波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

謝らないナカタとホリエモン

2011-03-21 09:29:38 | Weblog
かつて、ぼくは中田英寿や堀江貴文の活躍を楽しみにしていた。
彼らをバッシングする人がいても、彼らのスタイルを支持していた。
突き抜けるような強さを持つ人が、世の中の惰性に引きずられないで、大きなことを実現していくのだと思っていた。

もう10年くらい前になるだろうか。
中田英寿のことを長く取材してたライターが中田のことを褒めなくても、中田に対する関心を失うことはなかった。

ライブドアがまだエッジだとかオンザエッジという社名だった頃、堀江貴文と長く働いてきた人が彼のことを「社会人経験がないから世間知らず」「勘違いしている」などと言って批判しても、ぼくはホ「リエモンはすごい、いいじゃないか」と言って同意しなかった。


それから月日は経ち、中田も堀江も第一線から後退した。
PR会社による安っぽいメディア露出や小さな媒体での発言、事実を誤解させるような表現で自分を大きく見せる発言を目にすると、
あまりうまくいっていないのかなと思うと同時に、等身大の彼らの姿を感じる。


最近、なぜ中田やホリエモンのスタイルに違和感があるのだろうかと思っていたが、
その原因がひとつわかった。

どうも、中田もホリエモンもあまり謝らない。謝罪をしない。

かつて、平塚ベルマーレで中田とチームメイトだったホン・ミョンボは、
中田の思い出に関して、「あのチームは中田のチームだった。みんな中田に合わせていた。たいへんだった」というようなことをカメラの前で語っていた。
それに対して、目の前の中田は「へえ、そうだったんですか」というようなことを言うだけで、羞恥心や恐縮や残念や謝罪といった感情は見せなかった。

世界を旅する中で、中田は何度謝罪をしただろう。
あるいは、謝まるという姿勢を学ぶことはなかったのだろうか。

何があっても自分を肯定したい人は、相手を受け入れることができないときがある。
自分に至らないところがたくさんあると意識している人は、えらそうな発言を控え、至らないところが多くある人にも優しい視線を向ける。

ナカタやホリエモンが人に厳しいのは、自分を守る態度を解消できていない裏返しかもしれない。

「人生とは旅」などと中学校の教科書に載っている一文のようなことを言うのもいいけど、
「旅とはコミュニケーション」
「コミュニケーションとは許すこと」
などといった言葉を述べることはないのだろうか。


犯罪者となって社会的地位を失い、否定された自分を肯定するために「国家は必要ない」と言うのもいいけど、
「制約があってこそ表現やコミュニケーションが可能となる」
「価値は見出すものであって、お金で買い取るものではない」
「豊かさとは、謝れること」
などといった言葉を述べることはないのだろうか。

一度、かたくなに守ろうとする自分が破壊されないと、そういった言葉は出てこないのかもしれない。

コメント (2)
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ようやく校了、温泉宿へ

2011-03-20 21:24:07 | Weblog
地震だ余震だという騒ぎをよそに、
ぼくは某書を校了すべく、この1か月半の間張り詰めた状態で精一杯がんばっていた。
揺れの最中でも電話で依頼と確認。

停電のおそれがあるから社員は速やかに帰社せよとアナウンスがあっても校了に間に合せるべく、がつがつと進行を進めていた。
毎日深夜まで働いて、土曜日もずっと朝から働いていた。

ぼくは、人一倍、のんびりとした生活にシンパシーを感じている。
サービス残業とか会社人間だとかは想像力のない人の陥りがちなつまらない生活習慣だと思ってる。

だけどそんなぼくが、人一倍サービス残業をして、深夜帰宅して、神経をすり減らして、体調を悪化させても、なんとか締め切りに間に合わせようとしている。
どうしたことだ。
ぼくの視野が狭いのか、何なのか。

それでも金曜日になんとか校了に持っていくことができた。
頭も痛くなってきていたし、気持ちも荒んできていたから、
ほっと一息だ。

3連休の予定は未定だったけど、急遽松本に行くことにした。
土曜日の昼過ぎのバスで長野の松本市へ。
美ヶ原温泉の旅館すぎもとにチェックイン。
温泉につかって山菜料理や馬刺しやイノシシ鍋を食べておなかいっぱい。
今日は松本民芸館に寄ってから松本市内に行って民芸関係の店を散策。
さっきは日本酒のおいしい店、厨十兵衛(くりやじゅうべい)で信州のお酒をいろいろためしてきた。
美寿々というお酒がうまみ、辛さ、味わい、みずみずしさのバランスがよかった。

明日もまた民芸のお店をめぐることになると思う。
心安らいでから、ブログも更新したい。



地震にともなう原発の事故に関しても、それなりに考えていることはある。
今日、某先生からメディアは嘘をついているとのお電話もいただいた。

悩ましいけど、少なくとも、メディアは深く考えて嘘をついているわけではない。
意図的に何かを隠しているということはない。
ただ、「その場しのぎ」という日本人にありがちな態度こそが、もっとも信頼に値しないのかもしれない。

海外のメディアには憶測で論評を行っているメディアが多いけど、それは陰謀史観並みに不安満載の言論が多い。

正直なところ、ぼくは、安全って何だろう?ということをあらためて考えている。

戦後生まれのぼくは共産党員の先生に平和教育を受け、戦争に行った人の気持ちなどは考えたことがなかった。

だけど、福島原発の放水に向かう自衛隊や消防庁の人の気持ちを考えたとき、
ああ、もしかして第二次世界大戦のときに戦地におもむいた人も、
非常時に人々を守るため、身を挺して立ち向かおうとしていたのか、
ということを考えてしまう。

かつて、911のあとにイラクやアフガニスタンのタリバンが米英に攻撃を受けたときも、
もしかして日本もこんなやり方で米英に攻撃されたのか、と感じたことがある。
日本が全面的にわるいと思っていたけど、もしかしたら米英によって悪者にされた面もあるのではないかとうっすらと感じてしまった。

歴史の解釈はむずかしい。
共同体の維持に支配的な立場を占めている人々の価値観に合致しない視点は疎外されてしまう。

現在の日本政府は、意識的なうそはついていない。
もし、原発が制御不能な状況だとしても、政府は把握してない。

ぼくの予想では、あと2週間で一息つく。計画停電は続くけど、放射能のおそれは薄らぐ。

そのとき、「政府は情報を操作している、深刻な事故を隠蔽している」と警鐘を鳴らしているアンダーグラウンドなメディアや海外メディアは、自分たちの主張が間違っていたときちんと謝罪し、自己検証できるのだろか。
わすれたふりをするかもしれないから監視が必要だ。
何を根拠に危機をあおっていたのか。
そこには、蔑視も見て取れるかもしれない。


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