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波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

「二カ国語放送」は差別語か

2012-01-21 22:35:28 | Weblog
小島剛一著『漂流するトルコ』(旅行人発行、2010年)を読んだ。
著者が以前書いた『トルコのもう一つの顔』もたいへん興味深く一気に読んだことがあるが、
この本も非常におもしろい。
辺境探検ノンフィクション作家、高野秀行さんの推薦する本は外れがない。
2100円するが、350ページの文章の内容と密度を考えると安い。

高野さんも小島さんも大宅荘一ノンフィクション賞受賞レベルを超える作品を残している。
それでも、上原善広さんみたいに差別をテーマにしてちょっと社会的良心をそそるようなテーマのほうが受賞しやすいのだろうか。もったいない。上原さんの本も好きだけど。

『漂流するトルコ』は、方言を含めれば100種以上の言語を解するのではないかと思われる言語学者による、知的でスリリングな冒険談だ。

トルコにおける少数民族の言語調査。
トルコ人やトルコ語以外の存在をなかなか認めようとしない政府。
情報収集員による妨害と監視。
秘密警察や編集協力者のお粗末さ。トルコ政府による国外追放。

著者は政治主張には関わらず、言語学者として堂々と困難に立ち向かう。
小説として読んでしまいそうになるけど、これは現実の話なのだ。

なるほどね、と唸らされる内容も多い。
例えば下記のような記述。

P90
> 言語の数と国の数は一致しないし、言語分布の境界と国境とも重ならないのが普通
> だから、「何カ国語」という数え方は無意味であり、応えようが無い。(略)日本のテレビ
> には時々「二カ国語放送」という文字が流れる。どことどこの二カ国を考えているのか
> 分からないが、どうして単純明快に「○○語と○○語の二言語放送」と言わないのだろう。

そのうち、「二カ国語」という表記は差別的表現だとされてメディアでは「二言語」という表記に書き換えられるかもしれない。
かつて、「母国語」という表現が普通に使われていたけど、「日本語環境で生まれ育った外国籍の人はどうなるんだ。在日韓国人は日本語しか話せなくても母国は韓国だ」などという声もあり、「母語」という表現に言い換えられることになった。

チベット語とウイグル語と中国語を話せる中国人に「三カ国語も話せるんですね」と言うと「チベットもウイグルも中国も一国です。チベットやウイグルの独立は許しません」と怒られるかもしれない。
哲学も信念もないマスコミの人たちはすぐに「三言語」と言い換えるだろう。

また、欄外の注釈が興味深い。ここも、へー、と感じることが多い。豆知識ですね。

P208
> *ティーラ・ミ・スー 
> イタリア語。本来の意味は「私を引っぱり挙げてくれ」。
> 日本での主流の表記は「ティラミス」らしい。

p233
> *民族学上の「民族」と政治用語の「民族」 
> 民族学・文化人類学の研究対象の「民族」は「同一の言語と文化を共有する集団
> (=英語ではethny)」であって、「歴史的、社会的、文化的な共同体意識を共有
> する集団」という意味での「民族(=英語ではnation)」ではない。

P260
> *他人行儀 
> トルコでは、日本などよりも遥かに遅く、1934年6月21日の法令で全国民に姓を
> つけさせることが決まった。そして、トルコ同化政策の一環として、姓はトルコ語
> でなければならないことになった。(略)今でもトルコ国民にとって姓は単なる行政上
> の符号のようなもので、近所付き合いや友人関係では用いない。トルコ語を話す者
> 同士では、知り合った時に互いに下の名前を名乗り、それで呼び合うのが普通である。(略)

それにしても、チェルノブイリ以降、黒海の南に位置するトルコに大量の放射能物質が届いていたとは知らなかった。これはたいへんな惨事だ。
おそらく、福島よりも大きな被害だろう。

P235
> *喉頭ガン 
> チェルノブイリの原発事故以来、トルコの黒海沿岸地方の住民のガンや白血病の診断率は、
> それまでの数十倍に跳ね上がっている。私の知人・友人の間にも、闘病中の人や死亡
> した人、幼な子を白血病で亡くした人が数知れない。

P331
> (略)別れ際に「一カ月ぐらい後で、また来るからね」と努めて朗らかに言った私に、
> 淀みなくこう答えた。
> 「その時ここでお逢いできなかったら、いずれあの世でお待ちしています。黒海の
> 向こうのチェルノブイリの原発事故の翌年にこの村で生まれた子供たちは、ここ一、
> 二年の間に一人残らず白血病で死んじゃったんです。これからが人生の春というときに。
> 隣の爺様も斜向かいの家の爺様も癌で亡くなりました。こうやって死んでいくのは
> 自分一人じゃないと思えば、いくらか気休めにはなります。先日は、ラズ民謡集が
> 立派な本になったのが生きているうちに見られて、とても嬉しかった。今日はラズ語の
> 文法書も完成したんですね。協力者リストの中にウメル・セチェルの名前がある。
> この村に私が生きていてラズ語を話していたという証が残るんですね。どんな立派な
> 墓碑銘を彫ってもらうよりも、この方がずっと嬉しい」

小島さんは言語学について文中で説明している。
雑草という草はないと言ったという昭和天皇を思い出した。
言語学者にとっては見下されて当然の方言、などという存在はない。
すべてを受け入れて、見渡す。そして比較判断するという姿勢は興味深い。

P278
> 植物学では、すべての植物に関する知識が必要です。だからありとあらゆる植物を
> 研究します。基礎研究の対象としては、すべての植物が等価です。一部の植物は食用、
> 薬用、建築用、燃焼用などの役に立ちますが、一見何の役にも立たないような植物で
> あっても、研究しない理由にはなりません。それと同じで、言語学の基礎研究の対象
> としては、すべての言語が等価です。言語学者は、ありとあらゆる言語を研究します。
> 一部の言語が話者数も少なく政治的にも弱小で経済的にも何の役にも立たないように
> 見えたとしても、その言語を研究しないで放置する理由にはなりません。すべての
> 言語に関する知識が必要なのです。


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探偵はどこに行った?

2012-01-15 10:55:07 | Weblog
探偵ファイルという人気サイトがある。
探偵会社のガルエージェンシーが運営しているのかな?

角川慶子さんの連載も強烈だ。
なかなかおもしろい。

だけど、以前、探偵社と暴力団との結びつきが報じられていたこともあったから、
ちょっと気になって検索してみると、
「ガル・エージェンシー(企業恐喝専門の全国にチクリ屋ネットワークを敷く探偵社)」
という文がヒットした。よくわからん。
昨年末には逮捕者も出ていたらしい。

> 2011年11月12日 – ガルエージェンシー、警察官ら個人情報1万件を暴力団に
> 提供して逮捕
> 2011年11月14日 – 捜査関係者によると、奈須容疑者の「プライム総合法務事務所」
>(東京都)と、粟野容疑者が代表の「ガルエージェンシー東名横浜」(横浜市)は
> それぞれ、山口組系暴力団の関連企業と資金のやりとりをする関係にあったとみられる。

まあ、人になんと噂されようと人を助けるために働いているのであればいい。
もし、探偵業を隠れ蓑に総会屋のような仕事をしているのであれば、注視が必要だ。

2011年9月5日に、「鉄ちゃん(元全国紙記者)」の名前で下記の記事がアップされた。
・「脳を鍛える」の■■■■はニセ博士!?
http://www.■■■■■■■■le.com/diary/■■■■/09/05_01/index.html

しかし、この記事はパクリ記事のおそれがある。
Googleで■■■■の名前で検索すると、このブログの、2008年12月にアップしたページがトップに出てくる。
・速読、記憶術、視力回復の■■■■博士も偽博士か
http://blog.goo.ne.jp/ambiguousworld/e/6cb235bdb4a83d368d22eeceb8364420

探偵ファイルの鉄ちゃんさんの記事に含まれている要素は、ぼくが書いた文の中にほとんど含まれている。
もし、■■■■さんについてきちんと調査を行えば、ぼくが書いた文以外の要素も記述するはずだ。
ぼくは知っていても敢えて書いていないことがある。
その要素は鉄ちゃんさんの記事には見られない。

ただ、鉄ちゃんさんの偉いところは、最後に
「私は博士を標榜しながら学歴を伏せる者を知らない。近々、本人を直撃する」
と書いているところだ。

著者の博士号が詐称ではないか出版社や企業に聞き込み、本人に問いただすということは
ぼくは行っていない。
そういった行動をおこしてくれるのであれば、ぼくは記事のパクリ疑惑を問題視する必要はないと思っていた。

しかし、記事が出てから4か月以上経つのに、続報がアップされない。

まさか、某氏のバックにアンダーグラウンドなものを感じて手を引いたとか
どこからか圧力がかかって調査を中止したとか
某氏からお金をもらって手を引いたとか
本人や出版社に対するユスリのネタに使って工作中とか
そんなことはないですよね?

本人直撃取材の記事、楽しみにしています。



追記 2013/5/20、goo事務局の検閲により一部伏字対応
追記 2013/5/20、goo事務局の検閲によりさらに一部伏字に。記事のどこが事実性や公共性に反するのか一切説明はなし。

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正体

2012-01-15 01:35:13 | Weblog
2005年頃、建築物の設計強度をごまかした「姉歯物件」などが話題になったとき、
報道されていない最新情報を書いたり民主党の馬淵議員とのやりとりなどを紹介して注目された「きっこの日記」というブログがあった。

社会党支持を公言し、政権政党や皇室に対して荒っぽい発言をして反発を受けることもあり、
いったい誰が毎日のように長文日記を書いているのだろうと注目されていた。

ある人は元オウム信者で有名ブロガーである松永英明さんがきっこの正体だと言い、
ある人はアマゾンの購入歴から武藤希美子が本名だと言っていた。
銀座のチーママだ、と断言する人もいた。

スタイリストを自称しているけど、スタイリストの団体にきっこという名の登録者はいなかったと言う人もいた。
プロフィールは嘘ばかりだという人もいた。
結局どうだったのだろう。

俳句に詳しい人だったので少し気にはなっていた。
数年前は、もしかしたらYさんがきっこなのだろうかと思っていた。

俳句に詳しい、ネットに詳しい、業界の情報にも詳しい(広告会社などにも勤務していたし)、社会党支持者(反戦平和とか)、ロックミュージシャンの知り合いがいる、ショートカット、とか
きっこさんとの共通点が多かった。

Yさんも改行のない長文日記をウェブで書いていたし、きっこが活動を本格化させた頃にYさんの日記は閉鎖となっていた。
あれだけ長いウェブ日記を書いていた人が痕跡を消してしまうことなどがあるのだろうか。
活動を移行させたと考えることが妥当ではないかと思っていた。

おぼろげな記憶だけど、俳人のYさんは2つの名前で句会に参加することはなかっただろうか。
Yさんとすれちがったことは10年以上前に一度しかないけど、「ある名前での俳句はできているけどもう一つの名前での俳句はできていない」、とふと漏らしていたような。

俳句の世界は狭く、30~40代の喫煙女性で一定レベル以上の俳句が作れる俳句愛好家や俳人といえば数えるほどしかいない。
スタイリストの世界を調べるよりも、現代俳句協会や俳句結社を調べたほうが手間はかからないかもしれない。

現在でも、社会党や社会主義を支持する顔ぶれが多い、「脱原発をめざす女たちの会」の呼びかけ人に
「きっこ(「きっこのブログ」)」の名前があるが、賛同人の方にも「山口あずさ(東京都)」とある。
ぼくの知るかぎり、リストの中にある女性俳人は上記の2人だけだ。

・脱原発をめざす女たちの会
http://noriyuki19100.iza.ne.jp/blog/entry/2517560/

Yさんが中心になって2001~2004年に行われていたネット句会(Hi! ku city)には、Yさんの句もきっこさんの句もあった。

ただ、きっこさんはブログで母について具体的なことを書いていたけど、
Yさんは2003年1月に母親を亡くしている。
あんなに具体的に母親のことをブログに書く人が、Yさんであるはずはないと思って、完全にYさんのことは忘れていた。

だけど、少なくともYさんはきっこさんと面識はあるのではないだろうか。
きっこさんについて調べたいと人がいれば、山口あずさんにコンタクトを取ってみればいいかもしれない。
1年以上きっこさんのブログを見たことがないけど、一応メモ。



追記 2021/3
以前、有名ブロガーの横山きっこさんと、俳人であり都議選にも出た山口あずささんは関連があるのかもしれないと書いたことがある。
その後、ふと思ったことをメモ。ちょっと強引な連想だけど。

山口あずさ
 ↓(名前を漢字化)
山口梓
 ↓(サブネームを示す、副・横・脇・添などといった字を添える)
横山口梓
 ↓(名前の漢字を分解する)
横山口木辛
 ↓(辛という字はネガティブなので幸に変える)
横山口木幸
 ↓(名前をひらがな化する)
横山口きっこう
 ↓(語尾の「う」を取って女性的な名前に調整)
横山口きっこ
 ↓(「口」を全角アキと見なして削除)
横山 きっこ
 ↓(サブの俳号が完成?)
横山きっこ


また、誕生日も少し気になる。
山口あずさ 1962年1月14日
横山きっこ 1972年11月22日

1962・1・14
 ↓(10歳サバ読み)
1972・1・14
 ↓(月と日の区切りを移動)
1972・11・4
 ↓(114は「いい死」に通じるので日を分割して1122「いい夫婦」に変更)
1972・11・22


コメント (2001)
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今年はクルーズか?

2012-01-15 00:24:03 | Weblog
イタリアでクルーズ船が座礁したらしい。めずらしい。
通常の航路を離れていたのだろうか。

時事通信の「大型豪華客船」という言い方はちょっと大げさだ。
イタリアの客船会社、コスタ・クルーズの船はカジュアルなものが多い。
東欧出身の船員を安く雇ったりしてコストダウンに努め、オーシャンビューの船室でも1週間で10万円しない。
「大型カジュアル客船」というレベルではないだろうか。

冬はクルーズのシーズンではなく、地中海も寒い。
この時期のクルーズは安く、それほどお金持ちが参加しているわけでもないだろう。

今年はクルーズに参加するのもいいかなと思い、
ときどきcruise.comとかcruisedirect.comなどのサイトをチェックしている。

秋に、ホノルルかヴェネチア出発の安いツアーにでも参加できないかなと思う。
残念ながら、日本発着のクルーズはどれも高い。
たかだか1週間の旅でも何十万かするものが多い。
欧米なら7~8円のクルーズも多いのに。

1週間ハワイ諸島をクルーズして、1週間ホノルルのあるマウイ島をレンタカーで一周してゆっくり、とか
1週間地中海をクルーズして、1週間ベネチアとかトスカーナの風景を眺める、とか
切り詰めれば1人20万以下で可能ではないだろうか。
安上がりで楽しいツアーだと思うのだがどうだろう。
行きたいなぁー。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120114-00000077-jij-int
■大型客船が転覆、3人死亡=日本人に被害なし―イタリア
時事通信 1月14日(土)19時1分配信
 【ジュネーブ時事】イタリアからの報道によると、同国中部の地中海に浮かぶジリオ島沖で13日午後8時(日本時間14日午前4時)ごろ、乗客・乗員約4200人を乗せた大型豪華客船「コスタ・コンコルディア」(全長290メートル)が座礁、転覆し、海に飛び込んだ男性ら少なくとも3人が死亡した。在イタリア日本大使館によると、乗客に日本人が含まれているが、死者やけが人の情報は入っていない。
 事故は、ローマから北西に離れたチビタベッキア港を出港して約3時間後に発生。大きな衝撃音とともに船内の電気が消え、物が床に散らばった。夕食の最中だった乗客はパニックに陥ったという。
 乗客らは救命ボートを使ってジリオ島に避難したが、浸水で船は右側に大きく傾き始めたことから、沿岸警備当局が船に残された約50人をヘリコプターで救出した。AFP通信によると、少なくとも14人が負傷した。 

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120114-OYT1T00404.htm?from=navlp
■イタリア沖で客船座礁、3人死亡…日本人は無事
 【ウィーン=末続哲也】イタリア中部ジリオ島の沖合で13日夜(日本時間14日朝)、大型クルーズ船「コスタ・コンコルディア号」(乗客乗員約4200人)が座礁、浸水した。
 船体が大きく傾いて動けなくなり、乗客は救命ボートなどで脱出した。ANSA通信によると、脱出の際、3人が海に飛び込むなどして死亡、14人が負傷した。
 在イタリア日本大使館によると、乗客の中には日本人が43人いたが、死傷者の情報は入っていない。
 座礁した船は全長約290メートル、客室数は約2000。何らかの障害物に衝突した後、乗客らを脱出させるためジリオ島に接近を試みたが、島の近くで動けなくなった。船は進行方向の右側に傾き、時間とともにほぼ横倒し状態となった。
 船内に取り残された乗客の一部は、ヘリコプターで救助された。
(2012年1月14日23時11分 読売新聞)


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弱者による差別、被害者による加害

2012-01-14 22:23:21 | Weblog
「弱い立場の者を守るのは当然だ、生存能力が弱いことはネガティブにとらえられるべきではない。
弱い人を攻撃して自分の勢力の拡大をはかることは許されない」

そのような価値観がうまれたのはいつの時代だっただろうか。
いつの時代でも強い政治権力や武力を持つ部族や都市や国が近隣の人々を蹂躙して
同化させてきた事実はある。

やがて無法地帯での勢力争いに疲れた人々は、無駄な疲労を避けるために
せめぎあっていた勢力と共通のルールを設けた。

生き残る力が弱く社会の隅に追いやられている人たちのことを思いやるのは
とても知的で寛容な態度だろう。
だけど、弱者を聖なる存在かのように持ち上げ、被害者として贖罪意識を向けるのは
ひとつの信仰のようなものかもしれない。

弱者だって差別もすれば暴力も働く。
右翼だろうと左翼だろうと、排他的という点で共通している人が多いように、
金持ちだろうと貧者だろうと、政治家だろうと風俗嬢だろうと、
人を見下したり支配したりすれば同じような思考レベルだ。

読売新聞夕刊には俳人の長谷川櫂さんによる「海の細道」という連載があるけど、
先日は被害者としての沖縄にふれていて、失礼ながらベタな表現だなと思ってしまった。
感傷にひたるのもいいけど、沖縄の焼き物についてもきちんと検証されているのだろうか。
渋い色を安易に被支配による暗い色と言われても困る。
琉球王朝は奄美や宮古、八重山などに対して侵略を行い、強者としてふるまっていた過去もある。

今日は鹿児島の歴史について、「大和に服従。哀しい伝承」と書いて古事記における海彦(隼人)、山彦(大和)のことを書かれていた。
薩摩は琉球王朝を侵略した強者の一面もあったわけだが、とりあえず弱者としての面に目を向けたのだろう。

そうすると、そのうち弱者としての吉備、出雲、弱者としての大和も取り上げるのだろうか。
実際、吉備や出雲も大きな勢力だったけど最終的には大和に服した。
大和も外来勢力に服したこと言えるだろう。
長谷川櫂さんにとっての強者とは何なのだろう。日本?中国?アメリカ?国際的金融機関?

弱者や強者というのは相対的な存在に過ぎない。絶対的ではない。
「世の中には弱い組織と強い組織があり、弱い組織は優先的に保護されなくてはならない」、
などという科学的事実はない。
弱者を絶対視し、権力化させることは思考の広がりを妨げる。

弱者であろうと強者であろうと、理解できない人を見下し、価値がないものとして攻撃すれば同じ意識レベルの自己中心的な人だ。
弱者であろうと強者であろうと、あらゆるところに意味を見出し、意味や価値を見出し尊重する人はやさしい人だ。
弱者を楯に正義のほうに立とうとする人には、安易さも感じる。

だから、強者と同じような意識レベルなのに自己保全のために弱者を守ろうとする人を見ると、「弱者の実態を知っていますか?」と言いたくなる。

きれいごとを言っても、弱者の世界だってどろどろしている。
沖縄本島を統一した勢力が、対立していた地方をどのように扱ったか。
沖縄本島を統一した勢力が、侵略した奄美や宮古や八重山にどのような圧制を強いたか。

かつて在日韓国・朝鮮人は日本の被差別民が朝鮮半島の白丁(ペッチョン)のようなものだと聞くと、彼らを見下した。
被差別出身の人だって、在日韓国・朝鮮人のほうを下に見ることがあった。
在米韓国人がアメリカ黒人を見下し、アメリカ黒人に在米韓国人が見下されたこともあった。

在日アジア人に対する日本人の差別意識を糾弾する人は多かったけど、
自分が欧米に行けば欧米人から見下されることもあるということを意識してない人も少なくない。

実際に、いわゆる「弱者」に関わっている人から見れば
弱者の人たちだっていたって普通の人たちだ。
まじめな人もいればエロい人もいる。温厚な人もいればキレやすい人もいる。
上品な人もいれば暴力的な人もいる。心広い人もいれば権威主義的な人もいる。

体が不自由だろうが容姿が不格好だろうが、社会的評価が低かろうが、
いい芸術作品を作る人やお金を稼げる人や研究結果を出せる人は社会的に評価されるだろうし、
いくら健康だろうが美男美女だろうが、社会的権力があろうが、
ろくな作品も作れず、お金も稼げず、研究結果も出せない人は評価されないだろう。
それだけの話だ。

社会的に評価されない容姿や立場の人がちょっと努力したくらいで、
かわいそうなのにがんばっている、と評価されなくてもいい。
いくら社会的に不自由でも、いい作品を作ったりいい研究結果を残せば、それについて正当な評価をすればいい。

それに、自分は被差別者や障害者ではないと思っている人も、ちょっと意識を変えてもいい。
自分だって自分と異なる文化圏の人たちのところに行けば、立派な被差別者になる場合がある。

祇園に行っても欧米の高級店に行っても、どこの田舎者がお粗末なことをしているのだ、
というような視線を向けられることがあるだろう。
食事中にマナー違反の行為をすれば、パリだろうがバンコクだろうがハワイだろうが、
現地の人に嫌悪の目を向けられるかもしれない。

ぼくは弱者でもあれば強者でもある。
経済的に貧しい国の人と話をすることもあれば、裕福な国の人と話をすることもある。
でも、フランスやイギリスの人に卑屈に振舞い、ルーマニアやミャンマーの人に尊大に振舞うということはしたくない。
安易に権力者に反発し、不遇な人を憐れむこともしない。

一般的な人よりは、被差別とか在日韓国・朝鮮人とかアイヌとか貧民とかアンダーグラウンドなアーティストについての知識があるけど、だからと言って、彼らを全肯定して、彼らを抑圧する存在を全否定するわけではない。

下記のようなことにも意識を向けたいと思う。
どんどん論文に書く人はいないかな。

・被差別者間における差別感情の実態
・少数者間における差別感情の実態
・弱小国における勢力争いの実態

そこから見えてくる人間の意識の構造から、興味深いものが読み取れるはずだと感じている。


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構造の認識

2012-01-13 22:17:49 | Weblog
盗みという行為を批判する人がいる。
もし、その人が、自分のものを奪われた時だけ盗みを批判して、
自分が誰かのものを奪う行為について沈黙していれば、
周囲の人に不信感を抱かれるだろう。

「あの人は盗みという行為について批判的なのではない、
自分が大事で、自分の利益にならないことを批判しているだけだ」
と見破られてしまう。

そんな状況は、現在も多くさまざまなところに見られる。
原発や戦争や新しい歴史教科書や、共産主義や新興宗教や圧政などに反対する人は
ほんとうに原発に反対しているのだろうか。
ほんとうに暴力や戦争に反対しているのだろうか。
ほんとうに恣意的な歴史解釈に反対しているのだろうか。
ほんとうに世の中の構造を考えているのだろうか。
ときどき疑いを持ってしまうときがある。

例えば、ぼくも原発がない安全なところに住みたいと思うけど、
原発に反対する人の多くは、中国政府に対して批判を行っていない。

中国政府は311以降も多くの原発を建設する考えを変えていない。
http://www.news-postseven.com/archives/20110501_18579.html
> 現在、中国では13基の原子炉(総設備容量は1080万kW)が稼働中だが、
> 中国国務院はすでに32基の新規建設を承認し(内28基は建設中)、建設承認の
> 前期作業に入った原発は38基ある。建設・計画中だけで計70基で、
> 20年までに現在の7倍の約7000万kWと、日本を上回る規模になるが、
> 中国政府は2050年までに230基(3億2400万kW)まで増やし、世界最大の
> 原発大国となる計画である。

もし中国の原発で事故があれば、風下の日本各地に大きな被害が出る恐れがある。
そうなれば中国政府はどう対応するだろうか。

原発に反対するのであれば、日本だろうと中国だろうと韓国だろうとフランスだろうと、
各国の活動家と連帯して原発建設に反対すればいい。
なぜ各国の大使館の前でデモ行進することなく、こんなときだけ日本に引きこもっているのだろう。
国境とか政府とか国籍にしばられた世界を嫌っていたのではなかったのだろうか。
世界はひとつだとか国境は意味がないとか言っていなかっただろうか。
それなら、狭い日本にとらわれず、原発に反対すればいい。

なぜ日本の原発にだけ反対して満足しているのだろう。
日本政府の原発は否定したいけど、中国政府の原発は否定したくない、と言うのであれば
原発という構造に反対しているのではなくて、原発を持っている日本の国や政府に反対しているだけではないか?と疑われてしまう。

もし、戦争に反対するのであれば、日本の戦争もアメリカの戦争も、中国や韓国の戦争も、
ソマリアやスーダンの武力衝突も反対すればいい。

もし、あやまった歴史認識に反対するのであれば、何が正確な歴史なのか、地道に研究するしかない。
右派的価値観や左派的価値観に沿った歴史認識には見落としもあるだろう。
キリスト教的価値観によって記された歴史も、イスラム教的価値観によって解釈された歴史も、若い人の価値観も年配者の価値観も、違いがあって当然だ。

だけど、若い時に影響を受けて、知らず知らず自分のものとして受け入れてしまった思考パターンを、絶対的に肯定されるものだと認識するのにはおごりがある。
証拠を積み上げて論理的に実証された事実に対し、右派だからとか左派だからといったことを理由に無視したり否定したりするのは科学的ではない。

誰だって自分にとって価値があると認識するものは視野に入るけど、
価値がないと思ったら視野に入れない。
だから、歴史の中で多くの事実が無意識にゆがめられて伝えられ、あったこともなかったことにされた。
それは、どんな価値観を持つどんな体制の国であっても同じだ。
国でなくても、村やコミューンでも同じだ。

立場によって認識の違いがある中で、自分と認識の違う者を犯罪者扱いして否定するのは、
誠実な態度ではない。
そういった態度こそが、多くの争いや対立を生んできた。
誰だって否定したい行為や許しがたい行為、見下してしまいそうな人々や受け入れたくない考えなどがあるだろう。

なぜ否定してしまうのか、なぜ拒絶してしまうのか、怒りを覚えてしまうのか、
その仕組みを自覚しなくては、いつまでたっても多くの人を受け入れられず、認め合えず、
ストレスをためて実りの少ない堂々巡りのような対立を続けて行くしかないだろう。

原発や戦争に反対することによって、自分が所属している環境や国家に対立し、抑圧を打破して自由を得ようと認識している人は、たぶん、いつまでも安らぎの地や自由を手に入れることはできない。

もしかしたら、慣習とか常識とか社会とか国家といった環境にとらわれてストレスを抱える人が
そこから脱しようとしてついつい自分の周囲に反発するのかもしれない。

しかし、怒ったり侮蔑したり否定したり攻撃しても、求めるものが手に入るとは限らない。
むしろ、発想が乏しいから、つい怒ったり侮蔑したりすることで何か変えられると思ってしまうのかもしれない。

ほんとうに世の中を変えたいと思うのであれば、まずは世の中の構造をしっかりと認識すべきではないだろうか。
まずは世の中の構造を認識しなければ正確な判断もできない。
それに、世の中を動かす大きな仕事をする人は、どなり声や攻撃的な文章を武器としてない。
声が大きくなくても、態度が威圧的でなくても、攻撃的な言辞を使わなくても、
おどしの言葉におびえないで淡々と、事実関係を解き明かしてさまざまな事象の因果関係を認識すればいい。
それが、堂々巡りの争いから脱出し、より住みやすいところに向かう道ではないかと思う。


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