宣教 聖書 創世記33章1-20節 C.H
人はなぜ争うのでしようか。その原因はどこにあるのでしょう。
神様は人間を本来平和な世界で住むように造られました。それなのに人間が自ら神様への不従順と反逆によって台無しにしてしまいました。その罪が人間を神様から引き離してしまい、神様との関係が壊れる事により、神様と人間との関係だけではなく、人間と隣人、自分と自分、自然との間も平和がなくなり、すべでの関係のバランスが取れなくなってしまいました。そういう結果で創世記4章にアダムとエバの息子で兄カインがアベルを殺した人類の初めての殺人事件以来、人類の歴史は戦争の歴史と言われるほど、民族は民族に国は国に敵対し立ち上がり次から次へと絶えず争いは止みません。今もそうです。
この問題の解決策はどこにあるのでしょう。人類にとって根本的な課題ではないでしようか。これからご一緒に考えていきたいと思います。
それでは先ほど読まれた創世記33章の内容は兄エサウとヤコブの和解の話しですが、ヤコブが叔父ラバンの家から出て兄エサウに会い和解するまでのヤコブが取った行動一つ一つを見逃すことはできません。
神様がこの土地を出て、あなたの生まれ故郷に帰りなさいと言われたにせよ、父の家に帰るのにはエサウとの和解がどうしても必要になります。
兄のことが大きな問題であるわけです。兄エサウの復讐に対する不安と恐れは自分の力ではどうにもならない、今までのように自分の力や知恵と努力では解決することが出来ないことを彼は痛いほど分かっていました。結局神様の助けが絶対的に必要でありました。
ここで私たちは神様に明確に示された道なのに、今のヤコブみたいに危険と障害がある場合があります。確かに神様の御心のはずなのに上手くいかないことも多々あることを覚えたいと思います。
それが神様の知恵かも知れません。私たちの人生とは神様側でしてくださることがあれば、私たちがしなければならないことがあるのです。
それではヤコブが兄エサウと和解のために取った行動、先週の箇所ですが、前の32章を少し読んでみたいと思います。ヤコブはセイルノ地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使者をおくった。
「あなたのしもべヤコブはこう申しました。私はラバンのもとに寄留し、いままでとどまっていました。私は牛、ろば、羊、男女の奴隷をもっています。
それでご主人にお知らせして、あなたの好意を得ようと使いを送ったのです。」
ヤコブは兄をご主人といい自分をしもべといい、身を低くしてエサウに近寄ろうとします。兄がヤコブを迎えるために400人を引き連れて来られるという使者から聞いたヤコブは、非常に恐れ心配をして人も家畜も全部失われることを避けるために二つの宿営に分けます。
そうして神様に切実な祈りをささげます。(32:9-12)「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつてわたしに『あなたの生まれ故郷に帰れ。あなたを幸せにする』と仰せられた主よ。私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけをもってこのヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営をもつようになりました。どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。あなたはかつて『わたしは必ずあなたを幸せにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする』と仰せられました。」
このように彼は約束の御ことばを握って神様の助けを求めて祈りました。
私たちも祈るときには約束の御ことばを握って祈るとき確信が与えられ、力ある祈りを捧げることが出来ます。
そのためには、日頃聖書を読み御ことばを心に蓄える必要があるでしょう。
さて、ヤコブは祈った後、彼は兄エサウのために贈り物を選び、その贈り物によって兄をなだめ、彼を快く受け入れてくれることを期待します。また人と家畜の群れの進み方にも細かい配慮と真心を込めて整えます。兄エサウは自分を赦してくれるだろうか、20年前のことだがお父さんがなくなったら弟ヤコブを殺してやろうと言っていた兄が果たして自分を赦してくれるだろうか、あるいは自分と家族を打ちはしないかと復讐して来たらどうしょう。恐れと緊張感が高まる一方で、ある人が夜明けまで彼と格闘するような不思議な出来事がありました。ここで彼の名前が変わります。彼の人生の大きな転機になります。神様の使いなのか神様なのか、ある人との格闘とは必死な祈りとも言えるでしょう。「私を祝福してくださらなければ、私はあなたを去らせません。」
その人は「あなたの名前は何か、ヤゴブです。もうヤゴブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
ヤコブが、「あなたの名前を教えてください。」尋ねるとその人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名前を尋ねるか」その場で彼を祝福した。
このように、ヤゴブの積極的に祝福を求めて一晩中神の人と闘って必ずや祝福を手に入れてしまう姿勢は、かつて20年前兄エサウから長男が受ける祝福の権利を奪い取る時と重なります。
(マタイの福音書11:12)にイエス様は、「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は、激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」御ことばを思い出します。この御ことばは信仰とは決して生ぬるいものではなく、積極的なことであることを言い表しているのではないでしょうか。
ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが400人の者を引いてやって来ていた。ヤコブは子どもたちをそれぞれ二人の妻レアとラケルと二人の女奴隷とに分け女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。この置き方にも彼の偏愛が見られ、家族の中でも大事にされる者を少しでも安全な一番後ろに置くという生の人間の姿が見られます。そして、ヤコブ自身は、彼らの先に立って進み兄に近づくまで、7回も地に伏しておじきをします。エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいたき、首に抱きついてくちづけし、二人は泣きました。感動的な場面です。
被害者が加害者を無条件で赦し受け入れられるとはまさしく神様の愛ではありませんか。ヤコブは言います。「私はあなたの顔を神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。」
ここで私たちは考えてみたいと思います。自分の過ちが赦されることは幸いですが、自分を傷付けた人を赦すことのできることは最も幸いではないでしょうか。赦しとは本来愛である神様の性質の一つだからです。それで赦す側が神様のように見えるのではないでしようか。自分を傷つけた人を赦すとは簡単なことではありません。しかし、神様に赦されたものであれば赦すことができます。
続いて考えてみましょう。ヤコブとエサウの和解はいったいどのように成立したのでしょうか。ヤゴブの知恵と懸命な努力によるものでしょうか、あるいはエサウが優しい人だからでしょうか。そうではないでしよう。この和解は神様の業です。神様がなさったことです。ヤコブは神様に祝福を受けました。生まれ故郷に帰りなさいと命じられた神様ご自身が兄との問題解決をしてくださったのです。神様とヤコブの関係がエサウとの和解を生み出さられたのです。(箴言21:1)「王の心は主の御手の中にあって、水の流れるようだ。御心のままに向きを変えられる。」人が人の心を動かし、変えるのは難しいですが、神様は敵をも味方に変えるほどいとも簡単に人の心を変えられます。ここで長年の間、ヤコブの良心の呵責、兄を欺いたことによる罪の意識から解放され、新たに前に進むことが出来るように神様が道を開いてくださいました。神様は真実な方です。
結論になりますが、この世の人間社会はヤコブとエサウのように兄弟の争いがあれば、親子の争いもある。人と人の関わりがあるところには何かしら厄介なことがある。それでひとりがいい。面倒なことも避けられる。そうやってひとりで生きる道を選ぶ人達も少なくない今の時代であります。
しかし、(創世記2:18)神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手をつくろう。」
やはり人間はひとりでは生きられない存在であるということ、お互いに助けあってそれも平和に生きるように造られていました。
しかし、罪の性質をもつようになった人間には争いと分裂が常に付き惑うようになりました。アダムの神様に対する反逆という傲慢の罪から始めて、カインが弟アベルを殺したねたみの罪など、すべでの罪は神様と人間を分裂させます。
人と人の間も分裂させます。
平和は四つあるといいます。神様との平和(調和、バランス)、自分との平和、隣人との平和、自然との平和であります。
この中で神様との平和があれば、(神様との関係回復)後三つの平和は自然的に平和になります。こういうわけで、罪の問題が解決されない限り人間社会では本当の意味で平和はありません。
(ヨハネの福音書1:29)その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」神様はこのように私たちの罪を取り除くために十字架につけられ、よみがえられた主イエスキリストにより、信じるすべての人たちに神様と和解され、神様との平和の道を備えてくだしました。そして、神様を愛すること、自分自身のように隣人を愛することによって、本当の意味での平和と幸福を与えてくださいました。この恵みを忘れずに平和のために祈り、平和をつくる神様の子どもとよばれたいと思います。