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とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

津久井城へ登る

2020-02-12 19:50:31 | 神奈川散歩

津久井城は三浦一族の津久井氏(三浦大介義明の弟だった人を祖とする一族)の記録が一番古いとか。
三浦半島の津久井浜あたりに住んでいた一族なのだろう。

津久井城は、秀吉の小田原攻めの時に徳川軍に敗れ落城したが、この北にある八王子城と並んで小田原攻防戦における第一防衛ラインの重要な城であった。

北根小屋のバス停から歩く。
諏訪神社へ到着


登るとすぐにある不動平の記念碑


この先を左回りの女坂を上る。

太鼓曲輪




本城曲輪


城の全体図


展望よし



三角形の独立峰が谷口にあるのですばらしい展望。
岐阜城とコンセプトは似ている。

飯縄曲輪


横浜貿易新報社による記念碑
この姉妹版が港北区の綱島にもある。(綱島温泉)

横浜水道みち 起点沼本ダムへ(三井用水取入所)

2020-02-11 22:11:06 | 神奈川散歩
三井大橋を渡り三井へ
三井寺へ向かう


道は通行止め。
落石の危険性があるからだと思う。
基本的に生活道路として使う必要がなければ、安全を優先して通行止めにしておくということだろう。
三井寺のあたりの登山道も通行止め。(こちらは昨年の台風のせいだろう。)
 

二十三夜供養塔が気になった。
道志には二十六夜山という山もある。
昔の人は月の満ち欠けにこだわったのだろう。
その夜には村の月待行事が行われて、お経を読み、飲食をしたのだそうだ。


名手の先もずいぶん前から通行止め。
こちらは本当に崩落しており、トラバースして通過するにはヘルメット、ザイルが必要だ。


名手橋を渡り旧道を進む。




道志橋を渡り寸沢嵐遺跡(石器時代の遺跡)この先のお堂のような屋根の下。


その先を沼本ダムへ
ダムの上流側が取水口


水道の流路は国土地理院の5万分の1の地形図にも表記されているので、水道管が何処を通っているのかは、ほぼ正確に分かる。
ただ、水道の上流部はほとんど道路とは無関係の地中深い所を通っているのだろう、さきほどの崩落地点もすぐ下を通っているようだが、外からはまったく分からない。

引き返して三ヶ木へ向かう。
途中道志川


橋のたもとで、道志川水系の横浜水道沈殿池へ向かう道を分ける。(今日はやめとく)


三ヶ木のバスターミナルへ着いたら、津久井城へ向かう。(この部分次回へ続く)


横浜水道みちを歩く 下溝から田名 谷ヶ原浄水場 から三井

2020-02-09 21:55:23 | 神奈川散歩
    津久井湖の眺め

相模線、原当麻の駅から歩く。
この間の女子美の続きから開始。


相模原調圧水槽
この施設で水道に圧をかけているらしい。


思ったより開放的な道だ。
丹沢の山脈が最高。
今の時期に歩くには、とてもよいコースだ。


のどかな農村風景。
畑の境に桑の木が植えてあるのが目立つ。

養鶏場があった。
元同業者としては見過ごせない。
小川さんという方が経営しているようだ。
外観だけしか分からないが、先進的農家であるようだ。設備も半端ない。
たいしたものだ。


この辺はブルーベリーも作っているようだ。
ベリーの根元に盛ってあるのは何かと思ったら、どうも細かいおがくずのようなものみたいだ。。


道は相模田名高校の所から一般道のようになる。


相模川の縁に近くなると。
ヤツボと呼ばれる水場が現れる。
大島水場のヤツボ
大島中ノ郷のヤツボ
 

その脇から相模川まで下りられる。
この辺りまで来ると相模川も野性味を帯びてくる。


一般道のような道なので少し心配になるが、道脇に横浜市水道局のカンバンが出て来てほっとする。


山王神社が河岸段丘上の道の最後の所と思われる。


この下が谷ヶ原浄水場だ。
浄水場からの道はよく分からない。
案内図には津久井湖の北側を通っていたように書かれていたので、北側を歩く。
中沢から歩道の少ない車道になり高度が上がる。
展望がよい。


三井用水取入所跡まで歩こうかと思っていたが、
三井のバス停で15時になっていたので無理せず、15時10分の橋本駅行のバスで帰った。


大船駅から砂押川 散在が池(鎌倉湖)

2020-01-25 20:34:56 | 神奈川散歩
大船駅からいきなり歩き出す。弁当はもちろん大船軒の鯵の押寿司弁当

駅の東側は商店街も賑やか。
鎌倉女子大から砂押川沿いの歩道へ向かう。
ところどころ車道しかない狭い道となる。
程なく今泉の白山神社


なにやら由緒ありげなしめ縄が
その先を右に折れると散在が池の入口

周りを山に囲まれた静かな池
鴨ちゃんが群れている。


鴨はポーと水面を泳いでいるだけなのかと思ったら
小さな潜水艦のように、あっというまに池の底までもぐっていく。


あんなにぷかぷか浮いているのだから、浮力もかなりあろうに、どういう仕組みなんだ。

池の周りはハイキングコース、




南口の出口から右へ折れると天国ハイキングコースへ行くことができる。



それで、歩いて鎌倉の駅へ抜けるつもりだった。
ところが登り口にこの看板が


ガガーン ガガーリン
台風のせいだ。本当にひどい台風だった。
むりに突破すると何を言われるか分からないので、仕方なく退散。

お帰りはこちら


トボトボと大船駅へ戻る。

本日の歩行距離15k


水道路を歩く(南町田グランベリーパークから相模原沈殿池)

2020-01-13 20:15:15 | 神奈川散歩

駅のアナウンスはグランベリーパークでなくGRANDBERRY PARKだ。
なんだかこっぱずかしい駅。

グランベリーパークへは寄らず、すぐに歩き出す。
水道は、アーチ型の水道管で境川を渡る。


越えるとゆるい登り坂に。(基本、水道路なのにけっこう高低差のある道だった。)
仕切り弁 1911年のイギリス製だそうだ。



境川を越えると大和市になる。
公園でくつろぐ大和市民を見ると思わず心のなかでつぶやいてしまう。

・・・・「ヤマトの諸君。」
もちろんデスラー総統の声だ。

小田急江ノ島線、東林間の駅を越える。

小田原線




水道路は、上鶴間の米軍住宅にさえぎられる。


右回りで超えると相模原公園へ

グリーンタワー相模原
すごい展望台があった。


展望台からの眺め

水道路


相模原沈殿池方面


女子美を抜け


今日はここまで。


相模原沈殿池へ向かう。


帰りは小淵の駅へ
(本日の歩行距離24キロ)

新丸子から大師橋 川崎大師 川崎駅へ

2020-01-05 20:17:24 | 神奈川散歩
ようやく年末疲れから回復、本格的に歩く。
新丸子の駅からスタート
多摩川の堤防へ。

今日は良い天気
太陽がまぶしい。

多摩川は台風19号の影響で、丸子橋あたりは河川敷の木にゴミが分厚く張り付いたまま。
いつも思うのだが、川がとんでもない濁流になった時、川の魚たちはどうなってしまうのだろう。東京湾まで流されていってしまうのだろうか。
おしえてさかな君。


河川敷で凧あげしている子もちらほら見かけたが、みんな洋凧。
吹き流しのついた和凧は絶滅か。
自分も小学生のころにやったのみなのだが、凧が風を受ける時のなんとも言えない引きの重さは快感。凧あげのだいご味。

コマ回しももちろんやった。
ベーゴマも懐かしい。

メンコなんかもやったな~
いとこからもらったのも含め、段ボール箱一杯あったな~
メンコには、エイトマンや、少年ジェッターなんかの絵がついていて、今もあればけっこうなコレクションになっただろうに、一枚も残っていない。
なんていうことを考えながら歩く。

動物のにおいがすると思ったら、川の横に川崎競馬のお馬さんの施設がある。
右に見える味の素の工場は超巨大。



大師の渡しから大師橋へ行き
引き返して川崎大師へ
5日でも超混雑、境内にたどり着くのも大変なので、門前でパンパンでおしまい。



くずもちを土産に
さらに川崎駅へ

途中、堀之内を見学。
駅到着で本日の歩行23km。

石垣山一夜城へ登る

2019-03-10 20:35:20 | 神奈川散歩
小田原城-早川-海蔵寺-石垣山一夜城



御幸ノ浜から石垣山方向



早川を渡り、東海道線をくぐり、海蔵寺へ向かう小道へ入る。
 

海蔵寺には秀吉の小田原攻めの時に38歳の若さで陣没した堀秀政の墓がある。


秀政は気配りの武将だったようで、秀吉の信任も厚かった。
その後堀家は、秀政の遺徳で30万石の大大名になったが、江戸時代初めに改易となる。
やはり40歳の若さで病没した蒲生氏郷に重なるようだ。

裏手の車道から登ると、石垣山城へ向かう車が多い。

振り返ると相模湾が綺麗だ。


蜜柑山の道を登っていくと、武将のパネルが等間隔で現れる。


城跡はよく整備されていて、見どころが多い。


箱根外輪山の明神ヶ岳


小田原城も見える


石垣もよく整備されている。


井戸廓の石垣から相模湾


立派な井戸が厩廓の下にある。


本丸からの展望


一大国家プロジェクトともいえる戦いを計画して実行した秀吉の統率力と財力がよくわかる城だ。

これだけの土木工事と、将兵20万を超える空前絶後の包囲網を維持する兵站を確保するには、現代であっても相当困難なはずだ。



この城から見える小田原城の周りには、名だたる戦国武将が結集していた。
それから、400年以上が経ってもこうして城郭が残っている。
なんとも考え深い場所だ。


西廓から天守台


小田原は大陸プレートがぶつかる場所でもある。




報徳二宮神社 小田原文学館 雨香亭

2019-03-10 14:30:21 | 神奈川散歩
二宮金次郎像


戦前製作の金次郎像はこの一体だけとある。
そのうち重要文化財になるのではないか。
最近歩きスマホを増長するものだと風当たりの強い金次郎像だが、確実に一時代の学校教育を象徴していた。


今日は旧松本剛吉亭 茶室「雨香亭」の一般公開日だったので、見学


松本さんは、山縣有朋の側近だったそうで、お庭や茶室にも山縣有朋の影響があるんだそうだ。






小田原文学館


小田原出身の作家には、北村透谷がいるそうだ。
文学史上ではたいへん有名だが、実際の所はほとんど何も読んだことがない幻の作家。


北原白秋が8年ほど住んでいたらしい。この間に沢山の童謡を書いたそうだ。
展示してある童謡の歌詞を見たら、8割ぐらいは自分も歌える。


串田孫一の名前を見つけたら、「美しき生の歩み」という自著(原文子共著)の本を
長谷川如是閑へ贈ったものだという。如是閑は、晩年小田原に住んでいたそうだ。それでこの本は如是閑が地元の図書館へ寄付しものだそうだ。

他にも小田原関連作家の言葉をいくつか

あちら こちら 命がけ
        安吾

木枯の橋を渡れば他国かな
川崎長太郎

日本の男の子と生まれ今
ここにいくさの庭に立つぞ嬉しき
北原武夫 宇野千代

民衆
われらは郷土から
うまれる
われらは大地から
うまれる
われらは民衆の一人である
福田正夫
(詩誌民衆)

小田原城を歩く

2019-03-10 10:33:54 | 神奈川散歩


小田原城へ向かうと昔に比べ城門などの復元が進んでいる。
小田原城は、最近外国人観光客への評判もよいそうだ。



古くには、勢子に化けた北条早雲(伊勢新九郎)の軍が小田原の大森藤頼を攻め、小田原城を奪った記録があるそうだが、当時の小田原城がどのようなものであったかは不明なようだ。その後の小田原城は、北条氏により要塞都市として整備された。
このため小田原城は、武田信玄や上杉謙信をしても攻め落とすことの出来ない、戦国きっての最強城郭都市となった。

南側の早川口の土塁遺構(北条氏の時代)




当時は東側では山王川から、西南方向ではこの早川のあたりまで城郭であった。
秀吉の小田原攻めの布陣図


本丸横にある報徳二宮神社前の堀も当時のものだそうだ。




小田原はたびたび大地震に襲われている。
先だっても地震で熊本城の石垣が崩れたが、
ここの石垣も地震で下部へ崩れ落ちてきたものだそうだ。


城からは、箱根の駒ヶ岳も見える



三の丸土塁遺構(江戸時代)




南は御幸ノ浜


江の島から湘南海岸を平塚へ

2019-03-06 12:35:45 | 神奈川散歩
江の島-岩屋洞窟-烏帽子岩-湘南大橋-平塚

江の島駅から歩く
途中、江の島駅前の商店街で玉屋の羊羹を買って
江の島へ、

今日はべんてん丸で稚児ヶ淵へ向かう




岩屋洞窟へ


江の島周辺や湘南海岸は軒並み工事中で、これもオリンピックの影響だね


江の島の地層


あ~した はぁまぁべええを さあまあよーええば~
私らの頃は、こういう唱歌を一通り習ったんだけど
今の小学生は知っているのかなあ。



烏帽子岩風のオブジェ
本峰と間違いやすい場合、山では「ニセエボシ」なんて呼ばれる。






離岸流注意


相模川河口
湘南大橋は、大型の車が通ると山の吊り橋のようにやたらと揺れる。
まるで、ひどいめまいがしているかのような揺れで驚く。




帰りは対岸の干物専門店で明日のおかず用に干物を買う。(美味しいよ)


花まつりなので鎌倉へ行った

2018-04-08 22:40:24 | 神奈川散歩
花まつりなので鎌倉へ行った

鎌倉駅11時15分着 ひら乃さんでラーメンを食べる。
本覚寺から妙本寺


花まつりの飾りは、山吹、木蓮、シャガ


八雲神社から折り返し、鶴岡八幡宮へ


今日は鎌倉まつり、3時から静御前の舞があるそうだ。


静は鎌倉に連れてこられると
乞われて鶴岡八幡宮で舞をまう。
その舞で義経を慕う歌をうたったことから頼朝が激怒。
そんな頼朝を妻の政子が、
私も女、静の気持ちはよく分かるとたしなめたとか




円応寺の閻魔様
閻魔さんのブレーンの十王の像が中央の閻魔様を取り囲むように並ぶ。
右側の2、3体の十王の像は石原良純さんのような顔


建長寺に到着

ファンキーなお坊様の乗り物


3時からの法要を見ることができたが、


とりまきの観光客もちらほらで、鎌倉一の大寺でこれだから
はなまつりはやっぱり地味



平塚駅から大磯、二宮

2018-03-11 21:13:45 | 神奈川散歩
平塚の高浜台から歩き始める。
この先ボードウォークがあり整備されている。


湘南ベルマーレひらつかビーチパークを過ぎると、砂浜の中を進むようになり、砂に足を取られて歩きづらい。

金目川の河口


橋を渡ると、防波堤沿いに歩道が続く


大磯港


港の横には、海水浴は健康にいいんだよーと、日本で初めて海水浴というものを一般に広めた軍医総監松本さん
あんたはえらいの碑がある


照ヶ埼海岸


こゆるぎの浜


おん馬さんも散歩している


一旦、大磯城山公園へ向かい
吉田茂邸跡へ(復元工事完了)
トレードマークの葉巻とステッキ


そのまま二宮駅へ向かう



湘南散歩 鎌倉 江の島 茅ヶ崎

2018-03-07 10:18:42 | 神奈川散歩
   鎌倉駅から歩き出す。
今日は歩くのが目的で、あまり観光スポットには寄らないで歩く。
鎌倉駅西口から図書館の前を通り、佐助への道を左へ折れ由比ヶ浜大通りへ


御霊神社から極楽寺、江ノ電で江の島駅へ
江の島から湘南海岸を歩く。



この時期は、人も少なく気温も丁度よいのでなかなか散歩コースとしてよい。
湘南の歩道はよく整備されている。



津波除けの高台


烏帽子岩が見えてきた


船がこんなところに隠してある


旧軍の弾が打ち上げられているそうだ。三浦半島にも同じようなカンバンがあった。



烏帽子岩到着




Cのオブジェ



サザン通りから茅ヶ崎駅へ

旧相模川橋脚と寒川神社は関係があるのでは?

2018-01-08 07:23:44 | 神奈川散歩
史跡の旧相模川橋脚へ行く


橋脚は関東大震災の液状化現象で田圃の中から出てきたという。


この遺構で最大の謎は、柱が南北に並んでいることだ。
しかも3列。



合理的に考えれば相模川に架ける橋なら東西方向に架け、柱は2列だろう。
相模川が蛇行していて、一部東西に流れる箇所があったとしても、そこにあえて橋を架けるだろうか。


地図を見ると寒川神社がほぼ真北にあるのが気になる。
稲城重成が妻(北条政子の妹)の供養としてこの橋を普請したそうなので、橋を造る動機としても、相模川を渡るための公共的な実用性よりも、より宗教色の強い建造物であったことが想像できる。
すると南北に橋が架けられた意味も、
源頼朝が橋の落成式に出席したことも納得できる。
橋は神社の太鼓橋のような役割をしていたのではないかと思う。

寒川神社は、相模湾のほぼ中央の奥まった所にある。
かつては、海上の船からも社殿が見えたのではないか。
社殿から海に向かった所に豪華な橋を架けるというのは、死者を極楽浄土へ導く寒川神社の仕掛けとして造られたのではないかと個人的には思ってしまう。
付近は富士山も綺麗に見える。


続けて寒川神社へお参り。


さすがに混んでいる。


この社殿の柱と相模川橋脚の柱も、似ている。
そういう解釈は、史跡の説明文にも書かれていなかったがどうなのだろう。

川崎大師から多摩川 六郷の渡し

2017-09-24 18:06:51 | 神奈川散歩
川崎大師の駅へ降り立つと、川崎大師へは一旦大師様の敷地をやり過ごし、東側から回り込んで参道に入ることになる。
お大師様の縁起によれば、川崎大師の御本尊は、川崎の沖合いで網に引き揚げられた仏像であるとか。
お堂が海に向いているのは、そのせいなのか。


お約束のくずもち。


昔はよく親類がお土産などで持ってきてくれた。
物心ついたころにはすでに食べていた。
最近はそうでもないが、昔はたいへんなご馳走だった。

なぜだか渋谷駅でも売っていた。



お大師様から多摩川へ。


広大な芦原が広がっている。
急流な多摩川だが、さすがにこの辺まで来るとほとんど流れもない。


この中途半端に豪華な水門は、ちょっと異様な建造物だ。


上に乗っている彫刻のようなものは、川崎名産のぶどうや梨、桃なのだそうだ。
意外に知られていないかもしれないが、川崎は果物王国だ。
一世を風靡した梨の代表的品種の長十郎は、
川崎の大師河原に住んでいた長十郎さんが発見した品種で、
一時期は市内でも沢山生産されていた。




六郷の渡し跡
多摩川に架かる歩道を歩いて行くと、大きな中洲には芦原が広がっている。
なかなかの規模で圧倒される。





JRの鉄橋下には、蟹が沢山いるのに驚いた。
みんな泥をかぶっていて種類はよくわからないが、昔の川崎のイメージを払拭するかのような光景だ。



今日はここで終了
バスで小杉へ

ちなみに昨日は、田園都市線の鷺沼駅から江田駅まで歩いた。