いくつか鉢植えやプランターで植物を育てているが、ほんとうは地面に植えたい。
植物には好きなだけ大地に根をのばしてほしい。
水やりや薬剤散布、除草など人の手を加えず、自然の中で育ってほしい。
私は草木の生育を見守り、美しい花を眺めたり、実ったものをいただいたりしたい。
狩猟採集生活は、無秩序と向き合う意識が日常的だ。
野生の動植物は、一定の場所にひそんでいることが推測できるが、見あたらないときもある。そうかと思えば意外なところから出現することもある。
食べ物が得られない日もあれば、取れすぎる日もある。
それでも人々は命をつなぎ、旧石器時代から縄文時代まで何万年も日本列島に分布していた。
縄文時代にも、クルミや栗の木を山に植えるなど、食物を手に入れやすい環境を整備することはあった。
しかし、収穫の時期以外はほぼ放置。
何かを得るために計画を立て、その一部分の遂行に集中して我慢する、ということはあまりなかった。
それに引き換え、現代はどこを向いても秩序だった組織ばかり。
世の中はさまざまな仕組みで覆いつくされている。
人々は時間を切り売りするかのように、職場で細分化された労働に従事している。
心躍らせながら、心に安らぎを覚えながら、キーボードを叩いたり荷物を動かしている人はどのぐらいいるだろう。
弥生時代以降に稲作が生活の中心になってから、計画に合わせた行動や水の分配の秩序化、富の蓄積の重視などが不可欠になった。
狩猟採集生活を送っていた縄文人は競争に敗れ、同化あるいは駆逐されてしまった。
しかし、ほんとうは、その日暮らしでもいいのではないだろうか。
なぜ、資産を貯めこまないといけないのだ。なぜ、将来に投資しないといけないのだ。なぜ、成長していかないといけないのだ。
方向性を持った価値観は、切り落としてしまうものも多い。
秩序化に重きを置かない。貯金なんて興味ない、影響力の強化も望まない。
そのような姿勢だからこそたどり着ける意識もあるのではないだろうか。
よく、次のような話を目にする。
https://hebinuma.com/2014/09/10/post-4176/
お金持ちが熱帯の漁村へ行って、貧しい漁師にビジネスの巨大化をすすめる。
日々のどかにすごしている漁師はなぜそんなことをしないといけないのかわからない。
お金持ちは、お金持ちになれば海辺のリゾートでのんびりと暮らせるだろ、と言う。
しかし漁師は、その生活はすでに今の生活なのでは… と不可解に思う。
ビジネスジジョークとしてはよくできていると思う。
ただ、お金持ちになってリゾートに住むことは、否定されることではないと思う。
毎日あたりまえのように漁村で過ごしている漁師と異なり、お金持ちは海や風やヤシの木の美しさを強く感じ取ることができるのだ。
同じ環境にいても、意識レベルというか認識の違いによって、見える世界は違う。
お金持ちになっても幼児のような価値観のまま行動する人もいるけど、美術、デザイン、歴史、文化などの知識も深めている人は、さまざまな魅力を感じ取ることができる。
だから、お金持ちが海辺の寒村に住んだり、都会人が山奥の秘境に住んだりするのも、おもしろいのではないかと思う。
私がいま想像しているのが、狩猟採集生活。
山を買って、さまざまな果樹や薬草、ハーブ類を植える。
必要な時に山野草とともに採取。縄文人が使っていたような囲炉裏で鍋をつくる。
主食は里芋とか山芋だろうか。山ブドウのお酒も作ってみたい。
混沌や無秩序に向き合う生活であっても、快適さを追求するために現代の利器との融合を目指したい。
竪穴式住居のように見えながらもガラス窓を使い採光性をよくする。
狩猟採集生活に移行するにあたり、株の配当金などで細々と生活できるような金融資産を確保しておきたい。
医療保険にも入り、生活に不安のない状況をつくっておく。
そうすると、心おきなく狩猟採集生活に入り、山や川と意識がつながった日々が送れるのではないだろうか。
そこで感じた日々のすばらしさをyoutubeかブログで配信すれば、共感者も増えるかもしれない。
人類社会は、秩序化や組織化はもう限界に達しようとしているのかもしれない。
縄文人が見たらめまいがするような数の知識を現代人は求められている。
いちど、複雑な電子機器も数々のアプリも、行動を制約する常識も社会ルールも手放し、無秩序な自然の中に裸足で立ち入ってみてもいいのではないだろうか。
そうすると、またあふれでる活力を補うことができるかもしれない。
植物には好きなだけ大地に根をのばしてほしい。
水やりや薬剤散布、除草など人の手を加えず、自然の中で育ってほしい。
私は草木の生育を見守り、美しい花を眺めたり、実ったものをいただいたりしたい。
狩猟採集生活は、無秩序と向き合う意識が日常的だ。
野生の動植物は、一定の場所にひそんでいることが推測できるが、見あたらないときもある。そうかと思えば意外なところから出現することもある。
食べ物が得られない日もあれば、取れすぎる日もある。
それでも人々は命をつなぎ、旧石器時代から縄文時代まで何万年も日本列島に分布していた。
縄文時代にも、クルミや栗の木を山に植えるなど、食物を手に入れやすい環境を整備することはあった。
しかし、収穫の時期以外はほぼ放置。
何かを得るために計画を立て、その一部分の遂行に集中して我慢する、ということはあまりなかった。
それに引き換え、現代はどこを向いても秩序だった組織ばかり。
世の中はさまざまな仕組みで覆いつくされている。
人々は時間を切り売りするかのように、職場で細分化された労働に従事している。
心躍らせながら、心に安らぎを覚えながら、キーボードを叩いたり荷物を動かしている人はどのぐらいいるだろう。
弥生時代以降に稲作が生活の中心になってから、計画に合わせた行動や水の分配の秩序化、富の蓄積の重視などが不可欠になった。
狩猟採集生活を送っていた縄文人は競争に敗れ、同化あるいは駆逐されてしまった。
しかし、ほんとうは、その日暮らしでもいいのではないだろうか。
なぜ、資産を貯めこまないといけないのだ。なぜ、将来に投資しないといけないのだ。なぜ、成長していかないといけないのだ。
方向性を持った価値観は、切り落としてしまうものも多い。
秩序化に重きを置かない。貯金なんて興味ない、影響力の強化も望まない。
そのような姿勢だからこそたどり着ける意識もあるのではないだろうか。
よく、次のような話を目にする。
https://hebinuma.com/2014/09/10/post-4176/
お金持ちが熱帯の漁村へ行って、貧しい漁師にビジネスの巨大化をすすめる。
日々のどかにすごしている漁師はなぜそんなことをしないといけないのかわからない。
お金持ちは、お金持ちになれば海辺のリゾートでのんびりと暮らせるだろ、と言う。
しかし漁師は、その生活はすでに今の生活なのでは… と不可解に思う。
ビジネスジジョークとしてはよくできていると思う。
ただ、お金持ちになってリゾートに住むことは、否定されることではないと思う。
毎日あたりまえのように漁村で過ごしている漁師と異なり、お金持ちは海や風やヤシの木の美しさを強く感じ取ることができるのだ。
同じ環境にいても、意識レベルというか認識の違いによって、見える世界は違う。
お金持ちになっても幼児のような価値観のまま行動する人もいるけど、美術、デザイン、歴史、文化などの知識も深めている人は、さまざまな魅力を感じ取ることができる。
だから、お金持ちが海辺の寒村に住んだり、都会人が山奥の秘境に住んだりするのも、おもしろいのではないかと思う。
私がいま想像しているのが、狩猟採集生活。
山を買って、さまざまな果樹や薬草、ハーブ類を植える。
必要な時に山野草とともに採取。縄文人が使っていたような囲炉裏で鍋をつくる。
主食は里芋とか山芋だろうか。山ブドウのお酒も作ってみたい。
混沌や無秩序に向き合う生活であっても、快適さを追求するために現代の利器との融合を目指したい。
竪穴式住居のように見えながらもガラス窓を使い採光性をよくする。
狩猟採集生活に移行するにあたり、株の配当金などで細々と生活できるような金融資産を確保しておきたい。
医療保険にも入り、生活に不安のない状況をつくっておく。
そうすると、心おきなく狩猟採集生活に入り、山や川と意識がつながった日々が送れるのではないだろうか。
そこで感じた日々のすばらしさをyoutubeかブログで配信すれば、共感者も増えるかもしれない。
人類社会は、秩序化や組織化はもう限界に達しようとしているのかもしれない。
縄文人が見たらめまいがするような数の知識を現代人は求められている。
いちど、複雑な電子機器も数々のアプリも、行動を制約する常識も社会ルールも手放し、無秩序な自然の中に裸足で立ち入ってみてもいいのではないだろうか。
そうすると、またあふれでる活力を補うことができるかもしれない。