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主イエスの道

2019-03-31 12:54:55 | メッセージ

メッセージ ルカ24章13~35節 受難節4 

受難節の只中にあって、今日は「エマオへの道」の記事より、「主イエスの道」と題し、み言葉に聞いていきます。

イエスさまの十字架の出来事を目撃した弟子たち二人はそのいまわしさから一刻も早く逃れようと、エルサレムの町からエマオの村に向かいます。その距離は60スタディオン。

1スタディオンが185mですから、約11㎞、まあ徒歩で6時間はかかるでしょうか、エマオの村へ向かう途上にありました。

ちなみにこのエマオとはヘブライ語で「温泉」「温かい井戸」という意味があります。深読みをすれば、温泉が湧き出、人々がいやしと回復のために湯治足を運んだ地であったのかもしれません。

 

この弟子の一人はクレオパという人でしたが、もう一人の弟子の名は何も記されていません。二人とも12弟子とは異なる弟子であったようです。

その道すがら二人は、自分たちがメシアだと期待していたイエスさまが、こともあろうに十字架刑に処されて悲惨な死を遂げたことについて論じ合っていたのです。おそらく彼らはこのイエスさまの死にメシア待望の期待が絶望と変わり、暗い喪失感に襲われていたのでしょう。

 

そのような時、主イエスご自身がその彼らの傍らに近づいて来て、一緒に歩き始められるのです。

「しかし、彼らの目は遮られていて、イエスさまだと分からなかった」というのです。

主イエスは、彼らと歩きながら「やりとりをしているその話は何のことですか」とお尋ねになります。

一人の弟子クレオパが、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」と返すと、主イエスは「それは、どんなことですか」と彼らの心の奥底に持っている思いを引き出すようにお尋ねになります。
クレオパは、「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長や議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」
彼らにとってイエスさまはこの時すでに過去の人でしかなかったのです。

 

人は思いがけない出来事に遭って失望感や喪失感を経験することがあります。そんな時、目の前が真っ暗になるような経験をいたします。まあ、彼らも又、そのために復活された主イエスに気づくことが出来なかったのです。

私どもも時として、過去の出来事、それがよい事であれ、悪い事であれ、過ぎ去ったことに捕われて「今、目の前にあるもの、目の前にある人」、そして「今、与えられている幸いや恵みが遮られて見えなくなる」ということがないでしょうか?

しかし、主イエスはまさにその「今」、私たちと共にいてくださるのです。私たちの過去がたとえどのようなものであったとしても、どんな挫折、失望、不安や悲しみがあったとしても、主は、そのあなたと歩みを共にしていてくださるのです。
さて、主イエスはそのような彼らに、「ああ、もの分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。
弟子たちにとって忌むべき呪いの十字架の出来事。

けれどもそれは人類の救いの道が開かれるために成し遂げられねばならない出来事であったのです。その十字架の出来事があったからこそ、私どもはこのように神のみ前に罪赦され、新しい命、神の民とされて生きる救いの恵みに与ることがゆるされているのです。イエスさまはその救いが真実であることを示されるためにご復活なさったのです。
その復活の主イエスは二人の弟子たちに対して、聖書(律法・預言書)全体は救い主メシア、イエス・キリストご自身について書かれたものであることを説明されます。その時、この二人の弟子たちの心が燃やされるのです。

私どもにとって聖書は活ける主の言葉であります。私どもは聖書を介していつも復活のキリストと出会うことができるのであります。

確かに聖書を読んでいて理解しにくい点や分からない点もあるでしょう。私もそうです。しかし、主イエスが二人の弟子たちに忍耐強く、み言葉の解き明かしをなさったように、実に今も聖霊が私たちの信仰生活の生の全領域にある生活の中で、その魂のうちに語りかけ、聖書の言葉を解き明かしてくださるのです。

皆様もみ言葉が真実だという体験、又み言葉が実体となって心に迫ってくるというご経験がきっとおありではないでしょうか。
聖書は一人で読むことは大事ですが、主にある仲間との交わりの中に、又様々な出会いの中に、聖霊がゆたかに働いてくださるのです。そのことによって、活ける復活の主が共におられることに気づき、心熱くされる感動が与えられるのです。
しかしこの二人の弟子たちですが、この時点で心は熱くされても、目の前にいるお方が復活の主イエスだとまだ知ることはなかったのです。

さて、二人の弟子たちは、主イエスと共に歩き、語り合っているうちに、いよいよエマオの村に近づきます。

主イエスがそこからなおも先に行こうとされたので、この2人の弟子たちは、「一緒にお泊まりください」と「無理に引きとめた」とあります。えらい強引だと思いますが。それだけ彼らの心は目の前にいるお方に惹きつけられていたということです。

あの喪失感にさいなまれていた二人が、心燃やされ「ちょっと待ってください。もっと話をお聞きしたい。どうか一緒にお泊まりください」と、強引に引きとめる様子を想像すると何だか嬉しくなります。

黙示録3章20節に、主は「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をする」と記されていますが。この時まさに彼らは目の前におられるお方がまだ復活なさった主イエスとは知らなくとも、お迎えしたいという思いでいっぱいになり、迎えいれるのです。

おそらく彼らが「一緒にお泊まりくださいと、無理に引き止め」ていなければ、この後の目の前にいるお方が、復活の主イエスだと知るよしもなかったでしょう。

そして彼らは「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」その主イエスのお姿を見るや、その目が開け、イエスだと分かったというんですね。

それはまさにイエスさまが十字架につけられる前夜、弟子たちと共に持たれた最後の晩餐のときの光景でありました。イエスさまが「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂いて、これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と、おっしゃったその場面が、よみがえってきたのです。

すると聖書は、「彼らの心の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」と伝えます。彼らはイエスさまが死より復活されて共にいてくださることを霊の目で見たのです。

エルサレムからエマオに向かい始めた時、「彼ら二人の心の目はさえぎられていて、イエスだと分からなかった」のでありますが。エマオの道を主イエスに伴われながら歩んでいく中、さらにイエスさまの聖書の解き明かし、またパンを裂きと賛美と祈りの時をもつことによって、「二人の目が開け、イエスだと分かった」というのであります。聖霊によるお働きとお導きによって、主が共におられることを霊の目で確信することとなるのです。

このことから、私たちにとって「礼拝」や「主の晩餐」は真に重要なときであることが読み取れます。毎日曜日の教会の「礼拝」、また「主の晩餐」を通して、私たち一人ひとりの傍らに復活の主が共におられることを確認し、主の霊、聖霊に導かれていきたいものです。

 

復活の主イエスの姿がなぜ見えなくなったかについては分かりませんが。ここで大切なのは、彼らの「心の目が開け、イエスだと分かった」ということです。それは私たちの普段の心の目は、目に見える世界だけに囚われて生きているということです。私たちが目で見ていることが本当にすべてなのかというと、そうでしょうか。目に見えないものの中に、それは信頼、愛、執りなしなど、私たちはそれらの目に見えないものによってどれだけ支えられ、生かされているでしょうか。

いずれにしろ、主イエスのお姿が見えなくなった、ということの意味は、聖霊という存在として、私たちはどんな時も、どこにいようと復活の主のご臨在を経験することができるようになったということではないでしょうか。

33節、彼らは「時を移さず出発し、エルサレムにいた他の弟子たちにも、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」というのです。

今度はその彼ら自身が復活の主イエスの証人となっていくのです。

どうでしょうか。クリスチャンとなった私どもはこのように、日々日常の生活において主の復活の証人となっているでしょうか。教会生活と現実の生活とは別個のものではなく、ひとつながりです。サンデークリスチャンで終っていないでしょうか。その鍵となるのは私共が日々、聖霊に満たされて歩んでいるかということです。

主の証し人は、自家製のがんばりや義務感で決してなれるものではありません。聖霊によるお働きとお導きによる主の恵み、感謝と喜びが原動力となるからです。これは奉仕も献金もそうです。義務や責任からではなく、あふれる主の恵み、感謝、喜びから起こされていくのですね。


最後に、今日の聖書個所から「主イエスの道」という題をつけました。

今日の礼拝で最初に読まれた招詞のヨハネ14章6節をもう一度お読みします。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」

主に救い出されたクリスチャンは、みな今日のエマオの道、すなわち主イエスの道が備えられているということであります。

今日の聖書の箇所はルカ24章の「エマオへ向かう道」ですが。先にも申したように、その「エマオ」とはヘブライ語で「温泉」や「温かい井戸」という意味があります。又その「道」とは、心の目が遮られていた二人の弟子たちの傍らに主イエスが近づき寄り添って、共に歩いてくださる道のことなのです。

そうしてエマオへの道において、霊の目、心の目がさえぎられていた二人の弟子たちの目が、主イエスが伴われる道において、聖書の解き明かしがなされ、さらにパン裂きと賛美と祈りの晩餐をとおして、彼らの霊の目、心の目が開かれていったのであります。心冷めきっていた彼らの心が熱くされたのです。まさにそれが起ったのは、温泉、いやしと回復の地を意味するエマオの道においてでありました。

私たちも、絶望や喪失感にさいなまれ、先の見えないような状況に至ることもあるかも知れません。まさに地上に生きる私たちはみな、このエマオの途上にあるのです。しかし、実はそのようなときに主イエスがその私たちの傍らに寄り添い、歩みを共にして下さっておられる。これが今日のメッセージであります。

そのことを私たちは教会での礼拝、祈祷会、信徒の交わりを通して、そして日々の日常生活の中でも体験することができるのです。アーメン。ここに地上では得難い希望を私たちは主より頂いているのであります。

 

今週も、今日のみ言葉をもってそれぞれの場へ主の復活の証し人として遣わされてまいりましょう。

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