イタリアより

滞在日記

トレッキアーラ城への道のり-行き方-その3.

2019年02月03日 | トレッキアーラ

ピエール・ロッシの居城を訪ね巡るビアンカ


妄想ストリーも終盤です


サン・セコンドの領主ピエール・マリーア・ロッシは、フランス語、スペイン語を初め数多くの国の言葉を学び、音楽や美術にも造詣が深く、更には『Pier Maria Rossi si dedicò con grande successo al “mestiere delle armi”』と彼を紹介したwebサイトにもあるように、兵器の製造にも成功を収めていました。“Si dedicò”(献上した)の相手は、勿論ミラノ公国フランチェスコ・スフォルツァです。その成果は当然、領地の拡大に直結して、周辺には26以上もの居城を所有していました。ビアンカはそれら一つ一つのお城を訪ねて回ります。その姿はまるで巡礼者のようです。そんな物語が天井一面に描かれているものだから、私はもう口をあんぐり開けて眺めていました。


キッチンもありました


お城の中には台所や馬を飼っていた当時の様子がそのまま残されていて、明らかにこの場所で沢山の使用人が立ち働き、二人の和やかだったであろう生活が垣間見えました。夏の別邸なので、石造りの堅牢な建物は直射日光を遮り、パルマ川の渓谷を渡ってくる風は涼しくて、領主ロッシは身も心も癒やされたことでしょう。


使用人達が働く様子

お城の資料室に展示されています


今の世ならば、当人たちでなくても、彼ら使用人がInstagramやFacebookなどでお城の様子をUPして、例えば、それは、『今夜のメニューはステーキ!』やら『当地厳選の生ハム!』等々、リアルタイムで正妻の元に届きそうですが、当時であっても、二人のこうした暮らしぶりは、確実にアントニアの知るところとなったでしょう。


厩舎もありました


トレッキアーラ城とほぼ時期を同じくして建設していたお城、ロッカ・ビアンカは、完成するとマリーア・ロッシは愛人に贈ります。正妻アントニアが住むサンセコンドのお城のすぐ近くです。それを知って、あるいは、もしかしたら遠くにでも見えるロッカビアンカを毎日毎日眺めることになるアントニアの気持ちはいかばかりか。


ロッカ・ビアンカ
webサイトより


話が少しそれますが、アントニアに思いを馳せていると、ふと源氏物語が頭に浮かんできました。そう、あの六条御息所のお話です。奇しくも年齢差は、ロッシとアントニアと同じ、六条御息所は光源氏より7歳年上でした。余りにも光君を愛する余り、その身は生き霊となって、光源氏の相手の女性を次々呪い殺すという、何とも恐ろしいストリー展開ですが、勿論これは架空の物語。

それでは、アントニアはどうしたか。彼女は、しかし、誠に賢明な女性でした。夫の耐えがたい仕打ちには心穏やかならぬ日々を過ごしたものの、ある時点で見切りを付けて身を引き、修道院へ入ってしまいました。それがいつのことか分からないのですが、恐らく子育てもそこそこ終えた、そうして夫の心はもう自分には戻らないと悟った、これらのお城の建設のすぐ後のことだろうと推測します。もしかするともっと早い時点で、ロッシには三行半を突きつけていたかも知れません(あっ妄想です)


アントニアが子供達と暮らしていたロッカ・デイ・ロッシ(サンセコンド)

webサイトより


“Dopo diversi anni di matrimonio e dopo aver avuto dieci figli da Antonia Torelli, quest’ultima si ritirò nel convento di San Paolo a Parma”

トレッキアーラ城にまつわる文書を掲載したwebサイトの一文を参考にさせてもらうと、アントニアはパルマのサン・パオロ修道院に引退したそうですが、この修道院は元はベネディクト会系の女子修道院で、彼女は余生を神に捧げて過ごしたようでした。詳しい資料は見つけられないままですが、わずかな期間なりとも、ここで穏やかな日々が送れていたならと、そんな気持ちになりました。

史実によると、アントニアは、1468年疫病で亡くなったとあります。この時代の疫病とは、もしかしたら黒死病・・ペストかもしれない・・・14世紀にヨーロッパを荒れ狂ったこの伝染病は、その後も時を置きながら人々を襲ったというから、アントニアもこの死病に冒された可能性は十分にあって、そうなると彼女の亡骸はどうなったか、アントニアの埋葬場所やお墓が不明なのは、ここに至って、何となく分かる気がしてきたのでした。

ちなみに、件(くだん)の六条御息所も、自身が気付かぬまま、我が身が生き霊となって人々を呪い殺したことを知ると、その罪の深さにおののき、仏門に下る決心をしますが、それでも、死後も魂は成仏せず、光源氏と関係を持った女性達に取り憑いたというから、その情念たるやすさまじく、女性を怒らせると、どんなに恐ろしいことになるか^^;

あっ又時間切れです。次回こそ、本題、行き方の説明に戻りますm(_ _)m

【余談】


お城の入り口に続く坂道
息を切らして上がりました


トレッキアーラ城に、幽霊が出るそうです。普通に考えれば、その幽霊は領主のピエール・マリーア・ロッシやビアンカ・ペリグリーニだとなるところですが、目撃した人は、その幽霊は当時の装束を着ているわけでもなく、鎧もかぶってはいない、もう少し時代の下がった頃の市井の人の洋服をまとい、荘園にも入らないで時々泣いていたとも言います。


Cortile d'onore「名誉の中庭」


地元の人にとっては、愛する二人の幽霊なら納得もし、歓迎もするのでしょうが、実は、この二人は、トレッキアーラ城の教会に埋葬されてはいなかったのだとか。16世紀にお墓が開けられたのですが、中には何もなく、ピエール・マリーア・ロッシの亡骸は故郷のサンセコンドに運ばれ、ビアンカは、ポー川の向こうミラノ近郊のアルルーノ家の墓に埋葬された、というのが専門家の見方なのだそうです。


二階のロッジャ


男性の幽霊は、トレッキアーラ城に誰よりも思いのあるロッシであろうとしても、女性の幽霊は、着ている洋服も違うし、ビアンカには似ていない、しかも幽霊は水を避け、川は渡っては来ないということになって、この奇妙な目撃情報は謎のまま…だとか。

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2 コメント

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彼、結婚したかったんだ。 (toma)
2019-02-04 21:17:23
整理してみました。1428アントニアと結婚/1440頃ビアンカと出会う/1448マリーア・ロッシ、ミラノよりパルマへ戻る(この時ビアンカを帯同?)/1448(または1446)トッレキアーラ建設始まる/1450ロッカビアンカ建設始まる/ロッシ、アントニアとビアンカとの二重生活/1457アントニア修道院?/この頃ロッシ、ビアンカの結婚の取り消しを教会に説得するため寄付を行うが失敗/1460トッレキアーラ完成/1465ロッカビアンカ完成/1468アントニア没/1480ビアンカ没/1482ロッシ戦役、同年9月1日マリーア・ロッシ没。なんか悲しい…。
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tomaさんへ (kazu)
2019-02-05 23:10:32
こんばんは。年代を整理して下さったのですね。いろいろな流れが分かりやすくなりますね。凄いです。縦軸に年代を、横軸に、ロッシやアントニアやビアンカ、それにミラノやヴェネチアや周辺諸国の出来事を入れていくと、この時代の更に複雑なそれぞれのからみが見えてきそうです。そうでしたか。彼らは、結婚しなかったのではなく、出来なかったのですね。そういえば、この時代、カトリックでは、教会法だったか教理だったか、離婚には厳しい制限があったように思います。アントニアにも同情するし、こうなるとビアンカにも気持ちが寄り添いそうです。誰が悪いということはなく、ほんとに切ない結末ですね。お城の珍しい形に惹かれて訪ねたトレッキアーラ城でしたが、まさかこんなお話を知ることになるとは思いませんでした。tomaさんにも色々と教えて頂いてありがとうございます。
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