波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』マーティン・ファクラー著、双葉社、2012年

2021-08-29 15:55:34 | Weblog
日本の新聞の問題点を指摘した、ニューヨーク・タイムズ東京支局長による貴重な本。
冒頭の、東日本大震災時の取材事例に引き込まれ、今朝、鎌倉に向かう電車内で読み進めた。
サラリーマン的な記者がジャーナリズムから遠ざかっている現実は、新聞社だけではなく放送局や出版社にも当てはまるだろう。

貴重な指摘や提言は、なぜか双葉社というニューヨーク・タイムズと対極的な会社から刊行。
大手の出版社であれば、次のような文章は校正でひっかかって修正されるはず。
「日本経済新聞の紙面は、まるで当局や企業のプレスリリースによって紙面を作っているように見える」
改訂版を出すのならぜひ大手出版社から大々的に売り出してほしい。

2012年に刊行された本なので、現在とは少し状況が違う面もある。
もうニコニコ動画はあまり注目されていないし、メディアのネット利用もずいぶん変わった。優秀なフリーのジャーナリストは増えてきた。
ただ、今も記者クラブは存続したままだ。根本的なことは変わっていない。

新聞社の間違いについて自省的に何例も書かれた部分があったが、従軍慰安婦報道の誤報についてはまったく書かれていなかった。
本の刊行は2012年だが、検索してみると、朝日新聞社が多くの従軍慰安婦関連記事を撤回したのは2014年だった。
ぜひ、近年のジャーナリズムの現状を補った、改訂版か増補版を見てみたい。


印象的だった部分の一部をメモ。

■『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』マーティン・ファクラー著、双葉社、2012年

P6
(略)バブル崩壊後、経済が停滞しているのに、日本社会はなぜ若者にもっとチャンスを与えないのか。団塊の世代ばかりを手厚く守り、彼らの子や孫はまるでどうでもいい存在であるかのように扱われている現状は明らかにおかしい。
 世代間格差や社会システム、官僚制度の硬直化など、この国が本当に解決すべき問題を、なぜか記者クラブメディアは積極的に扱おうとしない。

P52
 私が日本で取材をするようになって最も驚いたこと、それは「kisha club(記者クラブ)」の存在だった。新聞や通信社、テレビといった日本の主要メディアの記者たちは、その大半がなんらかの形で記者クラブに所属し、取材活動を行っている。新聞やテレビから流れてくるニュースが似たり寄ったりである第一の理由は、当局からの情報を独り占めする記者クラブの存在にある。一方、そこに所属できない雑誌メディアやインターネットメディア、海外メディアの記者やフリーランスのジャーナリストたちは、独自の取材により情報を発信している。

P54⁻55
 アメリカ人にとって、ジャーナリズムは「watching dog(番犬=権力の監視者)」であるべきだという強い共通認識がある。権力をじっと監視し、ひとたび不正を見つければ、ペンを武器に噛みつく。だから、省庁や警察署内に詰め所を設けてもらい、各社の記者が寄り集まってプレスリリースをもらうなどという記者クラブのシステムは理解できない。

P62
(略)電力会社が活断層の存在を認めた瞬間、新聞に記事が出る。裁判で原発の危険性が言及された段階で、ようやく記事を書く。自らが疑問を抱き、問題を掘り起こすことはなく、何かしらの「お墨付き」が出たところで報じる。これでは「発表ジャーナリズム」と言われても仕方がないと思う。

P75
 記者クラブによる報道のおかしさは、東日本大震災前から常に感じてきた。当局の発表どおりに、まるでプレスリリースのような記事をほとんどそのまま書いてしまう。よく言われるが、「これでは大本営発表と一緒ではないか」と感じる場面が何度もあった。

P96
 本書第2章で述べたように、私からいわせれば、記者クラブメディアはスクラムを組んで、フリーランスの記者や外国人記者を排除してきた。当局の情報を寡占状態に置こうとしてきたと言える。日本経済新聞については、寡占ではない。当局や一部上場企業が発信する経済情報を、日本経済新聞が事実上独占しているように感じるのだ。
 なぜ日本のビジネスマンが、日本経済新聞をクオリティペーパーとして信頼するのか私には理解しがたい。日本経済新聞の紙面は、まるで当局や企業のプレスリリースによって紙面を作っているように見える。言い方は悪いが、これではまるで大きな「企業広報掲示板」だ。大量のプレスリリースを要点をまとめてさばいているだけであって、大手企業の不祥事を暴くようなニュースが紙面を飾るようなことは稀だろう。

P114-115
 また「~だということがわかった」という“主語なし文章”も不思議な表現だ。政府や捜査当局、企業の公式発表があったのであれば、「××は△△と発表した」と主語をはっきり書けばいいはずだ。これでは発表されたものを報道しているのか、記者が自分で見つけてきたネタなのか、読者は区別がつかない(賢明な本書の読者はご存じだろうが、「~がわかった」という新聞用語は発表報道の典型的な表現だ)。それとも、日本の新聞記者はある日突然、神の啓示のようにニュースが頭のなかに舞い降りてくるとでもいうのだろうか。
 理解不能なのは、ほかのメディアの後追い報道をするときに、「~だということがわかった」と表現することである。こんな記事を書く記者は、ニューヨーク・タイムズのみならず、欧米メディアであったらただちに追放されてしまうだろう。
 どうわかったのか。ニュースソースはどこにあるのか。ニュースソースをはっきり示せないのであれば、なぜ匿名にしているのか。理由が示さなければ、読者はいったいその記事をどうやって信用しろというのだろうか。そうした現状の裏側には、スクープを抜かれ、他紙の後塵を拝することを極端に恐れる日本の新聞の体質があると私は感じている。

P124
 ニューヨーク・タイムズで記事を書くときのルールのひとつは、先ほど述べたように基本的に匿名を使わないことだ。もし名前を書かないときには、その理由をはっきり書く。
 もうひとつ、日本の新聞と最も違うルールがある。誤報を出してしまったときの新聞社としての対応だ。誤報が出ないように記者も新聞社も最善を尽くすが、もし間違いが出てしまったら必ず訂正報道をすることが重要なのだ。この点に関しては、アメリカの新聞は徹底している。

P142
 高田昌幸氏の著書『真実 新聞が警察に跪いた日』を読む限り、北海道新聞はただ利益を追求していればいい一般企業と同じように見えてならない。世間に真実を知らしめる使命をもつ新聞社の幹部が、自分たちの組織を守るために保身に走る。とんでもないことだ。

P150
 日本のキャリア官僚は、不思議なことにそのほとんどが東京大学や京都大学から輩出される。東大や京大に続いて、早稲田大学や慶應大学などの難関私立大学の出身者が多く完了に採用されていく。つまり、官僚とジャーナリストは同じようなパターンで生み出されていることになる。大学で机を並べていた者たちが、官庁と新聞社という違いはあるにせよ、“同期入社組”としてそれぞれが同じように出世していく。
 これは何を意味するのか。私が12年間、日本で取材活動をするなかで感じたことは、権力を監視する立場にあるはずの新聞記者たちが、むしろ権力者と似た感覚をもっているということだ。似たような価値観を共有していると言ってもいい。国民よりも官僚側に立ちながら、「この国をよい方向に導いている」という気持ちがどこかにあるのではないか。やや厳しい言い方をするならば、記者たちには「官尊民卑」の思想が心の奥深くに根を張っているように思えてならない。

P152
(略)「ジャーナリスト=専門職」という意識をもつ記者は日本の報道機関にとって不要であり、「ジャーナリスト=サラリーマン」であることが望ましいのだろう。
 私は、ジャーナリストは専門職であるべきだと思っている。

P153
(略)ジャーナリストを目指す者までみんな揃ってリクルートスーツというのは日本に来て初めて知ったルールだった。世の中を疑い、権力を疑うジャーナリストは組織から距離を保った一匹狼であるべきはずだが、採用する新聞社も、志望する学生も無意識のうちに「記者になる=サラリーマンになる」と思い込んでいるとしか思えない。

P177
 記者クラブの会見とは対極的に、FCCJの会見にはだれでもアポイントなしで自由に取材に入れる(クローズドな昼食会を除く)。リンゼイさんの遺族をFCCJの記者会見に招いたときは、出席した記者に自由に取材をしてもらった。(略)
 自民党の安倍晋三氏が「従軍慰安婦は作り話」という趣旨の発言をしたときには(2005年3月)、韓国から元従軍慰安婦の女性を呼んで話してもらった。

P214
 高度成長期のような活況はもはや望めないことは誰もがわかっている。いま求められているのは、新たな産業やアイデアを生み出す力だ。だが、この国には既得権益を手放さず、若者やチャレンジャーをつぶそうとする層が存在する。新聞で言えば、記者クラブがそれにあたるだろう。

P220
 本書のなかで、私は日本の新聞について厳しい指摘をいくつもした。
 誤解してほしくないのだが、日本のメディア批判をしたかったわけでも、日本よりアメリカのメディアが優れていると言いたかったわけでもない。健全なジャーナリズムを機能させるにはどうしたらいいのか。日本でその議論を起こすために、記者クラブメディアが抱える問題点を具体的に提示したつもりだ。


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チャン・リン・シャン

2021-08-22 22:38:20 | Weblog
何十回か海外旅行に行った。東南アジアやヨーロッパが中心で、ヨーロッパは20か国ぐらい。
一人旅の場合はバックパッカースタイル。二人旅の場合は少しはマシな宿に泊まる。
どちらにしても、現地の人々の暮らしを感じられる市場や下町に足を運ぶことが多い。

それなりに現地の人と接する機会もあるけど、最近まで「チン・チャン・チョン」という言葉を知らなかった。
アジア系の人を揶揄する、有名な言葉なのだとか。
目じりを指でつり上げてからかう人がいることは知っていたけど、「チン・チャン・チョン」とか「チン・チャン」は聞いたことがなかった。

中国や韓国に、チン・チャン・チョンという姓の人が多いことに関連しているのだろうか。
あるいは、中国や韓国の人が話しているとチン・チャン・チョンという音が目立つのかもしれない。

私としては、「チン・チャン・チョン」という言葉や「つり目ポーズ」が、差別的なのかどうなのかよく分からない。

もしかしたら、特に否定的な意味はなく、ただ単に自分たちと異なる特徴を持つ人に対して興味を持っているだけなのかもしれない。
日本の田舎の人が外国人におどろいて、金髪だー! アフロだ―! ガイジンだー! と口にしたからといって、外国人を見下しているとは限らない。
「差別だ!」となじられたり犯罪視されたら、心を閉ざしてしまうかもしれない。

江戸時代に千島列島に漂着した日本人は、現地で会ったアイヌ人について、「猿目」と評している。
きっと、切れ長な目ではなくて、猿のように真ん丸な目が印象的だと感じたのだろう。
それは、一概に差別的な表現だとは言えない。

また、江戸時代の浮世絵画家に「あなたの描く絵は目が細いね」と言っても、差別的というか否定的な意味にはとらえないだろう。当時は、切れ長な目が肯定的に評価されていた。

現代の日本では欧米文化に影響されて、欧米人のように高身長・小顔・足長・色白・大きな目といった感じの人が憧れられたりするが、そういった価値観に付き合わなくてもいい。
目が細くても、べつに卑下する必要はない。堂々としていればいい。

私はべつに目が細くてもそのことをネガティブにとらえないので、目が細いことをバカにされてもきょとんとするだけで、バカにされていることに気がつかないかもしれない。


そういうことを考えていると、ふと、「もしかして、私も『チン・チョン・チャン』と言われたことがあるのかもしれない」と思った。
うっすらとした記憶なので、東ヨーロッパか南ヨーロッパか、コーカサスか、どこでのことかよくわからない。
ジョージア(旧・グルジア)の首都トビリシの旧市街かもしれない…

公園を歩いていると、白人系の中肉中背の比較的若い男に何か言われた。
無垢な笑顔でもなければ、見下したような笑顔でもない。恥じらいがある笑顔でもない。
ニヤニヤとニコニコを少量ずつ足したような表情だろうか。
よく聞き取れなかったけど、私は「チャン・リン・シャン」を連想した。
もしかしてこの男は30年ぐらい前に流行したリンス入りシャンプーのコマーシャルを知っているのだろうか。
「チャン・リン・シャン?」と笑顔で問い返してみた。

すると、その男は、「いやいや、×ン・×ン・×ン、だよ」みたいなことを言った。
(もしかしたら、「チン・チョン」だったかもしれない)
「チャン・リン・シャン」と言っているわけではないようだ。残念。
「それって何?」と無邪気に聞いたけど、何と言われたか覚えていない。
「名前だ」あるいは「名前は?」と聞かれて、自分の苗字か国籍を答えたかもしれない。

あまり話がかみ合わなくてすぐにその場で別れた。


たまに、外国の田舎町を歩いていると、ニヤニヤした顔を向けてくる男もいる。
多くの場合、彼らは東洋人をバカにしているのではなくて、見慣れない外来者を目にしてどう反応すればいいのか戸惑っているのだと思う。

田舎の日本人だって、白人を見たらニヤニヤしながら「鼻高! 色白!」と口にしてしまうかもしれないし、黒人を見たら「癖毛! 色黒!」などと口にしてしまうかもしれない。
それは、肯定的でも否定的でもなく率直に感じた違和感を表明しているだけかもしれない。

私は、悪意のない人に対しては、「チン・チョン・チャン」と言われても、つり目ポーズをされても、怒りを感じる必要はないと感じる。
「差別的に感じる人もいるよ」とか「気分を害する人もいるから気をつけた方がいいよ」と教えてあげる程度でいいかもしれない。

東洋人を見て「チャン・リン・シャン」と言う人が増えてきたらおもしろいなと想像する。
中高年の日本人なら、「チャン・リン・シャン」と外国人が言うのを聞いたら白い歯を見せるのではないだろうか。
打算のない、純粋な笑顔を目にすれば、心のすさんだ差別的な感情を持つ人も、あまり敵意を向けてこないかもしれない。

もし、海外で「チン・チョン・チャン!」と言われたら、「それ、どういう意味? おもしろいの? チャン・リン・シャンって言ってみて? 東洋人を見たら、チャン・リン・シャンって言った方がいいよ」と笑顔で応えたい。


ついでに言うと、人種差別だと思われている行為は、個人差別の場合も少なくない。
外国人と日本人では美醜の基準が違うと言われるけど、ある程度は一致していることが多い。
さえない表情で無気力に歩いている多くの日本人は、日本社会の中では埋没して特に問題視されることがないけど、外国ではその存在が目立つ。

日本人から見てもネガティブオーラを放っている容姿の人が「人種差別を感じた」と口にしても、それは人種差別とか東洋人差別と言うより、その人自身が否定的に見られている可能性がある。
何でもかんでも「人種差別」と言って問題視せず、個人の問題ではないかと考えることも問題解決には必要ではないかと感じる。


・参考 ちゃんりんしゃん(Soft in 1)のコマーシャル 1989年
https://middle-edge.jp/articles/I0001795


追記
目をつり上げるポーズをしてからかわれたら、自分も目をつり上げて、歯茎を見せながら口を横に広げて「レクサス!」と言ってみてもいい。
目を見開いて鼻を指で押し上げてブタ鼻を見せて「BMW!」と続けてもいいかもしれない。
車のヘッドライトが丸かろうが細かろうが、ボディーが白だろうが黒だろうが、ただのバリエーションにすぎない。人間の容姿もそんなものだと教えてあげればいい。


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コロナのおかげ

2021-08-18 21:08:32 | Weblog
2019年1月頃、コロナ禍はまだ中国に限られた話だった。
友人宅で旧正月を祝いながら、重慶での危機的な状況をスマホで見せてもらったことを覚えている。
3月にもなると日本でも緊迫感が強まって来たので、私もオーストラリア旅行をあきらめた。

コロナ禍での自粛生活はもう1年半になろうとしている。
不安を抱えたり、ストレスを溜めたりしている人も多いのではないだろうか。

だが、イラついたり攻撃的になったり鬱々としたりあきらめの気持ちになっても、状況は改善しない。
暗い気分になるだけ損するようなものだ。

お金がなくても、笑顔の絶えない楽しい生活をしている人だっている。
お金があっても、不平不満の多いつまらない生活をしている人だっている。
もちろん、お金がなくて、不平不満の多い生活をしている人だっているだろう。
しかし、嘆いても怒っても何も状況が改善されないのであれば、同じ状況なら楽しい生活をした方がお得ではないだろうか。

そういうわけで、コロナ禍で世界中たいへんな状況だけど、日々の中に、楽しみを見つけるのもいいと思う。

状況の改善は、着々と試みればいい。
人ごみに立ち寄らず、ワクチンを打って、手洗いやうがいを励行すればいい。
できることを淡々と進めながら、日々の生活を楽しむことも可能だ。

その上で、コロナ禍のよい面に目を向けてもいい。
「コロナのおかげ」というと不謹慎かもしれないが、コロナ禍によって生活様式が大きく変わったことを肯定的にとらえることもできるのではないだろうか。

私なりに、コロナ禍の肯定的な面もいくつか挙げてみたい。

■コロナのおかげ
1.新型コロナ以外の感染症の激減
マスクが日常化し、それとともにインフルエンザや風邪の感染者が激減した。感染症による死者が激減したこともあり、日本人の平均余命は長くなった。

2.テレワークの普及
この利点は多い。満員電車の息苦しさからの解放。社内のパワハラ的言動からの逃避。もちろん、社内の近くの席の人のゲップ・体臭・独り言などを気にしなくてもいいのは助かる。女性社員を「お前」呼ばわりする声や、科学リテラシーの低い「マイナスイオンを感じる」「ファイテンが効く」などといった言葉も聞かなくて済む。

3.キャッシュレスの推進
最近現金を使うのは、コインランドリーぐらい。ほとんどカードで済ませている。社会全体でキャッシュレスが進んでいるので、スーパーでの待ち時間も短くなっている。汚れた紙幣やコインを触る機会が減るのもありがたい。

4.飲み会文化の低迷
日本酒やワインは好きだけど、人工的な安酒を飲みながら騒ぐのは好きではない。ノリのいい人たちや一部の押しつけがましい人たちにとっては、みんなで集まって飲む機会が激減したことは残念だろうけど、静かに少人数でおとなしく過ごしたい人にとってはとてもありがたい。

5.静かな観光地
コロナ禍の前は、田舎の観光地にも多くの観光客があふれていた。コロナ禍により海外から人が来れなくなったこともあり、沖縄の海も北海道の大地も各地の温泉街も静かさを取り戻している。ゆっくりたたずめるのはありがたい。さすがに緊急事態宣言が出ているうちはどこにも出かけたくないけど、落ち着いたらまたひっそりと観光地に滞在したい。以前より安く旅行できるのもありがたい。

6.産業構造の変化
コロナ禍によって、オンラインでの会議・清算・申請など、新たな技術の活用が進んでいる。その変化は、日々の暮らしをより快適に過ごすことにつながっている。コロナ禍がなければ、このように速やかに新しい技術の利用が浸透することはなかった。

7.硬直した組織のあぶり出し
コロナ禍において、たいへんな思いをしている人は少なくない。困難に直面した時は、生き延びるために変化が必要だ。変化に対応できない硬直した組織は滅びることが多い。行政、メディア、医療、輸送、等々、さまざまな業界で硬直化して現状に対応できない面が表面化し、変化が進んでいる。より強靭で柔軟な社会を作ることにつながる。

8.「正しいこと」を考えるきっかけ
コロナ禍においては、さまざまなデマも流れている。何が正しいのか、何が信用できるのか、自分なりに情報を集めて考え、安易に流されないように気をつける人が増えている。
自分の頭で考えるきっかけとなっている。

9.マスクで容姿を隠しやすい
私の住んでいるエリアは、芸能人が少なくない。道端やスーパーでときどき見かける。
マスクに帽子、サングラスといった格好の小顔女性がいると、芸能人かもしれないけど誰なのだろう、と少し気になる。
現在では、マスクをしないで出歩いている人の方が珍しい。芸能人や自意識強めの人にとっては、マスクやサングラス、帽子などで顔を隠しても不自然ではない、過ごしやすい時代だと思う。
一般人も、ひげを伸ばす人が増えた。毎日剃るのは手間がかかるし、肌にもよくない。マスクで隠せるのはありがたい。

10.資産の増加
コロナ禍の影響で、海外旅行に行けなくなった。飲食店にも飲みに行けなくなった。
国内旅行に行ったり、お酒を買って自宅で飲むことはあるけど、それでも海外旅行や外食に比べたらかなり支払いは少ない。出費が減ると、その分貯金は増える。
コロナ禍当初の2020年3月頃には、株価が大きく下がった。私の持っている株の評価額も何百万というレベル以上に下がった。
だけど、その後は逆に大きく評価額が上がっている。コロナ禍のなかでも業績を大きく伸ばしている企業は少なくない。社会構造が変化するときに、大きく伸びそうな会社の株を狙うのもいいかもしれない。



自分なりに、コロナ禍のよい影響について考えてみるのもいいのではないだろうか。
コロナ禍をありのままに受け容れて観察すると、気づくこともあるかもしれない。

とは言っても、コロナ禍のよくない面もある。
突然失われる命の多さ、経済的困窮、行動の制限など。

状況は刻々と深刻化しているのに、ぐだぐだな対応がまかり通る、というのは大きな問題だろう。
ぐだぐだでもその場をやり過ごせばなんとかなるという意識は人間の成長をさまたげる。
いっそのこと、社会が壊れるような大きな変化があってもいいのではないかと感じている人も増えているのではないだろうか。


追記
欧米の生活様式がなかなか変わらないのもよくない面だろうか。
土足で部屋に入らない、部屋に戻ってきたらうがいして手を洗う、などといった習慣に移行してもいいのではないかと思う。
欧米は保守的な人が多いのだろうか。
思想的には寛容を主張していても生活習慣が変えられない人は多そうだ。


追記
11.平日の昼間に住宅地をうろうろしていても不審に思われない
も加えておきたい。
コロナ禍以前は、平日の昼間に近所を歩いていると、少し人々の視線が気になった。
ところが、テレワークが一般化してからは、自営業者や平日が休日の人だけでなく、一般的な会社員が平日の昼間に私服で出歩くこともめずらしくなくなった。
平日にふらふら住宅街を歩いていても不審者を見るような目を向けられなくなったのはありがたい。

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映画

2021-08-04 20:19:57 | Weblog
都内の新型コロナ感染者数は連日3千人、4千人と激増。
昨年、「都内で20名も感染者が出たらしいから今日会うのはやめておこう」と留学生と話したことを思い出す。
あの頃の100倍以上の感染者数なのに、オリンピックのメダル獲得がニュースの中心で、世の中は比較的平穏だ。
ワクチン接種が進み、感染者数の割に重症者数や死亡者が少ないことも影響しているのかもしれない。

オリンピックの会場は無観客だけど、劇場も映画館もライブハウスも、多くの人であふれている。
密室ではない国立競技場よりも、空気の入れ替わりが少ないライブハウスの方が危険だと思うのだが、どうなっているのだろうか。
自分でリスクを考えて、とりあえず小型のライブハウスに行くのはしばらく控えておきたい。

だけど、久しぶりに映画は見に行きたい。「竜とそばかすの姫」など、見たい映画がいくつかある。
映画のチケットは2019年6月に1800円から1900円に値上がりしたので割高な印象だけど、女性と見に行くと安くなる。
「夫婦50割引」は2人で2200円から2400円に値上がりしたけど、まだまだ安い。

> 夫婦50割引
> ※どちらかが50歳以上のご夫婦のみ。 ※年齢の証明になる身分証(運転免許証など)のご提示お願いいたします。 ¥1,200

ちなみに、「夫婦50割引」で入場する時、夫婦である必要はない。カップルで問題なし。
(同性カップルの場合はどうなのか知らない)
また、今まで50歳以上であることの確認を求められたことは一度もない。何もなくふつうに入場。
(白髪と薄毛がID代わりになっているのかもしれないが…)

また、夫婦のどちらかが50歳以上であればいいので、男性が50歳、女性が30歳でも1200円×2人で鑑賞できる。

TOHOシネマズは2021年7月7日に「レディースデイ」を廃止した。
「映画を安く見たいけど、レディースデイがなくなってしまった。60歳以上のシニア割引の対象ではないし、どうしよう」と思っている女性もいるだろう。
そういう人は、50代以上の男性と映画を見に行けばいい。
場合によっては、映画代を払わなくて済むかもしれない。
(私は、おごってもらうことを前提にしているような自立していない女性とはあまり出歩かないが、自分の分を払うような姿勢を見せる人の分は全部払うことが多い)


最近は50代独身男性がとても多い。出会いがないと嘆く人も多いけど、たまには知り合いの女性を映画にでも誘ってみればどうだろう。
まあ、声をかける程度で、深追いは不要。
「割安で映画を見られるから、よかったらどうぞ」「まったく特別な意味はない」「都市部ではちょっと時間の空いた時に男女で映画を見に行くのは自然」といった意識で、あくまでも気軽に。
日常会話の中で映画に言及して、あの映画見てみたいね、という話になれば、声をかけやすいと思う。


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反省記

2021-08-02 20:47:01 | Weblog
1990年代には、アスキーの西和彦、という名前をメディアでよく目にした。
あまりパソコンにも実業界にも興味がなかったので関連書籍を読んだことはなかったけど、2020年に出た『反省記』という本はとても興味深かった。
ビジネス書というよりも、天才的アウトサイダーの奮闘記、といった印象。
エピソードに驚く。
早稲田大学理工学部3年のときにビル・ゲイツに直接国際電話をかけて4か月後の1978年6月にはアメリカに会いに行ったり、20代でアメリカのマイクロソフトの副社長になって、世界初のノートパソコンや世界初の「右クリック左クリック」マウスを開発したり。
経営方針の対立などでマイクロソフトをやめさせられて、1977年5月に月刊アスキーを創刊。巻頭言では、「コンピュータは対話のできるメディアなのです」と宣言。
その後、アスキーが大赤字になってたいへんなことになったり、40代半ばからは大学講師など教育の道にも進んだけど、公立会津大学の学長選へ立候補しても落選したり。
人生のアップダウンが激しいけど、興銀元頭取の中山素平、CSK創業者の大川功といった賢人の指導を受け、人間的にも多くのことを学ばれている様子。

ネットで検索してみると、小田原市の関東学院大学のキャンパスがあったところには「日本先端大学」、群馬県の東洋大学のキャンパスがあったところには「日本先端情報大学」を作るつもりだとか。
とても興味深い。京都で日本電産の永守重信会長が経営する「京都先端大学」と並んで楽しみな大学だ。


印象深かったところをいくつかメモ。
というか、神戸のお嬢様は「やめてごらん、何々よ」といった口調で話すのだろうか。以前、神戸の高級住宅街に住むお上品な女性があまり関西弁を口にしないように感じたが、そういうものなのだろうか。
(もしかしたら、関西弁を話さない私に合わせて共通語を話してくれただけかもしれないが)
関西の庶民は、「人と喧嘩するのやめーや。喧嘩売られても我慢せーや」などと言うのではないかと思う。


『反省記』西和彦、ダイヤモンド社、2020年9月

P7
(略)マイクロソフトで喧嘩して、アスキーでも喧嘩して、まさに喧嘩男のちゃぶ台返しの人生。「あ~あ、バカだなぁ……」とため息が漏れる。
 子どもの頃に、妹に言われた言葉を思い出す。何か気に入らないことがあると、すぐに喧嘩をしていた小学5年生の僕に、妹はこう言ったのだ。
「お兄ちゃん、人と喧嘩するのをやめてごらん。喧嘩を売られても、我慢するの。そうするとすぐに学級委員長になれるよ。学級委員長になっているのは、喧嘩をしない子よ」

P70-71
 小学三~四年の頃には、こんなこともあった。
 学校で全生徒を対象にIQテストを行ったのだが、僕のIQは191と出た。すごくよい数値だった。しかし、先生はおかしいとか言って、もう一回テストをやらされた。すると、今度は200を超えた。それでも、先生は「やっぱり、おかしい」と言う。「こんなにIQが高いのに、こんなに成績が悪いはずがない」と言うのだ。それで、結局IQ150ということにされた。そんなんありか?

P150
 大事なのは、関西でいう「ええかっこ」をしないことだ。「へへ、ちょっとごめんくださいませよ」と潜り込んで、ニコニコ笑いながら言いたいことを言って、「はい、さよなら」とやる。浪速の商人みたく、低姿勢に、だけどしたたかにやる。これは、世界中で通用するビジネス・マナーだと思う。そして、これが身についてきたら、僕も本格的に遠慮がなくなった。

P187
 僕が果たすことができたのは、格好よく言えば「プロデューサー」の役割だ。世界のパソコン・ビジネスの最新情報を常に摂取しながら、僕なりの「理想のパソコン」をイメージする。そして、「理想のパソコン」を作るためには、どうすればいいかを考える。
 ただし、ゼロから考えるわけではない。「誰」と「誰」を結びつけて、「あの技術」と「この技術」を結びつければ、できるんじゃないかと考える。つまり、すでに存在している「要素」を組み合わせるのだ。そして、僕は、それらが融合するように働きかける。すると、その「場」に集った方々が創造性を発揮されて、世界にも通用するイノベーションが生み出されたのだ。

p402-403
 僕が何より否定的だったのは、「金の勘定」だけをする人たちだった。CSKには証券会社から移ってきた人もいたが、彼らの多くは「金」にしか興味がないように、僕の目には映った。
もちろん、「金」は大事だ。僕は、アスキーで「面白い!」「行ける!」という感動を起爆剤にして、金勘定を度外視するように事業を多角化して失敗した。そして、リストラのプロセスで、「実現可能性」「収益性」などを多角的にチェックする思考法を叩き込まれた。いくら「感動」があっても「金」にならない事業はやらない、ということだ。
しかし、「金」のことばかりで、出発点に「感動」のないプロジェクトが成功などするはずがない。そんなものが、お客様の心に響くはずがないではないか。それは、「モノづくり」に対する冒涜だとすら思う。結局、そんなビジネスは失敗する運命にあるのだ。

P442
 そして、現在、神奈川県小田原市にある関東学院大学のキャンパスに、「日本先端大学」という名称の新設大学を創立すべく活動を進めている。
 工学部のみの単科大学として、IoTメディアなど3学科を創設する予定だ。海外からも教員を集め、理系に尖った人材を育てるとともに、MITメディアラボラトリーのように、起業までを視野に入れた体制を整えたい。そこには、僕がこれまでに培ってきた、世界中の研究者・実業家のネットワークを活かせると思っている。2~3年以内には、開学に漕ぎ着けるべく準備を進めているところだ。

P455
 感謝している時が「幸せ」なのだ――。
 この気づきこそが、これまでさんざん経験をしてきた失敗から学んだ最大の知恵だと思う。


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