お盆なので、実家に帰っていた。
校了を控え非常に忙しい時期なので、土日だけのあわただしい帰省。
土曜日の朝の新幹線で関西に向かい、日曜の夜に戻ってきた。
好天に恵まれ、青空には飛行機雲。
見渡す限りの緑の稜線。
盆地の中はたんぼの緑に埋め尽くされている。
家の裏に回れば各種の野菜が青々と育っている。
湿った日陰の土の上では黒いトンボ(ハグロトンボ)がゆっくりと羽を開いたり閉じたりしている。
昼食は、親戚一同が勢ぞろい。
親戚の顔を見ていると、遺伝子の妙を感じる。
ぼくの両親は渡来人の多かった地方には珍しく2人とも二重で、ベトナムかフィリピンの影響を受けていそうな印象も受けるけど、親の兄弟はまだ違った顔をしている。
髭の濃い人や薄い人。背の高い人や小柄な人。鼻の高い人や低い人。いろんな顔がある。
ぼくはどういった遺伝子の影響を受けたのだろうと思う。
母親の弟が、小さな本を取り出した。
母方の祖父の遺品だという。
ぼくの親が結婚する前にすでにぼくの祖父母はみんな亡くなっていたから、祖父母のことをあまり知らないけど、受け継いでいる遺伝子はあるらしい。
小さな本は、石川啄木の「一握の砂」と「悲しき玩具」の合本だった。
表紙は剥がれ落ちている。
戦前のものだろうか、戦後のものだろうか、少し厚めの紙はしっかりとしている。
ところどころ歌に線が引いてある。
去年は、走ることが得意だった親戚の話を叔父から聞いた。
その親戚と共通する遺伝子があるから、ろくに練習しなくても3時間半でさっとマラソンが走れるのかもしれない。
だけどその叔父は知らない。
ぼくが、本当は叔父のように化学者になりたかったことを。
小学生の頃、外国で研究生活をしていた叔父にエアメールを送ることで、田舎に住むぼくも広い世界を想像することができた。
中学生の頃、某大の研究室で嗅いだ薬品の臭いは覚えているし、もらったリトマス試験紙や試験管の感触を覚えている。
出来のわるいぼくはドロップアウトして、化学も物理も数学もまるっきり理解できなくて結局文系学部に進んだけど、今でも化学に関心はあるし、高校3年間理系クラスの劣等生として過ごしたことを悔やんではいない。
石川啄木の歌集を持っていた母方の祖父は、生活に余裕がなく、農学校を1年で中退したらしい。
父方の祖父も、同じ農学校を中退した。
大正から昭和初期、1910~1920年代の田舎では、旧制中学などに行ける人はごく少数だった。
田舎の農家の子どもは、向学心にあふれていても農学校に行くのがやっとだった。
勉強がしたかったのに、お金がなくて勉強を続けられなかったことはとても悔しいことだっただろう。
でもその子や孫はまずまず学業成績優秀(ぼくを除く)で、いい供養になっているかもしれない。
従兄弟たちは珍しい存在で、田舎の公立中高に学び塾にも行ったことがなくスポーツや音楽をがんばっていたのに、京大阪大その他に進んでいる。
中3の時に塾に行き、大学入試でどこにも受からず浪人し、部活も補欠で自信なさげだったぼくに、もう少し従兄弟たちと共通の遺伝子があれば楽だったかもしれない。(従兄弟たちのほうが背も高いし性格も穏やかそうだし)
それにしても、従兄弟たちには能力を活かしてほしいものだ。
田舎の町からも、私立進学校に進んだ同級生たちは何人か東大に行った。
だけど、今彼らの名前をGoogle検索しても、ほとんどヒットしない。特許は取ってるみたいだけど。
田舎の人たちは、東大や京大に行っても、よくわからない地方の企業の研究室に入って、地味な研究をしていることが多いのだろうか。
お金持ちの人たちとか、華麗な人脈を持つ都会の人たちは、もっと日のあたるところで、華々しい活躍をしているように感じる。
午後3時には親戚たちが去り、テレビを見て一休み。
田舎でも、ついに先月、地デジ放送が見られるようになった。
以前のざらざらした画面と異なり、非常にクリアな映像。BS放送まで見られる。
近々パソコンもブロードバンドに対応する。
すばらしい。
部屋は広いし、静かだし、空気はきれいだし、これでブロードバンド対応だったら田舎に住むのも悪くない。
ただ、農業もなかなか商売にならないらしい。
限界集落なので、農地は冗談のように安い価格になっているけど、それでもなかなか買い手はいない。
むかしは、4反(約4000㎡、約1200坪?)あれば一軒の農家が細々と生活をすることができたらしい。
今では、4町(40反、約4万㎡、約12000坪?)あっても、米農家は厳しいのではないかと言う。
4町の農家というのは、田舎では相当大規模。めったにない。悩ましい。
午後5時をすぎると早くも夕食。
夕方になってくると、虫が盛んに鳴きはじめる。
姿も知らない様々な虫が鳴いている。
曼荼羅のように。
様々なリズム。様々な音階。
振動は聞こえるけど、音としては聞こえない波長を奏でている虫もいる様子。
羽虫だけではなく、カエルも鳴いている。
にぎやかなことだ。
家の前の道は、1時間に1台も車が通らない。
静かだから、虫の音がよく聞こえる。
ぼくは、田舎に生まれてよかったと感じている。
田舎は繊細な音や匂いに満ちている。カオスに満ちている。
ススキを掻き分けて歩くときの匂い、雨上がりの草の匂い、手の中で音もなく呼吸するように点滅する蛍の感触、網の中で虹色に輝くタナゴのウロコ。
河原の石の上を走るバランス感覚。
落穂を焼いて、はぜた白い部分を口にしたときの香ばしさ。
実に豊かな経験をさせてもらうことができた。
家の前に立ち、360度の様子を動画で撮影する。
山の緑と田んぼの緑が延々と続いている。
風が吹けば、裏山の木々を通り抜けてきた空気が清々しい。
田んぼの上を流れてきた風も熱くない。
東京だと、アスファルトやコンクリートに熱せられた空気が熱いというのに。
地球温暖化がどうのこうのというのであれば、地表の緑化面積を増やすことが重要ではないだろうか。
緑化されたところでは地表の温度があまり上がらず、コンクリートやアスファルトの上では高温になる、というのは良く知られている現実だ。
新幹線で東京に戻り、360度コンクリートに囲まれた渋谷の駅前にたたずむ。
バス停で前に並んでいる女性は、出版か広告関係の人のようだ。
夜分恐れ入ります、と言って誰かに電話して、データの差し替えのスケジュールについて話をしている。
ぼくも明日からは怒涛の一週間。気合を入れなければ。
明日から、仕事をがんばろう。
心の片隅で、ほんとうに自分がやりたいことは何か、自分に向いていることは何か、自分が安らげることは何か、そんなことも考えながら。
校了を控え非常に忙しい時期なので、土日だけのあわただしい帰省。
土曜日の朝の新幹線で関西に向かい、日曜の夜に戻ってきた。
好天に恵まれ、青空には飛行機雲。
見渡す限りの緑の稜線。
盆地の中はたんぼの緑に埋め尽くされている。
家の裏に回れば各種の野菜が青々と育っている。
湿った日陰の土の上では黒いトンボ(ハグロトンボ)がゆっくりと羽を開いたり閉じたりしている。
昼食は、親戚一同が勢ぞろい。
親戚の顔を見ていると、遺伝子の妙を感じる。
ぼくの両親は渡来人の多かった地方には珍しく2人とも二重で、ベトナムかフィリピンの影響を受けていそうな印象も受けるけど、親の兄弟はまだ違った顔をしている。
髭の濃い人や薄い人。背の高い人や小柄な人。鼻の高い人や低い人。いろんな顔がある。
ぼくはどういった遺伝子の影響を受けたのだろうと思う。
母親の弟が、小さな本を取り出した。
母方の祖父の遺品だという。
ぼくの親が結婚する前にすでにぼくの祖父母はみんな亡くなっていたから、祖父母のことをあまり知らないけど、受け継いでいる遺伝子はあるらしい。
小さな本は、石川啄木の「一握の砂」と「悲しき玩具」の合本だった。
表紙は剥がれ落ちている。
戦前のものだろうか、戦後のものだろうか、少し厚めの紙はしっかりとしている。
ところどころ歌に線が引いてある。
去年は、走ることが得意だった親戚の話を叔父から聞いた。
その親戚と共通する遺伝子があるから、ろくに練習しなくても3時間半でさっとマラソンが走れるのかもしれない。
だけどその叔父は知らない。
ぼくが、本当は叔父のように化学者になりたかったことを。
小学生の頃、外国で研究生活をしていた叔父にエアメールを送ることで、田舎に住むぼくも広い世界を想像することができた。
中学生の頃、某大の研究室で嗅いだ薬品の臭いは覚えているし、もらったリトマス試験紙や試験管の感触を覚えている。
出来のわるいぼくはドロップアウトして、化学も物理も数学もまるっきり理解できなくて結局文系学部に進んだけど、今でも化学に関心はあるし、高校3年間理系クラスの劣等生として過ごしたことを悔やんではいない。
石川啄木の歌集を持っていた母方の祖父は、生活に余裕がなく、農学校を1年で中退したらしい。
父方の祖父も、同じ農学校を中退した。
大正から昭和初期、1910~1920年代の田舎では、旧制中学などに行ける人はごく少数だった。
田舎の農家の子どもは、向学心にあふれていても農学校に行くのがやっとだった。
勉強がしたかったのに、お金がなくて勉強を続けられなかったことはとても悔しいことだっただろう。
でもその子や孫はまずまず学業成績優秀(ぼくを除く)で、いい供養になっているかもしれない。
従兄弟たちは珍しい存在で、田舎の公立中高に学び塾にも行ったことがなくスポーツや音楽をがんばっていたのに、京大阪大その他に進んでいる。
中3の時に塾に行き、大学入試でどこにも受からず浪人し、部活も補欠で自信なさげだったぼくに、もう少し従兄弟たちと共通の遺伝子があれば楽だったかもしれない。(従兄弟たちのほうが背も高いし性格も穏やかそうだし)
それにしても、従兄弟たちには能力を活かしてほしいものだ。
田舎の町からも、私立進学校に進んだ同級生たちは何人か東大に行った。
だけど、今彼らの名前をGoogle検索しても、ほとんどヒットしない。特許は取ってるみたいだけど。
田舎の人たちは、東大や京大に行っても、よくわからない地方の企業の研究室に入って、地味な研究をしていることが多いのだろうか。
お金持ちの人たちとか、華麗な人脈を持つ都会の人たちは、もっと日のあたるところで、華々しい活躍をしているように感じる。
午後3時には親戚たちが去り、テレビを見て一休み。
田舎でも、ついに先月、地デジ放送が見られるようになった。
以前のざらざらした画面と異なり、非常にクリアな映像。BS放送まで見られる。
近々パソコンもブロードバンドに対応する。
すばらしい。
部屋は広いし、静かだし、空気はきれいだし、これでブロードバンド対応だったら田舎に住むのも悪くない。
ただ、農業もなかなか商売にならないらしい。
限界集落なので、農地は冗談のように安い価格になっているけど、それでもなかなか買い手はいない。
むかしは、4反(約4000㎡、約1200坪?)あれば一軒の農家が細々と生活をすることができたらしい。
今では、4町(40反、約4万㎡、約12000坪?)あっても、米農家は厳しいのではないかと言う。
4町の農家というのは、田舎では相当大規模。めったにない。悩ましい。
午後5時をすぎると早くも夕食。
夕方になってくると、虫が盛んに鳴きはじめる。
姿も知らない様々な虫が鳴いている。
曼荼羅のように。
様々なリズム。様々な音階。
振動は聞こえるけど、音としては聞こえない波長を奏でている虫もいる様子。
羽虫だけではなく、カエルも鳴いている。
にぎやかなことだ。
家の前の道は、1時間に1台も車が通らない。
静かだから、虫の音がよく聞こえる。
ぼくは、田舎に生まれてよかったと感じている。
田舎は繊細な音や匂いに満ちている。カオスに満ちている。
ススキを掻き分けて歩くときの匂い、雨上がりの草の匂い、手の中で音もなく呼吸するように点滅する蛍の感触、網の中で虹色に輝くタナゴのウロコ。
河原の石の上を走るバランス感覚。
落穂を焼いて、はぜた白い部分を口にしたときの香ばしさ。
実に豊かな経験をさせてもらうことができた。
家の前に立ち、360度の様子を動画で撮影する。
山の緑と田んぼの緑が延々と続いている。
風が吹けば、裏山の木々を通り抜けてきた空気が清々しい。
田んぼの上を流れてきた風も熱くない。
東京だと、アスファルトやコンクリートに熱せられた空気が熱いというのに。
地球温暖化がどうのこうのというのであれば、地表の緑化面積を増やすことが重要ではないだろうか。
緑化されたところでは地表の温度があまり上がらず、コンクリートやアスファルトの上では高温になる、というのは良く知られている現実だ。
新幹線で東京に戻り、360度コンクリートに囲まれた渋谷の駅前にたたずむ。
バス停で前に並んでいる女性は、出版か広告関係の人のようだ。
夜分恐れ入ります、と言って誰かに電話して、データの差し替えのスケジュールについて話をしている。
ぼくも明日からは怒涛の一週間。気合を入れなければ。
明日から、仕事をがんばろう。
心の片隅で、ほんとうに自分がやりたいことは何か、自分に向いていることは何か、自分が安らげることは何か、そんなことも考えながら。