太田光と中沢新一による『憲法九条を世界遺産に』が集英社新書から出たのは2006年の夏。
それから5年のうちに実売30万部を突破した。
中古市場にも大量に流通したから、少なくとも50万人はこの本の内容を目にしただろう。
改憲派の人はこの本のタイトルを見ただけで敬遠する。
憲法九条を守りたい人が、勇気づけられたいと思って購入する場合が多いかもしれない。
だけど、この本を読んだ護憲派の人は、読解力のある人であればあるほど
自分の考えとの違いに悩むのではないだろうか。
本の内容を受け入れられないまま中古市場に放出し、今までの考えを堅持する人もいるだろう。
自分の考えを支えてくれる表現だけに目を向けて、理解できないところは気づかないふりをしてしまう人もいるだろう。
なかには、九条に対してこのような見方ができるのかと感心し、憲法を守れば平和になるというシンプルな信仰から遠ざかる人だっているだろう。
ほんとうは、九条の会の人たちは、この本を絶賛してはならない。
この本は、『天皇制を世界遺産に』という名称であってもおかしくないのだ。
(中沢新一がそのような本を作ることは簡単だ。もちろん、保守派の人々の心情にすんなり入ってくるような内容ではないはずだけど)
p134にはこのような記述がある。
中沢「(略)そう考えれば、日本国憲法のスピリットとは、一万年の規模を持った環太平洋的な平和思想だといってもいい。だから、決して新しいものではないのです。そういうところから見ると、天皇制と日本国憲法は、もともと親和性があるのでしょうね。本質を共通にしているところがある」
太田「天皇制も憲法も常に議論の対象になるのは、そういう本質が似ているからなのかもしれませんね。どちらも、人間の本質を問う問題なんだと思います。憲法九条に関して言えば、もしかすると日本人はまた人を殺すかもしれないという、自分への疑いがそこにある。言ってみれば、あの戦争は、あのときの正義が人を殺したわけです。だからこそ、憲法九条で絶対人は殺しませんという誓いが必要なんです。九条を抱えていることで、今、自分が信じている正義は違うかもしれないと、自分を疑ってみる。そういう姿勢が必要なんじゃないかと思うんです。極論すれば、憲法九条を世界遺産にと言い切ることも、どこかで疑問を感じながら言わなければいけないのかもしれない」
中沢「世界遺産にしてみたら? ぐらいにしとこうか(笑)」
中沢新一のことだから、「反戦平和は無条件に正しい」という憲法保守派のようなことは言わない。
憲法を「珍品」扱いし、護憲派の人たちを「ドン・キホーテ」扱いする。
護憲派の人たちは、そういった記述を自覚しているのだろうか。
p54
「たしかに僕も、平和憲法は世界の憲法中の珍品だと思います。ところがいま、この珍品を普通のものに変えようとして、改憲論が吹き荒れているわけです。(略)憲法の問題を議論するとき、この珍品ぶりがどこからくるのかを探ることは、とても重要だと思います」
p82
「太田さんがうまく言ってくれたけど、日本が世界の中でも珍品国家であるのは、ドン・キホーテのような憲法を持ってきたからです。サンチョ・パンサだけではできていなかった。僕は現実家としてサンチョ・パンサが大好きです。『旦那はそう言うけど、あれは風車ですぜ』と言って、現実的な判断をしてくれる人がいることは大事なことです。戦争はこれを永久に放棄するといっても、『ミサイル撃ち込まれたら、どうするんですか、旦那』と、言い続ける人たちがいることは必要なことだと思います。ただただ、平和憲法を守れと言っている人たちは、日本がなかなか賢いサンチョ・パンサと一緒に歩んできたのだという事実を忘れてはいけないと思います。そのことを忘れて現実政治をないがしろにしていると、『旦那を殺して、俺の天下に』と、サンチョ・パンサだけが一人歩きし始める危険性がある」
ぼくは憲法にはあまり興味がない。
憲法とか法律とか社会秩序とか、社会組織とか共同体とか、形あるものとか感知できるものに、捕われてしまうことから逃げているのもしれない。
現代人は、産まれたときから枠組みに捕われる。
ただぼんやりと周囲を眺めていた幼児のころから、物の名前を教えられ、名前の無いものを意識しないように差し向けられる。
長い間のうちに日本人や人類がつちかった物の見方や価値観、世の中の構造に組み込まれていく。
周囲の物や現象や組織には名前がつけられ、名前のあるものとあるものは結び付けられ、積み重ねられ、秩序を構成していた。
ぼくは文字を覚え、さまざまな名称を覚え、ルールを覚え、ルールを守り、社会の中で肯定的に評価されることを行い、良い子として育っていった。
くずれた言葉を使わず、親に何かをねだることもなく、悪いとされることは何もしなかった。
だが、ぼくは、ルールを守ることに抑圧を感じ、10代の半ばには精神的な壊死を感じていた。
がまんすることをやめたのは高校生の頃だ。
大嫌いな勉強に無理に取り組むことはやめたし、社会的に評価される良い子であろうとすることはあきらめた。
何かを正しいこととして信じる単純さにも疑問をいだき、ぼくは壊死してしまった精神を取り戻すために、秩序の外に混沌を探すようになった。
無意識のうちに、ぼくが読む本はアウトロー関係だったり差別関係だったり、民俗学関係だったり旅関係だったりした。
ビジネス書を読もうとしたときもあったけど、どうしてもなかなか興味が持てなかった。
大学時代は勉強もせず寝太郎のように怠惰な日々を送り、卒業してから就職活動をはじめ、スーツやネクタイをしなくてもすみそうな出版社になんとかもぐりこんだ。
今もずっと、言葉になるものとならないもの、見えるものと見えないもの、感知できるものとできないもの、秩序あるものと混沌としたもの、そんなところに目をむけて、ぐだぐだした日々をすごしている。
きっと、何か見えてくるはずなのだ。
ぼくが心理学者の岸田秀に共感しているのは、彼が自分の神経症をなんとかするために、いろいろ考え、行動していたからだ。
彼は社会的地位を得たいとか収入を得たいとか目立ちたいとか、世の中をどうにかしたいとか人々を指導しようとか、そんなことを考え、発言しているのではない。
彼は思い込みとか主義主張ではなく、必然性に基づいて歩を進めているだけだ。
岸田秀が学術論文を書かなくても、博士号を持っていなくても、ぼくは彼の知性に疑問をいだくことはない。
同じように、中沢新一の著作物にも魅力を感じる。
中沢新一は、何かを守ろうとしたり、何かを攻撃しようとしたりして発言しているのではない。
いみじくも、『憲法九条を世界遺産に』のなかで中沢新一はこう言っている。
p45「未熟であること、成形になってしまわないこと、生物学で言うネオテニー(幼形成熟)ということは、ものを考える人の根本条件なんじゃないですか。僕も長いことお前はいつまでも未熟だといわれてきましたから、太田さんも安心していいと思います(笑)。矛盾を受け入れている思想は、どこか未熟に見えるんですよ。(略)自分の中に矛盾したものを、平気で受け入れていく。それに従って現実の世界でも生きていこうとすると、しばしば未熟だといわれます。ふつうの大人はそうは考えません、現実の中ではっきりと自分の価値付けを決めておかなければいけないという、立派な役目があるからです。効率性や社会の安定を考えれば、そういう大人はぜひとも必要です。僕も大人の端くれとして、それに従って生きようと思うんですが、自分の内面に、そうそう簡単に否定できないカオス(混沌)があるますから、そのカオスを否定しないで、生きていこうとしてきました」
しっかりとした社会人としての殻を持たないぼくは、とても未熟だ。
そこに後ろめたさも感じるのだけど、ひとつの誠実な姿勢なのかもしれない。
ネオテニー(幼形成熟)であるからこそ、固まりきった自分の判断基準に依存することなく、中沢新一の発言内容を把握しようとすることもできるはずだ。
それから5年のうちに実売30万部を突破した。
中古市場にも大量に流通したから、少なくとも50万人はこの本の内容を目にしただろう。
改憲派の人はこの本のタイトルを見ただけで敬遠する。
憲法九条を守りたい人が、勇気づけられたいと思って購入する場合が多いかもしれない。
だけど、この本を読んだ護憲派の人は、読解力のある人であればあるほど
自分の考えとの違いに悩むのではないだろうか。
本の内容を受け入れられないまま中古市場に放出し、今までの考えを堅持する人もいるだろう。
自分の考えを支えてくれる表現だけに目を向けて、理解できないところは気づかないふりをしてしまう人もいるだろう。
なかには、九条に対してこのような見方ができるのかと感心し、憲法を守れば平和になるというシンプルな信仰から遠ざかる人だっているだろう。
ほんとうは、九条の会の人たちは、この本を絶賛してはならない。
この本は、『天皇制を世界遺産に』という名称であってもおかしくないのだ。
(中沢新一がそのような本を作ることは簡単だ。もちろん、保守派の人々の心情にすんなり入ってくるような内容ではないはずだけど)
p134にはこのような記述がある。
中沢「(略)そう考えれば、日本国憲法のスピリットとは、一万年の規模を持った環太平洋的な平和思想だといってもいい。だから、決して新しいものではないのです。そういうところから見ると、天皇制と日本国憲法は、もともと親和性があるのでしょうね。本質を共通にしているところがある」
太田「天皇制も憲法も常に議論の対象になるのは、そういう本質が似ているからなのかもしれませんね。どちらも、人間の本質を問う問題なんだと思います。憲法九条に関して言えば、もしかすると日本人はまた人を殺すかもしれないという、自分への疑いがそこにある。言ってみれば、あの戦争は、あのときの正義が人を殺したわけです。だからこそ、憲法九条で絶対人は殺しませんという誓いが必要なんです。九条を抱えていることで、今、自分が信じている正義は違うかもしれないと、自分を疑ってみる。そういう姿勢が必要なんじゃないかと思うんです。極論すれば、憲法九条を世界遺産にと言い切ることも、どこかで疑問を感じながら言わなければいけないのかもしれない」
中沢「世界遺産にしてみたら? ぐらいにしとこうか(笑)」
中沢新一のことだから、「反戦平和は無条件に正しい」という憲法保守派のようなことは言わない。
憲法を「珍品」扱いし、護憲派の人たちを「ドン・キホーテ」扱いする。
護憲派の人たちは、そういった記述を自覚しているのだろうか。
p54
「たしかに僕も、平和憲法は世界の憲法中の珍品だと思います。ところがいま、この珍品を普通のものに変えようとして、改憲論が吹き荒れているわけです。(略)憲法の問題を議論するとき、この珍品ぶりがどこからくるのかを探ることは、とても重要だと思います」
p82
「太田さんがうまく言ってくれたけど、日本が世界の中でも珍品国家であるのは、ドン・キホーテのような憲法を持ってきたからです。サンチョ・パンサだけではできていなかった。僕は現実家としてサンチョ・パンサが大好きです。『旦那はそう言うけど、あれは風車ですぜ』と言って、現実的な判断をしてくれる人がいることは大事なことです。戦争はこれを永久に放棄するといっても、『ミサイル撃ち込まれたら、どうするんですか、旦那』と、言い続ける人たちがいることは必要なことだと思います。ただただ、平和憲法を守れと言っている人たちは、日本がなかなか賢いサンチョ・パンサと一緒に歩んできたのだという事実を忘れてはいけないと思います。そのことを忘れて現実政治をないがしろにしていると、『旦那を殺して、俺の天下に』と、サンチョ・パンサだけが一人歩きし始める危険性がある」
ぼくは憲法にはあまり興味がない。
憲法とか法律とか社会秩序とか、社会組織とか共同体とか、形あるものとか感知できるものに、捕われてしまうことから逃げているのもしれない。
現代人は、産まれたときから枠組みに捕われる。
ただぼんやりと周囲を眺めていた幼児のころから、物の名前を教えられ、名前の無いものを意識しないように差し向けられる。
長い間のうちに日本人や人類がつちかった物の見方や価値観、世の中の構造に組み込まれていく。
周囲の物や現象や組織には名前がつけられ、名前のあるものとあるものは結び付けられ、積み重ねられ、秩序を構成していた。
ぼくは文字を覚え、さまざまな名称を覚え、ルールを覚え、ルールを守り、社会の中で肯定的に評価されることを行い、良い子として育っていった。
くずれた言葉を使わず、親に何かをねだることもなく、悪いとされることは何もしなかった。
だが、ぼくは、ルールを守ることに抑圧を感じ、10代の半ばには精神的な壊死を感じていた。
がまんすることをやめたのは高校生の頃だ。
大嫌いな勉強に無理に取り組むことはやめたし、社会的に評価される良い子であろうとすることはあきらめた。
何かを正しいこととして信じる単純さにも疑問をいだき、ぼくは壊死してしまった精神を取り戻すために、秩序の外に混沌を探すようになった。
無意識のうちに、ぼくが読む本はアウトロー関係だったり差別関係だったり、民俗学関係だったり旅関係だったりした。
ビジネス書を読もうとしたときもあったけど、どうしてもなかなか興味が持てなかった。
大学時代は勉強もせず寝太郎のように怠惰な日々を送り、卒業してから就職活動をはじめ、スーツやネクタイをしなくてもすみそうな出版社になんとかもぐりこんだ。
今もずっと、言葉になるものとならないもの、見えるものと見えないもの、感知できるものとできないもの、秩序あるものと混沌としたもの、そんなところに目をむけて、ぐだぐだした日々をすごしている。
きっと、何か見えてくるはずなのだ。
ぼくが心理学者の岸田秀に共感しているのは、彼が自分の神経症をなんとかするために、いろいろ考え、行動していたからだ。
彼は社会的地位を得たいとか収入を得たいとか目立ちたいとか、世の中をどうにかしたいとか人々を指導しようとか、そんなことを考え、発言しているのではない。
彼は思い込みとか主義主張ではなく、必然性に基づいて歩を進めているだけだ。
岸田秀が学術論文を書かなくても、博士号を持っていなくても、ぼくは彼の知性に疑問をいだくことはない。
同じように、中沢新一の著作物にも魅力を感じる。
中沢新一は、何かを守ろうとしたり、何かを攻撃しようとしたりして発言しているのではない。
いみじくも、『憲法九条を世界遺産に』のなかで中沢新一はこう言っている。
p45「未熟であること、成形になってしまわないこと、生物学で言うネオテニー(幼形成熟)ということは、ものを考える人の根本条件なんじゃないですか。僕も長いことお前はいつまでも未熟だといわれてきましたから、太田さんも安心していいと思います(笑)。矛盾を受け入れている思想は、どこか未熟に見えるんですよ。(略)自分の中に矛盾したものを、平気で受け入れていく。それに従って現実の世界でも生きていこうとすると、しばしば未熟だといわれます。ふつうの大人はそうは考えません、現実の中ではっきりと自分の価値付けを決めておかなければいけないという、立派な役目があるからです。効率性や社会の安定を考えれば、そういう大人はぜひとも必要です。僕も大人の端くれとして、それに従って生きようと思うんですが、自分の内面に、そうそう簡単に否定できないカオス(混沌)があるますから、そのカオスを否定しないで、生きていこうとしてきました」
しっかりとした社会人としての殻を持たないぼくは、とても未熟だ。
そこに後ろめたさも感じるのだけど、ひとつの誠実な姿勢なのかもしれない。
ネオテニー(幼形成熟)であるからこそ、固まりきった自分の判断基準に依存することなく、中沢新一の発言内容を把握しようとすることもできるはずだ。