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波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

中国人は信用できないか

2011-01-15 21:59:42 | Weblog
むかし、山本夏彦とか山本七平などの著作は読まなかった。
保守派言論人の本を読んでいたら右翼だと言ってバカにされるのではないかと思っていた。
だけど、革新派言論人が少数派になった何年か前にふと山本夏彦さんや山本七平さんの本を読んだら、意外にリベラルなことに驚いた。
むかしはこの程度で右翼だと文句を言われていたのか、と意外に感じた。
べつに閉鎖的でもなければ独善的だとも思えなかった。

保守派言論人を毛嫌いする人は多い。
退職した元上司も、小林よしのりのことを蛇蝎のように嫌っていた。
とても温厚で品のいい紳士なのだが、小林よしのりのことになるとちょっと下品な表情を見せた。

もしかしたら、櫻井よしこさんを拒絶する人も多いかもしれない。
SAPIOや正論に書いているので、この人も保守派言論人だとみなされている。

保守派言論人の中には自国中心的な人や独善的な人、排他的な人もいる。
ただ、社会主義に批判的で中国共産党や旧ソ連と対立しただけの、開明的な人も多いのではないだろうか。

櫻井さんも、中国のことを俎上にのせても、中国の国民性を否定しているわけではない。
中国くらいたくましくならないと、日本人も生きていけないよ、と言っているように読める。

ぼくはむかし、中国人とかベトナム人は商売熱心だからとてもじゃないけど日本人は太刀打ちできないのではないかと思っていた。
日本人に偽物の骨董品を売りつけるなんてひどい人たちだ、とも感じていた。

ところが、実際に中国やベトナムを旅すると、知識も判断力もなく無防備にやってくる日本人が騙されてもそれはしかたがないだろうと思うようになった。
コミュニケーションのとり方は、相手の姿勢によって変化する。
何も知らない日本人が、何も知ろうとしないで市場を歩いていたら、そういう人向けの値段を提示される。

中国人やベトナム人と同じ目線で行動し、同じように人と人としてせめぎあえば、意外に彼らに負けることはない。
タイミングを見計らってじりじりと2ミリ3ミリと進めばどんな混雑でも目標にたどり着くことはできる。
ただ、そういう状況を遠目に見て、今日もチケット買えなかった、などと言うやる気のない日本人がけっこういることも事実だ。

中国に関してのアンケートで、87%の人が中国を信頼できないと答えたようだけど
彼らのうちのどのくらいの人が、中国人と競ったことがあるのだろうか。
中国に対してよくない感情を持つ人はぜひ中国に行くべきだ。
中国の人と競うことは、日本人のコミュニケーション能力を高めることに大いに役立つはずだ。

中国のことを知ろうともせず、中国を否定しようとする人が増えれば、日本人は判断力も競争力も劣化するばかりだと感じる。

もしも、異質な人を理解しようとする人が増えないのであれば、日本はまた鎖国政策をとるしかないのではないだろうか。
TPPを拒否するということは、鎖国を選ぶということかもしれない。
(べつに、いいともわるいとも思わない。好きなようにしてもらえばいい。特異な変態文化が高度な芸術に成長を遂げるかもしれない)

今年の旧正月(春節)は2/3木。
平日だから、友人宅で餃子パーティーをするのはちょっと難しいかな。


<以下引用>
http://news.livedoor.com/article/detail/5229427/
■嘘つきと裏切り 日本人は「恥ずかしい」で中国人は「賢い」
櫻井よしこ
2010年12月24日10時00分
提供:NEWSポストセブン
尖閣問題を受けた世論調査では、現在の日中関係を「悪い」と回答した人が実に90%にのぼり、87%の人が中国を「信頼できない」とした。だが、ジャーナリストの櫻井よしこ氏は、中国の「嘘と裏切り」が、その軍事力・経済力を背景に、新たなフェーズに入ったと指摘する。
* * *
1978年4月、その夏の日中平和友好条約締結を前に、100隻以上の武装中国船団が尖閣諸島付近で領海を侵犯。当時、小平氏は「偶発的な出来事」と弁明し、「このような事件を2度と起こさない」と日本に確約しました。この時日本は尖閣諸島問題を解決する好機を逃し、一方で、巨額のODAを中国に与え始めたのです。

そうして中国の成長を助けてきた日本が、いまや「衝突は日本側のせい」などという嘘によって、謝罪と賠償まで要求される側になってしまいました。なぜこれほどまでに日本は負け続けてきたのか。

それは、日本政府も日本国民も「中国とはどんな国なのか」を真に理解していないからだと考えます。

日本人は「嘘をついてはいけない」「人を騙したり、裏切ったりするのは恥ずべきことだ」と教えられて育ちます。しかし、中国人の常識はまったく逆で、嘘をついたり人を裏切ることは「賢いこと」なのです。

『孫子の兵法』で、孫子が最上の勝ち方としているのが、謀略です。上手に嘘をつき、騙すことが尊ばれる。中でも「二重スパイ」が、一番価値が高いとしています。

歴史において、「中国」という国名の国は実は存在してこなかったのです。私たちが「中国」と呼ぶその地域には数千年も前から、さまざまな民族が侵入し、各々、独自の王朝を作って君臨しました。支配したのは、必ずしも今の中国を支配する漢民族ではなく、蒙古人だったり満州の女真人だったりしました。

彼らはそれぞれ何世紀かにわたる繁栄を築き、衰退し、新たな民族の台頭で滅びていきました。そして王朝が変わるたびに、歴史が時の為政者に都合よく書き換えられてきました。

中国にとっては、歴史は勝った側が作るもの。事実や真実には意味がなく、いかなる手段でも勝てばいいと考えるのが、彼らの常識です。

島国であり、戦国時代など一時期を除けば安定した社会が長く続いた日本で、正直さや誠実さが尊ばれてきたのとはまったく違うのです。

※SAPIO2011年1月6日号


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異文化理解とか共生とか・・・差別者を疎外しない

2011-01-15 21:25:01 | Weblog
ぼくは、差別者をとがめる必要は無いと考えている。
価値が無いと判断して見下し、疎外すること自体が差別なのだから。
差別する者を差別しても、差別する者と同じ地平にとらわれたままだ。

ぼくは差別をする人に気がつくと、残念に思う。
自分を差別的に扱う人を見ると不愉快になることだってある。
だけど、差別者を犯罪者のように扱って拒絶し、見下してしまえば、
自分と価値観の一致しない人を排除する差別者と同じ行為をしていることになる。

差別する人がいたら、差別する人のことを理解したい。
「そうだよね、見慣れない人のことは意識してしまうよね」
「わかるよ、考え方の違う人の行動はなかなか理解しがたいよね」
そういった言葉を発してから、なぜ、差別者が誰かを否定したり疎外してしたり見下したりしてしまうのか、認識したい。

差別者をどなりつけ、犯罪者であるかのように否定し、嘲笑してルールの中に閉じ込めても、差別者や被差別者が賢くなることはない。

差別者自身が、なぜ何かを否定したり拒絶したりしてしまうのか、思考の因果関係を認識することができれば、やがて狭い価値観で何かを否定したり見下したりすることが解消されていくのではないだろうか。
そうすれば、自分の考え方や行動パターンや容姿が異なる人や劣る人も見ても攻撃を行わなくなる。

差別は絶対に許されないことだと認識する人は多いけど、数式や化学式で証明できない。
ひとつの価値観だからだ。

実際のところ、世の中の人の多くは、社会問題として表出する差別構造のほかにも、多くの差別的構造があることを意識していない。
社会な問題になっていないからといっても、人のことを容姿や収入や学歴や職業や思想信条や犯罪歴などで区別するのは潜在的な差別問題だ。
差別者でも被差別者でも、差別をしていない人はほぼいないと言っていい。

差別を許せない人は、差別者をつかまえて、
「差別は許されない犯罪的行為だということを意識していませんでした。申し訳ありません」
と謝罪させれば、溜飲を下げるだろうか。

でもそれは、差別者と同じレベルの思考だ。
差別者も、被差別者も、差別を超越した段階に意識を発達させることができるはずだ。
差別を克服、超越した人であれば、差別者をとがめたりしないだろう。



最近、在日朝鮮人研究の専門家だという原尻英樹教授の本を何冊か読んでいる。
とても興味深く楽しく読ませていただいているが、ときどき気になる記述がある。

はたして、原尻さんが生野区長や大泉町長になったとしても、多民族間における異文化理解や共生は進むのだろうか。
原尻さんが「問題」として取り上げる事象は解消するのだろうか。

私は、解決は難しいのではないかと感じる。
物理的制約、人手不足、人材不足、指導力不足なども影響するかもしれないけど、
共生とはどういうことなのか、原尻さんがどう定義しているのか疑問がある。

日本社会に問題があると言っているように見えるけど、日本社会の受け入れ態勢を変化させれば問題は解決するのだろうか。
相手のことを否定せずきちんと認識して受け入れれば、相手も自分たちのことを否定しないで受け入れるのだろうか。

また、原尻英樹先生にとっての共生とは何だろう。
在日韓国朝鮮人社会の研究家として在日韓国朝鮮人の信頼を得ているかもしれないけど、同調してしまうことなく、きちんと在日韓国朝鮮人に意見を伝えることをされているだろうか。
在日韓国朝鮮人の社会にも、日本や韓国の被差別民に対する差別や出身地域差別がある。
日本と同じく歴史を都合よく修正することもある人々について、きちんと意見を言っているのだろうか。
論理ではなく情緒で判断するということはいかにもあいまいな日本人的だ。

共生を言うのであれば、保守派言論人とか都会的芸術家とか退廃的音楽家や幼女愛好家などともコミュニケーションを取っていらっしゃるだろうか。
まさしく彼らは異文化にいる人間ではないだろうか。

保守派言論人を見下し、攻撃する人に共生を言う資格はあるだろうか。
「まっとうな人」という語を多用する人は、その語をどう定義しているのだろう。
安易に「自分の価値観でまっとうと思えない人」を見下したり攻撃したりしていないだろうか。

さらに、日本国内の少数派、在日外国人や辺境地域人に共感するのはいいけど、
日本社会におけるナショナリズムと、マイノリティー社会におけるナショナリズムには類似形が見出せるのではないか。

日本のナショナリズムに不安をおぼえるのであれば、沖縄独立を志向する琉球ナショナリストや朝鮮人ナショナリスト、済州島ナショナリスト、沖縄に反発する先島・八重山ナショナリストにも不安をおぼえるべきではないだろうか。

千年前には琉球という国もなかったし、アイヌ人・アイヌ文化も成立していなかったし、在日韓国朝鮮人の半数ほどのルーツがあると言われる済州島も独立国としての過去を楯に半島の勢力に抵抗していた。

国家、地域、家族、自分、などの枠組みで固定されるナショナリズムのような自己肯定から解放されていない人が、特定の国家ナショナリズムによる制約を打破しようとしても、永遠に問題は解決できないだろう。
わだかまりや問題を解決したいのであれば、日本という国家を強く意識する前に、世の中の構造を意識するべきではないだろうか。

地球が滅び行くことに耐えられない人がいる。
日本という国家が滅びゆくことに痛みを感じる人がいる。
育った地方の文化が消滅していくことに危機感を感じる人もいる。
生まれ育った集落が消滅することに喪失感を感じる人もいる。
信仰する宗教団体の危機に身を投げ出す人もいる。
参加する政治団体の消滅に必死に抵抗する人もいる。
家族が救えるなら自分はどうなってもいいと言う人もいる。
自分が殺されそうになればなんとしても生き残ろうとあがく人は多い。

同じように、
日本という国家による抑圧に耐えられない苦しさを感じる人がいる。
家族という枠組みによる抑圧からの解放を望む人もいる。
生まれ育った地域や団体をはなれて、忘れ去ればいいのではないかと思うけど
延々と名残惜しいかのように文句を言い続ける人もいる。

本当はどれも、自分という存在の領域がどこにあると認識しているかということの、
程度の差でしかない。
ぼくから見れば、アジア主義者も国粋主義者も地域ナショナリストも宗教信者も社会運動家も愛妻家も、自分の所属する領域を守ろうとする、保守的な人々であることに変わりない。
程度の差こそあれ、誰だっていくらかは保守的だ。

日本が滅びてもしょうがないかもね、そうなったらべトナムに移住しようかな。
地元の集落がなくなってもしょうがない。衰退にはただ因果関係があるだけだ。
資本主義や共産主義が支持を失っても妥当。視野の狭いところでいらついても仕方ない。
自分がいなくなっても大きな影響はない。渦巻きか竜巻が一つ消えることに似ている。
などとつぶやく人から見れば、
進歩派とかコミュニストとか過激派とか、前衛芸術家すら保守的だ。

自称進歩派とか保守派嫌い、ナショナリスト嫌いの人たちは、ほんとうは保守派の人たちと大差ない。
似ているからこそ、立ち位置の近い人たちに自分の中の認めたくない嫌な部分を見出して否定しているようにも見える。

中国や韓国の人が日本の残虐性を言うときに例に挙げる殺人方法は、中国や韓国で伝統的に残虐な方法として知られている方法であることが多い。
原尻さんが論敵を咎めるときに使う言葉は、本人が無意識の中で自分の弱点だと認識していることではないかと感じられることも多い。

そんなことをふと思った。
すみません、飲みすぎて適当なことを書いて。


追記
もしぼくが非武装平和主義者であれば、自宅に鍵もかけないし監視カメラも用意しない。
筋を通したいから。
実際、2週間留守にしていてアパートに戻ったら鍵があいていたこともある。
今もドアの鍵を閉めていない状態だ。
盗まれて困るのものはないから平気。
国家という枠組みを疑うなら、自分という枠組みも疑っていい。
(世界は相似形に満ちている)

もちろんぼくは非武装平和主義者などではない。彼らよりよほど平和的だけど。
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季語を意識しない理由

2011-01-15 19:54:19 | Weblog
料理には季節感、音楽にはジャンル分けが必要だろうか。

作られた料理は、素材や温かさによって、季節感別に分けられことが可能だろう。
音楽も、曲調や使用楽器などによって、何かのジャンルに分類されることが多い。

だが、どのジャンルにも分けられないことを理由に、おいしい料理が疎外されることはない。
おいしかったり美しかったり興味深く感じられることがあれば、
料理とか音楽とかダンスや絵画などといった芸術的表現として評価してもらうことが可能だ。

ときには、季節感や特定のジャンルをテーマに、料理や音楽を作ることだってあるだろう。
無限に広がる創作の世界では、何か入り口を指定されたほうがとっかかり易い場合もある。
テーマを絞ると、何人かの人と競作を楽しむこともできる。

人々が集まった席で創作を競いゲームのように楽しむ場合は、テーマが必要だ。
共通のテーマを使うことによって場を共有し、ゲームを盛り上げることができる。

ただ、作品が単体で評価されるときには、必ずしもテーマに沿っていなくてもいいのではないだろうか。
芸術として認められているレベルに達しているかどうかということを判断するときに、
テーマに沿っているかということは関係がない。

もちろん、和装コンテストに洋装の人がやって来たり中国料理バイキングにイタリア料理が入っていればルール破りだと言われるだろうけど、
ファッションショーや料理コンテストの世界では、和装だろうが洋装だろうが、中華だろうがイタリアンだろうが、すばらしい作品であれば価値を認められる。

もし、「日本料理はすべて四季のいずれかに分類できる」とか
「クラシック音楽は伝統的な楽器だけで表現するものだ」などと規定された場合、
日本料理とかクラシック音楽というジャンルの中で競い合うにはいいけど、
料理とか音楽といったフィールドで、他のジャンルの料理や音楽と闘えるだろうか。
季節感や使用楽器に固執するあまり料理や音楽の芸術性をないがしろにしてしまう恐れはないだろうか。

創作の「とっかかり」となるテーマにとらわれるあまり芸術性を失い、形式的な作品を乱造することになれば、何のための「とっかかり」なのかわからない。

俳句の世界においても、季語にとらわれすぎることは俳句の発展にとって足かせになる可能性がある。
季語と575を守れば芸術作品ができるわけではない。

明治28年(1895年)10月27日の新聞「日本」に正岡子規はこう書いている。
「一 俳句には多く四季の題目を詠ず四季の題目無きものを雑(ぞう)と言う」

ここでは、無季のものは俳句とは言わない、とは言っていない。
芭蕉にも蕪村にも無季の句はあるから、全否定はしないのだろう。

正岡子規を継いで戦前の俳句の世界で支配的となった高浜虚子が、無季の否定を前面に押し出した。
「無季の句、もしくは季の働きの無い句は俳句ではない」
とはっきり述べている。
これは、虚子によるひとつの俳句のあり方の発見だろう。
虚子によって現代の俳句が確立されたと言ってもいい。
ただ、それは誰々によって現代の懐石料理の決まりごとが確立された、と言うようなものであって、それを守れば日本料理はその芸術性を高め続けることができる、ということではない。

私は、基本的に季語に固執しない。
「山笑う」(春)とか「亀鳴く」(春)とかさまざまな季語があるが、そういった言葉が現代の若い人に通じるだろうか。外国の人に理解できるだろうか。

季語と認識されている言葉は非常に多く、季語にこだわらなくても何らかの形で季語を取り込んでいることは多い。
気候、風景、食材、イベント、あらゆるものが季語になっている。
季語を使わないで句を作るのが難しいほどだ。

芸術性を求めるために、あえて私は歳時記を持たない。
通常、俳句をやる人で歳時記そを持っていない人はないのだが、あえて、歳時記のないところから俳句を探るために、自分を試している。
(ただ、『現代俳句キーワード辞典』-夏石番矢著 は大事に持っている)

俳句が詩として、文学として、芸術作品として切磋琢磨して行くためには、季語という枠組み以前について考える必要がある。

言語とは、形式とは、構造とは、バランスとは、などといったことを意識し、
俳句作品においてキーワードとなっている語がどのような働きをしているか把握することが必要ではないだろうか。
季語を頼りにしても、独創的な視点や特徴あるバランスは生じない。
575や季語といった形式は、制約として意識してもいいが、頼りにしては芸術から遠ざかってしまう。
不安でもぼくは形式を頼りにせず、手探りで俳句のバランスを追求して行きたい。


追記
卑近な例で申し訳ないが、つい先日曇天下の高層ビル群をながめていたときに出てきたこの句は、晩冬の季語である雪の冷たさや美しさを主なテーマとはしてない。

 水墨画ときには雪の新都心

モノトーンの世界の調和、古典の世界に見出せる現代性、隠された表層の奥にある活力、などを連想している。
雪景色を水墨画に見立てた初心者の稚拙な句と分類されてもしかたないが、
都心あるいは水墨画をキーワードとして句のバランスを読み解いてもらったほうが、理解しやすいと思う。


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