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波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

メディアと個人情報

2013-04-27 18:43:53 | Weblog
出版、新聞、テレビなどの会社に勤務する人は、有名人の個人情報に簡単にアクセスできることが多い。
各社の支払い先データベースには、個人の住所や口座番号といった情報がまとめられている。

執筆者やコメンテーターがどこに住んでいるのか、どんな銀行を利用しているのか、作ろうと思えばすぐに一覧表を作成することだってできるだろう。

多くの会社において、個人情報へのアクセスが厳格に制限されているとは言いにくい。
個人情報の扱いはアクセスする各人の良心に任されている。
もちろん、ぼくは執筆者の個人情報を他者にリークしたりしないし、有名人の住まいを見に行くこともない。

だけど、もし悪質な人がいたら、勝手に住所や電話番号などの情報を他者にリークするかもしれない。それが、嫌がらせや抗議などに使用されてしまうおそれがある。

悪意はなくても、ハニーとラップや暴力的な脅しによって、有名人の住所を漏らしてしまう人だっているかもしれない。

そんなことをふと思ったのは、かつて対立する弁護士一家を殺害したオウム真理教の信者は、どこで坂本堤弁護士の住所を入手したのだろうと、疑問に感じたからだ。

もし、どこかのマスコミに坂本堤弁護士の振込先情報があれば、マスコミの社員やアルバイトはデータベースにアクセスして住所を確認することができただろう。

そのようなことが、今後もありえないとは限らない。
マスコミは、個人情報を守る方法について方策を考える必要があるし、執筆者やコメンテーターなども、できるだけ勤務先や事務所を連絡先にして、個人の住所や電話番号は教えないほうがいいかもしれない。
実際に、そのようにしている評論家もいる。
対立する人が多い場合は特に用心が必要だ。

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相似形 (金明秀先生、他)

2013-04-25 23:15:34 | Weblog
自分と意見の異なる者に対し、排他的な姿勢を見せる人は多い。
罵倒する言葉をぶつけたり、相手の存在に価値がないように言いふらしたり。
見下したり、阻害したり。

そういった姿勢は、幼稚園であれ大学であれ、右翼であれ左翼であれ、会社であれ組合であれ、日本人であれ外国人であれ、さまざまなところで目にすることができる。
共同体から異端者や犯罪者と認定された人は否定されて当然、とみなす人は多い。

でも遠くから見れば、右も左も少数派も多数派も弱者も強者も相似形で、似た意識レベルの人たちに見える。

自分と価値判断の異なる者、意見の異なる者を否定しておかないと、そのうち自分の存在が脅かされるのではないかと感じているのかもしれない。
自分の存在を守る本能的な反応としては、罵倒も疎外も侮蔑もありふれた行為なのだろう。
だけど、それは知的な行為だと言えるだろうか。

意見の異なる相手を説得したいのであれば、まずは自分の認識を説明する論理を提示すればいいのではないだろうか。
大声や大げさな身振りでごり押しして力で受け入れさせようとするのではなく、論理的に内容を判断させればいい。
威圧に動じない人に対しては、声の大きさは説得力に関係ない。

文系の大学教授の著書や論文を見ると、論理や数学・化学式などからかけ離れた言葉遣いを目にすることがある。
学生運動に影響を受けた世代なのかもしれないけど、人をあおるような言葉は、何も構造を説明していないことが多い。
基本的に、科学の研究者は「常軌を逸した」とか「みっともない」とか「偏狭」「卑劣」とか「傲慢」「反動」などという雰囲気的な表現で研究成果を説明したりしない。
人に伝えるために客観的事実をきちんと数式や化学式で定義し、説明する。

社会学者や歴史学者も研究者であるなら、レッテル貼りや攻撃的な言語表現を多用せず、淡々と物事の仕組みを説明してはどうだろう。

攻撃的な言葉で人を批判し、見下し、世論に影響を与えようとする行為は、
攻撃対象となっている、物事の繊細な仕組みを感知できない人たちと似たような行為ではないだろうか。

進歩的とか開明的とか現代的とか寛容とか、そういったイメージが好きな左派陣営の人たちが
時として保身的で閉鎖的で排他的な姿勢を見せるのは残念に感じる。
右にしろ左にしろ、自分が正しいと思い込み対立意見を封殺するのは視野が狭い。
時には、「自分はこういう環境に育ったからこういう考え方の影響を受けたけど、今は違う意識の人も多いんだね」と自分の判断基準を客観視する余裕があってもいい。

差別を批判する関西学院大の金明秀教授の姿勢は「正義」なのだろうけど、
意見の異なる者をバカ扱いして否定する姿勢や乱暴な言葉遣いは、学問というよりもアジテーションに近い印象。
一般的に、威圧や言い逃れ・自己正当化などの言論テクニックを駆使しても、意見の異なる人を説得することはむずかしい。溝は深まるばかりだ。

千葉麗子さんも意見の異なるフィフィさん(在日外国人が生活保護を受けることに批判的)に対して「あの骸骨みたいなミイラババァ」などと、部外者が見たら引いてしまうような罵倒語を使用しているようだ。否定されるべき敵であると認識してしまえば、相手の容姿を酷評しても心は痛まないのだろうか。そういえば横山きっこさんと関係深そうな山口あずささんが西東京市の市議補選に出たとき、千葉さんも応援してらっしゃったんでしたっけ。ツイッターで何やらやりとりされていたような。句会は長く休まれているようだけど心身の調子はどうなのだろう。


声は小さくても、説得力のある人は少なくない。
マハトマ・ガンジー、マザー・テレサ。
チベット仏教のダライ・ラマ14世も、罵倒や疎外・侮蔑から遠いところにいる人のひとりだろう。声高に怒りを叫んだりもしない。
うるさくもなく押し付けがましくもないけど、それでも世界中に影響を与え続けている。
声の大きな人に流されない人々が増えていけば、やがて攻撃的に主義を主張する人は取り残されていくのではないだろうか。

もしかしたら、声高な人に動かされる人はだいぶ減少しているのかもしれない。
だからこそ、在特会の主張と同様に、金明秀教授や千葉麗子さんの表現も、違和感をもって多くの人に受け止められているのかもしれない。

今後、世界の人々の意識や思考パターンの変遷を調査するとき、金明秀教授の発言内容も、いいサンプルになるだろう。資料が多いので。だが、教授もいつかその姿勢を変える日が来るかもしれない。

侵略者や差別者と同じような意識レベルで対抗することだけが、生き残る方法ではないはずだ。

金教授の周辺の人たちも、フィフィさんやIBTimesの記者などを軽蔑し批判することは控えめにしてはどうだろう。自分たちが否定している人たちと、同じことをしてしまっていないだろうか。


以上のようなことを書くと、金教授から「勘違いも甚だしい最低の認識。読むにも値しない。名誉毀損だ」などと言われるかもしれない。
でも、研究に誠実な人であれば「どのような構造に対するどの角度からの認識を勘違いととらえているのか、価値がないと判断する価値判断基準は何か、名誉毀損に相当する表現はどこか」などを、淡々と伝えてほしい。
バカに説明する必要なし、と言われるかもしれないけど、それは誠実な態度だとは思えない。
まあ、それでもぼくは毒舌家を否定・疎外するわけではない。ぼくの知り合いには金教授よりももっと体重も威力もある、すごい罵倒語常用者がいる。真似しないけどね。


<参考>
フィフィに嫌がらせ?韓国人大学教授の謎
IBTimes 2013年04月23日
http://news.livedoor.com/article/detail/7617235/

【マスコミにも圧力?】エジプト人タレント・フィフィが関西学院大学教授・韓国人の金明秀に脅される!
オトナの会社設立 2013年4月24日
http://www.otonano-kaisha.com/news_4Q3deht3K.html?right

「骸骨ミイラババア!」あの元アイドルが外国人タレントを口汚く罵倒
メンズサイゾー 2013年04月25日
http://news.livedoor.com/article/detail/7625900/


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差別に身構えない

2013-04-18 00:14:21 | Weblog
大学生の頃、史というかアウトサイダー史、差別論に興味があった。
高校では日本史も世界史も学ばず歴史知識が乏しかったので、同級生もよく知らない世界に踏み込んでみた。

べつに、社会正義を掲げる意識はなかった。
一般的に、差別問題に関わると、市民運動家だとか社会主義者、反政府主義者だと思われかねない。
だけど、ぼくはそうではなかった。
差別者を見下して否定するなんて、差別者と同じ行為じゃないか、と覚めた目で見ていた。

外国出身の知り合いが日本社会の中で名誉ある地位を得ようとしているのを見て、そんなものなのか、と思ったりもした。
アウトローにはアウトローの価値観があっていいじゃないか、社会的名誉がなくても違った価値が見出せるかもしれないじゃないか、そう感じていた。

価値判断基準よりも世の中の構造を認識することに興味のあったぼくにとって、ルールに違反する人を疎外することは、異文化に育った人を疎外することと同じように見えた。
歴史上、一般社会の価値観に合わせて行動しない人は一般人から奇異な目で見られ、時には道化、時には犯罪者として遇されてきた。

何かを犯罪視して否定することを「差別的構造」として認識することは重要なポイントだと思う。
それが社会的に当然とされているうちは「差別問題」とはならない。
社会の価値観が変化して、問題視されるようになってはじめて、ありふれた構造が社会的な「問題」として表出する。

差別は見下されて当然の価値のない行為なのだろうか。
現在、人種差別者や家庭内暴力者を見下し、排斥するのは当然のことだと思っている人は多いだろうけど、
それは、同性愛者やヤクザやロリコンや、外国人やネオナチや共産主義者などを排斥するのは当然だと思っている人と、意識レベルは大差ない。

犯罪者を疎外し、見下すことは当然だと思い込む。
ゴミや病原菌を否定し除外することは当然だと反応する。
その意識こそが、「差別的構造」を生み出しているのだ。

差別問題を攻撃する人の多くは、差別を犯罪視して疎外する。
だけど、それは差別者の意識と同じレベルだ。
そんなことでは差別的構造は消滅することはない。

民主的な教育を受けて進歩的な意識を持っていると自覚している評論家や活動家が、
自分と価値観の異なる者を犯罪者に見立てて非難するけど、その姿勢は保守的な人と大差ない。
そう自覚してはじめて差別のないフィールドが近づくのではないだろか。


被害者意識をもって差別に抵抗するのもいいけど、誰でも何らかの差別的心理から逃れることはできないということを自覚してもいいと思う。

不潔な人は無価値で否定されて当然。
欧米的容姿の人は高評価されて当然。
低収入低学歴低身長の人はもてなくて当然。
犯罪者は否定されて当然。
そんな価値判断基準を持っている人は、根深い差別意識を持っている。正しい、ということは不安定なものだ。

しかし、まったく差別的な意識を持たないような状態にたどりつくのは不可能に近い。
ついついある基準で価値を判断してしまう。それがなければ思考すらできなくなるのかもしれない。
そういったことに意識的になれば、差別者を安易に攻撃して排斥することもなくなるのではないだろうか。
そんなことを夢想する。


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私の志集、ぼくの苦集、だれかの花集

2013-04-13 19:52:38 | Weblog
新宿西口のユニクロの近く。
コンクリートの柱を背にして「私の志集」という札を下げた女性が立っている。
むかしは駅ビルの中に立っていたけど、締め出されてから駅の外にいる。

たしか、志集を300円で買ったのは1995年頃。
当時はガリ版刷りの詩(志)をホッチキスで留めたものだった。

プロフィール欄には、神奈川県在住の32歳で、70代の夫がいると書いてあった気がする。
瑞々しい詩には一途さを感じたけど、プロレベルだとは感じなかった。

50歳くらいになっても純真な目で志集を売り続けている彼女を見ると、なぜそこに立っているのだろう、と疑問を感じる。

西口に立って長いけど、酔客にからまれたりしないのだろうか。
詩を書く技術は上達しただろうか。
いつまでも若く見えるのはなぜだろう。

奇異な目で見られても無言で立ち続けるのは不思議。
修行のような、信念のようなものだろうか。

彼女の存在は気になるけど、独特の雰囲気をまとっているので声をかけにくい。
コミュニケーションの一環というわけではないけど、そのうち彼女の近くに立ってみようか。
「ぼくの苦集」の札をぶら下げて。

PDFで句集を作り、プリントアウトして中綴じ。32ページで300円。
深い帽子でもかぶって、静かにたたずむ様子は友人に録画してもらう。
句集のプロフィール欄には思い切りファンタジーでも書いてみよう。
だれか花集(歌集)でも作って並んで立ってくれないかな。
勘詩集(漢詩集)でもいい。
妄想はふくらむ。


 側溝の桜この街の輪郭


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よくわからないgoo事務局の対応

2013-04-03 23:47:26 | Weblog
3/4(月)と3/5(火)に、goo事務局からメールが来た。
「名誉毀損を訴えてる人がいるから、対応しないとブログ閉鎖するよ」という感じ。
校了直前で忙しい中、急いで返事のメールを送ったけど、4/3(水)になっても一切反応がない。
4週間放置状態。どうなっているのだろう。

昨年、同じようなgoo事務局からのメールにすぐ返事すると「これで全部手続きは完了しました」という返事が来た。
でも数日後に「その記事を修正しないと名誉毀損の恐れがあるから封鎖するよ」というようなメールが来て対応に追われた。

あるときは、すぐに返事を送ったのに1週間以上放置された。やっと返事が来たと思ったら「遅れてすみません」などの文面はまったくなく、「すぐ返事をよこさないとブログ閉鎖するよ」というようなことだけ書いてあった。

goo事務局の対応は顧客満足度が高いとは言えない。
忙しくて余裕がないのかもしれないけど、もう少し丁寧な対応をしてほしい。


ホンモノが好きなぼくは、実態のないニセ資格やニセ学位を警戒している。
実力がないのにもっともらしい看板だけ見せるのは、人を欺く行為。
実際に、実態のないニセ資格やニセ学位、ニセ賞状で着飾った人たちが犯罪を起こして裁かれることは珍しくない。

だから、疑わしい人たちのことを書くけど、そうすると中には「名誉毀損だ」と言って不都合な言論を封殺しようとする人もいる。

ぼくだってど素人じゃないから表現方法には気を配っているつもりだけど、goo事務局は根拠も示さず問答無用で文の修正を迫るから、伏字にせざるを得ない。

goo事務局の人は、あまり法律に詳しくないのだと思う。
文章を改変させられた際、ぼくが追記として「goo事務局の検閲で一部伏字にした」と書いても、平気でスルーする。
もしかして、goo事務局の人は、「校正」と「校閲」と「検閲」の違いも知らないのだろうか。

検閲は、日本の法律で禁じられている。
主に公的機関による検閲のことだと認識されているけど、大手通信業者による検閲が認められているということはない。
法律違反のおそれがあることについては平気でスルーし、名誉毀損にあたるかどうか疑わしいことは封じ込める。
そういったやりかたは、賢い方法だとは思えない。
問題が発生すれば、「NTTレゾナントは検閲を行ったことを否定しなかった」などと言われてしまう。

実際、goo事務局が小手先の言論封殺を続けた結果、より面倒なことになってしまっている。いいかげんな対応をしていると仕事は増えてしまう。

もしかすると、goo事務局には恐い人たちが文句を言いに来ることがあるかもしれないけど、そういった時に、goo事務局、NTTレゾナントは表現者を守らないのだろうか。
暴力的な脅しに屈して、表現者の批判精神を封殺するのだろうか。
ぼくが書いた、反社会的集団について書いた文を、削除させようとするのだろうか。
そのような人は、言論や表現の場に関わる資格を疑われる。


goo事務局の対応に関しては、やや日刊カルト新聞も疑問を呈している。

<参考> やや日刊カルト新聞 2012年9月6日木曜日 
■無量寿寺が抗議? 加東市市議がブログのコメントを全削除
http://dailycult.blogspot.jp/2012/09/blog-post_6046.html
名誉毀損については、内容が「真実であり」「公共の利害に関する内容であり」「公益目的でなされたもの」であれば違法ではないという基準が確立されています。一連の書き込みがこの3要件を満たすかどうかを確かめるには、相当が調査が必要なのですが、プロバイダであるgoo事務局はそこまで大々的な調査をしたとでも言うのでしょうか。また、プロバイダ責任制限法では、削除要請等に対してプロバイダが判断を下す際、その前に発信者(この場合はブログ管理者やコメント投稿者)に意見を聞くことが定められています。
プロバイダが市議に対して一方的に「削除が完了するまではブログの公開を停止します」などと通告するという対応は、法的に疑問が残ります。(略)


gooのチーフマネージャーだったX君(かつて彼がgooの説明に来てくれたからgooブログを利用している)がgoo(NTTレゾナント)を去ってから、お粗末な対応が目につくのは残念。

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