先日、ブックオフで「日本定住コリアンの日常と生活 文化人類学的アプローチ」(明石書店、1997年)という本を購入した。
韓国料理やコリアンタウンに親しみ、野村進さんの「コリアン世界の旅」や上原善広さんの「コリアン」や梁石日作品を愛読していたぼくはこういったタイトルの本を見つけるとすぐ購入してしまう。
ただ、結論から言えば野村さんや上原さんの本と違い、統一感のない構成や粗い論理に不可解な印象を受けた。
野村さんも上原さんも声高に差別撤廃を主張しない。
何かを認識してもらおうとする時に、誰かを非難する必要はない。
丁寧な客観的描写が人々の理解や判断を助ける。
論理を述べられない人が声高に圧力をかけようとするのと異なり、淡々とした記述には知性や公平性を感じる。
原尻英樹さんの場合は、自分の視点をはっきりと前に出すのはいいのだけど、どこかブーメランを投げて自分の頭を直撃してしまうような不用意さがあるように見える。
例えば、在日コリアンの李隆さんが「ロンザ」誌に「半チョッパリ、ソウルに行く」という文章を寄稿し、それが朝日新聞の広告の見出しにも使われたことに対して、在日朝鮮人研究会代表として原尻さんは抗議文を「ロンザ」編集長に送っている。
「半チョッパリは混血者の存在自体を侮辱、否定する表現であり、混血者に多大なる心理的打撃を与えるから、見出しにつけるべきではない」と主張したのだ。
それに対し、「ロンザ」の鴨志田恵一編集長はこう返答している。
p127
それでも敢えて私は「半チョッパリ、ソウルに行く」という見出しをそのまま使用し、かつ新聞広告で大きく扱う決断を致しました。この原稿の価値は、在日三世の自己開示そのものにあるからです。本来なら差別の対象とされる在日韓国、朝鮮人がその差別語であることを十分知りながら「半チョッパリ」を自ら冠したところに、これまでにない若い在日の人の勇気と闘いを見てとれるからです。
「差別の印象を一般読者に与えるからやめとこう、変えよう」という無難な編集者姿勢と私自身が闘わなければ、筆者の勇気や闘いの志に報えないという気持ちでした。李氏の原稿は、卑下でもなく奢りでもなく、人間が個としての尊厳を得るため、その過程にある恐れ、悲しみ、喜び、怒りを彩なすもので、さらに、これまで既定された差別語に対するたった一人の闘いでもあると思うのです。
以上のようなやりとりの後で、原尻さんはp133で「ほとんどこちらの言っている意味が通じていないし、通じていないということもわかっていない」と切り捨てている。
原尻さんは、自分の常識や価値観を人に押し付けようとし、それを受け入れられない人が持ち出してきた論理を拒否しているようにも見える。
曲がりなりにも差別問題に関わる研究者であれば、いわゆる「差別語」を批判する場合、なぜその語が差別語として認識されているのか、なぜネガティブに感じるのか、構造を詳細に把握することが必要だろう。
そういったところからの説明がない限り、異なった価値観をもつ人に自分の考えを受け入れてもらうことはむずかしいのではないかと思う。
記号としての言語そのものにはポジティブもネガティブもない。
人々がどう受け取るかによって言葉の印象は変わる。
価値観は時代によって変化していくし、同時代でもコミュニティーによって異なる。
ある価値観では否定的に認識される言葉が、他のコミュニティーによっては肯定的に受け入れられる。
日本では太った人は醜いと認識されることが多く、デブという言葉を嫌うけど、ぽっちゃりとした人が美人であると認識される国もある。
もし、女性誌に太めタレントによる「デブはトンガじゃブスじゃない」という手記が載ったら、原尻さんは抗議をするのだろうか。
モデルの世界ではハーフやガイジンという言葉は羨望のまなざしとともに発せられる褒め言葉にもなる。
しかし、共通の価値観に支配された田舎の町では、異質な者に排除を迫る辛らつな言葉として使われるかもしれない。
一歩間違えれば、差別的な言葉やネガティブな言葉を排除することは、思想的少数派や権力に迎合しない人や常人が理解しにくい芸術家の表現活動を抹殺してしまう恐れがある。
悪いこと、醜いもの、汚いものなどは、絶対的な存在ではない。相対的なものだ。
研究者として何かを悪いこと、醜いこと、汚いものとして否定するなら、なぜネガティブにとらえるのか、その構造をきちんと明示すべきだ。
侮蔑するために使われる言葉を取り除いても、侮蔑する人の心を無くすことはできない。
侮蔑する心を無くすには、世の中のあらゆるものに価値を見出すことが一番の近道だ。
あらゆるものを拒絶せず理解するにはさまざまな価値観による視点を認識する必要がある。
ルールに反することは悪いこと、人がいやがることはダメなこと、人を不快にさせるのはいけないこと、病気につながるのは汚いこと。
そういったレベルの定義で何かを否定・排除していては知性は育たない。
なぜ悪いのか、なぜダメなのかといったことについてもっと深く考えなければ、差別問題に関わる研究者はアカデミックな世界から評価されることはない。
残念ながら差別論の世界は、運動家は多いけど研究者は少ない。
チョッパリはそもそも朝鮮半島の人が足袋を履く日本人の足先を見て「畜生みたいだ」、と侮蔑したことによる。
差別的に「チョッパリ」という言葉が使われていることを知っている日本人は意外に多いけど気にする人は少ない。
中国語での日本人に対する蔑称「日本鬼子」や「小日本」に対しても気にする人は少なく、最近は「日本鬼子(ひのもとおにこ)」や「小日本(こにほん)」という萌えキャラクターがネットで話題になっている。
そのうち「チョッパリ」キャラクターもネットで人気になるかもしれない。
「イエローモンキー」が差別語と認識されることもあったけど、かっこいいバンドの名称として記憶している人のほうが多い。
チョッパリという語の差別性を変化させようと、原尻さんは考えたりしないのだろうか。
そもそも、半日本野郎と言うことをネガティブに感じることに何の疑問もないのだろうか。
ハーフとか混血とかあいの子とかパンチョッパリとかペッチョンなどという言葉を隠蔽しても、異質な文化や容姿を持った人に対する理解が進むわけではない。
視点が変わらなければ、あらたな言葉が差別的に使用されるようになるだけだ。
長々と40ページに渡って「ロンザ」についての件について書き綴っているけど、結局話は噛みあっていない。
ただ、結果的に原尻さんは自分の評価を落としてしまっていると感じる。
このような記述もある。
p150
> 原尻 勇気を出して私はここまで出しましたと、ご立派なお考えですね。
> 鴨志田 それは、ご立派だと揶揄されてしまうとですね、僕もつらいですね。わかって
> くれる人もいるんだろうと思います。
> 原尻 いや、わかってくれる人はあんまりいないと僕は思いますけどね。でも、わかっ
> てくれる人がいると信じることは自由でしょうな。
> 鴨志田 信じられなければできませんね、毎日毎日雑誌できませんね。
原尻英樹さんが鴨志田さんの言っていることをよく理解しているとは思えないのに、自分の考えを受け入れてくれないからと言って人を見下したような態度をとっている。
実際のところ、芸術や文化などに関心のある人は、鴨志田さんの言っていることを理解することができるだろう。
原尻さんは芸術や文化、広く言えばフィロソフィーにはあまり理解のない人ではないかと感じてしまう。
専門として文化人類学を名乗られているようだけど、どれだけ専門的な人であるかは不明。
学部は教育学部、大学院(修士)も教育研究科、博士課程はハワイ大学の政治学部大学院。文学博士ではなく教育学博士。
力強い結論や疑問を述べるのはいいけど、論理に突っ込みどころは多い。
聞き取り調査(フィールドワーク)を重視するならひたすら聞き取り調査を行い、主観的な判断は控えめにしておいたほうが良いのではないだろうか。
物事の構造が見えてくる前に安易に判断を行うと、行き当たりばったりになってしまう。
ネットで検索すると、不穏な記述がいくつか見つかった。
特に、下記のブログのコメント欄は「個人攻撃を繰り返しては自爆」などの記述もあり物騒だ。
tsujimoto blog
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/06/02/1550672
>(略)この人が常勤講師として勤めている名古屋大学は、2006年には既に国立大学では
> なく、独立行政法人になっている。自分の勤務している職場の基本的経営形態さえ理解
> できていない人が、議論を実践し、精緻な検討をできるのであろうか。通常、専門家は
> このような人を専門家としては認めないだろう。」(『世界のコリアン アジア遊学92』(勉
> 誠出版 2006年10月)p18
> (略)これはもう個人攻撃です。 このようなことを本に書いていいのかどうか。書く
> 前にちょっと調べればいいものを、浅川憎しの余り筆がすべったのでしょうか。
ちなみに、文部科学省でも出版社でも、国立大学法人のことは通常「国立大学」と表記する。新聞社でも、名古屋大学のことを国立大学と書く。独立行政法人と書く人はまずいない。
・参考(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/b_menu/link/daigaku1.htm
発言内容のほかに著作権の問題についても心配されている人がいるらしい。
この件については、勉誠出版はきちんと処理をしているのだろうか。
長野峻也ブログ
http://yusin6.blog77.fc2.com/blog-entry-878.html
> (略)文化人類学的見地からの文化論で語る前に、情報の真偽を検証しないまま文化論で
> まとめる行為は“善意の歴史捏造”に繋がってしまう危険性を持つことを御理解いただき
たい・・・と、私は切にそう願います。
> また、老婆心ながら、原尻氏の『心身一如の身体づくり』中、桧垣源之助氏や藤松栄一
> 氏、岡田慎一郎氏の著作本中の写真やイラストをそのまま載せておられるのは、写真撮影
> 者やイラスト執筆者の著作権益に抵触する行為であり、きちんと許諾を得られておられる
> のかどうか心配になりました。私も10年以上前に、この件で某出版社にお詫びにうかがっ
> た経験があります。このような点も、迂闊に行えば捏造問題として扱われる場合もありま
> すので、御注意されるよう祈っております。
追記1/10
追記
先日ふと野村進さん(現在は拓殖大学の教授になられている)の「コリアン世界の旅」(講談社、1996年)を読み直していた。
ずいぶん以前に読んだ本なので記憶になかった記述も目についた。
あとがきには、「古くからの友人である原尻秀樹・放送大学助教授は、在日韓国・朝鮮人研究の専門家という立場から、終始助言を惜しまなかった」と書いてある。
「コリアン世界の旅」の記述内容は原尻さんもチェックされたということだろう。
だが、
p344に以下のような記述がある。
> たけしは数年前、ある雑誌で自分の体にも四分の一、朝鮮の血が流れていることを
> 明らかにしている。新井は、だがそのことを知らなかった。
この一文を読むと、まるでビートたけし(北野武)が、クオーターであることを公言したかのように読める。
しかし、何かの本か雑誌を読んだぼくの記憶では、以下のような記述ではなかったかと思う。
「家系はよくわからない。養子だった父親の、その父親については不明。かつて兄が『朝鮮人だったんじゃないかと思う』と言ったことがある。親に聞いたら『そんなことは言うな』と言われた」
記憶違いかもしれないけど、父方の祖父が朝鮮人だったかどうかについて、断定はしていなかったはずだ。祖父の氏名も明らかにされていないし、朝鮮の文化や関連物についての記述もない。
もし、ビートたけしが、自分に朝鮮の血が流れていると断言している雑誌があれば、教えてもらいたい。
また、次のような記述もあった。
p366
> 力道山、美空ひばり、ビートたけしと続く、日本の芸能・ショービジネスの世界に脈々と
> 流れてきたと言われる朝鮮の血は、こうして大作「清河への道」を生むに至ったのである。
たしかに、在日韓国・朝鮮の人がまずしくて必死に日本社会の中で食べていこうとした時代、公務員や大企業の社員にはなれないから必死にがんばって飲食業やショービジネスやヤクザ社会などで成功をおさめた。
ただ、日本国籍をとって日本人として生きた人もいれば、マイノリティとして努力する心細い中で、あのヒーローも同族なのだと勝手に決め付けてしまった例も多い。
力道山は日本国籍を取得して日本人として発言・行動していたし、美空ひばり在日説は捏造だと言われている。ビートたけし在日説も同じ。
なぜ、韓国人や在日韓国・朝鮮人の人は日本の有名人のことを同胞だと思いたがるのか、
なぜ排他的な右翼(もちろん、開明的な右翼だっていると思う)や政治団体の人が、自分たちの利益に敵対する人のことをすぐ在日韓国・朝鮮人だと言っておとしめ、排除しようとするのか、
そういったことを文化人類学などの調査対象として研究するのも面白いのではないだろうか。
ただ、噂話をきちんと検証することなく丸のみにし、「ビートたけしや美空ひばりは韓国・朝鮮系」とか「土井たか子や福島瑞穂は韓国・朝鮮系」などと安易に書籍に記述するのは、デマの拡散・定着、歴史の偽造に安易に協力してしまうことになるのではないだろうか。
<参考>
ビートたけし在日説については下記のような記述もあった。
http://nidasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-597.html
> 14 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[] 投稿日:2007/11/05(月) 09:05:01 > > > ID:+eN66xk8
> 「たけし在日説」のそもそもの始まりは
> 今は無き月刊誌「宝島30」でのインタビューで
> 「北野武は在日、北出身じゃないかって噂をよく聞くけど?」との問いに
> 「ウン、お袋の方の家系がね…」と答えたから。
> 母さきさんがハーフで自分はクォーターであると。
> ただその発言の後、母サキさん自らが
> 「冗談じゃない!あたしは純粋な日本人!」と他誌で否定。
> 「あの馬鹿は勘違いしてるんです!」とカンカン。
> 「さき」さんは、前夫の母親(韓国人)の面倒を見ていた。
> その後、たけしの父「菊次郎」と再婚して生まれた子供が
> 重一、大、武の三兄弟。(姉もね)
> つまり“韓国人”の“祖母”とは血縁関係は全く無い。
> たけし自身も後に
> 「あれは勘違いでした。お袋に怒られた」と述べています。