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波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』

2021-03-19 19:44:20 | Weblog
以前、「目からウロコの琉球・沖縄史」というブログを愛読していた。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/

早稲田大学の研究員(当時)が、興味深い沖縄の歴史をわかりやすく伝えてくれるブログだったが、2015年に更新が止まったのを残念に思っていた。
研究者としては、一般向けの軽い活動をメインにするわけにはいかなかったのかもしれない。
あるいは、研究者としての姿勢を理解しない人もいて、琉球や日本のナショナリストから、否定的な姿勢を向けられることもあったのかもしれない。

私は、上里隆史さんは主義主張に基づいて行動したり、自分の思想に都合の良いことを掘り起こして利用したりするような人ではなく、誠実に歴史に向き合っている人だと思っている。
研究の世界に閉じこもることなく一般の人々と言葉を交わし合うこともできる人だから、きっといい大学の先生になるのではないだろうかと思っていた。

だけど、2019年に図書館の館長に就任されたというニュースを目にした。

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/419009
> ■浦添の歴史伝えたい/琉球歴史研究家の上里隆史さん/民間初 市立図書館長に
> 2019年5月13日 05:00
>【浦添】市立図書館の館長に、琉球歴史研究家の上里隆史さん(42)が民間出身で初めて就任した。県内でも珍しいという民間出身館長に、市の歴史の魅力や、図書館の今後の展望について聞いた。(聞き手=浦添西原担当・宮里美紀)  
> −沖縄の歴史に関心を持ったきっかけは。  「母の故郷、長野県で生まれた。


図書館や博物館などに勤務した後、大学の先生になって研究と教育に携わる人も多い。
ぜひ、上里隆史さんも、東京か沖縄の大学で教授として招かれてほしいと願う。
肯定されるべきことや否定されるべきことといった社会的制約や政治的意図にからめとられることなく、ありのままの琉球・沖縄の姿を掘り出す上里さんは、魅力的だ。
琉球の独自性を唱えて煽情的な言葉遣いに流れがちな人や、沖縄のことを知らずさまざまな問題を軽視しがちな人は、上里さんの本を何冊か読めば、得ることが多いと思う。


<参考>
『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』上里隆史著、ボーダーインク、2009年

p17
 琉球では一三七二年、浦添の世の主・察度が「中山王」として明朝への初入貢を果たし、ここに中国との約五〇〇年に及ぶ公的な関係が開始された。
 続いて一三八〇年に山南王の承察度(うふさと)、一三八三年に山北王の怕尼芝(はねじ)が入貢し、沖縄島では三王が明朝との朝貢関係を結ぶにいたる。

p23-24
 沖縄島を統一した第一尚氏王朝であったが、各地にはいまだ按司たちが割拠しており、王権による強力な統治体制は確立されていなかった。その実態はなお「按司連合政権」の様相を呈していた。
 こうした状況下で一四七〇年(成化六)、那覇行政の長で対外貿易を統括していた御物城御鎖之側(おものぐすくおさすのそば)の金丸(かねまる)がクーデターにより尚円王(金丸世主)として即位した(第二尚氏王朝)。
 この王朝は王権の強化をはかり、一六世紀初めの尚真の代になって王国全域を首里の国王が直接統治する「間切(まぎり)・シマ」制度を設定し、三司官(世あすたべ)の指導体制と王府の中央組織「ヒキ」制度を整備するなど、中央集権体制が確立する。
 さらに沖縄島の琉球王国は周辺地域に軍事侵攻し、版図を拡大していく。北の奄美大島は一四四〇年代には王国支配下に入っていたが、一四六六年(成化二)には最後まで抵抗していた喜界島が第一尚氏の尚徳王率いる王国軍二〇〇〇によって征服された。
 南の宮古・八重山地域には一五〇〇年(弘治一三)に尚真王が三〇〇〇の軍勢を派遣し、八重山のオヤケアカハチらの抵抗をしりぞけて完全に征服した。一五〇七年(正徳二)には久米島も占領し、ここに琉球王国は奄美大島から与那国島までの島嶼群を統治するにいたったのである。

p34-35
 古琉球王国には数千人規模の軍事組織が存在していた。この軍勢は歌謡集『おもろさうし』で「しよりおやいくさ(首里親軍)」などと謡われ、奄美・先島地域への征服活動をになった琉球王国の「軍隊」であった。
 琉球は一六世紀の尚真王代に武器を廃棄し非武装化したとこれまで言われていたが、実際には尚真王代にそれまでの按司の寄せ集めだった軍団編成から、王府直轄の統一的な「王国軍」を完成させていたのだった。一五七一年(隆慶五)には奄美の反乱鎮圧のために尚元王が軍勢を派遣しており、古琉球を通じて外征能力を備えた軍事組織だったとみられる。

p43
 ポルトガル支配下のマラッカから拠点を移した多くの商人たちとともに、一五一一年以降、琉球人もマラッカへ二度と足を運ぶことはなかった。琉球船はジャワ島のスンダ・カラパ、マレー半島のパタニといった港湾都市へと取引先を移すが、派遣回数は減少し、かつてのような交易の活況を取り戻すにはいたらなかった。
 マラッカ陥落後にポルトガル人トメ・ピレスは著書『東方諸国記』のなかで、琉球人を「レキオ」または「ゴーレス(刀剣を帯びた人々)」と呼んでいる。「ゴール」は東南アジアで刀剣を意味し、ポルトガル人はその複数形として「ゴーレス」を用いた。当時の琉球人は大量の日本刀を東南アジアへもたらし、自らも日常的に大小の日本刀を腰に差していたからである。また彼らが豊富な交易品をマラッカに持参し、色白で良い服装をし、気位が高く勇猛であったことも記している。琉球ではちょうど中央集権化を達成した尚真王の治世に当たる。
 ピレスは琉球人たちを実見したわけではなく、すでに彼らがマラッカを去った後、人々の話す二次情報を書き留めたのであった。

p48-50
 明朝の朝貢体制下、国営中継貿易を行っていた琉球王国は、一六世紀に入ると貿易の衰退が顕著となる。
 明朝の琉球優遇策の後退によりかつての「不時朝貢(無制限の朝貢)」は二年一貢に制限され、比較的自由だった入貢経路も福州に一元化、明朝の海船支給停止による貿易船の小型化などで朝貢回数も減少する。
 明朝より無償提供された船(字号船)は三〇〇名乗りの大型船であったが、一五四〇年代の支給停止以降、中国で小型の民間商船を購入し、また琉球で造船したものに変わっていく。これらは一二〇名前後しか乗船できない小型船である。当然、交易品の積載量も半減する。
 さらに琉球の朝貢貿易業務の支援集団として位置付けられていた「閩人三十六姓」も土着化や人材の老齢化・子孫断絶が進み、居留地の久米村も衰退へ向かった。それまで対外貿易を担っていたスタッフたちがいなくなってしまい、長距離の外洋航海すら満足に行えない事態となっていく。
 とくに一五六七年の海禁解除以降、漳州月港から押し寄せる多数の民間商船にマーケットを奪われたのは大きな痛手であった。(略)
 琉球の外交文書集『歴代宝案』には、一五七〇年(隆慶四)のシャム(タイ)派遣船の記録を最後に東南アジア貿易の記述は見られなくなる。

p88
 一六世紀半ば以降、琉球での貿易はかつてのように利益が出るものではなくなっており、海商らはダイレクトに日本へ渡航して交易を行うようになっていた。一五三四年(嘉靖一三)の冊封時、琉球に渡来する船は一〇カ国あまりだったのが、一五六一年(嘉靖四〇)冊封時には三、四カ国となり、貿易の利益も減少していたという(夏子陽『使琉球録』)

p106
 秀吉は琉球への服属を島津氏に命じるとともに、朝鮮王朝の出仕も対馬の宗氏に命じた。明らかに属国扱いである。朝鮮は宗氏に従属する存在である、秀吉はそう理解していた。朝鮮と宗氏の関係を、「琉球は島津氏の従属国」という同じ論理で考えていたのである。
 中世の日本では明は対等国、朝鮮・琉球は属国であるとの一方的な認識を持っており、朝鮮・琉球の室町幕府への遣使は「朝貢」の使節として扱われていた。当時の日本で共有されていた周辺諸国に対する蔑視観を秀吉が持つのは当然のなりゆきであったが、驚くべきことに、彼は明の征服までも視野に入れていた。

p128
 一五八八年(万暦一六、天正一六)の恫喝をともなう秀吉の入貢要求に一年の引き延ばしの後、ようやく天龍寺桃庵を送って事を収めようとはかった琉球だったが、続けて一五九〇年二月、秀吉は尚寧に明征服の計画をはじめて表明し、琉球もその戦争に日本の側として加わることを要求した。くわえて他国にこの情報を漏洩しないよう念を押したが、この秀吉の明侵略情報を最初に通報したのは琉球だった。
 琉球で秀吉の企てを明に通報したのは、の鄭迵(謝名親方、字は利山)。後に三司官となり島津軍に徹底抗戦する反骨の士である。
 鄭迵は一五四九年(嘉靖二八)生まれ。那覇にあった華人居留地・久米村の末裔で、鄭氏の九代目にあたる。一五六五年には明の南京国子監に七年留学し、帰国後の一五七七年にに就き、一五八九年には久米村の統括者「総理唐栄司(そうりとうえいし)」となっていた。彼は身長六尺(一八〇センチあまり)で「色くろき男」だったという(『喜安日記))。

p206
 それまで琉球の聘礼問題を解決するためだった出兵が、ここにいたって島津氏の財政難を打開するための領土拡大戦争としての性格も加わったのだ。大島攻略は島津氏内部の問題(隠知行や財政難)を解決するための必須事項として位置づけられたのである。

p208-209
(略)島津軍侵攻を記した『琉球入ノ記』には、一七世紀前半頃に中国・日本国の商人や鹿児島、坊津、山川、七島衆が琉球に「集居」して交易活動を行っていたとある。
(略)那覇には華人居留地の久米村だけではなく、古琉球期を通じて「もうひとつの中世日本社会」ともいえる日本人居留地が存在しており、近世初期の日本では那覇に「日本町」がある、と認識されていた(『定西法師伝』)。

p225
 一六〇九年(慶長一四・万暦三七)二月一日付で、島津義弘から尚寧王へ「最後通牒」ともいえる書状が届けられた(『旧記雑録』)。このなかでは亀井茲矩の件、朝鮮軍役の不履行、聘礼使者派遣の遅滞、日明講和の仲介に同意しながらそれを守らなかったこと糾問しており、さらに(略)

p229
 さらに注目されるのが、島津軍は軍役の規定(一五〇〇人)を上回る倍の兵数を動員していることだ。(略)
 実はもう一つの要因として、困窮していた底辺層の武士たちが恩賞を求めて自力で従軍した可能性が指摘されている(桐野作人「さつま人国誌(一一二)」)。

p235
 古琉球期の甲冑は基本的に室町期日本の様式(胴丸・腹巻)とほぼ変わらず、しかも琉球風に若干アレンジして現地生産を行っていたことが明らかになっている。

p235-236
(略)琉球では日本様式の刀剣が用いられていたが、一五九二年朝鮮で日本軍と戦った明は鋭利な日本刀の威力に驚き、後に朝鮮王朝とともに日本様式の刀剣を導入している。

p270
 四月一日午後二時頃、大湾から南下してきた海路の島津軍が那覇港に突入した。
(略)ここには謝名親方率いる三〇〇〇の兵が陣取っており、両グスクから「大石火矢」による砲撃を敢行した。突入した七島衆の軍船七隻は琉球側の砲撃によってことごとく撃破され、軍船は破船・沈没した(ただし死傷者はいなかったと記す)。

p289
 軍事組織が存在したとはいえ、琉球は戦国時代の日本のような激しい戦乱を経験していなかった。つまり表向きは組織や兵数、装備がいちおう整っていたとしても、用兵面においては大きく劣り、島津軍の動きに臨機応変に対処できなかった。

p292
 『おもろさうし』は一六~一七世紀に編纂されたものであり、収録されているオモロは「こうであって欲しい」との願いを込め、儀礼において何度も繰り返す「歌」という性格を持っているので(略)、特定の日時の史料として扱うには慎重でなければならない。だが少なくとも古琉球期において外敵の侵入に際し、それを撃退するための祈願が行われていたことはうかがえよう。

p296
 四月五日、主のいなくなった首里城は島津軍に接収された。武将クラスの者少数が入城し、城内に所蔵されていた宝物の点検が開始され、それらはすべて島津軍によって没収されることになった。

p301
 上陸した尚寧は鹿児島より派遣された町田久幸・鎌田政徳の警護のもと、山川の仮屋に一カ月ほど滞在していたが、その間に島津氏の外交ブレーンだった正興寺の文之玄昌(南浦)と面会している。(略)
 ちなみに文之は「琉球を討つ詩並びに序」で、かつて源為朝が琉球を征伐しその子孫が王になっていること、琉球は数十世の昔より島津氏の附庸国(従属国)だったことを主張し、その関係を収斂の臣・邪那(謝名親方)が悪化させたのでやむなく征伐した、と琉球侵攻を正当化する文章を著している。後に出た『中山世鑑』の為朝伝説や謝名親方観はこの「琉球を討つ詩並びに序」に依拠したものであった。

p312-313
 尚寧が日本へ連行された後の琉球では、すでに一六〇九年(慶長一四)から島津氏による検地(農地測量)」が行われていた。沖縄本島と周辺離島の検地を翌一六一〇年までに終え、さらに一六一一年には宮古島をはじめとした先島諸島で実施された。琉球の石高を把握することにより幕藩制国家の知行体系に琉球を取り込み、島津氏と琉球との主従関係を確立するのが目的であった。古琉球には「カリヤ・ヌキ」という独自の丈量制度があったが、ここで初めて日本の石高制が適用されたのである。(略)
 奄美地域については琉球から分離され、一六一〇年には島津氏により大島代官が置かれ、一六一三年には大島奉行と改称された。一六一六年には徳之島奉行が新設され、徳之島・沖永良部島・与論島を管轄させた。

p314-315
 尚寧一行の帰国にあわせて、九月十九日には島津氏の琉球当地の指針を記した「掟十五カ条」が発布された。(略)
 この「掟十五カ条」にあわせて尚寧王と王府首脳に対し、島津氏への忠誠を誓う起請文への署名も強制された。そこでは、琉球は往古より島津氏の附庸国(従属国)であったが、秀吉時代の徭役(軍役)を果たさなかった罪で破却した、と琉球征服を正当化し、慈悲深い島津家久が一度滅んだ琉球を復活させた恩義を強調している。そのうえで子々孫まで薩摩への忠誠を誓うことが記されている。
 尚寧はじめ重臣らはこの起請文に署名させられたが、ただ一人、署名を拒否した人物がいた。謝名親方(鄭迵)である。島津氏の侵攻に徹底抗戦した彼は、最後までその意志を曲げることなく貫き通した。尚寧らが起請文を提出した九月十九日午後四時頃、鹿児島で斬首された。享年六三歳であった。

p318
 琉球が日本に操られていることを確認した明は、琉球使節の北京行きを許可せず、朝貢品のうち「倭物」も返還した。さらに島津軍の侵攻を受けた琉球の国力回復を待つとの名目で、琉球の貢期を一〇年一貢に変更した。事実上の朝貢禁止である。
 だが明は敵対国・日本の傘下に入った琉球との朝貢関係を断絶しなかった。それは明が島津軍の侵攻に対し、琉球へ援軍を送らずに見殺しにしてしまったという負い目と、朝貢関係がなくなれば琉球が完全に日本に取り込まれ、明にとって脅威となるとの懸念があったためである。

p335-336
 琉球はアイヌ―松前、朝鮮―対馬、オランダ・中国―長崎とともに幕藩制国家のなかの「四つの口」として機能し、また南から押し寄せるキリスト教の防波堤としての役割を果たすことになったのである。
 近世の琉球は中国(明、やがて清)との朝貢関係を維持しつつ、日本の幕藩制国家へも従属するという「二重朝貢」の国家となった。

p338-339
(略)一六六〇年には首里城が焼失したが、再建が進まないまま、王府は場外の大美御殿に機能を移転し政治を行うありさまであった。琉球は薩摩藩や清といった外からの攻撃によってではなく、内部から崩壊する危機にあったのだ。
 こうした危機に立ち向かったのが、一六六六年(康熙五)から摂政となった羽地按司朝秀(はねじあじちょうしゅう)(向象賢)であった。羽地はさまざまな改革に乗り出したが、それは機能不全に陥っていた「古琉球」の政治・社会システムを否定し、新たな社会の構築をめざしたものだった。徹底した「古琉球」の破壊に守旧派たちは猛反発するが、羽地はこうした抵抗のなかで改革を強力に推し進めていった。(略)
 羽地が敷いた路線はその後の大政治家・蔡温(具志頭親方文若)にも引き継がれ、現在の沖縄に伝わるさまざまな「伝統」を生んだ。
 身分制確立による門中制度の創設、風水思想にもとづいた碁盤目に区画された集落、亀甲墓、清明祭、琉球の海を走るマーラン船、組踊をはじめとした芸能、サトウキビ畑の風景と黒糖、健康食品として知られるウコン、泡盛、赤瓦やシーサー、壼屋焼、サツマイモ・豚肉食の普及などである。
 我々が「伝統」と考える沖縄のさまざまな仕組みや文化・風習は「古琉球」の時代から連綿と伝わったのではなく、その多くが羽地の改革路線のうえに誕生・成立したものなのである。

p432
 本書は私にとって第三弾目の著作である。これまで『目からウロコの琉球・沖縄史』(二〇〇七年)、『誰も見たことのない琉球』(二〇〇八年)をともにボーダーインク社から出版し、おかげさまで好評をいただいたが、いずれも沖縄の歴史をやさしく解説した入門編というべきものであった。今回が一般書ながら、はじめて自身の研究をもとにした著作ということになる。



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ミトロヒン文書

2021-03-18 20:15:33 | Weblog
むかし、京大名誉教授のK氏とすれ違ったことがある。
その後たまにホームページを拝見するなかで、ヴェノナ文書の存在を知った。
免疫学の研究者は、社会の仕組みについても直観がはたらくのだろうか。

https://www.katsuray.net/2020/06/14/%e6%97%a5%e7%b1%b3%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b/
> この戦争に関して、私たちは「日本が始めた戦争であって、悪いのは日本である。」という教育を受けてきたし、新聞等の論調もそんな感じであった。私自身もそれを信じてきた。
> しかし、ヴェノナ文書が公開され(1995、日本語版は2010あたりに出ているが、絶版となり2019に再版)、さらにフーバー大統領の回想録(2011、日本語版は2017)が出版されたことによって米国大統領周辺の策謀が明らかになり、この戦争は米国主導であったことが、主に米国の研究者によって明らかにされてきた。


そういえば、同じく京大の先生のサイトでもミトロヒン文書に関する記述があった。

http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/archives/2386
> メディア対する海外の諜報機関工作――ミトロヒン文書を読み解く
> 京都大学 都市社会工学専攻 藤井研究室


現在でも、日本社会の中には多くの情報提供者や協力者が存在しているのだろう。
彼らは、金銭目的でもなく、卑怯なことをしているという意識もなく、むしろ正しいことをしていると感じて行動しているのではないだろうか。
協力者を懐柔する方法や情報操作の手法、具体的な情報入手の手順などに興味がある。
ロシアや中国に限らず、アメリカやヨーロッパの国々なども国内で活動しているようだ。

そういうわけで、たまにヴェノナ文書やミトロヒン文書についての本をときどき見ている。
最近読んだ本は文字も大きめで著者の語り口もくだけた感じの軽い読み物だった。
少し興味深かった箇所をメモ。


<参考>
『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』江崎道朗監修・山内智恵子著、ワニブックス、2020年

p16
 ソ連崩壊からまだ間もない一九九二年三月のある日のこと、バルト三国のひとつであるラトビアの首都、リガの英国大使館に一人の男性がやってきて、「誰か権限のある人」との面会を求めました。男性が持参したキャスター付きのケースの一番上にはソーセージとパンと飲み物、中ほどには着替えの服、一番下にはたくさんのメモが詰め込まれていました。
 男声の名前はワシリー・ミトロヒン、一九八四年に退職するまで四半世紀あまり、ソ連の情報機関KGBの海外諜報部門である第一総局で、文書や情報の整理と管理を担当していた元KGB将校です。
 そしてケースの一番下に隠すようにして英国大使館に持ち込まれたメモは、ミトロヒンがKGB第一総局の機密文書から書き写したものでした。二十世紀の最重要資料のひとつ、「ミトロヒン文書」が西側にもたらされた瞬間です。

p17
「インテリジェンス」は広い意味を持つ言葉で、中西輝政京都大学名誉教授の定義によると、機密を含めた他国の情報を収集するいわゆるスパイ活動のほか、他国のスパイ活動や破壊工作を防ぐ防諜(カウンター・インテリジェンス)、宣伝・プロパガンダ工作、さらには、敵国を不利にし、自国を有利にするための謀略(ソ連の用語では積極工作と呼ぶ)も含みます。また、これらの活動を行う情報機関を意味することもあります。
 インテリジェンスが現代史に与えた影響の大きさを浮き彫りにし、現代史の見直しを迫るような重要な史料が国際社会にはいくつも存在します。これらの史料は、主に、安全保障や法律上の理由から「機密」とされてきた政府のインテリジェンス関係の公文書です。
 本書は、そのような機密文書のうちで最重要の一次資料のひとつである「ミトロヒン文書」について紹介します。

p18
ソ連崩壊後の主な文書公開
(略)
1995年 ヴェノナ文書
作成者:アメリカ陸軍情報部・イギリス政府通信本部
内容:KGBおよび赤軍情報部の本部とアメリカ駐在所との暗号通信
対象時期:1940~1948年
分量:約3000通
(略)
2014年 ミトロヒン文書(解説書刊行は1999年と2004年)
作成者:V・ミトロヒン
内容:KGB第一総局文書庫所蔵文書
対象時期:1918~1980年代前半
分量:手書きで約10万頁。現在、キリル文字でタイプした約7000頁をケンブリッジ大学チャーチル・カレッジ図書館で公開
(略)

p24
 ヴェノナ作戦で傍受された暗号通信は膨大なものでした。
 しかし、ソ連が理論上解読不能とされる「ワインタイム・パッド」という暗号形式を使っていたため、解読には長い時間と大変な労力が必要でした。先にも述べましたが、解読作戦を始めたのが一九四三年なのに。終了は一九八〇年です。三十七年かけて解読できた約三千通は、アメリカ陸軍情報局が傍受したもののごく一部にすぎません。
 それでも、ヴェノナ作戦の結果、三百人を超えるアメリカ国民またはアメリカ永住権者が、ソ連の工作員として活動していたことが明らかになりました。
 しかもその中には多くの連邦政府高官が含まれていました。
 ルーズヴェルト政権時代、ソ連工作員による浸透はアメリカ連邦政府のほぼすべての省庁に及んでおり、第二次世界大戦前後の重要な政策決定に対して、これらの工作員が深刻な影響を与えていた実態が浮き彫りになりました。

p25
 日本でも対米開戦直前にゾルゲ事件が発覚しています。近衛内閣のブレーンとして日中戦争を煽った尾崎秀実がソ連軍情報部の工作員だったのです。これは確かに重大な事件ですが、アメリカの惨状に比べたらゾルゲ事件など、まだかわいいものです。
 ルーズヴェルト民主党政権下のアメリカでは、財務省も国務省も、第二次世界大戦中に創設された情報機関「情報調査局」(CIAの前身)も、上層部にソ連の工作員がごろごろしていたのですから、ワシントンの連邦政府がおおかた乗っ取られていたようなものです。そして、組織として彼らの活動を支えていたのがアメリカ共産党でした。

p84-88
 KGBの源であるチェカー(正式名称は反革命・サボタージュおよび投機取締全ロシア非常委員会)は、ロシア革命からわずか六週間後の一九一七年十二月二十日に創設されました。(略)
 アンドルーによれば、チェカーが内戦中に処刑した人数は二十五万人で、戦死者よりはるかに多いそうです。(略)
 秘密警察を使った虐殺と暴力ではスターリンが群を抜いて悪名高いですが、レーニン時代のチェカーの暴力と残虐性も相当なものです。レーニンは革命直後の一九一八年の夏にはすでに、「信頼できない分子」を大都市から離れた強制収容所に収容するよう命じていました。(略)

p89-90
 レーニンは一九一九年に共産主義政党の国際組織としてコミンテルン(第三インターナショナル)を設立します。
 戦争による疲弊に乗じて内乱を起こし、混乱に乗じて共産主義政権を確立するという、ロシア革命で成功した方法を輸出して、世界共産革命を実現するため、レーニンはコミンテルンに加入する世界各国の共産党に、非合法機構の設立を義務付けました。

p105
 西側で政府高官になるようなエリートたちがなぜ共産主義に魅了され、工作員になってまでソ連に尽くそうとしたのか――アンドルーはあまり書いていませんが、大恐慌による経済崩壊と、ナチス・ドイツに代表されるファシズムの台頭という二つの背景を指摘しておくべきでしょう。

p194-196
 ソ連が対日工作を行う上で最も邪魔なのは、日米安保条約と在日米軍基地の存在です。ソ連は戦後、日本をアメリカとの同盟からできる限り引き離すための工作を延々と行ってきました。(略)
 ミトロヒン文書によると、KGBは、「安保闘争」を盛り上げただけでなく、第一総局のA機関(偽情報・秘密工作担当)に命じて日米安保条約附属書を偽造し、プロパガンダ工作を行っていました。(略)
 この偽情報を使って、「日本はアメリカに支配されている!」「日本は海外に武力進出するのか!」と、政治不信と安保反対運動を煽るという筋書きです。

p206
 ミトロヒンのメモによれば、一九七九年秋の時点で東京駐在所のPRライン(政府情報を担当する部門)が管理していた工作員は三十一人、秘密接触者は二十四人いました。(略)
工作員(エージェント)とは、機関員や諜報機関が操るフロント組織に協力して意識的かつ体系的に極秘の諜報任務を行う者を意味し、完全にKGBのコントロール下にあります。
 秘密接触者(コンフィデンシャル・コンタクト)は正式な工作員ではありませんが、思想的・政治的・金銭的動機や情報将校との間で築かれた人間関係によって、機関員に情報を渡したり、機関員からの秘密の依頼に応じて諜報活動に協力したりする者を意味します。

p207-208
 一九六〇年代に中ソ対立が深まる中で日本共産党が中国側についたため、KGBは日本社会党に「コーペラティーヴァ」(協力者)というコード名をつけ、社会党幹部を「影響力のエージェント」として使うための作戦を開始しました。(略)
 一九七〇年二月二十六日、ソ連共産党政治局は、日本社会党の複数の幹部及び党機関紙への助成金として十万兌換ルーブル(当時の日本円で三千五百七十一万四千円に相当)の支払いをKGBに対して承認しました。(略)
 ミトロヒンのメモによると、ソ連共産党政治局が助成金支払いを承認した時点で、すでに次ページの五人の社会党幹部がKGBの協力者になっていたようです。

p211
 KGBが政界で獲得した工作員の中で最も重要だったのが、⑫フーヴァー(自民党議員で元労働大臣の石田博英)でした。石田は一九七三年二月に結成された日ソ友好議員連盟(暗号名ロビー)の会長になり、八月二十七日から九月六日まで訪ソしています。

p213-214
 ミトロヒンのメモによれば、KGBは読売、朝日、産経、東京の各新聞社の幹部クラス記者を少なくとも五人、工作員として獲得していました。(略)
「影響力のエージェント」として一九七〇年代に最も重要だった新聞記者は、当時サンケイ新聞編集局次長で社長の個人的な相談相手でもあった㉓カント(本名Y・T)で、A機関の偽情報に基づく記事を執筆しました。

p219
 ジャーナリストの肩書で東京に駐在し、積極工作を担当していたKGB情報将校のレフチェンコは、亡命後の一九八二年七月十四日、アメリカ連邦議会下院の情報特別委員会秘密聴聞会で、KGBの対日工作について証言しました。その報告書が十二月に公表されると、日本には東京だけでもKGBの情報将校が約五十人、日本人協力者は約二百人いるというレフチェンコ証言が日本で大きな波紋を呼びました。

p229-230
 レフチェンコ証言に出てくる工作員や「信頼すべき人物」の中で、日本の情報機関関係者は二人います。(略)
 外務省関係者としては、外務省職員夫妻のレンゴーと、電信官ナザールが挙がっています。

p233-234
 レフチェンコ証言の概要が公表された一九八二年十二月以降、大手紙をはじめとする日本のメディアは連日大きくレフチェンコ証言を取り上げました。(略)
 当時、朝日新聞は、「単に一亡命者の発言をもとに、特定の個人や団体の背景を疑ったり、公表されぬ名前をせんさくすることは慎まなければならない」「『スパイ』に惑わされるな」「当局は内容を疑問視」と、非常に力を入れて、レフチェンコ証言を否定する論陣を張っています。

p236
 つまり、警察は当時からレフチェンコの証言の信憑性が高いと認めていました。
 レフチェンコ証言の信憑性は、ミトロヒン文書が世に出たことでさらに高まったと言えます。
 レフチェンコ証言とミトロヒン文書の多くが合致するということは、レフチェンコ証言の裏付けがKGB文書にあることを意味します。また、繰り返しになりますが、アンドルーは『ミトロヒン文書Ⅱ』を執筆するにあたってレフチェンコ証言を参照し、レフチェンコのインタビューを行っています。

p271
 一九八〇年の一年間だけでも、日本から得た情報が約百件の研究開発プロジェクトに使われています。東京駐在所のO・グリャーノフというKGB将校が豪語したところによれば、「毎年[Xラインの]情報将校たちが遂行している作戦から上がる利益で、わが東京駐在所の費用を全部賄える」(引用者の試訳。[ ]内は引用者の補足)ほどでした。
 また、日本は日本の科学技術情報だけでなく、アメリカの科学技術情報が得られる場でもあるので、日本在住のアメリカ人やアメリカ系企業・団体に勤務する日本人、科学・技術・経済分野の各種日米協力関連団体の職員が狙われました。T局が一九七八年から一九八〇年にかけて、東京のKGB駐在所のXラインに、これらの人々に接近して工作員を徴募するよう指示した記録があります。
 では、実際にどのような科学技術情報収集が日本で行われていたのでしょうか。
 ミトロヒン文書は、暗号名「トンダ」という東京のハイテク企業の社長を挙げています。トンダは、アメリカ空軍とミサイル部隊のための新しいマイクロ電子コンピュータ・システムに関する機密資料二点をKGB東京駐在所に提供しました。




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促音(っ)の有無

2021-03-13 13:31:34 | Weblog
「ばか」と「ばっか」では意味が異なる。
「ばか(馬鹿)」は、知能が低い、価値がない、役立たない、などといった意味。
「ばかばかしい」とか「ばかでかい」といった派生表現もある。
それに対して、「ばっか」は限定するような表現。「ばかり」に通じる。
「肉ばっか」「観光客ばっか」は、肉ばかり、観光客ばかり、という意味で、肉や観光客を見下す意味はない。

日本語においては、促音(っ)の有り無しで言葉の意味が全く異なる。
「ねっこ(根っこ)」と「ねこ(猫)」
「ふっき(復帰)」と「ふき(蕗)」
「いっき(一気)」と「いき(息)」
「しょっき(食器)」と「しょき(書記)」
「へった(減った)」と「へた(下手)」

何が言いたいかというと、朝鮮半島の白丁(ペッチョン)やインドのアウトカースト(不可触選民)にも似た被差別民について、「えた(えった)」と紹介されることがあることが気になる。
「えた」と「えった」では意味が異なるのではないだろうか。
どちらが正確なのだろうか。

私の想像では、「えた」は「えたちひと(役人、役立人)」の略。
古代には貧民や逃走者や避難民が物乞いとなり、集落の近くや河原に住み着くこともあった。
そういった人々に対して施政者は掃除や番人などの仕事を与えた。
役をもらっている人という意味で「えたちひと」「えたち」と人々から呼ばれたと考える。
それが、略されて「えた」となった。

しかし、「えった」となると別の由来が考えられる。
被差別民として、ばんた(番太)とか、かわた(皮田、川田、川太?)とか、語尾に「た」が付く人々がいる。
語尾における「た」は、わんぱくな「ごんた」などのように、何々なやつ、といった意味の愛称?として用いられることもある。
番人をやってるやつ、河原にいるやつ、雑役を担ってるやつ、といった意味合いで「ばんた(番太)」「かわた(川太)」「えった(役太)」と言われて社会の底辺扱いされていた可能性もあるのではないだろうか。

「えた」が「えった」に変化するのは難しい。
「へた(下手)」と「へった(減った)」、「ねた(寝た)」と「ねった(練った)」は明確に区別される。
「えた」と「えった」は別々に成立したのかもしれない。

「えた」は「えたちひと(役人)」→「えたち(役)」→「えた」とどんどん語尾が落ちて成立。
「えった」は「えたち(役)をやってるやつ」という意味で「えった(役太)」と呼ばれたのかもしれない。


ちなみに、被差別民には「かわた」と呼ばれる人々もいた。
「かわた」は「皮田」「」「川田」「河田」などさまざまな当て字がある。
「かわた」の人々は「自分たちは田んぼを持っているので、田んぼをもっていないエタと同一視されたくない」と申し出ることもあった(赤穂藩の文書)。
川のそばに住んで皮革を扱うことも多かったので、「川」とか「皮」という字が当てられたのだろう。
しかし、「た」は「田」という字があてられているが、田んぼをもっているから、という理由でもないのではないだろうか。
「川の近くに住んでいるやつ」という意味で、漢字で書くなら「川太」ではないかと想像する。


参考までに、10年以上前にブログにメモしたものを再掲。
  ↓
『時代別国語大辞典 上代編』(昭和42年12月発行、三省堂)のp140には次のような記述がある。

え[役](名)公用の課役。夫役。人民が朝廷の公用に出て働くこと。エタチとも。(中略)
【考】エ・エタチは、調(ツキ)とともに人民の賦課の様式で、ツキが物品を収めるのに対し、エは労力をもってする。令制では、正丁一人につき、歳役として一年間に十日を中央政府の行う土木作業に雑徭として随時に年六十日以内を限って地方官の命により地方行政に必要な諸種の労働に従事することを課した。詳細は賦役令にみえるが、実際は戦乱・行幸・遷都その他予期せぬことに関して役(エ)に立てられたらしい。仮名書きの確例なく、ア行かヤ行かは不明。(後略)

えたち[役](名)1公役にあてられて立ちおもむくこと。公役に従事すること。タチは立ツ(四段)の名詞形。「是以百姓之栄、不苦役使」(記仁徳)「是歳、新羅人朝貢則労於是役」(仁徳記十一年)(中略)「由新羅役以不得葬天皇也」(仲哀記九年)(後略)



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311

2021-03-10 21:02:11 | Weblog
2011年3月11日からまもなく丸10年。

呆然としながら、津波に流されて行く家や、爆発を起こした電子力発電所を、テレビ画面で見ていたことを思い出す。

人間は、どう反応すればいいのかわからない状況に陥ると、反応を止めてしまうのかもしれない。
叫ぶこともなく、引きつけを起こすこともなく、泣くこともなく、ただ圧倒的な状況を前に佇むしかなかった。


当時、書籍の校了作業が非常に忙しく、地震が起こっても会社で夜通し仕事を続けていた。
校了データの入ったMOディスクを受け取りに行くために地下鉄に乗ったけど進みが遅く、途中下車して組版のオフィスまで走った。
避難・帰宅する人々の流れに抗い、会社まで走って戻ったことを覚えている。
現在ではMOディスクを扱うこともなく、入稿データの受け取りは全部オンラインなので時代の変化を感じる。

地震の何日か後には、原子力発電所が爆発した。黒煙の映像に息をのんだことを覚えている。
出先のデザイン事務所から戻るときに小雨に降られ、本郷三丁目あたりで頭が濡れた。
ニュースを思い出して、直感的に射能の危険性を感じながら封筒を頭上にかざした。
(その後、白髪が増えて毛量がかなり減ったことは関係あるのかどうかわからない)

311の後から、自宅の料理にもお茶にも水道水を使うことはなくなった。
日常的にミネラルウォーターを使うことになって丸10年。
1日2リットルぐらい使うことが多い。安いところで買ってもペットボトル1本80円程度。
1か月で2,500円程度だろうか。1年で30,000円。
それを高いととらえるか、たいしたことないととらえるか。

最近は毎週ペットボトル6本入りの箱を買って、スーパーから1キロほど抱えて帰る。
軽い筋トレ&ウォーキングだと考えると、水を買うことも無駄ではない。

放射能汚染やコロナ禍の中でも、日常を過ごしている人々の姿に、戦時中の人々の姿を想像する。
第二次世界大戦は4年近くも続いた。
コロナ禍はすでに1年を過ぎた。世界史に残る出来事にリアルタイムで立ち会っている。
いつまで続くのか、戦時中の人々のことをときどき考える。


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熊の木彫り

2021-03-03 21:25:53 | Weblog
かっこいい熊の木彫りをメルカリで購入した。送料込みで2300円ぐらい。
芸術性が高い斬新な作品なのに、非常に安い。

『北海道 木彫り熊の考察』(かりん舎、2014年)を見ると、私の買った熊の木彫りの作者は川村浅光というアイヌ集落で知られる白老の人のようだ。
白老の熊彫作家としては10名以上の名前が掲載してある。
1955年に旭川から熊彫りの指導が白老に来たらしい。しかし、木の使い方や削る技術を見ると、旭川のアイヌよりも八雲の和人の熊彫りの影響を感じる。
旭川では丸太を2つに割って横にして熊を彫るが、八雲では短く切った丸太を立てて彫る。

北海道土産としての熊の木彫りはすっかり陳腐化してすたれてしまったけど、近年また一部で再注目されている。
『熊彫図鑑』(プレコグ・スタヂオ、2019年)という本もいくつかのメディアで見かけた。

先日、図書館で熊の木彫り作家である藤戸竹喜さんに関する本を借りた。
128ページほどの縦長パンフレットのような本。
一般的には、北海道の木彫りは、八雲町に来た入植者が始めたと思われている。
しかし、それ以前に旭川のアイヌも熊を彫っていたようだ。

旭川に生まれた砂澤ビッキは、日本画家の山田美年子さんと北海道で出会ってから鎌倉に行き、澁澤龍彦をはじめさまざまな文化人と出会って刺激を受け、芸術としての抽象彫刻に進んだ。
砂澤ビッキと幼馴染の藤戸竹喜さんは、具象彫刻を極めた。
2018年10月に84歳で亡くなられた時は、朝日新聞にも記事が出た。
https://www.asahi.com/articles/ASLBX4JR0LBXIIPE00H.html

亡くなられる前に丁寧に取材をし、藤戸さんの貴重な証言を残してくれた著者に感謝。

私が阿寒湖のアイヌコタンを訪れたのは2006年、もう15年も前のこと。
当時は砂澤ビッキや藤戸竹喜といった有名彫刻家の名前も知らなかった。
お土産物を売っている店の主人が、私が見ていたブレスレットか何かを見て「お、ビッキ紋様だな」と言っていたことを思い出す。
今から思えば、砂澤ビッキの叔父さんの店だったかもしれない。おそらく、藤戸竹喜さんの店にも入っている。
そろそろまた北海道を訪れてみたい。
白老町のウポポイ(民族共生象徴空間)や平取町の二風谷アイヌ文化博物館に行ってみたい。



<参考>
■『熊を彫る人 木彫りの熊が誘うアイヌの森 命を紡ぐ彫刻家・藤戸竹喜の仕事』
写真・在本彌生 文・村岡俊也 小学館 2017年

藤戸竹喜(ふじと・たけき)
1934年旭川生まれ。11歳から熊彫りを始め、15歳で阿寒湖を訪れ住み込みの職人として働く。以降、熊を始めとする木彫を続け、スミソニアン博物館での展示など、国内外で高い評価を受ける。札幌駅構内には、「エカシ像」が展示されている、2016年、文化庁地域文化功労者に選ばれた。

P58-59
「ビッキが何でも最初だった」

阿寒湖で知り合ったネコっていう女を追っかけて、(砂澤)ビッキ、きったない格好で東京に行ったんだ。行ったはいいけどカネがなくなって困っていたら、上野の交番でお巡りさんに何をやってるんだって職務質問された。そうしたらあいつ、カネがないから警棒に何か彫らせてくれって頼み込んだんだって。笑っちゃうよな。それで鎌倉までの汽車賃もらったんだぞ。鎌倉に着いてどうにかこうにか家を見つけて訪ねていったら、怪しい奴が来たって女中さんに追い出された。それでも、うまいこと話をして、ネコを北海道に連れて帰ってきたんだ。フィアットっちゅう車に乗ってきたことがあって、それで初めて知ったんだ、イタリアの車なんだぞって。4人乗りの車に何人乗れるかみんなで試してみたら、10人以上乗ったよ(笑)。ビッキは毎年冬には旭川や鎌倉のネコの実家に行って、夏には阿寒湖に帰ってくるという生活をしてた。鎌倉ではずいぶんといろんな人と知り合ったみたいだったけど、阿寒湖では一歩園から土地借りて、小さな家を建てて、赤ん坊が生まれた。
あいつは何をやるのもいっつも最初だった。ビッキが何でも最初。独特のビッキ文様のペンダントを作り始めたら、すぐみんな真似するんだ。お前はすぐに真似されるなってビッキに言ったら、お前は真似されないな。真似したくてもできないなって言われた。あいつと俺は、まったく逆だから。あいつは抽象で、俺はあくまで写実。だから二人の間に問題は起きないわけだ。ネコは芸大出てるから、一緒に仕事ができたんだな。静かな、いい絵を描く女だったよ。二人で机に向かって仕事しながら木の鈴を彫ってたよ。俺はまだ独り者だったから、コンニャロって思いながら熊を彫ってた。あいつらは、いっつも楽しそうに仕事してた。
ビッキもうちの親父と一緒で、なんとか賞なんて、大嫌いだった。でも、みんなに見せてあげたいっていう気持ちで個展はやってたよ。ある時、東京で個展をやったんだけど、作品が届かなくて、自分が台の上に座ってた。作品は、「俺」だって。そういう奴だったよ。

P74
木彫り熊の歴史

北海道の木彫り熊の歴史はいかにして始まったのか。
一般的に語られてきたのは、渡島半島にある八雲町が発祥だという説。つまり、和人が熊彫りを始めたという説だ。明治維新後に家禄を失った尾張徳川家の家臣が北海道へと入植したのが、八雲町の起源(それ以前にはアイヌの人々が暮らしていたが、武士が農民として入植することによって土地を奪われ、本来のアイヌの地名であるユーラップも八雲と変えられている)。拓かれた徳川農場の農場主である尾張徳川家の第19代当主・徳川義親は、引き連れてきた入植者たちが八雲で貧しい生活をしている姿を、熊狩りに訪れるために目の当たりにしていたという。ヨーロッパへの外遊から帰ってきた義親は、スイスで見つけた土産物の木彫りの熊を農民に紹介する。冬の農閑期には「こういう民芸品を作ってはどうか」と勧めたのが、北海道における木彫りの熊の起源だと言われている。1923年(大正12年)のこと。以後、農民美術研究会が徳川農場に作られて、スイスの熊を模した木彫り熊が奨励された。戦後には抽象へと行き着いた表現も、当時はあくまでスイスを手本としたものであった。
現在、八雲の熊としてもっとも有名なのは、戦後に作品を多く残した柴崎重行という名人の作品だろう。精緻に毛を彫り込んでいくスタイルとは正反対の、面彫りによって抽象的に熊を捉えた作品で知られている。ハツリ彫りという、斧で削り取ったような作品は、今見ても独創的でとても素晴らしい。若き柴崎重行が、熊と身近に暮らすアイヌに参考意見を聞こうと作品を持って旭川の近文コタンを訪れ、アイヌの松井梅太郎に4体の熊を譲ったという逸話が残されている。この柴崎重行と松井梅太郎の出会いが、アイヌが木彫り熊を始めたキッカケだという説がある(松井梅太郎が八雲を訪れて4体持ち帰ったという説や、川上コヌサの娘婿・栗山国四郎が嫌がる柴崎に無理に頼み込んで手に入れたという説もある)

P75-82
だが、アイヌはそれまで熊を彫っていなかったのか?
(略)
つまり、八雲で北海道の木彫り熊が奨励される以前から、拙いながらもアイヌは木彫り熊を製作していたことになる。
藤戸竹喜曰く、アイヌの木彫り熊の祖とされている松井梅太郎以前にも、尾澤カンシャトクなど、木彫り熊を彫る先輩たちがいたという。熊撃ちの狩人であった松井梅太郎が熊を彫り始めたのが21歳の時と言われているが、藤戸竹喜の父、藤戸竹夫は松井梅太郎と同世代であり、16歳の頃から熊を彫っていたそうだ。
「八雲が北海道の木彫り熊の発祥の地だって言っているけれど、そんなことはない。アイヌは大正12年よりも遥か前から熊を彫っていたんだから。八雲の熊は、スイスの熊を手本にしたもの。アイヌは、北海道の熊を彫っていたんだ。(略)」

P83
何百年も前から祭祀用のイクパスイ(棒酒箸)や頭に被るサパンペなどには熊が彫り込まれており、その延長としてアイヌの木彫り熊はある。藤戸竹喜のコレクションであるサパンペから、わに熊、ぶた熊への流れを見れば一目瞭然。明らかに地続きのアイヌ文化が見て取れる。旭川市史にあるように、元来アイヌは熊を彫っていた。そこにスイスから八雲を経て伝わった民芸品としての視点が加わり、その姿を変化させていったのだろう。撮影したサパンペは、旭川のエカシである曽祖父・川上コヌサから父・藤戸竹夫に引き継がれたもの。
「這い熊ってあるでしょう? アイヌはあれを横木で作る。でも八雲では、あれを縦木で作っているんだよ。パンと割ってから這い熊を作っているの。その違い一つとっても、アイヌと八雲では全然別物なんだよね。アイヌは、熊を神としてずっと作っていた。熊は、アイヌの言葉でカムイだ。カムイのためにずっと作っていたものを観光的に切り替えたっていうかね。第七師団にも、戦後やってきた進駐軍にも、お土産が必要だったから」
八雲とアイヌ、どちらが北海道における木彫り熊の起源か、という問い自体がナンセンスだが、今までに発信された木彫り熊の歴史のほとんどがアイヌではなく、和人から見たものであった。テレビ番組などで松井梅太郎が旭川の木彫り熊の祖だと語っていた熊彫りの平塚賢智も、その文化に深く親しんでいたとはいえ、アイヌではない。実際に竹喜が直接電話で問い詰めたところ、その説についての誤りを認めていたという。竹喜は、八雲が木彫り熊の発祥という説をはっきりと否定しておきたいと念を押した。
「昭和20年代、私が眩しく見ていた近文の熊彫りのメンバーには、松井梅太郎、砂澤ビッキの父親である砂澤市太郎、尾澤カンシャトク、空知タケシ、伊澤浅次郎、間見谷喜文、それから私の父親である藤戸竹夫がいた。(略)」

P84-85
アイヌの木彫り熊は、戦後、北海道への観光ツアーが増えると共に、爆発的な人気を博していく。1960年代から70年代にかけて、阿寒湖コタンがまるで原宿のように賑わうようになっていく。北海道旅行は一大ブームとなった。その需要に合わせるため、漁師を辞めて熊彫りになる、という極端な例がたくさんあったそうだ。漁師よりも、熊彫りの方が儲かるため、わずか数ヶ月修業しただけで、すぐに独立して熊を彫る人たちがいた。
(略)
1973年(昭和48年)の雑誌「an・an」には藤戸竹喜と砂澤ビッキが並んで掲載されている記事があるほど、北海道は憧れの土地となり、木彫り熊そのものも一大ブームとなっていた。作ったものがどんどん売れるから、藤戸竹喜の弟子たちは少し覚えるとすぐ問屋に引き抜かれて独立してしまう。そのために、一人前に育った弟子は一人もいない。1980年代の中頃まで北海道旅行、そして木彫り熊のブームは続き、1985年頃をピークに急速に萎んでいった。

P85
「俺は年代によって作るものが変わっているから。若い頃に作ったヤツは全然違う。親父の系統を継いでるけど、独立してからは親父ともまた違うものを作っている。
(略)
親父は三角彫りを初めてやった人だ。それまでみんな丸ノミで、親父が三角ノミで彫ったら高く売れたわけ。でも仕上げの時間は倍かかる。鮭負い熊、鮭食い熊、先輩たちが考えたんだ。変わり熊っていうのは、親父がやってたね。俺が考えたのは怒り熊っていうヤツだ。アイディアはすぐに真似される。
もう俺の他には熊彫り少ないから。俺は最高齢だと思うよ、熊彫りの。八雲の熊も、旭川の熊もどちらも素晴らしいと思う。ただ、先輩たちを思い出しながら、まだまだ彫り続けたいんだよ」



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