波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

ユダヤ人としての室伏広治

2011-08-29 22:06:16 | Weblog
室伏広治が世界選手権で堂々の金メダル。
2004年のアテネオリンピックに続き、テグの世界選手権でも金メダル。
すばらしい。拍手。

日本人として、オリンピックと世界選手権の両方で金メダルをとったはじめての陸上選手。
母親がルーマニア人アスリートだったせいもあり、体格がとてもいい。
190センチ近い筋肉質の体格はなかなか日本人にはいない。

ルーマニアのDNAおそるべし。
だから、ルーマニアで知り合ったメル友(彼女はfacebookはやってない)に
「室伏広治って知ってる?世界選手権で金メダル!彼のお母さんはルーマニアの陸上選手だったんだよ。ルーマニアのDNAすごいね!」
などとカタコト英語でメールしてみた。

そうしたら、「おもしろい情報ありがと。でも彼のお母さんはユダヤ人の名前だね~」
というようなメールがすぐ帰ってきた。

知らなかった。。。
Serafina Moritz という名前は、ルーマニアの人からみれば、すぐにユダヤ人だとわかるらしい。

ユダヤ人は女系だと言われているから、母親がユダヤ人であれば室伏広治もユダヤ人を自称しても問題ないだろう。

だけど、ちらっと検索しても、室伏広治の母親はルーマニア人と書いているばかりで、
ユダヤ人と書いているものは見あたらない。

ルーマニア人はスラブ人とも混血しているけど、ルーツはローマ人にあると意識している。
ユダヤ人はスラブ人にルーツのある人も多いけど、中東にルーツがあると意識している人も多い。
どちらにしても、ルーマニア人は、ルーマニア在住ユダヤ人のことを、別民族だと認識している。

そのうち、室伏広治の母親に「ルーマニア人じゃなくてユダヤ人です」と言われたら
日本のメディアは「母親はルーマニア出身のユダヤ人」などと書くようになるのだろうか。


http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/sports/20110829-567-OYT1T00939.html
■室伏が「金」、日本初のメダル…ハンマー投げ
2011年8月29日(月)20:52
(読売新聞)
 陸上競技の世界選手権第3日は29日、韓国・ 大邱 ( テグ ) で行われ、男子ハンマー投げ決勝で、室伏広治(ミズノ)が81メートル24で金メダルを獲得した。
 今大会で日本初のメダル。
 女子100メートルで日本選手初の予選突破を果たした福島千里(北海道ハイテクAC)は、準決勝3組で11秒59の8着となり、決勝進出を逃した。
男子400メートル準決勝では、金丸祐三(大塚製薬)が1組で46秒11の6着となり、決勝に進めなかった。
 両足が義足のオスカー・ピストリウス(南アフリカ)は3組8着で敗退した。
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「人に迷惑をかけない」教育が「敗北」と「隷属」を招く

2011-08-17 21:57:57 | Weblog
震災で避難している人が、「人に迷惑をかけられない」とつぶやく。
つつましさ、おもいやり、謙虚さなどの美徳を感じる人もいるだろう。
だけど、ぼくは少し違和感をおぼえる。

日本では、「人に迷惑をかけてはいけない」「人に迷惑をかけなければ好きなことをやっていい」などと教育する親が多い。

おそらく、一昔前の「世間体が大事だ」「世間に顔向けのできないことをしてはいけない」という教育が言葉を変えて存続している。
社会の調和を保つには、そのような共通認識も有効なのだろう。

だが、いったい何をもって他の人に対する迷惑だというのだろう。
何をもって、名誉を失うというのだろう。

「人の嫌がること」を避けることが、人に迷惑をかけないということなのだろうか。
「人から責められること」を避けることが、自分の名誉を守ることなのだろうか。

そうだとしたら、自分はわるいことをしていなくても、相手が不快に感じていたら
相手の主張を受け入れろというのだろうか。
自分が正しいと思うことに挑戦したくても、周囲の人に理解されないのであれば挑戦すべきではないというのだろうか。

確固とした善悪の判断基準にしばられず、対人関係の中で自分の位置を確認する。
そのような、座標軸のないところをただようような身の処し方も興味深い。

しかし、一神教や中華思想などの影響下に育ち確固とした善悪の基準を持っている人に
世の中を把握し判断する力のない人が接した場合、相手にいいように翻弄されてしまうおそれもあるのではないだろうか。

各国によって価値観や歴史観が異なるのは当然のことだが、
「人に迷惑をかけない」ことを基本原理とする国が他の社会と交流をもったとき、
相手の国の価値観や歴史観に合わせる行動をとるようになるかもしれない。
それは、相手の国の利益に見合った価値観や歴史観を受け入れるという事だ。

そうすることによって相手の反発を防ぐことができる。
「自分の意見を主張しない、何を考えているのかわからないへんなやつだ」と思われてしまうかもしれないけど、とりあえずの平穏を維持することができる。

そんな平穏を守るために、人々は「人の迷惑」「世間体」などという言葉を口にするのだろうか。
あいまいな雰囲気のなかで対立相手にずるずると譲歩して徐々に不満をつのらせ、
やがてどうしようもないところまでこじれてから爆発してしまうということもあるのではないだろうか。

悪気はないのだろうけど、「人の迷惑」「世間体」などという言葉は知性を育てる言葉ではない。
リーダーシップも交渉力も、想像力もコミュニケーション能力も高められない。
「人に迷惑をかけない」という行動は、共同体内部でも国際関係でも敗北と隷属を招くおそれがある。

「人に迷惑をかけないようにしよう」と教えるよりは、
「相手がなぜ嫌がるのかを考えよう」、「周囲からなぜ反発を受けるのか考えよう」、
「その問題を解消する手段を考えよう」などと教えたほうが、
だまされない海外営業マンや外交官を育てることができるのではないだろうか。

少なくとも、自分の頭で考え、判断することができる人を育てることができる。
そういった人は、きっと周囲からバカにされても笑われても、糾弾されても、暗殺予告を受けても、自分で切り開いた人生を堂々と歩んでいけるはずだ。



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地方の人にもおいしいものを

2011-08-14 21:42:54 | Weblog
親のウン十歳の祝いに兄弟が集まった。
親は親の両親より、もう20歳も長生きしている。
遊び放題飲み放題、好きなことをやって健康で長生きって幸せだなぁ。

姫路市郊外の某ステーキ店。地元では評価が高いらしい。
姫路駅南口のホテル日航に入っているレストランも候補だったけど
武田邦彦さんのエッセイではホスピタリティがなさそうな感じだったので、駅から4~5キロ離れたその店にした。

わるくない店構えだったけど、席に座ってすぐ足元に違和感があった。
掘りごたつのように座敷を掘り下げた足元の空間に何か黒いものが。
何だろうと思って手に取ると、、、、
ねずみか! いや、
干からびたコウモリやん!

紙ナプキンに包んでそそくさと店の従業員のところに行った。
「足元にこんなのがあったんですけど、何ですか、これ」
女性従業員はのれんの奥にひっこみ、上司や他の人に聞いているみたいだ。
何分か放置されてようやく調理師だか責任者だか誰だか知らないけど、
目鼻立ちのしっかりした男が出てきた。
「何だったんですか」と言うと、
「虫か何かだと思います」。
「虫じゃないんじゃないですか」と聞くと、とぼける。
(あんなケモノっぽい毛が生えてツメのあるものが虫のはずないやんけ)
「どうしたんですか」と言うと、
「もう捨てました」。
(ええぇ。それで終わり?そういえば証拠写真撮ってなかったわ)
「持って帰ってもいいですか」と言ってみると、
「はい。生ゴミのところに捨ててしまいましたが」という感じ。
「手で触ってしまったんですけど、清潔じゃないんじゃないですか」みたいなことを言うと
「だいじょうぶです。私もさっき触りました」。
おいおい。謝罪の言葉がないけど、過失ではないのか。
蜂とかカナブンだったらべつに平気なぼくだけど、コウモリはさすがにおどろく。
田舎ではそんなものはよく落ちているのか?

ぼくはどうも疑問に思ったことをすぐ口に出すのが遅い。
昨日も大吟醸のラベルを見て「あ、アルコール度数15~16%しかないんだ」とつぶやいたら
某化学の教授が「日本酒のアルコール度数は全部そんなもんだよ。醸造でそれ以上アルコール度数は高くならない」と言っていた。
すぐぼくの念頭には「アルコール添加してなくても原酒はもっとアルコール度数高いよ。15~16%っていう日本酒は加水してるんだよ」というイメージが浮かんだが、口にすることはなかった。
知ったかぶりになるかなと思ったし。

今日も、
「どうみても干からびたコウモリの死骸やんけ。なんで衛生的に問題ない言えるんや。死んだら腐敗もするやろ。屋外から入ってきたもんやったら何が付着しとるかもわからへんやろ。気分悪いやんけ。そもそも掃除してへんのんか?」
と姫路弁イントネーションで言ってもよかったのだけど、瞬時にいろいろ計算して言わなかった。

何しろ、祝いの席なのだ。気分をわるくする必要はない。
ここで場の空気をわるくしても利益にはならない。
東京のそこそこのグレードの店でこのようなことがあれば、謝罪の言葉はきちんとある。
地方の温泉宿でも、洗練されていなくても真摯なお詫びの言葉がある。
そのようなことを期待したわけではないけど、その場はおさめた。

もちろん、他の人にコウモリの死骸ふんづけてしもたやんけ事件は口にしなかった。
席に戻ったぼくを見て彼女だけは「ゴ(ゴキブリの意味)」?とだけ手に書いて見せたが、すぐ否定した。それ以上は言わない。

料理はまあまあだったけど、東京でミシュランの星がつくような店とは比べられない。
星のついていない評判のいい店にも届かない。
割烹風居酒屋にも負ける。
このレベルで地方の人気店になれるのか?と疑問を抱く。
形にはなっているけど、表現力とか想像力を感じないというか。

卓上での釜飯とか石板焼きは、パフォーマンスとしてはおもしろいけど、
味の面から考えるとどうなのだろう。
固形燃料の弱い火力で輸入物の分厚いイカやエビを焼いてもゆっくり水分が抜けて硬くなるばかりだし、牛のヒレ肉だってもうちょっとさっと表面を焼いたほうがジューシーさが逃げず香りも立つ。

料理がなんとも言えないレベルなら、接客もなんとも言えないレベルだ。
従業員教育には力を入れていないのだろうか。

僭越だけど、この店には下記のような点を助言したい。
下記の点を修正すれば、地域の有名店として恥じない店になるはずだ。

その1 庭木の手入れをする。
季節ごとに美しいだろうと思われる木々が植えてあるけど、職人の手が入っているように見えない。素人がカットした髪を見る気分。プロがカットすれば鬱陶しさを感じさせない、すっきりとした庭になるはずだ。

その2 客に声がけをする。
いらっしゃいませ、ありがとうございました、いかがなされましたでしょうか、失礼いたしました、こちらにどうぞ、そういった言葉は客をもてなす際に必要だ。何も言わないと、客を迎える姿勢が感じられない。

その3 客に料理の説明をする。
サービスする際に、これは何々です、何々でお召し上がりください、などといった言葉をひとつ添えるだけで、一品の魅力がアップする。きっと家畜でも囚人でも、料理の説明をしてもらえたらおいしく食事をすることができるだろう。

その4 笑顔で客に接する。
無理に笑顔をつくる必要はない。口角をちょっと上げて料理を出すだけでいい。「目先の仕事でいっぱいいっぱいっす。忙しいけどこなさないといけないっす」というようなさえない表情で目も合わさずサービスされても、豊かな気持ちにはなれない。

その5 客を不快にさせたらあやまる。
クレーム対応として効果的なのは、まずあやまること。客の心情を理解する。それから、状況説明。必要があればペナルティとして何らかの提案。意味もなくあやまる必要はないけど、問題解決の方法としていちばん効率的なのは、知らん振りではなくて、戦略的謝罪だ。

その6 靴は客に出させない。
帰る時、ぜんぜん店員が顔を出さず、靴箱から靴も出さないから母親の手を煩わせてしまった。ランチでもコースで7~8千円する店だったら、それなりの接遇を想像してしまう。東京だったら見送りに出てきて靴箱から靴を出す。というか、店員が勝手に靴箱にしまったのだから、帰るときに知らん振りでどこにしまったのか客に探させるというのは酷だ。

その7 タクシーが来たら客に伝える。
タクシーを呼んでもらっても連絡が来ない。帰るときも要領を得ない。運転手は店の受付けに来てから店の外でしばらく待っていたようだ。

その8 地元素材を活用する。
安いからといって輸入物の素材に頼る必要はない。いろんな食材を食べてきた人にはすぐわかる。季節の水揚げに合わせて食材を選ぶという料理人がいないのではないかと疑われる。

その9 食材の香りを立たせる。
食材に香りを感じない。みずみずしい新鮮な食材の香り、食欲をそそる焦げた香り、それがなければ料理の魅力も乏しくなる。素材そのものの香りを、調理方法や保存時間によっていかに消してしまわないか、配慮してほしい。

その10 調味料はグレードの高いものを使う。
天ぷらにつける柚子胡椒にも、ナトリウム塩ではなくもっとまろやかな味のする海塩か岩塩を使うべき。原価を抑えるためにチープなものを使うとそのチープさが目立つ。些末なものにこそ手の込んだいいものを使ってほしい。そんなに高いものではないし。


まあ、地方都市ではおいしいものを見つけるのがなかなかむずかしい。
地方で、東京でお目にかかれないようなおいしい料理に出会うこともあるけど、蕎麦でも刺身でもイタリアンでも中華でも、一般的な店は圧倒的に東京のほうがレベルが高い。競争原理も働いているのだろう。
地方の有名店はあぐらをかいてしまっているところも多いのかもしれない。

今日いちばんおいしかったのは、実家から持って帰ったさっき食べたオクラだ。
角ばっていない、丸いオクラは都心の一部のスーパーでも売っているけど、とれたては最高においしい。
みずみずしい香り、粘り気、フレッシュな歯ごたえ。ゆでたものにバルサミコソースでもかければ、星つきレストランの皿に載っていても違和感がない。
親は毎日のようにこれを味わえるわけだけど、たまには料理屋に行きたいと思うこともあるのだろう。

地方ではこういう店の食事が「ごちそう」なのかもしれないけど、
外国の日本料理店で食事をする地元民の家族の姿と重なる。
東京に来ればこんなに高いお金を出さなくてももっとおいしいものが食べられるのに。
同じお金を出せばもっとグレードの高い店で食事を楽しめるのに。

地方でもほんとうにおいしいものが食べられるようになることを願う。


まあ、偶然タイミングがわるかっただけかもしれない。
お盆休みの時期でなければ最高の状態だったのかもしれない。
普段はもっとおいしい、賞賛されるべきお店なのかもしれない。
いい集まりだっただけに、ちょっと惜しく感じた。


・三鷹 (鉄板焼きステーキと但馬牛の三鷹)
http://r.tabelog.com/hyogo/A2805/A280501/28002432/

・三鷹(姫路市山吹)
http://www.hotpepper.jp/strJ000033740/


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韓流ブームを批判する人は、ジャニーズも批判しよう

2011-08-07 04:26:50 | Weblog
何年も前から、中国でもベトナムでもミャンマーでも、
韓国のドラマや音楽が重要なテレビコンテンツになっている。
アジア各国において韓国製品や韓国資本の進出は著しい。
海外を訪れると、現地の人から「コリアン?」と言われることが増えた。
韓国のほうが日本よりも身近に感じられる存在になっているのだろう。

日本をとりまく状況に意識的でない人も多いのかもしれないけど
韓国や中国は、さまざまな場面で日本に取って代わってきている。
工業製品も商社も、テレビ番組もアイドルもファッションも、
アジア各国でも日本の存在は小さくなり、得ていた地位を失っている。
韓国は、輸出こそが生き残る道だと判断し、国策として海外進出を強化している。

日本は盛り返しを試みるのか、鎖国的状況をめざすのか、
あるいは特に対策を考えずジリ貧な縮小傾向を維持するのか、
政府や国民はどのように判断するだろう。

もしかしたら、日本では国民意識が強くないから、
日本がどうなろうとも、自分のことと同一視はしないのかもしれない。
とくに路線を定めることなく、流れにまかせてその中でできるかぎりの努力だけをするのかもしれない。

日本列島では住民の過半数が稲作に従事する時代が長く続いた。
稲作においては、毎年決まった時期に決まった作業を行うことが求められる。
天候によって対応した作業を行うことや、隣人たちと協力して集中的な作業をすることも必要だ。

だから、ずっと同じ場所にとどまることや、周囲の空気を読んで協調することに親しんでいた。
日照りや水害などで作物ができなかった場合は、あっさりあきらめて翌年の作業に気持ちを切り替えた。
鎖国をしていた時代は長く、一族で従事する仕事が固定されていた時期も長かったから、時代の変化に機敏に対応して新しい進路に活路を見出すことには慣れていないのかもしれない。

ただ、日本にはいいコンテンツもたくさんある。
お酒ひとつとっても、日本のお酒は実に手の込んだ丁寧なつくりの繊細なものが多い。
工芸品も工業製品も、すぐれたデザインや性能を持つものは多い。
値段や派手さでは負けるかもしれないけど、地道に努力すれば評価してくれる人だっているはずだ。

日本にはあまり資源も哲学も交渉力も攻撃力もない。
付加価値のある工業製品とか、緻密な手工芸品とか、独創的な芸術作品とかアニメとか、価値のあるものを愚鈍に作り続けて、職人とか芸術家とか研究者として、世界の人々に認めてもらうのが生き残る道かもしれない。

そういったことが念頭にあると、日本のテレビにおいて韓国のドラマや音楽が大量にオンエアされていることを不快に感じる人は、価値あるコンテンツを産み出して対抗することを考えるべきではないだろうか。

残念ながら、キムヨナの演技は浅田舞より大人っぽいのは否定できないし、
少女時代のダンスは日本のアイドルグループより完成度が高く、ダイナミックだ。
日本を応援したい気持ちはあるけど、キムヨナを否定したところで、自分の立場が守られるわけではない。
キムヨナや少女時代を否定する暇があれば、彼女たちを超える魅力を生み出す努力をしたほうが、生産的だろう。

何年か前、少女時代や東方神起が日本デビューする前から新大久保の韓国料理屋で彼女たちのライブ映像などを見ていた。
ぼくはクッパを食べながら「このスタイルとダンスはすごいな。アメリカのコピーっぽいけど、日本のアイドルは太刀打ちできないな」などと感じていた。
最近は若い女性たちの間にも韓流グループファンが増えている。
やらせじゃないかという話も聞くけど、実際に知り合いの女性が東方神起などにのめり込んでいるのを見ると、たしかに一部では人気なんだということを実感する。

韓国グループにばかり席巻されて残念だけど、韓国のアイドルグループはダンスも歌もかっこいい。
ドラマもわかりやすくてウケやすい。
それを認めたくないからといって拒絶しても、世界市場では彼らのほうが認められるばかりだし、日本のコンテンツが成長するわけでもない。

アメリカのコピーのようなダンスばかりがダンスではないと思うし、
わかりやすいドラマばかりがドラマじゃないと思うけど、少なくない人たちにウケているのは確かだ。

今日8/7(日)には、韓国コンテンツばかり大量に放映しているフジテレビに対するデモが企画されているとかなくなったとか。
たしかに、フジテレビは安い海外コンテンツを取り入れて、業績を維持しようとしている。
テレビ局が広告会社や業者などとつるんで流行を生み出すという手法も以前からあるけど、最近はテレビや新聞といったメディアの地位が低下し、ネット世論が強くなってきたから、メディアの露骨な利益誘導は反発が表面化しやすいのだろう。

ただ、反日的で独善的に見える韓国が気にくわなくて拒絶しても、何も問題は解決しない。
ほんとうに彼らの主張が不快なのであれば、きちんと英語や韓国語で世界に感情的ではない論理的な意見を発信すればいい。
ところが、韓国の主張に不満を持つ人の多くは、仲間内で不満を述べ合うだけで終わっている。外部に向って論理的に意見を述べる人は非常に少ない。
そんな人は、自分に都合のいいことばかり主張する人に負けてしまってもしかたがないだろう。

仲間内で韓国に対する文句を言うのは、成績もよく売り込みも上手な転校生に対する文句を仲間内で言い合うようなものかもしれない。
くやしくて転校生をいじめても学校に文句を言っても、不満は解消しない。
自分たちも勉強して、ウケ狙いもちょっとは考えるべきではないか。

韓国ブームの強力プッシュを続けるフジテレビに文句を言うのもいいけど、
それだったらふがいないジャニーズとかエイベックスにも文句を言うべきではないか。

とくにジャニーズ。ジャニーズに魅力を感じないから、韓国グループのほうを向く人も多いのだ。
ジャニーズ事務所のグループの振り付けは、サンチェさんという日本人振付師が長く担当しているらしいけど、ここにも問題がある。
ジャズダンスとかヒップホップとかいろんな要素が入っているのかもしれないけど、現代的な振り付けではない。
質感にとぼしく、日本舞踊か手話か何かか?というような小手先の動きを見せる。しかもメンバーで動きがばらばら。何を見せようとしているのか。

ジャニーズのダンスはがんばっているようにも見えるけど、雰囲気に乏しい。
ちゃかちゃか動いているけどいっぱいいっぱいという印象。
タメてるように見せても色っぽさはなくゆるい。
体幹にうねるような動きはなくて、表面的な小手先の動き。
忙しい動きには溌剌さや子どもっぽさが見られるけど、
深さや複雑さといった大人っぽさは感じない。

アメリカの流行をまねする必要はないけど、ジャニーズのダンスが独創的だとも思えない。
エイベックスなどにはアメリカの最先端のダンスを取り入れたグループもいくつかあって注目しているけど、なかなかブレイクしていない。韓流にくらべてもわるくないと思うけど、「転校生」みたいなインパクトがないせいかな。

それにしても、アイドルグループ終了の時代だと思っていたのに、いろんなグループが出てきて相乗効果でアイドルグループ市場が活性化している。
万人に受ける権威や偶像やカリスマは存在しにくくなり
細分化された需要に対応したニッチなアイドルが生き延びると思っていたのに、
宣伝によっては、まだまだ人々に価値を共有させることができるということにおどろく。

ただ、テレビや新聞といったマスメディアが影響力を低下させ、ネットの市民メディアや個人発信の情報が影響力を強める傾向は変えられない。
フジテレビも、今のままの会社規模や売り上げを維持することはむずかしいだろう。
すぐれたコンテンツを地道に作ることを放棄し、安易に安いコンテンツを輸入してなんとか自分たちの高給を維持しようとするような姿勢では、コンテンツ提供者として信頼されなくなる。

しかしすでにテレビ局はコンテンツ制作者ではなくなっているのかもしれない。
コンテンツを作るのは制作会社。
テレビ局の存在意義って何なのだろうということが真剣に問われているのかもしれない。

まあ、それを言えば新聞社や出版社の存在意義もゆらいできている。
制作会社や通信社や編集プロダクションがあれば、各種のコンテンツは制作できる。
テレビ局も新聞社も出版社も、組織の維持にこだわるばかりでは、存在意義を失っていくだろう。


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高齢労働者

2011-08-03 23:16:42 | Weblog
ダイヤモンドオンラインに興味深い情報が載っていた。
日本の高齢者は働いている率が高いというのだ。

元資料らしきデータを見ると、日本人男性の60~64歳男性の76.5%が、働いているらしい。
65~69歳でも49.4%。
そんなに働いているのか。
70~74歳でも30.0%。女性は同何代の男性の半分強程度。
フランスやイタリアでは、もっと気楽。
55~59歳の男性の3分の1はもう働いていない。

・第2-11表 性別・年齢階級別人口・労働力人口・労働力率(2009年)
http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/databook/2011/02/p067-075_t2-11.pdf

若年人口が減少し続ける日本社会では、高齢者が働かないと世の中が回っていかないのだろうか。
そうしたら、ぼくはいつまで働き続けないといけないのだろう。
70歳? それはきついなー。
身体が動くうちに世界中の見たことがないものを見に行きたい。

電通が先月発表した調査結果では、65歳時点では83%が、70歳時点では26%が働いていることを希望している。
働くのが好きなのだろうか。
手持ちの資金に不安があるのだろうか。
ほかにしたいことはないのかな。

・電通ニュースリリース(2011.07.14)
http://www.dentsu.co.jp/news/release/2011/pdf/2011082-0714.pdf

樋口教授の分析は興味深い。
http://diamond.jp/articles/-/13413?page=4
■なぜ震災後も新卒採用は衰えなかったか 団塊世代の大量引退で到来する「2012年問題」 の深刻 ――慶應義塾大学商学部・樋口美雄教授 (2011.08.02)
 OECDの国際比較調査によると、日本における60~64歳男性の労働力率(人口に占める労働力人口の割合)は非常に高く、約7割の人々が働いていることがわかる。それに対して、フランスの労働力率は約20%、ドイツに関しても約40%に過ぎない。
 こうした日本の高い高年齢者就業率に対して、働くこと以外に遊びを知らないからだ、と文化的な側面を指摘する人がいるが、私はそれだけが理由ではないと考えている。実際、フランスやドイツは以前から労働力率が低かったわけではなく、実は1960年代における高齢者就業率は70~80%で、日・仏・独間でそれほど大きな差はなかった。
(以下略)


今後、日本では65~69歳の人も労働人口にカウントされるようになる可能性がある。
もしかしたら、20年もたたないうちに日本国民の平均年齢は50歳代に突入し、
50歳女子会が各地に生まれ、60歳以上のロッカーが各地のフェスを席巻し、
60代になった織田裕二や鈴木保奈美が40年ぶりに恋愛ドラマ(東京エルダリーラブストーリー)を演じ、エル(エルダリーの略)がトレンディな高齢者をあらわす流行語になり、
70歳を前に退職後の生活を楽しみにする人が増え、
80代の日本人女性が大挙してフル介護対応の海外旅行を楽しむ、
というような時代が来るかもしれない。

それにしても、70歳まで過酷な条件下で働くのはきついなぁ。
50歳まで我慢をしてもいいけど、50歳以降は好きなことだけやって動きたい。
50歳で隠居して、73歳で亡くなるまで好きなことして過ごしていた伊能忠敬のように。


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一票の平等

2011-08-03 22:21:36 | Weblog
国政選挙において、都市部と農村部では一票の価値に差があることが多い。
農村部では広い地域から1人の議員を選出しても、有権者が20万人しかいない場合がある。
ところが、都市部では100万人の人口に対して議員は2人しかいないかもしれない。
そうすると、農村部と都市部では1票に2.5倍の価値の差が生じてしまう。

そういったことに不公平を感じて是正運動をしている人たちの意見広告をときどき目にする。
憲法とか法律を厳密に適用すればそうなのかもしれないけど、なんだかしっくりこない印象も受ける。

もし、国連で各国に各一票が与えられることなく、厳密に人口によって各国の票数が定められたら、人口の多い国の意見が圧倒的に通りやすくなってしまう。

地域性というものを考慮する余裕があってもいいのではないだろうか。


川上に大きな集落があり、川下に小さな集落がある町があったとする。
町議の多くが川上出身であれば、農業用水の使用について、川上の集落に有利な決定をする可能性がある。

平地に大きな町と、山の上に小さな町が合併して新しい市ができたとする。
市議会議員の多くが平地の大きな町出身であれば、町の開発は平地の人が主導し、
農産物を作ったり森林資源を守ったりしてきた山の上の町は廃れていくかもしれない。

強大な国と、周辺の小さな国が大きな連邦国家を作ったとする。
だけど、人口比によって連邦議会の議員が選ばれ、
過半数が強大な国出身者で占められたら、
小さな国は独立性を失い、強大な国の方針に従わされ、やがて合併を強いられるかもしれない。

そのような一方的な圧力をさけるために、国連は人口の多寡に関わらず各国に一票を与えている。
ECにおいてASEANにおいても各国が一票もっている。
日本国内でも、各団体の全国大会では、各県代表者や各団体代表者、各社代表者は一人一票を持つ。

もしも、アジアが連合国家を構成し、住民すべてに一人一票を与えたら、
連合国家議会の議員の過半数は中国出身者に占められるだろう。
そして、中国の利益のために行動する議員は、弱小国の意見を無視し、辺境国の独立性は切り捨てるかもしれない。

高校野球の代表校数が各都道府県の人口に比例して選ばれることになれば、
大都市の学校ばかりが勝ち上がることになるかもしれない。

同じようなことが日本での国内政治についてでも言えないだろうか。
農村部の人口は少ないが、かつては文化形成、交通、農林水産業などで重要な位置をしめていた。
現在でも日本の国土面積の半分以上は農村部で、そこの伝統行事や環境を守り続けている人たちがいる。
農村部は人口が少なく、経済活動も活発ではないけど、伝統文化の多様性や維持している自然環境の広さは都市部を圧倒する。

都市部は人数は多いけど、似たような格好をして、同じような言葉をしゃべり、画一的な行動をしている人が少なくない。
文化的には、農村部ほどの多様性は持たないのではないだろうか。
古くからの農村部における1万人規模の集団で見られる言語や思考や行動の多様性は、
都市部のベッドタウンでは10万人くらいの集団でも確認できないかもしれない。

新しく開発された住宅地に集中して住み、数だけ多い人たちが、
古くからの歴史を持つ広い土地に分散して住んでいる人よりも、
文化的多様性が豊富だとは言えない。

さまざまな文化圏に住む人の意見を尊重するのであれば、
必ずしも一人一票である必要はないのではないだろうか。

100万人も県民がいない高知や鳥取や島根は、
500万人以上の県民をかかえる兵庫ほどの発言力は得られないのだろうか。
兵庫の人が10回意見を言うときに、高知や鳥取や島根の人はそれぞれ1~2回しか意見を言わないということが、
人口比から見た平等な状態なのだろうか。

一票の平等の観点から言えば、兵庫から10人国会議員が選出されるのであれば、
高知や鳥取や島根からそれぞれ1~2人しか選出されないのだろうか。
だけど、それぞれの県から2~3人くらい選出されても、兵庫県民は不公平に思わないだろう。

そのあたり、一票の平等を求める人たちはどのようにお考えなのだろう。

みんな平等、一人一票が正しい、というのは
民主主義におけるルールなのかもしれないけど、
それは民主主義において仮定されているひとつのルールであって、
絶対的に肯定されるべき正しいこと、というわけではない。
一人一票が絶対に正しい、ということはだれも数式で証明できない。

判断力のある人には2票を与え、判断力のない人からは票を没収する、というルールがあったら、
政策決定における判断力を高めるためには有効なルールになりえるかもしれない。

社会組織の存続や発展を目的に選挙制度を考えた場合、
一票の平等にこだわるよりも、もっと大事なことがあるのではないかと思う。

・権力志向の人ではなく、人々の役に立つ人が立候補しやすくなる制度。
・人気者ではなく、政治的実力のある人が当選しやすくなる制度。
・地方の活性化をはかりやすくなる制度。

そういうことを考えないで一票の平等を追求するのは、ちょっとシンプルに感じる。

・一人一票実現国民会議
http://www.ippyo.org/index.html



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否定することってどういうことだろう

2011-08-02 22:54:16 | Weblog
生活している中で、つい何かを否定したり拒絶したりしてしまうことがある。
「すぐに意見の違う人を拒絶するあの人って嫌だね」とか
「人をバカにする人ってサイテーだね」などと
否定的な感情を持ってしまう人は、もしかしたら
自分もまた意見の違う人を拒絶したり、
人をバカにしているのかもしれない。

「陰口を言わないでその場で言ってほしいもんだよ」と
仲間に言っている人は、もしかしたら
自分もまた陰口を言っているのかもしれない。

「あいつらは極右だ、極左だ」と
過激に言っている人たちは、もしかしたら
自分もまた極端なほうにいるのかもしれない。

「あいつはエロい」とか「あいつは卑怯だ」とか
「あいつは傲慢だ」とか「あんなやつはぜんぜんダメだ」
と言う人自身にも、いくらかはエロくて卑怯で
傲慢でダメなところがあるかもしれない。

「あの人は謙虚だ」とか「あの人はふところが深い」とか
「あの人はやさしい」とか「あの人にだっていいところはある」
と言う人には、いくらかは謙虚でふところ深くて
やさしくいいところがあるのかもしれない。

初期仏教の影響の強い東南アジアの一部では、
声を荒げて怒鳴ったり、ふてぶてしい態度をとることは、
みっともないことだと認識されている。
不快なことがあってもそのような様子を見せない人がいる。

きっと、世の中の仕組みを把握したようなえらいお坊さんは、
誰かを攻撃したり、おとしめたり、辱めたり、拒絶したり
しないのではないだろうかと想像する。

もちろん、言葉を使用したり組織の中で生活する上で、何かを拒絶し、
何かを追いやらざるを得ないこともあるだろう。
意図していないことを曲解され、対立を起こしてしまうかもしれない。
ときには、理解のない人の攻撃によって排除されてしまうことだってあるかもしれない。

だけど、どこかに、細々と心やさしい人が息づいていることを夢想する。
人に自分の領域を侵されても、自分の心身を侵されても、
尊厳を失わない、知的で寛容な人たちが存続することはありえるだろうか。

弱者であれ強者であれ、人は、自分と方向性が異なるものを排除して、
自分の存在を維持しようとするのかもしれない。
気に食わないものを排除しようとするときの論理は、結局
「自分たちの生命の維持に支障をきたす恐れがある」
というところに集約される。

韓国の人が猛烈に日本人議員によるウルルン島訪問を拒絶するのも、
中国共産党政府がウイグル人の蜂起を絶対に許さないのも、
多くの人が原発に反対するのも、原発反対に反対するのも、
一部の人が韓流に反対するのも、韓流に反対する人に反対するのも、
ぜんぶ、突き詰めていけば、自分たちの生命の維持や
自分たちの所属する組織の存続をあやうくする恐れがある要因を
排除しようとしている行動にすぎない。

韓国の国土を死守することによって韓国民のアイデンティティや生命は守られるし、
中国共産党による支配体制を維持することによって支配層の生命は存続する。
自国民中心主義だと人々が暮らしを維持できなくなると考える人もいるし、
自国のシステムを守らないと侵略されて崩壊してしまうと考える人もいる。

安全や平和や民主主義や言論の自由を守ろうとするのも、
突き詰めていけば、それが自分の生命や、自分が所属する組織の維持に役立つと考えているからだ。
それに対立するものは、「悪」とか「犯罪人」とか「バカ」とか「クズ」とか
「カルト」とか「極右」とか「極左」とか、「変態」とか「妄言」とか「軍国主義者」とか、
マイナスの価値しかないというレッテルを貼られ否定される。


ぼくらは、どうどうめぐりのように何かを拒絶して、自分を守り、自分の居場所を確保しているつもりでいる。
だけど、ほんとうは何も確固としたものなど確保してないのかもしれない。
色即是空でもないけど、実体があるように見えるものは、幻にすぎないのかもしれない。

世の中には、怒りや反発を肯定する人もいて、
そういう人にとっては、不満を発散させることもやりがいの一部なのかもしれないけど、
いろんなものにストレスを感じ、怒りを感じ、文句を言って
憤死してしまいそうな人を見ると、偉大さよりも悲しさを感じてしまう。

ほんとうは、自分を慕うチベットの人々が何万人も殺害されたとき、
ダライ・ラマ十四世は憤怒の表情をうかべてもよかった。号泣してもよかった。
中国共産党を憎み、全否定してもよかった。

ところが、ダライ・ラマ十四世はそのようなことをしなかった。
彼は中国共産党を憎まず、人民解放軍を憎まず、チベットの人々に復讐を説かず、
寛容な態度を維持した。
それは何かを信じているからではない。
世の中の仕組みを把握しようとする思考の結果、そこにたどりついたのだ。

多くの人が、彼のような思考と態度を身につけたら、どうなるだろう。
世の中はいっそう美しく楽しいところになるだろうか。
あるいは、自己中心的な強大な勢力が略奪をくりかえす場所になってしまうだろうか。

ぼくは、何も否定しないで生きていくことは、ありえるのではないかと考える。
ダライ・ラマ十四世は、暴力的なことも性的なことも否定して我慢しているのではない。
そういったことに衝動をおぼえないだけだ。

否定したり拒絶したりすることから遠ざかれば、どんな世界が見えてくるのだろう。
ぜったいに守らなければいけないものってあるのだろうか。
ぜったいに否定されなくてはいけないものってあるのだろうか。
少なくとも、否定ばかりしているけどなぜ自分が何かを否定しているのか
あまり自覚的でない人よりは、心穏やかな世界にたどりつけるのではないだろうか。

(以上のように言っても、否定ばっかりしている人のことを否定しているわけではない)


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