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祈り求める者に

2019-03-03 15:37:56 | メッセージ

礼拝宣教  ルカ11113節 

この個所は、イエスさまが祈っておられるお姿から始まります。祈り終えたイエスさまに、弟子の一人が「わたしたちにも祈りを教えてください」と尋ね、そうしてイエスさまが「祈るときにはこう言いなさい」とお教えになられるのです。

同様にマタイ福音書6章にも、イエスさまがお教えになられた祈りが出てまいりますが、若干違っています。けれど、いずれにしろ私たちが毎週礼拝の時に祈る「主の祈り」がこの祈りの原型になっております。

重要なのはその祈りの最初の呼びかけです。

イエスさまは「父よ」:ギリシャ語で「パテル」、元来はアラム語の「アッバ」という呼びかけですが。このアッバという用語はユダヤの過程で幼児が父に向って呼びかける時の言葉だそうで、日本では「父ちゃん」、今時だと「パパ」というようにその親密な関係性を表す用語であります。

しかしマタイの主イエスの祈りでは、神に向かってこういう「父ちゃん」というような呼びかけはおこがましいということもあったのか、「天におられる私たちの父よ」になっています。まあ大方の教会の礼拝も、このマタイの主の祈りの呼びかけを取り入れています。

イエスさまは今日のところ以外でも「父よ」と呼びかけ祈っておられますが。それは神の子としての親密な関係性の中で、日ごとに絶えず祈っておられたということです。

 

イエスさまはあの十字架の苦難と死の前夜も、ゲツセマネの園において「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。

もう究極的な信頼関係における祈りであるかと思いますが。本来天と地を創造された神さまは、すべての人間にとりましても父なるお方であられたのです。しかし私たち人間は、その罪の性質のためにその父なるお方に背を向け、思うままに生き、関係を損ね、滅びへと向かう者でありました。

が、しかし今や、主イエスの贖いの業によって罪赦され、み前に立ち帰り、聖霊のお働きに与る中、再び「天の父よ」とお呼びできる関係性が取り戻されたのです。

ローマ814節-15節に「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは・・・神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです』」と、あるとおりです。

このように主イエスの救いのもと祈る人は、主イエスさまと共に神をアッバ、父と呼びかける親密な関係に入ることがゆるされているのです。まさに、それは聖霊の賜物・贈り物に他なりません。

 

さて、その「主の祈り」ですが。

まず「御名があがめられますように」。そして「み国が来ますように」と、「神について」の祈りが捧げられ、続いて日ごとに必要な糧、ゆるしと和解、守りといった「人について」の祈りが捧げられています。それは、あの旧約聖書の「十戒」との大きな共通点であると言えます。

神が神とされることによって、人が人として生きていく幸い」が、ここには示されているのです。

 

まず神が神とされていく、「御名が崇められますように」ですが。

御名が崇められるとは、「あなたの名が聖とされますように」という意味です。世には神でもないものを神のように崇めさせていく力が強く働いています。十戒では「あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と命じられていますが。お金やモノや地位や権力等に心奪われ、それらを神のように追い求め、ひれ伏し仕えても、それらはすぐにすたれていくものであり、人を本来の命の力に満たすものとはなりません。それらがまつりあげられていく社会は、人が消耗品のように扱われる殺伐とした世界です。

すべてのいのち源であられる父なる神さまの御名こそがあがめられ、聖とされるとき、そこには天の御国が興されていきます。それこそが、ほんとうに人が人として生きることを願い求める人々、共同体、社会です。

まずイエスさまは、私たちが「神を神としてあがめ、その父なる神さまとの関係性が取り戻されるように祈ることを、お示しになるのです。

 

続けてイエスさまは、私たちの実生活の中での3つの祈りをお示しになられました。

先にも申しましたように、それは「日ごとの必要な糧」「ゆるしと和解」「守り」を願うものです。イエスさまはそれらの祈りを、私個人のことにとどまらず、「わたしたちに」という共同体、あるいはもっと広い社会全体のこととして祈るように導かれます。

 

イエスさまが「わたしたちに」の祈りとして最初にあげたのが、「日ごとの糧」の問題であったというのは興味深いことです。

イエスさまはもちろん旧約聖書の「人はパンだけで生きるものではない、神の口から出る一つひとつんことばによって生きる」、そのことによって人はほんとうに生きることになるのだという教えを尊ばれました。しかしここでは、「日ごとの糧」のことを最初に配慮なさっておられるのです。それは人として生きるうえでだれもがそれを必要としていることをご存じであられたからでしょう。

出エジプト記のマナのお話にもあるとおり、神さまは人に、日々の糧をその日その日にお与えくださるのでありますが。欲張って集めたり、次の日の分を隠して持っていても、無駄になったり、腐ったりするんですね。

話は変わりますが。国際NGO「オックスファム」というところが出した統計によりますと、これは1年前のものですが。世界の富の82%が、一体何%の富裕層に集中しているかというと、皆さんはどれくらいとお思いになられるでしょうか?私は5%くらいかなと思ったのですが。何と、世界のたった1%の人が世界中の富の82%を握っているとい結果だそうです。

まさにグローバル化の下でお金やモノ、力を持つ限られた人たちが世界の日ごとの糧を買い占め、独占することによって、多くの人が必要としている日ごとの糧が奪われ、あえぎ苦しんでいる現状があります。

けれどもそれは裕福な人が良いか悪いかという問題じゃなく、拝金主義、経済最優先社会が神さまの本来の祝福を損なうものでしかないことが、こういう形で露わになっているのです。

「神が神としてあがめられ」、神さまの主権が取り戻され、だれもが日々の糧に与ることができる世界となりますようと切に祈ります。

 

次の「罪のゆるし」の祈りですが。

自らの罪の赦しを祈ることは、他者の罪をゆるすことと切り離すことができません。

主イエスは、神の前ではあなたの計る計りであなたも計られると言われました。「ゆるす」ことは難しいことです。けれど、憎しみは憎しみを生み、憎しみの連鎖は社会に滅びを招きます。神さまはすべてを御存じです。神さまにゆだね、憎しみを手ばなすことによって自他共に罪の縄目からの解放を頂けるのです。

 

そして最後は「誘惑」からの守りについての祈りですが。

それは、何が誘惑で、何が試練かは、その時々で異なるでしょう。知るべきは「神の愛から引き離そうとする力」があるということです。あらゆる時代や状況にあっても、父なる神さまへの信頼と関係背が損なわれることがないように、いつもみ前に立ちうるようにと、この祈りはその私たち自身が如何に弱い者であるのかを知りつつも、だからこそ主により頼んでいくための祈りなのです。ですから、この祈りは非常に積極的な祈りであるかと思います。

 

はじめに「神を神として崇める」とき、「人が人とされる」と申しました。

イエスさまの教えてくださったこの「主の祈り」は、私と、私の生きるこの世界のすべての人々を、神に立ち帰って生きる祝福へ導く祈りであるのです。

 

さて、今日の箇所でイエスさまはさらに、「祈り求める者」についての譬えを話されています。それは、弟子たちに友人がいたとして、真夜中にその友達のところに行って、こういうのです。「友よ、パンを3つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」旅行中の別の友達が来て、もてなしたいけど何もないからパンを3つ貸して欲しいと頼むんですね。いくら友人でも真夜中のことですからなかなか彼は出てきません。そのように「面倒かけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」との返答があります。

パン3つとは、日ごとの糧、その日一日分に相当するものです。

この深夜に尋ねた家にはパン3つはあったんでしょうね。でも、パンを出していたら灯を点けたり、ドアを開けたりと家じゅうがバタバタとしてしまい、せっかく寝静まった子供たちを起こすことになるし、面倒だということで断られるのです。

そうしてイエスさまはこう言われます。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」

実は、この「しつよう」という訳のギリシャ語原語は、「恥知らずな、厚かましく、図々しい」というように訳せるそうです。まあそれだけ、なりふりかまわず、その日の糧に困っている旅行中の友のために訴え求めるのであれば、友人も戸を開けて必要なものを何でも与えてくれるだろう、というのです。

イエスさまは続けて次のように言われます。9節。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうしれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、捜す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

そこまで恥知らずで厚かましく図々しいまでの熱意とその祈り、またそこから生まれる行動に、神さまは必要なものを何でも与えて応えてくださる、というのです。

 

さらにイエスさまは言われます。

「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とイエスさまは約束して下さいます。

この聖霊とは、まさに、このように求め祈る者、また祈られる者を「神の子としてくださる」霊であります。

 

私の、また私たちの祈りの友、隣人となる人たちを覚える恥知らずで、厚かましく、図々しいまで訴えを、父なる神さまは聞いていてくださり、それにふさわしい答えを与えてくださる。だから、どこまでも私たちはその父の神に、アッバ、父よ、と信頼し、大胆に祈り求めてまいりましょう。

今週のこの御言葉をもって、ここからそれぞれの持ち場へと遣わされてまいりましょう。

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