(以下、まとまりのないつぶやきですみません)
自分が自分であることを当たり前だと思っている人は、「自分は何者なんだろう」と悩むことがない。
だけど、私の知り合いには、外国から日本に移り住んだ人や、生みの親の顔を知らない人や、男に裏切られて拒食症になった人など、自分の存在について考えたことのある人が少なくない。
悩むことは辛いことだけど、不幸なことではない。
悩むことがないからといって、多くの人と幸せに交流できるとも限らない。
少し体が硬いぐらいのほうが、自分の体に意識的になってバレエダンサーとして成長すると言われている。
少し言葉がぎこちないぐらいのほうが、自分の言葉に意識的になって詩人や作家として成長できるかもしれない。
だから、自分の存在について意識的になることは、自分の考え方を高度にしていく糧となるのではないかと思う。
それにしても世の中にはさまざまな問題や障害があり、自分の意識を安定させるのは難しい。
精神的に辛くなると、私たちは自然に、なんとか精神のバランスを取り戻そうと試みる。
ずっと耐えて病気になる人もいるけど、嫌に感じることがあれば反発するのが自然な行動だ。
気に食わない人がいれば、価値がない者として見下す。
嫉妬を感じることがあれば、難癖をつけておとしめる。
受け入れられないことがあれば、レッテル張りを行って否定されるべきこととして拒絶する。
そういった姿勢は、ネットの世界でも広く見られる。
自傷行為によって精神のバランスを得ようとする人も多い。
自分の意識を人任せにするように、宗教やサークルなどの組織などに入っていく人も多い。
だけど、安易な行動は、意識の安定から遠いところに行ってしまう場合もあるのではないだろうか。
最近、北朝鮮のミサイルだかロケットだかが発射されようとしている。
批判的な人たちは、北朝鮮の人たちや韓国・北朝鮮といった国に対して、否定的で攻撃的な、粗野な言葉をぶつけていることが多い。
同じように、北朝鮮の報道機関も、日本に対してこれまた否定的で攻撃的な、下品な言葉を投げつけている。
気のむくままに暴力的な言葉を吐いたところで、精神の安定につながるだろうか。
何も問題は解決せず、どちらかが滅び去るまで安心には至らないのではないだろうか。
北朝鮮の人たちが攻撃的な姿勢でいるのには、それなりの理由もある。
自尊心を保っていたいけども、弱くて貧しくて何もかもうまくいかなくて、自暴自棄になっているのかもしれない。
北朝鮮などは諸悪の根源だから無くなってしまえばいいと言う人も世の中にはいるし、
日本などは諸悪の根源だから無くなってしまえばいいと言う人もいる。
きっと、そのように言う人たちは、自分の存在を維持するために、単純に相手の価値を否定しようとしている。
自分を自分であり続けさせるためのイメージを傷つけられた人は、反射的に自尊心を守ろうとする。
自分たちが育ってきた環境で得た思い込み、価値観、判断基準、などで構築された自分という形を、自尊心によって維持しようとする。
自分の価値観が認められないものを受け入れることはできないと判断し、否定するしかないと思い込む。
だけど、ほんとうは自分の価値観とか判断基準などを全面降伏させてしまっても、世の中に大きな影響は無い。
思い込みとか遺伝子とか環境とか、自分というものを成り立たせているほとんどの要素は自分オリジナルのものではない。
自分の大事にしていたものが、それほどたいしたことではない場合も多い。
「かけがえのない命」「自分の個性は大事」などというのも、現代的な価値観。
社会組織をうまく維持するためには、そういった価値観を共有することが有効だと認識されているだけ。
情緒で人間をごまかせても、「人々の命の維持は絶対的に肯定される」とか「人々の個性を否定することは絶対的に否定される」という数式や化学式は書き出せない。
世の中には「悪」という絶対的に否定されるべき物質などというものはない。
「善」という物質もない。
物理化学や数学の世界には悪とか善といった変数はない。
世の中の事象の因果関係を見ていけば、何かの影響で何かが起こり、何かの影響で何かの思想が生まれ、といった因果関係の複雑な絡み合いが見えてくる。
絶対的な善や悪をめぐる戦いが世の中を支配しているのではない。
絶対的な善や悪といった存在を大事にする人間の価値観すら、複雑な因果関係の中で発生している事象だ。
私は、私に大きな影響を与えている先入観とか価値観といったことを疑うことによって、自分の輪郭をあやふやにさせ、不安の中で、世の中の複雑な因果関係が見えてくるのではないかと思っている。
言葉にできないような、世の中の構造。
言葉や論理や姿や事象といった形と隣り合った、混沌としたもの。
それを認識できるようになるためには、自分の意識の枠を、溶解していく必要がある。
いつまでも小さな先入観を死守していると、深くおもしろい世界は見えてこない。
意識の柔軟性がなく、自分の価値観を守らなくては自分の心のバランスを維持できなった人たちは、いつまでも終わりの無い戦いから開放されることはないのかもしれない。
それはそれで充実感のある、おもしろい戦いなのかもしれないけど、そういう戦いは、例えば初期の仏教では「輪廻から脱することができない状態」に例えられていたのではないか。
そんなことを考えながら、私はあいまいで不安な、それでいておもしろい状態に自分を置いている。
自分が自分であることを当たり前だと思っている人は、「自分は何者なんだろう」と悩むことがない。
だけど、私の知り合いには、外国から日本に移り住んだ人や、生みの親の顔を知らない人や、男に裏切られて拒食症になった人など、自分の存在について考えたことのある人が少なくない。
悩むことは辛いことだけど、不幸なことではない。
悩むことがないからといって、多くの人と幸せに交流できるとも限らない。
少し体が硬いぐらいのほうが、自分の体に意識的になってバレエダンサーとして成長すると言われている。
少し言葉がぎこちないぐらいのほうが、自分の言葉に意識的になって詩人や作家として成長できるかもしれない。
だから、自分の存在について意識的になることは、自分の考え方を高度にしていく糧となるのではないかと思う。
それにしても世の中にはさまざまな問題や障害があり、自分の意識を安定させるのは難しい。
精神的に辛くなると、私たちは自然に、なんとか精神のバランスを取り戻そうと試みる。
ずっと耐えて病気になる人もいるけど、嫌に感じることがあれば反発するのが自然な行動だ。
気に食わない人がいれば、価値がない者として見下す。
嫉妬を感じることがあれば、難癖をつけておとしめる。
受け入れられないことがあれば、レッテル張りを行って否定されるべきこととして拒絶する。
そういった姿勢は、ネットの世界でも広く見られる。
自傷行為によって精神のバランスを得ようとする人も多い。
自分の意識を人任せにするように、宗教やサークルなどの組織などに入っていく人も多い。
だけど、安易な行動は、意識の安定から遠いところに行ってしまう場合もあるのではないだろうか。
最近、北朝鮮のミサイルだかロケットだかが発射されようとしている。
批判的な人たちは、北朝鮮の人たちや韓国・北朝鮮といった国に対して、否定的で攻撃的な、粗野な言葉をぶつけていることが多い。
同じように、北朝鮮の報道機関も、日本に対してこれまた否定的で攻撃的な、下品な言葉を投げつけている。
気のむくままに暴力的な言葉を吐いたところで、精神の安定につながるだろうか。
何も問題は解決せず、どちらかが滅び去るまで安心には至らないのではないだろうか。
北朝鮮の人たちが攻撃的な姿勢でいるのには、それなりの理由もある。
自尊心を保っていたいけども、弱くて貧しくて何もかもうまくいかなくて、自暴自棄になっているのかもしれない。
北朝鮮などは諸悪の根源だから無くなってしまえばいいと言う人も世の中にはいるし、
日本などは諸悪の根源だから無くなってしまえばいいと言う人もいる。
きっと、そのように言う人たちは、自分の存在を維持するために、単純に相手の価値を否定しようとしている。
自分を自分であり続けさせるためのイメージを傷つけられた人は、反射的に自尊心を守ろうとする。
自分たちが育ってきた環境で得た思い込み、価値観、判断基準、などで構築された自分という形を、自尊心によって維持しようとする。
自分の価値観が認められないものを受け入れることはできないと判断し、否定するしかないと思い込む。
だけど、ほんとうは自分の価値観とか判断基準などを全面降伏させてしまっても、世の中に大きな影響は無い。
思い込みとか遺伝子とか環境とか、自分というものを成り立たせているほとんどの要素は自分オリジナルのものではない。
自分の大事にしていたものが、それほどたいしたことではない場合も多い。
「かけがえのない命」「自分の個性は大事」などというのも、現代的な価値観。
社会組織をうまく維持するためには、そういった価値観を共有することが有効だと認識されているだけ。
情緒で人間をごまかせても、「人々の命の維持は絶対的に肯定される」とか「人々の個性を否定することは絶対的に否定される」という数式や化学式は書き出せない。
世の中には「悪」という絶対的に否定されるべき物質などというものはない。
「善」という物質もない。
物理化学や数学の世界には悪とか善といった変数はない。
世の中の事象の因果関係を見ていけば、何かの影響で何かが起こり、何かの影響で何かの思想が生まれ、といった因果関係の複雑な絡み合いが見えてくる。
絶対的な善や悪をめぐる戦いが世の中を支配しているのではない。
絶対的な善や悪といった存在を大事にする人間の価値観すら、複雑な因果関係の中で発生している事象だ。
私は、私に大きな影響を与えている先入観とか価値観といったことを疑うことによって、自分の輪郭をあやふやにさせ、不安の中で、世の中の複雑な因果関係が見えてくるのではないかと思っている。
言葉にできないような、世の中の構造。
言葉や論理や姿や事象といった形と隣り合った、混沌としたもの。
それを認識できるようになるためには、自分の意識の枠を、溶解していく必要がある。
いつまでも小さな先入観を死守していると、深くおもしろい世界は見えてこない。
意識の柔軟性がなく、自分の価値観を守らなくては自分の心のバランスを維持できなった人たちは、いつまでも終わりの無い戦いから開放されることはないのかもしれない。
それはそれで充実感のある、おもしろい戦いなのかもしれないけど、そういう戦いは、例えば初期の仏教では「輪廻から脱することができない状態」に例えられていたのではないか。
そんなことを考えながら、私はあいまいで不安な、それでいておもしろい状態に自分を置いている。