 13:43:00 | お知らせ
平和月間に寄せて

私は子どもの時から、ずっと平和を願っていました。それは、8月15日の平和授業や戦争体験者の話しを見聞きしてきたからです。
クリスチャンになって願いは祈りとなりました。
平和集会や平和を脅かす働きに対してのデモにも参加していましたが。中には偏った見方で過激な批判に同調させようとする人たちがいることに気づき、出れなくなりました。
人の正義感は、自分が見えていると思う世界の、ほんの一粒ほどです。本当の正義と正しさは罪の思惑がうごめく世では築きがたいのだと知りました。
そして神さまだけが全てを知り、正義の正しい計りをもっておられること。また、人が不義から立ち返り、御心とその教えに聞いて生きるところに、初めて本当の平和が築かれて行くことを知らされました。
私の祈りは単に平和を祈ることから「今日も多くの人が神さまに立ち返り、神の子とされてシャローム本物の平和が実現されますように」との祈りに変えられました。

イエスさまは今日も十字架の上から神と人、人と人との和解にある平和を執り成し続けて下さいます。人は神さまに立ち返って生き、まことの平和(シャローム)が実現されますように。
文責 Y・S
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神様のご計画

2024-08-04 13:40:30 | メッセージ
聖書 創世記31章1-13節   宣教 C・H

信仰とは何でしょう。何から始まるのでしょうか。
神様は存在するのか、存在しないのか、問いかけるところから始まるのではないでしょうか。
存在するのであればいったい神様がとういう方なのかを知ること、信じることが大事だと思います。
しかし、多くの人々は神様の存在は認めるが知ろうとはしません。信じようともしません。その中には神様の存在をしるために探し求めている人達もいます。

最初に読まれた(ヘブル人への手紙 11章3節)によると、信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、従って、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。このように私たちが信じている神様は万物を造り、支配し始めておられる全能の神様であります。ことばと人格をもっておられます。特にご計画をもっておられる神様です。 その神様のご計画とは人類を救うためのご計画です。
そのために神様は最初にアブラハムという一人の人を選びました。(マタイの福音書 1章1~2)アブラハムの子孫、 ダビデの子孫、 イエスキリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟が生まれ、延々と続きまして42代目に救い主イエスキリストが生まれます。
この歴史の流れの中で今日の宣教箇所、ヤコブの物語が出ます。このヤコブを通して、神様はご自分のご計画をどのように、実現して行かれるのかを確認していきたいと思います。それと同時に神様は私たちの人生の中でもご計画をもって生きて働かれる方であることを覚えて、励まされたら幸いなことだと思います。

さて、ヤコブはイサクとリベカの間で双子の弟でありますが、ヤコブは男が受ける長子の権利を、それもお父さんを騙してまでして、 祝福の権利を横取りにしました。当然ながら兄エサウは恨みます。「父の死ぬときも近づいている。そのとき弟ヤコブを殺してやろう」というのを聞いた母リベカは、ハランへ自分の兄ラバンのところに逃げるようにします。
そこで住み始めて20年の歳月が経ったところで、ラバン息子たちもラバンも、態度が以前のようではなく居心地が悪く、そこを去る潮時になったのでしょう。そのとき神様もあなたの生まれ故郷に帰りなさいと声をかけられました。
ヤコブは、自分の家族と財産を引き上げる前に、二人の妻たちに一緒に帰るため説得に当たって、自分の20年間の生活を振り返って話しをします。(31:5~7) そして、ラバンに何も言わず逃げるように旅に出ますが、追いかけてきたラバンにもこれまで我慢して尽くして来たことをいいます。(31:38~42) これが 31 章の内容です。
それでは、ヤコブがイサクから受けた祝福のことば (27:28~29)と、ベテルで主からうけた祝福のことば(28:13~15)も読んでみましょう。ここでヤコブの苦労話と祝福のことばを両方横に並べて見れば、人間的には矛盾を感じます。ヤコブの 20 年間の人生にある暗い部分というか、その陰は、そこに光があっての陰であると言えるのではないでしょうか。祝福の中にある苦難と言えるでしょう。
神様はあのベテルでの約束 「見よ。 わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、 あなたをこの地に連れ戻そう。 あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」という、その約束を守られておられました。それによって、神様は着々とご計画を実現されていきます。
実は、ヤコブは叔父ラバンの家で非常に苦労をしたかもしれません。しかし、主がともにおられました。決して御捨てになりませんでした。そこで二人の妻とそばめたちによって、 11 名の子どもが与えられます。 後からもう1人が生まれます。これがやがてイスラエルの12部族になり、イスラエル民族形成、つまり、国家建設のための基礎になります。そういうわけで、ヤコブの叔父ラバンのところでの20年間の生活は意味深く、神様からすればとても重要な計画の中の一段階でした。
もう少し進むと、ヤコブとその子どもたちは飢饉があって、エジプトにいって住むことになります。行くときは70人でありましたが、 エジプトを出るときには、徒歩の壮年の男子だけで60万人でありました。アブラハムに約束したように彼の子孫はそれからも増え続けられていきます。
エジプトから出たイスラエル民族は、荒野で40年間徹底的に神様の選民として、作り上げられます。律法が与えられ、礼拝を教え、聖なる国民、選ばれた種族、王なる祭司になるように訓練されます。神様は結局、ご自分の民に何を教えようとしたか。それは神様を信じること、従うことでした。
今日、私たちはヤコブの人生の節目と言えるところで、20 年間の人生を振り返って二人の妻たちとラバンに語った話しを聞きました。しかし、そこには神様が共におられ、祝福の約束のご計画を実現するために働かれたことを覚えることができます。その祝福は、イエスキリストにあって、今日の私たちにも及んでいます。どんな人生にも意味がある、無駄がないと聞きますが、その通りだと思います。

今回、ヤコブの20年間の人生を振り返っての物語を考えながら、私自身の40年間、日本での人生を振り返ってみました。「(箴言20:24) 人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。」「(イザヤ書55:9)天が地よりも高いように、 わたしの道は高く、わたしの思いは、あなたがたの思いより高い。」
私は、神様のくすしい摂理と計り知れない神様の御心によって歩んできました。40年間という歳月は決して短くありません。しかし、あっという間に過ぎ去りました。キリスト信仰一筋で教会が私の生活の重心でした。神様が最優先順位、イエス様が一番!何よりも勝る何にも代られない宝でした。使徒パウロの告白の御ことばのように。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストがわたしのうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」この御ことばが心に刻まれて、ひたすら神様を慕いながら生きてきました。
3人の子どもを育てながら仕事もして、毎日のように何かしら教会に走っていました。今考えれば、私の意志ではありませんでした。主イエスキリストに捕らわれて、握られて、神様は私を一瞬も御手を離しませんでした。
だからと言って、私が平坦な道を歩いて来たかと言えば決してそうではありませんでした。山あり谷あり、雨の日もあれば曇りの日もあり、太陽が燦燦たる日もあり、嵐の日もありました。それで花は咲き、実は結ばれる。これが神様の営みではないでしょうか。また、そのすべての事柄が神様の祝福という一つの箱の中に入っていると私は解釈しています。ときに喜ばしくない望ましくないことに直面したそのときにはしんどいことであっても、過ぎてみたら、すべてが恵みでありました。そこには善であられる慈しみ深い神様の御計らいがあって、恵みが備えられていたことを体験してきました。神様は真実な方です。 その恵みはとこしえまで、命ある限り力ある限り主をほめたたえます。

最後にまとめますが、ヤコブは晩年にエジプトの王パロの前に立ったときに (創世記47:9)
ヤコブはパロに答えました。 「私のたどった年月は130年です。 私の齢の年月はわずかで、不幸せで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」
ヤコブは不幸せだったと言っています。 ラバンの家から出てからもどれほど苦労の連続であったか、今日は31 章を続けて読んでいくと分かるようになります。ここで祝福とはなんであるか考えざるを得ません。どんな困難なところでも、キリストがともにおられるのであれば、キリストの支配があれば、どんな悩ましい人の心にも永遠の命があれば、祝福されたと言えないでしょうか。
アブラハムに約束された祝福は、土地や子孫などですが、結局それはイエスキリストのことです。どんな状況の中にあっても、キリストがともにおられるのであれば、支配があるなら、悩ましい心、弱い体があっても、そこにキリストの命があれば祝福と言えないでしょうか。

私たちキリストの信仰者たちは、物事を霊的な目で、信仰の目で、解釈をすることがとても大事だと思います。どんな出来事でも、神様の御計画の中にあること、御心があることを信じることではありませんか。神様に信頼し御心が叶えられますように祈りゆだねることができれば幸いでしょう。
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