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神の国はあなたがたの間に

2019-03-24 17:00:14 | メッセージ

礼拝宣教 ルカ17章11-21節 受難節・レントⅢ

 

本日はルカ1711節からの「重い皮膚病を患っている十人をイエスさまがおいやしになられた」記事から、御言葉に聞いていきたいと思います。

まず、この十人は身体的病に苦しんでいただけでなく、社会的にも人々から汚れた者として排除される中で精神的な苦しみを負っていた人たちでありました。さらには、この十人の中にサマリア人がいたということです。

この当時、ユダヤの社会ではサマリア人を宗教的に汚れた者、異邦人と同様とみなしていました。一般的にユダヤ人はサマリア人とは交流することはなかったのです。

けれどもこの十人の人は、皆重い皮膚病ということで社会からの冷たい風に曝され、排除されながら苦しみを負っていたのです。そのことのゆえに、互いに肩を寄せ合いながら連帯せざるを得なかったのでしょう。

その十人の人は、イエスさまが自分たちの村に入ると、出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま。先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と訴えるのです。

いやしの業をなさるイエスさまが自分たちの村に来られるという情報がどこからか伝え聞いていたんでしょうか。重い皮膚病のゆえに、人に近づくことが彼らは、何とかイエスさまに自分たちの思いが届いて、神の憐れみに与りたいという一心だったことでしょう。

 

すると、14節「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われます。

たとえ世の人々が排除し、無視し続けようとも、イエスさまはその叫びをお聞きになり、応えて下さるお方なのです。

実は、ルカ513節のところでも「重い皮膚病を患っている人」をイエスさまはおいやしになられるのですが。この時は、イエスさまご自身がその人に手を差し伸べ、その人の手に直接触れて、おいやしになっています。

イエスさまは本当に人を愛され、慈しまれるお方です。手に触れおいやしになった人はとても孤独であったかも知れません。主が触れて下さることで神が共にいて下さるという、このうえない喜びといやしを受けることになったのかと想像します。

 

けれど今日のこのところでは、イエスさまは彼ら10人に触れることなく、ただ「祭司のとこに行って、体を見せなさい」とおっしゃるんですね。この違いは何なんでしょう?

それは、この10人の人が主イエスの御言葉に信頼して、今はまだ見てはいないが、主が必ずや実現するという信仰が、ここで求められているのでしょう。

口語訳聖書へブル人への111節に、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とありますが。そのとおりです。

そうして「彼らはそこへ行く途中で清くされた」のです。そうです。この10人はイエスさまの御言葉の命ずるままに、行動したのです。そうしてその中で彼らは皆いやされたのです。

 

ところでイエスさまはなぜ「祭司のとこへ行って体を見せなさい」と彼らにおっしゃったのかと申しますと。

旧約聖書の律法の書に、皮膚病の人が祭司に患部を見せ、祭司が治ったと判断したなら、清めの儀式と8日目の奉納とを経て、社会復帰することが出来る。家族のもとに戻れるということであったからです。そこで彼らはイエスさまのお言葉に期待をもって祭司のもとへ向かったのですね。

まあユダヤ人であれば、「祭司たちところへ体を見せに行く」ということについてもちろん何の抵抗もなったでしょうが。しかし、その中にいたサマリア人にとって、このイエスさまのお言葉はそんなに簡単にできるようなことではなかったのあります。

始めにお話したように、サマリア人はユダヤ人に差別されていました。誰よりも彼がサマリア人であるということが大きな障壁になっていたのです。その彼がユダヤの祭司のところに行くとなれば、どんな目に遭うか分りません。そのイエスさまのお言葉に対して、当然不安や恐れのなかで拒否反応が出てもおかしくなかったかと思われます。

けれども、このサマリア人はイエスさまのお言葉にいわば自分の全存在をかけて、祭司のもとへ向かうのですね。そうして彼も他の9人同様いやしに与るのです。

 

そして15節を見ますと、「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」とあります。この人は、単に自分の体がいやされことで喜んで終わる人ではありませんでした。

だれでも自分にとって有難いこと、良いことが起こった時、皆喜びますが、それでこの人は終わらなかったんですね。

それは、この人が自分をいやしてくださったのはイエスさまだ、ということを本当に知ったからです。この知ったというのは、目の当たりにするとか、体験するとか、経験するという意味をもつ言葉なのです。それは頭の知識によるものではなく、体験をしたということです。

 

彼にとって体がいやされたという喜びというものは当然大きいことではありましたが、彼はここで何にも代えることのできない比類なき「喜び」を得ます。主イエスが私にとって本当に救い主であるという体験です。彼は重い皮膚病を患った人として排除され、またサマリア人としてユダヤ社会において汚れた神に呪われた存在として忌み嫌われていましたが、主イエスの救いの体験によって、自分はもはや神に呪われ見捨てられた存在ではない。神は憐みをもって共にいつもいてくださる、ということを本当に心から知ったのです。

だから、彼は、もう、大声で賛美せずにいられなくなり、まっしぐら主イエスのもとに戻って来て、礼拝と感謝をささげたのです。イエスさまは本当に人を分け隔てせず、御神の愛と救いを実現してくださるお方なのです。

さて、一方の他の9人たちですが。

イエスさまはおっしゃいます。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

なぜ他のものたちは主イエスのもとに戻ってこなかったのでしょうか。

他の9人は途中でいやされたこと知った時、それこそユダヤの祭司のところに跳んでいったんじゃないでしょうか。そうして彼らの祭司から癒された証明をもらい、ユダヤ社会や宗教的な共同体と家族のいるもとに戻ることができたのです。

彼らの救いは神殿の中に、又清めの儀式の中、さらに同胞の中にありました。

この9人は主イエスの清めに与りながらも、その思いはいやしと同胞の交わりへの復帰に向いますが、真の救い主に自分たちが与ったことを知ることはなかったといえます。

 

しかしサマリア人は、その9人とは違い、祭司のところに行って癒された証明書をもらう道が閉ざされていました。けれどそのことのゆえにこの人は、イエスさまのもとへ戻ってくる道が開かれた、ともいえます。

他の道、人生の保証がないからこそ、本当の救い主を知った。これは又、多くのクリスチャンの方々の体験でもあるでしょう。

 

さて、イエスさまは、そのように神を賛美し、ひれ伏して感謝するサマリア人に向けて言われます。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

この清くされたサマリア人のこれからは、依然とユダヤにあってはこれまでと変わらず偏見と蔑み、敵意と隔ての壁が立ちふさぐ、孤独で先行きが見えない険しい道筋に変わりなかったのです。

その彼に対してイエスさまは、「立ち上がって、行きなさい」と言われるのです。「行きなさい。」それは文字通りそこへ、つまりあなたの場所へと行きなさいということです。まあ、礼拝でも毎回「ここから遣わされてまいりましょう」と、それぞれの場へ主が遣わしてくださることを覚えて、宣教メッセージを閉じていますが。

この「あなたの信仰があなたを救った」という御言葉は、ともすればこのサマリア人の行動や態度が彼を救ったというふうに読みがちですが。それは違います。救いをなしてくださったのは主イエスご自身です。救いの主体は主にあります。唯彼は主に信頼する信仰によって救いが与えられるのです。

このサマリア人の彼が信仰を通して経験した救いは、とてもはっきりしていました。それは体と心と魂の、いわば全人的救いです。

イエスさまはその彼に向って、だから、あなたにはわたしがいる、孤独ではないから、これから「立ち上がって、行きなさい」と励まし、送り出されるのです。

 

本日の箇所を、私たちはここで終わらずファリサイ派の人々が神の国についてイエスさまにお尋ねになった21節までを一つながりとして読んでいます。

彼らファリサイ派の人々は常に聖書研究と議論を怠らない人たちですから、神の国がいつ来るのかというのは、まあ、ある意味彼らの素朴な疑問であったとも言えるでしょう。

 

それに対してイエスさまは、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とお答えになります。

そこを原文に近く訳された岩波訳聖書では、「神の王国は、観察しうるようなさまで到来することはない。人々が『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』などと言うことでもない。なぜならば、見よ、神の王国はあなたたちの現実の只中にあるのだ。」と訳しています。

あなたがたの「間」という本来の意味は、あなたがたの「現実の只中」なのです。

ここでイエスさまは、神の国というものが、場所や現象、また時間などに支配され、限定されるようなものでないことを示されます。「神の国はわたしたちの現実の只中にある。」

 

彼らファリサイ派の人々にとって、重い皮膚病を患った9人のユダヤ人がいやされるのは理解できても、神に呪われた者とみなすサマリア人までがいやされたというのは納得いかないものであったようです。

イエスさまは、そのような人と人とを分け隔て、壁を作る彼らに対して、神の国は「あなたがたが目の当たりにした、ユダヤ人もサマリア人も隔てない共に救いの恵みに与る現実の只中に、神の国はある、と言われるんですね。

 

今日の箇所はイエスさまがゴルゴダの丘のあるエルサレムに向かう中での出来事でありました。このエルサレムに向かう途上とは、まさに神の国が、主イエスの十字架の苦難と死によってすべての人を隔てる敵意の壁が崩されていくそのために、イエスさまが「サマリアとガリラヤの間を通られた」ということであります。この間という言葉も、只中とか真ん中と訳せるのです。(岩波訳)

神の国、神の支配とは、サマリアもガリラヤも区別なく、主の御救いが及んでいる出来事そのものを指しているのです。

イエスさまは、「ほかの9人はどこにいるのか」と残念がられました。ユダヤ人、ガリラヤの人たちが祭司のもとではなく、真の救いの神に立ち返り、主にあってサマリアもガリラヤもない、神の国、そのメシア、王で主に立ち返って生きることを、何よりも願われていたイエスさま。

私たちも又、このイエスさまが、「見よ、神の国はあなたがたの現実の只中にあるのだ」とおっしゃっている御言葉を今週も思いめぐらしながら、ここからそれぞれの場へ遣わされてまいりま

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