波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

鎌倉の名店、アトリエ・ドゥ・ヴィーヴル(ATELIER DE VIVRE)

2008-05-31 23:38:06 | Weblog
今日は幸せな気分になった。
いい店を知ったから。


今日の午後、鎌倉の小町通り周辺を歩いていた。
あいにく雨は上がらず、小雨のなか傘をさしてスーパーやみやげ物屋を見ていた。
ひっそりとたたずむフレンチレストランの前で、彼女が「この店に入らない?」と言った。
ある出版社の人のおすすめらしい。
店先に「VIVRE」と書いてある。ビブレ?ヴィーブレ?ビーブル?
フランス語で何という意味だっけ。
(Vivreヴィーヴルは Live。住む、生きる。atelier de vivre は shop to live?)


ディナーは午後6時から。
まだしばらく時間があるので、予約だけして鏑木清方記念美術館に足をのばした。
鏑木清方(かぶらききよかた、1878年~ 1972年)の自宅を親族が鎌倉市に寄贈。1998年から美術館として公開されている。
文化勲章を受章された鏑木清方は日本の画壇で大きな力を持っていたのだろうか。
多くの素晴らしい作品を残られ、名も知られ、充実した日々を送られたと思うけど、どうも「ロック」な印象は受けなかった。
長谷川等伯や千住博や葛飾北斎や雪舟にはロックというか、天才性を感じるのだが。


午後6時、アトリエ・ドゥ・ヴィーヴルに入店。
意外にコンパクトな店内。清潔感がある。
カウンターの一番隅、窓の近くに座った。
メニューを見て、3皿4600円か4皿5800円かどちらの“プリフィクスメニュー”にするか少し迷ったが3皿のメニューに決定。
メインばかり3皿選んでもいいらしいけど、今回は前菜とメインとデザートを1皿ずつ指定した。
私は地場野菜&カモのソーセージと真鯛料理と白桃のデザート
彼女はウニ&ジュレと牛&フォアグラとチョコのデザート
料理名は覚えていない。
料理は絶品だった。
ひさびさにおいしい料理に出会った。
この店は、ミシュラン3つ星か2つ星のレストランの味に値するだろう。
1つ星でもすばらしいけど、それ以上ではないだろうか。

素材の味の良さを引き出し、素材の新たな魅力を提案している。
強すぎず、濃すぎず、甘すぎず、非常に繊細な表現ができるバランス感覚にうなる。
安くて甘すぎるチョコだとか、単調なスナック菓子のうまみに舌が麻痺している人でも、この料理を食べると、目が覚めるのではないか。

カモはソーセージというよりパテというかテリーヌというか、寄せ集めて固めたもの。
レバーも入っているはずだけどフレッシュで臭みがなく、気持ちよく野菜サラダと一緒に食べることができる。
ウニとトマトのジュレは最高。
彼女からスプーン1杯もらって口に入れたけど絶句した。
なんだこの味わいは。最高としか言いようがない。
甘さ、コク、フレッシュさ、ボリューム感。
どの魅力もいやみなく絶妙のバランスで調整されている。

鯛は、火を通しすぎず繊細な白身の味わいを大事にしている。
皮はパリッと薄く、その食感のすばらしさを塩が引き立てている。
肉の火の通し方も絶妙。
フォアグラもフレッシュでおどろくほどコクがあるのに、いやなアブラは感じさせない。


この料理を食べるとしばらくはジャンクな料理を口に入れたくなくなるだろう。
口の中に残る風味が吹き飛んでしまう。

ひさびさに、記憶に残るすばらしい料理を口にすることができた。
少しワインを飲んで、2人で1万2千円ほど。
このレベルの料理の店にしては安い。
グラスワインはあまりボディは感じなかったけど、香りや味わいはかなり良く、料理にも合っていた。

今日は楽しい気分にさせてもらいました。
ありがとうございます。

彼女はカウンターの中のシェフの見かけが怖い、と言ってたけど、まあ、それはそれでいいのではないでしょうか。

私は、どんな人であれ、このような料理を作る人を尊敬します。


<参考>
http://gourmet.yahoo.co.jp/0006711474/M0014012024/ktop/
■ATELIER DE VIVRE(アトリエ・ドゥ・ヴィーヴル)
住所:神奈川県鎌倉市小町2-12-37 鎌倉モンテビル 1F
電話:0467-25-5009
営業時間:11:30~14:00、18:00~21:00(要予約)
定休日:水曜、第2火曜(祝日の場合は翌日休、夏期・冬期休業あり)
座席:カウンター8席、テーブル6席
カード払いの場合は6%の手数料が必要
2004年10月5日オープン

※参考<6月のチラシから>
 ATLIER DE VIVRE
 世界中から選りすぐりの食材と、鎌倉野菜をふんだんに使った
 ネオ・クラシック・フレンチ
 素晴らしい造り手たちのこだわりワインと共に、
 お好きなものを好きなだけ楽しんでください。
 ≪MENU≫
 前菜・主菜・デザートの中から、お好きな組み合わせで・・
 *ランチ*
 2皿・・¥2,100
 3皿・・¥3,150-
 4皿・・¥4,200-
 *ディナー*
 3皿・・¥4,600
 4皿・・¥5,800-
 *シェフにおまかせ¥8400~要予約
 *アラカルト*
 前菜・スープ:¥1200~
 主菜:¥2,200~
 *ワイン*
 グラスワイン:¥700~
 ボトル:¥4,500~
 要予約・お電話お待ちしております。
 その他、ご予算に応じておまかせコース、パーティー等承ります。
 *すべて税込み価格です*
 ≪6月のお休み≫4(水)・10(火)・11(水)・18(水)・25(水)

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自家用野菜には農薬を使わない

2008-05-28 21:23:57 | Weblog
私の実家は兼業農家なので、多少の米を出荷している。
同時に、大根、ジャガイモ、ネギ、ナス、ニンジン、ホウレン草、トマト、キュウリ、カリフラワー、オクラ、はたまたウドやシイタケやユズやスダチやイチゴ等々も自給分以上に作っている。
ただ、野菜や果物は出荷することなく、自宅で消費したり近所に配ったりするだけだ。

幼い頃は母親が汲み取り式のトイレから醗酵が進んだ人肥を汲み出し天秤棒で桶を運び、畑の畝(うね)の真ん中につくった溝に流し込んでいた。
風呂の湯を沸かした薪(まき)の灰や、庭の木の枝を燃やした炭も肥料になった。
新鮮な野菜を食べさせてくれた両親に感謝している。
3人兄弟はアトピーや喘息や食品アレルギーなどと無縁で、健康に育つことができた。

先日、久しぶりに実家に帰った。
数年前にトイレは最新式のウォッシュレットになっている。
風呂もガスで沸かす最新式のもの。足を伸ばせるモダンな浴槽。
人肥や灰を畑に入れることもなくなっただろうから、最近は農協で肥料でも多めに買っているのかもしれない。

それはともかく、親がポロリと言った。
「ホウレン草を植えたんやけど、1週間農薬やらんかったら虫が来て駄目になってしもたわ」
「ホウレン草は1週間に1回農薬せなあかんな」

実家の野菜は売り物ではないので、あまり農薬は使っていない。
白菜なんて、笑ってしまいそうなほど全面穴だらけ。
でも中心部分までは青虫に食べられていないので、食べられる部分はある。
頻繁に農薬を散布するのは手間もかかるので、無農薬に近い状態で栽培している。
ただ、農薬をしないと全滅してしまうような野菜には最低限の農薬をやらざるをえない。

田舎に住む人は、野菜や果物についてよく知っている。
農作物は大きく3つに分けられる。
1.農薬がないと育てることが不可能に近いもの。
  →農薬必須。
2.農薬を抑えても育てられるけど見た目に影響が出たり、生育にばらつきが出るもの。  
  →出荷するものには十分な農薬。自家用には最低限。
3.農薬がなくてもまずまず問題なく育つもの。
  →出荷するものには農薬を使うことも。自家用には使わない。

多くの穀物や野菜、果物は、農薬がないと育てられない。
だから、青森の木村秋則さんが育てている無農薬リンゴは奇跡のリンゴだと言われる。
ほんとうに奇跡だと思う。
通常、野生種のリンゴでもないかぎり、虫にやられるのは必至。

果物や野菜は、品種改良が進んだ影響で野生的な強さを失ったものが多い。
体毛を失った人間に裸のまま野外で生活しろと言われても対応できないように、
野性を失った野菜に大自然の中でたくましく育つように期待されても到底無理なのだ。
だから、各種の農薬を使って弱い野菜を守る。

だけど、農作物の中には雑草に近いような、元気な野菜もある。
つるむらさき、モロヘイヤ、オクラ、ミズナ、アシタバなどは無農薬で作ることができる。
バジル、ローズマリー、タイム、ペパーミントなどのハーブも基本的に農薬は不要。
白菜や桃やホウレン草やブドウを無農薬で作るのはまず無理だろう。

無農薬野菜を作るのに一番手っ取り早いのは、野生に近い野菜を育てることだ。
いつか、私が野菜農場を作るときは、無農薬で育つ野菜ばかり育てようと思っている。

農薬というものは、大規模農業をやるには不可欠のものとなっている。
農業従事者の多くは高尚な趣味人でも思想家でもないから、出荷する商品として農作物を育てている。
効率を考え、病気にならないように、手っ取り早く栄養を吸収できるように、いっせいに収穫できるように、等々を考えて農協の指導により農薬を散布している。

農協も農薬が売れないと収入が減るから、農家の人たちに減農薬や有機農法を奨励することはほとんどない。

農家も農協も農薬メーカーも深くつながっているけど、あまり景気はよくない。
高級な食材を楽しむ余裕のない人も多い。
そういった人は、豊かな食卓とは何だろうと考えることは少ない。
田舎の農協の一番安い鶏肉や豚肉、野菜を疑いもなく購入する。
そのような人は、食材の質や農薬について本気で語ろうとしない。
大量の農薬を使ってちょっとやばいかな、と薄々感じながらも、生活のために農作物を出荷している。


農薬は、食品添加物に似ている。
どちらも商品を効率的に作り、販売し、お金にするのに役立つ便利な時間短縮薬、手間省き薬だ。
手間のかかる作業が大幅に省略できる。
そのかわり、安全性や品質や味を犠牲にする。

西田立樹さんという農薬の専門家の方が運営されている「農薬ネット」というサイトに、農薬をフォローする記述があった。
たしかに、食品添加物も農薬も安全なものが多い。
すぐに害になるようなものはほとんどないので、それを目のかたきにする必要はないと思っている。農薬なしで野菜を育てるのは至難の業。
農薬も食品添加物もべつに排斥されるべき存在ではない。それなりの必然性とそれなりの理由があって広く普及してきた。それを排斥する前に、農薬とは何なのだろう、ということを学んでもいい。

ただ、「ほんとうにそれが必要なのか」「なぜそれが必要なのか」「何が犠牲になるのか」といった視点があってもいいのではないだろうか。

形ばかりで中身がないものはほんとうに味気ない。
豊かになった私たちは、もう量や形を求めるだけでなく、質のいい中身を求めてもいいのではないだろうか。

世界各地の、有機的で無農薬で食品添加物を使用していないワインや加工品や海産物や野菜料理や肉料理の滋味に鈍感な人が、農薬や食品添加物を擁護してもあまり説得力はない。
いつまでも食生活の貧しい時代の論理に支配される必要はない。


「農薬ネット」の記述より(※矢印の後に書いているのは私の認識)
http://www.nouyaku.net/situmon/kotae1.html#自分用
  ■農家は自分用の野菜には農薬を使わない?
  「農家は自家消費用には農薬は使わない」という話がよく出てきます。
  もうちょっとつっこんだ「農薬は危ないから自分たち用には使わないと
  農家が言っていた」という話の場合もあります。本当でしょうか?

  私も北海道で、タクシーの運転手から 頼みもしないのに「あんたら都会
  もんは知らないだろうけど、おれらは自分たち用には農薬を使わないか
  ら、おいしくて安全なものを食べられる。」とペラペラ「教えて」もらっ
  たことがあります。
  ●いきなり結論ですが、「農家は自家消費用には農薬は使わない」という
  話は本当ではありません。いくつかの事実誤認と大いなる矛盾が隠されて
  います。
→「すべての農家は自家消費用に農薬を使わない」とは誰も言っていません。
「少なくない農家が自家消費用には農薬は(できるだけ)使っていない」というのは事実なので、事実誤認とは言うのは言いすぎです。

  ●まず1番目の事実誤認はそんな事実は必ずしもないということですね。
  そういう農家の方もおられます。でも大抵の農家はそうじゃない。
  それに農家だっていろんな野菜や果物をスーパーで買ったりしています。
  自給自足してるわけじゃないので、自分の分を無農薬でやったとしても
  どれだけ意味があるのかどうか。
→自分の作っている農薬どっさりの野菜に違和感があるから、それを避けようとして自家用には農薬の使用を控え目にするのです。
売り物になっているものは農薬の量が表示されていないから、薄々感じながら直視しないでいるのかもしれません。「本当はこの野菜もどっさり農薬が使われているんだろうな」と心の中では思って仕方なく買っている農家の人も少なくありません。
できることなら農薬をあまり使っていない野菜を食べたいと思っている人が大半でしょう。少なくとも、大量の農薬を使用した農作物に違和感を覚える農家が多いことは事実です。
農薬を使ったほうがおいしい野菜ができると思っている農家はほとんどないでしょう。

  ●2番目に「農業」というものを誤解していませんか?という点。
  「農業」は「業」ですから作って売ってなんぼの世界です。
  売り物の野菜や果物は、傷もなく形もそろっています。必要な時期に
  必要な数量を適当な価格で用意する供給責任もあります。
→工業製品のように均質な農作物の生産を優先しなくてもいいのではないでしょうか。
「売り物の野菜や果物は、傷もなく形もそろっている」「必要な時期に必要な数量を適当な価格で用意する」というのは、ビジネスマンが自分たちの効率を重視した、言ってみれば「手抜き」のやり方です。
大量の均一のプラスティックのお皿を作るのも産業ですが、手づくりで絵付きの茶碗を作るのも産業です。
貧しい時代なら大量生産もありがたく受けいれられたでしょうが、豊かな時代に質の低い製品を大量生産しても需要を満たしません。

  そして利益も稼ぎ出さなければなりません。そういうものを作るのと、
  自分が食べるものを作るのでは目的が異なりますから、栽培方法も当然
  異なってきます。よって、自家消費用と販売用を比べてもあまり意味
  無いと言うことです。
→意味がないということはありません。「都会の人は知らないだろうけど、私たちは自家用にはできるだけ農薬を使わない。販売用の農作物には生産効率の重視のために、おどろくほど大量の農薬を使用している。手間ひまをかけずに均一な農作物を安定的に得るために、本来必要のない枯葉剤や殺虫剤も使用している」と言う人に対して、「販売用と自宅用は目的が違うから比較は意味がない」と言うのでしょうか。
田舎の人は、「効率を重視して本来の味わいや安全性を失ってしまった農作物」に対して疑問を呈しているのです。西田立樹さんはそういった不安に対してきちんと向き合っていないのではないでしょうか。

  弁当屋のおばさんがお店では料理前には手を消毒液で消毒して、マスク
  や頭巾をして、きれいな弁当を出していても、家では手抜き料理で盛り
  つけを省略していたとしても当然のことでしょう。同じ理屈ですね。
  消毒液やマスクが農薬に該当します。
  つまり自家消費用の野菜はきれいでなくても良いし、供給責任もない
  ので農薬を使う必要がないということですね。
→比喩が適切ではありません。「消毒液やマスクが農薬に該当します」ではなく、「保存料や防カビ剤などの食品添加物が農薬に該当します」と言ったほうが適切でしょう。
食品添加物の使用も法的には問題ありませんが、問題もあります。農薬漬けにした野菜を大量生産することは、食品添加物を大量に使ったコンビニ弁当を大量生産することと、同じような構造があるのです。

  3番目は農家が言う「危険」とは「農薬散布」の危険を指す場合が多いと
  いうこと。農薬原液はもちろん、散布用に薄めた液でも触れたり口に入っ
  たりすれば決して安全なものとは言えないし、一歩間違えれば目を痛め
  たりかぶれたりなどの被害が出ることもあります。そうでなくても、
  臭かったり、まくのが面倒だったりなどのデメリットがあります。
  さらには農薬代がもったいないというのも理由になります。しかし、
  食べてどうかというのはこれらとは無関係な話であり、農家にとって
  危険=消費者にとって危険ということではないということですね。
→農家の人の認識と異なると思います。確かに、農薬を散布するときに気分がわるくなる人はいます。子どもに被害が出ることもあります。
しかし、農薬に不安を感じる人は、農作物に大量の農薬を使うことに関して不安を感じています。毎週毎週農薬をかけられた野菜は、見た目はきれいな形を維持できるかもしれませんが、もやしっ子のようにひ弱なものになっているのではないかと、正常なものではないのではないかと、農家の人は直感的に感じるのです。

  ●「農家は自家消費用には農薬は使わない」という話は、普段農薬を取り
  扱っていて農薬に詳しい農家の人が言っているのだから間違いない・・・・
  というニュアンスが含まれています。消費者は農薬など見たことも触った
  こともありませんから、「実は私は詳しく知らない」と自覚していて、
  「詳しい人(農家)」の意見を引用しているわけですね。
  ●では、「もっと詳しい人」である農薬業界や行政関係者が「農薬の安全
  性は様々な試験で裏打ちされ、通常使用では食品として問題はない」
  と言っていることは、なぜ無視するのでしょうか?
→農薬業界の人や行政関係者は実際に農業を行っている人たちではありません。
農業の現場でどのように農薬が使われているかということに関して、農家の人より詳しくないのではないでしょうか。
実際に無農薬の野菜と農薬たっぷりの野菜を食べ比べたことはあるのでしょうか。
食品添加物研究者が「食品添加物は安全」と言い、特に食品添加物を含んでいない食べ物を常用していないからと言って、食品添加物が安全だという理由にはなりません。
食生活の貧しい人には高級な有機食材の味になじみがないかもしれませんが、食品添加物を添加する工場の人がどれだけの添加物をどのように添加しているか知ってしまうと、できるだけ食品添加物の入っていないものを食べようとするかもしれませんね。
現場を知らずに「安全だ」と言う人が何でも知っているわけではありません。化学式や実験だけで把握できないこともあります。

  ●農薬業界や役人は情報公開不足を指摘されていますが、その裏には
  都合の悪い情報があるはずだ、農薬の危険性を隠しているはずだという
  推論あるいは想像があります。さらに、商業主義だからとか、自分たち
  は農薬で儲けているから否定できないといった考え方もあるわけです。
  ●その「裏情報」を知っている業界人が農薬使用や一般栽培作物を危険
  視しないのはなぜなんでしょうか?農薬業界人は私が知る限り好んで
  無農薬栽培作物を買っている人はいないという事実があります。問題が
  あるならば、業界人は農薬を売るだけ売って儲けておいて、自分たちは
  それら使用作物を 購入しないという卑怯な消費行動に出るべきです。
  「農家は自家消費用には農薬は使わない」という話は農家はそういう
  消費活動をしているという指摘ですが、農薬について裏も表も知る
  「農家よりもっと詳しい人たち」がそういう消費活動をしないという
  事実を直視できないなら、指摘自体が矛盾をはらんでいることにもなる
  のです。
→農薬の危険性を隠しているのでは、とは疑っていません。
すでに数々の農薬の毒性については海外でも研究され、研究結果を知ることもできます。
しかし、なかなか明らかにされないこともあります。それは、農薬業界の癒着です。利権と言ってもいいかもしれません。
なぜ、農協は不必要なまでに大量の農薬を売りさばこうとするのですか?なぜ無農薬・減農薬でやりたいという農家に対して協力的ではないのですか?
農薬業界の研究者の方は、農協のことについて詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。
いくら農薬を使えばより均質的な農作物を楽に作ることができるからといって、無農薬や減農薬のものよりもおいしいものや安全なものができないのであれば、使用する農薬を減らすことを考えてもいいのではないでしょうか。
それをしないでひたすら農薬を売ろうとするのは、非エコであり、非オーガニックであり、非スローフードであり、儲け優先の視野の狭い行動だと思います。

あらためて農薬開発者や農薬販売者、農園経営者に問いたい。
・農薬を使わないと作物を作ることができないのですか?
 (必ずしもそうとは言えないのでは。いくらでも工夫はできるのでは)
・農薬を使うことによって得られることは何ですか?
 (効率、低価格、競争力、品質と引き換えの形と量でしょうか)
・農薬を使うことによって失うことは何ですか?
 (すくなくとも、手間ひまかける誠実さと表面的ではない滋味を失ったのでは)
・農薬を使うことによって無農薬・減農薬よりもおいしい農作物が作れますか?
 (この視点は必要ではないでしょうか)
・画一的な農作物を育てることは、画一的な人材を育成することに似ていませんか?
 (あなたの息子さんをあなたの育てている農作物のように育てたいですか)
・食品添加物を多用するリスクは、農薬を多用するリスクに似ていませんか?
・食品添加物がもたらす貧しい食卓は、農薬がもたらす貧しい食卓に似ていませんか?


農薬メーカーに勤める人は無農薬野菜を求めないのかもしれません。
プレハブ住宅メーカーに勤める人は総ヒノキ造りの家を求めないのかもしれません。
ペンキメーカーに勤める人が土壁の家を求めないのかもしれません。
フリーペーパー出版社に勤める人は文芸書を求めないのかもしれません。

だからと言って、彼らが無農薬野菜やヒノキの家や土壁の家や文芸書の価値を認めないということはないでしょう。
生活に余裕ができて、豊かな生活をしたいと思ったら、彼らも無農薬野菜やヒノキの家や土壁の家や文芸書に価値を見出すかもしれません。

貧しい状態ではなかなか余裕は生まれません。
田舎の人たちが都会の人たち以上に残酷なまでに自然の破壊に無知で無神経なことが多いのは、貧しい時代が長かったせいかもしれません。

田舎は貧しく、趣味も少なく、稼ぐことが優先されてきたけど、全国にブロードバンドが通じ、田舎の人も多くの情報を得ることができるようになり、どこからでも楽天市場やヤフー!ショッピングで買い物ができるようになり、生活も豊かになった。
これから、田舎の人はもっともっと視野が広く、賢くなってくると思います。

いつまでも農薬を多用したおいしくない野菜で消費者はだませないのかもしれません。

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多幸感研究所の挑戦

2008-05-27 21:17:53 | Weblog
渋谷区幡ヶ谷に、最近話題の「多幸感研究所」があります。
聞きなれない名称ですが、多幸感について科学的に研究し、人々が幸福感に包まれて生活するためのセミナーを実施したり、多幸感増進グッズを販売したりしているようです。

職場のストレスで鬱病に苦しむ人が多い世の中ですが、毎日鼻歌を歌いたくなるような幸福感に包まれて、笑顔で過ごすことができれば幸せですよね。

そもそも、多幸感とは何でしょう。
Wikipediaには下記のような記述があります。
「多幸感(たこうかん)とは、精神が一時的に昂揚し、非常に感謝の念が強くなったり、強い健康感を感じるようになる状態。睡眠薬だけでなくステロイドホルモン製剤でも起きやすい」

快感と同じようなものかもしれませんね。
精神が一時的に昂揚、などと言うと覚せい剤や大麻、LSDやシンナーなどの薬物を思い出して怖い印象もあります。
しかし、多幸感研究所では一切非合法な薬物には手を出しません。

所長の幸田完氏は言います。
「私たちは、ストレスの多い現代社会に生きる人たちが、なんとかリラックスできないかと考えているのです。社会問題化している鬱病患者や心の病による自殺者を減らす必要があると思い、この研究所を2003年に立ち上げました」
「身体をリラックスする方法や、心のストレスを軽減する方法を追求しています。非合法の薬物にも一時的なストレス解消作用はあるのでしょうが、長期的に考えると心身にとって危険です。私たちは、合法的な薬品や有機的なオイル、様々な香料や栄養素の影響について研究を行っています」
「心身に与える物質の影響についての研究と平行して、様々な多幸感増進商品や食品を開発して販売しています」

実際に効果はあるのでしょうか。
先日、体験ルームに行ってみました。
木洩れ日や南の島の風を感じさせるような多幸感増進音楽に、広々とした空間のきらきらとした動きを象徴するような多幸感増進映像。
期待感がつのるような、フレッシュな甘さの多幸感増進香料の香り。
包み込むような多幸感増進ソファ。
そこでまず、ゆっくりと多幸感増進茶を飲みます。
100%オーガニック。合法的な成分だけで作られ、穏やかな気分になる少し甘みもあるフレッシュなハーブティーです。
少し休んだ後、別室の多幸感増進バスという浴槽に入ります。

この多幸感バスがすごいのです。
なんともいえない、きめ細やかな肌になじんでしみこむような気持ちよい液体。
とても幸せな、自由な開放感を満喫し、幸せの中で眠りに落ちてしまい、あっという間に1時間が過ぎてしまいました。
天国気分を5千円で味わうことができ、非常にお得です。
多幸感を味わって少し気持ちも明るくなったように感じました。

今後、多幸感研究所の体験ルームを全国各地に設置する計画もあるそうです。
この天国気分、多幸感を早く多くの人に味わって欲しいと思います。
多幸感研究所の取り組みによって、鬱の発病や自殺を減らすことができると、確信しました。

それにしても、多幸感研究所、愛称「タコ研」というのは変えたほうがいいかもしれませんね。
口の悪いご近所さんは「タコ」と呼んでいるようですし。。。



...というような【妄想】をしてしまいました。
幡ヶ谷には多幸感研究所などありませんので誤解されませんように。

もし上記のような研究所に興味がある人がいたら一声かけてください。
微力ながらご協力したいと思います。


追伸 幡ヶ谷には、スリランカのお坊さんが活動されている団体があるそうですね。ちょっと気になります。
・日本テーラワーダ仏教協会
http://www.j-theravada.net/

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体洗い体操のすすめ

2008-05-23 07:38:54 | Weblog
体洗い体操というものが評判になっている。
DVDや本も売れているとか。
一種のストレッチ、一種の健康法といった感じのものらしい。

朝や夜にお風呂に入っているときに、体を洗うついでに行うという手軽さがうけている。
体に石けんをつけて、両手で体をマッサージする。

右手でおなかをぐるぐる円を描くように洗いながら左の手の甲は背中を上下させて洗うと、消化促進や胃腸の活性化に役立つらしい。
右手の手の甲で左肩の後ろの肩甲骨周辺洗いながら、左手の手のひらで右肩の後ろを洗うと肩こり防止に役立つらしい。

立ち上がって太もも洗いやふくらはぎ洗いなどを手順どおりに行うと、リンパマッサージにもなるし、柔軟性を増すことにもつながる。
顔を洗いながらの顔マッサージ、足の裏を洗いながらの足裏マッサージもあり、けっこう奥行きは深いらしい。

DVDでは水着を着たインストラクターが解説をおこなっているけど、youtubeなどの動画サイトでは体中を泡まみれにした女性が裸で実演しているものも人気を博している。



え?そんなの見たことないって?
すみません。ついついまた妄想を見てしまっていたようです。嘘情報です。


体洗い体操は、さっき思いついた名称。
この何年か、私はほとんどスポンジやタオルやヘチマタワシを使わないで体を洗っています。
手で洗う方法をいろいろ試行錯誤しながら。

肌にもいいし、体調もなかなかよいので、そのうち体系化して体洗い体操を提唱し、推進するかもしれません。
日本体洗い体操協会(JBWEA)会長、などと名乗ってしまうかも。
興味ある方はインストラクターになってください。

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少年時

2008-05-21 00:53:59 | Weblog
中原中也の詩に、「少年時」という作品がある。
ニリヴァーナっていうバンド(1987年~1994年)の、1991年の大ヒット曲“Smells Like Teen Spirit”(スメルズ・ライク・ティーンスピリット)を思い出す。

・NIRVANA Smells like teen spirit
http://jp.youtube.com/watch?v=kPQR-OsH0RQ
http://jp.youtube.com/watch?v=CqSHcNgDb4U
http://jp.youtube.com/watch?v=T3nCI_9uQfI&feature=related

すごい詩っていうのは、ロックだ。天才だ。鮮烈だ。
中原中也が現代に生きていたら、浅井健一トム・ヨークも一目置くようなロックミュージシャンになっていたかもしれない。

1990年代に隆盛を極めたグランジロックは、ポップミュージックやハードロックとは一線を画していた。

騒音のようにも聞こえる、様々な方向性の音を内包した場を生じさせた中で、音と音の濁流の間にメロディーをゆらめかせる。
押し付けがましくないけど逃げているわけでもない間の取り方。一歩引いた視線の中の強さ。

東洋的な神秘学さえ連想してしまいそうな、身のこなし、心のスタイル。
メロディーを立ち上げて自分の存在を主張するポップミュージックとは違う。
マッチョな圧力を見せて自分の強さをアピールするハードロックとも違う。
観賞用のクラシカルミュージックとも違う。

激流の渦巻く川に飛び込み、すいすいと波をすりぬけて対岸に泳ぎきる仙人のように、グランジロックは静かな凄みを見せていた。

中原中也も、激しい気持ちと渦巻く思いの中で、音もなく静かな詩を掲げていた。
全身で周りの空気の流れや息吹を敏感に感じながら、目をギロギロさせながら、その時代にもがき、泳いでいた。音を出さず、叫んでいた。
中原中也の「少年時」は、見事なグランジロックだ。


中原中也。1907年(明治40年)山口県生まれ。1938年(昭和12年)没。
詩集「山羊の歌」(1934年)より

■少年時

黝(あをぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡(ねむ)つてゐた。

地平の果に蒸氣が立つて、
世の亡ぶ、兆(きざし)のやうだつた。

麦田(ばくでん)には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。

翔(と)びゆく雲の落とす影のやうに、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――

夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
誰彼(たれかれ)の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走つて行つた……

私は希望を唇に嚙みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫(ああ)、生きてゐた、私は生きてゐた!

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世界に冠たる高平均年齢国家、日本

2008-05-19 08:07:31 | Weblog
最近テレビを見ていると、30代や40代のタレントが増えていることが気になる。
SMAPのメンバーは30代半ばをすぎてもアイドルでいられるし、ほしのあきも30を過ぎてもまだかわいいオーラを放っている。野外ライブイベントでも出演者の過半数が40代であることがめずらしくない。
キュートなPUFFYもけっこういい年齢だ。

20~30年前は30代のアイドルなんていなかったし(30になった田原俊彦におじさんオーラを感じたものだ)、35歳の若手芸人などというのもいなかった。
30代や40代を対象にしたおしゃれドラマもほとんどなかった。

なぜこれほどまで30代や40代の人がテレビに出ているのだろう、と考えるとすぐに思いあたることがある。
日本社会が高齢化している。。。

実際、なぜかマスメディアは大きく報道しないけど、すでに日本は世界トップの
「国民の平均年齢が高い」社会になっているのだ。

下記のデータを見てほしい。
CIAの、「THE WORLD FACTBOOK」の中に、国別の「Median age(平均年齢)」という情報がある。
その一部を書き出してみた。
https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2177.html

概して、下記のような傾向が読み取れる。
★平均寿命が長く、出生率も低い先進国では国民の平均年齢が高くなる
(日本、西欧各国など)
★平均寿命が短く、出生率が高い発展途上国は国民の平均年齢が低くなる
(アフリカ中南部諸国など)
★平均寿命が伸び、出生率が高い新興工業国の国民も平均年齢が低い
(ベトナム26.9歳など)
★強いお酒を飲むことが多い国は男性の平均寿命が短くなり、男性と女性の平均年齢に大きな差が生じる
(ロシアの男女差5.3歳、ウクライナ6.4歳など)
★女性の置かれた境遇が厳しい国では男性よりも女性のほうが平均寿命が短く、女性の平均年齢が男性の平均年齢を下回るということも起こる

この30年で日本人の平均年齢は約10歳上がった。
今後、韓国や中国も国民の平均年齢が40歳をこえるようになって来る。
世界的に、「若い子がいい思いをする社会」から「中高年が楽しめる社会」にシフトしていくのは避けられないと思う。
20年後の日本では40代アイドルとか50代のアスリートとか60代の芸人がインターネットテレビの画面を駆け巡るのではないかと夢想する。

■2008年各国平均年齢
国名      平均    男性   女性
モナコ     45.5歳    43.5歳  47.5歳
日本      43.8歳    42.1歳  45.7歳
ドイツ     43.4歳    42.2歳  44.7歳
イタリア    42.9歳    41.4歳  44.4歳
フィンランド  41.8歳    40.3歳  43.4歳
香港      41.7歳    41.4歳  42.0歳
オーストリア  41.7歳    40.7歳  42.8歳
ギリシャ    41.5歳    40.4歳  42.6歳
ベルギー    41.4歳    40.2歳  42.7歳
スロヴェニア  41.4歳    38.9歳  42.9歳
スウェーデン  41.3歳    40.2歳  42.4歳
ブルガリア   41.1歳    38.9歳  43.4歳
クロアチア   40.8歳    38.9歳  42.6歳
スイス     40.7歳    39.6歳  41.7歳
スペイン    40.7歳    39.3歳  42.1歳
デンマーク   40.3歳    39.4歳  41.2歳
カナダ     40.1歳    39.0歳  42.1歳
オランダ    40.0歳    39.2歳  40.9歳
イギリス    39.9歳    38.8歳  41.0歳
チェコ     39.8歳    38.2歳  41.6歳
ウクライナ   39.4歳    36.1歳  42.5歳
フランス    39.2歳    37.7歳  40.7歳
ポルトガル   39.1歳    37.0歳  41.3歳
ハンガリー   39.1歳    36.8歳  41.8歳
ノルウェー   39.0歳    38.2歳  39.9歳
ロシア     38.9歳    35.1歳  41.4歳
シンガポール  38.4歳    38.0歳  38.8歳
ポーランド   37.6歳    35.8歳  39.5歳
セルビア    37.5歳    36.1歳  39.0歳
オーストラリア 37.4歳    36.6歳  38.3歳
ルーマニア   37.3歳    35.9歳  38.7歳
キューバ    36.8歳    36.1歳  37.5歳
アメリカ合衆国 36.7歳    35.4歳  38.1歳
スロヴァキア  36.5歳    34.8歳  38.2歳
韓国      36.4歳    35.3歳  37.4歳
NZ      36.3歳    35.6歳  37.1歳
台湾      36.0歳    35.5歳  36.6歳
アイスランド  34.8歳    34.4歳  35.3歳
アイルランド  34.6歳    33.9歳  35.4歳
中国      33.6歳    33.1歳  34.2歳
ウルグアイ   33.2歳    31.8歳  34.6歳
タイ      32.8歳    32.0歳  33.7歳
北朝鮮     32.7歳    31.2歳  34.2歳
チリ      31.1歳    30.1歳  32.1歳
スリランカ   30.4歳    29.5歳  31.4歳
アルゼンチン  30.3歳    29.3歳  31.3歳
UAE     30.1歳    32.0歳  24.6歳
カザフスタン  29.3歳    27.8歳  31.1歳
トルコ     29.0歳    28.8歳  29.2歳
ブラジル    29.0歳    28.3歳  29.8歳
イスラエル   28.9歳    28.2歳  29.7歳
チュニジア   28.8歳    28.2歳  29.3歳
インドネシア  27.2歳    26.7歳  27.7歳
ベトナム    26.9歳    25.8歳  28.0歳
イラン     26.4歳    26.2歳  26.7歳
メキシコ    26.0歳    24.9歳  27.0歳
ペルー     25.8歳    25.5歳  26.1歳
ベネズエラ   25.2歳    24.6歳  25.8歳
インド     25.1歳    24.7歳  25.5歳
モンゴル    24.9歳    24.6歳  25.3歳
モロッコ    24.7歳    24.1歳  25.2歳
マレーシア   24.6歳    24.0歳  25.3歳
エジプト    24.5歳    24.1歳  24.9歳
南アフリカ   24.5歳    23.8歳  25.3歳
リビア     23.6歳    23.7歳  23.5歳
ジャマイカ   23.4歳    22.9歳  24.0歳
ヨルダン    23.2歳    24.6歳  23.2歳
ウズベキスタン 23.2歳    22.6歳  23.8歳
フィリピン   23.0歳    22.5歳  23.5歳
バングラデシュ 22.8歳    22.8歳  22.9歳
トンガ     21.8歳    21.3歳  22.3歳
パラグアイ   21.7歳    21.5歳  22.0歳
カンボジア   21.7歳    21.0歳  22.5歳
タジキスタン  21.6歳    21.2歳  22.1歳
サウジアラビア 21.5歳    22.9歳  19.7歳
シリア     21.4歳    21.3歳  21.5歳
パキスタン   21.2歳    21.0歳  21.4歳
ネパール    20.7歳    20.5歳  20.8歳
ガーナ     20.4歳    20.2歳  20.7歳
イラク     20.2歳    20.1歳  20.2歳
ラオス     19.2歳    18.9歳  19.5歳
スーダン    18.9歳    18.7歳  19.1歳
セネガル    18.8歳    18.6歳  19.0歳
ナイジェリア  18.7歳    18.8歳  18.6歳
中央アフリカ  18.7歳    18.3歳  19.0歳
ケニア     18.6歳    18.5歳  18.8歳
ハイチ     18.5歳    18.1歳  19.0歳
エチオピア   18.1歳    18.0歳  18.2歳
マダガスカル  17.9歳    17.7歳  18.1歳
タンザニア   17.8歳    17.6歳  18.1歳
アフガニスタン 17.6歳    17.6歳  17.6歳
ソマリア    17.5歳    17.4歳  17.6歳
イエメン    16.7歳    16.7歳  16.8歳
ニジェール   16.4歳    16.5歳  16.4歳
チャド     16.4歳    15.2歳  17.5歳
マリ      15.8歳    15.4歳  16.2歳
ウガンダ    15.0歳    14.9歳  15.1歳

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グリーンピースと沈黙入門

2008-05-18 12:29:11 | Weblog
さっき何気なくグリーンピースのサイトを見ていた。
ふと、問い合わせ先のところがわかりにくく表示してあるなと感じた。

自分たちの主張は大きな声で言うけど、意見はあまり参考にしないということだろうか。
グリーンピースの人たちに悪気はないのだろうけど、これほどまでに一般社会から胡散臭く見られてしまっていることについて、当事者はどう感じているのだろう。
正しいことをやっているから何をやっても恥じることはない、と信じるのであれば、宗教的でもある。

・足を踏まないでください
「グリーンピース・ジャパン」って窃盗団だったんだ
http://www.mypress.jp/v2_writers/beep/story/?story_id=1735566

・池田信夫blog
「グリーンピースの犯罪」
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/b889ea2c7fa9dbc452c9c06a9720c5e5


ふと、幻冬舎の新聞広告を思い出した。
小池龍之介「沈黙入門」が7万部突破。
ポップな仏教入門書、と説明がある。
著者は世田谷区世田谷の月読寺住職小池龍之介氏。1978年生まれ、1995年僧籍取得。東京大学教養学部卒。

広告にはこういう「手習い」も紹介されている。

手習い その1
 まったく何かにケチを
 つけずに1日過ごしてみる

手習い その2
 天皇陛下のようにスロウに、
 徹底的に自己を抑制して喋る

手習い その3
 正義で相手を
 論破することをやめる

手習い その4
 「買いたい」「食べたい」
 欲望に駆られたら、
 「ドウデモイイ」と念じる

手習い その5
 身近で大切に思う人に
 対してこそ、
 つねに幻滅しておく



ほほう。深い言葉だ。
以上の文を読んで、グリーンピースの場合はどうだろう、と感じた。

手習い その1
 まったく何かにケチを
 つけずに1日過ごしてみる
   ↓
 問題意識を持つことは大事だけど
 価値観の違う者に対して
 毎日ケチをつけてばかり

手習い その2
 天皇陛下のようにスロウに、
 徹底的に自己を抑制して喋る
   ↓
 自分たちが正しいと信じていることについて
 何かが乗り移ったように喋るから一般の人が引く

手習い その3
 正義で相手を
 論破することをやめる
   ↓
 正義で相手を
 論破することが生きがい

手習い その4
 「買いたい」「食べたい」
 欲望に駆られたら、
 「ドウデモイイ」と念じる
   ↓
 「主張したい」「やめさせたい」「認めさせたい」
 そういう方向性に疑いを感じないのも欲が深い
 「ドウデモイイ」とは考えられない

手習い その5
 身近で大切に思う人に
 対してこそ、
 つねに幻滅しておく
  ↓
 大事に思えることは幻想かもしれないけど、
 それを言えば存在価値がなくなるから
 周囲の声にはめをつむって信じる



まったく的外れかもしれないけど、ふとそんなことを思った。
グリーンピースのスタイルも一つの欲深いスタイルかもしれない。
歴史もある団体だから、そろそろ自分の心や世の中の構造を俯瞰できるようなところから活動を行えるようになってくるかもしれない。
そうすれば、一般人からの支持ももっと得られるようになると思う。

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NTT東日本吹奏楽団 第41回定期演奏会 2008年5月16日(金)東京芸術劇場大ホール

2008-05-17 01:32:31 | Weblog
今日、NTT東日本吹奏楽団の定期演奏会に行ってきた。
池袋の東京芸術劇場大ホールは大きなパイプオルガンが印象的な、なかなか音響のよいホール。
無料のチケットをいただき、午後7時の開演時間ギリギリに駆けつけた。

正直なところ、吹奏楽にはあまり興味がなかった。ひと昔前は最先端のテクノロジーを駆使した音楽だったのだろうけど、現代ではややアナログな印象もある。

だけど、金管楽器の出す大きな音には波のように魅力的な曲線を感じることもある。
じっくりとスケールの大きな楽器の音色に耳を傾けることにした。

私はクラシックには全く詳しくなく、ウィーンフィルとかベルリンフィルとかのメンバーによる弦楽四重奏などを、出版労連の主催するコンサートで何度か目にしたことがあるくらい。
何年か前にウィーンのオペラ座でバレエを見たときも生で楽団を見たけど、そのくらい。

だけど、ウィーンフィルの人たちの演奏には、何も知らない私でも感動することができた。
それだけのインパクトがあった。

それに比べると、NTT東日本吹奏楽団の演奏は、それほどレベルの高いものとは思えない。音の輪郭からして違う。
NTT東日本吹奏楽団もすばらしいのだろうけど、どうも音の輪郭がちょっとあやふや。
高校生の演奏に比べたら非常にレベルが高く、大人の演奏なのだろうけど、世界的な一流演奏者に比べると、音のメリハリが違うように感じる。

そう思ってまばらな拍手をしていた。
休憩を挟んで2部になると日本人作曲家の作品ばかりだった1部と変わり、ジャズっぽい曲になった。

だけど、ジャズっぽさを感じない。スウィングというかグルーヴというか、うねりがない。
ほとんどの楽員のお尻は根っこが生えているのではないかと思われるどっしり具合。
1人だけ、大きなサックスを手にして端で演奏している大柄な男性には、少しノリを感じた。

ウィーンフィルの演奏者だって椅子に座っていたけど、なんだかたたずまいが違う。
足もお尻も床と椅子に固定し、クラリネットも動かさず楽譜に目をやる姿を見ると、あふれる情熱のない、まじめな優等生を連想する。

いきなり楽員みんなで手を叩き始めた時も驚いた。全然ノリがないのに、そんな格好だけしても、それはジャズではない。日本舞踊かお茶をやるような身のこなしで、ジャズはないでしょう、と感じた。

最後の曲はNHK交響楽団のトロンボーン奏者、吉川武典(よしかわたけのり)氏。
黒い服に赤いネクタイ。長身。やや長い髪に日に焼けた顔。
この人のソロには驚いた。
レベルが違う。
この人はプロだなと思った。
全身で表現している。足に根は生えていない。

手の動きも違う。無駄が少ない。音のメリハリもきいている。
さすがにこの人の演奏の後だけは大きく拍手をした。無意識に。
吉川武典さんはすばらしい。
いい演奏を聴けてありがたかった。

いろんな音楽を聴けば、私にも味わうことができる音楽があるだろう。
いろんなお酒を味わって、おいしいお酒について判断することができるようになるように、
いろんな音楽を聴いて耳を鍛えたい。

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ウタリ協会→アイヌ協会に名称変更

2008-05-17 01:05:36 | Weblog
喜ばしいことだ。
ウタリ協会からアイヌ協会に名称変更となるらしい。

ウタリ協会という文字を見るたびに、少し違和感があった。
最近は、アイヌという語が差別的なイメージで使われることはほとんどない。
なぜ、わざわざウタリ(同胞)という語を使っているのだろうと思っていた。
アイヌという語は自信を持って言える言葉だ。
差別的に使う者がいたとしてもアイヌという語が悪いわけではない。
非は、差別的に言う者にある。
アイヌという語は美しい語だ。

そのむかし、北海道では「アイス」の看板を見てもビクッと反応してしまうという萎縮したアイヌの子どもたちの悲しい姿があった。
アイヌの子たちに対する差別もあった。子どもたちは残酷だから、自分たちと容姿が違ったものに対して執拗にからかい、攻撃する。
画一的な教育の中ではけ口を求めて、弱いものに対してひどいことをしていたのかもしれない。

それはともかく、現在、アイヌといえばかっこいいことだ。
アイヌの人たちは目鼻立ちがしっかりした人が多く、美男美女率が高い。
自然を身近に感じる伝統的生活は、エコロジカル。
雄大な神話世界も興味深い。
東北にもアイヌ語地名は残っている。
アイヌは日本列島の先住民族の子孫でもある。

むかし、縄文式土器はアイヌ式土器と言われていたこともある。
弥生式土器が朝鮮式土器と言われていたように。
縄文時代の後、弥生時代が入ってこなかった北海道地方は、縄文文化を色濃く残している。
アイヌの曲線がダイナミックな文様は、縄文式土器を連想させる。

私にとってアイヌは憧れの対象。
小学校の頃に石森延男の小説「コタンの口笛」を読み、中高の頃には知里幸恵のまとめた「アイヌ神謡集」を読み、社会人になってからは阿寒湖の近くのコタンに行ってアイヌ語小事典を何冊か買ったり、アクセサリーを買ったりした。
アイヌのブレスレットを身につけると勇気が湧く。
できることなら、アイヌ人になりたい。
薄っぺらい顔なのでアイヌ失格だけど。

東京には1軒だけアイヌ料理屋さんがある。
最近はアイヌの食材であった行者ニンニク(キピトロ)も春になるとスーパーに並ぶことが増えてきた。
シンプルなアイヌ料理はなじみやすい。
日本はどんどんアイヌ化、縄文化してしまってもいいのではないだろうかと夢想する。

レラ・チセ
http://www2.odn.ne.jp/rera/ru.htm


http://www.asahi.com/national/update/0516/TKY200805160292.html
■ウタリ協会、アイヌ協会に 来春、半世紀ぶり名称変更
2008年05月16日22時38分

 アイヌ民族最大の団体「北海道ウタリ協会」(会員3553人)は16日、札幌市内で総会・代議員会を開き、協会の名称を09年4月1日から設立当時の「北海道アイヌ協会」に変更することを決めた。ほぼ半世紀ぶりに名称を戻すことになる。

 アイヌ語で「アイヌ」は「人間」、「ウタリ」は「同胞」の意味。1946年に北海道アイヌ協会が設立されたが、「アイヌという言葉が差別的な意味で使われていたことがあり、入会時などの心理的な抵抗を軽減させる」などの理由で61年に名称変更。これまで何回か元に戻す議論があったが、会員の間には「差別はまだ残り、名称変更には抵抗感がある」との意見が根強く、見送られてきた。

 だが、97年のアイヌ文化振興法制定などに伴って民族や文化への理解が進んできた社会的背景の変化などから、民族の本来の呼称である「アイヌ」に戻すべきだという声が強まった。国会でもアイヌ民族を先住民族と認める決議を目指す動きが活発化している。加藤忠理事長は「国に対する働きかけを考えても、名称を変えるのに機が熟したと判断した」と話している。

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語感分析学(音声調和姓名学)

2008-05-10 14:51:45 | Weblog
語感分析学という学問があります。
語感の良さを音声学、調和学、数学、言霊学などを参考に分析し、数値化と論理化を進めています。
語感分析学を学んだものは語感分析士の称号を得て、新生児の命名、商品名の分析、社名やバンド名の提案などで活躍しています。

同じような学問ですがやや占い的、非学術的なものに音声調和姓名学というものがあります。
これは語感分析学の、占いバージョン、姓名判断の一種であると言えます。


語感分析学では、名前という記号を構成する音声の調和を、科学的に分析しようとしています。
以前このブログのエントリでも書いた、「調和学」の一派です。姓名や社名、商品名などの音声を分析し、バランスが良いかどうかを判断し、時にはよりよい名前(音声)を提案します。
実験も活用しますし、理論化、数値化も重視されるので、心理学と少し似た印象もあります。
語感分析学を学んだ語感分析士は、各方面で活躍しています。
語感分析士のSさんは言います。
「芸能界で活躍している語感分析士は多いですよ。今まで姓名判断の人たちは経験や占いに頼る判断が多かったから、科学的に語感のバランスや影響力を学んだぼくたちの意見は重宝されています。高岡蒼甫(たかおかそうすけ)っていう芸名はかっこいいし、小池徹平(こいけてっぺい)という名前はさわやかだと思いませんか?子音、母音、破裂音、等々よく考えて工夫してある芸名なんですよ。だけど、音楽関係は自分たちで命名して損しているものも多いですね。ヨーグルト・プーとかスネオヘアーとか。ぼくたちにまかせてくれたらもっと好印象の名前を提案できたのに。音楽的には彼らよりたいしたこともないベースボールベアとかフジファブリックのほうが売れているでしょう?あれは語感分析士が絡んだからですよ」

また、音声調和姓名学は占いの一種として、姓名判断の世界で新興勢力となっています。
姓名判断といえば1920年代に熊崎健翁(1881~1961)がはじめた「五聖閣流」が有名です。基本的に名前の画数で占います。
音声調和姓名学は「画数で占うなんて迷信的だ、科学的に音のバランスで名前を判断しましょう」と提案し、2000年代に入ってから急成長を続けています。

音声調和姓名診断士のHさんに試しに唐沢寿明(からさわとしあき)を分析してもらいました。
「から」は硬質なカ行ではじまり、ドライな語感。はじまりの「~から」にも通じる。
「さわ」は爽快なサ行。さわさわという風の音、水のながれる沢、爽やかさにも通じる
「とし」はテンポの良いタ行。通る、通すにも通じる。
「あき」は明るさに通じる。
全体的に見ると、メリハリがきいていて、伸びやかさ、明るさもあり、爽やかなキャラクターとして売り出すには最適の名前だそうです。


以上、ふと思いついた妄想記事をひとつお送りしました。
上記のような学問も占いもありません。誤解なされませんように。

もし、上記のような学問あるいは占いを構築してみようかなと思う人は声をかけてください。お手伝いさせていただきます。
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唐沢寿明の体は空っぽの抜け殻だ

2008-05-10 14:02:28 | Weblog
「唐沢」「体」「空っぽ」「抜け殻」という語には「から」という音が含まれる。
それは偶然ではない。
「からさわ」「からだ」「からっぽ」「ぬけがら」は全て、空っぽというか空洞というかemptyというか、中空状態、中身のない状態をあらわす「から」という語に関係がある。

「唐沢」の語源は「涸沢」。水のない沢。
山と平地の境にある扇状地では、山から流れてくる水が水はけのよい扇状地の下を通って平地に出てくる。大水のときは扇状地の上も流れるけど、普段は涸れている川だから、涸沢と言われている。
そういった地域に唐沢という苗字のルーツはある。

「体(からだ)」というのは、本来は、抜け殻。なきがら。肉体としてのbody。
精神とか心というものは含まれていない。
千年以上前は「からだ」ではなく「から」と言われていた。
400年前の江戸時代初期でもまだ「からだ」は死体、なきがらの意味で使われることが主流だった。
現代では体格、体力、身体、肉体として「体」という語を使用し、「体を大事に」とか「体を丈夫に」とか「体の手入れを念入りに」などと言うけど、千年前の人が聞いたら驚くような表現だろう。
本来、「からだ」は「蝉の抜け殻」の「殻(から)」のようなものだったから。


むかしの日本では、心というか魂と一体になったものは中身のなる「身(み)」として「体(からだ)」と区別していた。

「魂(たましい)」の「たま」は「たまげる(魂消る)」「玉突き」「玉の輿」「頭」「火の玉」の「たま」に通じ、丸いもの、大事なもの、美しいもの、ありがたいものを示す。

「心(こころ)」の語源は不明だけど、むかしから心臓のことを示していた。
むかしの日本人は、心は頭ではなく胸(心臓)にあると認識していた。

魂は「肉体と分離した霊魂」、心は「生きた人の気持ち」と区別すればよいかもしれない。
「心配り」とは言うけど「魂配り」とは言わない。
「魂を招く」とは言うけど「心を招く」とは言わない。

日本語の語源を意識すると、日本社会にひそむ物の見方、価値観に気付くことがある。
外国の人たちはどのように世界を認識していたのも気になるこの頃。
合理的に物事を分析したくても、ついつい、私たちは母語の持つ世界観に影響されがちだ。


<参考>
語源由来辞典(からだ)
http://gogen-allguide.com/ka/karada.html

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あえて船場吉兆を擁護する

2008-05-09 21:37:56 | Weblog
船場吉兆が食べ残しの刺身や天ぷらを使いまわしていたということが大きな問題となっている。
女将というか現社長の湯木佐知子さんが「『食べ残し』ではなく『手付かず』の… 」とでも言おうものなら
「ちょっと箸でふれたかもしれないでしょ、なぜ手をつけていないとわかるんですか!」と記者の厳しい指摘が飛んでくる。
町を行く会社員たちも「あれはないよね」と口にしている。

気の強そうな女将も悪役としてはまっているのかもしれない。
伍代夏子がうるうると涙しながら頭下げていたら、これほど激しく全否定されることもなかったかもしれない。

「高級料亭」で、「衛生上問題のある行為」「客を欺く行為」や「けち臭い行為」を行っていたから、非難されているのだろうか。

もし、「庄や」や「白木屋」や「餃子の王将」や「デニーズ」で青ジソや煮物や炒め物の使いまわしをやっていても、これほどの非難は受けなかったのではないだろうか。

「信頼性が高くあるべき店」が、賞味期限偽装で大きく評判を落とし、さらに信頼性の低いことをやっていたことが明らかになり、炎上し、朽ち果てようとしている。
だが、船場吉兆が全否定される必要もないのではないだろうか。

まず、船場吉兆を全否定する人たちの言い分は、多分に感情的、雰囲気的、情緒的であることが多い。
「私たちはそのような行為がなぜ許されないと思うのか」
「店はなぜそのような行為をおこなってしまったのか」
「行政は今後どのような備えをすればよいのか」
などといったことを冷静に分析してもよいのではないだろうか。
吉兆をつぶすことが問題の解決につながると考えるのは、理屈を無視した「臭いものに蓋」のひとつのパターンでもある。

物事の構造を解き明かすことなくイメージや印象で何かを否定するムーブメントは、成熟していない社会で度々見られる。
戦争の発生するメカニズムも知らずに戦争に反対するような人たちは、戦争を起こす側にもまわりやすい。
戦争を起こす人たちの攻撃性と、戦争反対を叫ぶ人たちの攻撃性は紙一重。
正しいと思うことをするのは心地よいが、堂々巡りから脱していない行為であることも多い。
何かを叩かなくても、物事を変えることはできる。

それでも、「絶対に船場吉兆がわるい。反省してない。あんなのつぶれてしまえばいい」と言う人は多いだろう。
だが、「具体的にどのような行為が許されないことなのですか。何が罪なのですか」と聞けば、法律的、あるいは社会学的に答えられる人はどのくらいいるだろう。

第一、船場吉兆は何か法律違反をしたのだろうか。
商品の賞味期限を偽装したことも、何か法律に触れただろうか。
法律に触れていないことなのに絶対にいけないと言うのは、個人的な価値観を押し付ける傲慢な行為ではないだろうか。

刺身や青ジソやパセリを使いまわしするのは、何か法律に違反するだろうか。
食品衛生法違反になるのであれば、きちんと法的機関が判断し、船場吉兆を法的に罰すればよいのではないだろうか。

立ち入り検査をした保健所の人は「健康被害がなければ法的な責任は問えないが、食に携わる事業者としてあってはならない」と言っている。
法的な責任は問えないのに、どういった権限で「食に携わる事業者としてあってはならない」と言えるのだろうか。
周囲の雰囲気に流されず、法的根拠を明確にしていただければありがたい。
法的根拠のない行動が黙認されるのは社会的に危険なことだ。

また、おそらく全国の居酒屋やレストランで全く残り物の使い回しをやったことがない、というお店は、開店直後の店を除いてごくごく少数なのではないだろうか。

私は刺身の青ジソもツマも大好きだから全部食べる。
だが、たまに「これは使いまわしかな?」と感じるような、どことなく新鮮さを感じないものに当たるときもある。
新大久保の韓国料理屋のランチで突き出しを食べていると、明らかにこれはきのうのおつまみの残りをあえて作ったな、という小皿があるときもある。

使い回しが許されないのであれば、使い回しを許さない法律を作り、きちんと全ての店で取締りを行って筋を通してほしい。

そして、使い回しを許さない人々は、使い回しを行わないことによって生じる大量の生ごみの処理については何か提言をしないのだろうか。
衛生を重視するのであれば、もったいない行為も黙認されるべきだと割り切っているのだろうか。

私は船場吉兆に行ったこともなく、船場吉兆に期待しているわけではないが、再オープンしたら、一度食べに行ってみたいと思う。
きっと、使い回しが明らかになっていない有名店の油断した料理に比べ、船場吉兆の料理は緊張感に満ちたものとなっているのではないだろうか。
船場吉兆が今回の事件を糧とし、生まれ変わって躍進されることを期待する。


※食品衛生法
http://www.houko.com/00/01/S22/233.HTM#s11
第2章 食品及び添加物 
第5条 販売(不特定又は多数の者に対する販売以外の授与を含む。以下同じ。)の用に供する食品又は添加物の採取、製造、加工、使用、調理、貯蔵、運搬、陳列及び授受は、清潔で衛生的に行われなければならない。 
第6条 次に掲げる食品又は添加物は、これを販売し(不特定又は多数の者に授与する販売以外の場合を含む。以下同じ。)、又は販売の用に供するために、採取し、製造し、輸入し、加工し、使用し、調理し、貯蔵し、若しくは陳列してはならない。
1.腐敗し、若しくは変敗したもの又は未熟であるもの。ただし、一般に人の健康を損なうおそれがなく飲食に適すると認められているものは、この限りでない。
2.有毒な、若しくは有害な物質が含まれ、若しくは付着し、又はこれらの疑いがあるもの。ただし、人の健康を損なうおそれがない場合として厚生労働大臣が定める場合においては、この限りでない。
3.病原微生物により汚染され、又はその疑いがあり、人の健康を損なうおそれがあるもの。
4.不潔、異物の混入又は添加その他の事由により、人の健康を損なうおそれがあるもの。


http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080502/crm0805021423026-n1.htm
■せこい!船場吉兆 食べ残しの天ぷら、アユ塩焼きを別の客に
2008.5.2 21:21

このニュースのトピックス:不祥事

会見で苦渋の表情で頭を下げる船場吉兆の山中啓司料理長=2日午後7時15分、大阪市中央区の船場吉兆(頼光和弘撮影) 牛肉の産地を偽装表示していた高級料亭「船場吉兆」(大阪市中央区)が、本店の料亭部門で客が残した天ぷらやアユの塩焼きなどの料理をいったん回収し、別の客に提供していたことが2日、分かった。料亭経営を取り仕切っていた当時の湯木正徳前社長(74)の指示で昨年11月の営業休止前まで常態化していたという。大阪市保健所も同日、「モラル上あってはならないこと」として食品衛生法に基づき、本店の立ち入り調査を行った。事実関係を確認したうえで行政指導する方針という。

 一方、九州産牛肉を但馬牛などと偽って販売した偽装事件について、府警は、表示変更のコストを節約するために偽装を継続したとみて、不正競争防止法違反(虚偽表示)容疑で湯木前社長と長男の喜久郎前取締役(45)らの書類送検に向け、詰めの捜査を急いでいる。

 関係者の証言によると、使い回しは、本店の調理場で、仲居が客席から下げてきた器を回収。客がはしを付けた料理は調理人が廃棄するが、はしを付けずに残った料理の一部はいったんトレーなどに移し替え、器に盛り付け直して別の客に提供していたという。

 使い回されていたのは、アユの塩焼き、ゴボウをうなぎで包んだ「八幡巻き」、エビに魚のすり身を塗って蒸した「えびきす」など。天ぷらは揚げ直して出すこともあった。さらに手付かずの刺し身のつまも出し直していた。

 接待の宴席などでは、比較的食事に手をつけない接待側の客に使い回しの料理を出していたといい、元従業員は「先輩の調理人から『使えるものはすべて使う』と指示され、残った料理をえり分けていた。1人数万円の料金を取っていた高級料亭として恥ずかしい」と話している。

 これらの使い回しについては、府警も一連の捜査の過程で事情を把握しているという。

 船場吉兆の代理人弁護士は、使い回しを認めたうえで「お客さまに大変申し訳ない」と謝罪。「(1月の)営業再開後は一切やっていない」と説明している。

 食品衛生法は、腐敗などで健康を損なう恐れがある食品を販売することを禁じているが、使い回しに関する規定はないという。市保健所は「健康被害がなければ法的な責任は問えないが、食に携わる事業者としてあってはならない」と話しており、同社の関係者から詳しく事情を聴いている。


http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080503ddm041040064000c.html?inb=yt
■船場吉兆:残った料理、別の客に アユ塩焼きなど--大阪市保健所が立ち入り
 ◇営業自粛前まで「もったいない」と
 高級料亭「船場吉兆」(大阪市)が客の残したアユの塩焼きなど料理6種類を捨てずに別の客に回していたとして、大阪市保健所は2日、本店を立ち入り調査をした。船場吉兆側は「昨年11月の営業自粛前まで使い回しをしていた」と認めているという。食品衛生法には問われないものの、保健所は「健康被害を招きかねず、今後、使い回しはあってはならない」と口頭で指導した。【久木田照子】

 保健所の調査では、使い回していた料理は、アユ塩焼き▽稚アユ素揚げ▽ゴボウをウナギで巻いた「八幡巻き」▽エビのすり身とキスを合わせた「エビキス」▽サーモンの焼き物▽刺し身の添え物のゼラチン--の計6種。本店で客が増えた時に使い回しをしており、添え物以外は再加熱していたという。

 船場吉兆は「今年1月の営業再開後はしていない」と説明。取締役の山中啓司料理長(47)は保健所に対し「当時は社長の言うことを100%聞かざるを得なかったので、不適切と思いつつも、応じていた」と話しているという。

 ◇「指示断れず」料理長認める
 「まだきれいなものを、もったいない精神と言いますか、見るからに使えそうなものであれば、足りなくなった時、お出ししたりした」。大阪市保健所が調査に入った後、山中料理長は報道陣の取材に応じ、こう釈明した。「社長の指示は断れなかったのか」という質問には、「社員という立場で。情けない話ですが……」とうつむいた。

 使い回しの頻度は「2週間に1度程度くらいか」と言葉を濁した。「(食材の)数が1、2本足りなくなった時に、そういうことがあったと記憶している。お客様に出した状態のままで調理場に下がってきた時のみ、状態を見極め使い回しをした」と客が手を付けてない料理だけ使い回していた点を強調。「調理場の人間はみんな知っていた」と話した。

 船場吉兆を巡る不祥事は昨年9月に発覚。その後、今年1月に民事再生法の適用を申請して、再出発を図っているが、今回の使い回しはこれまで一切明らかにしていなかった。

 山中料理長は今年1月、旧経営陣辞任後の新体制で取締役に就任していた。

毎日新聞 2008年5月3日 東京朝刊


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080509-00000012-maiall-soci
■<船場吉兆>アユは二度揚げ、刺身のツマは洗う……使いまわし手口明らかに
5月9日13時16分配信 毎日新聞

報道陣の質問に応じる船場吉兆博多店の河合元子店長=福岡市博多区の船場吉兆博多店で2008年5月8日午前10時56分、金澤稔撮影

 老舗料亭・船場吉兆(大阪市)の博多店(福岡市博多区)と天神店(同市中央区、現在は閉店)が客の食べ残しの食材(延べ9品目)を使い回していた問題で、具体的な手口が8日明らかになった。「アユ揚げ」は湯木正徳・前社長の指示で二度揚げされたほか、刺し身のツマはパート従業員が洗い、造り場(調理場)に持参していたという。博多店の河合元子店長は「鮮度が良いのは原則的に使い回していた。刺し身のツマについては店の多くの従業員が知っていた」と述べ、使い回しが常態化していた様子が浮かび上がった。

【関連図】 船場吉兆博多店での使い回しの手口の詳細

 河合店長が8日、博多区保健福祉センターに提出した報告書によると、博多店の使い回しは99年3月のオープン直後から、閉店した天神店も同じく04年3月から行っていた。使い回した品目は、博多店が▽金時ニンジン▽ウド▽ボウフウ▽オオバ▽わさび▽刺し身▽アユのおどり場げの7品。天神店は金時ニンジンとボウフウの2品だったという。

 報告書作成のため、博多店は辞めた店員も含めて聞き取り調査したという。河合店長は「実際に刺し身のツマを洗ったり、前社長の指示でアユを揚げ直すなどした人がいた」と話す一方、「私自身は見ていません」と関与していないことを強調した。今後の経営については「本社からの回答を待つのみです」と話した。【鈴木実穂】

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角川春樹の幻想

2008-05-08 21:18:45 | Weblog
破壊力のある表情を見せる者が強いとは限らない。
殺気を感じさせない者が無類の強さを持つこともある。

オーバーアクションな人が冷静に状況を判断することなく大振りし、
静かに動きを見切った人の一ひねりで効果的に腕を固められてしまう、ということもありえる。

ふと2年半前の角川春樹氏関係の記事を見つけ、ふとそんなことを思い出した。

私の認識では、寺山修司や角川春樹、福島泰樹といった人たちは、情熱系の人たちだ。
以前、角川氏や寺山氏の俳句は度々読んだ。福島泰樹氏の短歌絶叫ライブにも行った。
よく言えば情熱的。
わるく言えば、こけおどし的な、劇場的な、舞台的な、作られた場で表現している。
それを「魂だ」「いのちだ」と熱く語るのもいい。
世の中には様々な表現があるから、そういうのもありえると思う。

「『魂の一行詩』とは、いのちや魂を詠(うた)う現代の叙情詩」なのだそうだ。
角川氏らしい。
だが、いのちや魂を詠う現代の叙情詩であれば、わざわざ17文字の制約の厳しいなかで表現する必要もないのではないだろうかと思う。
現在でも、俳句よりも短歌や散文のほうが、叙情詩に近い位置にあるだろう。

私は、叙情も叙景も、はっきり言えば魂もいのちも俳句には必要ないと考えている。
武術においても、精神力で鍛えた者よりも、梃子の原理やフェイントの原理を冷静に身につけた者のほうが攻撃力がある。

華道やフラワーアレンジメントにおいても、情熱や思い入れをこめて作品を作るよりも、冷静に色や形の調和、面と直線のバランスなどについて科学的に学んだ者のほうが、迫力のある作品をつくることができるだろう。

いくら情熱をこめても、いのちをかけても、大振りパンチに伸びのない回し蹴りでは、「どうすれば効果的に破壊できるか」「どうすれば効果的に制圧できるか」といった仕組みを学んだ人に、こてんぱんにやられてしまう。

まあ、言葉の闘いでは物理的に殴られたりしないから、いくらこてんぱんに論理で負けても、「まあええわ。今日はこのぐらいにしといたろ」と池乃めだかのように言って引き返すことができる。

俳句の世界で意識的な人は角川氏のように「ともかく今の俳句は作品の力が衰えた。魅力を失っている」「句を作るときの目線が読者でなく、俳壇の中に向かっている。志がなく、仲間内でほめあうだけ」と言う。
だけど、「現代俳人でいのちを詠っているのは石田波郷、森澄雄氏などごくわずか」と言う認識には異論のある人も多いだろう。

私はむしろ「俳句は構造を示せばいい、いのちを詠う必要はない」と感じる。
いのちを詠っても芸術として調和の取れた構造を示せない俳句は詩として価値がない。
瞬発的に最低限の構造を示すだけであれば、31文字の短歌や散文ではなく、17文字の俳句のほうが適している。

革新や前衛を熱く絶叫しても、歌謡曲やフォークソングのコード進行の影響から脱し切れていない頭脳警察(1970-1975年)は好きだったけど、いまいち納得がいかなかった。
そんなものだ。
汗を見せないシュガーベイブ(山下達郎、大貫妙子がいたバンド。1973-1976年)のほうが革新的なコード進行を聞かせていた。

たしかに角川春樹氏の俳句には濃厚な意識を感じる。力があると感じる。
だけど、その情緒・叙情を客観的に構造を分解し、数値化すれば、何が見えてくるだろう。

記事の中では次のような句が紹介されていた。
 亀鳴くやのつぴきならぬ一行詩
 にんげんの生くる限りは流さるる
 まだ生きるつもりで起きる昼寝覚

一見、「のっぴきならない」とか「生くる限りは」とか「まだ生きるつもり」などという言葉が意欲的、情熱的に見えるけど、表現としては安直で弱くないだろうか。相手の動きの見えていない力んだストレートパンチを連想する。手に連動して足や体幹が動いていないように見える。

私は、現代の俳句の世界において、きちんと句が示す構造を意識し、芸術として、詩として、世界各国の定型詩に負けない表現を行っているのは、夏石番矢など、ごくわずかではないかと感じている。

角川さん、そんなことはないでしょうか。
夏石さんとのガチンコ対談を見てみたいなと思います。
話はかみ合わないかもしれないけど、角川さんの輪郭がはっきりと浮き出てくるかもしれません。
芸術家であれば、それを恐れる必要はないと思います。

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20051110bk0b.htm
■角川春樹さん提唱「魂の一行詩」
俳句に革新 いのち詠おう

 俳人の角川春樹氏(63)が新たな文学運動として「魂の一行詩」を提唱しはじめた。あえて「俳句」の名称を捨てて、何を追求しようとしているのか。話を聞いた。(小屋敷晶子)

 「俳句は本来、いのちも魂もつぎ込む価値がある器。そして、すぐれた俳句はすなわちすぐれた一行詩だと考えています」。「魂の一行詩」とは、いのちや魂を詠(うた)う現代の叙情詩であると定義する。

 「ともかく今の俳句は作品の力が衰えた。魅力を失っている」。運動の原動力の一つは現在の俳壇への不満だ。「句を作るときの目線が読者でなく、俳壇の中に向かっている。志がなく、仲間内でほめあうだけ」「現代俳人でいのちを詠っているのは石田波郷、森澄雄氏などごくわずか」

 批評にしても、芭蕉や正岡子規、山本健吉の言葉を引用するだけで、自分の言葉を持っていない、技術論ばかりが横行して、小さな“盆栽俳句”になってしまった、と指摘する。

 新たな名称を提唱するのは、議論を呼び、俳壇外のより多くの人にアピールしたいからでもある。「『俳句』というと一般の人は『わびさび』などを思い浮かべて、ハードルが高いと感じてしまう。『魂の一行詩』なら若い世代を含めて入ってきやすいでしょう」

 魂とはいったい何を指しているのだろうか。

 「それがわからなかったら文学は語れない。日本では古来、山川草木に霊が宿るとしてきた。人間を含めてあらゆる自然の中にいのちと魂を見いだしてきた。日本文化の伝統を見直そうとしているんです」

 〈亀鳴くやのつぴきならぬ一行詩〉。今夏刊行した最新句集『JAPAN』(文学の森)の中の一句。すでに「一行詩」を主張しているが、詩といっても五七五の定型に変わりはない。「五七五で十分に、小説や映画に劣らない大きな世界が詠める」

 「人間の生き方、生きざまを描くことが大切。当然、恋や笑い、風刺など、これまでの俳句が切り捨ててしまったものも取り入れてゆく」。季語は重要だが、絶対的なものではないという。〈にんげんの生くる限りは流さるる〉。無季の自作もある。

 主宰する結社「河」を運動の拠点と位置づける。父・源義から、昨年亡くなった母の照子氏を経て受け継いだ。月刊の結社誌「河」の11月号からは、表紙に「俳句」ではなく「魂の一行詩」と刷り込んだ。

 会員の作品を講評する「河作品抄批評」は「魂の一行詩」運動を説明し、実例を示す場として、当面もっとも力を注ぐ。この号では〈生きることすなはち詩(うた)や天高し 福原悠貴〉〈まだ生きるつもりで起きる昼寝覚 片山白城〉などをすぐれた一行詩、「いのちの賛歌」だと高く評価した。

 角川春樹事務所の月刊誌「ランティエ。」とタイアップし、今月からインターネットでの作品募集を開始する。また、来年からは、月1回、音楽を取り入れたライブ活動を自ら行い、「魂の一行詩」を広めようと計画している。

 「全身全霊を傾けて、後世に貢献したい。正岡子規以来の俳句革新運動ですよ」と気宇壮大だ。

(2005年11月10日 読売新聞)

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ホスピタリティあふれる店(代官山マダム・トキ)

2008-05-07 21:12:00 | Weblog
ホスピタリティとは、心のこもったもてなしの気持ち、とでも訳すのでしょうか。
心あたたまる接客態度にふれると、この店に来て良かった、と感じます。

最近そのように感じたのは、代官山のマダム・トキという瀟洒なレストラン。
旧山手通りに面した洋館は趣があり、数年前から気になっていたのですがついに2、3年前から年に1~2回足を運ぶようになりました。

理由は、雰囲気が素敵だから。
やさしさと、緊張感と、本物の素材と、誠実な人たち。
虚飾のない、穏やかさを感じます。

入り口を入ると、小さな庭があります。2週間前は藤の花がきれいでした。
正面はお菓子屋さん。左側に入り口。
おそらく、入り口脇の擦りガラスのむこうから、入り口に注意を払っているのでしょう。
さっと扉が開きます。

大きな扉の、洋館らしい意匠も趣があります。
中に入ると、広くはないのですが落ち着きのあるダイニングが広がります。

ひょうひょうとした笑顔のマネージャー、さっそうとしたソムリエ、女優の高畑淳子にも少し似ている気がするTさん、みなさんフレンドリーでありながら品があり、ありがたいなという思いを感じます。

先日のディナーはアラカルトを楽しみました。
極太の白アスパラのグリル。魚、フォアグラ、等々。
おいしいのですが、料理自体の良さよりも、スタッフの人たちの気持ちに居心地の良さを感じます。

そうそう。ハウスワインもおすすめです。赤白それぞれ3種類用意されていたのですが、700円~1500円程度のお手ごろなハウスワインがそれぞれかなり良いものでした。
一般的なフレンチやイタリアンのお店で、あれだけレベルの高いハウスワインを用意しているところは少ないと思います。

店の奥まったところでは浜崎あゆみのヘアスタイリストらしき人が、何人かのスタッフを連れて食事をしていたようです。ラフな格好で帰っていく姿を見ました。
私達は最後の客になってしまいましたが、それでもゆったりと接客をしてくれました。

細かなところにも気がつく親切なこのお店には、商売っ気をあまり感じません。
旧山手通りを代官山駅方向に少し行ったところにあるリストランテASOはマダムトキより店舗規模も大きく、客単価も高く、大きな結婚式もよく行われ、経営規模としては何倍か大きいかもしれません。
ミシュラン2つ星のASOはすばらしいレストランなのですが、マダムトキにはまた違った良さがあります。
穏やかで、品がありながら、アットホーム。
ホスピタリティにあふれた、人柄の良さを感じさせるレストランです。

こんどはよく晴れた休日にランチでも食べに行こうかと思います。
5/11(土)や5/17(日)は仏滅だから、結婚式は入っていないかもしれませんね。

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熱海の季魚喜人(きときと)とか

2008-05-06 23:36:04 | Weblog
熱海には時々行っている。
昨日もちょっと熱海の温泉につかってきた。
旅館立花の風呂は2回目。旅館の人は親切。
露天風呂は塩素が含まれているのか、今ひとつ肌にしみ入って来ない。
(今日ちょっと入った熱川温泉の海沿い露天の「高磯の湯」のほうが肌にしみ込んできた)

夜は、今回は季魚喜人(きときと)
時々行っている「天匠」の少し上流側。
気になっていたけどあまり遅い時間まで営業していないので入ったことはなかった。

季魚喜人(きときと)はいけすに魚が泳ぎ、座敷も広々としている。
ダイナミックな「きときと丼」が人気らしい。

それはともかく、日本酒のメニューを見ておどろいた。
静岡はおいしいお酒が多いことで有名なのだが、メニューの説明がよくわからない。
「おたせやかな純米吟醸酒」? そういう言葉があるのだろうか?方言だろうか?「たおやか」なら聴いたことがあるが。
「某末のパリ万国旗に持参されたという」? これは「幕末のパリ万国博」のことでは?某末って何?

その場で店員さんに伺ってもよかったのだが、日本酒を頼まなかったこともあり、聞きそびれた。

たまに飲食店で不可解な文章を見つけることがある。
神楽坂の「粋」という居酒屋では店の入り口の貼り紙に堂々と「日本酒はぜい弱な飲み物です」と長い間書いていた。
「それを言うなら『ぜい弱』ではなくて『か弱い』くらいの表現が適切では」と指摘したかったけど、わたしは客ではなかったからわざわざ店の人に言うことはなかった。
それでも半年はその紙が貼りっぱなしだったということは、お客さんは誰も指摘しなかったのだろう。
日本語にあまり意識的ではないお客さんが多かったのかもしれない。

季魚喜人の常連客の人も指摘をしないのだろうか。
「某末のパリ万国旗」って意味が通じないと思うのだが。
日本酒のメニューの注目度が低いから問い合わせもない、というのであれば残念。

それはともかく、季魚喜人のきときと丼はまずまずおいしいものだった。
セットで頼んだお吸い物も小ぶりのイセエビが1匹分入って豪勢なものだった。

まあ、人それぞれの好みにもよると思うが、天匠の漁師丼のほうがわたしは満足度が高い。
ちなみに今日レンタカーを借りてちょっと立ち寄った沼津漁港の「丸天」の丼物も豪快で安くておいしかった。


そうそう。東京から熱海まで電車で行き、熱海でレンタカーを借りて箱根や伊豆をまわるのはおすすめ。
行動するのが楽だし、予約も取りやすい。
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