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助け主(ぬし)に立ち返れ

2019-03-17 14:05:25 | メッセージ

礼拝宣教  ルカ16章19-31節 レントⅡ

 

先週はルカ13章の「実のならないいちじくの木」の譬えから、神さまに立ち返って生きる、とのメッセージを聞きましたが。

本日はルカ16章の主イエスがお語りになった「金持ちとラザロ」の物語であります。

ここは話としては単純かもしれません。

金持ちは、生きている間、富を得、上等な服を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた人でした。一方ラザロは、体中できものだらけで苦しみ、貧しかった。その金持ちの門前で、横たわり、その食卓からこぼれ落ちてくるもので腹を満たしたいものだ、と日々願っているような人でした。

ところが、二人が死んだ後、立場が逆転します。ラザロは天使たちによって宴席に連れて行かれました。いわば天国に行ったのです。

一方の金持ちは、地獄ともいえる陰府(よみ)に行くことになりました。簡単に言ってしまえば、そんな話であります。どこにでもあるような話かもしれません。聖書を読まなくても、同じような話には出くわすものです。

善いことをしないと死後、地獄に堕ちるだとか、たとえ貧しかったとしても、善いことをして堪えれば報いがあって、死後、天国に行けるだとか、そのような話です。


けれどもイエスさまはここで、そのような教訓めいたことを話されているのではないことが、このお話を読んでいくとわかってきます。


この金持ちについては、19節に「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とあります。

彼はそういう贅沢三昧をしていました。その暮らしぶりが陰府に行く原因になったのでしょうか。

確かに「子よ、思い出してみるがよい。おまえは生きている間によいものをもらっていたが云々」とありますが。その金持ちが何か特別な罪を犯したとか、そういうことは一切言われていません。

また彼は、黄泉の苦しみから抜け出せないとわかると、必死になって5人の自分の兄弟たちの執り成しをします。「ラザロを遣わして、兄弟たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように言い聞かせてください」。まあ兄弟に今警告したらこんなところには来なくてすむだろうと考えたのでしょう。それは陰府に行って当然というような悪人の姿ではありません。
これまで私はどこかこの金持は無情な人だというような思い込みで読んでいたのですが。まあ身内に対してはこういう思いやりがあったんですね。まあ、そのように金持ちが贅沢をしたとか何か悪いことをしたので、さいなまれる黄泉に落ちたということをおっしゃっているのではなさそうです。

 

一方のラザロはどうでしたでしょうか。

ラザロは天国に連れて行かれました。ラザロが天国に行けるような優れたところがあったからでしょうか。ラザロが貧しいながらも神を見上げて生きたとか、清い心をもって忍耐して人生を送ったとか、しかしそのようなことは一切語られていません。

実に、ラザロも天国に行くことができるような理由については、何も言われていないのです。
イエスさまのこのお話は世の一般的な教訓話と明らかに違いがあります。

人間的な世界の教訓話なら、善いことをすれば天国に行ける、悪いことをすれば地獄に堕ちる。だから悪いことをせずに、善いことをしましょう、という話で終わるかと思います。けれどもイエスさまはそのようなことをお語りになっておられないのです。

では、このイエスさまのお話で問題になっていることとは何でしょうか。

その一つは、富の問題、金の問題であります。

この少し前の13節でイエスさまは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われたのですが。その言葉に対し、14節で「金に執着するファリサイ派の人々が…イエスをあざ笑った」のです。

この流れの中で、イエスさまは今日のお話をなさったのでありますが。

イエスさまは金や富そのものが悪いと言われているのではありません。ここで問題となっているのは、それに囚われることから生じる魂の危機的状況です

金に執着する人が、神にではなく富に仕えるようになり、神さまから遠く隔たり、遂には苦しみと孤独にさいなまれようになる。滅びでしょう。そのことへの警鐘です。

また、その金や富に囚われことによって、他者に対して無関心となり、それが結果として他者のいのちと生活を脅かし、危険にさらす事態となっている。そこが問題となっているのです。

先日新聞で、地球温暖化に対する100カ国以上の一斉デモが15日に行われたということを知りました。北欧のダレタ・トゥンベリさんという16歳の学生の方が、地球温暖化で将来が危ぶまれることを訴えるため一人で学校ストライキを行ったことに始まったそうです。

「大人は2050年より先何て考えない。でも私は、その時人生の半分しか生きていない。」

そういう危機感に賛同する若い人たちがそこに加わっていたということです。

グレタさんは「人々は成功を語りたがります。でも、彼らの経済的な成功は、気候変動について考えられないほどの代償を伴いました。私たちは失敗したことを認めなければなりません」と言っています。

富や経済を最優先してきた今の社会が若い人たちの将来を脅かしているということを忘れてはならないと、つくづく思わされました。

 

話を戻しますが。

1613節以下で、イエスさまは、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」、と言われました。

このお言葉を胸に刻みたいと思います。

 

さて、この今日のイエスさまのお話では、どうしたことか、貧しい人にだけ「ラザロ」という名前がつけられていますが。

なぜ金持ちには名前がなく、貧しい人は名前つきで登場するのでしょうか。この世界、世の中の常識では逆ですよね。

名をあげる、有名になる。多くの人に名を知られるのは祝福だというのが世の見方でしょう。24節で、金持ちは死後葬られますが。おそらく名が知れたがゆえに壮大な葬儀がなされたんだろうと想像できますが。それに対してラザロは単に死の報告しかありません。

 

しかし、この世にあって、人の目から見て、無きに等しいように扱われ、価値無き者のように見なされているその人を、天地万物をお造りになられた命の源であられる神さまは名前のある尊い存在として認めてくださっている実はそれがこのラザロという名に表されているのです。

ラザロという名前は「神は助ける」という意味をもっているのです。まさに神はラザロをその名のとおりお助けになられた。

このことをイエスさまは伝えたかったのだと思うんですね。

ラザロが天の国の食卓に共に与ることができたのはなぜか。それは、ラザロの名前が表しているように、「ただ神が助けて」下さる他ない者であったからです。

私たちも、そういう存在ではないでしょうか。何か自分が正しい者だから救われたのではなく、清い者だからふさわしいと思ってクリスチャンになったわけではありません。否、むしろ「神さまの助け」に与るほかない者であったからです。

天国に帰ったラザロは「今、ここで慰められ」ると、ありますが。イこの「慰め」とラザロの「神は助け」の「助け」はもともとは同じ語源から派生した言葉です。それはまた「聖霊」パラクレイトスと同様の言葉であります。聖霊は「助け主」であり「慰め主」であると聖書に記されているとおりです。私たちもこの聖霊の助けと慰めによって、日々天国の食卓に与る者とされているんですね。

同じルカ1824節以下のところで、イエスさまは『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』と言われますが。これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったとあります。多くの富を持っている、そんな祝福された人が天国に入るには難しいのなら一体誰が天国に入れるのだろう。

それに対してイエスさまは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた、とございます。人の力や業ではなく、ただ神のみが人を救うことがおできになるのです。

聖霊の助けと慰め、その御力を求め、与りつつ、神の御救いを仰ぎ見る者でありたいと切に願うものです。

 

最後に、今日のお話には、ラザロの他にもう一人アブラハムの名が出てまいります。

アブラハムはイスラエル民族の出発点となった人です。アブラハムはその信仰によって神から義人と認められます。そして神さまはアブラハムに「あなたは祝福の源となるように」と言われるのです。

「神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われたイエスさまを嘲笑ったファリサイ派の人たちは物心ついた頃から、自分はアブラハムの子孫であるということを教えられ、意識して育ちました。アブラハムの継承者、祝福を受け継ぐ者として誇り高く律法を遵守し、安息日や断食や施しを実践して、自らを清く保とうと努めていたのです。

彼らにとって祝福は満ち足りた生活であり、豊かさは祝福の表れでした。ですから、ファリサイ派の人々の中にも、社会的に貧しい人、弱い立場にある人、病をもつ人などは、祝福に与っているとはいえないという考えをもっていたのです。

ファリサイという名は「分離」を意味しています。つまり律法を守らない、守れない世俗の人たちと自分分離して生活していたのです。

ところがイエスさまのなさったお話では、祝福されているはずの金持ちが死後アブラハムから遥かかなた遠く離れた場所で苛まれ、炎の中でもだえ苦しむのです。

何とも彼らにとっては痛烈な話であったでしょう。

アブラハムが言うには、天国と陰府との間には「大きな淵」(26節)があるということです。

淵を辞書で見ると「流れの水がよどんで深くなった所」とありましたが。富に心奪われ命の水かよどんで大きな淵となり、そのまま地上の生活を終えてしまうのなら、彼の父祖アブラハムでさえどうすることもできない。金持ちはもはや黄泉において、自分のことは断念し、自分の5人の兄弟の救いを求め、ラザロを遣わして警告してくださいと言います。

けれどもアブラハムはその訴えを退け、彼らには「モーセと預言者がいるではないか」との言葉」、神の言、聖書がすでに与えられているじゃないかと言われるのです。

すると、彼はなおも食い下がって「もし、だれかが死者の中から彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう」と言うのですが。

アブラハムは「もし、彼らがモーセと預言者、すなわち聖書に聞かないのなら、たとえだれか使者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と答えているのです。

どうでしょう。

確かに、驚くようなしるしが現わされ、それが信仰のきっかけになることもあります。

しかしそこに、御言葉による悔い改め、神さまに立ち返って生きることが無いのなら、意味はありません。

今日のイエスさまが語られたお話は、助け主であられる主が、世にあって名もなき者、小さく弱い立場におかれた人をも、この上なく尊い存在として認め、顧み、いつくしんでおられことが示されます。その究極の愛こそ、主イエスさまの十字架の贖いにおいて実現したのです。主はまさに死人の中からよみがえられ、今や聖霊を通して私たちを助け、慰めていてくださるのです。

金や富に囚われている私たちが救われ解放されるべき道は、この生ける主と出会い、神さまに立ち返って生きるところにございます。

私たちもまた、今日の御言葉を受入れ、聖霊の助けと慰めをのうちに世に遣わされてまいりましょう。

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