不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

砂子屋書房のあった場所

2010-12-29 15:11:16 | Weblog
詩人の田村雅之さんが昭和56年(1981年)に設立した出版社の砂子屋書房は、小さいながらも多くの俳人や歌人、詩人などにその名を知られる。

昭和初期にも同じ名前の出版社が存在していた。現在の砂子屋書房は、昭和初期の砂子屋書房創業者から許可を得てその名を継いでいる。
もともと、砂子屋は山崎家の屋号だった。

歌人の山崎剛平が昭和10年(1935年)から18年(1943年)まで営んでいた砂子屋書房は太宰治をはじめ当時の新進小説家や歌人などの本を出し、その丁寧な装丁でも評価されていた。

現在の砂子屋書房は神田駅近くの内神田にあるが、かつての砂子屋書房は上野桜木町27にあった。
東京藝術大学美術学部の通りを隔てた北側に、上野桜木会館がある。
その隣、現在の地番では台東区上野桜木1-6に位置する。

昭和9年(1934)年に上野桜木町に居を定めた山崎剛平はその地で翌年から昭和18年(1943年)まで砂子屋書房を営み、昭和20年に出身地の兵庫県赤穂郡に戻った。平成8年(1996年)にその地で亡くなられている。

・台東区上野桜木1-6(かつての上野桜木町27)
http://maps.google.co.jp/maps

<参考>
・山崎剛平年譜
http://kikoubon.com/yama_kou.html

・山崎剛平と砂子屋書房
http://merlot.wul.waseda.ac.jp/sobun/column/09/clm09-03.htm

西橋美保という歌人の方は、かつて山崎剛平の出身地に住み、現在の砂子屋書房から歌集を出されたこともあるらしい。
彼女は下記のように記述している。
http://www.sweetswan.com/ryufuji/29.html
> 先年、太宰研究をしている方がうちの村に取材に来たとき、教育委員会の当時の委員長
> だった方に、ご挨拶に行くとかで、私がご案内したのですが、「山崎剛平さんの資料は集
> めていないし、その予定もない」とはっきり言われ、仰天した記憶があります。「地域に
> 貢献してない」のがその理由だそうで、もう、田舎の人の見識の狭さにはゲンナリです。

もしかしたら、教育委員会委員長と教育長を混同されているかもしれない。
また、山崎剛平さんに関する文学資料を収集しようとしても、目ぼしいものは現地には少ないかもしれない。
山崎さんの著書の手書き原稿も私が保管しているし。

・西橋さんのサイト
http://www.eonet.ne.jp/~nishihashi/


来年、砂子屋書房の人や上郡町の教育委員会の人と顔を合わせることもありそうなので少しメモしてみた。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原尻英樹教授の手法は文化人類学的か

2010-12-25 17:45:17 | Weblog
先日、ブックオフで「日本定住コリアンの日常と生活 文化人類学的アプローチ」(明石書店、1997年)という本を購入した。
韓国料理やコリアンタウンに親しみ、野村進さんの「コリアン世界の旅」や上原善広さんの「コリアン」や梁石日作品を愛読していたぼくはこういったタイトルの本を見つけるとすぐ購入してしまう。

ただ、結論から言えば野村さんや上原さんの本と違い、統一感のない構成や粗い論理に不可解な印象を受けた。
野村さんも上原さんも声高に差別撤廃を主張しない。
何かを認識してもらおうとする時に、誰かを非難する必要はない。
丁寧な客観的描写が人々の理解や判断を助ける。
論理を述べられない人が声高に圧力をかけようとするのと異なり、淡々とした記述には知性や公平性を感じる。

原尻英樹さんの場合は、自分の視点をはっきりと前に出すのはいいのだけど、どこかブーメランを投げて自分の頭を直撃してしまうような不用意さがあるように見える。

例えば、在日コリアンの李隆さんが「ロンザ」誌に「半チョッパリ、ソウルに行く」という文章を寄稿し、それが朝日新聞の広告の見出しにも使われたことに対して、在日朝鮮人研究会代表として原尻さんは抗議文を「ロンザ」編集長に送っている。

「半チョッパリは混血者の存在自体を侮辱、否定する表現であり、混血者に多大なる心理的打撃を与えるから、見出しにつけるべきではない」と主張したのだ。

それに対し、「ロンザ」の鴨志田恵一編集長はこう返答している。
p127
 それでも敢えて私は「半チョッパリ、ソウルに行く」という見出しをそのまま使用し、かつ新聞広告で大きく扱う決断を致しました。この原稿の価値は、在日三世の自己開示そのものにあるからです。本来なら差別の対象とされる在日韓国、朝鮮人がその差別語であることを十分知りながら「半チョッパリ」を自ら冠したところに、これまでにない若い在日の人の勇気と闘いを見てとれるからです。
 「差別の印象を一般読者に与えるからやめとこう、変えよう」という無難な編集者姿勢と私自身が闘わなければ、筆者の勇気や闘いの志に報えないという気持ちでした。李氏の原稿は、卑下でもなく奢りでもなく、人間が個としての尊厳を得るため、その過程にある恐れ、悲しみ、喜び、怒りを彩なすもので、さらに、これまで既定された差別語に対するたった一人の闘いでもあると思うのです。


以上のようなやりとりの後で、原尻さんはp133で「ほとんどこちらの言っている意味が通じていないし、通じていないということもわかっていない」と切り捨てている。

原尻さんは、自分の常識や価値観を人に押し付けようとし、それを受け入れられない人が持ち出してきた論理を拒否しているようにも見える。

曲がりなりにも差別問題に関わる研究者であれば、いわゆる「差別語」を批判する場合、なぜその語が差別語として認識されているのか、なぜネガティブに感じるのか、構造を詳細に把握することが必要だろう。
そういったところからの説明がない限り、異なった価値観をもつ人に自分の考えを受け入れてもらうことはむずかしいのではないかと思う。

記号としての言語そのものにはポジティブもネガティブもない。
人々がどう受け取るかによって言葉の印象は変わる。
価値観は時代によって変化していくし、同時代でもコミュニティーによって異なる。
ある価値観では否定的に認識される言葉が、他のコミュニティーによっては肯定的に受け入れられる。

日本では太った人は醜いと認識されることが多く、デブという言葉を嫌うけど、ぽっちゃりとした人が美人であると認識される国もある。
もし、女性誌に太めタレントによる「デブはトンガじゃブスじゃない」という手記が載ったら、原尻さんは抗議をするのだろうか。

モデルの世界ではハーフやガイジンという言葉は羨望のまなざしとともに発せられる褒め言葉にもなる。
しかし、共通の価値観に支配された田舎の町では、異質な者に排除を迫る辛らつな言葉として使われるかもしれない。

一歩間違えれば、差別的な言葉やネガティブな言葉を排除することは、思想的少数派や権力に迎合しない人や常人が理解しにくい芸術家の表現活動を抹殺してしまう恐れがある。

悪いこと、醜いもの、汚いものなどは、絶対的な存在ではない。相対的なものだ。
研究者として何かを悪いこと、醜いこと、汚いものとして否定するなら、なぜネガティブにとらえるのか、その構造をきちんと明示すべきだ。

侮蔑するために使われる言葉を取り除いても、侮蔑する人の心を無くすことはできない。
侮蔑する心を無くすには、世の中のあらゆるものに価値を見出すことが一番の近道だ。
あらゆるものを拒絶せず理解するにはさまざまな価値観による視点を認識する必要がある。

ルールに反することは悪いこと、人がいやがることはダメなこと、人を不快にさせるのはいけないこと、病気につながるのは汚いこと。
そういったレベルの定義で何かを否定・排除していては知性は育たない。
なぜ悪いのか、なぜダメなのかといったことについてもっと深く考えなければ、差別問題に関わる研究者はアカデミックな世界から評価されることはない。
残念ながら差別論の世界は、運動家は多いけど研究者は少ない。

チョッパリはそもそも朝鮮半島の人が足袋を履く日本人の足先を見て「畜生みたいだ」、と侮蔑したことによる。
差別的に「チョッパリ」という言葉が使われていることを知っている日本人は意外に多いけど気にする人は少ない。
中国語での日本人に対する蔑称「日本鬼子」や「小日本」に対しても気にする人は少なく、最近は「日本鬼子(ひのもとおにこ)」や「小日本(こにほん)」という萌えキャラクターがネットで話題になっている。
そのうち「チョッパリ」キャラクターもネットで人気になるかもしれない。
「イエローモンキー」が差別語と認識されることもあったけど、かっこいいバンドの名称として記憶している人のほうが多い。
チョッパリという語の差別性を変化させようと、原尻さんは考えたりしないのだろうか。
そもそも、半日本野郎と言うことをネガティブに感じることに何の疑問もないのだろうか。
ハーフとか混血とかあいの子とかパンチョッパリとかペッチョンなどという言葉を隠蔽しても、異質な文化や容姿を持った人に対する理解が進むわけではない。
視点が変わらなければ、あらたな言葉が差別的に使用されるようになるだけだ。

長々と40ページに渡って「ロンザ」についての件について書き綴っているけど、結局話は噛みあっていない。
ただ、結果的に原尻さんは自分の評価を落としてしまっていると感じる。
このような記述もある。

p150
> 原尻  勇気を出して私はここまで出しましたと、ご立派なお考えですね。
> 鴨志田 それは、ご立派だと揶揄されてしまうとですね、僕もつらいですね。わかって
>     くれる人もいるんだろうと思います。
> 原尻  いや、わかってくれる人はあんまりいないと僕は思いますけどね。でも、わかっ
>     てくれる人がいると信じることは自由でしょうな。
> 鴨志田 信じられなければできませんね、毎日毎日雑誌できませんね。


原尻英樹さんが鴨志田さんの言っていることをよく理解しているとは思えないのに、自分の考えを受け入れてくれないからと言って人を見下したような態度をとっている。
実際のところ、芸術や文化などに関心のある人は、鴨志田さんの言っていることを理解することができるだろう。
原尻さんは芸術や文化、広く言えばフィロソフィーにはあまり理解のない人ではないかと感じてしまう。

専門として文化人類学を名乗られているようだけど、どれだけ専門的な人であるかは不明。
学部は教育学部、大学院(修士)も教育研究科、博士課程はハワイ大学の政治学部大学院。文学博士ではなく教育学博士。

力強い結論や疑問を述べるのはいいけど、論理に突っ込みどころは多い。
聞き取り調査(フィールドワーク)を重視するならひたすら聞き取り調査を行い、主観的な判断は控えめにしておいたほうが良いのではないだろうか。
物事の構造が見えてくる前に安易に判断を行うと、行き当たりばったりになってしまう。

ネットで検索すると、不穏な記述がいくつか見つかった。
特に、下記のブログのコメント欄は「個人攻撃を繰り返しては自爆」などの記述もあり物騒だ。

tsujimoto blog
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/06/02/1550672
>(略)この人が常勤講師として勤めている名古屋大学は、2006年には既に国立大学では
> なく、独立行政法人になっている。自分の勤務している職場の基本的経営形態さえ理解
> できていない人が、議論を実践し、精緻な検討をできるのであろうか。通常、専門家は
> このような人を専門家としては認めないだろう。」(『世界のコリアン アジア遊学92』(勉
> 誠出版 2006年10月)p18
> (略)これはもう個人攻撃です。 このようなことを本に書いていいのかどうか。書く
> 前にちょっと調べればいいものを、浅川憎しの余り筆がすべったのでしょうか。

ちなみに、文部科学省でも出版社でも、国立大学法人のことは通常「国立大学」と表記する。新聞社でも、名古屋大学のことを国立大学と書く。独立行政法人と書く人はまずいない。

・参考(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/b_menu/link/daigaku1.htm


発言内容のほかに著作権の問題についても心配されている人がいるらしい。
この件については、勉誠出版はきちんと処理をしているのだろうか。

長野峻也ブログ
http://yusin6.blog77.fc2.com/blog-entry-878.html
> (略)文化人類学的見地からの文化論で語る前に、情報の真偽を検証しないまま文化論で
> まとめる行為は“善意の歴史捏造”に繋がってしまう危険性を持つことを御理解いただき
たい・・・と、私は切にそう願います。
>  また、老婆心ながら、原尻氏の『心身一如の身体づくり』中、桧垣源之助氏や藤松栄一
> 氏、岡田慎一郎氏の著作本中の写真やイラストをそのまま載せておられるのは、写真撮影
> 者やイラスト執筆者の著作権益に抵触する行為であり、きちんと許諾を得られておられる
> のかどうか心配になりました。私も10年以上前に、この件で某出版社にお詫びにうかがっ
> た経験があります。このような点も、迂闊に行えば捏造問題として扱われる場合もありま
> すので、御注意されるよう祈っております。


追記1/10
追記
先日ふと野村進さん(現在は拓殖大学の教授になられている)の「コリアン世界の旅」(講談社、1996年)を読み直していた。
ずいぶん以前に読んだ本なので記憶になかった記述も目についた。
あとがきには、「古くからの友人である原尻秀樹・放送大学助教授は、在日韓国・朝鮮人研究の専門家という立場から、終始助言を惜しまなかった」と書いてある。
「コリアン世界の旅」の記述内容は原尻さんもチェックされたということだろう。
だが、
p344に以下のような記述がある。
> たけしは数年前、ある雑誌で自分の体にも四分の一、朝鮮の血が流れていることを
> 明らかにしている。新井は、だがそのことを知らなかった。

この一文を読むと、まるでビートたけし(北野武)が、クオーターであることを公言したかのように読める。
しかし、何かの本か雑誌を読んだぼくの記憶では、以下のような記述ではなかったかと思う。
「家系はよくわからない。養子だった父親の、その父親については不明。かつて兄が『朝鮮人だったんじゃないかと思う』と言ったことがある。親に聞いたら『そんなことは言うな』と言われた」
記憶違いかもしれないけど、父方の祖父が朝鮮人だったかどうかについて、断定はしていなかったはずだ。祖父の氏名も明らかにされていないし、朝鮮の文化や関連物についての記述もない。
もし、ビートたけしが、自分に朝鮮の血が流れていると断言している雑誌があれば、教えてもらいたい。

また、次のような記述もあった。
p366
> 力道山、美空ひばり、ビートたけしと続く、日本の芸能・ショービジネスの世界に脈々と
> 流れてきたと言われる朝鮮の血は、こうして大作「清河への道」を生むに至ったのである。

たしかに、在日韓国・朝鮮の人がまずしくて必死に日本社会の中で食べていこうとした時代、公務員や大企業の社員にはなれないから必死にがんばって飲食業やショービジネスやヤクザ社会などで成功をおさめた。
ただ、日本国籍をとって日本人として生きた人もいれば、マイノリティとして努力する心細い中で、あのヒーローも同族なのだと勝手に決め付けてしまった例も多い。

力道山は日本国籍を取得して日本人として発言・行動していたし、美空ひばり在日説は捏造だと言われている。ビートたけし在日説も同じ。
なぜ、韓国人や在日韓国・朝鮮人の人は日本の有名人のことを同胞だと思いたがるのか、
なぜ排他的な右翼(もちろん、開明的な右翼だっていると思う)や政治団体の人が、自分たちの利益に敵対する人のことをすぐ在日韓国・朝鮮人だと言っておとしめ、排除しようとするのか、
そういったことを文化人類学などの調査対象として研究するのも面白いのではないだろうか。

ただ、噂話をきちんと検証することなく丸のみにし、「ビートたけしや美空ひばりは韓国・朝鮮系」とか「土井たか子や福島瑞穂は韓国・朝鮮系」などと安易に書籍に記述するのは、デマの拡散・定着、歴史の偽造に安易に協力してしまうことになるのではないだろうか。

<参考>
ビートたけし在日説については下記のような記述もあった。
http://nidasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-597.html
> 14 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[] 投稿日:2007/11/05(月) 09:05:01 > > > ID:+eN66xk8
> 「たけし在日説」のそもそもの始まりは
> 今は無き月刊誌「宝島30」でのインタビューで
> 「北野武は在日、北出身じゃないかって噂をよく聞くけど?」との問いに
> 「ウン、お袋の方の家系がね…」と答えたから。
> 母さきさんがハーフで自分はクォーターであると。
> ただその発言の後、母サキさん自らが
> 「冗談じゃない!あたしは純粋な日本人!」と他誌で否定。
> 「あの馬鹿は勘違いしてるんです!」とカンカン。
> 「さき」さんは、前夫の母親(韓国人)の面倒を見ていた。
> その後、たけしの父「菊次郎」と再婚して生まれた子供が
> 重一、大、武の三兄弟。(姉もね)
> つまり“韓国人”の“祖母”とは血縁関係は全く無い。
> たけし自身も後に
> 「あれは勘違いでした。お袋に怒られた」と述べています。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

益子にお出かけ

2010-12-24 22:13:02 | Weblog
昨日は冬至だったので、柚子入りのお風呂に入った。
小ぶりの柚子から懐かしい香りが湯気の中に広がる。
実家の裏の畑には大きな柚子の木があり、冬になると大量の柚子がお風呂に投入された。
子どもの頃は、柚子や山椒や紫蘇や青竹や青草や木材やおがくずや草や土などの香りに囲まれていた。
水草も草原も日だまりも香らない東京では、ときどき生まれ育った環境の香りを懐かしく思う。

先週末に訪れた栃木県の益子は、センスの良い雑貨や小物やレストランが多く、芸術が生活に根付いた魅力的な町のように見えた。
山や田んぼも多く、静かな空間が広がっている。
下北沢の人気カフェ「農民カフェ」が益子に広大な土地を求めてオーガニックな野菜を作っているのもわかる気がする。

電車を乗り継いで益子駅から町の中心部に歩いていく途中、箱田侑子さんという手織り作家さんの工房に立ち寄った。
さまざまな色の綿を糸にして布地やマフラーやコースターを織ることを興味深くうかがったあと、帰り際にふと玄関脇の籠の中の柚子に目を向けると、いくつか譲っていただいた。
箱田さんは60歳を超えてらっしゃるそうだけど初々しく、お若く、織りの正確さと繊細さを見るだけでとても丁寧で実直な仕事をされる方なのだろうと感じる。
いつか箱田さんの布地を購入して上質なシャツにでも仕立ててみたい。

益子に行ったのは初めてだった。
陶芸作家が多く住んでいることで知られるこの町の名は知っていたけど、訪れたことはなかった。
土曜日10時すぎの電車に乗って東京から益子へ。13時前にようやく到着。
宿まで2~3キロの道のりを歩いていると次々に興味深いショップが目に入り、彼女は次々に立ち寄っていた。
宿泊する宿「益古時計」に到着した時には3時になっていた。

チェックインしてからすぐスターネットという店に足を運び、手作りの服や食器や台所用品を眺めた。
野菜やハーブなども買いたいものがあったけどがまん。
山の食堂で軽く食事したけど、陶知庵という店で夕食も食べた。
千円のセットはオーガニックな印象だけど小さくまとまってなくて盛りだくさん。
体にいいものばかり食べている印象。

宿に戻って内風呂で一息。広い風呂は熱すぎず、ゆっくり体を温めることができる。

日曜日は7時半に起きて朝風呂。屋外にある露天風呂はさすがに寒い。
10時にチェックアウトしてタクシーでもえぎ本店に向かう。
タクシーが来るまで益古時計併設のギャラリーで各作家の作品を鑑賞。

もえぎ本店は山の中。
彼女は昨日のもえぎ城内坂店でも大山文女さんなどの作品を購入していたけどここでも山野辺綾さんや長谷川風子さんの作品を購入。
山野辺彩さんの作品は軽やかな彩色と繊細で落ち着いた表情が印象的。
陶器に対しての評価については、ぼくと彼女の意見は近い。
彼女が購入しようとする作品はぼくから見ても芸術的価値が高いものが多い。

それにしても、すばらしい陶器が数千円で、しかも飾らない日常生活で使うための食器として売られていることに感動する。
何十年か後には芸術品として1点数万円以上で売り買いされそうな皿やお椀が、数千円なのだ。
益子の新進作家の芸術性の高い作品を購入することはお得な買い物だ。

陶芸家濱田庄司の開設した益子参考館を見学してから午後は益子の隣駅、北山に移動。
しばらく歩いてチイカフェという店に行った。
アジアンテイストだけど、タイやベトナムの一般的な料理を洗練させてオーガニックにした印象。くせがないけど味はしっかりとしており、食べやすくておいしい。

カフェに流れている曲が気になった。
目立たない静かな曲なのだが、ずっと聴いているとその音の扱い方や発声に非常に高度なものを感じるのだ。
弾き語りに近いけど、フォークにありがちなありふれたコード進行ではない。独創性とすぐれたバランス構成力を感じる。
店の人に聞くと、店内で作品を展示している陶芸作家の田村一さんが持ち込んだCDだという。
田村さんによると、CDは七尾旅人の『ひきがたり・ものがたりvol. 1 蜂雀(ハミングバード)』。
これはすごい。
ぼくも彼女も七尾旅人の名前は知っていたけど名前から友部正人を連想したりして聴いていなかった。
いいアルバムを知ることができた。

チイカフェの周辺のショップもいくつか見た後、薄暗くなってきた中10分くらい歩いて外池酒造(とのいけしゅぞう)にも足をのばした。
日本酒を応援する者としては蔵元の様子をチェックしておきたい。
無料で何種類ものお酒を試飲させてくれるのは親切。
食中酒としてわるくないお酒が多い印象。ろ過しすぎず、うまみもしっかり残っている。
にごり酒がさわやかで飲みやすい。日本酒と柚子で作った柚子リキュールはいくらでも飲めそうな爽快さ。
結局にごり酒の一升瓶だけを購入した。1900円という安さ。
生きた酒だから、少しずつ発酵の変化も楽しんで味わって行きたい。

電車を乗り継いで夜中東京に帰宅。
益子には定期的に訪れたいと思う。
今まで足をのばしていなかったことが悔やまれる。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『号外!! 虚構新聞』(笠倉出版社、定価500円)2010/12/15発売

2010-12-08 00:54:17 | Weblog
嘘ニュースサイトは数多くあるけど、その中でもっとも評価が高いのが「虚構新聞」だ。
誰かをからかったり侮蔑したり攻撃しがちな多くの嘘ニュースサイトの中で、「虚構新聞」は創造的で軽やかなスタイルが際立っている。

おもわず笑いそうになるときもあれば、なるほどと感心させられるときもある。
気の利いたショート・ショートを読む感覚に近い。
風刺を勘違いしたイヤミや反権力を誤解したとげとげしさはなく、豊かな発想や常識に拘束されない視点、新聞記者としても実際に記事を書けるのではないかと思わせる文章構成などにレベルの高さを感じる。

ぼくはネットで朝日や産経や朝鮮新報(朝鮮総連の新聞)や朝鮮日報(韓国の読売新聞)などを読むけど、それらの新聞よりも虚構新聞のほうがおもしろいのではないかとときどき感じる。

ネットのニュースでは紙の新聞にある文化欄やコラム、生活記事などがあまり見られない。
必然的にネットで事件や事故、経済や政治、芸能やスポーツの話題を目にすることが多くなるけど、それらのニュースはほんとうに価値があるものだろうか。

世の中を動かす仕組みとして政治経済は存在感が大きいけど、世の中で目立たないものや力の弱いものにも、価値が高いものは多い。
権力や資金力や宣伝力を持つ者を軽やかにかわしていく虚構新聞は、リアルな本を出すことによって硬直化する社会に一矢報い、さらに風通しを良くするかもしれない。

『号外!! 虚構新聞』の帯には、「第1回日本メディア大賞 ジャーナリズム部門 最優秀賞受賞」と大きく書かれている。
これはもちろん虚構の賞だけど、間違いなく、本書は虚構ジャーナリズムの歴史に残る作品だ。

勝間和代さんの本を愛読している人も、日経新聞が手放せない人も、大手企業への就職を目指している学生さんも、世の中に興味がなくて引きこもっている人も、世間の目が自分の行動の判断基準になっている人も、年末は『号外!! 虚構新聞』を読んで脱力してみてはどうだろうか。
楽しみながら、視野を広げるヒントを得ることができるはずだ。


虚構新聞
http://kyoko-np.net/

『号外!! 虚構新聞』特設ページ
http://kyoko-np.net/gougai.html

編集は、有限会社ケイ・マックス?
http://www.k-max.co.jp/exsiting/kyokou/index.html

追記
発売日の12/15にアマゾンで注文したけど、飛脚メール便で届いたのはついさっき、1/27だった。残念!
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自殺の一因は、論理的思考をもたない人のゆでガエル化

2010-12-06 23:28:01 | Weblog
13年連続自殺者が3万人を超えるという。
追い詰められ、自分の存在を消し去ってしまう人の悩みや絶望を想像すると心が痛い。

人口10万人あたりの自殺率も日本は世界でトップクラスだ。
もちろん、キリスト教的価値観が支配的でないせいもあり、深層意識の中で、自殺が強く忌避されていないのかもしれない。
だが、交通事故死者(2009年は4914人)の6倍もの人が自殺で亡くなる国は他にはない。
ストレスの多さが自殺者の多さにつながっていることは否定できないだろう。

なぜ日本社会にストレスが多いのか。
日本国の社会構造に問題があるというと言う人もいるだろうし、日本人の精神構造に問題があるという人もいる。
たしかに、日本社会は守るべきルールが多いし、守ることに耐える人も多い。
人に耐えることを強いる環境は辛い。

だが、まじめで従順で非論理的で社会常識に流されやすい日本人だからこそ、この社会構造を作り上げているともいえる。
ストレスに耐える我慢強い人が、ストレスの多い社会を維持している。
自殺者の多さは、社会構造のせいだけにはできないし、精神構造のせいだけにもできない。

ただ、ストレスをためこまない思考を身につけた人を増やすだけで、自殺者の減少や社会構造の変化につなげることができるはずだ。

自殺者の過半数は精神的にバランスを崩している状態だと言われている。
それでも、バランスを崩してしまうまでに、問題を改善する機会はあった。
ずるずると耐えているうちに心身のバランスを崩し、「自分の存在を消せば耐え難い問題は消滅する」「自殺すれば問題解決になる」というような結論に向かってしまう。

本当かどうか知らないが、カエルを水に入れて徐々に加熱していくと、状況の変化に対応できず、熱さに耐えているうちに逃げ出すこともしないでゆで上がってしまうという。
適切に状況を分析し、問題点と解決方法を洗い出し、段階的に行動すれば、行き詰まるまで何の行動もとれない、というようなことはないはずだ。

苦しんでいる人は、まず「自分が苦しいと感じる現在の状況」の構造を分析してみよう。
なぜ苦しいと感じるのか、「自分を取り巻く環境」と「自分の価値判断基準」の構造を把握してみる。
「どのような環境が負担を感じさせているのか」
「どのような心理が負担に感じているのか」
といったことを明確化する。

次に、耐えられるレベルに環境を変えることができるかどうか考えてみよう。
移動、休職、転職、どれも恥ずかしいことかもしれないけど、どれも死ぬほど苦しいことではない。
組合で問題として取り上げてもらうのもいいし、自分で改善する力がなければ改善案を提案できる友人に相談すればいい。

さらに、なぜ自分が耐えているのか分析してみよう。
どうして、苦しい、嫌だ、恥ずかしい、むかつく、へこむ、絶望する、などといったネガティブな感情を抱くのだろう。
自分の価値観を守ろうとして、抑圧を感じていないだろうか。
その価値観は、守るのに値することだろうか。

風を受けたバケツは転がるが、ザルはなかなか吹き飛ばない。
風の圧力に耐えられる強さを得る方法もあるけど、風通しを良くして圧力を逃す方法だってある。
小さなプライドのせいでストレスを感じている人もいれば、プライドの正体を見抜いて謙虚に行動する人が、ストレスをうまくかわしている場合もある。

自分を知るためにも、環境を知るためにも、論理的思考は必要だ。
問題解決能力に直結する。

長い間、日本では論理と論理をぶつけあう交渉ごとや、論理による組織改善は重視されていなかった。
論理ではなく、価値観を共有するという意味での納得、馴れ合い。
目標達成のための論理を優先せず、情緒的な立場から異論を述べる。

馴れ合いや情緒による判断も、共同体の維持に関しては有効な面があったのだろう。
だが、共同体が立ち行かなくなると、死ぬしか道がなくなる恐れがある(玉砕とか総括とか)。

生き延びるためには、自分の頭で判断し、自分の足で目的地に向かうことが必要だ。
その基盤が、論理的思考能力となる。
自殺者が年間3万人以上もいる状況を見て、施政者や教育者はどのように感じるのだろう。
どんな改善案を提示するのだろう。

私は、この状況を改善するには、「悩める人のゆでガエル化を阻止するための論理的思考能力の習得」が急務だと考える。
小中学生の頃から、授業の中で「世の中や自分の心の仕組みを考える」という授業を行えばいい。
教員に教える力がなくても、すぐれたテキストがあれば自習できる。


ふと思うのだが、激務で有名なコンサルティングファームの社員に自殺が多いという話を聞いたことがない。
もしかしたら、ロジカルシンキングに精通することが求められるコンサルタントたちは、自殺しないですむ方法を無意識のうちに見出しているのかもしれない。
論理的思考能力に乏しければ、自殺するリスクが高まる。
そういう調査結果が出れば、国も論理的思考を養うための科目を設けることを検討しはじめるだろうか。


※注 何だかもっともらしく書いてしまったけど、ぼくにはえらそうなことを言えるだけの論理的思考能力はない。かなりの初心者。

<参考>
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101206-00000082-jij-soci
■13年連続3万人超の公算=自殺者、2万9000人に―前年比では減少・警察庁
時事通信 12月6日(月)16時59分配信
 警察庁は6日、今年1~11月の全国の自殺者(速報値)は、前年同期比4.1%減の2万9105人だったと発表した。月別平均2645人で推移しており、通年ベースでは1998年以降、13年連続で3万人を突破する公算が大きくなった。
 ただ、昨年1年間の自殺者数(3万2845人)を下回るペースは続いており、月別では昨年9月~今年6月に10カ月連続で前年同期より減少するなどしている。
 1~11月の自殺者の内訳は、男性が2万499人、女性が8606人だった。都道府県別では、東京(2693人)が最多で、続いて大阪(1898人)、神奈川(1682人)など。一方、徳島(159人)、鳥取(167人)、福井(191人)などは少なかった。 


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

構造俳句宣言(趣味から芸術へ)

2010-12-04 17:17:04 | Weblog
芸術は、さまざまな表現方法を使ってバランスのとれた構造を示している。
音や色や金属や文字や身体などで示された斬新な構造を感じ取って、鑑賞者は反応する。

芸術作品に触れて、感動とか畏怖とか幸福などの印象を受けることは、料理を食べたときと似ている。
すばらしい、おいしい、味のバランスが絶妙、などと感想を述べることは、率直な感想だ。だが、それだけでは料理や芸術作品を正確に評価・分析しているとは言い難い。

どのような構成要素のバランスを肯定的に評価しているのか、その構造を説明してこそ、評価・分析を行っていると言える。
芸術作品そのものが示している構造を認識できず、作品を取り巻く人物や歴史、部分的なインパクトや印象に言及することは、感想や鑑賞を述べているにすぎない。

ところが、俳句の世界において、感想や鑑賞のレベルを超えていない言葉しか発しない人は多い。
「良い」「効いている」「絶妙」と言う言葉を使う人は多いが、どのような要素によるどのようなバランスがなぜ印象深く感じられるのか、その説明を行う人は少ない。

芸術に関わる人は概して表現に対して繊細だ。
あやふやな、なんと表現していいのか難しいことでも、最適な言葉や形を見つけ出して表現を行う。そこにオリジナリティもある。

そのような努力をしている人々が、なぜ自分の先入観や価値観に心地よく合致するものを安易に肯定してしまうのだろうか。
他の価値観を持った人々にも通用するような評価・分析が行えなければ、その芸術は多くの人々へ広がりを見せることは困難だ。

料理やワインを評価する人は、それらが示す魅力的な構造を示す言葉を持っている。
香りの多様性やバランス、味の奥行きや重なり具合、歯ごたえや舌触りの影響なども的確に示す。

俳句についても、その要素が示す構造の特徴やバランスを評価することができるはずだ。
それが一般化すれば、芸術としての俳句の評価も高まり、多くの人に共感してもらうことができる。

現在、芸術を志向する俳人は少ない。
季語や17音といった決まりごとを守れば、手軽にひとつの作品を形作ることができる。
その気軽さから足を踏み入れやすくても、形式にとらわれてしまい句に内包された構造に対して意識が向かっていない場合がある。

和装も、日本舞踊も、琴も、三味線も、お花も、日本画も、日本料理も、短歌も、俳句も、芸術を志向する人もいれば形式を守ることにつとめている人がいる。

形式を守る人は、形式を守らなければひとつの価値観のあらわれとして成立した分野が成り立たなくなると考える。
芸術を志向する人は、芸術として評価される構造に意味があると意識し、そのためには形式にとらわれないことがあっても問題ないと考える。

形を守る伝統芸能を習い事として維持していく人もいれば、伝統芸能の枠にとらわれず芸術的な構造を求めて表現活動を行う人もいる。

日本料理はエスニック料理ではなく、高品質な料理として認められるようになった。
伝統的な焼き物の盛んな土地で、芸術作品としての焼き物を作り続ける人もいる。
ファッション芸術の土俵で戦える表現としての和装を追求する人もいる。
俳句の世界でも、外国語で俳句を発表し、世界の詩人たちとの交流を続ける人が増えて行くだろう。

俳句を作りながら、俳句を構造的に分析し、芸術としての価値を評価することによって、俳句界を活性化させて行きたい。


・参考
角川学芸出版から角川SSコミュニケーションズに移って復刊となった「俳句研究」。
新編集長は37歳の女性らしい。
http://www.sscom.co.jp/haiku/index.html

先日、高柳重信著「俳句の海で―『俳句研究』編集後記集」という本を買った。
高柳重信はかつて俳句研究新社から発行されていた「俳句研究」の編集長だった。

高柳重信門下だった夏石番矢は「第2回東京ポエトリーフェスティバル2011」を実施する。世界各国から詩人や俳人、歌人などが集まって観客の前で朗読を行う。
http://www.geocities.jp/tokyopoetry/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本ユニセフ協会やワールドビジョンにお金を払わせる方法

2010-12-02 23:06:19 | Weblog
GoogleやYahoo!で「寄付」「募金」「ボランティア」などを検索すると、
検索結果が表示された上のほうや右側に、日本ユニセフ協会やワールドビジョン、日本盲導犬協会やプラン・ジャパンなどの団体のリンクが出てくる。
これはテキスト広告だ。
クリックすると寄付や募金を求めるページが開く。

Googleの広告はアドワーズ、Yahoo!の広告はオーバーチュアが担当。
GoogleやYahoo!の検索結果ページに広告を出したい法人は、アドワーズやオーバーチュアに申し込む必要がある。

登録したキーワードに応じて、広告が表示され、それぞれのキーワードの単価×クリックされた回数が広告費になる。
登録しておいた月別予算がなくなり次第、広告は表示されなくなる。

「寄付」「募金」「ボランティア」などといった大きなキーワードは、単価が100円、200円になることもめずらしくない。
「援助貴族」で検索してもワールドビジョンの広告が出てくるけど、これはマイナーな単語なので単価は数円かもしれない。
「人助け アフリカ」などの複合キーワードも何十円かするだろう。

Gooeleで「寄付」を検索して、日本ユニセフ協会やワールドビジョンなどの広告をクリックすると、1クリックにつき100円以上のお金がアドワーズに入る。
日本ユニセフ協会やワールドビジョンは、募金から捻出した広告費を消化する。

もし、日本ユニセフ協会やワールドビジョンの広告が目障りだ、という人がいたら
無視しないで、広告をどんどんクリックすればいいかもしれない。
彼らは広告費をどんどん浪費してしまう。
予算の限度額まで浪費すればもう広告が表示されなくなる。

日本ユニセフ協会やワールドビジョンがいくら広告費を使っても思うような寄付を集めることができなければ、大規模な広告の効果を疑問視して、広告宣伝に頼った募金集めを控えるようになるかもしれない。

そんなことをふと思ったのは、ミャンマーで奮闘する吉岡秀人医師のブログで
「12月19日(日)か12日(日)放送の情熱大陸に3回目の出演をする」
という記述を見たからだ。
http://japanheart.exblog.jp/13616672/
ぼくは吉岡秀人さんの働きを尊敬、共感しているので、吉岡さん率いる「ジャパンハート」(途上国の子どもたちを救う国際医療団)を支援する会員に登録している。

喜捨精神とか信仰熱心とか居場所探しとか達成願望などといったありきたりの言葉からかけ離れた、もっと深い痛み、迷い、悩み、体験、発見、喜びなどが吉岡秀人さんの奮闘に見出せる。
惰性とか組織の歯車とか保身とか信仰にからめとられず、アイデアをひねり、苦しみ、突破し、変化を続け、多くの人の心を動かしている。

だから、テレビ局や制作会社の人も注目し、何度も取材を行っている。
おそらく、吉岡さんのもとに多くの共感が寄せられ、資金や物資も支援されるだろう。

それに比べて日本ユニセフ協会やワールドビジョンやプランジャパンはどうだろう。
毎月引き落としの会員を増やして継続的にお金を得る方法を工夫したり、マーケティング調査に基づいて同情をさそう写真を広告に使ったり。
支援のために末端のスタッフがどのような活動を行っているのか、そのすべてをテレビカメラの前に見せることはできるのだろうか。
見られては困る活動姿勢や数字はないのだろうか。

もし、隠すところがないのであれば、ノンフィクションライターやノンフィクション番組制作会社の人たちを招待してはどうだろうか。
きっと、日本ユニセフ協会やワールドビジョンのすばらしいところを見出してくれるだろう。
本や番組の影響で寄付がどんどん増えるかもしれない。

ほんとうに身を削って悪戦苦闘試行錯誤し、人々の未来を切り開く努力をしていると知られたら、援助貴族とか寄付ビジネスなどと言って敬遠されることもなくなると思う。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする