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波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

矛盾

2017-12-26 23:44:31 | Weblog
ものごとの成り立ちや因果関係を把握し、世の中の仕組みを知るためには、地道な作業が必要だ。

自分がどのように世の中を感じとり、「認識/スルー」「肯定/否定」などといった判断を行っているのか、無自覚な人は多い。

さまざまな理屈をつけて物事を否定あるいは肯定してみせても、結局は自分の信じているものや好きなものを肯定するために、もっともらしく理屈を後付けしているだけの人も少なくない。

平和を主張している暴力的な人とか、寛容の重要性を説く不寛容な人とか、権力への抵抗を重視しながら自分が他者を抑圧することには無関心な人とか、矛盾を抱えて無自覚な人は、物事の仕組みを把握しようという誠実な姿勢に欠けた人が多い。

そのような人は、何かを信じて行動すればよりよい方向に進むと思っているのかもしれないけど、世の中はそんなに単純ではない。
「正義」とか「真実」、「平和」「神」「民主主義」などといった言葉をありがたいものとして信じても、世界の構造は把握できない。

先入観にすぎない「肯定/否定」のフィルターにからめとられ、矛盾した要素を抱えたままの思考回路では、堂々巡りから脱することができず、問題の解決にはつながらない。
何かを信じるのではなく、否定するのでもなく、物事の成り立ちや関係性をありのままに認識する必要がある。

自分では自立しているように認識し、自分の意見を言っているように思っていても、その思考パターンや認識は、生まれ育った環境で刷り込まれた価値判断基準によるものであることが多い。

その思考の枠組みの中で、「批判/擁護」「好き/嫌い」などといった反応を見せ、些末なことに一喜一憂することは、生物として自然なことで、否定されることではない。

ただ、自分の一喜一憂している様子を、客観的に眺めてみようかと感じる人もいる。
自分の思考回路を分析し、自分が認識できているものと認識できていないものの境に関心を寄せる。
秩序と混沌、可視と不可視、言語と非言語、組織化と崩壊、社会人とアウトサイダー、そういったところに関心をいだく人々は、物事の両面を認識することによって、仕組みを把握しようとしている。

人間社会が発達した現在、そういった人々が増えてきていることを感じる。
良き市民・会社員としての生活を続けて来たけど、そろそろ、旅人とか、世捨て人、修行僧などの方に進んでみようか、と感じている人も少なくないだろう。



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観察

2017-12-22 22:15:13 | Weblog
各地の、政治的色彩のあるイベントを時々見に行くことがある。

学生の頃は、被差別関係のイベントに顔を出すことがあった。
労働運動の集会に行き、難病患者の車椅子を押して最後尾を歩いたこともあった。

20年近く前には、チベット関係の集まりに顔を出すこともあった。
(当時よく顔を出していた朝日新聞の記者は、チベット難民を応援していたのだろうか、あるいは親中国の立場から状況を探っていたのだろうか)

この2~3年だと、SEALDsなどの人たちが国会を囲んだ様子を見に行ったり、
読売新聞の新春懇親イベントにナベツネさんの顔を見に行ったり、
「アジア自由民主連帯協議会」という、中国政府に抑圧されているチベットやウイグルなどの人々が結集した団体の集会を見に行ってペマ・ギャルポさんや黄文雄さんの顔を見たり。
日中友好協会系のイベントに参加して西園寺一晃さんが中国政府そのままのような発言をしているのを聞いたり。

海外では、イスタンブールの亡命ウイグル人が集まっているモスクやレストランを見に行ったり。
ウイグル料理レストランでは「どこから来た?」と言われたので、「日本だ」と答えると親しげに握手してくれた。

ロンドン、ベオグラード、ビルバオ、ハワイ、東京、いろんな町でいろんな抗議活動やデモ行進を見てきた。

ただ、あくまで「観察」。
同調して盛り上がっているわけでもなく、情報収集活動を進めているわけでもない。
何かを狙っている訳ではない。
見ているだけ。
だけど、そこから見えてくることも多い。

社会秩序と、そこからはみだした人々の関係に興味があるので、ついつい難民や被差別民やアウトサイダーに目が向いてしまう。

各地を旅していると、差別の現場を目撃することがある。
例えば、東ヨーロッパにおけるロマ(ジプシー)に対する差別の状況は、本やネットの情報だけではなかなか体感できない。
現地に行って、いろんな顔立ちの多数のロマの人たちを見て、現地の人たちがロマの人たちにどのような態度をとっているか目にすると、得るものも多い。
自分のちょっとした経験をぜんぶのように感じるのはあやういけど、いろんな経験をすればするほど、全体像に近づくことができる。

そういうわけで、ぼくは世の中の構造を認識することに近づけるように、いろんなものを観察しているのかもしれない。


コメント (17)
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