波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

テルマー湯

2015-11-14 23:19:07 | Weblog
歌舞伎町の「テルマー湯」の客が少なく儲かっていない、という話をネット上で見かけた。
http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65838031.html

8月後半のオープンから、すでに3回も行っている私としては、少し「テルマー湯」を擁護したい。というか、お得に利用できる方法はあると思う。

行くのは、追加料金のかからない平日がおすすめ。
人も少なく静かな環境で落ち着く。
公式サイトなどを見てクーポンを利用。
あえて追加料金が必要な岩盤浴のコースを選ぶ。

温泉のお湯を使っているのが売りの施設だけど、
「岩塩岩盤浴をメインとして楽しむ」のがおすすめ。
浴槽や露天風呂に入るだけで2千円余りは高い。2時間も滞在できない。
だが、3時間の岩塩岩盤浴に入浴に休憩で私は6~7時間も滞在する。それで2千数百円なら安い。

施設内の飲み物は少し高いので、ペットボトルはコンビニで買った安いものを持ち込む。
(600ml~1000mlぐらいがいいと思う)

平日昼前、テルマー湯に行って室内着に着替えると岩盤浴に直行。
20~30分汗をかいた後は外に出て気持ちのいい低反発のソファーベッド?で休憩。
それを何回か繰り返す。
汗だくになったら大浴場に移動して、体を洗ったり温泉に入ったり。
のぼせそうになったら上がって休憩室でゆったりした座席にすわり、テレビを見ながらくつろぐ。

夕方になるとそろそろお腹がすいてくる。
店としては店内の飲食店を利用してほしいところなんだろうけど、歌舞伎町にはいくつか知っているお店があるので、そちらに向かう。
魚が食べたいときは「ぶんご商店」、ラーメンが食べたいときは「屯ちん」。
だけど屯ちんは10年前と味が少し変わり、ちょっと魚粉系の味わいが入り、生姜系の味わいが感じられなくなってしまった。

それはともかく、テルマー湯に関しては、「くつろげる」「岩塩岩盤浴に何時間でも入れる」「清潔、設備が新しい」ということをアピールすれば、もっと人は来るのではないかと思う。

ただ、岩塩岩盤浴は10人くらいしか入れないと思うので、あんまり人が来ると、窮屈になってしまう。
知る人ぞ知る穴場リラックススポットとして存続してもらえればありがたいけど、利益が上がらないとやっていけないだろうし、むずかしいところ。

ちなみにカウンターの人はみなさん感じがよく、ホスピタリティあふれる感じで、接客業の訓練をきちんと受けてきた人たちなんだろうなと感じた。

私がテルマー湯のスタッフであれば、知名度を上げることを考えたいと思う。
通りの向かい側の吉本興業に相談して、施設内で若手芸人のコント大会をやってみるとか。
岩盤浴のエリアで早朝ホットヨガ教室をやってみるとか。
あえて高級路線にしてセレブが集うセレブ銭湯として売り出すとか。
伊豆の温泉の泉質にはあまり温泉らしさを感じないので、もっと硫黄臭い温泉のお湯を導入するとか。
温泉で合唱コンサートをするとか。
休憩エリアをネットカフェにして、最終的には温泉のあるネットカフェにしてしまうとか。
長風呂コンテストを実施してニュースリリースするとか。


現実的な案では、マッサージは10分1000円、15分1500円などのコースを増やして、気軽に申し込めるようにすればいいと思う。
スムージーなどのドリンク類も原価で提供すればそれを目当てに人が集まるかもしれない。
入浴料は安くして、岩盤浴料金をもう少し上げてもいいかもしれない。

けっこう規模の大きな施設なので、経営不振だと赤字額も大きくなってしまう。
なんとか盛り返してもらいたいと思う。



コメント (2001)
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バリ巡り

2015-11-14 22:44:01 | Weblog
昨年に続きバリ島バックパッカー一人旅。
ウブド、シドゥメン、ブドゥグル、ロヴィナ、サヌール、ジンバランなどを放浪。
のどかな田舎町に連泊して田んぼを眺めていると、暇すぎて言葉が漏れ出るときがある。
詩まがいの文が出てきたので一応メモ。
テクニックゼロだけど、少し雰囲気が伝われば、と思う。
俳句もいくつかできたけどそれは省略。

先週戻ってきたばかりだけど、来週末からは彼女とリゾート旅を予定…



シドゥメン

緑の棚田を白い鳥の一群が過ぎ
金色の傘が掲げられたバリ島の寺院から
人々の祈りの声がこだましてくる。

沢の音のむこうから静かに響きが立ち上がり
椰子の木を越えてうねりはじめる。

虫も鳴かない昼下がり。
静まっているかと思えば
またどこからともかく響きはじめる。

炎天下の軒下。
山と棚田を見渡すこのデッキチェアから動かない私は
休暇を過ごしているのか
瞑想をしているのか。

何もない部屋に
大きな蟻が入って行こうとしている。





シドゥメンの朝

テラスで朝食のバナナパンケーキを食べ終えた頃
棚田をへだてた山すその村のニワトリは
夜明けの声の競い合いに飽きてしまい
耳を澄ませば谷間の沢の音がさざめいてくる。

セミの鳴き声や鳥のさえずりは断続的で
せわしげなツバメの黒い飛行線だけが瞬発的だ。

東京とバリを行き来する者もいるというツバメは
どこでも彼らのペースで飛んでいる。
急いでいるわけでもないし慌てているわけでもない。

バナナの葉は鷹揚に揺れて
山に隠れる白雲に別れを告げる。

畑で作業をするおじさんは無口で
黒いビニール袋は赤いトウガラシで満たされていく。

下の方の畑から、草を刈るエンジン音が響いてきた。
宿の横を子どもたちの声が通りすぎ、トラックの音がした。

日が高くなる前におじさんは帰路に着くだろう。
そして変わらない沢の音、棚田、山すその村。

ツバメが東京に向かうのはまだ先だろうか。
私は一足先にこのテラスを後にする。
自分のペースを心に留めて。





バスを待ちながら

光のうねりが繰り返されるとき
定型詩は風景の中で埋没し
熱帯の夜明けとともに
手探りの詩が生まれはじめる。

オープンテラスのレストランで
避暑地へ向かうバスを待ちながら
小鳥のさえずりを数える。

石仏は半眼のまま日時計と化し
通りを過ぎる旅行者の薄いワンピースが
ゆるやかにひるがえる。

光を描く画家は草木の呼吸を見つめ
プルメリアの花の落ちる一瞬に短詩人は嘆息する。

最小限の荷物とともに私はバスに乗り込み
あふれる光の中で眠りに落ちそうになりながら
目的地へと進んでいく。

自分で定めた目的地にどのくらいの現実味があるのか
眠気とたわむれそぞろに感じながら。





ブラタン湖

山々のほの暗い稜線は緻密さを増し
木々は列をなして朝日を迎える。

まだ薄暗い湖畔では
子どもたちが水浴びの声を上げ
どこかに向かうバイクと車の音が
朝の訪れを告げる。

静かな湖面に朝日が射しこみ
微かなさざめきが姿を見せる。

湖面にはっきりと映るものはなく
山々は少しずつ朝もやにけぶってゆく。

高原の澄んだ青空と
薄いもやにけぶる山々の影を混ぜた
緑がかった青い湖面の静けさ。

湖畔の寺院に観光バスが押し寄せる前
丘の上のゲストハウスのなだらかな斜面では
花々が朝の光を浴び
穏やかなひとときを迎えている。

旅の荷物を整えた私は戸口から湖を見渡し
湖畔の母子の笑い声が永く続くことを願う。





旅の続き

すべては過ぎて行った
違和感も 喜びも 苦痛も 
恐れも 飽きも 焦りも
怒りも 喜びも 悲しみも 

沢はせせらぎ
水路は整然と進み
大河は泰然と動き
海流は世界を周った

波打つ時も
揺れ動く時も
表面に動きがない時も
この場から遠ざかって行った

すべてを見送るこの場所からは
手を伸ばしてももう届かない
取り返せるものは何もなく
ただ平穏に身を任す

緊張感も 圧迫感も
焦燥感も 劣等感も
今となっては
まぶたの裏の
対岸の風景





値札なし

路上の物売りはまた観光客に素通りされた。
千人のうち1人でも興味を持てば
売り上げにつながるのだろうか。
彼らは焦りを見せず
木陰にたたずむ。

ぼくも会社に戻れば
商品の生産や販売に関わり
月々の収入を得る。

彼らのみやげ物に興味はないけど
ぼくらの商品にもどのくらいの価値があるだろうか。

物に価値を見出す人がお金を支払う。
価値っていったい何だろう。

旅先の島で毎日朝日と夕日を眺める日々はお金に換え難い。
だけれどこの生活を続けることにすれば
収入を失い生活が大きく制限されてしまう。

ぼくたちは忙しい日々の中で
さまざまなものに価値を見出し
お金を支払い
また収入を得ている。
それはぼくたちの暮らしを豊かにしているのだろうか。

砂上の楼閣は
ビーチの端ではなく
堅牢な都市の上にあるのかもしれない。

ぼくが朝のビーチでパラソルの下
いくつかの詩句を書き記す頃
東京では同僚が顧客の電話を受け
会社組織と社会の維持発展に貢献している。

長年の心身の負荷につかれたぼくは
しばらく前に病名を告げられ
1人で南の島にやってきた。

東南アジアの伝統的な市場や小さな商店では
商品に値札がない。
売り手と買い手のコミュニケーションで譲渡価格が決まる。

商品の価値は
値札などで示せるものではないのかもしれない。

数字も付加価値も配慮も欲望も
シンプルに削ぎ落とされたこの島では
悪人は悪人顔丸出しで
ケバい人はケバく
素朴な人は素朴で
わかりやすく生きている。

価値などは数字で示せるものではないと知っている彼らは
数字に幻想を見ることのはかなさを知って
今を生きる。



コメント (2001)
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