ものごとの成り立ちや因果関係を把握し、世の中の仕組みを知るためには、地道な作業が必要だ。
自分がどのように世の中を感じとり、「認識/スルー」「肯定/否定」などといった判断を行っているのか、無自覚な人は多い。
さまざまな理屈をつけて物事を否定あるいは肯定してみせても、結局は自分の信じているものや好きなものを肯定するために、もっともらしく理屈を後付けしているだけの人も少なくない。
平和を主張している暴力的な人とか、寛容の重要性を説く不寛容な人とか、権力への抵抗を重視しながら自分が他者を抑圧することには無関心な人とか、矛盾を抱えて無自覚な人は、物事の仕組みを把握しようという誠実な姿勢に欠けた人が多い。
そのような人は、何かを信じて行動すればよりよい方向に進むと思っているのかもしれないけど、世の中はそんなに単純ではない。
「正義」とか「真実」、「平和」「神」「民主主義」などといった言葉をありがたいものとして信じても、世界の構造は把握できない。
先入観にすぎない「肯定/否定」のフィルターにからめとられ、矛盾した要素を抱えたままの思考回路では、堂々巡りから脱することができず、問題の解決にはつながらない。
何かを信じるのではなく、否定するのでもなく、物事の成り立ちや関係性をありのままに認識する必要がある。
自分では自立しているように認識し、自分の意見を言っているように思っていても、その思考パターンや認識は、生まれ育った環境で刷り込まれた価値判断基準によるものであることが多い。
その思考の枠組みの中で、「批判/擁護」「好き/嫌い」などといった反応を見せ、些末なことに一喜一憂することは、生物として自然なことで、否定されることではない。
ただ、自分の一喜一憂している様子を、客観的に眺めてみようかと感じる人もいる。
自分の思考回路を分析し、自分が認識できているものと認識できていないものの境に関心を寄せる。
秩序と混沌、可視と不可視、言語と非言語、組織化と崩壊、社会人とアウトサイダー、そういったところに関心をいだく人々は、物事の両面を認識することによって、仕組みを把握しようとしている。
人間社会が発達した現在、そういった人々が増えてきていることを感じる。
良き市民・会社員としての生活を続けて来たけど、そろそろ、旅人とか、世捨て人、修行僧などの方に進んでみようか、と感じている人も少なくないだろう。
自分がどのように世の中を感じとり、「認識/スルー」「肯定/否定」などといった判断を行っているのか、無自覚な人は多い。
さまざまな理屈をつけて物事を否定あるいは肯定してみせても、結局は自分の信じているものや好きなものを肯定するために、もっともらしく理屈を後付けしているだけの人も少なくない。
平和を主張している暴力的な人とか、寛容の重要性を説く不寛容な人とか、権力への抵抗を重視しながら自分が他者を抑圧することには無関心な人とか、矛盾を抱えて無自覚な人は、物事の仕組みを把握しようという誠実な姿勢に欠けた人が多い。
そのような人は、何かを信じて行動すればよりよい方向に進むと思っているのかもしれないけど、世の中はそんなに単純ではない。
「正義」とか「真実」、「平和」「神」「民主主義」などといった言葉をありがたいものとして信じても、世界の構造は把握できない。
先入観にすぎない「肯定/否定」のフィルターにからめとられ、矛盾した要素を抱えたままの思考回路では、堂々巡りから脱することができず、問題の解決にはつながらない。
何かを信じるのではなく、否定するのでもなく、物事の成り立ちや関係性をありのままに認識する必要がある。
自分では自立しているように認識し、自分の意見を言っているように思っていても、その思考パターンや認識は、生まれ育った環境で刷り込まれた価値判断基準によるものであることが多い。
その思考の枠組みの中で、「批判/擁護」「好き/嫌い」などといった反応を見せ、些末なことに一喜一憂することは、生物として自然なことで、否定されることではない。
ただ、自分の一喜一憂している様子を、客観的に眺めてみようかと感じる人もいる。
自分の思考回路を分析し、自分が認識できているものと認識できていないものの境に関心を寄せる。
秩序と混沌、可視と不可視、言語と非言語、組織化と崩壊、社会人とアウトサイダー、そういったところに関心をいだく人々は、物事の両面を認識することによって、仕組みを把握しようとしている。
人間社会が発達した現在、そういった人々が増えてきていることを感じる。
良き市民・会社員としての生活を続けて来たけど、そろそろ、旅人とか、世捨て人、修行僧などの方に進んでみようか、と感じている人も少なくないだろう。