波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

説教

2018-01-30 22:35:35 | Weblog
「一瞬いい?」と言う言葉をときどき耳にする。
「一瞬」というのはどの辞書を見ても、瞬間的な短時間のことだが、なぜか「少しの間」という意味で使用する人が少なくない。
なぜ「ちょっといい?」ではなく「一瞬いい?」と言うのかわからないが、広い世代で、「一瞬」を少しの時間、数分、といった感覚で使う人がいるようだ。

同じように、「説教する」という言葉にも違和感がある。
本来、ありがたい教義やる考え方を理解してもらえるように言葉で説明することかと思うが、「威圧的な言動で圧力をかける」「叱りつける」という、知的ではない行為を説教と表現する人も少なくない。

荒い言葉で威圧的にうるさく注文をつけることは、説教ではなく、ただの圧力的言動だ。
「説教してやる」と言われてガミガミ言われた後に、「説教をしていただけるとのことでしたので、威圧的言動ではなく説教をよろしくお願いします」と言う人がいてもおかしくはない。


<参考>
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/13322/meaning/m0u/
■いっ‐しゅん【一瞬】の意味
出典:デジタル大辞泉(小学館)
一度またたきをするほどの、きわめてわずかな時間。刹那 (せつな) 。副詞的にも用いる。「一瞬の出来事」「一瞬目を疑った」

https://dictionary.goo.ne.jp/jn/124314/meaning/m0u/
■せっ‐きょう〔‐ケウ〕【説教】の意味
出典:デジタル大辞泉(小学館)
[名](スル)
1 宗教の教義・教典を、信者などに、口頭で説き明かすこと。また、その話。「牧師が礼拝で説教する」
2 教え導くために言い聞かせること。また、堅苦しい教訓をいう語。「親に説教される」




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沖縄独立論

2018-01-28 08:39:41 | Weblog
沖縄で独立に関する住民投票を行えば、どういう結果が出るだろう。
おそらく独立賛成は少数だろうが、今後、教育機関やメディアが民族意識を高めて行けば、過半数を超えるようになるかもしれない。
その時は沖縄が独立することを認めてあげてもいいのではないだろうか、と夢想する。

ただ、私が言っているのは、「沖縄独立」だ。「琉球独立」ではない。
ここで言う「沖縄」とは、ユネスコで言う「沖縄語(うちなーぐち)」が話されている地域。沖縄本島の南半分だ。
沖縄本島の北半分には、かつて北山王国が存在していた。
その地域の言葉は、「国頭語(くにがみご)」と言われている。

琉球王国は、侵略者だった。
沖縄本島南部の勢力が、北部を侵略した。さらには奄美大島や宮古島、八重山諸島といった言語にも文化にも植生にも違いのある島々を武力で侵略し、植民地化し、同化を図った。

そういった記憶を隠蔽し、琉球王国のテリトリーを基準に考えた琉球独立論や琉球独立宣言は、沖縄本島南部以外の支持を得ることは難しい。

2013年に琉球民族独立総合研究学会を設立して注目された松島泰勝さん(龍谷大学経済学部教授)の『琉球独立論』『琉球独立宣言』を眺めていると、被害者意識というか、日本政府に対する不満について多くのページが割かれている。
「不当な扱いを受けているから独立するよ!」というような発言が多い。「まっとうな扱いを受けるのであれば独立しないよ」という主張も入っているのだろうか、とも感じる。

それにしても、琉球王国の加害者としての立場に関しては自覚が少ないのではないだろうか。
ようやく『琉球独立論』最終章の後ろの方に、次のような記述がある。

P.281
> 王国や沖縄島の人々による支配や差別の歴史を無視した琉球独立論は、沖縄島、首里・那覇中心の独りよがりの独立論と言われてもしかたがありません。
P.282
> 日本による侵略・併合と植民地化の清算を掲げた「琉球独立論」は、何よりも内なる「帝国主義的感性」を克服したものでなければなりません。そして、それを社会制度的に担保するための鍵となるのが「自治」という理念です。
>  まず、琉球独立の際には、各島嶼の人々が自己決定権を行使し、「琉球連邦共和国」に参加するのかどうかを決める住民投票の実施が不可欠です。

上記のような箇所を見ると、少し意表を突かれて脱力してしまう。
「琉球人による琉球人のための琉球独立」、という強い意志が弱まり、尻すぼみになっている。
島々の自治の重視された連邦共和国でいいのであれば、自治の重視された日本連邦共和国を目指しても同じではないか?とも感じる。
日本連邦共和国がダメで、琉球連邦共和国がいい、という判断の基準は何だろう。

『琉球独立宣言』にも弱気?な記述がある。

P.226
> 琉球はかつての王国に戻るのではなく、共和制を採用するでしょう。沖縄島、そのなかでも那覇市を中心に他の琉球の島々が従うという政体ではなく、「一島独立」を理念とする連邦制が島嶼国に適しています。琉球連邦共和国として独立するかどうかは、島それぞれの住民投票で決定されるでしょう。八重山諸島、宮古諸島または西表島、与那国島だけで独立国になるのかもしれません。

琉球独立を主張している人の多くは、沖縄本島南部の人間だろう。
かつて琉球に侵略された離島の人は、同調しない可能性がある。
それなら最初から、琉球国の原型があった「沖縄」地域の独立を狙ってもいいのではないだろうか。
首里や那覇を中心とした、うちなーんちゅ(沖縄人)による、沖縄(うちなー)地域の独立だ。
土地面積は沖縄県の4分の1もないけど、沖縄県の人口の8割以上が住んでいる。

また、松島教授は一貫して「琉球」と「日本」を対立的に扱うが、日本列島の多様性についての記述が少ないことには違和感がある。
東北にも四国にも九州にもお互い言葉が通じないくらいの言語が存在する。
古代には近畿に政権があっただけではなく、各地にも政権があった。食文化も遺伝子も多様だ。
同じように、南西諸島の中でも島々で言語が通じなかったり文化が違ったりする。
それを無視して日本VS琉球という構図しか描かないというのは、学者として誠実な態度だろうか。

どうも、松島教授の論理には、物事の構造を読み取ろうとする意識があまり見えてこない。
『琉球独立宣言』や『琉球独立論』を読んでいると、定義とか構造を見極める視点が少なく、文系的というか感覚的というか、間延びした記述が目につく。歴史学や言語学の研究者ではなさそうだな、とも感じてしまう。
(経済学の人は、物事の定義を厳密に行わないのだろうか? そもそも「琉球の範囲」「琉球人」などの定義とかその根拠はどこに書かれているのだろう? 石垣島や宮古島の人たちは、日本人とか八重山人、宮古人という意識は強いかもしれないけど、沖縄人とか琉球人という意識は比較的薄いのではないだろうか)

『琉球独立宣言』や『琉球独立論』には矛盾を感じる論理もある。
日本語と琉球諸語は言葉が通じない、と記述しているが、それを言うのであれば、
沖縄語(沖縄本島南部)とユネスコで言語として認められている八重山語や宮古語も言葉は通じない。
(かなり日本語化された沖縄方言と宮古方言だったら通じると思うが)

「八重山語や宮古語は沖縄語と同じ琉球諸語だが、琉球諸語は日本諸語ではない」と主張するのであれば、もし、石垣島の人が、「八重山語は琉球諸語であり、日本語語族でもある。沖縄語話者は、八重山語話者を道連れにしないでほしい。独立するなら那覇・首里を中心とした沖縄エリアだけでどうぞ」と言ったらどう返すのだろう。

沖縄県南部の沖縄語を話す人たちは、第二次世界大戦での被害が大きかった。被害者意識を増大させるのも当然かもしれないけど、まずは自分たちの先祖(沖縄本島南部の沖縄語話者)が行ってきた侵略や、今も続いている地域差別について、総括すべきではないだろうか。

琉球独立論が盛り上がってくるようなことがあれば、それに対抗する人も出てくるだろう。
ヤンバル(北山国)や八重山、宮古などの独立論を盛り上げようとするかもしれない。
その時、琉球独立論者は、どのように対処するのだろうか。

そういうことも考えると、最初から沖縄本島南部の「沖縄共和国」だけ独立したほうがいいのではないかと考える。

伝統的に沖縄本島南部の大学やメディアには共産主義・社会主義支持者も多いから、社会主義国になるのもおもしろいかもしれない。温かい地域であれば、北朝鮮のように飢えることもないだろう。
先進国では左派が勢いを失っているように見えるけど、ネパールとかインドといった貧しい人が多い国では社会主義や共産主義もまだまだ強い力を持っている。
琉球王国の再興よりも、沖縄社会主義共和国の建国の方がまだ現実的かもしれない。

ヤンバル共和国や八重山共和国、宮古王国、奄美国などが「琉球連邦共和国」に加わることを拒否し、「日本連邦共和国」に加わったとしても、自分たちは独立を維持する、という強い意志を持って、ぜひ琉球独立論者の人たちにはがんばってもらいたい。
ただ、論理矛盾を抱えたままだと、いずれ困難に直面するだろうから、早めに矛盾は解消しておいたほうがいいと感じる。

琉球国による周辺島嶼の侵略や支配を謝罪し、沖縄語地域(沖縄本島南部および周辺島嶼)が本来の沖縄領域でした、と意思表明し、「沖縄独立研究会」や「沖縄独立学会」を立ち上げる人がいたら、ぜひ応援したい。



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正しさ

2018-01-27 23:48:22 | Weblog
人はそれぞれ、肯定されるべき「正しいこと」と、否定されるべき「悪いこと」を認識している。

清潔が正しい、不潔が悪い、と認識されるのは、清潔でないと自分の生命の維持を危うくするおそれがあるからだ。
平和が正しい、暴力が悪い、と認識されるのも、暴力は自分や自分の所属する共同体の維持発展に不都合だからだ。

逆に言えば、人間にとっての善悪なんて、ただ単に、自分たちの生命や遺伝子や共同体などの維持に不都合かどうかといった基準で設けられた枠組みにすぎない。

人間から害虫とか害獣とかバイ菌などと疎外されている存在も、宇宙的規模で見てみれば、人間と大差ない生命だ。

社会的な「正しさ」を守ることを刷り込まれて育った従順な人たちは、自分たちが肯定されるべき存在だと思っているかもしれないけど、それは信仰に近い。

自分の命や共同体を維持発展させることは何よりも重要なことだろうか。
そういった価値観から解き放たれたところに、価値を見出すことはむずかしいのだろうか。

自分たちが肯定している「正しいこと」とは何か、否定している「悪いこと」とは何か、「なぜ自分は不満を感じているのだろう」などといった基本的なことについて考えることは、思考の足かせを外し、視野を広めることにつながる。

保守的な人たちの硬直した思考を批判する人が、「憲法は正しさの基本だ」などと堂々と言っているのを見ると(最近、北海道新聞のネットニュースでも目にした...)、知性についてどのように考えているのだろうかと気になる。

私から見れば、「憲法が正義。憲法を侵害する者は悪」と言う人は、「天皇万歳。朝敵は打つべし」「神は絶対」「何より村のしきたりが大事」「何より会社が大事」「何より家族が大事」と言う人と同レベルの思考の枠組みではないかと感じる。

人間や生物が何かを肯定し、何かを否定するのは当然だ。
五感も、何かを肯定し、何かを否定することによって形を認識している。
世の中に区切りを感知することができず、あらゆる波長の色も音も感知できる人がいたら、混沌の中で、形も感知できず、言葉も話せず、論理的に考えることもできないだろう。

ただ、そういったことを意識してこそ、「正しさ」「正義」の位置づけを客観的に見ることができるようなる。

宇宙には、絶対的に肯定されるべき「正義」などといったものはない。
憲法も美男美人の基準も食事マナーも家族観も文化圏や時代で大きく変化して当然。

「正義」を押し付けようとする人たちは、どこか論理に嘘やごまかしを抱えている可能性が高い。
「正義」と言われているものが、絶対的ではなく相対的なものでしかないと認めることができてこそ、自分や所属する共同体にだけ都合のよい考え方から脱皮できるのではないだろうか。

それに気づいていない人は、いくら反権力であっても、反戦であっても、反社会的でも、保守的な存在に見えてしまう。




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