波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
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波屋山人

あふれる

2016-03-30 22:20:30 | Weblog
2月末に東京マラソンを走った。
7年前に東京マラソンを走ってから全くジョギングすらしていなかったので、2~3か月の練習でコンディションを整えるのは難しかった。

ちょっと練習するだけで足の裏に水ぶくれができたり、膝が痛くなったり、なかなか走りこむことができなかった。

今年に入ってから週に2回くらいジョギングをしたけど、本番当日になっても体重は65キロ以上。7年前よりも増えているし、身長の割にはちょっと重たい。
それでも、3時間半を切る自己新のタイムで完走することができた。

短時間でも「最低限の労力でいかに重心移動をスムーズに行うか」ということを念頭に効率的なフォームを模索すれば、体力が低下していても練習不足でもそれなりに早く走れることができる。

怠惰なぼくは、「ぎりぎりなんとか間に合わせる」という行動パターンに陥りがちだ。
ぎりぎり1校だけ入学試験に合格し、なんとか1社だけ就職試験に通り、会社ではぎりぎり刊行までに編集を間に合わせ、旅先ではぎりぎり最低限の英語でコミュニケーションをとる。
そして、ぎりぎりマラソンの目標タイムをクリア。。。

思えば、今まで何かに全力で取り組んだことがない。
なんとか間に合う程度の努力しかしていない。

本気で努力すれば、それなりの学校に行って、それなりのところに就職して、それなりに社会人としてステップアップが望めたかもしれない。

だけど、ぼくは努力をしない。
最低限必要なことだけを渋々クリアして、脱力気味に日々を過ごす。
そういった生き方があってもいいのではないかと思う。

そもそも、なぜ我慢したり思い込んだりして一定方向に突き進んでいかないといけないのか、必然性を感じない。
むかしから、いろいろ考えて、いろいろ模索して、あふれ出るように行動することに自然さを感じていた。

穴の中にボールが落ちているとする。地表の穴に水を注ぎ、地下の空間を埋め尽くして水が地上にあふれ出るのと同時にボールがポロリと地上に出てくる。そんな思考があってもいいのではないだろうか。
穴の中に梯子で入り、ボールを拾うのも一つの方法だけど、それはちょっと違うのだ。

ぼくは、方向性を持たず、あふれ出すものに興味がある。
だから、言葉にならない概念を意識の奥の方に抱きつづけ、何かがひらめくことを待つ。

秩序とは何か、混沌とは何か、形式とは何か。善悪とは何か、生死とは何か。
そういったことについてぼくは何十年もイメージを持ち続けた。
そうすると、地下空間を埋め尽くした水がやがて地上にあふれ出すように、ふと気がつくことがある。直感を得たそのことを言語化するのにもまた長い日々が必要だ。

とても頭の機能がいいのに、学校で習うこと以外のことはあまり知らない、という人は少なくない。
咎めるということはどういうことか、見下すということはどういうことか、殺人はなぜ否定されるのか、法律はなぜ設けられたか、価値観の対立にどう向き合うか、人権の重視は生物の不平等ではないか、等々といったことについて考え続けることは、社会人として生きていくためにはあまり必要ないのかもしれないけど、ちょっと離れたところから社会を眺めている人にとっては、とても意義深いことだ。

頭のいい人が既製の思考パターンや価値判断基準を疑うこともなく、怒ったり否定したり不満を募らせているのを見ると、もったいないなと感じる。
ほんの少し客観的に自分の価値判断基準を分析するだけで、かなりの不満や怒りは消散していくはずだ。


コメント (16)
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