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波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

奈良

2011-01-29 17:00:09 | Weblog
さっきブックオフオンラインで買った本が届いた。
連日がんがん買っているので佐川急便のおじさんとも顔なじみだ。

上原善広さんの新刊『異形の日本人』や高野秀行さんの『怪獣記』は後日読むとして、さっそく『Series俳句世界8 旅のトポロジー』を読んでみる。
平成10年(1998年)発行。
些末な点だけど、巻頭の対談を読んでいたら次のような記述があった。

p7
鎌田 朝鮮、特に韓国南部とはよく似ていることがありますね。
夏石 そうですね。岡山なんかも韓国の南と地形がよく似ているところがありますよね。
鎌田 奈良も似ていますしね。
夏石 これはもう、「奈良」って古代朝鮮語ですよね。
鎌田 「都」とか「国」とかいう意味ですよね。

夏石さんの育った西播磨地方は山が多く、韓国南部とも地形が似ている。
相生市北部はかつて古代山陽道が通り、南部は近世山陽道(西国街道)が通っていた。
播磨風土記には相生を含む旧赤穂郡の記述がないが、当時は吉備の勢力下にあったのではないかと言われている。
旧赤穂郡、旧播磨国は大和政権によって吉備政権から奪われた土地だったかもしれない。
吉備の山岳仏教との関連も推察され、歴史的に興味深い土地だ。

韓国南部は朝鮮半島の中でも少し特殊な地域だ。
かつて韓国人の祖先は内陸部から朝鮮半島に侵入してきた。
現在の韓国人の過半数は一重瞼、平面的な顔立ち、平らな後頭部、薄い体毛、などといった新モンゴロイド的特徴をもつ。
だけど、朝鮮半島南部の山間部を中心に二重瞼で立体的な顔立ちの、古モンゴロイドに似た容貌の人たちがいることも知られている。

中国の歴史書には、朝鮮半島南部には倭人と同じように刺青をしている人がいたことも記されている。
もしかしたら、旧播磨国が強い国に奪われたように、朝鮮半島南部も、強い国に奪われた土地なのかもしれない。
そういった意味でも、韓国南部と播磨には似ているところがあるのかもしれない。


また、奈良というと現代の人は奈良県全体のことをイメージしがちだが、かつては奈良盆地(大和盆地)北部の地域名称だった。
古代の奈良に行って奈良盆地南部の飛鳥地方の人に「ここは奈良ですか」と聞けば、「ちゃうで。飛鳥や」と言われるかもしれない。
大和=奈良、ではない。
飛鳥は大和だけど奈良ではなかった。
松本は信州だけど長野ではないように。

奈良盆地北部のなだらかな山は古代から平城山(ナラ山)と言われている。
平城京は、ならのみやこ、と読める。
奈良の都だけではなく、全国にはナラ山、ナラ原、ナラ岡などの地名も多い。
どこも基本的になだらかな場所だ。
ナラが朝鮮語の「国」から来ている可能性もあるけど、そうでない可能性は高い。
国というのは地名ではないし。

そういえば、関西の歴史ある被差別の名前もナラ××と言う。
山すそのなだらかな傾斜地にある。
それも朝鮮語の「国」に由来すると言う人はいるだろうか?

かつて、バカチョンカメラという語が韓国朝鮮人をバカにした言葉だと言われたことがある。
もともとバカチョンカメラという言葉があり、後になって韓国朝鮮人を見下す心無い人たちが「バカなチョン(韓国朝鮮人を示す隠語)」という意味で「バカチョン」という語を使用することがあった。

本来は「バカみたいに簡単な、チョンと押すだけの単純なカメラ」という意味で、韓国朝鮮人とは何の関わりもない言葉だったのに、バカチョンは差別的な表現だということにされ、メディアでは使用禁止になってしまった。
それに対してきちんと異議を唱える人は少ない。
(勤務先のイントラネット社内報に載っていたスポーツ大会観戦記に『バカチョンカメラで撮った』という記載がかつてあった。指摘を受けたのかすぐにその部分はすぐに削除された。言葉の使用にも削除にも信念がない。出版社でもそんなものだ)

論理的に考えれば、バカでもチョンでもできる、という言い方は並列関係にない。
チビでも日本人でも乗れるバイク、というような言い方はしない。
バカなチョンでも撮れるカメラ、という言い方も妙だ。なぜ韓国朝鮮人である必要があるのだ。カメラと関係がない。
むかし在日韓国朝鮮人が貧しかった頃、不潔だとか粗暴だといった偏見を持つ人はいただろうが、知能が低いとか不器用だと認識されているという記録は見たことがない。

「バカチョン」はほんとうに「バカでもチョンでも」あるいは「バカなチョン」なのか?
「奈良」はほんとうに「ナラ(国)」なのか?
すこし疑いを持つことも大事だと思う。
本来は差別語ではなかったかもしれないし、朝鮮語ではなかったかもしれない。

奈良盆地北部は、1300年前に新しく作られた都だ。
造成する時に傾斜地を平らにならした場所がナラと名付けられた可能性は高い。

だが、ナラの語源が朝鮮語とかツングース系言語につながる可能性も否定できない。
京都という地名は中国から来ているし、札幌はアイヌ語由来。八重洲は外国人名由来。
朝鮮語や朝鮮半島から追い出された少数民族系に由来する地名があっても不思議ではない。

ただ、朝鮮半島の各地域の古代の言語に関する詳しい資料はない。
現代の韓国語や近世の書物から推測するしかない。
学術的な研究が非常に困難な状況なので、推測によるさまざまな説が行き交っている。

むかし、日本語学の授業中に教授が「万葉集が韓国語で読めるという話があるけどまったく学術的ではない」というようなことを言っていたことを思い出す。
想像をはたらかせることはおもしろいが、それだけでは学術研究に携わる人を納得させることはできない。
語源研究や歴史研究が、自分のコンプレックスや心の傷をなぐさめるだけの自己満足に陥ることは避けたい。

言語も人種も文化もどんどんさかのぼって行けば日本だって中国だって韓国だって中央アジアや中東やアフリカ大陸に行ってしまう。
日本とか中国とか韓国といった枠組みを自分のアイデンティティーと結びつけ、ルーツを探るのは楽しいかもしれないけど、無理に自分を肯定しようとしなくてもいい。

どこかで認識を停止して内と外を意識しないと、自分が何者であるか実感が持てなくて不安になってしまうのかもしれない。
しかし、漢民族も韓民族も日本民族もさまざまなルーツが混じり合って今の形を作っている。
複雑な因果関係を認識しようとすることを拒否し、安易に自分を肯定しようとする人が、自分の国や民族や家族や職業の優秀性を口にしがちだ。
(自分を肯定できない人が他者を肯定することによって心の安定を得ようとする場合もある)

どちらにしても、オリジナル性や優越性や永遠性は、幻想であることが多い。
複雑にからみあい、溶け合い、ゆらめいている世界を、ありのままに眺めて行きたいと思う。

<参考>
地名由来辞典
http://chimei-allguide.com/29/000.html
奈良県
【読み方】ならけん 【分類】県名 【成立】明治2年
【奈良県の由来】
件名は、県庁所在地の名称に由来する。
この地名は『崇神記』に「那羅山」の名で見られ、『万葉集』で「奈良」と記されている。
地名の由来は、平らにすることという「ならす(均す・平す)」と同源の「ナラ(平・均)」で、穏やかな斜面の平らな土地を示した地名と考えられる。
朝鮮語で「国の都」の意味の「クニナラ」に由来するといった説もあるが考え難い。



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現代歳時記

2011-01-23 23:50:36 | Weblog
先日、歳時記を持っていないと書いたけど、かつて買おうとしたことはあった。

金子兜太、黒田杏子、夏石番矢が編集したという『現代歳時記』は買っておきたいと思っていた。
だが、不運なことに発行元の成星出版は2001年に倒産してしまい、たちばな出版から改訂版が出た。

宗教本や占い本で知られる「たちばな出版」の社長である深見東州さんは、新宗教ワールドメイトの教祖でもあり、みすず学苑の学苑長でもある。

深見さんは、金子兜太さんの推薦で現代俳句協会の会員になった。
現代俳句協会名誉会長である金子さんは深見さんを俳人だと認めているのだろうか。

だが、深見さんの句は、俳句を名乗るレベルにあるとは思えない。
雑誌やコンクールに応募してもまず取り上げられることはないだろう。

手元に、2004年3月初版の深見さんの第5句集がある。
その名も、『冬の山、ホワイトチョコをかけました』。
定価1575円。ブックオフで200円。
ハードカバーの全64ページ。
美しいカラー写真と31の句が並んでいる。

風景写真はとても美しいのだが、句は俳句と言えるものではない。
このような調子の句が並ぶ。

ため息がこみ上げる雪雪の山
この頃の激務布団に寝るは稀
寒い寒い壁に隠れて襟立てる
懸念事項あれど幸せ年暮るる
年迎ふ振り返らない悔やまない
初夢や何も見なくて気持ちよし
初春や心底喜べない私
初滑り雪はまぶしく新しく

なんなのだろう、この直接的過ぎる表現は。
状況描写とか印象、比喩に近いのか。
表面的すぎる表現で、芸術的バランスを示せていない。
句の構成要素が乏しい。

おもしろかったよ!
おいしかったよ!
そのように言うのは俳句とは言えない。
詩でも文学でもない。

そこで脱ぐのかよ!
アボカドにはやっぱり醤油だよ!
と言うほうがまだ奥行きのあるバランスを示せる。

句集を出せるレベルになくても、深見さんは自分の経営する会社から何冊も句集を出している。
そのような会社から出ている歳時記を、ぼくは買う気にはならない。

また、深見さんの句集の写真は完全にプロレベルだったので、もし深見さんの作品であれば写真家を名乗られたほうがいいのではないかと思ったけど、写真は写真家の作品だった。

<参考>
http://www.tachibana-inc.co.jp/detail.jsp?goods_id=338
■現代歳時記
金子兜太 著
黒田杏子 著
夏石番矢 
判型:四六、ケース入り
ページ数:762
初版年月日:2001/11/20
ISBN:4-8133-1451-1
税込定価:3,780円

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中日友好、熱烈歓迎

2011-01-23 01:40:25 | Weblog
今年も、中国の環球時報が「中国人が見た世界」というアンケートを行った。
15~20歳の人は一番好きな国に日本を挙げ、12.3%を占めたという。2位はフランス、3位アメリカで、4位韓国。
31~40歳で「日本が好き」と答えた割合が2.5%だったことと比べると対照的。

1980年代半ばに中国を訪問した大学関係者グループの中に、高齢な学生だったぼくの親も混じっていた。
人民服を着た人が多かった時代で、どこに行っても熱烈な歓迎を受けたらしい。
会う人の多くは中日友好を口にしたという。
(そういえば近年はそういった言葉をほとんど目にしなくなった)

その頃に10歳、20歳だった世代が、今は35歳、45歳。
中国の30代40代に日本を嫌う人が多い原因は、当時の学校教育の影響もあった。
列をなして旗を振り、笑顔で日本人グループを出迎えていた小学生たちも、日本を断罪する教育を受けていたのだろう。

2000年代初頭、中国奥地を旅したぼくはウイグル自治区のホータンという町でスレンダーなオランダ人女性と知り合った。
2人で同じ部屋に泊まり、いっしょに屋台に行って話をした。
ベジタリアンの彼女は野菜の串焼きを食べながら、中国人に英語を教えているのだと言った。
そして、中国人の生徒たちはみんな日本が嫌いなのだ、と言った。

ぼくは「とても悲しく感じる」と言った後、楽観的に「世代が変われば状況も変わるのではないだろうか」と言った。
韓国と違い、中国人のほうが精神的トラウマは少ないのではないか、ふところが深いのではないかと思ったのだ。
だけど、彼女は「むずかしいと思う。日本のことが嫌いなのは教育の影響に違いないけど、教育は当分変わりそうに無い」と言った。

当時、日本のことを断罪する教育を受けていた小学生が、現在15~20歳くらいになっている。
だとしたら、なぜ日本嫌いの人が若い世代で減っているのだろう。
中国でも教師の影響力が低下してきたのだろうか。
経済が発展するにしたがって、余裕が生まれてきたのだろうか。
ただ単に、20~30年前のほうがもっと激しい反日教育が行われていたということだろうか。

今から思えば、戦争中にインドネシアで日本の捕虜になった人も多く、日本に不愉快な印象を持つ人が少なくないオランダ出身の彼女は、日本人のぼくに親近感を持っていたわけではなかったのかもしれない。
もしかしたら、遠まわしに日本のことをたしなめようと思ったのかもしれない。
だからといって中国の立場に立っているわけでもないようだった。
翌朝、メールアドレスをもらって別れたけど、その後連絡はとっていない。

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0121&f=national_0121_097.shtml
■サーチナ【社会ニュース】 2011/01/21(金) 14:39
【中国BBS】中国の若者たちは日本が1番好き、彼らの意見
 中国メディアの環球時報が行った「中国人が見た世界」のアンケート結果によると、15~20歳の中国人若年層の「もっとも好きな国」の第1位は日本で全体の12.3%の票を獲得した。この意外とも言える結果について、中国の検索サイト百度の掲示板にスレッドが立ち上がった。中国人インターネットユーザーたちはどのような反応を示しているのだろうか。以下、中国語によるBBSの書き込みを、日本語訳した。(  )内は、編集部の“素朴な感想”。
―――――――――――――――――――――――
● スレ主:Japan_Dreams
 15-20歳の若者が一番好きな国は日本と答え、12.3%を占めたんだって。2位はフランス、3位がアメリカで、4位が韓国だそうだ。ちなみに31~40歳の層は、「日本が好き」と答えた割合がたったの2.5%だったらしい。
―――――――――――――――――――――――
● 宮小路瑞穂
 実は、かなり大勢の人が日本にコンプレックスを持っているらしいぞ。理由は・・・まぁいろいろだろうな。
● 222.90.229.*
 オレは25だが日本が好きだ。夢の中でもいいから日本に遊びに行きたい。
● Aalen000
 俺は日本が大好きだ。日本も俺が大好きだ。
 (どういうことですか?)
● 大和武之魂
 自分は日本とロシアが好き。ロシアは美女が多いから。
 (中国にも美しい人は多いですよ)
● 欧巴桑小姐
 日本が好きなのは当然よ。清潔で礼儀正しいし、科学技術も経済も発達してて、何よりも人間本位の国だから。お金があったら本当に移民したいわ。
 (評価していただくのはうれしいですね)
● 月咏櫻律
 オレは日本の漫画や音楽が大好きだ。でも、オレの周りには日本が好きという人はあまりいないなぁ・・・オーストラリアが好きという人は多い。オレもオーストラリアが好きだけど。
 (漫画やアニメは日本のソフトパワーですよね)


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立川談志師匠

2011-01-18 23:40:19 | Weblog
さっき、新宿の紀伊國屋ホールで立川談志師匠の高座を見てきた。
2011年1月18日(火)、「談志が帰ってきた夜」刊行記念落語会。
前座の立川平林(たてかわひらりん)は軽快だが緊張感を漂わせている。
次のスタンダップコメディアン松元ヒロも立川談笑も笑いをとっているが緊張感を隠せない。
それほどまでに談志さんにとって特別な一席なのだろうか。
鈍いぼくにも重要さが伝わる。

休憩時間が終わり、いよいよ談志師匠の出番。
6時半からはじまったこの会も8時前に師匠を迎えることになる。
300人ほどの満席の聴衆は静かに幕の上がるのを待つ。
5分、10分、それでも開かない。
静かな緊張した空気の中で、雰囲気を読めない彼女はバッグから撮影やら取材やらのスケジュールを出して眺めている。
ぼくも時計を確認しようと思った頃、ようやく幕が上がった。

談志師匠が20センチほどの歩幅で歩いてきて、高座に上る。その一瞬、少し声が聞こえた。
段差のある高座を登るのは一仕事だ。

頭を下げれば万雷の拍手。
細く、顔色も白いけど、気合を感じる。
精気が失われても体の中心から表現を行う。

かすれた声を、耳をすまして読み取る。
話を理解して笑う人もいるけど真剣に耳を傾けている人が多い。

七福神にちなんだ縁起のいい話の後、もうひとつ話を終え、さらに近親相姦ネタで笑わせた。
もう、忘れているものはないかな。最後。今度真打ちになる誰それが死ねばいいのに。
そんなことを口にしたあと、降りる緞帳の向こうで少し手を振り、腰をかがめたその姿。
ぼくはその姿を忘れない。

もしかして、覚悟されているのだろうか。

数年前に宮城県で忌野清志郎の最後の野外ライブ(アラバキロックフェスティバル)を見たことがある。
病気が治っていないのに、あえて華やかな舞台に踊り出てくれた清志郎に表現者魂を感じた。

数年前に吉祥寺の書店で鴨志田穣さんの出版記念サイン会に参加したこともある。
列の最後に並んで最後に握手して、記念写真を撮ってもらった。
あのときの鴨志田さんも痩せてもう肉体的には限界なのに、しっかりとした心と佇まいを見せてくれた。

忌野清志郎、鴨志田穣、立川談志、みんなガンなのか。
死と向き合っているのか。
みんな痩せこけて、それでも輝き続けるのか。

高座が終わり、控え室に入る林家ペー、パー子を眺めながら会場を後にした。

向かうのは新宿三丁目駅近くの焼き鳥「田むら」。
ここは、西原理恵子さんの夫でもあった鴨志田穣さんが20歳の頃に働いていた店だ。
「遺稿集」には「田むら」の本店のオーナー夫妻やメニュー、スタッフ仲間、当時オープンしたばかりの近くの支店などについての記載がある。
「焼き鳥屋修行」という短編を読むと、この店に来たくなった。

彼女と焼き鳥コース、煮込み、砂肝の刺身などを食べる。
ビールに日本酒も頼む。
焼き鳥のレベルはとても高い。
食べておくに値する。

また田むらには行くと思う。
吉祥寺でのサイン会、鴨志田さんにサインしてもらったあと、西原理恵子さんにも絵本にサインしてもらったけど、あくまでぼくは鴨志田さんに会うのが目的だった。
鴨志田さんに会いたかった。

会いたい人は、多い。


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中国人は信用できないか

2011-01-15 21:59:42 | Weblog
むかし、山本夏彦とか山本七平などの著作は読まなかった。
保守派言論人の本を読んでいたら右翼だと言ってバカにされるのではないかと思っていた。
だけど、革新派言論人が少数派になった何年か前にふと山本夏彦さんや山本七平さんの本を読んだら、意外にリベラルなことに驚いた。
むかしはこの程度で右翼だと文句を言われていたのか、と意外に感じた。
べつに閉鎖的でもなければ独善的だとも思えなかった。

保守派言論人を毛嫌いする人は多い。
退職した元上司も、小林よしのりのことを蛇蝎のように嫌っていた。
とても温厚で品のいい紳士なのだが、小林よしのりのことになるとちょっと下品な表情を見せた。

もしかしたら、櫻井よしこさんを拒絶する人も多いかもしれない。
SAPIOや正論に書いているので、この人も保守派言論人だとみなされている。

保守派言論人の中には自国中心的な人や独善的な人、排他的な人もいる。
ただ、社会主義に批判的で中国共産党や旧ソ連と対立しただけの、開明的な人も多いのではないだろうか。

櫻井さんも、中国のことを俎上にのせても、中国の国民性を否定しているわけではない。
中国くらいたくましくならないと、日本人も生きていけないよ、と言っているように読める。

ぼくはむかし、中国人とかベトナム人は商売熱心だからとてもじゃないけど日本人は太刀打ちできないのではないかと思っていた。
日本人に偽物の骨董品を売りつけるなんてひどい人たちだ、とも感じていた。

ところが、実際に中国やベトナムを旅すると、知識も判断力もなく無防備にやってくる日本人が騙されてもそれはしかたがないだろうと思うようになった。
コミュニケーションのとり方は、相手の姿勢によって変化する。
何も知らない日本人が、何も知ろうとしないで市場を歩いていたら、そういう人向けの値段を提示される。

中国人やベトナム人と同じ目線で行動し、同じように人と人としてせめぎあえば、意外に彼らに負けることはない。
タイミングを見計らってじりじりと2ミリ3ミリと進めばどんな混雑でも目標にたどり着くことはできる。
ただ、そういう状況を遠目に見て、今日もチケット買えなかった、などと言うやる気のない日本人がけっこういることも事実だ。

中国に関してのアンケートで、87%の人が中国を信頼できないと答えたようだけど
彼らのうちのどのくらいの人が、中国人と競ったことがあるのだろうか。
中国に対してよくない感情を持つ人はぜひ中国に行くべきだ。
中国の人と競うことは、日本人のコミュニケーション能力を高めることに大いに役立つはずだ。

中国のことを知ろうともせず、中国を否定しようとする人が増えれば、日本人は判断力も競争力も劣化するばかりだと感じる。

もしも、異質な人を理解しようとする人が増えないのであれば、日本はまた鎖国政策をとるしかないのではないだろうか。
TPPを拒否するということは、鎖国を選ぶということかもしれない。
(べつに、いいともわるいとも思わない。好きなようにしてもらえばいい。特異な変態文化が高度な芸術に成長を遂げるかもしれない)

今年の旧正月(春節)は2/3木。
平日だから、友人宅で餃子パーティーをするのはちょっと難しいかな。


<以下引用>
http://news.livedoor.com/article/detail/5229427/
■嘘つきと裏切り 日本人は「恥ずかしい」で中国人は「賢い」
櫻井よしこ
2010年12月24日10時00分
提供:NEWSポストセブン
尖閣問題を受けた世論調査では、現在の日中関係を「悪い」と回答した人が実に90%にのぼり、87%の人が中国を「信頼できない」とした。だが、ジャーナリストの櫻井よしこ氏は、中国の「嘘と裏切り」が、その軍事力・経済力を背景に、新たなフェーズに入ったと指摘する。
* * *
1978年4月、その夏の日中平和友好条約締結を前に、100隻以上の武装中国船団が尖閣諸島付近で領海を侵犯。当時、小平氏は「偶発的な出来事」と弁明し、「このような事件を2度と起こさない」と日本に確約しました。この時日本は尖閣諸島問題を解決する好機を逃し、一方で、巨額のODAを中国に与え始めたのです。

そうして中国の成長を助けてきた日本が、いまや「衝突は日本側のせい」などという嘘によって、謝罪と賠償まで要求される側になってしまいました。なぜこれほどまでに日本は負け続けてきたのか。

それは、日本政府も日本国民も「中国とはどんな国なのか」を真に理解していないからだと考えます。

日本人は「嘘をついてはいけない」「人を騙したり、裏切ったりするのは恥ずべきことだ」と教えられて育ちます。しかし、中国人の常識はまったく逆で、嘘をついたり人を裏切ることは「賢いこと」なのです。

『孫子の兵法』で、孫子が最上の勝ち方としているのが、謀略です。上手に嘘をつき、騙すことが尊ばれる。中でも「二重スパイ」が、一番価値が高いとしています。

歴史において、「中国」という国名の国は実は存在してこなかったのです。私たちが「中国」と呼ぶその地域には数千年も前から、さまざまな民族が侵入し、各々、独自の王朝を作って君臨しました。支配したのは、必ずしも今の中国を支配する漢民族ではなく、蒙古人だったり満州の女真人だったりしました。

彼らはそれぞれ何世紀かにわたる繁栄を築き、衰退し、新たな民族の台頭で滅びていきました。そして王朝が変わるたびに、歴史が時の為政者に都合よく書き換えられてきました。

中国にとっては、歴史は勝った側が作るもの。事実や真実には意味がなく、いかなる手段でも勝てばいいと考えるのが、彼らの常識です。

島国であり、戦国時代など一時期を除けば安定した社会が長く続いた日本で、正直さや誠実さが尊ばれてきたのとはまったく違うのです。

※SAPIO2011年1月6日号


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異文化理解とか共生とか・・・差別者を疎外しない

2011-01-15 21:25:01 | Weblog
ぼくは、差別者をとがめる必要は無いと考えている。
価値が無いと判断して見下し、疎外すること自体が差別なのだから。
差別する者を差別しても、差別する者と同じ地平にとらわれたままだ。

ぼくは差別をする人に気がつくと、残念に思う。
自分を差別的に扱う人を見ると不愉快になることだってある。
だけど、差別者を犯罪者のように扱って拒絶し、見下してしまえば、
自分と価値観の一致しない人を排除する差別者と同じ行為をしていることになる。

差別する人がいたら、差別する人のことを理解したい。
「そうだよね、見慣れない人のことは意識してしまうよね」
「わかるよ、考え方の違う人の行動はなかなか理解しがたいよね」
そういった言葉を発してから、なぜ、差別者が誰かを否定したり疎外してしたり見下したりしてしまうのか、認識したい。

差別者をどなりつけ、犯罪者であるかのように否定し、嘲笑してルールの中に閉じ込めても、差別者や被差別者が賢くなることはない。

差別者自身が、なぜ何かを否定したり拒絶したりしてしまうのか、思考の因果関係を認識することができれば、やがて狭い価値観で何かを否定したり見下したりすることが解消されていくのではないだろうか。
そうすれば、自分の考え方や行動パターンや容姿が異なる人や劣る人も見ても攻撃を行わなくなる。

差別は絶対に許されないことだと認識する人は多いけど、数式や化学式で証明できない。
ひとつの価値観だからだ。

実際のところ、世の中の人の多くは、社会問題として表出する差別構造のほかにも、多くの差別的構造があることを意識していない。
社会な問題になっていないからといっても、人のことを容姿や収入や学歴や職業や思想信条や犯罪歴などで区別するのは潜在的な差別問題だ。
差別者でも被差別者でも、差別をしていない人はほぼいないと言っていい。

差別を許せない人は、差別者をつかまえて、
「差別は許されない犯罪的行為だということを意識していませんでした。申し訳ありません」
と謝罪させれば、溜飲を下げるだろうか。

でもそれは、差別者と同じレベルの思考だ。
差別者も、被差別者も、差別を超越した段階に意識を発達させることができるはずだ。
差別を克服、超越した人であれば、差別者をとがめたりしないだろう。



最近、在日朝鮮人研究の専門家だという原尻英樹教授の本を何冊か読んでいる。
とても興味深く楽しく読ませていただいているが、ときどき気になる記述がある。

はたして、原尻さんが生野区長や大泉町長になったとしても、多民族間における異文化理解や共生は進むのだろうか。
原尻さんが「問題」として取り上げる事象は解消するのだろうか。

私は、解決は難しいのではないかと感じる。
物理的制約、人手不足、人材不足、指導力不足なども影響するかもしれないけど、
共生とはどういうことなのか、原尻さんがどう定義しているのか疑問がある。

日本社会に問題があると言っているように見えるけど、日本社会の受け入れ態勢を変化させれば問題は解決するのだろうか。
相手のことを否定せずきちんと認識して受け入れれば、相手も自分たちのことを否定しないで受け入れるのだろうか。

また、原尻英樹先生にとっての共生とは何だろう。
在日韓国朝鮮人社会の研究家として在日韓国朝鮮人の信頼を得ているかもしれないけど、同調してしまうことなく、きちんと在日韓国朝鮮人に意見を伝えることをされているだろうか。
在日韓国朝鮮人の社会にも、日本や韓国の被差別民に対する差別や出身地域差別がある。
日本と同じく歴史を都合よく修正することもある人々について、きちんと意見を言っているのだろうか。
論理ではなく情緒で判断するということはいかにもあいまいな日本人的だ。

共生を言うのであれば、保守派言論人とか都会的芸術家とか退廃的音楽家や幼女愛好家などともコミュニケーションを取っていらっしゃるだろうか。
まさしく彼らは異文化にいる人間ではないだろうか。

保守派言論人を見下し、攻撃する人に共生を言う資格はあるだろうか。
「まっとうな人」という語を多用する人は、その語をどう定義しているのだろう。
安易に「自分の価値観でまっとうと思えない人」を見下したり攻撃したりしていないだろうか。

さらに、日本国内の少数派、在日外国人や辺境地域人に共感するのはいいけど、
日本社会におけるナショナリズムと、マイノリティー社会におけるナショナリズムには類似形が見出せるのではないか。

日本のナショナリズムに不安をおぼえるのであれば、沖縄独立を志向する琉球ナショナリストや朝鮮人ナショナリスト、済州島ナショナリスト、沖縄に反発する先島・八重山ナショナリストにも不安をおぼえるべきではないだろうか。

千年前には琉球という国もなかったし、アイヌ人・アイヌ文化も成立していなかったし、在日韓国朝鮮人の半数ほどのルーツがあると言われる済州島も独立国としての過去を楯に半島の勢力に抵抗していた。

国家、地域、家族、自分、などの枠組みで固定されるナショナリズムのような自己肯定から解放されていない人が、特定の国家ナショナリズムによる制約を打破しようとしても、永遠に問題は解決できないだろう。
わだかまりや問題を解決したいのであれば、日本という国家を強く意識する前に、世の中の構造を意識するべきではないだろうか。

地球が滅び行くことに耐えられない人がいる。
日本という国家が滅びゆくことに痛みを感じる人がいる。
育った地方の文化が消滅していくことに危機感を感じる人もいる。
生まれ育った集落が消滅することに喪失感を感じる人もいる。
信仰する宗教団体の危機に身を投げ出す人もいる。
参加する政治団体の消滅に必死に抵抗する人もいる。
家族が救えるなら自分はどうなってもいいと言う人もいる。
自分が殺されそうになればなんとしても生き残ろうとあがく人は多い。

同じように、
日本という国家による抑圧に耐えられない苦しさを感じる人がいる。
家族という枠組みによる抑圧からの解放を望む人もいる。
生まれ育った地域や団体をはなれて、忘れ去ればいいのではないかと思うけど
延々と名残惜しいかのように文句を言い続ける人もいる。

本当はどれも、自分という存在の領域がどこにあると認識しているかということの、
程度の差でしかない。
ぼくから見れば、アジア主義者も国粋主義者も地域ナショナリストも宗教信者も社会運動家も愛妻家も、自分の所属する領域を守ろうとする、保守的な人々であることに変わりない。
程度の差こそあれ、誰だっていくらかは保守的だ。

日本が滅びてもしょうがないかもね、そうなったらべトナムに移住しようかな。
地元の集落がなくなってもしょうがない。衰退にはただ因果関係があるだけだ。
資本主義や共産主義が支持を失っても妥当。視野の狭いところでいらついても仕方ない。
自分がいなくなっても大きな影響はない。渦巻きか竜巻が一つ消えることに似ている。
などとつぶやく人から見れば、
進歩派とかコミュニストとか過激派とか、前衛芸術家すら保守的だ。

自称進歩派とか保守派嫌い、ナショナリスト嫌いの人たちは、ほんとうは保守派の人たちと大差ない。
似ているからこそ、立ち位置の近い人たちに自分の中の認めたくない嫌な部分を見出して否定しているようにも見える。

中国や韓国の人が日本の残虐性を言うときに例に挙げる殺人方法は、中国や韓国で伝統的に残虐な方法として知られている方法であることが多い。
原尻さんが論敵を咎めるときに使う言葉は、本人が無意識の中で自分の弱点だと認識していることではないかと感じられることも多い。

そんなことをふと思った。
すみません、飲みすぎて適当なことを書いて。


追記
もしぼくが非武装平和主義者であれば、自宅に鍵もかけないし監視カメラも用意しない。
筋を通したいから。
実際、2週間留守にしていてアパートに戻ったら鍵があいていたこともある。
今もドアの鍵を閉めていない状態だ。
盗まれて困るのものはないから平気。
国家という枠組みを疑うなら、自分という枠組みも疑っていい。
(世界は相似形に満ちている)

もちろんぼくは非武装平和主義者などではない。彼らよりよほど平和的だけど。
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季語を意識しない理由

2011-01-15 19:54:19 | Weblog
料理には季節感、音楽にはジャンル分けが必要だろうか。

作られた料理は、素材や温かさによって、季節感別に分けられことが可能だろう。
音楽も、曲調や使用楽器などによって、何かのジャンルに分類されることが多い。

だが、どのジャンルにも分けられないことを理由に、おいしい料理が疎外されることはない。
おいしかったり美しかったり興味深く感じられることがあれば、
料理とか音楽とかダンスや絵画などといった芸術的表現として評価してもらうことが可能だ。

ときには、季節感や特定のジャンルをテーマに、料理や音楽を作ることだってあるだろう。
無限に広がる創作の世界では、何か入り口を指定されたほうがとっかかり易い場合もある。
テーマを絞ると、何人かの人と競作を楽しむこともできる。

人々が集まった席で創作を競いゲームのように楽しむ場合は、テーマが必要だ。
共通のテーマを使うことによって場を共有し、ゲームを盛り上げることができる。

ただ、作品が単体で評価されるときには、必ずしもテーマに沿っていなくてもいいのではないだろうか。
芸術として認められているレベルに達しているかどうかということを判断するときに、
テーマに沿っているかということは関係がない。

もちろん、和装コンテストに洋装の人がやって来たり中国料理バイキングにイタリア料理が入っていればルール破りだと言われるだろうけど、
ファッションショーや料理コンテストの世界では、和装だろうが洋装だろうが、中華だろうがイタリアンだろうが、すばらしい作品であれば価値を認められる。

もし、「日本料理はすべて四季のいずれかに分類できる」とか
「クラシック音楽は伝統的な楽器だけで表現するものだ」などと規定された場合、
日本料理とかクラシック音楽というジャンルの中で競い合うにはいいけど、
料理とか音楽といったフィールドで、他のジャンルの料理や音楽と闘えるだろうか。
季節感や使用楽器に固執するあまり料理や音楽の芸術性をないがしろにしてしまう恐れはないだろうか。

創作の「とっかかり」となるテーマにとらわれるあまり芸術性を失い、形式的な作品を乱造することになれば、何のための「とっかかり」なのかわからない。

俳句の世界においても、季語にとらわれすぎることは俳句の発展にとって足かせになる可能性がある。
季語と575を守れば芸術作品ができるわけではない。

明治28年(1895年)10月27日の新聞「日本」に正岡子規はこう書いている。
「一 俳句には多く四季の題目を詠ず四季の題目無きものを雑(ぞう)と言う」

ここでは、無季のものは俳句とは言わない、とは言っていない。
芭蕉にも蕪村にも無季の句はあるから、全否定はしないのだろう。

正岡子規を継いで戦前の俳句の世界で支配的となった高浜虚子が、無季の否定を前面に押し出した。
「無季の句、もしくは季の働きの無い句は俳句ではない」
とはっきり述べている。
これは、虚子によるひとつの俳句のあり方の発見だろう。
虚子によって現代の俳句が確立されたと言ってもいい。
ただ、それは誰々によって現代の懐石料理の決まりごとが確立された、と言うようなものであって、それを守れば日本料理はその芸術性を高め続けることができる、ということではない。

私は、基本的に季語に固執しない。
「山笑う」(春)とか「亀鳴く」(春)とかさまざまな季語があるが、そういった言葉が現代の若い人に通じるだろうか。外国の人に理解できるだろうか。

季語と認識されている言葉は非常に多く、季語にこだわらなくても何らかの形で季語を取り込んでいることは多い。
気候、風景、食材、イベント、あらゆるものが季語になっている。
季語を使わないで句を作るのが難しいほどだ。

芸術性を求めるために、あえて私は歳時記を持たない。
通常、俳句をやる人で歳時記そを持っていない人はないのだが、あえて、歳時記のないところから俳句を探るために、自分を試している。
(ただ、『現代俳句キーワード辞典』-夏石番矢著 は大事に持っている)

俳句が詩として、文学として、芸術作品として切磋琢磨して行くためには、季語という枠組み以前について考える必要がある。

言語とは、形式とは、構造とは、バランスとは、などといったことを意識し、
俳句作品においてキーワードとなっている語がどのような働きをしているか把握することが必要ではないだろうか。
季語を頼りにしても、独創的な視点や特徴あるバランスは生じない。
575や季語といった形式は、制約として意識してもいいが、頼りにしては芸術から遠ざかってしまう。
不安でもぼくは形式を頼りにせず、手探りで俳句のバランスを追求して行きたい。


追記
卑近な例で申し訳ないが、つい先日曇天下の高層ビル群をながめていたときに出てきたこの句は、晩冬の季語である雪の冷たさや美しさを主なテーマとはしてない。

 水墨画ときには雪の新都心

モノトーンの世界の調和、古典の世界に見出せる現代性、隠された表層の奥にある活力、などを連想している。
雪景色を水墨画に見立てた初心者の稚拙な句と分類されてもしかたないが、
都心あるいは水墨画をキーワードとして句のバランスを読み解いてもらったほうが、理解しやすいと思う。


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日本国籍からの離脱

2011-01-09 18:17:25 | Weblog
ぼくは人と対立することを苦痛に感じるから、あまり人間関係に波風を立てようとは思わない。
何か言われると恥ずかしくて萎縮するから、周囲から奇異に見られることをしようとも思わない。
だけど、日本社会で当然とされている価値観とは異なった行動パターンを取ることは多い。

寝る時は小中学生の頃から北枕だし、(磁気の流れに沿っているだけだ)
通勤の定期券は利用しないし、(放浪者はルーティーンな生活から逸脱する)
お米がなくても食事に困らないし、(先祖は米が主食じゃなかったかも)
蕎麦はぼく流の食べ方があるし、(いい蕎麦は刺身のように食べる)
麺類を食べるとき音を立てないし、(おつゆを飛ばしたくない)
異常に歩くのが早いし、(最少の労力で最大の結果を出すのは効率的)
周囲の空気なんて読まないし、(ストレスがたまる。理解してほしいことは言ってほしい)
こっち来て、などというジェスチャーは欧米流だし、(あまりしないけど)
お寺で拝まないし、神社で手を合わせないし、(もともとは理にかなっているのかも)
パンツをはかないでジーンズをはいてそのまま外出することもあるし、
海外のビーチで全裸になるときもあるし、(人気のないとき)
お葬式帰りに清めの塩なんてまかないし、(お葬式はケガレなのか?)
結婚指輪もしないし、というか結婚て何だろうって感じだし、
腕時計もしないし、(というか持ってないし)
ティーンエイジャーの頃は共学だけどトータル5分も女性と話をしたことがないし、
両親がいなくても自分は存在しえたのではないかと観想したこともあるし、
もちろん、自分は日本人なのだろうか、日本人じゃなくてもいいのではないだろうかと考えたこともある。

普通の日本人はそんなことしないよ、と言われると「ぼく、日本人じゃないし」
と言うことだってある。

だけど、ほんとうは、ぼくは典型的な日本人でもある。
おそらく先祖は千年以上前から実家のあたりに住んでいた。
和服が似合いそうな外見だと言われ、外国に行くとすぐに日本人だとばれる。
親はベトナムとかフィリピンと言っても通じるかもしれない容姿なのに、
ぼくだけ薄っぺらい顔なのだ。

いくら歩き方やジェスチャーを変えても、ぼくの育った言語や行動パターンによって形成されたぼくの内面や外面は、外国人から見れば日本人に見えてしまうようだ。

ぼくはそんなにひねくれているわけでもないし、日本国政府や日本国民を遠ざけたい気持ちがあるわけでもないので、外国で「何人(なにじん)?」と言われたら日本人だと答える。
日本国籍を持っているし、日本の文化に影響を受けて行動パターンや判断基準を形成されていることは否定できない。

だけど、世の中には「日本人だと言われている」と答える人もいるらしい。
あなたはどこの国籍だと問われれば、通常は国名を答えるだろう。
人種名を問われれば、コーカソイド、ニグロイド、モンドロイドなどと答える。
民族名を問われれば、漢、タイ、ゲルマン、サーミなどと答える。

何人かと問われれば、民族名を答える人もいれば国名を答える人もいる。
ポーランド系ドイツ人もいれば、ドイツ系ルーマニア人、フィリピン系アメリカ人もいる。
日本系フィリピン人、コリア系日本人と言う人だっているだろう。

何人かと問われて「日本人だと言われています」と言うのは答えになっていない。
「まるで人ごとのような言い方だが、ではあなたは自分を何人だと思っているのですか、本当は何人なのですか」と問われてしまうかもしれない。
あるいは、何をこの人は言っているのだろうと不可解に感じて沈黙してしまうかもしれない。

「あなたは何人ですか」という質問は、
「あなたはあなたの所属する社会において何人だと認識されていますか」
という意味にもとらえられるのではないだろうか。
各国の人が集まった場で自己紹介するとき、神経質そうな日本人っぽい男が
「I’m “called” Japanese.(私は日本人だと言われています)」などと言うと、
「面倒なやつだなぁ、やっぱり日本人て変だな」と言われてしまうかもしれない。

在日外国人と異なり、日本では、自分が日本人だとか日本民族だといったことを意識したことのない日本国籍保持者が多い。
国家意識とか民族意識をもつと戦争につながるのではないかと恐れた人が、できるだけ教育の場でそういった意識に触れさせないようにしようとした影響もあるのかもしれない。

だが、海外に出て行けば必然的に自分が何人だと見られているか、何人として行動せざるを得ないか、自覚することになる。
自分の人種や民族、国籍を意識した上で、日本以外の国に好意や共感をいだいた場合は、日本国籍からの離脱も考えればいいのではないかと思う。

アメリカやフランスや中国やブラジルのように、他民族国家で日本人のような顔の人が多い国もある。
日本人は一度まじめに日本国籍を維持するか、離脱するか、ということを考えることがあってもいいのではないだろうか。
日本列島に生まれたからといってあたりまえのように自分を日本人だと規定する必要はない。自分の意志で、自分の国籍を選ぶことはできる。

ただ、日本政府や日本列島、日本語などに愛着も親近感もない人でも、ほんとうは日本に生まれ育った影響を強く受けている。
ジェスチャー、歩き方、話し方、考え方などの多くに日本人的なパターンが見られる。

おそらく、ぼくがこのブログで書いているような変な内容も、中国や韓国や欧米の人はあまり書かないだろう。
また、日本では、「日本人が周囲の国の人より生まれながらに優秀だということは全然ない」と言っても、「日本に生まれたからと言って生まれながらに日本人と思い込まなくてもいい」と言っても、「人のことを見下した発言をしない天皇陛下のような姿勢はすごい」と言っても、「朝鮮半島南部から九州にかけて分布していた倭族が、北方から来た民族に押し出されて日本列島に追いやられたのかもね」と言っても、発言を抹殺されるようなことはないだろう。
言論の自由度は比較的高いし、社会的に価値の高いものがそれほど絶対視されていないし、繊細な料理は多いし、日本は住むには悪くない国かもしれないと感じる。

ただ、この居心地のよさが、異質な習慣や価値観を持つ人に対する無関心や疎外につながるおそれもある。
自分がなぜ日本人なのかを論理的に考え、外国人とのコミュニケーションに活かせるようにしたい。


もし、在日朝鮮人の人が日本人との飲み会で「私は在日朝鮮人だといわれています」と言うと、「え? 在日朝鮮人ではないんですか?」と聞き返されるかもしれない。その時、「在日朝鮮人って、何ですか?」と言うと同席の人は沈黙してしまうだろう。
「国籍が共和国で日本に住んでたら在日朝鮮人と法的に規定されるのでは。日本国籍を持っていても朝鮮のルーツに親近感が強いのであれば在日朝鮮人とか朝鮮系を名乗ってもいいだろうし。あなたは在日朝鮮人について法的定義を聞いてるの? あるいは民族学的定義? どういう定義を求めてるの? あなただってわかってないんでしょ。だったら自分で調べなさいよ」などと言う人もまれにいるかもしれない。

「このスマートフォンは日本製と言われています」
「このリンゴは日本産と言われています」
などという紹介も聞く人を不安にさせる。

「日本製じゃないの?」
「日本製って、何なのですか?」
「・・・・・・」
というやりとりは不毛だ。

周りを当惑させないために、何かを紹介するときは
「日本人です。まったく日本人て何なのだろうと思ってますけどね」とか
「日本製です。部品はどこで作られたかわかりませんけどね」とか
「日本産です。でも農薬散布量は中国と変わりません」とか
「東京出身です。島嶼部ですけどね」とか
説明を加えたほうがいいのではないだろうか。
そうしないと、原尻英樹教授の周囲の人は困惑するばかりだ。

そんなことをふと思った。


<参考>『「在日」としてのコリアン』(原尻英樹、講談社現代新書、1998年)
p105
「朝鮮人の方です」などと傍らで言われれば、「私は『日本人』の方です」と答えたくなるのが人情だが、筆者は「私は日本人だといわれています」ということにしている。たいていの場合、「日本人じゃないんですか」などと聞き返されるが、そういった時には「日本人って、何ですか?」と聞き返す。次の返答は決まって、「・・・・・・・・・・・・」である。日本人とは日本人とは何か考えていない人々である、といえるのではなかろうか。そのくせ、「日本人のルーツ」や「外国人による日本人論」には並々ならぬ関心が持たれる。つまり、「日本人である」という自明性はカッコに入れて、あるいは「日本人」は昔から現在にいたるまで連綿と「日本人」であり続けたことにして、そのルーツに関心を持ったり、自明な「日本人」について外国人がどのようにみているかに関心を持っているのである。筆者の場合は、そのような自明性に別れを告げ、自分が育った郷里(福岡県の大牟田市)での言語や生活には愛着を持ちつつ(この場合は「日本人」とはまったく別次元の郷里人)、各々の人々とそれぞれ付き合いやすい方法(言語、習慣等)で付き合っているだけである。その際、「日本人」であるとか、ないとかなどはほとんど意味をなさない。

<参考>原尻英樹教授の手法は文化人類学的か
http://blog.goo.ne.jp/ambiguousworld/e/2910aa24d9870f06126e6abd398e4ed7

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間違えやすいカタカナ英語

2011-01-08 14:53:00 | Weblog
聞きなれた英語と誤解して記憶しがちな言葉は多い。

DJの誰々がボーカリストの誰々をfeatureして新曲を発表、とか
今月号の音楽雑誌でギタリストの誰々をfeatureして特集、と言う場合
「注目する」とか「特集する」などという意味の場合は
「フィーチャー」と言うのが適切だ。
フィーチュァでもフィーチャァでもいいかもしれないけど、「フューチャー」ではない。
フィとフュは違う。
ピロシキとフロシキくらい違う。

フューチャー(future)は将来とか未来といった意味の別の単語だ。
だが、featureという単語を知らない人は、フィーチャーという語を耳にしたとき
聞きなれた基本単語であるfutureと誤解して認識してしまうことがある。

同じように、
人気アイドルグループのライブのプレミアチケットを買うことができた、とか
この怪獣の人形はプレミア商品だ、と言う場合
「付加価値が付いている」とか「品質が良くて高級な」などという意味の場合は
「プレミアム」と言うのが適切だ。
(初日チケットの意味ならプレミエール=premiereとも言う)

割り増し価格の場合は、プルェミィアムでもプリミイェムでもいいかもしれないけど、
とにかく「プレミア」ではない。プレミアム価格。プレミアム商品。
最後に m が付く。

プレミア(premier)は第一のとか筆頭のといった意味の別の単語だ。
premiumという単語になじみのない人は、プレミアムという語を耳にしたとき
最後の子音を聞き取れず、premierと誤解して認識してしまうことがあるのかもしれない。

また、
グラマーな体形、とかグラマーな女性などと言う場合
grammarだと文法という意味になってしまう。
glamourは、RではなくLで発音したい。

さらに
食べるのがちょっとむずかしいmille-feuilleというケーキは、
ミルフィーユと発音するとフランス語で千の少女、というような意味に聞こえるらしい。
ミルファイユとかムィゥファイゥ、と発音すれば千の葉というような意味。
ファイユとかファイゥという二重母音の発音は日本語にあまりないので、
フィーユと発音してしまい、別の意味に聞こえてしまうのかもしれない。
パリのパティスリーでmille-feuilleを注文する際は、ミルファイユと言ったほうが通じやすいかも。
ただ、英語ではミーゥフゥィーで通じそう(ミルフィーユの発音に近い)。

それから、
グランドを走る、とかグランドでサッカーをする、などと話す人もいるけど、
正確にはグラウンド、だ。二重母音が入る。
GrandとGroundでは違った意味になる。
もっとも、グ・ラ・ウ・ン・ドといった5音節ではなく、Groundで1音節だ。グァゥンドゥ、のような。

ついでに、
fast food(ファストフード、すばやくできる食事)は first food(ファーストフード、最初の食事) ではない。


以上、ちょっと気まぐれにメモ。間違っているところがあるかもしれないけど。
英語は非常に不得手なので、初歩的なことにこだわりがち。


追記
ちょっとちがう話。
映画「ノルウェイの森」を撮ったベトナム人のTran監督を日本人はトラン監督と発音するけど、
どちらかと言えばチャンと発音したほうが近いと思う。
Trainだってベトナムではチョェィンのように発音する。
日本人のように、ト・レ・イ・ンなどのようには発音しない。
Tran監督のことをトラン監督と呼ぶのは、Trainのことをトラインと呼ぶようなものではないかと思う。



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思考の停止

2011-01-08 11:58:50 | Weblog
昨年よく目にした表現のひとつに「思考の停止」という言葉があった。
物事を疑ったり仕組みを掘り下げて認識することなく、与えられた状況を当たり前のように受け入れて発言する人たちがいる。
彼らに対して不満を感じる人は、「思考停止状態になっている」と批判した。

だが、どれだけの人が「自分は思考停止状態ではない」と言えるだろう。
ほとんどの人は、一定のレベルで思考を停止している。
逆に言えば、どこかで思考を停止しないと、物事を認識したり、思考を積み重ねていくことができない。
言葉や物を認識した時点ですでに思考の停止は始まっている。

例えば、目の前の食卓を見て「ごはんがある」と認識する人は多い。
ところが、「ごはん」は「炭水化物を主成分とした穀物を水分と共に加熱したもの」であり、さらに「澱粉(C6H10O5)nと水(H2O)」を主成分とした分子構造の混合物と認識することもできる。
さらに拡大して見れば陽子や中性子の様子まで見えてしまうかもしれない。

形のない陽子や中性子のことまで意識しながらごはんを眺める人はほとんどいない。
多くの人は、人間の目で認識できる色や質感で「ごはん」にリアルさを感じている。
そのレベルで認識を停止しているからこそ、ごはんがおいしそうに見えるのだとも言える。


物事を批評する場合でも、多くの人が無自覚に「肯定・否定」の判断を行っている。
なぜ自分がある意見やある事象に対して肯定的発言を行うのか、否定的態度をとるのか、意識していなくてもそこにはすべて原因と結果がある。

犯罪は許されない、とか表現の自由は守るべき、とか差別とか薬物とか暴力はゼッタイダメ、と言う人は、自分の判断基準が何に基づいているのか自覚はあるのだろうか。
その自覚がない人が自分と意見の違う人に対して「思考停止状態だ」と非難するのは、耳垢が目ヤニのことを汚いと言うようなものではないだろうか。

誰だってある一定のレベルで思考停止にならざるを得ない。
そのことを謙虚に認識してこそ、意見の違う人との話はかみ合うようになる。
あるいは、言葉や物の形や構造に意識的な表現を行うことができるようになる。

一昔前の学生運動世代の人たちのように、怒りや不満といった感情を前面に出して攻撃的な発言を行う人もいるが、まずは、自分がなぜ怒りや不満を感じるのか、その因果関係を化学式のように確認してみてはどうだろか。

怒りは暴力的だし、不満も執着心。そのようなものはなくても議論はできるし、自分や世の中を変えることはできる。


思考を停止しないでいつまでも掘り下げていくと、論理を積み上げることは難しい。
対象物を眺めていると、どんどんその対象物が溶解していくように見える。
ごはんを見てその分子構造を想像してしまう人は、おにぎりをつくったりお弁当を作ることは困難だ。

思考を停止しないで、世の中の正しいことや悪いこと、社会的評価の高いことも低いこと、心理的に心地よいこともひどいことなどを、分解してその構造を突き詰めていく。
言語で表現される抽象的な概念についてその構造を掘り下げていく。
そういったことを極限まで行うと、0と1、on と off、フィットとフィットしない、肯定と否定、などといった概念だけで世界の仕組みを表現することができるかもしれない。

基本的に、あらゆる生物は、自分の生命を維持することを目的としている。
生命の維持に適切なものは肯定、不適切なものは否定。
自分の生命や自分の所属する共同体の維持発展に適切かどうかによって肯定と否定が決まる。
ときには共同体の維持存続が個々の生命の維持に優先される場合もある。

もしかしたら自分や共同体の消滅を肯定する人もいるかもしれないが、そこには自分や共同体を無くすことによってもっと大事な何かを肯定するという意識がある。
だが、そのような傾向をもつグループは存続して行くことができないのでやがて忘れ去られる。
自分や共同体の生命維持を肯定する生物だけが後世まで存続していくことができる。

世の中には絶対的に肯定される正義も絶対的に否定されるべき悪もない。
思考を停止しなければいつかそういう認識にたどり着くのではないだろうか。


追記
文科系の研究者は、周囲の常識や自分の思い込みに影響されている人が多いかもしれないけど、いずれは理系の研究者のように科学的な手法を研究に導入するようになるかもしれない。

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