波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

紀伊国屋書店のデータベースにも偽博士号や偽学歴がある

2008-12-29 17:49:28 | Weblog
先日、ふと紀伊国屋書店のサイトを見ていたら違和感のある記述を見つけた。

https://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshoseaohb.cgi?W-NIPS=9983908190&AREA=03
> [BOOK著者紹介情報]
> 中杉弘[ナカスギヒロシ]
> 本名・黒須英治。昭和16年9月5日横浜生まれ。都立小山台高校中退後、
> 工学院大学専門学校応用化学科卒。日本電酸工業(現キンチョウ・サンポール)
> 研究部入社、新商品の開発に従事する。K食品会社経営・現在会長、未来型大学
> IOND UNIVERSITY教授・比国立ミンダナオ大学名誉学長・
> 比国立イーリスト工科大学名誉工学博士、正理研究会会長、宝栄山妙法寺管長
> (本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

「イオンドとかミンダナオとかイーリストとか何やねん」と突っ込む前に、工学院大学専門学校応用化学科卒という経歴に注目したい。

先日、中公新書ラクレの「工手学校-旧幕臣たちの技術者教育」(茅原健著)という本を読み、明治時代の工手学校やその後身の工学院大学の歴史について知った。

工学院大学専門学校は、1977年(昭和53年)に募集を開始して、2006年に募集を停止している。
また、工学院工業専門学校は1944年(昭和20年)に開校して、1951年(昭和25年)に廃止された。

工学院に関連する専門学校は上記の2校だけ。
1941年(昭和16年)生まれの中杉弘さんが工学院大学専門学校に入学していたとしたら、36歳以降に入学したことになる。
だが、中杉さんのブログに下記のような記述があるように、1965年(昭和40年)、24歳のころには卒業されていたのではないだろうか。
日本電酸工業という会社名が存在したのも1959年から1969年までの間。

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/54611911.html
> むかしむかし足立区の小台というところに日本電酸工業(株)という
> 洗剤メーカーがあった。いまはこの会社はキンチョウに吸収されて
> キンチョウサンポールといわれているらしい。夜学出での僕には秋田鉱山の
> 分析技師みたいな仕事とサンポールがあったのだが、山に行くのもいやなので
> サンポールを選んだのである。当時(昭和40年)年商30億を売り上げていた
> 売出し中の会社が僕の最初の就職先になった。

ちなみに、以下のサイトによると、サンポールの歴史は下記のようになる。
サンポールはキンチョウ(大日本除虫菊)に吸収合併されてしまったので、「キンチョウ・サンポール」などという会社は残っていない。サンポールという商品があるのみ。

http://www.jncm.co.jp/necess/history/19461964.html
1959年 日本電酸工業創業
1969年 日本電酸工業はサンポールと改称
1974年 会社更生法を申請
1975年 会社更生法をまとめ再建へ
1982年 米クロロックス社が資本参加し、サンポールクロロックスに改称
1985年 サンポールクロロックス、大日本除虫菊の傘下に
1990年 大日本除虫菊(キンチョウ)、サンポールを吸収合併


とにかく、中杉さんは1951年(昭和31年)から1977年(昭和53年)まで存在した工学院大学専修学校を卒業されたのではないだろうか。
専門学校ではなくて専修学校。ここなら高校中退の人でも入学できる。

1943年生まれのアルプス電気創業者、松井利夫さんは堂々と経歴に「工学院大学専修学校卒業」と書いている。
工学院大学専修学校は、工手学校以来の伝統を継ぐ伝統ある各種学校だった。
1976年以降の専修学校制度による専門学校や専修学校ではなく、工手学校からの伝統を継ぎ、料理学校や自動車学校や編物学校や外国語学校と同じく、各種学校だった。

中杉弘さんも堂々と、「工学院大学専修学校応用化学科卒業」を名乗ればいい。
工学院大学に行っても、専修学校の卒業証明書しかもらえないはずだ。
裁判の時には工学院専門学校卒であると述べられていることもあるようだが、偽証になるかもしれない。
(参考)http://sdseminar.exblog.jp/


自分の学歴に満足できないなら、地道な努力をすればいい。
専修学校を卒業されたアルプス電気創業者の松井さんはその後MBAを取得した。

中杉さんと生年月日が同じある人は、高校を卒業して就職した後、40代で国立大の修士課程を修了した。
もちろん、国立ミンダナオ大学などではなく、きちんと2年間研究室で勉強した。

地道な努力をしない人が、学問の世界ではまったく相手にされないいかがわしい説や主張をぶち上げ、ままごとのような偽の博士号や学歴で権威付けを狙う。

今や、イオンド大学やクレイトン大学やホノルル大学、パシフィックウエスタン大学やヘーゲル国際大学、ニューポート大学などの学位を名乗る人は、粗末な偽造勲章を見せびらかしているような人たちとして見られている。

トンデモ本を多数出版する出版社も今後は出版物についてガイドラインを設ける必要があるかもしれない。
少なくとも、公的なものではない学位や価値の認められない受賞歴を著者プロフィールに掲載することは避けたい。

<参考>
・工学院大学創立125周年記念サイト
http://www.kogakuin.ac.jp/125/about/history.html

1887年(明治20年)
工手学校設立
  ↓
1888年(明治21年)
工手学校開校(本科1年、予科半年)。本科は夜間。
土木、機械、電工、造家(建築)、造船、採鉱、冶金、製造舎密(応用化学)の8学科。
  ↓
1928年(昭和3年)
工手学校を
工学院と名称変更
  ↓
1949年(昭和24年)
工学院を
工学院専修学校と名称変更
  ↓
1951年(昭和31年)
工学院専修学校を
工学院大学専修学校と名称変更
  ↓
1977年(昭和53年)
工学院大学専修学校を廃止し、
工学院大学専門学校を設置。(専修学校制度施行)
  ↓
2006年(平成18年)
工学院大学専門学校募集停止

※参考
1949年(昭和24年)
新学制による工学院大学認可・設置

1944年(昭和20年)
専門学校令により工学院工業専門学校を開校(夜間)
  ↓
1951年(昭和25年)
工学院工業専門学校を廃止。


<参考>「BOOK著者紹介情報」に見られる偽博士号、偽学歴など
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-ISBN=978-4046210281
著者紹介
村山幸徳[ムラヤマユキノリ]
シンクタンク代表取締役、TPI(パシフィック・インスティテュート)‐JAPAN取締役副社長、仏教学博士(イオンド大学)、教育学博士(ヘーゲル国際大学)。1948年、新潟県・柏崎の日蓮宗僧籍に生まれ、幼い頃から仏教や易・気学に浸る。1975年、カトリック25年に1度の「聖年」にバチカンに招かれる。以来、国際的な援助活動・宗教協力に携わり、宗教会議への出席などで世界中を回る。1992年、日本新党の結成に参画。1994年、衆議院議員政策秘書となる。1998年、都市開発と企業経営のコンサルティングを行うシンクタンクを設立。また、全国で「気」についての講演や、人間開発の教育事業を行う(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4833013746.html
高橋美保子[タカハシミオコ]
米国イオンド大学薬学部ハーブセラピスト学科助教授。日本代替医療学会会員。1958年青森県弘前市生まれ。1980年国立弘前大学教育学部卒業。学校法人富士幼稚園教諭。1983年(社)健美会クリニック助手。1989年~(株)バイオシステム専務取締役。1994年~農業生産法人(有)健民ハーブ農場専務取締役。「珠洲ハーブの丘」開園と当時に役員。1996年~北国新聞文化センターハーブ&アロマ教室講師。2002年~NPO法人環境浄化微生物研究所専務理事

南部外茂治[ナンブトモジ]
医学博士・薬学博士(米国イオンド大学薬学部教授)。環境科学博士(比国ミンダナオ国立大学名誉副学長)。(社)健美会クリニック主宰。(株)バイオシステム代表取締役。農業生産法人(有)健民ハーブ農場代表取締役。「珠洲ハーブの丘」創設者。NPO法人環境浄化微生物研究所所長


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「福袋買取システム」は法律に抵触するか

2008-12-27 13:08:19 | Weblog
正月の風物詩の一つ、福袋。
お得な詰め合わせパックに飛びつく人も多い。

福袋に関するニュースを見ていて、こんな事業をちょっと考えてみた。
「福袋買取システム」は、下記のようなシステムになっている。

1袋1万円の福袋がネットで発売される。
発売元は海外に本社を持つA社。
福袋には文房具や宝飾品など、100円~1億円相当の商品引換券が入っている。

福袋購入後、中に入っている商品引換券はネットで確認ができる。
券はオンラインの金券ショップB社で現金に換えてもらえる。
商品券の額面の90%が福袋購入者の口座に振り込まれる。

1万円の福袋が100万個売れると100億円の売り上げ。
1億円福袋は100万個のうち20個、
5千万円福袋は40個、
1千万円福袋は200個、
100万円福袋は1千個、
10万円福袋は1万個、
1万円福袋は10万個、
1千円福袋は残りの、88万8740個

合計98億8874万円の額面の商品券が入っている。
現金に換算されても88億9986万6千円。

日本の宝くじは100億の売り上げがあっても48%しか当選金として還元しないらしい。
89%も還元されるシステムがあれば、飛びつく人は多いのではないだろうか。

もっとも、89%も還元されたら宝くじは売れなくなって国庫収入にも影響があるから、
政府はなんとかして法律違反にしたいだろう。

もうちょっと手の込んだ方法も考えられる。
1袋1万円の福袋がネットで発売される。
発売元は海外に本社を持つA社。
福袋にはマッサージ、エステなどのサービス無料券が入っている。

福袋購入後、中に入っているサービス無料券はネットで確認ができる。
券はオンラインの金券ショップB社が提示する金額で現金に換えてもらえる。
例えば、福袋100万個のうち20個入っているヘッドマッサージ券は9千万円で買い取ってもらえる。
10万個の福袋には9千円で買い取ってもらえるフットマッサージ券が入っている。


あるいは、海外に本社を持つ会社が、高額の賞金が出る写真コンクールを行うというのも考えられるかな。
「高額賞金コンクール」事業では、100万人の人が応募金1万円で写真を送ると、20人が金賞に選ばれ、5億円が払われるとか。


法律のことを知らない素人の妄想だけど、48%しか還元されない日本の国営宝くじは、不当なまでにテラ銭が高いと思う。
購入者に還元される金額が少なく、国や銀行に入るお金が多いから、テレビや新聞の広告にも多額のお金を投じることができる。
お金をもらっているマスコミは宝くじの問題点についてはなかなか報道しない。

賭博の世界ではありえないような低い還元率をマスコミが問題視しないのであれば、何か別の方法で宝くじの在り方に影響を与えられないものかと思う。


<参考>
・賭博及び富くじに関する罪
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%AD%E5%8D%9A%E7%BD%AA

・海外宝くじを扱い強制捜査を受けたワールドマガジン社について
http://plaza.rakuten.co.jp/yuyusha/diary/200801230000/

・それでも宝くじを買いますか?
http://www.ypp.info/cresarabank/05_money/101.htm

・“寺銭”は文部科学省の天下り団体の役人に
http://news.livedoor.com/article/detail/3170586/


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「数字の比較でわかるトンデモ日本」主婦の友社刊を読んだ

2008-12-20 23:37:04 | Weblog
私は数字が好きだ。
受験生の頃は入試データばかり見ていた。
高校の頃の一番好きな教科は地理で、いろんなデータを見て雑学知識を蓄えていた。
数学は得意ではなかったけど、数字によってリアルさを感じられることに触発されていた。

今日も何気なく立ち寄った大森駅の駅ビルにある書店に立ち寄ってたら、
「数字の比較でわかるトンデモ日本」という本を見つけてしまった。
近くに並んでいた森達也さんや財部なんとかさんの本、トニー・ブザンさんのマインドマップに関する本にも触手は伸びたんだけど、結局買ったのがこの雑学っぽい「数字の比較でわかるトンデモ日本」。

たいして深い内容はなく、立ち読みで十分かもしれないけど、780円+消費税で買ってしまった。

それにしても、今日は12月20日だっていうのに、奥付の「2009年1月20日 第1刷発行」はフライングじゃないだろうか。
単行本(新書?)なんだから、実際の刊行日に合わせればいいのに。
主婦の友社のやり方なんだろうか。

本に載っていたおもしろい数字をいくつか下記にメモ。
若松河田の、統計関係の図書館に行ったらすぐ集められるデータなのかな。行ってみたいな。


 衆議院技議員は480人、
 そのうち、世襲議員の数は131人

 会社に雇われている人の総数5181万人
 そのうち、非正規雇用の人1732万人

 一般派遣の1日1人平均料金1万5577円
 そのうち派遣スタッフの平均取り分1万0571円

 1年間に新築される住宅戸数106万戸
 全国にある耐震性不足の住宅1400万戸

 日本人をやめる人 年間760人
 日本に帰化する人 年間1万4700人

 1億円以上の資産を持っている世帯 90万3000
 生活保護をもらっている世帯 110万5000

 犬の新規登録数は年間15万5830匹
 犬の殺処分は年間11万797969匹

 ネットカフェ難民の数 5400人
 日本に難民申請した難民 5700人

 がんで死ぬ人は年間31万人
 人工妊娠中絶は年間32万人

 国民年金の支給額は月6万6008円
 生活保護の支給額は月8万820円

 高校生の硬式野球部員は17万人
 そのうち、甲子園に出られるのは990人

 30代男性の新聞を読んでいる割合、
 1975年は80%、2005年は29%

 入学者が定員割れの市立大学
 98年度は8.0%、08年度は47.1%

 日本の調査捕鯨計画は年間1330頭
 韓国の犬肉消費量は年間220万頭

 うつ秒の患者数 92万人

 日本にいる暴力団員 8万4200人

 本の万引き被害額 年間190億円


以上、主婦の友社発売、主婦の友インフォス情報社発行、「日本の数字」研究会著
「数字の比較でわかるトンデモ日本」2009年1月20日 第1刷発行
からの数字でした。



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「空と海の青の違いで僕は泣いたりする」は俳句だと言える

2008-12-16 07:12:49 | Weblog
最近ちょっと目にしなくなった気がするけど、10月頃から中吊り広告やコマーシャルで
「空と海の青の違いで僕は泣いたりする」
というコピーが使われていた。
福山雅治の姿と水平線のきれいな海が印象的な、東芝の液晶テレビ「レグザ」の広告。

<参考>東芝液晶テレビREGZAのCF
http://www.toshiba-ad.jp/cm/tv0810/index.html

電通制作のCFらしい。コピーライターは誰なのだろう。
なかなかいい句だ。
(6)     (7)      (9)
空と海の 青の違いで 僕は泣いたりする

6・7・9という破調の句で季語もないが、現代俳句の世界では俳句として認められる。
句が示している構造にバランスを読み取ることができる。

空は上の方、海は下の方にあり、両方とも広くて青い。
場合によっては視界のすべてを空と海が占める場合もある。
そんな青に満ちた世界にも、感じ取れる差異は多い。
同じような青色の中に見出す感動。
繊細さと、ダイナミックさをアピールするCFによく合った俳句、短詩となっている。

このようなモダンな俳句を作る人が増えれば、短い詩に魅力を感じる若い人が増えるのではないだろうか。

私も夏に波照間島に行ったとき、下記のような句を作った。

 果ての島波照間青と青つなぐ

しかし「空と海の青の違いで僕は泣いたりする」の方がよくできた俳句だ。
新時代の俳句界は一流コピーライターが救世主となるのかもしれない。

ロックでポップでおしゃれで繊細。
軽やかで俗悪でワイルドな俳句だってありえる時代だ。


※参考文献 『俳句の時代』 金子兜太(かねことうた)著 光文社知恵の森文庫

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東京マラソン3回連続出場はコネではない

2008-12-14 15:03:37 | Weblog
今回もまた東京マラソンに出る。
2009年3月22日(日)に行われる「東京マラソン2009」のフルマラソン部門の定員は3万人。
申込者は226,378人だから、単純に計算すると競争率は7.5倍。
招待選手でもないのに、毎回よく簡単に当たるものだなと思う。

内心、当たってほしくないな、と思っていると罰ゲームのように当たってしまう。
第1回の東京マラソンがぼくにとっての初マラソンで、特に準備をすることもなく適当なファッションで走ったら膝をぼろぼろにしてしまい、たいへんな目にあった。
なんとか4時間40分(スタートラインまでの時間を除くと4時間30分)で走れたけど、後半はかなり歩いてしまった。

前回の第2回は少しだけジョギングもしたし、膝にサポーターも巻いたので、ぎりぎり4時間以内に完走することができた。
まあ、4時間以内で走るといってもジョギングレベルのスピード。
ゴール近くで猫ひろしに追い抜かれてちょっと悔しかった。

今回は3時間40分を目安にしてみようかと思う。
前回の3時間55分(スタートラインまでの時間を除くと3時間50分)よりも少し早く走りたい。
さすがに3時間30分の壁は、運動不足の素人には大きな壁だと思う。

練習さえすれば2時間台でも走れるだろうけど、あんまり本格的に走るつもりはない。
走ってばかりいると身体にわるそうだし。
ランナーたちの肌はあんまりハリがよくない気がした。

それにしても、なぜ当選するのだろう。競争率は高いのに。

<参考>東京マラソン(フルマラソン部門)の申込者数と定員
■東京マラソン2009(2009年3月)
定員30,000人。申込者226,378人。競争率7.5倍
■東京マラソン2008(2008年2月)
定員25,000人。申込者130,062人。競争率5.2倍。
■東京マラソン2007(2007年2月)
定員25,000人。申込者77,521人。競争率3.1倍。

7.5×5.2×3.1=120.9
3回連続当たる可能性は、120人に1人しかいない。


でも、コネさえあれば連続出場も難しくないらしい。
招待選手ではなくても、マラソンを走ったことがなくても、コネがあれば出場できるらしい。(スポンサー関係ではない)
そういうコネを持った人に、ぼくもコネを持っているんじゃないかと疑われたことがある。

ぼくは全然コネなんてありませんから。連続出場はただのまぐれですから。
それにしても、そういうコネ出場枠というのは撤廃したほうが良いのではないだろうか。
そういう枠は公表されていないと思うし。不公平だし。


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「客観的事実を報道できず、見出した問題点の解決法も提案できない記者」は弊害が大きい(学力調査)

2008-12-14 13:40:51 | Weblog
えらそうなタイトルですみません。
私も客観的事実の把握や問題解決の方法について、えらそうなこと言えないけど。


文部科学省が主導している小中の学力調査に反対する人もいるし、賛成する人もいる。
私はあまり関心はないけど、文科省の人も学校教育の現場に危機感を抱いているのかなと感じる。

小学生や中学生の学力を把握し、今後の教育に活かすのは悪いことではないだろうけど、
テスト結果が明らかになると学校の序列化が進むのではないかと危惧する声もある。

ただ、政府の行うことに反発することがリベラルだと思っている人も未だにいる。
論理的に「自分ならこうする」という解決案を示さずに反対するのはフェアではない。

最もフェアではない反対論は、政府の意図を故意に曲解して俎上に上げ、否定するというやり方だろう。
学力調査をやめたところで、何ら問題が解決するというわけではない。

毎日新聞の加藤隆寛記者のやり方には、不誠実な手法を感じる。
まず、「何々はこういうものだ」という認識を何の検証もなく当たり前のように提示する。
その定義が間違えているおそれがあるのに、多くの読者はその定義のあいまいさを見破れないかもしれない。

また、学力調査の一面にクローズアップして攻撃することによって、別の一面から目を逸らさせている可能性がある。
学力調査にはある重要な一面があることを知っていて、わざと加藤記者はこのような記事を書いたのではないか。

> 地域や学校間の格差を一目で分かるようにし、危機感や競争心をあおることで学力を
> 底上げしようという思惑が見てとれる。しかし、こうした流れが拡大すれば、
> 結果至上主義を助長して教育をゆがめるとともに、児童・生徒の学習意欲を減退
> させかねない。テスト導入から2年。学力の課題を浮き彫りにした役目は、もう
> 果たした。弊害の多い現行テストは廃止すべきだ。

学力調査がそういう弊害を産むおそれはあるかもしれないけど、本来の目標は違う。
どの学校ではどのような学力であるかということを知ることが目的ではない。
大事なのは、結果を分析して、どう対処するかということだ。

大学入試の模擬試験でも、テストを受けて自分の位置を知るだけでは不十分。
大事なのは、復習をして、自分の弱いところを修正することだ。

小中の学力調査においては、この復習というかフィードバックにおいて、教師が重要な役割を担う。
教師の能力が問われることになってしまうのだ。
改善や改良に心を砕かず結果を出さない、リベラルの顔をした守旧的な教員は、組合活動やメディアへのアピールを通じて、自分たちの負担を少なくするためにがんばっている可能性がある。

教員たちの学習指導方法は、教員たちだけに任せておけない状況になっているのではないか。
効率のわるい授業を行っている教員は多い。
学力の低い学校では、教員の指導力に問題があることも多い。

日教組の人たちや組合運動を支持している政党やメディアがどう主張しているのか知らないけど、
学力調査の結果によって、生徒に対する指導方法が問われるようになると困るのは、教育能力の低い教員たちなのだ。

私が学校の経営者であれば、教員たちを「教育相談員」として雇い直す。
学習の補助やホームルームの運営や掃除、成績管理を行ってもらう。基本的に授業は担当しない。

英語数学国語などの授業は、基本的に大画面を通じて行う。
教える力のある全国トップクラスの「教育講師」が各校に対して一斉に放送を行う。
(私はむかし代々木ゼミナールに通ったことがあるが、有名講師の衛星授業は大人気だった。実際に、無名講師の生の授業よりおもしろく、得るものが多かった)

教室の後ろには教育相談員が控え、私語をしている生徒に注意する。
体育や図工などは各学校で教育講師が授業を行う。

これからの教育で必要なのは、きちんと客観的事実を読み取り、見出した問題点の解決法を考え出すことができる人を育てることではないか。
客観的事実を読み取るためには、社会も理科も算数も国語も大切だ。
問題点を見出し、解決するためには論理的な思考法を鍛えることも必要だ。

「批判」は「否定」と違う。
本当の批判とは、例えば学力調査を活用できる方法を提案することだ。
学力調査の粗探しをして否定するのもいいけど、そこから何かが成長するということはない。

それにしても、学力調査に反対する人はある意味差別的意識が強いと思う。
まるで、成績がいいことは価値が高いと意識しているようではないか。

「全国体力・運動能力、運動習慣等調査」も
「全国学力・学習状況調査」と似たようなもの。
どちらも全国の小中学生の能力を把握し、問題があれば対応しようとしている。

加藤隆寛記者は、「全国体力・運動能力、運動習慣等調査」を廃止すべきだとは主張しないのだろうか。
下記のように主張しないのだろうか。

> もし、私が小中学生のころにこのテストを受けたらどう考えただろうか。
> 尻をたたかれている感覚に嫌気が差したのではないかと思う。隣の学級や
> 学校との競争に躍起になっている教師の姿を見たら、なおのこと反発しただろう。
> 徹底した競争主義でエリートを養成し、国家を担う人材を確保しようという
> ビジョンがあるのなら、それを前面に出せばいい。しかし、日本が目指すのは
> そうした社会ではないはずだ。「成績下位層を減らす」という底上げの意図があるのなら、
> このテストはむしろ逆効果になる。握力や50メートル走・ソフトボール投げという
> 限定的な「物差し」で測られ、そこで自己肯定できなかった子供たちの他の才能の芽を
> 摘むことになりかねないからだ。

体力調査については上記のようなことを言わないのに、学力調査については言う。
まるで、「運動はできようができまいがどうでもいいけど、学力は人間が序列化されるから調査しないほうがいいのだ」と言っているようなものではないだろうか。

私には、加藤記者の論理は恣意的なものに見える。
文科省の人も「そんなこと言ってないじゃん。第一、オフィシャルな名称は『全国学力調査』だし。競争煽ってないし。わざわざ『学力テスト』などと命名して、勝手に悪者イメージを付けないでよ」
と思っているかもしれない。

しかし、加藤記者の主張を真に受けて、学力調査は廃止すべきだという声も増えるかもしれない。
そして学力調査が行われなくなったら、自浄能力の低い組織が温存され、教育レベルの低い教師がのんびりと過ごすことができ、公立中高はますます子どもたちの親から敬遠され、じり貧に陥っていくかもしれない。
私立中高に子どもをやれる裕福な家庭と、そうでない家庭との学力格差が拡大するかもしれない。

そのような可能性が考えられるから、「客観的事実を報道できず、見出した問題点の解決法も提案できない記者が、曲解した意見をばら撒くことは弊害が大きい」と言いたい。

そういう弊害が多発しないためにも、きちんと小中学校の頃から論理的思考や問題解決についての教育も行う必要があるかと思う。

<参考>
■全国体力・運動能力、運動習慣等調査(Wikipediaの記述
全国体力・運動能力、運動習慣等調査(ぜんこくたいりょく・うんどうのうりょく、うんどうしゅうかんとうちょうさ)とは、2008年度より日本全国の小学5年生、中学2年生全員を対象として行われる、スポーツテストのことである[1]。一般には、「全国体力テスト」「全国運動テスト」とも呼ばれている。
全国学力調査の体力版として、子どもの体力向上に生かす目的で、実施される。2008年度は、約240万人が対象になる予定。ちなみに、同様のテストは以前より文部科学省が抽出調査で行っていた。
 結果は国全体の平均のほか、都道府県別や地域の規模別に公表し、市町村や学校、児童生徒本人にも提供される。
 調査種目は、実技調査が握力・上体起こし・長座体前屈・反復横跳び・20メートルシャトルラン(中学2年生は、持久走との選択制)・50メートル走・立ち幅とび・ソフトボール投げ(中学2年生は、ハンドボール投げ)。併せて、生活習慣や食習慣、運動習慣などを調査する。

<参考>毎日新聞2008.11.12
http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20081112k0000m070124000c.html
記者の目:2年目を終えた全国学力テスト=加藤隆寛
■弊害大きく廃止すべきだ
学力課題指摘の役目終了
 全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を巡り、大阪府や秋田、鳥取県などで市町村別や学校別の成績を一律公表しようとする動きが出てきた。地域や学校間の格差を一目で分かるようにし、危機感や競争心をあおることで学力を底上げしようという思惑が見てとれる。しかし、こうした流れが拡大すれば、結果至上主義を助長して教育をゆがめるとともに、児童・生徒の学習意欲を減退させかねない。テスト導入から2年。学力の課題を浮き彫りにした役目は、もう果たした。弊害の多い現行テストは廃止すべきだ。
 文部科学省の学力テスト実施要領は、市町村や学校別成績の一律公表を認めていない。理由は「過度の競争や序列化につながる」から。しかし一方で、市町村教委や学校が自ら公表することは認めている。矛盾する二つの考えを並立させている文科省を取材していると「本気で競争を防ごうとはしていないのではないか」との印象を受ける。
 テストとはそもそも競争原理に根差した存在だ。昨年、43年ぶりに全員参加方式のテストが復活した背景にあったのは、学力低下への懸念。「ゆとり教育」を敵視し「競争原理を導入して、過度なゆとりと『押しつけを排除して好きなことをすればいい』という利己主義を駆逐せよ」と主張する声が、与党議員らを中心に広がった。04年秋に中山成彬(なりあき)文科相(当時)がテスト導入を表明した際には「もう少し競い合う心が必要」と発言している。
 一方で、義務教育費国庫負担金の削減が論じられた時期でもあった。与党議員の思い描く「教育の引き締め」と、予算確保の裏付けとなる教育現場への関与強化という文科省の思惑が一致。その施策の象徴が新たな学力テストだった。
 1961年に始まった最初の学力テストは「教育内容の国家統制につながる」と日教組の激しい反発を招いた。テストの予行演習をしたり成績の悪い子供を欠席させる学校も現れるなど競争が過熱。弊害が目立ったため文部省(当時)は64年を最後に全員参加方式を取りやめた。その苦い記憶があるからこそ、文科省は復活に当たって「競争をあおる目的ではない」とのメッセージを強調する必要性に迫られたのだ。
 だが、「ゆとり敵視」の導入経緯を考えれば、まるでアクセルとブレーキを同時に踏むようなものだ。文科省自身が自己矛盾に陥っているからこそ、自治体の動きに毅然(きぜん)とした対応ができない。戸惑うのは現場の教師や子供たちだ。
 もし、私が小中学生のころにこのテストを受けたらどう考えただろうか。尻をたたかれている感覚に嫌気が差したのではないかと思う。隣の学級や学校との競争に躍起になっている教師の姿を見たら、なおのこと反発しただろう。
 徹底した競争主義でエリートを養成し、国家を担う人材を確保しようというビジョンがあるのなら、それを前面に出せばいい。しかし、日本が目指すのはそうした社会ではないはずだ。「成績下位層を減らす」という底上げの意図があるのなら、このテストはむしろ逆効果になる。国語や算数・数学という限定的な「物差し」で測られ、そこで自己肯定できなかった子供たちの他の才能の芽を摘むことになりかねないからだ。
 ノーベル物理学賞の受賞が決まった益川敏英氏は、塩谷(しおのや)立(りゅう)文科相との面談で「今の教育は考えない人間を作っている。親も教育熱心というより教育結果熱心だ」と、痛烈なメッセージを伝えた。一つのことをとことん考え抜き、究極の高みに到達した研究者の言葉だけに説得力がある。
 テスト実施の効果もあった。従来のように知識の習得や丸暗記、情報処理速度ばかり求められる問題ではなく、活用力や読解力を要する問題を多用し「そうした学力が求められている」というメッセージを全国の教育現場に伝えた点だ。日本が近年順位を落とした国際的な学力調査の出題傾向を模倣した面があるとはいえ、その意味は大きい。
 しかし、その目的ももう果たした。初年度と2年目で学力の課題に大差はなく都道府県別の成績もほぼ固定化していた。現行テストは廃止して、今後は定期的に抽出調査をやればいい。浮いた費用を教師増員や効果的な学習法の開発などに回した方が得策だろう。
 競争させたいという「本音」を隠しながらのテスト継続は不誠実だし、子供たちも現場の教師も信じてついていくことはできない。厳しい財政事情で国の教育予算の伸びも望めない中、次代を担う人材の育成はますます重要な課題だ。方針を改めるなら、できるだけ早いほうがいい。(東京社会部)


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熟成した日本酒もわるくない

2008-12-05 23:33:58 | Weblog
今日の夕食は刺身がメイン。
新鮮な魚にはなぜか魅かれる。
長崎や北海道、三陸などの近海物。
天然のイサキ、メバル、チダイ。アジ、サンマ。
さっき三茶の西友で3パック買った。

ぼくは重金属をため込んでいそうな大型魚にはあまり興味がない。
アブラが多い養殖のカンパチやサーモンにも違和感がある。
おいしそうに見えたら買うけど。
天然ものの近海魚は、そのうち高級品になるのでは。

それから、豚肉と白菜を蒸した料理も食べた。
これは、先日彼女が来たときの料理の残り物。

一昨日、イクラ丼(もちろん筋子をぬるま湯でほぐすところから始まる)とか、モヤシのナムルとか、ベイビーリーフサラダとか、椎茸の肉詰め(挽肉にショウガと片栗粉を入れるのが小技)の夕食を作った残り物。

関係ないけど、先日60過ぎの全共闘世代の文学者と話をしていたら、連合赤軍に親しかった人にも関わらず、女性が料理するのは当然だろ、というようなことを言っていて驚いた。
全共闘世代は、意外にリベラリストは少ないのかもしれない。
無節操に転向するし、保身的なサラリーマンや公務員に安住したりするし。場当たり的。
女性に対する態度にも違和感がある。

ぼくは女性に料理を作ってもらったことはあまりない。
華やかな人も学者的な人も実家住まいの人も、みんなあんまり料理に興味はないようだったし。

ぼくも別に料理好きではないし、おいしい料理も作れない。
食べたいものをささっと作るだけ。
つたない手製料理に文句も言わず、さらっとたいらげてくれる女性に感謝する。

今日飲んだ日本酒は秋田の名酒「刈穂(かりほ)」。
丸い形をした青い一升入瓶の入った紙箱には「純米大吟醸刈穂」、
瓶には「純米大吟醸 刈穂 長期低温瓶囲い 秘蔵酒」と書いてある。
たしかこのお酒は蔵元で特別に作った上等なお酒で、ほとんど市場には流通していない。

定価は1万円以上したはず。
ぼくは安売りのときに買ったけど。

1升(1.8リットル)入ってたけど、1週間もたなかった。
おいしいから、ついつい毎日柳宗理デザインの日本酒グラスですいすい飲み進めてしまった。

通常、10年も経った熟成酒はこんなにフレッシュではない。
おいしい熟成酒は銀座数寄屋橋の良心的価格の日本酒バー「庫裏(くり)」で何種類か試すことができる。

昨年「日本吟醸酒協会」の企画物の吟醸バーに行ったとは、20年ものの日本酒を飲むことができた。
中国の紹興酒に似た熟成を感じて思わず笑ってしまったことを思い出す。

それにしても今回の刈穂はいいお酒だ。
秋田県大山市戸地の秋田清酒株式会社を尊敬する。
7年だか8年だか熟成させた大吟醸のお酒を、保存状態の悪いぼくの部屋で2年も寝かせてしまったけど、たいへんおいしくいただくことができた。
新鮮な日本酒に負けない、奥行きのある味わい。

熟成酒というとどうしても老ね香(ひねか)が気になるけど、刈穂の熟成酒は違和感なく、フレッシュさと奥行きの両方を感じさせる力強くエレガントなお酒だった。

元々の大吟醸酒としての力が強いせいもあるのだろうけど、非常に良質なお酒。
このようなおいしいお酒を飲ませていただいたことに、心から感謝。

おいしい刺身やお寿司にはやはりおいしい日本酒が似合う。
先日、ふらっと立ち寄った大森の「吟吟」で食べた絶品の生牡蠣(2種で780円)にも日本酒が合った。
吟吟には貴や陸奥八仙などおいしい日本酒が多い。

欧米の人はオイスターバーで白ワインかスパークリングワインでも飲んでるのかな。
ぜひ、フレッシュでコクもある日本酒も試してもらいたい。
ドライでコクのある白ワインやスパークリングワインも合うけど、いい日本酒もかなりフィットする。

ひそかに、ぼくはおいしい日本酒を応援している。
日本酒とは言えないような安くてまずいお酒を口にしている人に、ぜひおいしい本物のお酒を飲んでもらいたいと思っている。

新宿の「十徳」でも神楽坂の「福智屋」でも大森の「吟吟」でも歌舞伎町の「ぶんご商店」でもいいんだけど、質のいいおいしい日本酒を多くの人に飲んでほしいと願う。

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ぼくはもう何ヶ月も給与明細を見ていない(つぶやき)

2008-12-04 21:42:39 | Weblog
ほんとうにつまらないメモをだらだらと。
ふとバッグから未開封の給与明細を見つけて思ったこと。



ボーナスの季節だけど、ぼくはもう何ヶ月も給与明細を見ていない。
今まで給料日を意識したこともほとんどない。
財布の中身が少なくなってくると毎回ATMに行って数万円を手に入れるけど、残高は意識していない。

中学高校の頃は通知簿を見たこともない。
(先生から受け取ってそのまま親に渡したら、親も特に何も言わない)

家計簿もつけない。
(1人分の夕食を買いに行くと1000円ジャストに近いことが多い。お酒を買うことも多いけど、そんなに無駄遣いはしていないと思ってる)

お小遣いをもらったこともない。
(正確には小学校のときに1~2ヶ月だけ月500円もらったかも)

あんまりお金に執着はない。
随分昔のことだけど10代後半にはなぜか月刊誌や週刊誌の俳句欄にできそこないの句を応募して
何万円か財布に持っていたことがある。
(当時、月刊の文藝春秋では5千円、週刊文春では2千円くれたのだ)
電車の中でその財布をなくしたけど、あまりダメージは感じなかった。

高3になるまで自分で服を買ったこともない。
最初に買ったのは、姫路で買った500円のTシャツ。
親への誕生日プレゼントも、裏山から植物を採ってきて、ポットに入れて渡していた。

親はお金のことはあまり話題にしなかった。
両親ともに若い頃とても貧乏だったせいか、今から思えばかなり倹約していたと思う。
あまりおもちゃや服を買ってくれることはなかったから、親に何かをおねだりするということは無かった。
だけど文房具や本など、必要なものはいくらでも買ってくれた。

大学生の頃は貧乏で、毎週ぎりぎりの生活をしていたけど、
社会人になってからは贅沢をしなければ財布の中身を気にしなくてもよくなった。
ありがたいことだ。


ぼくは浪費家ではないけど、倹約は意識していない。
小さく萎縮する必要もないと思うから。
お金はため込むものではなく、効果的に活用すべきものだと思ってる。
いくらため込んでも、つまらない使い方をしたらあっという間に消えていく。

今のぼくの価値観で倹約をしても、適切な判断ができるとは限らない。
日々を豊かに過ごすために、少ないお金を有効活用する方に興味がある。


ぼくたちは世の中のさまざまなところに価値を見出すことができる。
認識ひとつで、世の中を豊かに感じることができる。

カタバミというありふれた雑草を、プランターに植えて観賞している家庭もある。
カクレミノというどこにでもある雑木を、庭に植えている家庭もある。
そういう都内の庭を見ると、なんだかうれしくなる。

ぼくは小中学校の頃、裏山から春蘭やユキノシタを取ってきてプランターに植えて観賞していた。
ピンク色のスミレを取ってきたこともあるし、スベリヒユという雑草さえ観葉植物として見ようとしたことがある。

山には誰にも見向きされない植物がたくさんある。
しかし、見方によってはそれが観葉植物という価値あるものに変身する。
その変化が子ども心にとても刺激的だった。


田舎では彼岸花は忌避されるものだったけど、ぼくはその美しさに見とれた。
くっきりとした輪郭の入道雲は大山脈をしのぐほどダイナミックで、
竹林を抜けてくる田舎の風は都会では味わえないリッチなものだった。

いろんなものを無意識にあたりまえのものとしてスルーし、意識しないことも一つの生き方だろう。
ぼくだって、何の疑問も抱かずにスルーしていることは多い。

20歳過ぎまでは都心の街並みを見ると思わずビルを見上げてしまい萎縮と高揚を感じていたのに、今では歌舞伎町でもセンター街でも表参道でも気だるそうに歩く。
繊細な田舎出身者も鈍くなったものだ。

いろんなものの構造や仕組みをスルーしないで認識することは、楽しいことも多いけど、面倒なことも多いかもしれない。

時代の流れに乗って行きたい人は、船から川底をのぞき込むようなことはしなくていい。
船の動く仕組みとか、浮力とか、水の循環のことなどは考えないで、船内での人間関係とかお金の計算や運営の効率化に集中すればいい。

世の中の常識に合わせて行けば、大きな失敗はないだろう。
今の社会で差別語だと認識されていない潜在的な差別語には焦点をあてなくてもいい。
みんなが差別語だと囃したてはじめてから、意識すればいい。


ぼくは船から川に降りてしまったのかもしれない。
時には流れに身を任せ、時にはあらがい、水流を体感し、川の外の世界にも興味をもってしまっているのかもしれない。

社会組織の価値を否定しているわけではないけど、どうしても社会組織の外部を意識してしまう。

社会内部での達成感もすばらしいけど、物事の仕組みとか、形とか、人々の世界観などに興味を持つことから見えてくる世界はとても興味深いのだ。

でも、そこでは秩序とか方向性とか形からはずれて、ぐだぐだの行ったり来たりの思考になってしまいがち。(それをぼくは波打ち際、と表現している)
どうすればいいのだろう。

そういえばぼくは七五三にも行ったことがないし、成人式にも行ってないし、大学の卒業式でも卒業証書を受け取る儀式をすっぽかして他大学の子とプリクラ撮りに行ってたし、宗教儀式の真似のような結婚式はしないし、儀式や儀礼といったものに縁が遠い。
きちっとした枠組みを認識していないから、無秩序で不規則な方向性を抱えてしまっているのかもしれない。
でも、こんなぐだぐだの思考から、何かを発見することもあるのではないかと予感している。



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