波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

とがめる

2016-05-14 21:34:53 | Weblog
不満や憤りやわだかまりや焦燥を感じたとき、なぜそのような心境になるのか、その仕組みというか因果関係を見ていくと、焦りや怒りは霧散して行くことが多い。

自分が何かを受け入れがたく感じるということは、それを受け入れがたいと感じる判断基準を、思考回路の中に備えているということだ。

どのようにその判断基準が形成されてきたのか分析していくと、その価値観が必ずしも絶対的なものではないことに気がつく。

自分が「許せない」「認められない」と認識してしまう判断基準は、じつは単純なものだったり些細なものだったりする。

物事の因果関係をありのままに眺めていくと、ストレスが軽減していく。


たとえば、「とんでもない」「けしからん」と感じることを思い浮かべてみよう。
そして、なぜそのように感じるのか、理由をいくつか見つけてみよう。

自分の価値観で肯定しづらいことが目に前にあらわれると、その状況を是正したいと無意識に感じ、排除しようと試みる。

だけど、自分の価値判断基準は妥当なものだろうか? そもそも、自分を守ることは無条件に肯定されるべきことだろうか?

自分が現在の価値判断基準を持つようになった背景を考えていくと、家庭や学校、メディアなどの影響が大きなことに気づく。
無批判に周囲の人の価値判断基準を取り入れて自分なりの「常識」は作り上げられるけど、ちょっとした拍子で、すぐ変化していくものかもしれない。

あらゆる善悪の基準は、結局「自分や所属する共同体の存続にとって好都合か有害か」といった観点で設けられているようだ。
「自分の生命を守ることを第一に考えなくてもいい、家族や郷土や国が滅びてもいい」、そういった前提で思考することができれば、世界が広がり、あらたな価値判断基準にたどり着くかもしれない。

そんな夢想を続けていくと、人をとがめる気持ちが薄れていく。
同時に、「見下す」「軽蔑する」「とがめる」などといった意識によって生じる「差別構造」や「差別問題」を解消する意識に近づくことができる。

ちょっと周囲の世界の成り立ちを見つめるだけで、自分の意識は変化していく。
腹立たしいことや不満に思うことがあれば、それをきっかけに世の中を観察すると、つまらないことに心悩まされることが減っていくかもしれない。


コメント (129)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする