波打ち際の考察

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波屋山人

差別構造と差別問題

2015-03-03 23:51:53 | Weblog
長い間「差別」に関心を持ち、行き着いたのは、
「差別する人を咎めたり罪人視したりすることもまた差別」という意識だ。

差別は、犯罪視と関係が深い。
かつて屠蓄業も皮革業も、殺生を犯罪視する人々から嫌われ、遠ざけられた。

殺生を犯罪視する人から見れば、殺生に関わる人を疎外し見下すのは当然の心理だ。
そうしなければ、殺生を犯罪視する価値観が瓦解してしまう。

「殺生は罪悪」という価値観が支配的な価値観の社会においては、
殺生に関わることは否定され、遠ざけられる。
社会的価値が低いとみなされ、時に見下され、疎外される。
その社会においては、それは当然の行為であり、社会問題として浮上することはない。

同じように、人権や民主主義や生命を何よりも大事に思う人から見れば、
差別や独裁や戦争は絶対に許せないことだ。
それらを嫌い、否定し、疎外するのは当然のことに思える。

だが、そこには差別者と同じ意識がみてとれる。
アパルトヘイトの肯定につながりかねない発言をした曾野綾子さんは、はげしい批判にさらされた。
人権や平等を何よりも大事と思っている人からみれば、当然のことだろう。
許せないことであり、価値を認められないことだ。
だが、曾野綾子さんのことを叩く人にも、差別意識はないだろうか。

差別には、問題として表出している「差別問題」だけではなく、まったく社会で問題とされていない「差別構造」もある。
この、差別構造に意識を向けない限り、これからもずっと差別問題は発生し続ける。
(残念なことに、そのことに意識的な差別論者は少なく、対症療法のような発言が多い)

「正しいこと」を根拠に「正しくないこと」を否定する人は多いが、
そもそも絶対的に肯定される「正しいこと」や
絶対的に否定される「悪いこと」は存在するのだろうか。

反差別者がいくら反差別運動を行っても、いまだに世界から差別はなくならない。
それは、反差別者にも差別的な意識がひそんでいることについて無意識だからではないだろうか。
差別者と反差別者の意識は、立ち位置が異なるだけで、似ている構造も感じられる。


自分と価値観の違う人を咎めず、犯罪視せず、見下さず、嫌わず、
さまざまな価値観の人々の思考パターンや行動を分析して眺めれば、咎める気持ちから自由になれる。
そういった意識になってから、差別問題に関わってもいいのではないだろうか。

言ってみれば、言語や感覚器を用い、何かを認識・判断している時点で、すでに何かを切捨て、価値がないものを見出して「差別」していると言える。

弱者も強者も、社会的エリートも被差別者も、みんな差別者であり被差別者である資質を備えている。
そのことを意識すれば、「排除するべき敵」を見出さなくてすむのではないだろうか。

そんなことをぐだぐだと夢想。。。


そういえば、「人を殺すことは絶対的に否定されるべき悪」とか
「民主主義が絶対正しい」とか「平和が至高」という命題は、真実だろうか?

「人を殺してはいけない」というのは、「殺人を認めれば社会秩序が混乱し、自らの生命を守る社会組織の維持が難しくなるから、許されない行為として皆で仮定している」だけではないだろうか。

だからこそ、社会秩序を破壊しかねない行為に及ぶ者に対しては「死刑」という名の殺人を行ったり、外国からの侵略者を殺害することは正当化されがちなのではないだろうか。

物事の仕組みを分解して見て行くと、やがて怒りも不安も不満もない、静かな境地にたどりつく。
物理的、化学的、心理的な因果関係がつらなっているだけで、そこには絶対的な善も悪もない。

怒ったり憎んだり妬んだりしなくても、行動は起こせる。
静かに、論理的に世の中を変えていくことはできる。
大きな声を上げないと不利益をこうむってしなう、などと心配しなくてもいい。
たしかに、一昔前は大きな声を上げる者が世の中を動かしがちだったけど、現在ではだいぶ状況も変わってきた。


コメント
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