世界各地で、献身的に人々のために働いている人がいる。
苦しい思いをしながらも、志高く、身を粉にして活動している。
ところが一方で、恵まれない人を助けるという大義名分のもとに大きな組織をつくり、その組織を維持することが目的になってしまっているような団体もある。
いろんな立場から、援助について疑問を抱く人は多い。
・From the Land of the Lagoon
「タダであげるということの功罪」2010年08月03日
http://bakunam.blog64.fc2.com/blog-entry-156.html
> 本来、モノを無料であげるという諸々の活動を含め、人道・緊急支援というものは、
> それがなければ人権や尊厳が侵されるという状況下でのみなされるべき性質のもの
> である。言わば強度の痛みにさらされた患者にモルヒネを注射する様なものだ。
> なぜなら、そうした活動は問題を作り出す原因そのものを何ら解決しないどころか、
> そうした問題に直面した人々の自主的な取り組みを阻害するものであるからである。
・マザーハウス 山口絵理子代表 -志をかたちに-
http://www.globis.jp/625
> 国際機関で働くことは大きな目標だ。山口氏もまた、「正職員になりたい」という
> 意気込みで渡米したという。
> だが、現実は理想とはかけ離れていた。「『心でなく頭で仕事をしている』と強く
> 感じました。支援金は驚くほど莫大な額だけれど、『それが本当に人々を幸せにして
> いるんだろうか』という想像力がない」。胸の中にもやもやした不満が募り、「自分の
> 目で確かめたい」との思いにかられた。
・ハーバードケネディ&スタンフォード MPA/MBA留学記
「援助貴族」2008/07/30
http://shanindonesia.blog94.fc2.com/blog-entry-5.html
> なんでも、UNDPの国際採用の職員たちは、ホテルのようなハイエンドな邸宅に
> 住んでいるらしい。
> 出発前から、「援助貴族」という言葉は聞いていた。いわく、発展途上国で一番豊かな
> 暮らしをしているのは、えてしてその国の開発援助に来ている援助機関の職員だと。
> でも、実際に見てみるとやっぱりなにか変だ。なんというか、ちくちく胸が痛む。
・発展途上国の子供を救え!小児外科医吉岡秀人の戦い
「悪貨を駆逐する」2010-07-15
http://japanheart.exblog.jp/12951653/
> おじさんおばさん達が、善意で行っている小さな規模のうちは、独断と
> ”のぼせ”はあっても、あまり悪く言う気にはなれない。なぜなら、
> 周りがどう思っているかはともかく、本人たちはいたって善意に満ちているからだ。
> しかし、組織が大きくなって、巨大化してくるとそうは簡単でなくなる。
> うそも悪いことも確信犯的になる。
> 今までいかに多くのうそを目撃してきたか。
> それをいちいちけなす気はない。まあ、言ってみても仕方ない。
> 否定しあえばはむしろ、自分の発展を妨げる結果を生む。今の政治を見るようだが。
思い出すのは、1992年に朝日新聞社から発行された『援助貴族は貧困に巣喰う』という本だ。
「エコノミスト」誌アフリカ特派員や「ニュー・インターナショナリスト」誌共同編集長を務めた後、1970年代初め第三世界の数か国でボランティアとして働いたグレアム・ハンコックは、国際援助について鋭い問題提起を行った。
そのとき突きつけられた問題はいまだに解決されていない。
国連をはじめとする国際機関の腐敗が問題視され、巨大化した援助機関は組織の維持を目的にしがちだ。
『援助貴族は貧困に巣喰う』p323~324から少し引用しよう。
「結論にかえて-援助は助けない」という章の一部分だ。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
この本でもう何度も詳しく論じたように、援助はしばしば貧しい人々にとって著しく危険であり、彼らの利益に有害である。援助は、環境を荒廃させ生活を破壊する高価で恐ろしいプロジェクトをお金で支えてきた。残虐な先生権力を支持し、合法化してきた。援助は、自分の利益のために働く偽善者たちの大群をスタッフとする幻想的でビサンチン風の官僚組織を生み出した。援助は、ふつうの民衆のイニシアチブ、創造性、企画力・実行力を破壊して、その代わりに、表面的で上滑りで見かけ倒しの外来の浅知恵を押し付けてきた。企業家や知識人になる能力のある第三世界の人々を非生産的な行政活動にからめとってしまった。援助は、国際問題に「道徳的音色」を導入したが、この「道徳的音色」なるものは富の想像という大仕事を否定し、自力更生の厳しさに代えて、安易な掴み金を持ち込んだ。そのうえ、第三世界全体を通じて、援助は勝手に権力を握った官僚が、民衆の選択と個人の自由を圧殺するのを許してきた。
援助には支持者がいる。まず、雇用主である援助機関がこれからも存在することを合理化するため、毎年何百万ドルも使い続ける高給の男女のPR係がいる。こうした職業的コミュニケーション要員たちは、この本の自明な結論――援助は時と金の浪費であり、援助の結果は根本的に悪いものであり、増やせばいいどころか、これ以上損害を与えないようただちに停止されるべきだという結論――を頭から拒絶するだろう。
こうしたことを提案すれば、ロビイストたちは、恐ろしがり、驚き、肩をすくめる。彼らは抗議する――いくつかの遺憾な出来事はあったにせよ、援助は成功もしているから正当であり、本質的には役に立つと。何より重要なことは貧乏な人々は援助なしでは生き残れないのだから援助を止めてはならない――ここで感情に訴え、心の琴線に触れようとする――と彼らは情熱をこめて論じる。ブラント委員会はこの考え方の古典的実例である。委員会の最終報告は悪びれもせずわれわれに告げる。「最貧国にとっては、援助は生き残るために不可欠である」と。
だが、このような言い方は、貧しい国の民衆に保護者面をすることであり、彼らの価値を貶めるものである。さらに、こうした言葉が、「援助が役に立つ」とわれわれに信じさせようとしている人々の口から吐かれる場合は、論理的にも成り立たない。歴史を通じて、いや先史時代から、世界中のどの国も、どんな援助ももらわずに立派にやってきたのである。そのうえ、1950年代には、例えば1970年代より、ずっと少ない援助しかなかったのに、第三世界の国々はちゃんと生きていたし、援助が少ないからといってそれだけみじめだったわけでは決してなかったのだ。ところが、開発援助を50年近く続けてきたいまになって突然、このたくさんの同じ国々が、援助をますます増やしてもらわなければ一刻も生きていけない――生きていく能力を失った――というお話を聞かされるのだ。もし本当にそうであるなら――つまりもし開発の幾十年の唯一の目に見える影響が、したたかに生きていた人々をよるべない依存的な人々に変えたことであったとするなら、それは、いささかの疑問の余地なく、援助は役に立たないことを立証しているように私には思われる。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
さいしょはみんな善意からはじめた行動なのだろうけど、組織的に活動を行うと、組織の維持も重要な目的になる。人のために働くことよりも、自分たちの存在価値を高めるための活動に力が入ることもあるかもしれない。
ぼくはどう行動すればいいのかわからないけど、少なくとも現地で汗を流す人の姿が見える団体を応援したいと思う。
<参考>寄付をするなら、広告やDMで同情を買わせようとする団体は避けたい
http://blog.goo.ne.jp/ambiguousworld/e/0f9d4819fc09968943e9e8653f2fe5cc
苦しい思いをしながらも、志高く、身を粉にして活動している。
ところが一方で、恵まれない人を助けるという大義名分のもとに大きな組織をつくり、その組織を維持することが目的になってしまっているような団体もある。
いろんな立場から、援助について疑問を抱く人は多い。
・From the Land of the Lagoon
「タダであげるということの功罪」2010年08月03日
http://bakunam.blog64.fc2.com/blog-entry-156.html
> 本来、モノを無料であげるという諸々の活動を含め、人道・緊急支援というものは、
> それがなければ人権や尊厳が侵されるという状況下でのみなされるべき性質のもの
> である。言わば強度の痛みにさらされた患者にモルヒネを注射する様なものだ。
> なぜなら、そうした活動は問題を作り出す原因そのものを何ら解決しないどころか、
> そうした問題に直面した人々の自主的な取り組みを阻害するものであるからである。
・マザーハウス 山口絵理子代表 -志をかたちに-
http://www.globis.jp/625
> 国際機関で働くことは大きな目標だ。山口氏もまた、「正職員になりたい」という
> 意気込みで渡米したという。
> だが、現実は理想とはかけ離れていた。「『心でなく頭で仕事をしている』と強く
> 感じました。支援金は驚くほど莫大な額だけれど、『それが本当に人々を幸せにして
> いるんだろうか』という想像力がない」。胸の中にもやもやした不満が募り、「自分の
> 目で確かめたい」との思いにかられた。
・ハーバードケネディ&スタンフォード MPA/MBA留学記
「援助貴族」2008/07/30
http://shanindonesia.blog94.fc2.com/blog-entry-5.html
> なんでも、UNDPの国際採用の職員たちは、ホテルのようなハイエンドな邸宅に
> 住んでいるらしい。
> 出発前から、「援助貴族」という言葉は聞いていた。いわく、発展途上国で一番豊かな
> 暮らしをしているのは、えてしてその国の開発援助に来ている援助機関の職員だと。
> でも、実際に見てみるとやっぱりなにか変だ。なんというか、ちくちく胸が痛む。
・発展途上国の子供を救え!小児外科医吉岡秀人の戦い
「悪貨を駆逐する」2010-07-15
http://japanheart.exblog.jp/12951653/
> おじさんおばさん達が、善意で行っている小さな規模のうちは、独断と
> ”のぼせ”はあっても、あまり悪く言う気にはなれない。なぜなら、
> 周りがどう思っているかはともかく、本人たちはいたって善意に満ちているからだ。
> しかし、組織が大きくなって、巨大化してくるとそうは簡単でなくなる。
> うそも悪いことも確信犯的になる。
> 今までいかに多くのうそを目撃してきたか。
> それをいちいちけなす気はない。まあ、言ってみても仕方ない。
> 否定しあえばはむしろ、自分の発展を妨げる結果を生む。今の政治を見るようだが。
思い出すのは、1992年に朝日新聞社から発行された『援助貴族は貧困に巣喰う』という本だ。
「エコノミスト」誌アフリカ特派員や「ニュー・インターナショナリスト」誌共同編集長を務めた後、1970年代初め第三世界の数か国でボランティアとして働いたグレアム・ハンコックは、国際援助について鋭い問題提起を行った。
そのとき突きつけられた問題はいまだに解決されていない。
国連をはじめとする国際機関の腐敗が問題視され、巨大化した援助機関は組織の維持を目的にしがちだ。
『援助貴族は貧困に巣喰う』p323~324から少し引用しよう。
「結論にかえて-援助は助けない」という章の一部分だ。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
この本でもう何度も詳しく論じたように、援助はしばしば貧しい人々にとって著しく危険であり、彼らの利益に有害である。援助は、環境を荒廃させ生活を破壊する高価で恐ろしいプロジェクトをお金で支えてきた。残虐な先生権力を支持し、合法化してきた。援助は、自分の利益のために働く偽善者たちの大群をスタッフとする幻想的でビサンチン風の官僚組織を生み出した。援助は、ふつうの民衆のイニシアチブ、創造性、企画力・実行力を破壊して、その代わりに、表面的で上滑りで見かけ倒しの外来の浅知恵を押し付けてきた。企業家や知識人になる能力のある第三世界の人々を非生産的な行政活動にからめとってしまった。援助は、国際問題に「道徳的音色」を導入したが、この「道徳的音色」なるものは富の想像という大仕事を否定し、自力更生の厳しさに代えて、安易な掴み金を持ち込んだ。そのうえ、第三世界全体を通じて、援助は勝手に権力を握った官僚が、民衆の選択と個人の自由を圧殺するのを許してきた。
援助には支持者がいる。まず、雇用主である援助機関がこれからも存在することを合理化するため、毎年何百万ドルも使い続ける高給の男女のPR係がいる。こうした職業的コミュニケーション要員たちは、この本の自明な結論――援助は時と金の浪費であり、援助の結果は根本的に悪いものであり、増やせばいいどころか、これ以上損害を与えないようただちに停止されるべきだという結論――を頭から拒絶するだろう。
こうしたことを提案すれば、ロビイストたちは、恐ろしがり、驚き、肩をすくめる。彼らは抗議する――いくつかの遺憾な出来事はあったにせよ、援助は成功もしているから正当であり、本質的には役に立つと。何より重要なことは貧乏な人々は援助なしでは生き残れないのだから援助を止めてはならない――ここで感情に訴え、心の琴線に触れようとする――と彼らは情熱をこめて論じる。ブラント委員会はこの考え方の古典的実例である。委員会の最終報告は悪びれもせずわれわれに告げる。「最貧国にとっては、援助は生き残るために不可欠である」と。
だが、このような言い方は、貧しい国の民衆に保護者面をすることであり、彼らの価値を貶めるものである。さらに、こうした言葉が、「援助が役に立つ」とわれわれに信じさせようとしている人々の口から吐かれる場合は、論理的にも成り立たない。歴史を通じて、いや先史時代から、世界中のどの国も、どんな援助ももらわずに立派にやってきたのである。そのうえ、1950年代には、例えば1970年代より、ずっと少ない援助しかなかったのに、第三世界の国々はちゃんと生きていたし、援助が少ないからといってそれだけみじめだったわけでは決してなかったのだ。ところが、開発援助を50年近く続けてきたいまになって突然、このたくさんの同じ国々が、援助をますます増やしてもらわなければ一刻も生きていけない――生きていく能力を失った――というお話を聞かされるのだ。もし本当にそうであるなら――つまりもし開発の幾十年の唯一の目に見える影響が、したたかに生きていた人々をよるべない依存的な人々に変えたことであったとするなら、それは、いささかの疑問の余地なく、援助は役に立たないことを立証しているように私には思われる。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
さいしょはみんな善意からはじめた行動なのだろうけど、組織的に活動を行うと、組織の維持も重要な目的になる。人のために働くことよりも、自分たちの存在価値を高めるための活動に力が入ることもあるかもしれない。
ぼくはどう行動すればいいのかわからないけど、少なくとも現地で汗を流す人の姿が見える団体を応援したいと思う。
<参考>寄付をするなら、広告やDMで同情を買わせようとする団体は避けたい
http://blog.goo.ne.jp/ambiguousworld/e/0f9d4819fc09968943e9e8653f2fe5cc