波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

「臭い(くさい)」とはなにか

2008-06-29 23:47:49 | Weblog
※かなり飲みながらのまとまりのないメモなので後日加筆修正削除するかも。


五感のうち、嗅覚で感じとれるものは、「におい」と表現される。
人間にとって心地よいにおいは「香り(かおり)」、不快なにおいは「臭い(くさい)」と言われる。

においにはむかしから興味がある。
学生時代にはハーブ愛好会にも属していた。
田舎育ちなので土のにおいやおがくずのにおい、草のにおいや川のにおいはいつでも思い出せる。
(100年後の世界ではにおいの出るテレビが標準になって、田舎に行った子どもたちが「テレビのにおいよりも実物のにおいのほうが薄い」と言うのが社会問題化しているかもしれない、などと夢想する)

いつか、田舎のにおいをテーマに何か書き残せたらと思っている。
今でも、柿の葉、樫の葉、南天の葉、椿の葉、松の葉、等々庭にあった木の葉のにおいは目隠ししても当てられるのではないだろうか。

東京は、あまり香り豊かな土地ではない。
庭木の金木犀や沈丁花のにおい、雨がアスファルトに降り出したときのにおいなどはあるけど、草や木や土のにおいはあまりしない。
昨日も中目黒から目黒川沿いを自転車で通り過ぎたけど、ヘドロのような臭いにおいがした。
私は、腐敗した川のにおいや、下水から通りに漂ってくるヘドロのにおいが苦手だ。

様々な原因によってにおいは発生する。
石けんのにおい、ハーブのにおい、おならのにおい。
汗が蒸れたにおい、雑菌が繁殖したにおい、整髪料や化粧品のにおい。
インクのにおい、カーペットのにおい、コーヒーのにおい、皮革製品のにおい。
中でも、臭いにおいは否定的なイメージでとらえられることが多い。
臭い(くさい)、というのはイジメの場面でよく使われる言葉だ。

子どもたちのいじめの場面で多く使われるのは「臭い(くさい)」という言葉だし、
若い女性会社員がおじさんたちを「たばこ臭い」と言うのも否定的イメージだ。
地味な女性が派手な女性に対して「化粧臭い」と言う事もある。
母親だって子どもに臭いものは触らそうとはしないだろう。


「臭い(くさい)」というのは生理的にいやな感じをあらわすのに便利な言葉だ。
心ない一部の日本人は韓国人に対してキムチ臭いと言う。
おなじように韓国人は日本人に醤油臭い、ダシ臭いと言う。
皮革製品を製造している被差別部落の人たちも、臭いと言われたことがあるだろう。

臭いものイコール価値のないもの、否定されるべきもの、というイメージが世の中にあるから、相手をおとしめるのに便利な言葉なのだ。臭い、というのは。

同じような、感覚的に相手をおとしめる、相手に価値がないとバカにするのに便利な言葉もたくさんある。
売春婦、犯罪者、カルト信者、右翼、極右新聞、アサヒる、侮日新聞、バカ、アホ、ノータリン、変態、デブ、等々。

ハゲのくせに。チビのくせに。不倫してるくせに。もてないくせに。
整形のくせに。犯罪者のくせに。貧乏人のくせに。被差別部落出身のくせに。
学歴ないくせに。一重のくせに。鼻低いくせに。
どれも短絡的な感覚的な言葉だ。

理性のある者や表現力のある者はそのような安易な表現を投げつけたりしないけど、何か感じることがあってもそれを論理的に考えることのできない人は、安易な言葉を使って何か言った気になってすっきりする。
まあ、サミットに反対する反グローバル化運動を熱心にされている方々(G8対抗国際フォーラム)のように、うっすらとしたイメージを付加された、まわりくどい言葉を長々と述べているけど中身はたいして無いのでは、というのも似たようなものかも。
一言で言い切らなくていいから、長々と言わなくていいから、良いとか悪いといったイメージを付加されていない言葉で、誠実に論理を述べてほしい。
そうしないと、共同の価値観(外国人排斥だとか反グローバルだとか)を持っていない人間には伝わらない。
自分たちの内輪の言葉で盛り上がるのもいいけど、それは芸術や哲学としてはレベルの低い行為だ。
国内で芸術のレベルに達していない俳句をこつこつと内輪で見せ合っている俳句結社の人たちみたい。
G8対抗国際フォーラムさんも、もうちょっと一般の人に届く表現をすればいいのに。
ここまで注目されていないのも珍しい。


それはともかく、話を元に戻す。
人間が臭いと感じる物質は様々だ。
多くの場合、人間の生命の維持を脅かすものは、臭いにおいに感じられる。
硫化水素も硫黄も塩素も臭うのは生命を脅かす恐れがあるからだ。
吸入すると血液に酸素が行き渡らなくなる。
下水が不快なにおいを放つのも、焼いたビニールが嫌なにおいを出すのも、有毒なガスが発生しているからだ。

もっとも、一酸化炭素などのように、においがしないのに人体に害を与える気体も多い。
クサヤやチーズのように、臭くても害がないものも多い。
まあ、クサヤやチーズやドゥリアンは、よくにおいをかぐと生命に危険を感じさせるものではないですけどね。

とにかく、基本的に、人間に害になるものは、臭い。
腐敗している食べ物にハエやうじ虫がおいしそうに集まっていても、人間がそれを口に入れると生命の維持に支障をきたす。
だから、人間は腐敗しているものを口にしない。
腐敗しているものに近寄っているハエやうじ虫を否定的な目で見る。
そんなの、自分の人間の自分勝手。ハエやうじ虫にとっていい迷惑。

そういえば、化学物質というか元素に、臭素(Br)というものがある。
たしかに、臭素は刺激臭あって臭いけど、すべての生物にとって臭いわけではない。

すべての生物にとって臭い物質などというものはない。
すべての生物にとって毒となる物質がないように。

人間の生命活動を維持するために必要な組織を破壊するおそれがあるものは、「臭い」と認識され、体内に入れることを拒絶される。
社会組織の維持を破壊するおそれがあるものは、「悪い」と認識され、社会の中でのさばることを拒否される。
団体組織の維持を破壊するおそれがあるものは、分裂主義者とか反革命分子だとかスパイなどと言われ、追い出される。

子どもたちは、社会的常識を学んでおらず残酷な面を持つから、違いのある者をあからさまに否定する。
いじめはいけないよ、と言う大人たちはどうだろう。
犯罪者を否定して、組織と幻想を共有しないものを疎外して、臭いものを否定して。

たいして成長していないのではないのか、大人たちは。
子どもたちに大人の幻想を押し付けて「いじめはよくない」「臭いものは捨てろ」なんどと言う前に、自分の差別心というか否定する意識を直視しなくては、何の解決にもつながらないのでは、と感じる。



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エビちゃんの次は小嶋陽菜

2008-06-17 22:21:14 | Weblog
まだ、小嶋陽菜が大ブレイクしない。

小嶋陽菜(こじまはるな)
http://news.goo.ne.jp/entertainment/talent/W07-1387.html

何か月か前に深夜ドラマに出ているのを見て、初めて名前を知った。
AKB48には興味なかったし。

・コインロッカー物語(2008/2/23土深夜1:30~×4話)
http://www.tv-asahi.co.jp/coin-locker/

ドラマで目にして以来、エビちゃんの次はこの人が来るんじゃないかと思っている。自称編集者として。
むかし、稲森いずみ、長谷川京子、蛯原友里などが出てきたときに衝撃を受けたように、小嶋陽菜にもインパクトを感じる。
というか、稲森いずみや長谷川京子や蛯原友里に通じる、垢抜けた目と肌を感じる。
印象だけですけどね。

化粧とか日焼け止めとか水着のコマーシャルに小嶋陽菜を起用すると、ぜったいブレイクすると思うんだけどな。
天然ボケキャラで売ってるみたいだけど、ちゃんとシリアスな演技もできる人だと思う。
AKB48だと水着にはなれないのかな。
この1~2年、グラビア頑張ったらぜったい大ブレイクするのに。
もったいない。(根拠ないけど)

・プロダクション尾木の紹介ページ
http://www.ogipro.com/talent/kojima/



※参考 

6/17夜の段階で、「小嶋陽菜」でGoogle検索するとヒットするのは146,000件。
「蛯原友里」だと1,500,000件。10倍以上の差。
「長谷川京子」だと1,100,000件。経験の差。
「稲森いずみ」だと408,000件。まずはこれを越えないと。
ちなみに「藤原紀香」は1,820,000件。
「熊田曜子」は2,060,000件。
「里田まい」は1,120,000件。
「上原さくら」は408,000件ヒットします。
「佐藤唯」だって202,000件!
佐藤唯は応援してます。東北好きなので。がんばってけろ。


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日本国歌を「かあさんの歌」に

2008-06-17 21:55:07 | Weblog
ふと、「日本国歌を『かあさんの歌』にしてはどうだろう」と夢想した。
冗談ですけどね。
サッカーやボクシングの試合の前、日の丸を仰いで「か~さんは~よなべ~をして~」と歌う。
あまり長くない歌だし、覚えやすい。
何よりも、母親に対する感謝のような言葉を入れた国歌は他にあるだろうか。
試合相手も闘争心を失って郷愁にひたるかもしれない。

よく、君が代は勢いがないとか静かだとか言われる。
だからといって勢いのいい行進曲みたいな勇ましい曲を人々が求めているわけではないだろう。
それに行進曲みたいな国歌は世界中にあふれていてありきたりだけど、君が代の雅楽の旋律はなかなか個性的で、おもしろい。
歌詞だって世界の国家にくらべたら穏やかで強引じゃなくて、受け入れやすい。

でも、どうせ穏やかに行くんだったら、いっそのこと「かあさんの歌」を国歌にしてもおもしろいんじゃないかな。
それにしても、「かあさんの歌」ってどういう曲だっけ。


10年前の冬、毎日ロンドン郊外からピカデリーサーカス周辺まで足をのばしていた。
3月のある日、ピカデリーサーカス駅から滞在先に帰ろうとして地下鉄に入ろうとした瞬間、足が止まった。

リコーダーはたしかに「かあさんは夜なべをして手袋編んでくれた~」のメロディーを奏でている。
30代にも見える白人ホームレスが、ピカデリーサーカスの大きな交差点に面した建物の壁の下に座り、リコーダーを吹いている。

思わず、引き返して彼の目の前のくたびれた帽子に、1ポンド硬貨(約200円)をそっと入れた。
その間も彼はこちらに視線を送ることもなく、白いリコーダーで「かあさんは夜なべをして~」を吹いていた。
とても郷愁をそそる。

私は物乞いの人にお金をあげないのだが、その時ばかりは何か意思を示したくて、コインを渡さずにはいられなかった。

地下鉄に入りながら、「もしかして『蛍の光』や『埴生の宿』のように、スコットランドに原曲があるのだろうか」「彼は日本に滞在していたことでもあったのだろうか」「郷愁を誘う曲として誰かに教えてもらったのだろうか」などと考えた。

日本に帰ってから確認すると、外国の歌ではなく、1965年に窪田聡氏が作詞作曲した作品だった。


なぜあの男性があの曲を吹いていたのかずっとわからなかったけど、最近ふと「もしかして、似たような曲が外国にもあるのかな」という考えが脳裏をよぎった。

久々に「かあさんの歌」を検索してみると、ロシア民謡が原曲だという説があることがわかった。
そういえば、ロシア民謡風に演奏すればロシア民謡に聞こえるかもしれない。
もしかしたら、イギリスで見た男は、ロシア人、あるいはロシア民謡を習ったことのある人だったのかもしれない。

どちらにしても、「かあさんの歌」がロシア民謡のコピーだとしたら、日本国歌には不適切かな。
では、国歌は荒井由美の「瞳を閉じて」かマイク真木の「バラが咲いた」でいいや。(冗談です)


※参考資料
http://www.mmjp.or.jp/MIYAJI/mts/nihonnnouta/kasannouta.html
(歌詞)
かあさんは 夜なべをして
手袋編んでくれた
「木枯らし吹いちゃ 冷たかろうて
せっせと 編んだだよ」
ふるさとの便りは 届く
いろりの 匂いがした

http://www.doyo.jp/sub/yomoyama1.htm
かあさんのうた
作詞・作曲 窪田聡(くぼたさとし)
昭和31(1965)年2月
『窪田聡作品集(一)』昭和33.12収録
「かあさんのうた」は戦後の「うたごえ運動」の輪から広がりやがて、ダークダックス、ペギー葉山が取り上げ、歌うようになり全国的に広まったということです。
 また、NHKの「みんなの歌」でも取り上げられています。
 楽曲に関しては、原曲は、ロシア民謡の「荷揚げ人夫の歌」であると記してある本もあります。

http://www.cryolights.com/glee/tsuru1.htm
(略)金田一晴彦・安西愛子編の「日本の唱歌(中)大正・昭和編」を家人が貸してくれた。そこには以下のように記されていた。「うたごえ運動から流行りだした歌の一つ。原曲は、ロシア民謡の「荷揚げ人夫の歌」で、ここの作詞は内容がいかにも具体的で、故郷のおふくろの暖かさを感じさせ、戦後の勤労者の青年にぴったりのところが強みである。ダークダックスやペギー葉山がよく歌った。作詞者の窪田聡は埼玉のうたごえ運動の中心的存在」とあった。


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私は度々笑った。

2008-06-17 21:03:26 | Weblog
ふと、思い出したことがありYahoo!翻訳
“私は度々笑った。”
を翻訳した。

そうしたら、案の定、訳文は
“I often laughed.”
と表示された。

Yahoo!辞書でも
たびたび 【度々】
often; frequently;(何回も)many [話 lots of] times;
【くり返して】 repeatedly;(何度も何度も)again and again.
などと書かれている。

おぉー。
やっぱり“often”を「度々」 と訳しても間違いじゃないですよね。

ずっと前、田舎の公立中学校のできのわるい生徒だった私は、英語の授業に苦しんでいた。
学校の先生のレベルも高くなかったので、周囲の英語のレベルもかなり低かったと思うけど、私の英語力はその中でもかなり低かった。

それでも、書けたんですよ。
中間試験か期末の英語。
何問目か、“often”の訳を書け、のところ。
堂々と「度々」と書いたんですよ。

だけど、×になっていました。
成績がわるかったから、先生に抗議する意思もなかった。
でも、先生は、「度々っていうのは時々よりももうちょっと頻度が高いから often とはちょっとニュアンスがちがうかな」っていうような理屈は考えていなかったと思う。

先生は、単純に「度々(たびたび)」っていう漢字が読めなかったのだと、今では確信している。


それにしても田舎の中学校の英語教師のレベルはなんともいえないものだった。
Pencil や People をしっかりペンシル、ピープルと発音し、Peter をなぜかはっきりペーターと言い、
外国人助手の人に「蒸し暑いってどういう意味ですか」と聞かれてあっさり「ベリーホット」と答え、
みんなに教科書の英文を一文ずつ読ませて、訳させて。
効率悪かったなぁ。
その後、中堅以上の国公立や難関私立大に行ったのは45人クラスのうち1~2人いたかどうかだったのでは。

都会と田舎の学力の一番の差は、英語じゃないかな。
田舎の人は英語の弱い人が多いかも。
(英語を使う機会なんてないし、それ以前に共通語をしゃべる機会もないし)

そういえば知能指数クラス1番のまじめな女の子はIQが140だったんだけど、大学は立命館に行ったっけ。
都会に生まれてたら東大や京大に行ってたかもしれないけど。

なんで同級生たちのIQがわかったかって?
先生たちは情報管理もずさんで、パソコンの置いてある空き教室に入ったら生徒の名前やIQをプリントアウトした紙がプリントアウトしたまま、だーっと置いてあったんですよね。
今じゃありえないですね。
いいかげんな中学時代でした。

先生たちに関するずさんな話はいろいろありましたが、ここでは書くのをやめておきます。
子どもの頃は全く教師を疑わないまじめな生徒だったのですが、今から思えば教師も1人の人間でした。


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講談社「KING」「Style」休刊

2008-06-14 10:18:45 | Weblog
創刊当時から赤字が続いていた「KING」が休刊となった。実質的な廃刊。
講談社も一時代が終わった。
往年の名雑誌「キング」の名を背負って、創業者関係者鳴り物入りの新雑誌創刊だったはず。

創刊時の記者発表会(2006年9月12日)では、雑誌に大きく関わっていたリリー・フランキー氏が
「僕が創刊にかかわる雑誌は2年以内に廃刊されることが多い。まずは7冊目が山ですね」
と発言し、周囲をひやっとさせた。
それが現実になった。(そうなると思っていた人が多かったけど)

創刊時はお偉いさんのセンスだったのかひどい出来で、80%も返品されることがあった。
あまりにも売れ行きがひどいので去年には大きくてこ入れされた。
それで、ずいぶん若い社会人向けに、よい感じになってきたと思ったのだけど、あまり盛り上げることはできなかった。
返品率を下げるために大きく発行部数を減らしていたけど、それでも50%以上返品されてしまう号が続いた。

2008年5月号は表紙がナインティナインの岡村隆史で、なぜか店頭で90%も売れ、完売だっただけど、それは奇跡だった。
(紀伊国屋書店全店で402冊仕入れて354冊売れた)
もしかして、最後の宣伝策として、編集部がわざとぜんぶ店頭から買い上げて売れているように見せかけたのではないかと思ったくらいだ。

でも、6月号は発売部数の25%しか売れなかった。
紀伊国屋書店全店で428冊仕入れても107冊しか売れなかった。全然売れていない。
7月号の出だしも非常に良くない。


もう、大手出版社が仕掛けてきたマスなメディアとしての雑誌は終わっている。
それに気付いていない人がはじめたKINGも終わった。

10万部以上売り上げる雑誌なんて10年前の半分以下になっているだろうけど、今後、紙媒体を使う出版社がなくなることはない。
隙間産業として生きのびるだろう。

しかし、マスなメディアの幻想を持っている人には厳しい時代だ。
出版界最大の講談社も方向転換せざるを得ないのではないだろう。


講談社「KING」「Style」9月発売号で休刊(読売新聞) - goo ニュース

 講談社は13日、2年前、大型創刊として話題を呼んだ月刊「KING(キング)」を9月発売号で休刊することを決めた。

 同誌は06年9月に23万部で創刊された男性総合誌。日本初の100万部雑誌となった昭和の大衆総合誌「キング」の名前を襲名し大量宣伝を行うなど、長引く雑誌不況に風穴を開ける雑誌として期待されたが、対象とする20、30代の男性の雑誌離れが激しく、創刊当初から売れ行きが低迷していた。

 01年創刊の女性誌「Style(スタイル)」も9月発売号で休刊する。



2006/09/20にはmixiに下記のような日記をメモしていた。
  ↓
> 講談社がKINGっていう雑誌を出したけど、大コケすると思う。
> 今もテレビでコマーシャルしてるけど、ちょっと目障りな印象。
>
> KINGの新聞広告は2秒見て目を離した。
> 中吊り広告は1秒以上目が行かなかった。
>
> 大コケさせた責任者は、そのときはきちっと責任とってほしい。
> すごいお金もかけてるだろうし。
> 50代の人が根拠も無く30代にも通用するだろうと考えているような
> 厚かましさを予感している。
> どういう人がKING買うの?

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「子供」と「子ども」

2008-06-13 00:29:50 | Weblog
さっき帰宅して新聞の夕刊を見ていた。
読売新聞には、若手記者による「記者ときどき私」という気軽なコラムがある。
今日(2008年6月12日木曜日)は槙野健という記者さんの執筆だった。
こんな記述があった。
「(略)約20年ぶりの給食は豚肉のしぐれご飯だった。磁気に盛られて温かく、味も格段にいい。『子供のおいしそうな表情を見ると、この仕事をしていて良かった』という針ヶ谷さんは、間もなく定年となる。学校給食を支えるベテランが去るのは、どこか寂しい。 (槙野健、34歳)」

「子供」という表現にふと珍しさを感じた。最近、ほとんどの新聞社や出版社は「子供」を「子ども」と言い換えるように、自主規制しているのではないだろうか。

今朝の読売新聞の朝刊には「子ども服 安全仕様」というタイトルがある。
その記事の中でも「子ども服が原因となって」「子ども服の安全対策」などの文字が使われている。
やはり、読売新聞としては「子ども」という表記に統一しているのだろう。

記者は、あえて「子供」という表記を使ったのだろうか。
きっと校閲記者から指摘はあったはずだ。
記者は、子供という語は差別的ではないという持論を展開したのだろうか。
クレームがあっても受けて立つと言ったのだろうか。
ぜひその論理を聞きたい。
あえて「子ども」という言葉を使うのは、意志の強い人だと思う。
(まあ、34歳の人だと子どもの時は「子供」という言葉にクレームをつける人なんていなかったから、無意識に書いてしまったということもありえる)

近年の新聞社や出版社では、「子供」と書かれた原稿はほとんどの場合機械的に「子ども」と変換される。
「子供」という表現は不適切だと主張するうるさい人がいる、ということを知っている編集者は、差別語に関して自分なりの意見はなくても、さっさと面倒なことは避ける。多忙だし。

私は、表現を行う人の支援者でいたいと思っている。
一般社会で受け入れがたいような人であっても、芸術的に高い価値のある表現を行う人であれば、矢面に立ってでも表現者を守りたいと思う。
私は芸術家を擁護する。

だけど、残念ながら、そんな編集者は時代遅れだ。
多くの編集者は、サラリーマンとして、社会秩序をよく守る一般人として、平和な日々を送っている。
つまらないことで争う必要を感じない。

先日読んだ、藤原新也氏の本にも次のような記述があった。

「黄泉の犬」藤原新也著 文藝春秋発行2006年 
p44
「(略)昨今のマスコミが極度に神経質になっている例の差別問題、身体障害の問題に触れるということらしい。昨今この種のことにマスコミは極度に神経質になっているがそれは自らのマスコミ人としての明確なモラルによる判断があってのことではなく、むしろ反応が怖いという保身の結果である場合が多い。この現象は新聞やテレビなどの大メディアに限ったことではなく、週刊誌やスポーツ誌レベルのマスコミにおいても昨今は大袈裟な身振りとはうらはらに、このような局面は避けて通る、ことなかれ主義がはびこっている。(略)」


「子供」が差別語だと言う人は言えばいいと思う。
「子は供え物」じゃない、と言えばいい。
(普通は、せいぜい「子は供える」とか「子の供えし」としか読めないと思いますが)
ついでに、「子供」が差別語だと言う人は、「豆腐」も不適切な言葉だと糾弾すればいい。
べつに豆が腐ってるわけではないですからね。
腐っているものはスーパーに置けないですよね。
もしも「子供」が差別語だと言う女性方が洋子さんや良子さんや由美子さんや智子さんだったら、改名を申請してみてはどうでしょう。
女性にだけ「子」という字を付けるのは、女性を子ども扱いしているからだという説もありますからね。(言いがかりかもしれませんが)
男性だったら、「僕」という言葉にもクレームつけませんか。「僕」には「下僕」のように、しもべっていう意味がありますし。

「独逸」っていうのも、ひどくないですか。孤独とか逸脱といったイメージがありませんか。
米国だって米の国じゃない。
マレーシアに行ったって馬が来るわけではない。
それ以前に、「内蒙古自治区」のほうが差別的ですね。「蒙」は「無知蒙昧」にもあるように、ネガティブな言葉ですから。

というように、いくらでもクレームを付けることはできます。

「毎日新聞になんで休刊日があるんや、毎日出すんちゃうんか」と言う人もいるかもしれないし、
「産経新聞は一般紙やのになんで産業経済新聞を名乗るんや、経済紙はビジサンケイビジネスアイやろ、一般紙らしい名前にせえや、経済紙と間違えて買うてしまう奴もおるんちゃうか」と言う人もいるかもしれない。
「朝日新聞の社旗は日本海軍そのものやろ、軍国主義を思い起こさせるから変更してくれ、日の丸君が代よりも好戦的や」と言う人はいるだろうけど、
「読売新聞は読んで売るんちゃうんか、黙って売りやがって」という人はさすがにいないと思う。

とにかく、「子供」が差別語だと言う人の論理はその程度のものです。
意味的には「子共」のほうがいいのでしょうけど、「子共」だと「洪」みたいな一字に見間違えることもありそうだから、「人」を足して「子供」にしたのかもしれませんね。
記者や編集者も自分なりの論理を考えておいてもいい。
そうしないと、芸術家を守れない。

まあ、ぼくはあまり漢字を使わず、できるだけ大和言葉(訓読み言葉)はひらがなで書けばいいのではないかと思っているから、「ぼく」や「子ども」といった表記を使うんですけどね。
「僕は僕っていう字を使うんだ」とか「子供は子供だ」とか言う詩人や俳人や小説家やエッセイストがいたら、その人をぼくはサポートします。

・「子供」は差別語らしい
http://subzero.iza.ne.jp/blog/entry/29201/
・えっ!「子供」って差別表現だったの!?
http://kan-chan.stbbs.net/word/pc/kodomo.html
・昨日「古代において、子どもを献上した例はありますか?」という質問を受けた。
http://ww81.tiki.ne.jp/~nothing/kanji/kodomo.html
・表記について(子供・子ども・こども)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E4%BE%9B#.E8.A1.A8.E8.A8.98.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6



追記 6/12木の読売新聞読者投稿欄には、「今では子供たちが見向きもしない桑の実。落ちるに任せて道を汚している」との表現がありました。
隣の「時代の証言者」欄には「子供心にも『きれいな人やな』と、あこがれのまなざしで見ていました」との記述がありました。
読者投稿や回顧録では「子供」はOK、他のページではNGなのでしょうか。
普通、新聞社や出版社では出版物の中では表記を統一しています。
読売新聞には表記の統一において何らかの法則があるのか、単に校閲記者のチェックが行き届いていないだけか、どちらなのでしょう。


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機能向上ジムの挑戦

2008-06-10 21:31:27 | Weblog
先日、久しぶりに下北沢のジムに行って初心者向けのヨガをやりました。
エクササイズ系のヨガ。
たるみきった体がひきつけをおこしそうになりました。

運動のやりすぎはあんまり体に良くないのですが、適度な運動による筋力の維持やストレッチは体調を整えるために大切だと思います。

ジムに行って思うのが、「そのうち高齢者向けのジムというのも重要性を増すだろうな」ということ。
日野原重明さんが筋力を鍛えることの必要性を意識していらっしゃることは有名ですが、多くの高齢者にとっても筋力の維持は重要なテーマだと思います。

運動をしないと筋力が衰え、筋力が衰えると姿勢が悪くなり、外出も少なくなり、そうするとさらに筋力が衰え、意欲が低下するという負のスパイラルに入ってしまいます。

田舎のおじいさんおばあさんは結構草取りや畑仕事のために体を使っているのですが、都会ではそんな機会もなかなかありません。
都会の高齢者にこそ、筋力アップのサポートが必要となります。

高齢者向けのゆっくりとしたヨガや、ゆっくりとしたストレッチ、等々。
そんなことを想像していると、体の運動以外のエクササイズがメニューにあってもいいなと思いました。

・顔を鍛えるエクササイズ
顔の筋肉を鍛え、豊かな表情を取り戻す。トレーナーに従い、顔の筋肉を動かす。

・目を鍛えるエクササイズ
目の筋肉を鍛え、視力アップと老眼予防を目指す。トレーナーに従い、目を動かす。

・足腰を鍛えるエクササイズ(高齢者向け)
腰痛や膝痛を軽減するためのストレッチを行い、腰や足の筋肉を鍛える。


上記のようなエクササイズを取り入れているスポーツジムも、すでにどこかにあるかもしれませんね。
(まだ誰もやってなかったら私がはじめようかな)

エアロビやヨガやピラティスなどのプログラムについていけないメタボな人でも、まずは顔の体操あたりから取り組むことができるかもしれません。
足の弱った高齢者でも、足を鍛えるエクササイズには興味があるかもしれません。

ついつい、機能向上エクササイズに取り組むジムを夢想してしまいました。
目のエクササイズがあれば参加したいなぁ。

それから、ジムで気になる体脂肪を量ってみたのですが、両足で乗る体脂肪計では体脂肪率が24%と出ました。太り気味。
でも、手と足で測る本格的な機械で量ってみると体脂肪率14.9%と出ました。
差が大きすぎますが、おそらく14.9%のほうが正確なのでしょう。一安心。

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なぜ人は人を殺してはいけないのか

2008-06-10 07:23:22 | Weblog
なぜ人は人を殺してはいけないか。
いろんな人がその問いに対して回答を行ってきました。
理由を考え、迷いながら延々と説明した人もいるでしょうし、だめなものはだめ、と短く言い切った人もいるでしょう。

どういった結論が示されているのか調べたことはありませんが、
それぞれ、さまざまな角度から深く考察されているのでしょう。

私の認識は、シンプルです。
といっても最近ようやくひとつの視点にたどりついただけなのですが。

人をなぜ殺してはいけないか。
それは、「社会組織の維持に不適切だから」。
「人を殺すという価値観が認められると社会秩序を維持することが難しくなるから」

英語で言えばこうかな。カタコト英語でちょっとメモ。
Why people should not kill the people?
Because to kill the people is not suitable to keep the social organizations.

それだけのことです。
はっきり言ってしまうと、世の中には「絶対的な善」あるいは「絶対的な悪」という事象や物質は存在しません。
「絶対的な善」あるいは「絶対的な悪」という「仮定」を除いて。

人間にとって毒であっても、人間の肉体組織を維持することができなくなる物質があるだけで、「毒」という絶対的な悪を示すネガティブな化学物質はありません。
社会にとって犯罪であっても、社会組織の維持に不都合な事象があるだけで、「犯罪」という絶対的な悪を示す事象はありません。

なぜ組織が組織たりえるかと言えば、組織を維持しようとする方向性が働いているからです。
それがなくなってしまえば、組織は消滅します。
台風だってそう。会社だってそう。人体だってそう。あらゆるところに秩序や組織はあります。入ってくるものと出て行くものがあって、ある組織を維持しています。
混沌から秩序は生まれ、やがてまた混沌の中に飲み込まれていきます。

結局、無国籍人ぶってる人も、アウトサイダーぶってる人も、反抗期の少年も、旅人も、生きている限り、あらゆる秩序や形式や組織から脱することは不可能なのです。
あらゆる拘束から脱した自由な世界を夢見るのも楽しいのですが、それは秩序をはげしく意識した不自由な姿勢でもあります。

すでに、言葉を使っている時点で秩序だった認識体系にからめとられています。
さまざまな色を区別している時点ですでに意識は文化的価値観の影響を受けているのかもしれません。
そういった制約を意識することが、ほんとうの自由につながるかもしれません。


そういえば、「人権」というのも、「人を殺してはいけない」と似た概念ではないでしょうか。
人が生まれながらにして持っている権利、とか人は皆尊厳をもっている、というのは当たり前の事実とか、真理というわけではありません。
はっきり言ってしまうと、社会組織を維持するために、人権という価値があるということにしようと仮定されたものなのです。

そんなことはない、人権は大切だ、それは真実だという人がいたら、数式や化学式のような論理で説明してみてください。
妖精や守護神がいる、ということを数式で表せないように、「人権」や「人を殺してはいけない」ということを数式で表すことも難しいのではないでしょうか。
そうであれば、それはある理由の元に仮定されたものではないだろうかと考えるのが自然です。
世の中の「ある大事なもの」がどういう背景を元に成立してきたかということを考えることは、世の中の仕組みを考えることに役立ちます。


そのむかし、殺人や暗殺や他部族の抹殺などがめずらしくない時代がありました。
歴史上の有名人の多くが人を殺したり、殺されたりしています。
当時はそういったことは良いことでも悪いことでもありませんでした。

そういった時代を経て、現代のような複雑な秩序にからめとられた、社会となっています。
制約の多い社会は、中国共産党のように組織としては維持の限界に近づいているのかもしれません。稼ぐことは大事だとか楽しむことは大切だとか、さまざまな価値観を世の中に広く示して、求心力を維持するしかないのかもしれません。


ネットの世界もだいぶさまざまな秩序が形成され、制約もいろいろありますが、ネットの世界はまだまだ混沌とした時代が続いています。
人を傷つける発言や反社会的な行為がめずらしくありません。
そういった状態を規制しようとする動きも出ています。

だけど、私は規制の必要性を考える前に、ネットの混沌状態に注目したいと思っています。
あと数十年経ったらネットの世界も組織化され、社会秩序にからめとられているかもしれません。
ネット世界の混沌が徐々に組織化されていく現場に立ち会えるのは、実に貴重な経験です。

私たちは、暗殺や謀反や殺人が日常茶飯事だった時代の「生きる」ということの生々しさを、ネットの中に感じることができるかもしれません。

私は、「人権」や「平和」などといった言葉を絶対的な正義と見ることなく、世の中の「ある大事なもの」がどういう背景を元に成立してきたかということを考えたいと思います。
世の中の仕組みや価値観について考えるのがライフワークのようになっていますので。


追記 「殺さない」という状況に感じられる、調和というかバランスというか高度な意識状態については、そのうち考えたいと思います。
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「改訂版 実例・差別表現」堀田貢得著(ソフトバンククリエイティブ)について

2008-06-09 22:11:47 | Weblog
まとまりなくメモしただけです。後日加筆修正再構成するかも。恐縮です。



差別関係の本は何十冊も持っています。
出版社にいた人が出した本は、資料としては興味深いものもあるのですが、共感できるものに出会ったことはあまりありません。

かつて小学館で差別表現問題に取り組まれた堀田貢得さん(68歳)は、多くの実例を集めた「改訂版 実例・差別表現」(ソフトバンククリエイティブ)を出版されたそうです。
堀田さんによると、「差別表現」とは「他者の人権を侵害し、人間性を深く傷つけ、苦しめ悲しませるような表現」とのこと。
誰もが持つ基本的人権(自由と平等の権利や人間らしく幸福になる権利)を侵害するような表現だそうです。

むかしからそのように定義する人が多かったのですが、元来理科系を志望していた私からすると、あいまいな定義に見えて、しっくりとこないのです。
文学的というか情緒的というか、仮想の定義のように思えます。
70~90年代はそこのような定義でも世の中の雰囲気に合っていたのかもしれませんが、現代の価値観ではその定義に違和感を覚える人も多いのではないでしょうか。
そういった人に対して説得力を持つためにはもう少し具体的な定義が必要となります。

「他者の人権を侵害し、人間性を深く傷つけ、苦しめ悲しませること」を差別と定義するのであれば、まず、「人権」とは何でしょうか。
「人間性」とは何なのでしょうか。
人権と言われているもの、人間性と言われているものがどういうものなのか、できるかぎりその構造を指摘し、イメージをきちんと定義すべきではないでしょうか。
「人権」や「人間性」といった言葉を大事なものと認識して思考を停止し、経典か本尊のようにあがめる必要はないのではないでしょうか。

また、差別されるとなぜ苦しむのでしょうか。
なぜ嫌がるのでしょうか。
ひとつには、「差別されている人もそこに価値を見出せないから」ということがあるのではないでしょうか。
商人が見下され、官僚が尊ばれる価値観が支配的な社会では、官僚の知り合いから商人扱いされることは、苦しく悲しいことでしょう。
(ビジネスマンが偉いとされ、公務員が税金どろぼうだと認識されている社会では公務員め、と言うのが差別的になるでしょう)
細い目が価値が低いとされ、丸い目が人気のある社会では、細い目を真似するような行為は侮蔑的に感じ、傷つくでしょう。
(かつて強者であった渡来人は目が細いことを奥ゆかしいもの、品がよいものとして誇りにし、目鼻立ちのしっかりした縄文系の人々を粗野だと見下しましたが)

なぜ嫌がるのか、なぜ不満に思うのか、などといったことを考える視点は必要です。
かつて非差別者がなぜ差別的待遇を受けても反乱を起こさなかったかといえば、自分たちと差別者を同等の者だと認識していなかったからです。
むしろ、芸能に関わる人々や被差別職能民たちは、社会秩序に取り込まれた農民たちみたいになろうとはしませんでした。
現代のミュージシャンや編集者が暑苦しい時にスーツを着てがまんしている人たちをうらやましく思わないのと同じように。
ミュージシャンや編集者は、スーツ姿の人たちから「あいつらネクタイもしないで」と見下されたところで、「差別だ!」と言ったりしません。高級料亭に入れなくても「不利益をこうむった」などとは言いません。


バカにする人、否定する人、価値がないと言って見下す人はどこにでもいます。
そういった人を無くすためには、あらゆるところに価値を見出せる人を増やせばいいのではないでしょうか。
差別者に対して、バカにすること、否定することをやめさせるというのは、バカにするような発言をやめさせることと同じではありません。

差別者が差別的な意識を持ったままで何か差別的なことを言うのをやめたとしても、すぐにまた他のことに関して差別的なことを言います。バカにしたようなことや見下したようなことを言います。
差別語を問題視して糾弾したところで、差別問題の解消にはつながりません。
だいいち、差別者を糾弾している者だって、差別者に対してずいぶん差別的な言い方をしていませんか。否定して、見下していませんか。


差別を研究する学者達にも大きな責任はあるでしょう。
名前を挙げてもいいのですが、この数十年間、差別論はあまり進歩してきませんでした。
長い間、人権や平和を唱える社会運動家が影響力を保ってきましたから。

しかし、ネットで自由に広く意見を交わすことができる時代になり、人権や平和を唱える人たちが必ずしも知的なことを言っているのではないと感じる人たちも増えました。
今こそ、一般人が差別とは何なのか、人権とは何なのか、平和とは何なのか、自由な思考であらためて思考を再構築してもよいのかもしれません。


人の嫌がることをやめよう、と言うのは善意に基づくものだと思います。
しかし、「なぜ人はこういうことに関して嫌に感じるのだろう」「なぜ人は人がいやがることを行ってしまうのだろう」ということについて考えないで行動しても、何も本質的なところは解決できません。
結局、良かれと思って活動をしても、対立する人をバカにしてしまったり、見下してしまったり、攻撃的になってしまったりします。
そうなると、自分の心が差別者や暴力者と同じような境地から抜け出せていないということに気づくのではないでしょうか。
(右翼と左翼の言い合いや正義感の強い人の悪人に対する姿勢、クレームを行う人の姿にもそういうことを感じることがあります)

「弱者」という定義もあいまい。
まるで、「弱者」という守られるべき存在があるかのような言い方です。

自分たちを「弱者」という安全圏に置いて発言する場を得るようなものです。
しかし、弱者だからといって、強者に対していつも正義でいられるわけではありません。

私の認識では、強い者が弱い者に対して侮蔑的な言葉を吐くのも、
弱い者が強い者に対して侮蔑的な言葉を吐くもの、同じ構造があります。
弱い者が弱い者に対して侮蔑的な言葉を吐く場合も同じです。

強いものが弱い者に対して卑怯な搾取を行うのも、
弱い者が強い者に対して卑怯なサボタージュや横領を行うのも、同じ構造があります。
弱い者が弱い者に対して詐欺や知らん振りをする場合も同じです。

差別論に関わる人の多くはマルクス主義の影響を受けた人が多いので、差別問題を経済的な問題や社会的地位とからめて捉える人が主流でした。
しかし、貧乏でも視野の広い優雅な心持の人はいますし、お金持ちでも視野の狭いそそっかしい人はいます。どんな経済状態の者にも社会的地位の者にも差別心はあります。

いたらない点もあると思いますが、私の定義では、「差別」は下記のようなものになります。
・差別とは、ある存在に対し、価値がないと認識し、見下すこと。
・差別には差別的構造と差別問題がある。
・社会問題化していなくても、様々な価値観により様々な差別的構造が存在している。
・社会の価値観の衝突や変化により、社会問題化したものが差別問題。
・不利益をこうむったと認識した者が問題化したのも差別問題。
・差別語を否定するのも、犯罪人を否定するのも一種の差別。


私は、差別的な人を見下すことや、差別的な言葉を否定するのもまたひとつの差別だ、と認識しています。
暴力を否定するために怒るのもまた暴力であるように。

「差別語を使用する者は犯罪者だから、見下されるべき」と言う人は差別者と思考回路はたいして変わりません。
もし、ほんとうに差別的思考から超越している人であれば、犯罪者のことも見下しません。

ある社会組織を維持するために、例えば身分制度が整えられていました。
少なくとも、その社会を維持する上では身分制度は不適切なものではなかったのです。
むしろ、その制度を壊そうとする人は社会組織を維持するのにそぐわない者として価値がないと認識され、見下され、排除されました。制度の維持にたいして価値があると思えない芸人たちも見下されていました。

そういった身分制度が崩壊した後、こんどは人権や平和が尊重される時代となりました。
人権や平和といった価値観で調和を保っている社会組織において、人権や平和を疑う者は社会の敵です。人権や平和を旗印にまとまっている社会に相容れないものとして、批判され、見下され、蔑視されるようになるおそれがあります。

ただ、身分制度の時代も、人権平和の時代も、社会組織とその外側を自由に行き来する人たちがいました。芸人だとか芸術家とか被差別民とか。
現代社会は、社会的ルールに束縛されるだけではない人、社会的秩序の中で高く評価されることだけを望まない人、社会的善悪に必ずしもとらわれていない人、といった芸術家的な人々が増加している時代です。
だからこそ、人権や平和といった言葉に物足りなさを感じる人や疑問を感じる人も増えているのかもしれません。

差別について考えるならそういうことも考えないと、思考のサーフィンはむずかしいな、とあれこれ方向性なく考えるこの頃です。
冗長なまとまりない文ですみません。


今日のまとめ。
「差別は無くさないといけない」と認識するのは差別者と同レベルの思考。70年代的思考。社会組織の秩序を作ろう、守ろうとする姿勢。
「差別は興味深い」と認識するのは差別を超越し、世の中の構造や人々の価値観を認識し、視野を広める思考。2000年代的思考。社会組織の秩序を知ろう、超越しようとする姿勢。
「差別をなくそう」と言っても差別はなくならない。様々な物事を認識し、価値を見出せる人が増えなければ、差別の解消につながらない。

(大杉栄だったら2000年代のほうに共感するのではないかと思うのですが)

下記のニュースのコメント欄に批判的な言葉が並ぶのも、従来の「人権」「平和」といった運動の価値観の、ひとつの行き詰まりを示しているのかもしれません。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080609-00000054-zdn_n-sci
■差別表現 ブロガーも問われる責任と人権感覚
6月9日15時30分配信 ITmediaニュース

改訂版 実例・差別表現

 ブログやSNSが普及し、個人が自分の考えをネット上で表現する機会が増えている。その一方で、差別表現を知らずに書き込んでしまい、他人を深く傷つける可能性も増している。これまでブログが“炎上”したケースでも、差別意識を露呈した表現が問題視されたことが多い。

【他の画像を含む記事】

 「ブログの発展が一番恐い。これまでテレビや映画、新聞が差別を拡大再生産させてきたが、もっとひどいことが起きてしまうのでは」――小学館で差別表現問題に取り組み、多くの実例を集めた「改訂版 実例・差別表現」(ソフトバンククリエイティブ)を出版したジャーナリストの堀田貢得さんはそう危ぐする。

●差別表現とは

 同書によると差別表現とは「他者の人権を侵害し、人間性を深く傷つけ、苦しめ悲しませるような表現」。誰もが持つ基本的人権――自由と平等の権利や人間らしく幸福になる権利――を侵害するような表現だ。

 差別意識が向けられるのは「弱い」人たち。日本では被差別部落出身の人々や、さまざまな障害を持つ人、在日外国人、アイヌ民族、女性、老人、子どもなど。世界に目を向ければ、少数先住民族や黒人などが、いわれのない差別の対象になってきた。

 出版やテレビ業界は、差別表現について、1960年代から人権団体の激しい糾弾を受けてきた。人権団体が番組や記事、広告などで差別表現を見つけると、責任者を呼んで糾弾会を開き、根底にある差別意識を厳しく問いただす。場合によっては謝罪広告を出したり、書籍や雑誌の場合は絶版になるなど、経営的にも痛手を受けることになる。

 糾弾の経験を経て学習したマスメディアでは、自主規制が進んだ。堀田さんが小学館在籍当時にいた部署も、自主規制の最前線。差別表現に関するレクチャーを開いたり、編集者からの差別表現に関する問い合わせに対応し、「なぜその言葉がダメなのか」を、納得するまで説明していたという。

 堀田さんが心配するのは、そういった経験のない一般個人が、ブログなどを通じて、自由に情報発信するようになった現状だ。SNSの日記やケータイ小説、バナー広告の宣伝文句――ネットが広げた表現手段すべてに、差別表現の危険がひそむ。

 「テレビでも雑誌でもネットも同じ。表現者は、何が特定の人を傷つけるかに思いをはせ、表現するための知識を持たなくてはならない。それを全く意識せずに発信している人がいるとしたら、強い危ぐを感じる」

●ブロガーも糾弾のターゲットに

 人権団体は最近、ネットを注視しているという。「人権団体はネットを“難しいメディア”ととらえ、真剣にウォッチし、ターゲットにしている。差別表現や問題のある記述は、発見される可能性が高い」

 以前は文書で郵送されていた抗議文がメールで来るケースが増えるなど、差別表現の指摘にもネットが使われ始めた。例えば、週刊誌に掲載された漫画で、ホームレスに対する差別表現があったケース。一般読者名でメールで抗議文が来たが、「編集長が木で鼻をくくるような回答をしてしまった結果、相手を怒らせ、話がこじれてしまった」。

 問題を最小限にとどめるには、メールで指摘が来た場合でも、直接会って話すことが大切という。この週刊誌の場合は、メール対応の後、ホームレスを支援するNPOなどの連名で抗議文が届き、担当編集者、漫画家、編集長を交えて何度か協議。雑誌とWebサイトに謝罪文を出すことなどで決着したしたという。

 糾弾の対象は企業だけではない。作家の発言や、一般人が公的な場で発言した内容が問題になり、糾弾会が開かれたこともある。ブロガー個人が糾弾の対象になる可能性は、決してないとは言えない。

●「人権感覚」を醸成するには

 どうすれば差別表現のないブログを書くことができるだろうか。「この言葉はOK」「この言葉はダメ」というマニュアルがあれば便利のようにも思えるが、堀田さんは「マニュアルには意味がない」と指摘する。「マニュアルを作り、言葉を言い換えるだけでは、人権感覚は醸成されない」

 単なる言葉の言い換えで満足するのはなく、差別とは何かを理解・整理し、差別による不幸を認識し、人権感覚を醸成する必要があると堀田さんは指摘。そのための良書として、島崎藤村「破戒」を推奨する。

 破戒は、被差別部落出身の若者を主人公にした小説。発表と同時に差別文書として水平社から批判を受けたが、歴史的事実と差別問題に関する詳細な解説を入れて出版するという妥協点を見い出した。解説と併せて読むことで、差別問題を根本から学ぶことができるという。

●差別は人間を不幸にする

 編集者が作家に差別表現を指摘し、修正を求めると、「言葉狩り」と反発したり、「表現の自由」を盾に修正に応じない人も多い。だが堀田さんは、井上ひさしさんの発言を引いて言う。

 「井上ひさしさんは『表現の自由はあくまで、権力に対する表現の自由。弱者に対しては、担保されていない』と指摘した。差別は人間を不幸にする。表現者は、差別とそれによる不幸を認識し、言葉による痛みを和らげる配慮を持つべきだ」

【関連キーワード】 ブログ | ブロガー | 謝罪

元の記事

最終更新:6月9日17時53分



■メディア倫理なきブログ「炎上ならまだいい」 ジャーナリスト堀田氏に聞く(上)
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/080607/biz0806071610006-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/080607/biz0806071610006-n2.htm
■「人権団体が一番恐れるのはネットだ」 倫理なきブログ、堀田氏に聞く(下)
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/080608/biz0806081529001-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/080608/biz0806081529001-n2.htm





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HISのコマーシャル(中尾彰)

2008-06-08 16:39:33 | Weblog
格安航空券の老舗として有名なHIS(エイチ・アイ・エス)。
6月からはじまったコマーシャルがひそかな人気だ。
http://www.his-j.com/etabi/cmmaking.html

どこの広告会社が関わっているのだろう。
この広告会社と広告担当者は、今後注目されるかも。
かなり才能があると思われる。

スタイルが斬新。イメージではなく内容を伝えている。
広告の多くはイメージと社名が結びついていない場合が多いけど、このコマーシャルはきちんと社名も印象付けされている。

コマーシャルは、中尾彬と奥さん(池波志乃)がナレーションに答える形。

NA「HISでは、ライバル他社のツアーをお勧めすることがあります」
中尾「それ、いいんじゃないの、なんか」
NA「お客様のいい旅のためならばと、ルックJTBやJALパックのツアーをお勧めすることもあります」
中尾「自信だね」「どんどんやってください」
NA「お客様のいい旅のために」
中尾「すべてはお客様だよ」「ね」
NA「海外旅行をもっと便利にするHIS」
中尾「便利そうだね」「大らかだね」
NA「いい旅研究室」

以上のように、テレビコマーシャルで言うのは斬新だ。見たことがない。
ナレーションは、夏木マリ。

まるで、シャープが、「シャープは、お客様のためにソニーやパナソニックの製品をお勧めすることもあります」と言うようなものだ。
東京個別指導学院が、「東京個別指導学院は、お客様のために明光義塾をお勧めすることもあります」と言うようなものだ。
ホンダが、「ホンダは、お客様のためにトヨタや日産の車をお勧めすることもあります」と言うようなものだ。

このセリフはなかなか言えない。

日本コマーシャルは、大手の広告会社が何社もの同業の会社の広告を抱えているから、競合広告、比較広告といったものを作りにくい。
広告会社の都合なんだけど。

今回、久々に比較広告を見た気がする。
厳密には、これは比較広告ではないのかもしれないけど、私には同等のものに見える。


格安旅行券を求めるバックパッカーたちは、あまりHISに特別な思いはない。
たいして安くもないし、ベンチャーとして注目されたHISも大手のひとつになってしまったし。
バックパッカーは他の名もない旅行社からチケットを買うことが多い。
だから、HISも一般市民を相手に売り込むしかなく、コマーシャルに力を入れるのかもしれない。
価値のないものを価値あるように見せる傾向もあるコマーシャルフィルムに対して懐疑的なところもある私だけど、今回のHISのコマーシャルにははっとさせられた。

http://www.travelvision.jp/modules/news1/article.php?storyid=36138&PHPSESSID=98562e1945999032053161f2895b2a80
HIS、合計金額表記と他社商品の取扱アピール、中尾彬さん夫妻がCM
[掲載日:2008/06/02]
 エイチ・アイ・エス(HIS)は、6月2日から放映するテレビCMで、旅行代金に燃油サーチャージを含めた合計金額表記と、他社ツアーの取扱をアピールする。4月の組織改編で設置した部署「いい旅研究室」のプロジェクトの第1弾として実施するもので、CMでは消費者に「いい旅」を提供することを前面に打ち出す。CMの出演者は俳優の中尾彬さんと池波志乃さん夫妻で、HISでは、率直なコメントで信頼を得ている2人の出演で、より共感を得られると見込んでいる。

 合計金額の表記は、2月に明朗会計シリーズの試行をはじめた後、当初は1方面であったコースが全方面に広がるなど、消費者からの反応は良いといい、今後も進める方針だ。また、他社ツアーの取り扱いについては、顧客の希望する旅を実現するためであれば、他社商品も薦めることを紹介。HIS店舗で他社商品も取り扱っていることを周知し、他社の店舗を周る必要がないことをアピールする。また、中尾さんと池波さんが「(自社商品への)自信」を語る。


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学研の訪問販売

2008-06-06 21:03:46 | Weblog
きちんと確認していないことで申し訳ないけど、私の認識を少しメモ。
認識間違いがあったらすみません。


業績悪化と赤字に苦しむ学研が、2ヵ年計画を5/9に発表している。
http://www.gakken.co.jp/company/pdf/080509-2.pdf
> ●赤字事業の撤退・縮小
> ◇雑誌出版事業:不採算雑誌の休刊や、要因の最適化等を含むコスト削減によって
> 採算事業への転換を達成します。
> ◇家庭訪問販売事業:事業環境の悪化を鑑み、事業の撤退・縮小等の抜本的な見直し
> を図ってまいります。

上記の「雑誌」「家庭訪問」という言葉を目にして一般の人が「学研の科学と学習」や「学研のおばちゃん」を思い出すのは当然。よくある連想。
だから、日刊ゲンダイも「学研のおばちゃんが切り捨てられる!」と記事にしてしまったのだと思う。

50~60誌あるのではないかと思われる刊行雑誌のうち、半分以上が赤字のはず。
訪問販売業者が売る高価な学習教材を作る部署もジリ貧。
財務状況を健全化するためには、赤字の事業はもう終了させるしかない。

学研は2ヵ年計画で売上げを増やしていくつもりのようだけど、まず無理。
売上げが大きくても、赤字を垂れ流す事業は意味がない。
刊行する雑誌を半減させ、赤字部門の多くを廃止し、売上げを3割減らし、純利益を売上げの5%にでも設定すれば会社は存続できるはず。


学研は、訪問販売で売るための高価な教材を作って訪問販売会社に卸していた。
「学研ニューマイティー」とか「Vメイト」でしたっけ。(ちがっていたらすみません)
いろいろセットで買うと100万以上もするのではなかったでしたっけ。
卸価格はそんなに高くないみたいですけどね。

中央出版の「ジャストミート」、旺文社の「パワースタディ」(PowerStudy)も似たようなものでしょう。
どの教材も批判的なコメントがネット上で広まり、訪問販売でも売上げを減らしているはず。
あやしいことはすぐネットで知れ渡ってしまう時代だから、撤退もやむを得ない。

コマーシャルで好感度を高めても、大手出版社の名を語っても、無名の訪問販売会社があくどい営業方法で売りつけるのはもう限界。
伝統ある出版社の名にも傷が付く。

そういった訪問販売用の教材を作る部署を縮小&廃止することと、学研のおばちゃんを廃止することは意味が違う。
学研のおばちゃんは学研にとって評判を落すものでもないし活用できる仕組みだから、廃止を急ぐ必要はない。
むしろ、学研のおばちゃんを学研の資産と考え、なんとか活用したいと思っている。
だから日刊ゲンダイの記事に怒って提訴までしてしまったのではないだろうか。

日刊ゲンダイも学研の陰と陽のうち、うっかり陽のほうにふれてしまった。
陰のほうを記事にしないから、と交渉すれば和解にもちこめるかも。
(投資ファンドも、クレームの多い事業からは手を引くように言ったのでは)


そういえば、むかし親が訪問販売教材を買ってしまったことがある。
比較的良心的な訪問販売会社の人だと思うけど、下記のような流れだったように思う。

1.自宅に電話がかかって来る。親が電話に出る。教育出版社を名乗る営業マンを信用する。
(ほんとは、商品を仕入れて販売している会社の社員みたいですけど)
2.営業マンは教育的なアドバイスだかなんだかのためにお伺いしたいと言う。
(ほんとは何でもいいから理由をつけて訪問販売をやりたいだけでしょうけど)
3.何も知らない親はその営業マンを家に入れてしまう。ついでに茶まで出してしまう。
(ほんとは、営業マンは学習指導のできる力のある人ではないでしょうけど)
4.学習の提案の際に教材をアピール。教育出版社の人が直々にやってきて教育について語っていると思い込んでいる親は感心。
(ほんとは、えらい人はこんな田舎に訪問販売に来るはずがないでしょうけど)
5.乗り気な親は15歳の子ども(当時の私)に教材について聞く。
(やりたくない、とは言いにくい状態)
6.とりあえず一番安いコースを申し込む。
(それでも5万6万といった安さではなかった)
7.3教科の教材が届く。
(でも紙は厚いし白黒だし、読みにくい。素人が編集したような教材)
8.一度もFAXで解答を提出することなく1年が修了。
(進研ゼミもそうだったけど、こういう自宅学習ってちゃんと取り組める人はものすごく少ないんですよね)

訪問販売会社の人はかばんからちょっと破れた旺文社の大学入試ランキング一覧表を出して1枚くれた。
それは長い間私の机の近くに貼ってあった。
だから旺文社の教材だったということだけは覚えている。
パワースタディ(PowerStudy)だったかどうかはわかりませんが。


その後、偶然ある出版社で訪問販売教材を編集している人と話をする機会があった。
「厳しいクレームの電話がとても多いけど、上司の指示に従って仕事をしているだけ。良心は痛まない」というようなことを言っていたことを思い出す。
ちょっとさみしい気分になった。
(その後T女出のその人は教材購入者にそれなりの代償を払うことになった)


まだまだ学研はごたごたが続きそうですが、科学と学習を愛読していた者として、復活を祈念します。

http://www.jiji.com/jc/zc?k=200805/2008052101055&rel=y&g=soc
2008/05/21-22:19 「学研のおばちゃん」解雇報道で提訴=日刊ゲンダイ側に賠償請求-東京地裁
 「学研のおばちゃん」で知られる教材の訪問販売事業から撤退し、販売員をリストラするとの夕刊紙「日刊ゲンダイ」の記事で名誉を傷つけられたとして、学習研究社(東京都大田区)は21日、発行元の日刊現代(中央区)に1000万円の損害賠償などを求める訴えを東京地裁に起こした。
 訴状によると、同紙は5月14日付の紙面で、筆頭株主の投資ファンドの要求に応じ、販売員のリストラを決めたとする記事を掲載した。
 学研は「記事は事実でなく、『学研のおばちゃん』という象徴的存在の切り捨てを決定した斜陽産業と評価され、企業イメージに多大な打撃を受けた」としている。



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「年齢差別のニュース」および差別的構造&差別問題について

2008-06-04 21:27:27 | Weblog
差別はいけない、と言う人は多い。
だけどそう言う人の多くは差別とは何かということを深く考えていない。
差別の定義は何かということを最初に明らかにし、差別に対して違和感があることに関して、自分の価値観や世界観について静かに分析を行わないと、いつまでも表面的な流れに流されていくこととなる。

基本的に、差別は「価値がない」と認識することと深い関係がある。
自分の所属する何か(社会組織や家庭組織や友人関係や思考パターンなど)を維持するために不適切なものだから、よく理解もしないで否定し、価値がないと断定し、見下す。

世の中にはいろんな形があり、いろんな秩序があり、いろんな組織がある。
その中で何かを区別したり価値がないと判断したり何かを否定することは、避けられない。
どうしても、整理整頓を美徳とする人は乱雑な様子を好まないし、旅をすることが好きな人は一所にとどまることを良しとしない。
色白が好きな人は日に焼けないようにつとめる。
ぽっちゃりした人が好きな人は、モデルみたいな痩せた人に興味をもたない。
社会的地位を重視する人は元犯罪者と付き合おうとしないかもしれない。

だから、ほんとうはあらゆるところに「差別的構造」は存在する。
だけど、その差別的構造は通常「差別問題」としては表出してこない。
社会組織などを維持する上で、不都合が生じない限りは、問題として現れないのだ。

多くの差別問題は、価値観と価値観がぶつかったときに発生する。
明治大正に盛んだった反差別運動もそうだし、戦後に盛んだったウーマンリブ運動(女性解放運動)もそうだ。

ある社会においてある差別的構造があったとしても、問題なく社会が成り立っている場合は、問題として現れてこない。
世の中には差別的な構造などいくらでもある。
それが、価値観の変化や衝突によって社会組織の維持に支障が生じた場合に、問題として現れてくる。

例えば、奴隷制。被差別民差別。
そういった制度や価値観は、むかしは問題があると認識されていなかった。
時代とともに社会的な価値観が変化し、問題とみなされるようになった。

遅れていた考え方が進歩したんだ、と言う人もいるだろう。
人類平等、民主主義、平和などというのは普遍的な重要なことだ、と言う人もいるだろう。
だけどほんとうにそうだろうか。
少なくとも、私たちの価値観はまだまだ最終段階まで来ていない。
これからも価値観は変化して行き、20世紀から21世紀にかけての世界の考え方は、後世の人たちから古い乗り物(飛行船や馬車)でも見るような奇異の目で見られるようになるかもしれない。

例えるのは難しいが、奴隷制の維持や被差別民に対する白眼視は、現代の人々がペットや家畜を飼い、排泄物やゴミをキタナイ物扱いすることと大して変わらないとも言える。

100年前には、支配者層重視という価値観から人類平等という価値観への移行を推進し、排泄物を肥料に使うことなく下水に流すことを促進した人たちがいる。

100年後には、人類平等というより動物平等という価値観が支配的になり、排泄物を疎外することが非常識なことになっているかもしれない。
100年後の人たちはペットや家畜を対等な存在として尊重し、敬愛の念を持って接し、命について深く考えているかもしれない。
自ら食肉となることを志願する人間が出現するかもしれない。
また、100年後の人たちは汚物やゴミを貴重な資源として活用し、排泄物を祭る礼拝堂が設置されているかもしれない。

それはまったく的外れなことではない。
すでにいくらかそういった方向性の萌芽は見られる。

いろんな価値観が生まれて、いろんなぶつかる。いろんな動きが発生してやがて一つの潮流が生まれる。
カオス理論とか複雑系の科学とはむずかしいことは知らないけど、そんなイメージがある。

世の中には混沌としたいろんな動きがあって、やがて秩序が発生して、組織が生まれて、混沌に戻る。それが繰り返される。
最高の価値観に基づいた最高に安定した社会が存在しえると考えるのは幻想だ。
やがて、その価値観と異なる価値観を持つものが発生するのは自然の摂理、物理法則に沿っているから。
ひとつの価値観によってまとまりを得た組織を堅守しようとすると、やがて限界に達する。
中国共産党が現在苦労しているように。

それで、何が言いたいかと言うと、この現在も、いろんな差別的構造が社会問題として現れてきているということ。

例えば、年齢差別もそう。
先輩が尊重されるのは当然。体が成長していても未成年がお酒を飲んではいけないというのは当然。60歳をすぎると退職するのは当然。
などなど、年齢によって区別されていることは多い。

それは蔑視は含まれていないから差別ではないと言う人もいるだろう。
だけど、60歳以上の人は働く価値がないと認識していないだろうか。
20歳以下の人間は未熟な者だと認識していないだろうか。
年下の者のことを目下だと認識していないだろうか。

そういったことが、生活スタイルの多様化した世の中で、徐々に問題視されるようになってくる。

奴隷の主人も、亭主関白な男も、たぶん「自分はまったく奴隷や女性を無価値なものとして認識していない」などと言うのではないだろうか。


いろんな社会運動に参加してみるのもいいかと思う。
動物平等を唱えて過激な活動をすれば、100年後の人からは自由民権運動の志士のように歴史上の人物として扱われるかもしれない。

自分の現在の価値観に基づく理想を追い求め、限界まで活動してみるのもやりがいはあるだろう。

すっかり社会運動というものは省みられなくなったけど、自分なりの正義感というか価値観で、反差別運動に関わるのも楽しいことだろう。

「なぜ差別問題は発生するか」、「散発的な意見はどう組織化されるか」「組織化された運動はどんな問題を乗り越えていくか」「運動はどう収束していくか」といったことをカオス理論や複雑性の科学などの視点を得て研究するのは、科学的に価値のあることだと思う。
そういう姿勢ではなく、複雑な背景をおもいきり単純化し、理屈ではなく信仰のような運動にいそしむ人もいるだろう。

だけど、組織化された運動をまるで確固とした一つの社会のように考えているのであれば、会社人間のように、一部にしかすぎないものを全体と勘違いして疑うこともなくなっているのかもしれない。

差別に反対することはきっとやりがいがあるかと思う。
ただ、差別とはなにか、ということをきちんと考えないで行動すれば、それこそ堂々巡りの中にいるような状態から抜け出せない。
循環する何かの一部分を、全体と勘違いして過ごすことになるのかもしれない。

そんな印象を持った。
下記の研究者の博士論文の論評を拝見して。
・日本における人民戦線史観の批判的研究
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/dspace/bitstream/2241/6695/1/B1853.pdf

この先生はとても頭のいい人だけど、学生運動最後の世代で、思想的にもその時代の影響が大きい。
ご自宅の本棚には岸田秀の「ものぐさ精神分析」も置いてあったけど、きっと「新しい傾向のよくわからない感覚」と受け取ったのではないだろうか。

この先生が昔「よくわからないけど絶対的に悪いということはあるんじゃないかなと思う」とつぶやいていたことを思い出す。
私は僭越ながら、ああ、この先生は突き詰めてないぞ、甘いのでは、と思ってしまった。

現在、私が師と仰ぐ岸田秀先生は、きっとそういうことは言わないのではないだろうかと思う。

岸田先生なら、不当な何かを何々すべし、とか不公平な何々を何々をしなくては、などとは言わないだろう。
ぐるぐる繰り返す流れの中で、それを客観的に眺めてみるのもいい。
怒る必要も危機感を抱く必要もない。
物事の仕組みを把握すれば見えてくるものがある。



10年以上前、以上のような内容のけっこう斬新なことを書いたら、日本語日本文化学類の学生運動化上がりの先生方には総スカンでした。活動家、社会運動家の根本を否定したとでも思われてしまったのでしょうか。
何かに対して闘っている人は、何かを否定しているということを自覚してもいいと思うのですが。
世捨て人系は歴史学の世界で生き辛いのでした。。。


<参考>
労働調査会2007年4月13日のニュース
http://www.chosakai.co.jp/news/n07-04-13-3.html
■英、独、仏では昨年までに年齢差別禁止の国内法令を施行
~厚労省・海外情勢報告~
 厚生労働省はこのほど、「2005~2006年海外情勢報告」をとりまとめた。報告では、諸外国における高齢者雇用対策を特集し、EU、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスなど主要先進諸国を中心に調査している。

 報告によれば、2004年における各国の公式引退年齢(公的老齢年金を満額受給可能な最低年齢)は、概ね65歳となっているが、フランスの男女及びイギリスの女性は60歳となっている。

 一方、実引退年齢(40歳以上の者が継続就労の意思なく退職した年齢の平均値)は、各国とも総じて公式引退年齢を下回っており、アメリカは男性64.2歳、女性63.1歳、イギリスは男性63.0歳、女性61.6歳、ドイツは男性61.3歳、女性60.6歳、フランスは男性59.3歳、女性59.5歳となっている。

 高齢者(55~64歳)の就業率は、いずれの国(統計値がないイギリスを除く)も1960年代後半から1980年代半ばまで下降し、その後上昇に転じている。2005年の就業率は、アメリカ60.8%、イギリス56.8%、ドイツ45.5%、フランス40.7%となっており、各国とも年齢計(15~64歳)の就業率より低く、その差は10~20%程度となっている。

 また、2005年の高齢者の失業率は、ドイツ12.7%、フランス6.8%、アメリカ3.3%、イギリス2.7%で、年齢計の失業率との比較では、アメリカ、イギリス、フランスでは年齢計失業率の方が高齢者失業率より高いが、ドイツでは逆になっている。

 雇用対策面では、EUが、2010年までに高齢者の就業率を50%とし、平均引退年齢を64.9歳に引き上げる目標を打ち出した。年齢に関する各国の法制度をみると、アメリカでは1967年に雇用における年齢差別禁止法を制定、イギリス、ドイツ、フランスでは、年齢、障害等に係る雇用差別の禁止を加盟国に求めたEU指令に従い、2006年末までに国内法令を施行している。

 定年制は、アメリカでは原則禁止しているが、イギリス、ドイツ、フランスでは65歳以上の定年制は認めている(これら3ヶ国では一定要件の下に65歳未満の定年も可)。

 また、事業主に対する積極的な就業促進政策をみると、イギリスでは年齢差別是正のためのキャンペーンを実施、ドイツ及びフランスには高齢失業者雇入時の賃金助成などがある。

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知っているようで知らない英語の意味(バンド名とか企業名とか)

2008-06-03 20:10:35 | Weblog
Superflyっていうバンドというかグループというか個人が、脚光を浴びていますね。
情熱的な歌声は各方面で好評です。

でも、意外にSuperflyってどういう意味か意識したことのある人は少ない様子。
Superなfly、っていう感じでしょうか。
超飛び? あるいは超蝿?
ハエ(fly)だったら怖いなぁ。


でも、辞書を見ると下記のような説明があります。70年代に生まれた俗語で、かなりクール!っていう意味みたいですね。
http://dictionary.reference.com/browse/superfly
■superfly
"excellent, superior," 1971, originally U.S. black slang, from super.
(「super」という後から派生したアメリカ発祥の黒人スラング。1971年。「すばらしい」「すぐれている」の意味)

http://www.urbandictionary.com/define.php?term=super+fly
■super fly
Suprefly is a word from the early 1970's which in most cases means really cool/really good
(「Superfly」は70代初期から、主に「かなりクール」「ほんとにイイ」という意味で使われている語)


ついでにいくつかのバンド名をチェックしてみましょう。
90年代に、ブラー(blur)っていうアイドルっぽいイギリスのおしゃれロックバンドがいましたね。
ハイブリッドロックなどと言ってましたっけ。

BLURっていうバンド名を知っている人は多いと思うのですが、そういえば、日本語で言うとどういう意味なのでしょう。
★BLUR:(表面を)曇らせる、よごす
つまり、「クモラス」っていうような感じのバンド名。

パルプ(pulp)というバンドもかっこよかった。イエローモンキーは彼らの影響を受けているんじゃないかな。コード進行が似ているところもある。

★PULP:どろどろしたもの、果肉、(製紙原料の)パルプ
ただ、パルプフィクション(pulp fiction)はペーパーバック(paper book)と同義。
ペーパーバックみたいに軽いもの、というイメージでPULPを使っているのかもしれません。


後日ちょっと気がついたものを追加したいと思います。

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「“中田英寿の真実”僕が見た、この地球。」日テレ6/2(月)21:30~23:18とか。

2008-06-02 23:45:29 | Weblog
昨日、6/1日曜日の午後1時過ぎにTBSの「噂の!東京マガジン」を見てたら、日本にひとりしかいないという若い女性石工さんが取材されていた。
石に犬の像を彫っている様子が画面に流れているときに「ワンちゃん(ネコ)が~」という字幕が流れたのを見て少しずっこけた。

この数年というか10数年、テレビの字幕のいいかげんさには目に余るものがある。
誤字、漢字の変換ミスがあまりにも多い。
難しい漢字を知っている高学歴高収入のテレビ局の社員がチェックしたらこんなことは起こらない。
そんなレベルの間違いが発生するのは、難しい漢字を知らない人が低収入で追いまくられて番組を作っているから。
出版物ではこんな手抜きをすることはない。

字幕のミスは何百万人もの人が目にするけど、すぐに場面がわかるのであまり記録に残らない。
クレームの数も少ないだろうけど、プライドがあるんだったらそんなミス繰り返したらだめだろう、と感じる。

そんな中でも、今回のミスは秀逸とも言える誤植だった。
なんでワンちゃんがイヌじゃなくてネコだったのだろう。
実際に石に彫ってあったのもイヌだったのに。
(追記 6/5木の夜11:16くらいにも日テレが石原知事のインタビューに「これから見にくい争いがはじまる」と字幕をつけていた。「見にくい」ではなく「醜い」が正しい)


それはともかく、中田は頭がいい。
運さえ、呼び寄せているのかもしれない。
周囲には自分を引き立ててくれる人もいた。
だけど、それが最後にほころびたのが、2006年のワールドカップではなかったか。
ピッチに横たわる中田に背を向けて、チームメイトは去っていったのが印象的。
人間のできた小野は、だまって最後に中田に手を出したけど。
(そうじゃなかったでしたっけ)

今回の放送には、「何を今さら」と感じる人も多いだろう。
たしかに、一般的にはもう中田英寿に関心のない人が多い。
むしろ、中田英寿に好感を持っていない人も多いのではないだろうか。
そのうち、中田英寿をマネージメント会社が守ってくれなくなり、世論の調整ができなくなったら、元チームメイトも中田に対する感想を口にするのではないだろうか。


この特集番組は、がんばって編集されている。
「開局55年報道特番」「独占密着」「取材班に明かした素顔」
テレビ欄には豪華なPR文が並ぶ。

中田英寿も、PR会社の宣伝によって、商品価値を高めている。
マネージメント会社というのは、芸能事務所みたいなもの。
PR会社、広告会社のようなものかもしれない。

芸能やスポーツとは関係のない経済関係の人やネット系の有名人でも、PR会社と契約をしている人がいる。
名前を聞けば「へぇー、あの人が?雑誌やネットではけっこう有名な人だよね、実力でメディアに出ていたんじゃないの?」と思う人も多いだろう。

PR会社はクライアントをメディアに露出させ商品価値を高めるのが仕事だから、様々な手を使ってメディアに食い込む。
PR会社の人は営業をしやすくする必要があるためか、美容整形を行っている人も多い。
知ってる広告会社の女性の過半数は整形済み。
そういう業界もありえるかな、と感じるけど「虚飾」という言葉を思い出す。


日テレはこの報道特番を作るのにいくらサニーサイドアップに支払ったのだろう。
朝青龍がモンゴルで中田とサッカーをした映像は各社にけっこういい値で売られていた。
(というか朝青龍とサッカーをする映像は冒頭というか序文というか回想シーン?でほんの数秒使われたけど、本編には全く出てこなかった)


この番組は、純粋なドキュメンタリーではない。報道番組とも言いにくい。
いろんな時に撮られた断片的な映像。
映像のコラージュと、イメージ画像と、フォローアップ編集だ。

カメラマンや編集の人にも聞いてみたい。
やりとりをどう編集するか、構成をどうするか、相当苦労されたのではないですか。


世界各国で、中田が滞在しているときに新聞に“NAKATA IN TOWN”という記事が出ている。
なぜか、アフリカでもアジアでも同じ写真が使われている。
これもPR会社(マネジメント会社)のリークですか。

偶然運転手が中田来訪を伝える英字紙を手にして見せてくるわけですか。
これは、演出ですか。やらせとも言いませんか。

イースター島ではタイミングよく子どもたちが植樹をはじめましたか。
でもそのナレーションはちょっと違っていませんか。
演出のために植樹をさせませんでしたか。

これを55年報道特番と銘打っていいのですか、日テレさん。
日テレのカメラマンは今回の映像の何%を撮ったのか公表できませんか。


中田英寿によると、旅で印象に残ったのは「笑顔」だそうです。
いいまとめですね。
しかし、どんなものでしょう。
私には、旅写真家兼ライターの三井昌志さんの言う「笑顔」のほうに真実味を感じる。

日テレさん、ドキュメンタリーとか報道とか言うなら、毎年アジアを旅している三井昌志さんに数ヶ月密着したほうが、間違いなく本物の価値ある番組を作ることができますよ。
おすすめ。


<6/3追記>視聴率は12.9%。宣伝のわりにあまり反響はなかったらしい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080603-00000001-maiall-ent

<6/10追記>6/7土曜日午後3時スタートの「中田英寿プレゼンツサッカー+1マッチ、日本選抜対世界選抜」(日テレ)の視聴率は6.3%。

<6/13追記>出演番組が軒並み低視聴率だった中田英寿(内外タイムス)
「所属事務所絡みの商売の広告塔になっているとみるのが妥当」との記述も。
http://news.livedoor.com/article/detail/3681486/


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アートンの郭社長逮捕

2008-06-02 20:44:39 | Weblog
アートンの本は何冊も持っている。
ややサブカル系というか着眼点のおもしろい本が多い。
梁石日(ヤン・ソギル)さんの本から、世界の面白地名の本から、いろいろ持っている。
半分以上は東京国際ブックフェアで買ったものだけど。

はじめてアートンが東京国際ブックフェアに出展したのはいつでしたでしょうか。
4~5年前?もう少し前でしたっけ。Kさんはまだアートンにいるのかな。

ちょうど製作していた映画「夜を賭けて」も公開されたころで、ブースは手作り。
いい味を出していた。

去年もおととしも、割引率の多い本を景気良く販売していて、本を買うと高麗人参ドリンクなどのおまけもつけてくれて、好印象だった。
アートンで働くのもいいなと思ったくらい。

それが、いつのまにか5/28に社長の逮捕となっておどろく限り。
あまり出版業界で今回のことは話題になっていないけど、私にとっては大きな事件。

きっと精力的な社長はいろんな事業にも手を出していて(そういえばそもそもアートンという出版社も広告会社から産まれたものでしたっけ)、タイミング悪く法にひっかかってしまったのでしょう。そう思いたい。
ほんとうに悪いしたたかな人だったらこんなところでボロ出さないし。

私は、郭社長を擁護したいと思う。
アートンは実に興味深いおもしろい出版物を出している。
これからも、精力的に楽しい本を出していってください。

それにしても渋谷にあった出版社なのにいつのまにか事務所が新宿に移っている。
社名もアートンからアートン新社に変わっている。
今年は東京国際ブックフェアに出展もしないみたい。
どういうことなんだろう。
少し検索してもその経緯がわからない。

アートンのホームページを見ると今回の事件についての説明が掲載されていない。
何か、説明したほうがいいと思いますよ。
というか、不安な気持ちになっているファンの人たちに対して不誠実だと感じる。


<参考>郭充良・カクチュンヤン
1955年大阪生まれ。京都の大学を卒業後、新聞記者を6年つとめ、1986年に貿易会社を設立。91年にアート系の広告・イベント会社のアートンを設立。音楽、スポーツ、イベント、広報、宣伝広告など各種文化事業に幅広くかかわり、1997年から出版事業を開始。アジア・アフリカの絵本シリーズの他、梁石日、荒木経惟、宇野亜喜良、赤塚不二夫など人気作家の著書も刊行。2002年日韓合作映画「夜を賭けて」を製作。ミニシアターや出版本を置いた韓国料理店の運営と新しい分野を次々と開拓している。
・アートン
http://www.artone.co.jp/

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080528-OYT1T00379.htm
■「胸大きくなる」錠剤販売、社長ら逮捕…不法利益7億超か
 「胸が大きくなる」などと薬効をうたって健康食品を販売したとして、神奈川県警は28日、東京都新宿区新宿、健康食品販売会社「ファイナルジャパン」社長、明石まゆみ容疑者(41)と同社の実質的経営者で関係会社「アートン」社長の郭充良容疑者(52)(韓国籍)ら4人を薬事法違反(医薬品の無許可販売・貯蔵)の疑いで逮捕した。

 県警は押収した書類の分析などから2007年11月までの2年間に約2万6500人に販売、約7億4000万円の利益を不法に得ていたとみている。

 発表によると、明石容疑者らは、医薬品販売業の許可を受けずに07年7~11月に、11都県の女性17人に「Dカップになる」などと薬効をうたい、錠剤「アップゴールドインパクト+2006」59個を約53万6000円で販売するなどした疑い。商品は180粒入り1万2800円で、06年1月から雑誌やインターネットで販売していた。購入者のほとんどは効果がなかったと話しているという。
(2008年5月28日13時45分 読売新聞)

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080528AT1G2801828052008.html
■健康食品販売、4容疑者を逮捕・神奈川、無許可で効能うたう(NIKKEI NET 5/28)
 「胸が大きくなる」などの効能をうたい健康食品を販売したとして、神奈川県警生活経済課は28日、健康食品販売業「ファイナルジャパン」(東京・新宿)の実質経営者、郭充良容疑者(52)=東京都杉並区高円寺北=ら4人を薬事法違反(医薬品の無許可販売など)の疑いで逮捕した。調べに対し、郭容疑者は容疑を否認しているという。

 同課は、郭容疑者らが2006年1月から07年11月までの間、この健康食品の販売で約8億3000万円を売り上げたとみている。

 調べによると、郭容疑者らは共謀し、医薬品販売業の許可を受けていないのに、07年7月から11月の間、川崎市中原区の無職女性(31)ら計17人に対し、「3個飲んだらDカップになった」などと効能をうたい、健康食品を計約53万5000円で販売した疑い。(12:41)

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