日本の新聞の問題点を指摘した、ニューヨーク・タイムズ東京支局長による貴重な本。
冒頭の、東日本大震災時の取材事例に引き込まれ、今朝、鎌倉に向かう電車内で読み進めた。
サラリーマン的な記者がジャーナリズムから遠ざかっている現実は、新聞社だけではなく放送局や出版社にも当てはまるだろう。
貴重な指摘や提言は、なぜか双葉社というニューヨーク・タイムズと対極的な会社から刊行。
大手の出版社であれば、次のような文章は校正でひっかかって修正されるはず。
「日本経済新聞の紙面は、まるで当局や企業のプレスリリースによって紙面を作っているように見える」
改訂版を出すのならぜひ大手出版社から大々的に売り出してほしい。
2012年に刊行された本なので、現在とは少し状況が違う面もある。
もうニコニコ動画はあまり注目されていないし、メディアのネット利用もずいぶん変わった。優秀なフリーのジャーナリストは増えてきた。
ただ、今も記者クラブは存続したままだ。根本的なことは変わっていない。
新聞社の間違いについて自省的に何例も書かれた部分があったが、従軍慰安婦報道の誤報についてはまったく書かれていなかった。
本の刊行は2012年だが、検索してみると、朝日新聞社が多くの従軍慰安婦関連記事を撤回したのは2014年だった。
ぜひ、近年のジャーナリズムの現状を補った、改訂版か増補版を見てみたい。
印象的だった部分の一部をメモ。
■『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』マーティン・ファクラー著、双葉社、2012年
P6
(略)バブル崩壊後、経済が停滞しているのに、日本社会はなぜ若者にもっとチャンスを与えないのか。団塊の世代ばかりを手厚く守り、彼らの子や孫はまるでどうでもいい存在であるかのように扱われている現状は明らかにおかしい。
世代間格差や社会システム、官僚制度の硬直化など、この国が本当に解決すべき問題を、なぜか記者クラブメディアは積極的に扱おうとしない。
P52
私が日本で取材をするようになって最も驚いたこと、それは「kisha club(記者クラブ)」の存在だった。新聞や通信社、テレビといった日本の主要メディアの記者たちは、その大半がなんらかの形で記者クラブに所属し、取材活動を行っている。新聞やテレビから流れてくるニュースが似たり寄ったりである第一の理由は、当局からの情報を独り占めする記者クラブの存在にある。一方、そこに所属できない雑誌メディアやインターネットメディア、海外メディアの記者やフリーランスのジャーナリストたちは、独自の取材により情報を発信している。
P54⁻55
アメリカ人にとって、ジャーナリズムは「watching dog(番犬=権力の監視者)」であるべきだという強い共通認識がある。権力をじっと監視し、ひとたび不正を見つければ、ペンを武器に噛みつく。だから、省庁や警察署内に詰め所を設けてもらい、各社の記者が寄り集まってプレスリリースをもらうなどという記者クラブのシステムは理解できない。
P62
(略)電力会社が活断層の存在を認めた瞬間、新聞に記事が出る。裁判で原発の危険性が言及された段階で、ようやく記事を書く。自らが疑問を抱き、問題を掘り起こすことはなく、何かしらの「お墨付き」が出たところで報じる。これでは「発表ジャーナリズム」と言われても仕方がないと思う。
P75
記者クラブによる報道のおかしさは、東日本大震災前から常に感じてきた。当局の発表どおりに、まるでプレスリリースのような記事をほとんどそのまま書いてしまう。よく言われるが、「これでは大本営発表と一緒ではないか」と感じる場面が何度もあった。
P96
本書第2章で述べたように、私からいわせれば、記者クラブメディアはスクラムを組んで、フリーランスの記者や外国人記者を排除してきた。当局の情報を寡占状態に置こうとしてきたと言える。日本経済新聞については、寡占ではない。当局や一部上場企業が発信する経済情報を、日本経済新聞が事実上独占しているように感じるのだ。
なぜ日本のビジネスマンが、日本経済新聞をクオリティペーパーとして信頼するのか私には理解しがたい。日本経済新聞の紙面は、まるで当局や企業のプレスリリースによって紙面を作っているように見える。言い方は悪いが、これではまるで大きな「企業広報掲示板」だ。大量のプレスリリースを要点をまとめてさばいているだけであって、大手企業の不祥事を暴くようなニュースが紙面を飾るようなことは稀だろう。
P114-115
また「~だということがわかった」という“主語なし文章”も不思議な表現だ。政府や捜査当局、企業の公式発表があったのであれば、「××は△△と発表した」と主語をはっきり書けばいいはずだ。これでは発表されたものを報道しているのか、記者が自分で見つけてきたネタなのか、読者は区別がつかない(賢明な本書の読者はご存じだろうが、「~がわかった」という新聞用語は発表報道の典型的な表現だ)。それとも、日本の新聞記者はある日突然、神の啓示のようにニュースが頭のなかに舞い降りてくるとでもいうのだろうか。
理解不能なのは、ほかのメディアの後追い報道をするときに、「~だということがわかった」と表現することである。こんな記事を書く記者は、ニューヨーク・タイムズのみならず、欧米メディアであったらただちに追放されてしまうだろう。
どうわかったのか。ニュースソースはどこにあるのか。ニュースソースをはっきり示せないのであれば、なぜ匿名にしているのか。理由が示さなければ、読者はいったいその記事をどうやって信用しろというのだろうか。そうした現状の裏側には、スクープを抜かれ、他紙の後塵を拝することを極端に恐れる日本の新聞の体質があると私は感じている。
P124
ニューヨーク・タイムズで記事を書くときのルールのひとつは、先ほど述べたように基本的に匿名を使わないことだ。もし名前を書かないときには、その理由をはっきり書く。
もうひとつ、日本の新聞と最も違うルールがある。誤報を出してしまったときの新聞社としての対応だ。誤報が出ないように記者も新聞社も最善を尽くすが、もし間違いが出てしまったら必ず訂正報道をすることが重要なのだ。この点に関しては、アメリカの新聞は徹底している。
P142
高田昌幸氏の著書『真実 新聞が警察に跪いた日』を読む限り、北海道新聞はただ利益を追求していればいい一般企業と同じように見えてならない。世間に真実を知らしめる使命をもつ新聞社の幹部が、自分たちの組織を守るために保身に走る。とんでもないことだ。
P150
日本のキャリア官僚は、不思議なことにそのほとんどが東京大学や京都大学から輩出される。東大や京大に続いて、早稲田大学や慶應大学などの難関私立大学の出身者が多く完了に採用されていく。つまり、官僚とジャーナリストは同じようなパターンで生み出されていることになる。大学で机を並べていた者たちが、官庁と新聞社という違いはあるにせよ、“同期入社組”としてそれぞれが同じように出世していく。
これは何を意味するのか。私が12年間、日本で取材活動をするなかで感じたことは、権力を監視する立場にあるはずの新聞記者たちが、むしろ権力者と似た感覚をもっているということだ。似たような価値観を共有していると言ってもいい。国民よりも官僚側に立ちながら、「この国をよい方向に導いている」という気持ちがどこかにあるのではないか。やや厳しい言い方をするならば、記者たちには「官尊民卑」の思想が心の奥深くに根を張っているように思えてならない。
P152
(略)「ジャーナリスト=専門職」という意識をもつ記者は日本の報道機関にとって不要であり、「ジャーナリスト=サラリーマン」であることが望ましいのだろう。
私は、ジャーナリストは専門職であるべきだと思っている。
P153
(略)ジャーナリストを目指す者までみんな揃ってリクルートスーツというのは日本に来て初めて知ったルールだった。世の中を疑い、権力を疑うジャーナリストは組織から距離を保った一匹狼であるべきはずだが、採用する新聞社も、志望する学生も無意識のうちに「記者になる=サラリーマンになる」と思い込んでいるとしか思えない。
P177
記者クラブの会見とは対極的に、FCCJの会見にはだれでもアポイントなしで自由に取材に入れる(クローズドな昼食会を除く)。リンゼイさんの遺族をFCCJの記者会見に招いたときは、出席した記者に自由に取材をしてもらった。(略)
自民党の安倍晋三氏が「従軍慰安婦は作り話」という趣旨の発言をしたときには(2005年3月)、韓国から元従軍慰安婦の女性を呼んで話してもらった。
P214
高度成長期のような活況はもはや望めないことは誰もがわかっている。いま求められているのは、新たな産業やアイデアを生み出す力だ。だが、この国には既得権益を手放さず、若者やチャレンジャーをつぶそうとする層が存在する。新聞で言えば、記者クラブがそれにあたるだろう。
P220
本書のなかで、私は日本の新聞について厳しい指摘をいくつもした。
誤解してほしくないのだが、日本のメディア批判をしたかったわけでも、日本よりアメリカのメディアが優れていると言いたかったわけでもない。健全なジャーナリズムを機能させるにはどうしたらいいのか。日本でその議論を起こすために、記者クラブメディアが抱える問題点を具体的に提示したつもりだ。
冒頭の、東日本大震災時の取材事例に引き込まれ、今朝、鎌倉に向かう電車内で読み進めた。
サラリーマン的な記者がジャーナリズムから遠ざかっている現実は、新聞社だけではなく放送局や出版社にも当てはまるだろう。
貴重な指摘や提言は、なぜか双葉社というニューヨーク・タイムズと対極的な会社から刊行。
大手の出版社であれば、次のような文章は校正でひっかかって修正されるはず。
「日本経済新聞の紙面は、まるで当局や企業のプレスリリースによって紙面を作っているように見える」
改訂版を出すのならぜひ大手出版社から大々的に売り出してほしい。
2012年に刊行された本なので、現在とは少し状況が違う面もある。
もうニコニコ動画はあまり注目されていないし、メディアのネット利用もずいぶん変わった。優秀なフリーのジャーナリストは増えてきた。
ただ、今も記者クラブは存続したままだ。根本的なことは変わっていない。
新聞社の間違いについて自省的に何例も書かれた部分があったが、従軍慰安婦報道の誤報についてはまったく書かれていなかった。
本の刊行は2012年だが、検索してみると、朝日新聞社が多くの従軍慰安婦関連記事を撤回したのは2014年だった。
ぜひ、近年のジャーナリズムの現状を補った、改訂版か増補版を見てみたい。
印象的だった部分の一部をメモ。
■『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』マーティン・ファクラー著、双葉社、2012年
P6
(略)バブル崩壊後、経済が停滞しているのに、日本社会はなぜ若者にもっとチャンスを与えないのか。団塊の世代ばかりを手厚く守り、彼らの子や孫はまるでどうでもいい存在であるかのように扱われている現状は明らかにおかしい。
世代間格差や社会システム、官僚制度の硬直化など、この国が本当に解決すべき問題を、なぜか記者クラブメディアは積極的に扱おうとしない。
P52
私が日本で取材をするようになって最も驚いたこと、それは「kisha club(記者クラブ)」の存在だった。新聞や通信社、テレビといった日本の主要メディアの記者たちは、その大半がなんらかの形で記者クラブに所属し、取材活動を行っている。新聞やテレビから流れてくるニュースが似たり寄ったりである第一の理由は、当局からの情報を独り占めする記者クラブの存在にある。一方、そこに所属できない雑誌メディアやインターネットメディア、海外メディアの記者やフリーランスのジャーナリストたちは、独自の取材により情報を発信している。
P54⁻55
アメリカ人にとって、ジャーナリズムは「watching dog(番犬=権力の監視者)」であるべきだという強い共通認識がある。権力をじっと監視し、ひとたび不正を見つければ、ペンを武器に噛みつく。だから、省庁や警察署内に詰め所を設けてもらい、各社の記者が寄り集まってプレスリリースをもらうなどという記者クラブのシステムは理解できない。
P62
(略)電力会社が活断層の存在を認めた瞬間、新聞に記事が出る。裁判で原発の危険性が言及された段階で、ようやく記事を書く。自らが疑問を抱き、問題を掘り起こすことはなく、何かしらの「お墨付き」が出たところで報じる。これでは「発表ジャーナリズム」と言われても仕方がないと思う。
P75
記者クラブによる報道のおかしさは、東日本大震災前から常に感じてきた。当局の発表どおりに、まるでプレスリリースのような記事をほとんどそのまま書いてしまう。よく言われるが、「これでは大本営発表と一緒ではないか」と感じる場面が何度もあった。
P96
本書第2章で述べたように、私からいわせれば、記者クラブメディアはスクラムを組んで、フリーランスの記者や外国人記者を排除してきた。当局の情報を寡占状態に置こうとしてきたと言える。日本経済新聞については、寡占ではない。当局や一部上場企業が発信する経済情報を、日本経済新聞が事実上独占しているように感じるのだ。
なぜ日本のビジネスマンが、日本経済新聞をクオリティペーパーとして信頼するのか私には理解しがたい。日本経済新聞の紙面は、まるで当局や企業のプレスリリースによって紙面を作っているように見える。言い方は悪いが、これではまるで大きな「企業広報掲示板」だ。大量のプレスリリースを要点をまとめてさばいているだけであって、大手企業の不祥事を暴くようなニュースが紙面を飾るようなことは稀だろう。
P114-115
また「~だということがわかった」という“主語なし文章”も不思議な表現だ。政府や捜査当局、企業の公式発表があったのであれば、「××は△△と発表した」と主語をはっきり書けばいいはずだ。これでは発表されたものを報道しているのか、記者が自分で見つけてきたネタなのか、読者は区別がつかない(賢明な本書の読者はご存じだろうが、「~がわかった」という新聞用語は発表報道の典型的な表現だ)。それとも、日本の新聞記者はある日突然、神の啓示のようにニュースが頭のなかに舞い降りてくるとでもいうのだろうか。
理解不能なのは、ほかのメディアの後追い報道をするときに、「~だということがわかった」と表現することである。こんな記事を書く記者は、ニューヨーク・タイムズのみならず、欧米メディアであったらただちに追放されてしまうだろう。
どうわかったのか。ニュースソースはどこにあるのか。ニュースソースをはっきり示せないのであれば、なぜ匿名にしているのか。理由が示さなければ、読者はいったいその記事をどうやって信用しろというのだろうか。そうした現状の裏側には、スクープを抜かれ、他紙の後塵を拝することを極端に恐れる日本の新聞の体質があると私は感じている。
P124
ニューヨーク・タイムズで記事を書くときのルールのひとつは、先ほど述べたように基本的に匿名を使わないことだ。もし名前を書かないときには、その理由をはっきり書く。
もうひとつ、日本の新聞と最も違うルールがある。誤報を出してしまったときの新聞社としての対応だ。誤報が出ないように記者も新聞社も最善を尽くすが、もし間違いが出てしまったら必ず訂正報道をすることが重要なのだ。この点に関しては、アメリカの新聞は徹底している。
P142
高田昌幸氏の著書『真実 新聞が警察に跪いた日』を読む限り、北海道新聞はただ利益を追求していればいい一般企業と同じように見えてならない。世間に真実を知らしめる使命をもつ新聞社の幹部が、自分たちの組織を守るために保身に走る。とんでもないことだ。
P150
日本のキャリア官僚は、不思議なことにそのほとんどが東京大学や京都大学から輩出される。東大や京大に続いて、早稲田大学や慶應大学などの難関私立大学の出身者が多く完了に採用されていく。つまり、官僚とジャーナリストは同じようなパターンで生み出されていることになる。大学で机を並べていた者たちが、官庁と新聞社という違いはあるにせよ、“同期入社組”としてそれぞれが同じように出世していく。
これは何を意味するのか。私が12年間、日本で取材活動をするなかで感じたことは、権力を監視する立場にあるはずの新聞記者たちが、むしろ権力者と似た感覚をもっているということだ。似たような価値観を共有していると言ってもいい。国民よりも官僚側に立ちながら、「この国をよい方向に導いている」という気持ちがどこかにあるのではないか。やや厳しい言い方をするならば、記者たちには「官尊民卑」の思想が心の奥深くに根を張っているように思えてならない。
P152
(略)「ジャーナリスト=専門職」という意識をもつ記者は日本の報道機関にとって不要であり、「ジャーナリスト=サラリーマン」であることが望ましいのだろう。
私は、ジャーナリストは専門職であるべきだと思っている。
P153
(略)ジャーナリストを目指す者までみんな揃ってリクルートスーツというのは日本に来て初めて知ったルールだった。世の中を疑い、権力を疑うジャーナリストは組織から距離を保った一匹狼であるべきはずだが、採用する新聞社も、志望する学生も無意識のうちに「記者になる=サラリーマンになる」と思い込んでいるとしか思えない。
P177
記者クラブの会見とは対極的に、FCCJの会見にはだれでもアポイントなしで自由に取材に入れる(クローズドな昼食会を除く)。リンゼイさんの遺族をFCCJの記者会見に招いたときは、出席した記者に自由に取材をしてもらった。(略)
自民党の安倍晋三氏が「従軍慰安婦は作り話」という趣旨の発言をしたときには(2005年3月)、韓国から元従軍慰安婦の女性を呼んで話してもらった。
P214
高度成長期のような活況はもはや望めないことは誰もがわかっている。いま求められているのは、新たな産業やアイデアを生み出す力だ。だが、この国には既得権益を手放さず、若者やチャレンジャーをつぶそうとする層が存在する。新聞で言えば、記者クラブがそれにあたるだろう。
P220
本書のなかで、私は日本の新聞について厳しい指摘をいくつもした。
誤解してほしくないのだが、日本のメディア批判をしたかったわけでも、日本よりアメリカのメディアが優れていると言いたかったわけでもない。健全なジャーナリズムを機能させるにはどうしたらいいのか。日本でその議論を起こすために、記者クラブメディアが抱える問題点を具体的に提示したつもりだ。