波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

さっき田舎から帰ってきた。

2009-08-17 00:46:18 | Weblog
お盆なので、実家に帰っていた。
校了を控え非常に忙しい時期なので、土日だけのあわただしい帰省。
土曜日の朝の新幹線で関西に向かい、日曜の夜に戻ってきた。

好天に恵まれ、青空には飛行機雲。
見渡す限りの緑の稜線。
盆地の中はたんぼの緑に埋め尽くされている。
家の裏に回れば各種の野菜が青々と育っている。
湿った日陰の土の上では黒いトンボ(ハグロトンボ)がゆっくりと羽を開いたり閉じたりしている。

昼食は、親戚一同が勢ぞろい。
親戚の顔を見ていると、遺伝子の妙を感じる。
ぼくの両親は渡来人の多かった地方には珍しく2人とも二重で、ベトナムかフィリピンの影響を受けていそうな印象も受けるけど、親の兄弟はまだ違った顔をしている。
髭の濃い人や薄い人。背の高い人や小柄な人。鼻の高い人や低い人。いろんな顔がある。
ぼくはどういった遺伝子の影響を受けたのだろうと思う。

母親の弟が、小さな本を取り出した。
母方の祖父の遺品だという。
ぼくの親が結婚する前にすでにぼくの祖父母はみんな亡くなっていたから、祖父母のことをあまり知らないけど、受け継いでいる遺伝子はあるらしい。

小さな本は、石川啄木の「一握の砂」と「悲しき玩具」の合本だった。
表紙は剥がれ落ちている。
戦前のものだろうか、戦後のものだろうか、少し厚めの紙はしっかりとしている。
ところどころ歌に線が引いてある。

去年は、走ることが得意だった親戚の話を叔父から聞いた。
その親戚と共通する遺伝子があるから、ろくに練習しなくても3時間半でさっとマラソンが走れるのかもしれない。

だけどその叔父は知らない。
ぼくが、本当は叔父のように化学者になりたかったことを。

小学生の頃、外国で研究生活をしていた叔父にエアメールを送ることで、田舎に住むぼくも広い世界を想像することができた。
中学生の頃、某大の研究室で嗅いだ薬品の臭いは覚えているし、もらったリトマス試験紙や試験管の感触を覚えている。

出来のわるいぼくはドロップアウトして、化学も物理も数学もまるっきり理解できなくて結局文系学部に進んだけど、今でも化学に関心はあるし、高校3年間理系クラスの劣等生として過ごしたことを悔やんではいない。

石川啄木の歌集を持っていた母方の祖父は、生活に余裕がなく、農学校を1年で中退したらしい。
父方の祖父も、同じ農学校を中退した。
大正から昭和初期、1910~1920年代の田舎では、旧制中学などに行ける人はごく少数だった。
田舎の農家の子どもは、向学心にあふれていても農学校に行くのがやっとだった。

勉強がしたかったのに、お金がなくて勉強を続けられなかったことはとても悔しいことだっただろう。
でもその子や孫はまずまず学業成績優秀(ぼくを除く)で、いい供養になっているかもしれない。

従兄弟たちは珍しい存在で、田舎の公立中高に学び塾にも行ったことがなくスポーツや音楽をがんばっていたのに、京大阪大その他に進んでいる。
中3の時に塾に行き、大学入試でどこにも受からず浪人し、部活も補欠で自信なさげだったぼくに、もう少し従兄弟たちと共通の遺伝子があれば楽だったかもしれない。(従兄弟たちのほうが背も高いし性格も穏やかそうだし)

それにしても、従兄弟たちには能力を活かしてほしいものだ。
田舎の町からも、私立進学校に進んだ同級生たちは何人か東大に行った。
だけど、今彼らの名前をGoogle検索しても、ほとんどヒットしない。特許は取ってるみたいだけど。
田舎の人たちは、東大や京大に行っても、よくわからない地方の企業の研究室に入って、地味な研究をしていることが多いのだろうか。
お金持ちの人たちとか、華麗な人脈を持つ都会の人たちは、もっと日のあたるところで、華々しい活躍をしているように感じる。

午後3時には親戚たちが去り、テレビを見て一休み。
田舎でも、ついに先月、地デジ放送が見られるようになった。
以前のざらざらした画面と異なり、非常にクリアな映像。BS放送まで見られる。
近々パソコンもブロードバンドに対応する。
すばらしい。
部屋は広いし、静かだし、空気はきれいだし、これでブロードバンド対応だったら田舎に住むのも悪くない。

ただ、農業もなかなか商売にならないらしい。
限界集落なので、農地は冗談のように安い価格になっているけど、それでもなかなか買い手はいない。

むかしは、4反(約4000㎡、約1200坪?)あれば一軒の農家が細々と生活をすることができたらしい。
今では、4町(40反、約4万㎡、約12000坪?)あっても、米農家は厳しいのではないかと言う。
4町の農家というのは、田舎では相当大規模。めったにない。悩ましい。

午後5時をすぎると早くも夕食。
夕方になってくると、虫が盛んに鳴きはじめる。
姿も知らない様々な虫が鳴いている。
曼荼羅のように。
様々なリズム。様々な音階。
振動は聞こえるけど、音としては聞こえない波長を奏でている虫もいる様子。
羽虫だけではなく、カエルも鳴いている。
にぎやかなことだ。
家の前の道は、1時間に1台も車が通らない。
静かだから、虫の音がよく聞こえる。

ぼくは、田舎に生まれてよかったと感じている。
田舎は繊細な音や匂いに満ちている。カオスに満ちている。

ススキを掻き分けて歩くときの匂い、雨上がりの草の匂い、手の中で音もなく呼吸するように点滅する蛍の感触、網の中で虹色に輝くタナゴのウロコ。
河原の石の上を走るバランス感覚。
落穂を焼いて、はぜた白い部分を口にしたときの香ばしさ。
実に豊かな経験をさせてもらうことができた。

家の前に立ち、360度の様子を動画で撮影する。
山の緑と田んぼの緑が延々と続いている。

風が吹けば、裏山の木々を通り抜けてきた空気が清々しい。
田んぼの上を流れてきた風も熱くない。
東京だと、アスファルトやコンクリートに熱せられた空気が熱いというのに。

地球温暖化がどうのこうのというのであれば、地表の緑化面積を増やすことが重要ではないだろうか。
緑化されたところでは地表の温度があまり上がらず、コンクリートやアスファルトの上では高温になる、というのは良く知られている現実だ。

新幹線で東京に戻り、360度コンクリートに囲まれた渋谷の駅前にたたずむ。
バス停で前に並んでいる女性は、出版か広告関係の人のようだ。
夜分恐れ入ります、と言って誰かに電話して、データの差し替えのスケジュールについて話をしている。
ぼくも明日からは怒涛の一週間。気合を入れなければ。

明日から、仕事をがんばろう。
心の片隅で、ほんとうに自分がやりたいことは何か、自分に向いていることは何か、自分が安らげることは何か、そんなことも考えながら。


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ぶっとばす、ぶちこむ、ぶちかます、ぶっかける

2009-08-02 18:42:19 | Weblog
「ぶっかけ」というメニューのある蕎麦屋やうどん屋が多い。
だけど、ぼくはめったに「ぶっかけ」を頼まない。
つゆにつけて食べる方を好むからだけど、ぶっかけという語感に違和感があることも一因だ。

日本語に意識的な人であれば、ぶっかけというメニューを出すことにためらいを感じるのではないだろうか。
打ち掛け蕎麦(うちかけそば)とか、散らし蕎麦とか、混ぜ蕎麦とか、水蕎麦とか、何か別の名前を考える人も多いだろう。

ブツ(打つ)を語頭に置くと、言葉に勢いがでる。
だけど、丁寧な表現にはならない。
叩くときの擬音は、バンバン、ビシビシ、ブンブン、ベシベシ、ボンボンなど。
破裂音は、何かを叩いたときに生じる音と似ている。

「ぶっかけ」は、威勢はいいけど、思慮深くはない。
ぶっとばす、ぶちこむ、ぶちかます、ぶっかける、などという言葉は、暴力的でさえある。
詩人や俳人、歌人の人たちはあまり使わない言葉だ。

素朴な蕎麦の気取らなさを表現するために、「ぶっかけ」という言葉を使うのはいいとしても、格式のありそうな老舗の蕎麦屋で、「ぶっかけ」という言葉を目にしたら少し興ざめだ。

野趣あふれる店で「真鯛の海水ぶっかけ焼き」とか「特選カルビのぶちこみ壷焼き」というメニューがあればワイルドだなと思うけど、代官山や青山で「ハチミツぶっかけ焼きチーズ」とか「ムール貝のぶちこみ蒸し焼き」というメニューの店を見たら、ちょっとセンスが違うんじゃないかと思うだろう。

「ぶっかけ」には、AVのヘンタイ的な1ジャンルを連想してしまう人も多い。
今や Bukkake は英語で通じる言葉となっている。
アメリカで、「Bukkake, please.」と言えば、そばやうどんが出てくることはないだろう。

http://en.wikipedia.org/wiki/Bukkake
■Bukkake
is a sexual practice that features a person being ejaculated on by several men. It may also involve the semen being eaten. Bukkake is similar to the related practice of gokkun, in which several men ejaculate into a container for the receiver to drink. The practice is a relatively prevalent niche in contemporary pornographic films, some of which involve hundreds of male participants. There is debate on whether to class bukkake as a paraphilia such as hygrophilia, sexual arousal from contact with bodily secretions.

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B6%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%81%91■ぶっかけ
打っ掛け - 本来の「ぶっかけ」の言葉の意味は、「ぶっかけること」「斬りかかること」「汁をかけただけの食べ物」である(goo辞書:ぶっかけ【打っ掛け】)
ぶっかけうどん - うどんの食べ方のひとつ。茹でたうどんに出汁をかける岡山県倉敷市の郷土料理。
ぶっかけ御飯 - 味噌汁などの汁をかけた飯 → ねこまんま#汁をかけた飯
ぶっかけ - 性風俗用語の一つで、相手の体をめがけて射精し精液を浴びせること→ 顔射#ぶっかけ


そういうわけで、もしどこかの蕎麦屋かうどん屋でおいしそうな「ぶっかけ」を見つけ、どうしても注文したくなったら、「うちかけそばください」と小さな声でつぶやくかもしれない。
もともと、「打ち掛け」を崩したのが「ぶっかけ」だし。
「うっかけそば」ぐらいな感じでごまかすかもしれない。小心者なもので。



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歌う、歌わない、歌えない

2009-08-02 17:26:23 | Weblog
「ものぐさ精神分析」「唯幻論」などで有名な岸田秀は君が代を歌う。
インターナショナルも歌うし、パフィーの「アジアの純真」も歌う。
攻撃的に何かを否定したりしない、懐の広い人だ。

「共同幻想論」などで有名な吉本隆明は君が代を歌わない。
インターナショナルも歌わない。おそらくパフィーも歌わないだろう。
悩ましげに語るところが、偉そうではなくて、謙虚な人だ。

ぼくは、どれも歌えない。
おそろしく声域が狭くて、歌えないのだ。
もし、声域が広ければ、君が代もインターナショナルもパフィーも歌ってみたいと思う。
(インターナショナルは、聴いたこともないんだけど)

中沢新一はどうだろう。
歌うのかもしれない、歌わないのかもしれない。
場所にもよるのかもしれない。
歌う必要性は感じないのかもしれない。

「中沢新一の 東京アートダイバー」という講座が、青山ブックセンターではじまっている。
http://www.aoyamabc.co.jp/20/20_200906/2009_art_diver.html

9/12土、佐野史郎がゲストの回は見に行く予定だ。
先月、さっそく申し込んでおいた。
11/28土の、細野晴臣の回も行きたいなぁ。
1990年に出た中沢新一と細野晴臣の共著『観光-日本霊地巡礼』(ちくま文庫)は今もプレミアム本として高値で取引されている。

中沢新一のことを、ノーベル文学賞に値すると言う人はいないけど、ぼくは村上春樹より大江健三郎より川端康成より三島由紀夫より、中沢新一の文章はすごいと感じている。
大河の濁流をのどかに川下りするのが村上春樹。
大河の濁流を見てぶつぶつ話すのが大江健三郎。
大河の濁流にちょろちょろ放尿するのが川端康成。
大河の濁流にきばって叫ぶのが三島由紀夫。
そこで、
大河の濁流をするっと泳いで渡るのが中沢新一ではないかと思う。

さまざまな流れのうねっている川の中で、抵抗せず、流されず、力を避け、利用し、波の間をすり抜けるのは、とても知的な行為だ。

見えるものと見えないもの、形あるものと形が崩れたもの、認識できるものとできないもの、秩序と混沌。
そういった世界が、中沢新一には見えている。

中沢新一は、魅力的な詐欺師に楽しい世界を見せてもらえるのだったら、ちょっと騙されてもいいと思っているのかもしれない。
同時に、人々にわくわくするような世界を見せるためには、ちょっと一般人を騙してもいいと思っているかもしれない。

何かを通して魅力的な構造を表現する場合、触媒あるいは比喩としての何かは、必ずしも本物である必要はない。
錬金術もカルト宗教もキャバ嬢も、嘘であるといえば嘘だけど、それを通して何かを見出せるのなら、偽者を拒絶しなくてもいい。

中沢新一なら、おもしろい世界を見せてくれると思う。
もちろん、中沢新一を否定する人もいるだろう。
べつに、否定してもいいけど、どうせなら、芸術的な、おもしろい否定をしてもらえればと思う。
(残念ながら、的が外れている意見が多いように思う)

知り合いは、むかし中沢新一にエロ話ばかりふられて閉口したいみたいだけど、それはきっと堅物であることをからかわれていたんだと思う。
会社人間、チャラ男、無趣味男、占い好き女性、それぞれ価値観があるのだろうけど、たまにはその価値観をリフレッシュしてもいい。
いつもと違う見方や考え方に、魅力を見出すかもしれない。
知らなかった世界が見えてくるかもしれない。

だから、「中沢新一の 東京アートダイバー」をおすすめしたい。

http://www.cinra.net/news/2009/06/19/144306.php
青山ブックセンター カルチャーサロン青山 新講座
『中沢新一の 東京アートダイバー』
2009年7月より主に奇数月の土曜日 全6回
会場:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山
時間:19:00~21:00
ゲスト:
伊東豊雄(建築家)
隈研吾(建築家)
細野晴臣(音楽家)
しりあがり寿(漫画家)
佐野史郎(俳優)
高木正勝(アーティスト)
※日程・ゲスト出演者は変更になる場合がございます。あらかじめご了承ください
定員:80名
受講費用:1回分 3,000円(税込)
※講座の内容により、教材費を別途お支払いいただく場合がございます


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漢学の議論。剣豪が騒ぐ。見学は間違い。

2009-08-02 16:03:43 | Weblog
がやがやとつばを飛ばしながら激しい議論する状況って何だっけ。
「喧喧諤々(けんけんがくがく)」だったっけ、とふと思うけど、それはありがちな混同らしい。

議論を戦わせる侃侃諤々(カンカンガクガク)と、がやがや騒いでいる喧喧囂囂(ケンケンゴウゴウ)の意味と言葉が混ぜこぜになっている。

正しくは、侃侃諤諤(カンカンガクガク)と、喧喧囂囂(ケンケンゴウゴウ)。
だけど、いつも混同してしまって、どっちがどっちだったかわからなくなる。
ほんとに記憶力がないもので。

だから、区別できるようになりたいと思って語呂合わせを考えてみた。
「漢学の議論。剣豪が騒ぐ。見学は間違い」はどうだろう。

カンカンガクガクは漢学(カンガク)、ケンケンゴウゴウは剣豪(ケンゴウ)、と略す。
ケンケンガクガクは見学(ケンガク)。

侃侃諤諤(カンカンガクガク)は議論が白熱。
喧喧囂囂(ケンケンゴウゴウ)はやかましく騒がしい。
喧喧諤諤(ケンケンガクガク)は上記を混同した言葉。

侃侃(カンカン)→正直で気性が強い様子。剛直。
諤諤(ガクガク)→遠慮せずに正しいと思うことを述べたてる様子。やかましくしゃべりまくる様子。
喧喧(ケンケン)→がやがやとやかましい様子
囂囂(ゴウゴウ)→やかましい様子。さわがしい様子。

■侃々諤々(かんかんがくがく)
互いに正しいと思うことを堂々と主張し、多いに議論すること。
ベクトル的には、まっすぐ強めに発信しているといった印象。

■喧々囂々(けんけんごうごう)
多くの人が口やかましく騒ぎ立てるさま。
ベクトル的には、さまざまな方向性が交差して、それぞれ多方向に発信している印象。

■喧々諤々(けんけんがくがく)
上記ふたつを混同した言葉。
がやがやと錯綜している中で、まっすぐに大きな声で意見を言っている感じ?

語感的にはケンケンガクガクが発音しやすいから、ついついケンケンガクガクって言ってしまいそうだけど、たまにはカンカンガクガクとケンケンゴウゴウを使い分けてもいいかもしれない。

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