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絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

がまん

2005-08-01 06:31:55 | 子どもからの発見
 蕗は、耳鼻科にいくことが多い。治療の際火がついたように泣いては医師を閉口させている。家を出る頃から緊張をかもし出し、すでに大泣きする気配である。「がんばるんのよ」と親が言うのは、子どもが泣かないで欲しいという願望だが効果はない。さりとて他に手の打ちようがない。
 病院に向かう途中で母親でない者が、
「病院は痛いでしょう。痛いから泣くでしょう。でも蕗ちゃんは赤ちゃんじゃなくて、3歳なんだよ。3歳は痛くてもがまんができるんだよ」
というと、
「がまん。がまん」と繰り返してつぶやいた。がまんという言葉がどのぐらい理解できているか分からないが、がんばるが大人側からの言葉と感じているのに対して、子どもの側の言葉に受け止めたようだ。もしかしたら、がまんは始めての言葉だったかもしれない。意味が十分理解できなくとも、子どもの側と思えば、入っていくものである。
「病院で痛いのは、直すためだからがまんするんだよ。転んでいたいときは大声で泣いていいんだよ」
 こんなやり取りをした日、たまたま初めて泣かなかった。泣かなかったのは、言葉のやり取りのせいか定かではないが、少しは影響したかもしれない。それまで「がんばる」といわれていたのが「がまん」という言葉に代わった。泣かない行為は、がんばるのではなくがまんという言葉がぴったりであり、3歳という年齢の自覚と誇りとも結びついて、がまんができたのかもしれない。
 泣かない蕗に医師は驚き、好意的になった。それからとうもの大泣きは、とんとなくなったのだった。
 がまんは、他が抑圧するのではなく、自分が抑制する、あるいは待つといったことである。感情や即物的発想の行動を中心でなくするために、大事な言葉かもしれない。
 

戦う、かっこいい!

2005-07-19 11:13:14 | 子どもからの発見
 自転車(補助つき)であそびたがる。自転車に乗りながら、テレビ番組のある部分空想しているようで、しぐさと言葉に随所それを読み取ることができる。テレビの番組を空想するためなのか、自転車に興味をもっている時期だからなのか判然としない。おそらくどちらもなんだろう。ただ、テレビ番組の空想が頭をもたげなかったら、自転車の技術に注目するし周りの状況に気づくだろう、と想像してみた。
 海(かい)は、「マジレンジャーはたたかうからかっこいい」と再三いう。「ブリキュアM」の番組を、妹の蕗(ふき)のものと決めているらしく、「ブリキュアはかわいい」という。「仮面ライダー」は、「ちょっとこわいけど、かっいい」という。
 とにかく「たたかいはかっこいい」で頭がいっぱいになっている時がある。そういえば妹に対して命令的言い方が多くなっているし、時には強引に物を奪うこともある。それに声を、時には喉を詰めるように出すようにもなった。もっともこの変化は、テレビ番組の視聴による影響だけと断定してはいけないことは言うまでもないことだが。


土、日の朝に子ども番組

2005-07-17 05:17:56 | 子どもからの発見
 昨日の土曜日の朝の7時30分からは「ウルトラマンマックス」(TBS系)があった。海は前日からそのことを知っていて、明日は朝早く起きると言っていた。
 当日は5時30分過ぎに起きて、その開始を待った。7時半までは長くて待ちきれない。6時半頃に7時半からと確かめてから、時計の針を7時半にした。時計が7時半だからすぐ始まると思ったが、実際は6時半なので始まるはずがない。7時半なのにどうして始まらないの、と言い出す。 時間を口にするようになったが、その時間空間がゆるがないものとしてある、という前提に対する問いかけでもありおもしろい。このような体験を通して、自分の欲求や感情や都合で動かないものがあることを分かっていくのだろう。
 開始まで気を紛らわすためにおもちゃをいじったり、絵本を眺めたりしていると始まった。待ちくたびれたのか、内容が難しいのか集中して見たわけではない。
 わたしはこの手の番組は苦手だが、仕事柄機会を見てみるようにしている。新聞のテレビ番組欄の「試写室」に紹介されていたこともあり見た。とはいっても気もそぞろに見ているので、内容がよくわからない。ただ言葉が中学生ぐらいを対象としたボキャブラリーで、高揚感と緊迫感の声と言い回しなので、子どもにはその気分が伝わるのだろう。

 日曜日の朝のテレビ朝日系は、子ども向けの番組が続く。今日の場組み表を見ると、7:00「かいけつゾロリ あるく魚たち」7:30「マジレンジャー 魔法特急GO」8:00「仮面ライダー響鬼 燃える紅」8:30「ブリキュアM 新たな力が今!」である。海は「マジレンジャー」を見ている。
 親が寝ていて子どもがこんな番組を連続してみている家庭もあるだろう、と想像してみて家庭の殺伐とした様子につながり、日本の子どもの育ちが心配になるのだ。子どもの番組が、いつから休日の朝組まれるようになったのだろう。本来親子の穏やかなコミュニケーションの時間になるはずなのだが。
 以前に保育園の子どもの月曜日は、テレビを見たり親のやっているゲームを見ているせいか、落ち着きなく動き回る、寝不足で活力がないといったことを聞いたことがあり、そのようのことを想起したのだった。

 海がこの種の番組を見てからのしばらくは、乱暴な振舞いになる。どこからともなく石や棒を集めているが、以前はそれだけだったが、棒を振り回したりファイティングポーズもとるのだ。日本の子どもが、このようにしてバイオレンスに寛容な文化を身につけていくのか、と考えさせられるのだ。

 *「マジレンジャー」を見た。ストリーは子どもの想像力を膨らませるようなものとは程遠く、子どもの購買欲を刺激する商品紹介が中心ではないか、という印象を持った。「お子様テレビショッピング」といってもよい。それにCGを使っているので、安上がりに制作していることも読み取れた。
 わたしはこの手の番組やビデオは、乳幼児期にあまり見せないほうがよいと思っている。あまりにもモノへの欲望を肥大化させるように作られているからである。小学生になると、その内容に埋没しないで見られるようになるだろうに。


子どもが世間の風に当たるとき

2005-05-29 09:47:24 | 子どもからの発見
 4歳児からの入園なので、なんとなくなじんでいくのではなく、言葉などからの情報を得て日ごとに自分に取り込んでいきます。そのためその変化は明解にわかります。

■大型連休明けぐらいに、

おべんとおべんと うれしいな
なんでもたべます よくかんで
みんなそろってごあいさつ いただきます

という歌を得意げにうたいました。弁当をいっせいに食べるときの、幼稚園の作法に慣れきたのでしょう。それに家族の知らないことを持ち込むことは、この年齢の子どもとしては、自分らしさを発揮できるときでもあります。
 それにしてもこの歌をうたってから食べるという、昔の作法が今日も引き継がれていることに、変わらないものだという思いになりました。

■午前保育で弁当を持っていかない日のこと。
「べんとうたべるひといるよ。あずかりのひと」
「うーん」
「それがけっこういるんだよ」
クラス全体の子どものことが視野に入ってきたのと、園の運営のことが少しずつつかんできているようです。
 幼稚園では保育園の延長保育のことを、預かり保育といっています。園側が特別のことをしているというニュアンスの、子どもの立場に立たない言葉です。子どもは知らないで使っているが、よい言葉といえません。延長という事実を示すか、子どもの側に立った言葉を作る必要があります。

■これまで知らなかった、戦いのキャラクターモノ(フィギュア、絵本、カードなど)に関する洗礼を受けてきています。いまのところウルトラマン、アバレンジャーといったこと。
「かいじゅうとたたかう」といったことは言うものの、まだ入り口のところで全体を知らないというか、のめりこんでいないので部分的のようです。
 ただしそのフィギュアや絵本を持ったとたん、声と顔つきが変わります。喉をつめた声(怒鳴り声といってもよい)であり、普段見せない乱暴なしぐさ(見方によっては活発)になり、顔が高潮して戦いモードです。
 日本の子どもの、バイオレンスへの願望と商品としてのモノを収集し消費する今日の文化に飲み込まれていく様を見る思いです。

■親子遠足がありました。子どもはバスで、親は現地集合です。
「さくらぐみさんといっしょにばすにのったんだよ」
「じむのおじさんが、いってらっしゃっていったんだよ」
他のクラスの人とバスに乗ったこととが新鮮だったようだし、事務のおじさんという担任先生以外の園の人も覚え始めてきています。


サッカーごっことスポーツとしてのサッカー

2005-05-14 06:36:19 | 子どもからの発見
サッカーごっことスポーツとしてのサッカー
 
 サッカーをするために、海と近くの広場へ出かけた。サッカーといってもボールを足で操作(ドリブル、キックでパス交換)する運動のことだ。ボールは、3号の皮革製のもの。ゴム製だと軽いので蹴ることに偏るし、弾みすぎて足での操作が難しいしので技術が定着しない。
 ボールをキックでやり取りできることを期待して、ゆるやかに海の足元に出す。するとそのボールに触らず、すばやく走り出す。何回か繰り返しても、たまにしか触らない。走るのは、こちらがボールを出すタイミングに合わせていることが分かった。足で触ってもキックで返ってくるわけではなく、横へ転がすぐらいである。
「こっちへ返してよ」
「そんなに走らないで、ボールを蹴るんだよ」
といった言葉かけをしても、耳をかす気配はない。
 そのうち地面からドリンクを取って顔を天に向けて飲んだり、つばを吐くまねもした。ははあ、サッカーごっこをしているのだ。スライディングをしたりはしないものの、芸が細かい。テレビを見て作られているサッカーイメージを再現し、サッカーごっこをしているのだ。そう見ると走るフォームもそれらしいことが分かった。
 ごっこの世界から運動としてサッカーになるために、ボールを操作しながらキックを期待して動いてみた。たまたま海が触ったボールは、アジサイとアジサイの間に転がった。すると、
「はいったー」
といった。シュートのことだ。アジサイとアジサイの間を、ゴールに見立てているのだ。
 ゴールに見立てているところに転がりそうなところにボールを出すと、触っては「はいった」と繰り返した。「はいった」ということが、運動としてのサッカーに転換させる芽があるのを発見したのだった。
 「サッカーしよう」というので、テレビで作られているサッカーイメージを再現するのはありうることだ。アニメのヒーローを再現する、ごっこあそびと同じように。そういえば「今度サッカーしようう」といったときに、「かぞくみんなでしよう」という言葉が返ってきたことを思い出した。テレビで得た大勢で試合するイメージから、そんな反応をしたのかもしれない。

 わたしの体験では、かつてサッカーというのがテレビで見られなかった時代に、子どもたちは止まっているボールを助走しながら遠くへ蹴ったものだ。これは野球のバッターが打つというイメージからきていると思われた。ホームランのように、遠くへ蹴られるほどいいということになる。そのやたらに蹴るのを、ボールを運ぶことに切り替えることに力を注がなければならなかった。
 足でするさまざまなボールタッチのおもしろさ、ドリブルでボールを運ぶことをやった。蹴ってボールの行方を見るのではなく、サッカーはボールを足で運ぶことなのだ、ということを理解させることが重要だった。
 今はテレビでイメージを持っている場合、現実に引き戻してスポーツとしてのサッカーにつなげるようにしなければならない。そのためにはキックやドリブルの技術から導入するとは限らず、子どもの関心のあることから始める。それはドリンクを飲むまねではなく、ボールを足で扱うことであることはいうまでもない。海の場合は、「はいった」というシュートシーンの再現だったのだ。

お茶はドリンクバーから

2005-05-04 05:38:08 | 子どもからの発見
お茶はドリンクバーから

 妹の蕗(ふき)は3歳になりました。海(かい)が幼稚園に行くようになってからぼくと言うようになったため、真似てぼくを使うようになっています。それだけが張り合っているようにも解釈できないこともないが、後は背伸びをやめてぐんと年齢相応になったようです。
 ままごとをやってお茶を出す段になったら側にあったルームヒーター型のストーブのスイッチを入れてカップをそえました。それでお茶を注いだつもりで差し出したのです。これはファミリーレストランの、ドリンクバーの真似です。スイッチが平面でなく側面で左右に押す方式のため、それらしいのです。家庭でお茶を入れるよりは、子どもには外食での体験の方が印象付けられているのでしょうか。
 昔洗濯機が普及し始めてから、水の入ったバケツを棒でかき混ぜて洗濯といったときの子どものように、時代の変化を子どもは正直に反映するものだ、と改めて考えさせられたのでした。そういえば園でのままごとあそびも変わっただろうな、と考えをめぐらしてみました。家族の関係を想定したままごとは、遊びとしてなくなっているかもしれません。

 道路でろう石で丸を書いてグー跳び(両足をそろえて前に跳び進む)をしました。最初は着地の足がそろわなかったが、その都度止まって見本を示したらできました。すると今度は、自分で丸を書いて跳ぶように求めました。応じたら喜んで自分でも繰り返して跳びました。

 ついでにふれると、階段を下りるのは2歳半ぐらいから1段ごとに座りながらやるようになり、今は壁に手をそえながら1段ごと足をそろえております。片足を交互に出して降りるようになるのは、いつ頃からでしょうか。これは階段の角度が大きく影響します。ちなみに2階がリビングのため日々必要に迫られるので一般的事例より早いと思われます。

幼稚園になじむということは

2005-05-03 06:17:25 | 子どもからの発見
幼稚園になじむということは

 幼稚園に通園するようになって3週間、親の知らない世界を持った海(かい)は、自分から園のことをしゃべりだすと得意げに話します。聞き出そうとしても、まだしゃべらないのです。
 バスのコースは水色コース、金曜日にアンパンマンのテレビがあると聞いてきて見る、何かの折に「○○せんせいもそういうよ」という、といったことがあります。4歳児入園(2年保育)なので、言葉による理解力を通して急激に園のことを吸収しています。顔が日焼けしたり、しぐさがてきぱきとしてきています。 
 2日(月)は任意登園で子どもが少なく自由あそびだったようで、「すなばでおおきなやまつくったの」といって得意げでした。むすんでひらいてを歌っては、「てをひざにっていうんだよ」とこれまでの歌と違うことを話します。
 親は子どもが自分の知らない世界をもったので、子どもに対しての距離のとり方が変わります。子どもは幼稚園の仕組み、友達を覚えるといったことを通して園になじんでいきます。それと並行して、子どもが親の知らない世界をもるので、すべてを知っていて世話をするそれまでの親子の関係を変えなければならないでしょう。
 日本の子育ては、とかく子どもと密着して世話をするのて支配的関係なりがちだが、子どもとの距離の置き方が変わります。わが子だけに目を奪われるのではなく、子どもとともに親も社会化していくのでしょう。子どもが通園によって持ち込む新しい文化が家庭に加わるので、それを柔軟に受け入れてどうブレンドしていくか、という発想が必要になります。このことは今後の長い学校生活を視野に入れても、意識し続けなければならないことです。

幼稚園に通い始めて

2005-04-19 05:12:12 | 子どもからの発見
幼稚園に通い始めて (2005年04月19日 (火) 05時12分)

 かいが幼稚園へ行くようになっての急な変化は、自分のことをぼくというようになったのと、言葉のやり取りで「はい」を頻繁に使うことです。
 わたしの推測では、幼稚園生活の説明を受けて「やくそくですよ わかりましたか」「はい」といったやり取りをしているのではないだろうか、ということです。ぼくというのは、同年齢の子どもとの関係を持つために、自分の位置を示すためでしょう。それまでの自分の名前やおれと言うのが消えていきそうです。
 1週間たったら、ほほに赤みがさしてきたし、しぐさにメリハリがでてきました。同年齢の子どものなかにいるのが楽しいようです。
 妹のふきは、かいが幼稚園バスに乗る1日目に自分も行くと思い込んでバス停で泣き出したのでした。ところがその日の夕方、「ふきようちえんにいくのあきらめた」としみじみといいました。そしてだんだんかいと距離ができて、2歳らしくちょっと幼くなったようです。それまで張り合っていたのでしょう。ふきは、これで背伸びしなくて楽になるでしょう。昼寝をきちんとするようになったことにも、現れています。

幼稚園生活がスタート  性別への関心につなげるには

2005-04-11 06:05:24 | 子どもからの発見
幼稚園生活がスタート  (2005年04月11日 (月) 06時05分)

 かいは、2年保育に入園しました。きょうからバスで通います。土曜日の入園式は、両親と制服を着て行きました。
 この年齢の子どもは、制服を着るだけで大変なことです。まるで鎧に身を固めて日常とまったく異なる世界へ行くようです。制服は子どもに緊張と抑制を強いる装置のようです。幼稚園のスタートがそれでいいか、ということに思いをめぐらしたのです。もっとも幼稚園の立場としては、園の様々なことに子どもを短期間に順応させるためという考え方も成立します。
 子どものためには、入園式そのものの必要性に疑問がわいてきました。普段着であそぶことからスタートして、子どもが手探りで実感しながら担任の先生やクラスの子どもを覚えていくというのもひとつの方法ではないか、と考えました。子ども自身で環境を自分のものにつかんでいくという意味です。
 けじめとして儀式が必要であれば、少し慣れた2、3週間ぐらいたってから簡単にやる、といったことはどうか、と考えてみました。
 一般的な入園式は、園が受け入れるスタートとしての儀式であり、親のためでもあります。子どもにとっては何か分からないけど、大人の儀式体験をしながら社会化していくといった意味づけをするしかない。

性別への関心につなげるには

 2歳11カ月のふきがトイレに入ってウンチをしたとき、
「かいちゃんは4さいだからオチンチンあって・・・、ふきは2さいだからまだなくて・・・、おかあさんは23・5だからなくて、おとうさんはあるの」
といった。23・5とは、どうも靴の大きさのようである。
 風呂へ一緒に入るため、外性器の違いに関心持ち性別に気づいている。この関心は、きょうだいの構成によってまったく違う。一人っ子の場合は5歳、6歳頃だったりするし、同姓だけのきょうだいの場合も同じだ。異性のきょうだいだと関心が早くなる。とくに上が男で下が女の場合はそうである。
 それを不思議なこととして抱えながら、ある時期に知識として教えることは大事である。わたしは子どもが自分の体験や欲求や感じることとは切り離して、知識というものが独自にあるというのが分かる時期、つまり4歳頃からが適時だと思っている。
 4歳の後半から5歳になると、知識に因果関係があることや知識が関連づいて実感以外のものごとの理解が可能ということが分かるので、家族や出産といったことを織り交ぜながら理解ができる。
 この年齢の性教育に関する絵本はいくつもあるので、いずれリストアップすることにする。

(子どもからの発見の事柄は、伝聞を構成したものが多く、それに解釈を加えている)

性別の理解はどうすすむか

2005-02-23 06:24:53 | 子どもからの発見
性別の理解はどうすすむのか (2005年02月23日 (水) 06時24分)

 ふき(2歳10カ月)が、ひな飾りの大きな絵のそばで着物を着て写真を撮った。すると内裏様をさして
「これ、かいだからしゃしんとる」
という。ひな祭りの意味を知らないがゆえに、かい(4歳4カ月)の言うことの道理が通っているのだ。男女にかかわらず着物を着て昔を楽しむ行事にするのも、いいアイディアと思ったものだ。
 ところでふきは、鳥の形をした皿の色を見て、ピンクと黄色に対して「かわいい」と言い、ブルーに対して「かっこいい」と仕分けした。そういえば小物も、小鳥などいわゆるかわいいそうなものに関心が高い。かいは自動車を集めているし、最近は鷲鷹に関心を持っている。
 ふきは、はさみを使いたいのを「おんなのこだからはさみをする」という。女だから家事的作業といっているわけではないが、かいと違うことをしたいときに「おんなのこ」と言う言葉を使うようになった。
 性別の違いに気づき始めていることは確かである。きょうだいが男女だと、性別に対する関心が早い。性別の違いの理解をどうさせていくか、教えるチャンスがたびたび訪れることだろう。
 それに文化的につくられる性別はどのような影響を受けるものか、ということもある。一番大きいのは、モデルとなる親の夫婦の関係と家庭での役割のようにみえる。それに布団から衣服などの生活用品のデザインやカラーにも影響されるのではないか。