波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
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波屋山人

ゴッホは本当に天才か?

2020-11-29 23:49:38 | Weblog
昨年だったか、上野の森美術館のゴッホ展を見に行った。
若い頃から晩年までの作品を見て感じたのが、何億円もの価格で取引されるのは妥当なのだろうか、ということ。
高名な画家というブランド力があるけど、作品そのものを見れば、構図も技法も凡庸なものが多くないだろうか。
独特の輝きを見せる作品もあると思うが、無数にいる画家の頂上に君臨するレベルだとは感じない。

誰かが、ゴッホを見出し、売り込み、高い価値付けを行ったのではないだろうか。
多くの現代人は、知名度やブランド力に惑わされているのではないだろうか。

ゴッホ作品を高値で買う人は、裸の王様なのかもしれない。


私は、知名度の低い芸術家の作品を時々購入する。
絵画、彫刻、陶器、等々。
どれも購入価格は安いけど、個人的には、高い価値が見出せる作品だ。

最高級シャンパンよりも、フレッシュなどぶろくに高い価値を見出す人がいてもいい。
トップモデルよりも、ふくよかなコメディアンに魅力を見出す人がいてもいい。
巨大な最高級リゾートよりも、海辺のバンガローに憧れる人がいてもいい。
ハイブランドの合皮バッグよりも、帆布バッグの便利さを好む人がいてもいい。

デパートの値札に記された数字が、客観的な価値を示すとは限らない。
自分なりに価値を見出せば、少ない費用で、人と競争することもなく、世の中のすばらしさを味わうことができる。

ゴッホに何億円もの値がついていても、それは、ゴッホ作品の芸術レベルの高さを証明しているわけではない。
私は、芸術作品において重要なのは構成要素のバランスだと思っている。
絵画であれば構図や色、音楽であれば構成や音のバランスが重要だ。作品の構成要素が示す調和が、独創的であったり見る人の反応を呼び起こしたりすると、高く評価される。


希少性や知名度やブランド力は価格を上げる要素になるだろうけど、芸術性そのものとは関係がない。

お金を持っている人たちは、仲間内で共通する価値観にもとづいて商品を売り買いすればいい。
だけど、お金を持っていない人がわざわざその価値観に合わせる必要はない。
世の中はさまざまな「価値」にあふれているから、フランス料理よりもラーメンに価値を見出す人がいてもいい。
(実際、味のバランスも調理の技術も、フランス料理のメインの皿に負けないラーメンは存在する)
ゴッホやフランス料理を尊重するのもいいけど、その価値観に従い、お金持ちにとって都合のいい社会で一般人が苦労する必要はない。

裸の王様ではないけど、ゴッホ作品はそれほどすごくない、と空気を読まずに言う人がいてもいいと思う。


コメント (8)
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CCバランス、CCCバランス

2020-11-07 21:27:52 | Weblog
現代社会においては、働くことは当然のように考えられている。
政府の統計においても、失業率や労働時間、賃金などは重要な指標だ。

働くことが当たり前だという環境にいる人は、疑うこともなく自分もその社会の構成員として勤勉に働く。
自分の好き勝手に行動できないかわりに、商品を購入できるお金を配分され、平穏な生活が許される。

だが、世界の経済をまわしていくために人々が働くなかで、働きすぎの弊害も問題視されるようになった。
今世紀に入ると、働くことと日々の生活の調和が必要だと認識され、「ワーク・ライフバランス」という言葉がメディアで多用された。

しかし、ワーク(労働)とライフ(生活)のバランス(調和)を追求する考え方も、あまりにも労働中心の考え方ではないだろうか。
「働くことは当然」と思い込んでいる人の発想のように感じる。

芸術家や芸人、あるいは科学者や思想家や職人もそうかもしれないが、クリエイティブな活動を重視している人たちは、社会秩序を維持するための経済活動に拘束されない。
彼らは、お金を稼ぐために自分の時間を切り売りしているわけではない。

クリエイティブな活動をしている人たちに、「ちょっと没頭しすぎだから、定期的に休憩時間を取りましょう」と指示するのは適切だろうか。
恋愛に没頭している人たちに、「ちょっとのめりこみすぎだから、相手のことを考えるのは1日5時間以内に抑えましょう」などと言うのは適切だろうか。
好きなことを好きなだけやることと、好きでもないことをやらされることはまったくストレスの度合いが違う。

私は、以前から「ワーク・ライフバランス」には違和感があり、違った視点が必要なのではないかと思っている。
それは、「創造(Create)」と「消費(Consume)」のバランスだ。
「CCバランス」と言ってもいい。

食事をしたり、読書したり、映画を見たり、旅行に行ったり、「消費」「受信」だけで生きていているとやがて飽きてくる。
料理を作ったり、詩を書いたり、絵を描いたり、アクセサリーを作ったり、起業したり、などといった「創造」「発信」も必要ではないだろうか。

入れるばかりではなく、出すこともあってこそ、バランスをとることができる。
味わうことと作ることの両方を楽しんでこそ、生活を立体的に楽しめるのではないだろうか。
インプット・アウトプットバランスと言ってもいいが、それは貯金と消費、習得と活用、訓練と実行などのバランス。創造性は必要とされていない。
生活の中で「創造性」を意識するのであれば、「CCバランス」を重視したい。

また、創造することと消費することの間には、イメージしたものを地道に作り上げる作業も必要だ。
例えば、創造的な建築物を作ることと、建築物を見たり使ったりすることの間には、地道に建築する作業がある。
発想と成果の間にある地道な作業も無視しがたい。
「CCCバランス」と言ってもいい。
> Create   創造する
> Construct  構築する
> Consume  消費する


私は、「ライフ・ワークバランス」ではなく、「CCバランス」、あるいは「CCCバランス」を重視したい。
この視点では、「労働」ではなく「創造」が不可欠の要素だ。

少なくとも、働くことが当たり前、という現代社会の前提に疑問を持ちたい。
高校や大学に行って就職して定年になるまで働くことを当然のことのように思っている人は多いけど、思い込まされているだけではないだろうか。

学習を強いられ、労働を強いられ、社会への適合を求められ、うまくいかずに悶々とした日々をすごす人も多い。
高給を得てうまく立ち回っているように見えても、高額な家を購入して、多くの教育費を使って、落ち着かない日々をすごす人もいる。
自分の利益以前に、社会秩序の維持発展のために好都合なひとつのピースとなっていないだろうか。
労働漬けにさせされて趣味もなく、退職後にすることもなく張り合いのない生活をしている人も多い。

社会秩序のために尊い犠牲になるのもいいが、自分の人生を自分のために最大限活用することを考えてもいい。
強迫観念にとらわれて小銭を稼ぐよりも、お金があり余っていたとしてもやりたいことや、お金がもらえなくてもやりたいことを、今の時点でもやれないか考えた方が視野が広がる。
そのうちAIの発達などにより、人類は労働が不要になるかもしれない。
人類に求められるのは、いかに生活を楽しんですごすか、ということになるだろう。

そのことに気付いている人たちは、すでに自分なりの生活を楽しんでいるのではないだろうか。
世の中の価値観に流されず、自分が素敵だと感じるものを楽しみ、多くのプライスレスな豊かさに囲まれて日々を過ごしている。
その人たちは大きな声を上げず、目立つ行動をしないけど、共感する人を増やしている。

そういうわけで、私も暇を見つけては旅に出て、開放的な気分にひたる。
弛緩するだけではなく、創作活動につなげることも意識している。

今月もまた某所に行くことにした。
ズワイガニの食べ放題は消費でしかないけど、カニを手際よく捌いて見せることは、一種の創作活動にも近いかもしれない。


コメント (38)
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