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「あなたの隣人とは誰か~ペヌエルでの格闘から」

2024-08-11 18:06:29 | 巻頭言
宣教アウトライン Y・M

「芋(いも)づる伝道」日本の教育に「国を愛する」精神を打ち出そうとする意見があるのに対し、もう一つ他方では「国を大切にする」精神でよい、とする意見がある。この両者の問いには「愛」の言葉を抱えてきた過去の歴史が反映している。その理由として、国を愛する愛国心をどうしても自国のみへの愛のように狭くなりがちである。そう言った中で新渡戸稲造(キリスト教教育者)は「愛国」を説いても「愛国」を叫ばなかった、という話を聞いたことがある。
 
さて、本日の聖書の箇所で、ヤコブが20年間マハナイム(32:3)での亡命先からカナンに帰って来たとき、彼は叔父ラバンとの格闘からうまく脱走に成功したものの不安に満ちていたと思われ悪い予感から脱し切れていなかった。                          
マハナイムはヨルダン川の真東の方で隊商が通る「天幕に住む人々の道」と命名されている。ヤコブはマハナイムに接近したときかれは「天使の一団」「万軍の主」を思い浮かべていたであろう。  そこで遭った天使の一団は彼には「主の軍の将軍」の幻とも思われるベテルの天使のメッセージでもあった。
ヤコブがその土地に戻ったときでも、一難去って、また、一難の危うい時であった。神が近くに来られ、前途に迫った危急の最中においても彼独特の策略「肉を切らせて、骨を切る」思いが彼を捉えたのかもしれない。

J.カルウ`ァンは詩編34編の中に、このテキストの主題が収束していると注目している。
 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、
  すべての恐れからわたしを助け出された。
  この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、
  すべての悩みから救い出された。
  主の使いは主を恐れる者のまわりに
  陣をしいて彼らを助けられる。
  主の恵み深きことを味わい知れ、
  主に寄り頼む人はさいわいである。(口語訳聖書)

本日の旧約聖書の箇所を新約聖書の光に照らして読んでみましよう。
今日、与えられている創世記32:23~33箇所はイスラエルの歴史が書かれたずっと前に、古今東西同類の神話伝説があった、と研究者は言う。
ひとりの男が一つの川を夜中に渡る話である。渡っていると悪者、悪霊に遭うと人間を襲ったらしい。その男(以後、彼)はその話が本当かどうか試しに挑戦心が起ってきた。   
イサクに双子の男が居た。兄エサウと弟イサクであった。そして弟イサクは父イサクをだまし、父イサクから祝福を得た。その後、兄エサウに妬み恨まれたヤコブは逃亡せざるを得なくなります。さいわい叔父ラバンの厚意によって彼のところに逃れることができた。              
荒れ野の逃亡の折、ヤコブは「夢」を見ました。それは、神御自身がヤコブと共におられ、寄り添い近づき給うお方であることが示されています。 本日の「ペヌエルでの格闘」の記事は、何をわたしたちに示しているのでしょうか。 格闘:いわゆ相撲はその内、神さまと人間との関係が濃くなっていくことを映し出す。ここに出てくるヤコブは相撲相手の名前を聞き出す場面でどんな技(わざ)を仕掛けてくるのか? 興味津々であります。政策的に<相撲:すもう(=角力)は精神性と運動能力との関係から鍛錬、忍耐力、規律現代社会=古代社会との比較の対象とすることはできないでしょう。
                
現在、フランスのパリーにてオリンピック競技の最中でありますが、運動選手の奮闘ぶりに喝采を送りたいものです。金、銀、銅メダルが優秀選手に授与されている風景が世界中に知れ渡り興奮の嵐に活気づけています。わたしたちは現在、テレビ桟敷を通してオリンピック競技に手に汗を搔いていますが。今日の。ヤコブのペヌエルの格闘は何をわたしたちに示しているのでしょうか。
ヤコブとエサウの祝福をめぐる格闘、そして今日の「祝福してくださらなければはなしません」と訴えたヤコブ。それはやがては朽ちてしまう賞、冠ではなく、朽ちることのない「神さまからの約束」(み言葉)こそが重要であることを教えています。                         
わたしたちは現在、テレビ桟敷を通してオリンピック競技に手に汗を搔いて楽しんでいますが。わたしたちは聖書から神の約束、祝福とは何かを読み取り、朽ちない賞、朽ちることの冠を得るために如何に生きるかが重要であります。

本日は「あなたの隣人とは誰か」という題をつけさせて頂きました。
神さまの祝福ということを考えるときに、新約聖書のヤコブの手紙4章12節に「しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。」(口語訳聖書)ここに「隣人」という言葉がある。
あなたの隣人とは誰か。あなたは、だれを隣人として生きるのか。しかも隣人をさばくあなたは、いったい何者かと、筆者は書き残している。それはわたしたちを含む現代社会における強烈なバッシング、ヘイト、訴え裁く非難のことばを問い、どうわたしたちがそれを聞いていくかが指摘されています。この神さまが造られた世界、社会が共に生きる喜びを、希望を相互に分け合っていく社会でありたい、と切に願います。
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