波打ち際の考察

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波屋山人

信仰としての寛容、知性としての寛容

2011-09-04 11:37:10 | Weblog
ノルウェーで移民の増加に危機感を覚える青年が80人以上の人を殺戮してもう何か月も経つ。
移民に肝要な左派系の政党のイベントには多くの移民の子弟も参加していた。

今回の悲劇に関して、移民の人たちに対する寛容を失ってはいけないという声がノルウェー社会の中で広がっている。
一般市民も、多文化に対して寛容でいることを誇りに思っている。

多文化の共生する社会こそ進んだ社会であり、正しいあり方であると認識している。
ノルウェーの若者も次のように記している。

http://moriweb.web.fc2.com/mori_t/index.html
> ノルウェーでは移民たちの習慣や日常を、できるかぎり尊重します。
> たとえばイスラム系の生徒が望めば、 学校給食にハラルを使うことが普通です。
> ベーリング・ブライヴィークのように、こうした政策に反対する人も、
> (きわめて少数派ですが)存在します。こんなことを許し続ければ、
> しまいにはノルウェーの社会や文化が 変わってしまうと彼らは主張します。
> でもこれは完全に間違っています。出自が異なる文化の人たちに、
> 多数派である私たちが合わせる努力をすべきなのです。
> ノルウェー国民は決して器用ではありません。
> だからこそ私たちは努力しなくてはならないし、
> この制度を大切にしていかなくてはなりません。
> そして移民としてやってきた人々も、私たちの社会に溶け込めるように努力しています。
> これは相互の責任です。

この数十年でずいぶんノルウェーも外国人に寛容になったらしい。
1960年代に港湾労働者をやっていた親は「北欧の人は日本人を見下しがちだった」と言っていたものだが。


理想のために自分を律する姿は誠実で美しい。
ただ、本当の意味での多文化社会が成立している社会はあるのだろうか。

もしかしたら、「差別は犯罪である」という共通認識のもとに犯罪が排除される社会より、
差別だらけ、犯罪だらけの社会のほうが、ほんとうは多文化共生が成立しているのかもしれない。

多様性とか差別は、人種や民族や容姿だけで生じるものではない。
政治思想、性的嗜好、知的レベル、善悪の基準、学歴、その他さまざまな差異によって生じる。

あらゆる差異を受け入れるというのは、信念としては美しいが、現実的には難しい面がある。
なぜなら、ある人にとって犯罪的であり否定されるべき価値観が、
ある人にとっては伝統的であり守るべき価値観である場合があるのだ。

寛容、民主主義、平和などといった価値観のもとに人々をまとめあげても、
基盤となる価値観によって社会の統一をはかる姿は、ほんとうの意味での多文化共生とはいえない。
(中華民族思想やアメリカ忠誠のなかで各少数民族の平等をうたうようなものだ。エロや暴力や犯罪を排斥した上で、文化の多様性を誇るようなものだ)

ある価値観の人にとって否定されるべき行為が、別の価値観の人には肯定されるということは多い。
人前でぜったいに肌を見せたくない人もいれば、屋外で裸ですごすことを好む人もいる。
肉食系女子もいれば草食系女子もいる。
アウトドア派もいればインドア派もいる。
ハードロック派もいればフレンチポップス派もいる。
権力志向者もいればアウトサイダーもいる。
ロリコン男もいれば熟女好き男もいる。
無神論者もいればイスラム原理主義者もキリスト教原理主義者もいる。
そういった人たちが一緒のところにいれば、お互いをどう受け入れ、理解するのだろう。

現状では、価値観のことなる人に距離を置いて、
同じような志向をもつ人たちとだけ付き合う人が多いかもしれない。
実際、日本においても、まじめ人間はまじめ人間と、変態は変態と、保守派は保守派と、左派は左派とつるんでいることが多い。
そして、まじめ人間は変態を受け入れることなく、保守派と左派はお互いを同じような口調で非難していることが多い。
人種や民族が異なっても、オタクはオタクと、学者は学者と話が合うことが多い。

自分と価値観の異なる人を、犯罪的だといって非難する人は、
多文化共生の社会になかなかたどり着くことはできない。

自分が否定する、犯罪的だと考える思考パターンや価値観について理解することなく、
平和や平等や民主主義や多文化共生が大事だと主張するのは、
知的というよりも、信仰的だ。
差別者や文化的排斥者とあまり思考のレベルは変わらない。

多文化共生という理想は、自分の価値観と異なる者を犯罪者として疎外していては
実現することができない。

社会を変えるためには、思考のレベルを高める必要がある。
そのためには、信仰ではなく、知性が必要だ。
それは、信じる力ではなく、世の中の仕組みを分析し、認識する力だ。

ノルウェーにおいては幼い頃から多文化共生とか文化的寛容とか民主主義について価値観が教え込まれているらしい。

だから、子どもたちは
> 出自が異なる文化の人たちに、多数派である私たちが合わせる努力をすべきなのです。
> そして移民としてやってきた人々も、私たちの社会に溶け込めるように努力しています。
> これは相互の責任です。
と信念を記す。

多数派が少数派を抑圧してはいけない、強者は弱者をいじめてはいけない、という言葉はよく耳にする。
たしかに、少数者や弱者が、無残に存在を踏みにじられるのは悲しいことだ。それは避けたい。

ただ、何をもって多数派といえるか、強者といえるか、判断はむずかしい。
強いて言えば、ぼくたちは多数派である面もあれば、少数派である面もある。
一見弱者に見える人だって、視点を変えてみれば強者だったり差別者であったりすることは多い。

「ぼくたちは多数派であり強者であるから、少数者を抑圧しないためにも文化的アイデンティティーは持たないほうがいい。だが少数者は存在を維持していくために文化的アイデンティティーを持つ必要がある」
という考え方もある。
しかし、弱者は他の価値観をもつ人々に対して寛容にならなくてもいいのだろうか。
強者は自分の育った文化の価値を知らなくてもいいのだろうか。
弱者が勢力を伸ばして強者になれば、それまでの強者は駆逐されてしまうことだってあるだろう。

少数者が少数者だけで固まり、その価値観を維持し、やがて多数者になったときに
その価値観で社会を覆うことを試みれば、少数者になった多数者はどのように行動をするのだろうか。
以前あなたたちの権利を守り配慮してあげたのだから、こんどは自分たちに配慮してほしいと言うのだろうか。
あるいは、弱者として滅び去る運命を受け入れ、それでも寛容な姿勢を維持することに誇りを覚えるだろうか。

むかし、アメリカ大陸に西欧人が到着したとき、原住民にとって彼らは少数者だった。食べ物をあげて、冬を越せるように手助けしてあげた。
北海道に日本人が入植してきたときも、アイヌの人たちは少数者の日本人に北海道でも育つ作物を教えてあげた。
アボリジニーもチベット人もケルト人も、その土地の多数者であったときがあるけど、やがて少数者に追いやられた。
統計的に見ても、このままイスラム人口が増加すれば、数十年後にノルウェーはイスラム教徒の国になるかもしれない。
きっと、イスラム教徒はイスラム教の価値観を優先し、それに沿った政策を求めるだろう。

「出自が異なる文化の人たちに、多数派である私たちが合わせる努力をすべきだ」
という認識にはおごりがあるかもしれない。
自分たちが少数派になる可能性も考えておくべきだろう。
「自分たちがほろびてもいいから、崇高な理想を心にいただきたい」という覚悟を持った生き方もあるだろう。
もしかしたら、初期のインド仏教徒は、そのような覚悟をもってヒンドゥー教徒やイスラム教徒に対峙していたのかもしれない。

「移民としてやってきた人々も、私たちの社会に溶け込めるように努力している」
という認識には希望的観測が入っている。
あるいは、寛容とか平等とか民主主義と言った共通の価値観のもとに、同化が可能だと考えているのだろうか。
少なくとも、多数者の良識に少数者も良識でこたえてくれるはずだ、という希望的観測に頼らないほうがいい。
アメリカやドイツの社会の例を見ても、少数者からの歩み寄りは過度に期待できない。


<参考>ノルウェーデータ2011
ノルウェーには500万人弱の人口しかいないが、移民1世と2世の人口は50万人を超える。
http://www.ssb.no/english/subjects/00/minifakta_en/jp/main_03.html.utf8#tab0313


民主主義者というか、社会主義者というか、古典的左派というか、リベラルな人たちは、
文化的多様性を受け入れる寛容さが大切だ、と唱えることが多い。

まずは自分から、保守的な田舎のおじさんとか、突拍子もない原宿のギャルとか、変態的な芸人とか、暴力的詩人とか、いろんな人たちの価値観を受け入れてみてはどうだろうか。
善悪とは何か、犯罪とは何か、というところから考えてもいい。

リベラルな自分は正しい、というスタンスで他の人を「遅れてる~」というような感じで見下していては、多様な文化が共生する社会で生きていくことはできない。


むかしの左派言論人の思考をコピーしたような発言が多い秋原葉月氏のような文章を読んでふとそんなことを思った。
(そういえば、2000年以前ならこのような言説は多数派だったけど、現在ではすっかり少数派になってしまった。ネット上での秋原葉月氏の叩かれようは痛ましいぐらいだ)

自分と考え方の違う人のことを民主主義的ではないとかレイシストだと決めつけて疎外するのもいいけど、それは多文化共生社会に生きる人の姿勢ではないと感じる。


> 死刑否定の根本にある哲学を、ノルウェーの若者の手記に見てみる
> 秋原葉月
> 2011年08月21日05時00分
> http://news.livedoor.com/article/detail/5799285/


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