かつて戦闘的な糾弾が問題視されることもあった解放同盟だけど、最近は穏やかな人が多い。
山下力さんの「被差別の我が半生」や角岡伸彦さんの「被差別の青春」、上原善広さんの「被差別の食卓」をはじめ、本棚に被差別関係の本が何冊もあるけど、どれも堅苦しくない。おもしろく、ためになる。
誰かを敵視して咎めるようなことはない。構えずに読み進めることができる。
山下力(つとむ)さんは奈良県の県議会議員で、奈良県解放同盟支部連合会理事長。
2004年に平凡社新書から出た「被差別の我が半生」p109には、下記のような文がある。
私たちの運動体が長い間信じてきた「正しい知識・認識」そのものが揺れ動いているのである。差別の「近世政治起源説」が、歴史的に正しくなかったことは明らかにされているし、「」そのものの定義についても、さまざまな説が出てきてなかなか面白い状況になってきた。むしろこうした話題を自由に、闊達に、ときには冗談やからかいを交えながら、にぎやかに応酬するほうがいいのではないかと最近つくづく思う。
私たちは大上段に構え過ぎた。説得や教育や糾弾や啓蒙や指導や研修や啓発などをやり過ぎてきた。もちろん大上段に構えたり、一刀両断に切り捨てることが必要な局面はある。恥知らずで強欲な金権腐敗分子や利権主義者や、無神経で傲慢な権力者や大企業や組織や団体に対しては、断固として追及し糾弾しなければならない。そういうときはこちらも組織力を結集してとことんやる。
そうではなくて、個人個人の人間の私的な場面での「差別的言動」については、こちらも個人的に異議申し立てはするけれども、従来のような組織的糾弾などはしない。お互いに「差別し差別される人間」として話し合い、お互いの違いを了解し合い、出来ればお互いに差別を乗り越えるような方向にもっていきたいと考えるのである。
むかしは、この本のようなことを言ってくれる人はいなかった。マルクス主義的歴史学に影響を受けた先生から「近世政治起源説」が当たり前のように教えられ、善や悪が決め付けられ、疑問を感じるぼくは居心地が悪かった。
この本には被差別の歴史や言葉狩りの問題についても触れられている。気軽に読めるわりに内容が濃いので、一読をおすすめする。
そういうわけで、ぼくもフレンドリーに解放同盟に対して問題提起をしてみたい。ぼくは学生時代は問題研究会にも所属していた。デモ行進に加わったこともある。被差別出身ではないけど落解放同盟の敵ではないから、大目に見てほしい。
■解放同盟は名称を変更せよ!
解放同盟は、論理的な言葉を使うべきではないだろうか。
元来、「」という言葉は「集落」とほぼ同じ意味で、「被差別」を示す語ではない。
「解放同盟」の名称は日本語として不適切だ。
「被差別解放同盟」「我がムラ解放同盟」、あるいは「被差別地区解放同盟」「特定解放同盟」などと改称を検討してはどうか。
荊冠旗を継いでいるのだから、「」の名前を復活させてもいい。
「解放同盟」は、「地区解放同盟」「ムラ解放同盟」のように不正確な名称だ。
被差別のことだけを、地区やムラやと言うのは適切ではない。
解放同盟が「一般」と「被差別」をあいまいにした「」という語を使用した影響で、「」という言葉は被差別を示す語だと認識する人が増えてしまった。
出版物でも一般的なは「集落」と言い換えてしまうことが多い。
今でも「」は集落を指す言葉として、多くの地域で日常的に使われている。
だが、田舎の人が「このは~」と話しても、テレビのテロップでは「集落」と書かれてしまう。
事なかれ主義のテレビ局や出版社や新聞社にも問題があるけど、あいまいな言葉遣いを放置している解放同盟の責任も大きい。
論理的な思考を行うためには、意識的に言葉を使用する必要がある。
あいまいな語は、論理的な議論の障害となるのではないだろうか。
「解放同盟」の英語名も、「BURAKU LIBERATION LEAGUE」から改称すべきだ。
BURAKUに「被差別」の意味を持たせるのは非論理的。
You should not use “BURAKU” as “Discriminated Village”.
The word “BURAKU” is equal to “Village”. Not only “Discriminated Village”.
“Discriminated Village” should be called “Hisabetsu BURAKU”.
You should not cut off the ”Hisabetsu(=Discriminated)”.
I’ll suggest the new English name.
“The Liberation League for Discriminated Village”
“Committee for the Liberation of Discriminated Village”
“The Village's Union Against the Discrimination”
英語として間違えているだろうけど、上記のように新しい英語名を検討してもいいのではないだろうか。
「解放」と同じく、「差別」という言葉もあいまいで不適切だ。
正確に、「特定差別」や「一部地区差別」などのように表現すべきだ。
差別されていたもあるが、9割以上のは差別されていない。
「」「差別」「解放」「同盟」。
どの語も抽象的で、言葉を使うとわかったような気分になってしまう。
だが、どのくらいの人がそれぞれの語の定義をしっかりと認識しているのだろうか。
論理ではなく雰囲気が支配する村社会で、被差別は差別され続けてきたのではないか。
そのような中で、被差別民は論理を述べることによって状況を覆そうとしたのではないか。
ぼくはかつて大正時代や昭和初期のの機関誌(水平新聞など)を読みあさったことがある。
高橋貞樹も平野小剣も佐野学も西光万吉も南梅吉も、それぞれの立場から持論を堂々と述べていた。
現代の日本で被差別解放運動に関わる人たちも、真摯に言葉に向き合ってこそ、状況を正確に認識し、世の中を着実に変えていくことができるはずだ。
山下力さんの「被差別の我が半生」や角岡伸彦さんの「被差別の青春」、上原善広さんの「被差別の食卓」をはじめ、本棚に被差別関係の本が何冊もあるけど、どれも堅苦しくない。おもしろく、ためになる。
誰かを敵視して咎めるようなことはない。構えずに読み進めることができる。
山下力(つとむ)さんは奈良県の県議会議員で、奈良県解放同盟支部連合会理事長。
2004年に平凡社新書から出た「被差別の我が半生」p109には、下記のような文がある。
私たちの運動体が長い間信じてきた「正しい知識・認識」そのものが揺れ動いているのである。差別の「近世政治起源説」が、歴史的に正しくなかったことは明らかにされているし、「」そのものの定義についても、さまざまな説が出てきてなかなか面白い状況になってきた。むしろこうした話題を自由に、闊達に、ときには冗談やからかいを交えながら、にぎやかに応酬するほうがいいのではないかと最近つくづく思う。
私たちは大上段に構え過ぎた。説得や教育や糾弾や啓蒙や指導や研修や啓発などをやり過ぎてきた。もちろん大上段に構えたり、一刀両断に切り捨てることが必要な局面はある。恥知らずで強欲な金権腐敗分子や利権主義者や、無神経で傲慢な権力者や大企業や組織や団体に対しては、断固として追及し糾弾しなければならない。そういうときはこちらも組織力を結集してとことんやる。
そうではなくて、個人個人の人間の私的な場面での「差別的言動」については、こちらも個人的に異議申し立てはするけれども、従来のような組織的糾弾などはしない。お互いに「差別し差別される人間」として話し合い、お互いの違いを了解し合い、出来ればお互いに差別を乗り越えるような方向にもっていきたいと考えるのである。
むかしは、この本のようなことを言ってくれる人はいなかった。マルクス主義的歴史学に影響を受けた先生から「近世政治起源説」が当たり前のように教えられ、善や悪が決め付けられ、疑問を感じるぼくは居心地が悪かった。
この本には被差別の歴史や言葉狩りの問題についても触れられている。気軽に読めるわりに内容が濃いので、一読をおすすめする。
そういうわけで、ぼくもフレンドリーに解放同盟に対して問題提起をしてみたい。ぼくは学生時代は問題研究会にも所属していた。デモ行進に加わったこともある。被差別出身ではないけど落解放同盟の敵ではないから、大目に見てほしい。
■解放同盟は名称を変更せよ!
解放同盟は、論理的な言葉を使うべきではないだろうか。
元来、「」という言葉は「集落」とほぼ同じ意味で、「被差別」を示す語ではない。
「解放同盟」の名称は日本語として不適切だ。
「被差別解放同盟」「我がムラ解放同盟」、あるいは「被差別地区解放同盟」「特定解放同盟」などと改称を検討してはどうか。
荊冠旗を継いでいるのだから、「」の名前を復活させてもいい。
「解放同盟」は、「地区解放同盟」「ムラ解放同盟」のように不正確な名称だ。
被差別のことだけを、地区やムラやと言うのは適切ではない。
解放同盟が「一般」と「被差別」をあいまいにした「」という語を使用した影響で、「」という言葉は被差別を示す語だと認識する人が増えてしまった。
出版物でも一般的なは「集落」と言い換えてしまうことが多い。
今でも「」は集落を指す言葉として、多くの地域で日常的に使われている。
だが、田舎の人が「このは~」と話しても、テレビのテロップでは「集落」と書かれてしまう。
事なかれ主義のテレビ局や出版社や新聞社にも問題があるけど、あいまいな言葉遣いを放置している解放同盟の責任も大きい。
論理的な思考を行うためには、意識的に言葉を使用する必要がある。
あいまいな語は、論理的な議論の障害となるのではないだろうか。
「解放同盟」の英語名も、「BURAKU LIBERATION LEAGUE」から改称すべきだ。
BURAKUに「被差別」の意味を持たせるのは非論理的。
You should not use “BURAKU” as “Discriminated Village”.
The word “BURAKU” is equal to “Village”. Not only “Discriminated Village”.
“Discriminated Village” should be called “Hisabetsu BURAKU”.
You should not cut off the ”Hisabetsu(=Discriminated)”.
I’ll suggest the new English name.
“The Liberation League for Discriminated Village”
“Committee for the Liberation of Discriminated Village”
“The Village's Union Against the Discrimination”
英語として間違えているだろうけど、上記のように新しい英語名を検討してもいいのではないだろうか。
「解放」と同じく、「差別」という言葉もあいまいで不適切だ。
正確に、「特定差別」や「一部地区差別」などのように表現すべきだ。
差別されていたもあるが、9割以上のは差別されていない。
「」「差別」「解放」「同盟」。
どの語も抽象的で、言葉を使うとわかったような気分になってしまう。
だが、どのくらいの人がそれぞれの語の定義をしっかりと認識しているのだろうか。
論理ではなく雰囲気が支配する村社会で、被差別は差別され続けてきたのではないか。
そのような中で、被差別民は論理を述べることによって状況を覆そうとしたのではないか。
ぼくはかつて大正時代や昭和初期のの機関誌(水平新聞など)を読みあさったことがある。
高橋貞樹も平野小剣も佐野学も西光万吉も南梅吉も、それぞれの立場から持論を堂々と述べていた。
現代の日本で被差別解放運動に関わる人たちも、真摯に言葉に向き合ってこそ、状況を正確に認識し、世の中を着実に変えていくことができるはずだ。