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波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

部落解放同盟を糾弾する

2010-01-31 21:31:58 | Weblog
かつて戦闘的な糾弾が問題視されることもあった解放同盟だけど、最近は穏やかな人が多い。
山下力さんの「被差別の我が半生」や角岡伸彦さんの「被差別の青春」、上原善広さんの「被差別の食卓」をはじめ、本棚に被差別関係の本が何冊もあるけど、どれも堅苦しくない。おもしろく、ためになる。
誰かを敵視して咎めるようなことはない。構えずに読み進めることができる。

山下力(つとむ)さんは奈良県の県議会議員で、奈良県解放同盟支部連合会理事長。
2004年に平凡社新書から出た「被差別の我が半生」p109には、下記のような文がある。

 私たちの運動体が長い間信じてきた「正しい知識・認識」そのものが揺れ動いているのである。差別の「近世政治起源説」が、歴史的に正しくなかったことは明らかにされているし、「」そのものの定義についても、さまざまな説が出てきてなかなか面白い状況になってきた。むしろこうした話題を自由に、闊達に、ときには冗談やからかいを交えながら、にぎやかに応酬するほうがいいのではないかと最近つくづく思う。
 私たちは大上段に構え過ぎた。説得や教育や糾弾や啓蒙や指導や研修や啓発などをやり過ぎてきた。もちろん大上段に構えたり、一刀両断に切り捨てることが必要な局面はある。恥知らずで強欲な金権腐敗分子や利権主義者や、無神経で傲慢な権力者や大企業や組織や団体に対しては、断固として追及し糾弾しなければならない。そういうときはこちらも組織力を結集してとことんやる。
 そうではなくて、個人個人の人間の私的な場面での「差別的言動」については、こちらも個人的に異議申し立てはするけれども、従来のような組織的糾弾などはしない。お互いに「差別し差別される人間」として話し合い、お互いの違いを了解し合い、出来ればお互いに差別を乗り越えるような方向にもっていきたいと考えるのである。


むかしは、この本のようなことを言ってくれる人はいなかった。マルクス主義的歴史学に影響を受けた先生から「近世政治起源説」が当たり前のように教えられ、善や悪が決め付けられ、疑問を感じるぼくは居心地が悪かった。
この本には被差別の歴史や言葉狩りの問題についても触れられている。気軽に読めるわりに内容が濃いので、一読をおすすめする。

そういうわけで、ぼくもフレンドリーに解放同盟に対して問題提起をしてみたい。ぼくは学生時代は問題研究会にも所属していた。デモ行進に加わったこともある。被差別出身ではないけど落解放同盟の敵ではないから、大目に見てほしい。


■解放同盟は名称を変更せよ!

解放同盟は、論理的な言葉を使うべきではないだろうか。
元来、「」という言葉は「集落」とほぼ同じ意味で、「被差別」を示す語ではない。

「解放同盟」の名称は日本語として不適切だ。
「被差別解放同盟」「我がムラ解放同盟」、あるいは「被差別地区解放同盟」「特定解放同盟」などと改称を検討してはどうか。
荊冠旗を継いでいるのだから、「」の名前を復活させてもいい。

「解放同盟」は、「地区解放同盟」「ムラ解放同盟」のように不正確な名称だ。
被差別のことだけを、地区やムラやと言うのは適切ではない。

解放同盟が「一般」と「被差別」をあいまいにした「」という語を使用した影響で、「」という言葉は被差別を示す語だと認識する人が増えてしまった。
出版物でも一般的なは「集落」と言い換えてしまうことが多い。

今でも「」は集落を指す言葉として、多くの地域で日常的に使われている。
だが、田舎の人が「このは~」と話しても、テレビのテロップでは「集落」と書かれてしまう。
事なかれ主義のテレビ局や出版社や新聞社にも問題があるけど、あいまいな言葉遣いを放置している解放同盟の責任も大きい。

論理的な思考を行うためには、意識的に言葉を使用する必要がある。
あいまいな語は、論理的な議論の障害となるのではないだろうか。

「解放同盟」の英語名も、「BURAKU LIBERATION LEAGUE」から改称すべきだ。
BURAKUに「被差別」の意味を持たせるのは非論理的。
You should not use “BURAKU” as “Discriminated Village”.
The word “BURAKU” is equal to “Village”. Not only “Discriminated Village”.
“Discriminated Village” should be called “Hisabetsu BURAKU”.
You should not cut off the ”Hisabetsu(=Discriminated)”.

I’ll suggest the new English name.
“The Liberation League for Discriminated Village”
“Committee for the Liberation of Discriminated Village”
“The Village's Union Against the Discrimination”
英語として間違えているだろうけど、上記のように新しい英語名を検討してもいいのではないだろうか。

「解放」と同じく、「差別」という言葉もあいまいで不適切だ。
正確に、「特定差別」や「一部地区差別」などのように表現すべきだ。
差別されていたもあるが、9割以上のは差別されていない。

「」「差別」「解放」「同盟」。
どの語も抽象的で、言葉を使うとわかったような気分になってしまう。
だが、どのくらいの人がそれぞれの語の定義をしっかりと認識しているのだろうか。

論理ではなく雰囲気が支配する村社会で、被差別は差別され続けてきたのではないか。
そのような中で、被差別民は論理を述べることによって状況を覆そうとしたのではないか。

ぼくはかつて大正時代や昭和初期のの機関誌(水平新聞など)を読みあさったことがある。
高橋貞樹も平野小剣も佐野学も西光万吉も南梅吉も、それぞれの立場から持論を堂々と述べていた。

現代の日本で被差別解放運動に関わる人たちも、真摯に言葉に向き合ってこそ、状況を正確に認識し、世の中を着実に変えていくことができるはずだ。


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美しい都市よりも、美しい町

2010-01-30 16:39:22 | Weblog
アメリカの経済誌、フォーブスが世界の美しい都市ランキングを発表した。
フォーブス日本語版は昨年休刊となってしまったが、本場の英語版は相変わらず世界的影響力を維持している。
さまざまなランキングを発表して注目を集めることも、ひとつの広報活動なのだろう。

http://news.livedoor.com/article/detail/4576308/
<世界で最も美しい都市ベスト12>アジア唯一、東京がランクイン―米誌.2010年01月29日13時30分 / 提供:Record China
22日、米誌・フォーブス電子版は「世界で最も美しい都市ベスト12」を発表した。
(略)
同ランキングは、都市の見た目の美しさだけでなく、その都市の持つ歴史・象徴
性・都市計画・建築物・発展の持続性など、各方面の専門家の様々な調査・評価を
考慮して選出された。ベスト12に選ばれた各都市は以下の通り。
1位―フランス・パリ
2位―カナダ・バンクーバー
3位―オーストラリア・シドニー
4位―イタリア・フィレンツェ
第5位―イタリア・ヴェネツィア
第6位―南アフリカ共和国・ケープタウン
第7位―米国・サンフランシスコ
第8位―米国・シカゴ
第9位―米国・ニューヨーク
第10位―英国・ロンドン
第11位―英国・ケンブリッジ
第12位―日本・東京

元ネタはフォーブスの下記の記事。
■World's Most Beautiful Cities
Tim Kiladze, 01.22.10, 04:00 PM EST
http://www.forbes.com/2010/01/22/paris-london-travel-lifestyle-travel-tourism-new-york-top-ten-cities.html

■In Depth: World's Most Beautiful Cities (TOKYO)
http://www.forbes.com/2010/01/22/paris-london-travel-lifestyle-travel-tourism-new-york-top-ten-cities_slide_13.html

ぼくが行ったことがあるのはランキングの半分。
1位のパリ、4位のフィレンツェ、5位のヴェネツィア、9位のニューヨーク、10位のロンドン、そして12位の東京。

どこもいい町だけど、美しさを求めて行くところではないように感じる。
どの都市も規模が大きいので、表もあれば裏もある。
混雑した地区もあれば、洗練された地区もある。
美醜あわせ持ってこそ真の美しい都市だと言いたいのだろうか。

あるいは、有力政治家や有力マフィアがいる都市は経済的価値が大きいから、経済誌に取り上げようと思ったのだろうか。

経済的価値といえば、観光客の多さも大事な要素だ。
だが、人気のヒット曲が音楽としてハイレベルだとは限らないように、観光客の多い都市が観光地としてすばらしいとは限らない。

このランキングは、正確には「“経済的に価値のある”美しい都市ランキング」なのだろう。
経済や政治にあまり関心のないぼくが再訪したい町は、もっと小さくて控えめだ。

イタリアならサン・ジミニャーノとかポジターノ。
チェコならチェスキー・クルムロフ。
ハンガリーならエゲル。
昔ながらの農村や、古い宿場町も好きだ。

小さな町では住んでいる人たちの呼吸や、通り過ぎる風を感じることができる。
そこには、下水管から漏れてくるヘドロ臭さや、アスファルトの上で熱せられたくたびれた空気や、急ぎ足で行き交う会社員たちに感じる緊張感はない。
自然と人が調和した、やさしい町は美しい。

世の中の価値は、政治的価値や経済的価値で判断されることが多かったが、そのような時代は過ぎ去ろうとしている。
小さくて弱くてかすかな存在でも、人々を感動させ、安心させることができる。

都市から町へ小さな旅に出かける人々が増えれば、世界はもっと豊かに、美しいものに満ちてくるだろう。
ぼくも週末はどんどん関東周辺の静かな町に足をのばしたいと思う。


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情熱大陸ミャンマー

2010-01-25 00:27:57 | Weblog
さっき、TBSの「情熱大陸」でミャンマーの吉岡秀人医師の特集を見ていた。
吉岡医師のことは、ミャンマーの日系旅行会社「ヤンゴンナウ(サネイトラベル)」のサイトで見たことがある。
すごい人がいるものだとずっと気になっていた。

番組を見た後、吉岡医師のブログを見てみた。
考えさせられる記述があった。

・発展途上国の子供を救え!小児外科医吉岡秀人の戦い
http://japanheart.exblog.jp/

>  第二次世界大戦当時のミャンマー(ビルマ)での戦争19万人以上の日本人が
> 死に、その遺骨が残っている。
> 
> あるとき何かの番組で、どこかの島に未だにほったらかしにされている日本の遺骨
> がたくさんあり、その回収にお金が必要だということになったとき、現在も困っている
> 人たちはたくさんにいるのだから、そんなお金があれば今困っている人たちに使った
> ほうがいいというコメントを出す人もいた。
>
> もし、日本のために自分が命がけで何かをなさねばならないとき、しかし、後世の
> 人たちがそれを少しも評価もせず、自分の亡骸さえほったからしにするということを
> 知っていたなら、誰が自分の国のために命をかけようと思うだろうか?
> 国のためというのは、すなわち自分のため、家族のため、かわいい子どものため、
> 故郷のため、父母のため、自分を育ててくれた、植物や自然のためということだろう。
> そのために、命をかけたのだ。
>
> 過去を大切にすることは、未来を大切にすることだ。
> 未来の子どもたちを大切に思うならば、過去の人々を大切に思うことだ。
> 不思議なことに、私にとっては当たり前だが、それは同じだけ成果となって現れる。


登山家の野口健さんも、海外で戦死した日本兵の遺骨を収集する活動に力を注いでいる。
吉岡秀人医師も、遺骨は収集すべきと考えているのだろう。

ぼくは、去年の10月にミャンマーを訪れるまで、ミャンマーに30万人以上の日本兵が展開し、19万人以上が亡くなったことを知らなかった。
祖父も曽祖父も戦死していないから、遺骨収集のことを特に意識したこともなかった。
(祖父の兄は南洋で撃墜されて亡くなったので、遺骨は探しようがないらしい)

仏教遺跡で有名なバガンに行くと、自転車をこいで日本人慰霊碑に向かい、黙祷した。
客引きの子どもたちも、じっと慰霊碑に向かうぼくには声をかけない。
慰霊碑に日陰をつくる大きな木の上には、黒い鳩が何羽もたたずみ、亡くなった兵士の無念がさ迷っているかのような風景だった。

灼熱の太陽と容赦ないスコールに体力を奪われ、現地の疫病に倒れた日本兵。
彼らはミャンマーのリゾートで楽しい思いをしたこともなかったのだろう。

ヤンゴンからは西へ向かい、パテインという町で一泊。
翌日、数十年前の日野自動車のバスで海沿いの山脈を越え、グエサウンというビーチリゾートへ行った。
ベンガル湾に沿った小さな村にリゾートホテルが立ち並ぶ。

村はずれのレストランで食事をしていたら、現地のおじさんが興味深いことを言ってきた。
「この村には、日本の兵隊の襟章がある」
「私の母親は日本名がある。日本の兵隊にハナと呼ばれていた。ウシ、ウマ、などの日本語も覚えている」

そうか、こんな辺境の地まで日本兵は来ていたのか。
この美しい海を見て、心安らかに深呼吸した人もいたのだろうか。
おいしい魚や貝を食べ、水浴びに興じた兵隊もいたのだろうか。

補給もなく、弾薬もなく、背走を重ねた日本兵は現地の人々から穀物や牛馬を略奪したこともあった。
極限の中で、何の希望もなく亡くなった人も多いだろう。

日本に帰ってから調べると、ヤンゴンからベンガル湾にまで日本兵は歩いて行ったらしい。
しかも、実家に近い地域の人たちが多くミャンマーに出兵し、亡くなっていた。

ぼくが見たヤンゴンやパテインの町並みも、チークの木(現地の人はティーク、と言っていた)も、海沿いの町も、65年前に眺めていた日本人がいた。
グエサウンの美しいビーチを眺めたなら、病んだ日本兵も心やすらかになれたのではないだろうか。
そんな兵士がいたであろうと思いたい。

・「一兵士の戦争体験 ― ビルマ戦線 生死の境」小田敦巳著
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/odak/index.htm



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青空

2010-01-24 19:24:23 | Weblog
空が美しいから、町を歩く。
建物の上に広がる青空。
電線のむこうに冬の空。
たまには空を眺めながら町を散策するのもいい。

三茶のキャロットタワーまで歩いたら、展望台から遠くを見渡す。
世田谷区の町並みのはるかむこうに、横浜のランドマークタワーも見える。

気分がいいから、三茶から渋谷まで行ってみる。
4キロほど歩いて、いつものようにHMVで試聴する。

木村カエラの新しいアルバム、「hocus pocus」は力作だ。
10年前なら100万枚突破するようなアルバムだけど、CDの売り上げが不振な現在では、数十万枚売るのがやっとだろうか。
それにしても発声がすばらしい。
モデル出身のボーカリストだと思えない。
天性のボーカリストがSEVENTEENのモデルをしていただけだろう。

・木村カエラ / Butterfly
http://www.youtube.com/watch?v=CEdI-vDjLuc

Yuiの新曲「GLORIA」もすばらしい。
深刻そうな顔をしてるけど、マニアックな方に引きこもらないでポップな曲を作っている。
それにしても、これだけの容姿でこれだけの曲を書くとはすごい。
アイドルがソングライターも兼ねたのではなく、ソングライターが偶然アイドル並みの容姿を備えていたのだろうか。

・YUI / GLORIA
http://www.youtube.com/watch?v=Wa6cd82XiXo&feature=related

土曜日のHMVはいつも混んでいるけど、人気のない試聴ブースもある。
かつて「渋谷系」という音楽シーンを支えたHMVには、「エイベックス系」に興味を持つ人はあまり集まらないのかもしれない。

アメリカデビューして日本に逆輸入された「FACT」や、ELLEGARDENを解散した細美武士のプロジェクトで元ミッシェルガンエレファントのウエノコウジも参加する「the HIATUS」は試聴する人が多い。

・FACT / slip of the lip
http://www.youtube.com/watch?v=Nr23RWMRnpM

だけど、エイベックス一押しのGIRL NEXT DOORは人を集めていない。
北と南の入り口の両方に、試聴ブースが備えてあったけど、ほとんどの人が素通り。
ぼくが見ていた時には何人かが一瞥するだけで、誰もGIRL NEXT DOORを試聴しなかった。
入り口で行われていたGIRL NEXT DOORの宣伝ブースにも人がいない。

ぼくは、小室哲哉はきらいではなかった。多くの名曲を書いた人だと思う。
昨日も靴屋の店頭から渡辺美里の「my revolution」が流れてくるのを背後に聴き、いい曲だなと感慨にふけっていた。

だけど、GIRL NEXT DOORの曲はよく出来ているとは言いにくい。
曲の構成も、詩も。サビ部分と他の部分のつながりも。外国人にも理解しにくい曲調だろう。
せっかく、ボーカルの人はどんどんきれいになってきているのに。

・GIRL NEXT DOOR / Jump
http://www.youtube.com/watch?v=OtYj05rRP9o

軽いダンス系の音楽をはやらせなければ会社存続は難しい、という思いがあるのかもしれない。
だけど、10数年前のエイベックス全盛の時に発売しても売るのが難しそうな曲を大宣伝しても、厳しい。

GIRL NEXT DOORのメンバーの鈴木大輔さんは以前misonoがボーカルのDay After Tomorrowのメンバーだった。
彼が7~8年前に作曲したStarry Heavensは名曲だと言う人もいるけど、小室哲哉のある曲にコード進行がとてもよく似ている。小室さんに影響を受けているのだと思う。
どうせなら、小室哲哉さんに曲を書いてもらえばいいのに。話題にもなるはず。

・Day After Tomorrow / Starry Heavens
http://www.youtube.com/watch?v=JKvrF071I9g

日刊サイゾーにこう書かれるのも無理はない。
・「かなり無理をしている」エイベックスがゴリ押しするGIRL NEXT DOORは大赤字!
http://www.cyzo.com/2010/01/post_3699.html

試聴のあとはLOFTで地球儀を物色。
先週、東急ハンズではいいものが見つからなかった。
それにしても地球儀は高い。もっと安くてもいいのに。
衛星写真バージョンと、国境と国名を記したバージョンと、2種類の地球儀がほしい。

むかしから地球儀にあこがれていた。
部屋にはメルカトル図法の地図があったけど、やはり国と国の最短距離とか、島の緯度や大きさを確かめるには、地球儀がいちばんいいと思う。
地球儀を見ながら、こんどはこのあたりを旅してみようかな、と計画を練ってみたい。

まだ日が高いので、明治通りをずっと北上してみる。
原宿を越え、千駄木を越え、代々木、新宿。4キロくらいあるのだろうか。
歌舞伎町まで足をのばして暗くなるまでうろうろ。
今日一日で10数キロは歩いた。

今後も、時々都内を散歩しようと思う。
先週は上原善広さんの新刊「日本の路地を旅する」に影響を受け、浅草の東京解放会館まで足をのばした。

まだまだ東京にも知らないところは多い。
東京の繁華街や高級住宅地などを歩くとともに、かつての被差別地域や貧民窟を訪れてみたい。
ぼくはそのどちらにも興味がある。


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語尾のばし

2010-01-24 09:20:42 | Weblog
30代半ばから40代半ばくらいの女性の会話を聞いていると、時々気になることがある。
語尾をのばして話す人が少なくないのだ。
若い頃に身につけた習慣なのだろうか。
せっかく若く見える人が多いのに、しゃべり方で「むかしバブルを経験した世代かな」と判別されてしまうのはもったいない。

語尾をのばす話し方もひとつの価値観というか文化だと思っているので、ぼくは生理的不快感を示して拒否することはない。
(まどろっこしいと思ってしまうことは時々あるけど)

どんなしゃべり方がはやっても、どんなファッションがはやっても、いちいち目くじらを立てることはない。

だけど、現代の東京で、ハイソックスの女子高生の中にルーズソックスの女性が混じっていたら目立つ。
30代半ばから40代半ばくらいの女性の話し方は、一昔前にはやったルーズソックスのようなものかもしれない。

今も語尾をのばして話す人が時々いるけど、10年、20年前の語尾をのばす話し方とは似て非なるものだ。
若い女の子は、語尾をのばしながらもすっきりと締めた話し方をする人が多い。
むかしのほうが、もっと間延びした話し方をする人が多かった。

間延びした話し方は、「無防備で、かわいらしくて、ゆったりした感じ」と思われていたのかもしれないけど、「しまりがなくて、話す力がない人の時間稼ぎ話法のようで、ばかみたい」と感じる人もいた。

たしかに、むかしのしゃべり方は、語尾を上げながらのばし、考える時間をとっているように感じる。
ところが、最近のしゃべり方は、語尾をのばしながらもシュッと下げ気味に言葉を切り上げ、余分な余韻を残さない。

「渋谷に行ったらぁー↑、元カレに会ってぇー↑、文句言われてぇー↑、ありえないしぃー↑」
などと、語尾をゆるく上げてぼやかすしゃべり方と、
「渋谷に行ったらーぁ↓、元カレに会ってーぇ↓、文句言われてーぇ↓、ありえないしーぃ↓」
のように、語尾をのばしながらもゆるく下げて締めるしゃべり方は、
外巻きの髪型と内巻きの髪型くらいは違いがあると思う。
いや、関西アクセントと共通語アクセントの違いになるだろうか。
まあ、ギャルのしゃべり方や髪型や方言に興味のない人にとってはどっちでも同じなのかもしれない。


追記 新大久保を歩いていると、韓国の人が「ヨボセヨォー」とか、「何々ヨォー」としゃべっている姿を見かける。語尾をのばしてしゃべっているように見えるけど、韓国の標準的な話し方なのか、若者独特のしゃべり方なのかわからない。語尾をのばす話し方が嫌いな人は、彼らのしゃべり方を聴いても不快になってしまうのかな。

追記2 NHKを見ていると元ドコモの夏野剛さんがケータイ内蔵のシステムLSIについて語っていた。アナウンサーや女性タレントはすっきりした話し方をしているけど、夏野さんは時々崩れているように聞こえた。よく聞くと、「すでにぃ、何々でぇ、してるとぉ、何々ですしぃ、いわゆるぅ」などと、語尾をのばしている時がある。夏野さんは1965年生まれ。現在45歳。バブル世代か。この世代だと、男性でも語尾をのばす人が珍しくないのかもしれない。


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2010-01-11 08:29:27 | Weblog
もう2週間以上、咳が続いている。
年末に高熱が出て、鼻の奥が痛くなり、喉もいがらっぽくなった。
だいぶ治ってきたけど、まだ時折咳き込むことがある。

この数年、ほとんど風邪をひいたことがなかったけど、最近電車の中で咳をしている人がいたし、前を歩いている人が咳き込んでいることもあった。
いつの間にかウイルスを吸い込んでしまっていたのだろう。

日ごろからリステリンオリジナルで殺菌うがいをしたり、炒め物にもラーメンにも生姜をたくさん入れていた。
風邪になってからも風邪薬を飲んだり、生姜を大量に入れたスープを飲んだり、膝下だけ熱いお湯に漬けたり(野口整体にはそういう対処法がある)していたけど、なかなか完治しない。

先週、彼女とお茶の水のカザルスホールに行った時も大変だった。
「コルソ・ウィーン」はウィーンフィルのメンバーを中心にした20余人の編成。
すばらしいモーツァルトやシュトラウスなどを楽しんでいた。
最高のプロの音には、高度なバランスを感じ、感嘆するしかない。

ところが、そんな演奏を聴いている時に、突如として激しく咳き込みたい生理的欲求が押し寄せて来たのだ。
でも、咳き込むわけにはいかない。
ぼくはうつむいて胸を強く押し、気管支の炎症を抑えるためのツボを探す。
あるいは、精神力で生理的欲求を押さえ込む。

内臓が痙攣するような辛さにどうにか耐え、演奏会の雰囲気をぶち壊さないで済んだ。
演奏会が終わると彼女もスタンディングオベイションをしていたけど、ぼくは安心してしばらく立ち上がれなかった。


お茶の水に行った帰りはいつも「こけし」でもんじゃを楽しむ。
缶ビールの黒生は350円。もんじゃやお好み焼きは600円から。
観光地化されている月島と違って、庶民の味を保っている。

ぼくは勝手に、世界文化遺産ならぬ「東京文化遺産」に、この「こけし」はノミネートされるべきだと思っている。

こけしのもんじゃは特徴的で、土手を作らない。
具を炒めて集めるとその上に汁をかけ、鉄板全体に汁を広げる。
汁を具のほうに集めながら、鉄板から乾燥した汁(せんべい)をはがしてくれる。
さくさくっと、軽い。
おばちゃんのトークもいい味わいだ。



22時閉店だけど、ついつい長居して22時半くらいまでいた。
最後までもう一組がいたけど、近くの小学館の人のようだった。
3人で6千円くらいの飲食なのに、「領収書お願い、小学館で」などと言っている。
「困った作家」「社内恋愛」のような話もしていたと思うけど、小学館のどの雑誌なのだろうか。
あんまりそういう話は実名で言わなくていいのに。

高給取りで有名な小学館の人も、業績が悪化してボーナスが減ると、安い店に来る様になったのかもしれない。
しかし、あまりチープな話はばら撒かないでほしい。
古びていても安くても、ウィーンフィルに負けないバランスと品格をもつ店はあるのだ。

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