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問いの中で生きる私たち

2019-03-10 15:49:59 | メッセージ

礼拝宣教  ルカ13章1-9節 (3・11を覚えて)

 

本日は受難節(レント)に入り最初の主日礼拝となります。主イエスの十字架の苦難と死を覚えつつ、イースターに向かって日々歩んでまいりたいと願います。

 

今日のお話は「ちょうどそのとき」、という言葉から始まっていますが。それはこの前の箇所と密接につながっているからです。

「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人(あなたを訴える人)と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官は獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。わたしは言っておく、最後の一レプトンを返すまでは、決してそこから出てくることはできない。」

そこには、群衆の一人ひとりが罪を認め、悔い改めて神さまとの和解を得ることの重要性が語られています。今日はこのことを念頭におきながら御言葉に聞いていきたいと思います。

さてちょうどこの話を聞いていた群衆の何人かがイエスさまに、「ピラトがガリラヤ人の血を混ぜたこと」を告げたというのです。

このピラトはローマ帝国の傀儡政権としてユダヤの人たちを統治していた人物で、後にイエスさまはこのピラトのもとで、十字架につけられ処刑されてしまうですけれども。

このピラトは、ガリラヤのユダヤ人たちのことを、現政権に反駁し、何をしでかすかわからない存在とみなし敵視していました。そのガリラヤに住むユダヤの人たちがエルサレムの神殿に行き動物のいけにえをささげて礼拝をしようとしていた時、ピラトの兵卒らに惨殺されてしまった。神を礼拝しようとしていた場で無惨に殺されてしまったのです。神の前に正しいことをしていた人々がなぜその最中に殺されてしまわねばならなかったのか?

まあ因果応報と言うような、「何か悪い行いがあったから、神の裁きを受けたのか」といった考えに彼らは囚われていたのかも知れません。けれども、それは裏を返せば、「今こうして守りの中にある自分は正しい人間で神に認められているのだ」という考え方と同じです。結局人と自分を比較し、裁いているのです。

 

このような人たちに対してイエスさまは言われます。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人より罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

イエスさまは「ほかのどのガリラヤ人たちより、あの人たちは罪深かった、だからそうなった」という考え方に対して、「決してそうではない」と断言なさるのです。

むしろ、人の罪深さを計るあなたがた自身が、悔い改めて神に返る生き方をするのでなければ、だれであろうと同じように滅びるとおっしゃるんですね。

さらに、イエスさまは「シロアムの塔が倒れて18人の人々が死んだ」事故のことを引き合いに出してこうおっしゃいます。「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいるほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

他の箇所でも「シロアムの池」で目の見えなかった人が癒される記事がありますが。そのエルサレムの水源であったシロアムに塔が建てられていたのですが、それが何らかの原因で倒壊してしまい、エルサレムに住んでいた18人が死んでしまうというような事が起こったようです。

ここでもイエスさまは、先ほどの「ガリラヤ人たちがエルサレムの神殿で礼拝していた時に、ピラトの兵士らに惨殺されたことに対してお語りになったことと同様、「彼らがほかのどの人々よりも、罪深い者だったからと思うのか。決してそうではない、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われるのですね。

 

私たち人間は、悲惨な事件や事故が起こった時、必ず「なぜ」という問いを発します。明日は3月11日、あの未曾有の東日本大震災から8年目となります。長い時間続く大きな揺れと信じられないような津波が東北地方の方範囲の町や襲いました。経験したことのない原発事故が発生しました。8年たった今もこの震災によってわかっているだけで54288人もの方が避難生活を余儀なくされているというのです。日本中、いや世界の人たちもこの出来事に対して「なぜ」「どうして」と言わずにはおれなかったあの日。そして今日も、その問いの中に生きる人たちが大勢おられます。その後にも、幾多の大きな地震や又甚大被害が及んだ豪雨災害等も起こっています。災害にせよ、事故にせよ、たとえ原因がわかったとしても「なぜ」という問いは尽きないでしょう。あの悲惨な出来事がなぜ起こったのか。なぜ多くの人の命が奪われねばならなかったのか。その問いに対して、イエスさまは何もお答えにはなりません。

唯、イエスさまははっきりと、「彼らがほかのだれよりも罪深かったと思うのか。決してそうではない」と断言なさるのです。

 

さて、ここが今日の重要なところですが。イエスさまはこの2つの出来事を知った人たちの「なぜ」の問いに対して、「あなたが悔い改めなさい」と命じておられるということです。

二度繰り返されている「悔い改め」。これこそイエスさまがここで語ろうとされる重要なメッセージなのです。

ギリシャ語で「メタノイア」。向きを転換して神さまに立ち返る。罪をあらわすハマルティアが、神さまに対して背を向けて的外れの状態にあることを指すとするなら、悔い改めは、その罪の状態から180度方向転換して神さまに向き直っていくことを指します。

「悔い改めなさい」と言われると、日本語的は反省することのように聞こえますが、決してそうではありません。

反省は自分の後ろを振り向き省みることです。確かにそれが良くないというのではなく内省というのは意味あるでしょうが。多くの場合その反省も日が経てば忘れてしまっていたり、逆に同じ事を繰り返し反省する度に落ち込んでしまう、ということもあるでしょう。反省は自己完結で終る場合が多いのではないでしょうか。

 

一方、悔い改め:メタノイアというのは、真理であり命の源であられる神さまの存在を認め、そのお方へ向きを変え、向き直っていきていくことです。

旧約聖書では「立ち返る」という言葉がたくさん用いられていますが。神さまに立ち返る。その時、人は単なる反省では得られない「平安」とともに「新しく造られた者」として生きていくことができるのです。まさに新生、ニューライフです。そこに神さまがおられるからこそ、立ち返ることができる。これが悔い改めなのです。

「新しく造られた私たち」というのが、今年の大阪教会が掲げたテーマでありますが。それはまさに神さまに立ち返って生きることの中で起こされてくるのですね。

 

イエスさまは、あるいは聖書全体と言ってもよいのですが、苦しみの理由や原因を示そうとはしません。よくカルトの宗教がこうこうこういう理由であなたは不幸になったなんぞと教え込むわけですが。そして、その話を聞いて不安や恐れをおぼえて縁起物やお清めものを買ったからといって、本当にそれが苦しみの解決や救いになるわけではありません。

イエスさまが、そして聖書が私たちに教え示しているのは、原因や理由ではなくて、その苦しみの中で私たちが歩むべき道、目指すべき方向です。それこそ本当に人に命を得させる道であり、それは「悔い改める」、真理であり命の源であられる神さまに立ち返って生きるということです。

旧約聖書のヨブ記においてヨブはある日突然苦しみのどん底につき落とされてしまいます。それはヨブが何か罪を犯したからではありません。しかしそこに友人たちが現れ、「お前がこのような苦しみに遭っているのは何か罪を犯したからだ。その罪を認めて悔い改めよ。そうすればまた幸せになれる」と言います。つまり、因果応報思想に基づく悔い改めを勧めるのです。

しかしヨブはそれに激しく反発します。この苦しみの原因は自分の罪にあるのではない、神が何の理由もなく自分を苦しめているのだ、と言って、神さまに抗議し、神さまを断罪していくのです。そうしてヨブは最後に悔い改めます。

それは、この苦しみが罪の報いだったというものではありません。主なる神さまご自身が彼の前に現れ、語りかけて下さったので、彼はすべてを司っておられる神さまに立ち返り、和解することができたのです。聖書はすべての苦しみは罪の結果だから反省しなさいとは言われません。今日のところでイエスさまがおっしゃるように、悔い改め、メタノイア、すなわち神に立ち返り、和解のうちに新しい人として生きていくように招かれるのです。

 

さて、イエスさまはここで「ぶどう園のいちじくのたとえ話」をお話になられます。

それはぶどう園に植えられた一本のいちじくの木の話です。実はこのいちじくの木は、植えられてからもうおそらく9年が経過していたと考えられます。このユダヤの律法規定によれば、植えて3年目やっと実がなり始めますが。次の3年間は実をつけてもまだ食べることのできない時期だそうです。そうして通常6年目から実をつけたいちじくは食べることができるそうです。が、この園の主人はさらに3年間待てども実をつけない状態にほとほとあきれて、園庭に「このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない」と言うのであります。

この主人は、いちじくの木の実りを本当に期待していたんですね。ぶどう園の目的はぶどうを栽培してぶどう酒を得ることですが、この主人はそこにいちじくの木をも植え、それが実を結ぶことを願っているのです。このいちじくの木の実り、それはイエスさまが人々に求めておられる悔い改めにふさわしい実を結んでいくことを象徴しています。

しかしこのいちじくの木は、三年待ったけれども一度も実を実らせていない。それは、なかなか悔い改めようとしない。言い換えれば、本心から神に立ち返って生きていこうとしない頑な私たち人間の姿です。

まあそのようないちじくの木に対して主人は怒り、「だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と言います。

ここに、悔い改めようとしない者に対する神の怒りと裁きが語られているわけですが。それは冒頭申しました今日の箇所の前の12章57節以降の「訴える人と仲直りする話」、つまり神さまとの和解;悔い改めの勧めになかなか応じようとしない人間の頑なさが重ねられているのです。

そこに「園丁」が登場します。土地を無駄にふさいでいるこのいちじくを切り倒せと言う主人に対してこの園丁が、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言うのです。

主人の、つまり神さまの怒りと裁きを前にして、切り倒されそうになっているいちじくの木、私たち罪ある人間のために執り成しをする園丁、主イエスご自身です

この園丁、主イエスの執り成しのおかげで、私たちはなお切り倒されずに、裁かれて滅ぼされずに歩むことが許されているのです。

ここで、園丁は「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と言っています。このいちじくが実を実らせるように、善きものによって一生懸命世話をされるのです。

主イエスが私たちのためにして下さったことはそれ以上です。癒し、解放、隣人となり、最後は私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。

つまりご自分の命を、私たちのための肥やしにして下さったのです。そのようにしてまでも、私たちが実を実らせる者となり、神の前に悔い改めて立ち返ることを乞い願っておられるからです。そしてそのために今日も、今も、執り成し続けていて下さっておられるのです。

このたとえ話には、私たちが悔い改めるのを、忍耐して待っていて下さる神さまのお姿があります。主イエス・キリストによる救いのみ業の根本には、この父なる神さまの忍耐があるのです。
しかし同時にこのたとえ話は、待つことには限りがあることをも語られています。そこを見逃してはいけません。もう三年待ったのです。来年もなお実を実らせないなら、その時は切り倒される。いよいよその期限が迫ってきているのです。それが、何度も申します12章の終わりの箇所で、「あなたがたは今、自分の罪が裁かれる裁きの場へと向かっているのだ」という教えとリンクしているのですね。

神さまの裁きの座の前にいつか立たなければならないことを思い起こし、今のうちにしっかりと時を見分けて備えをしておきなさい、とイエスさまは教えておられるのです。

その備えとは「悔い改めること」です。それは神不在の単なる反省や後悔というようなことではありません。神さまこそ自分の主人であることを認め、向き直る、立ち返って生きることです。それは簡単なことではありません。なぜなら私たちは、神さまと向き合うのではなく、自分のことばかりを見つめているからです。自分の苦しみや悲しみ、憂いや嘆きにのみ目を向けていると、自分と他の人を比べて、自分を誇り、人を蔑んでみたり、逆に劣等感にさいなまれて人を妬んだりと、常に一喜一憂し、感情に振り廻されるよういなっていきます。そこには、平安も、喜びも、慰めも、本当には得られないのです。

私たちのこの自分のことばかりに向かう心は、神さまの方に向き直ることがなかなかできません。まことに頑なな自分を正当化しないではいられない、それが私たち人間なのです。しかしそのような私たちのために、神の独り子であられるイエス・キリストが究極のとりなし手として自らを投げうって十字架にかかって死んで下さいました。

この主イエスによって、私たちが悔い改めて神さまと向き合って生きる者となるための道がすでに開かれているのです。

「今は恵みのとき、見よ、今は救いの日である。」(Ⅱコリント6章2節)

今の時を見分け、今日という日に、神さまとの和解を頂いて、真の平安と、新しくされた人生に与ってまいりましょう。

今日もここから、それぞれの場へ遣わされていきましょう。

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