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絵本と児童文学

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父親の真似  言葉の独り歩きと嘘

2005-02-13 06:01:17 | 子どもからの発見
父親の真似 (2005年02月13日 (日) 06時01分)

 かいは、プレ幼稚園のクラスに週1回通っている。風邪が治りきらないので休むようにうながした。ところが
「しごとだからいく」
といいはる。これは父親の真似である。父親にかなりの親しみを持っているので、さまざまな真似をする。生活上では、そばで見つけためがねを持っては服で拭く、自転車にまたがってバイクへ乗るためのゴーグルをしヘルメットをかぶるしぐさなど様々である。
 「幼稚園で何して遊んだの」と聞くと、
 「あそびじゃなくてしごとだよ」と返って来る。
 風邪をおしてまで幼稚園に行く「勤勉精神」が育っているわけではないが、父親を通して意思のようなものの輪郭ができつつあるのかもしれない。

言葉の独り歩きと嘘

 かいが、電話に出る。
「お母さんはいないの」と聞くと、もっともらしく
「にくをかいにいっている」と返ってくる。別なときは
「ごみをすてにいっている」と言う。
 これらの回答は、事実と違うのである。たまたまその部屋にいないだけなのに、受話器をさっと取ってもっともらしく答える。母親があわてて電話を代わる。これは取り仕切っている母親の真似をしているのと、言葉が出てしまっていると思える。電話だけではなく会話でも、確信を持ってときに事実と違うことを言うことがある。
 事実と違うことをもっともらしく言う、つまり嘘と思える。しかしこれは獲得している言葉を使いたい、使ってしまっていることのようだ。4歳は、言葉をどんどん取り込んでいき、使おうとする年齢なのである。嘘と大人が戒めるのではなく、しばらくそのまま待つしかない。やがて時には子どものいうとおり受け答えしたり行動したりすると、だんだん子ども自身が自分の言葉が人を動かすという言葉の力に気がつき、修正するようになるのではないか。
 言葉の世界を持てるようになることが、想像力へとつながる。動かなくても自動車に見立てて座って、運転している気分になる。同乗している役の人がいたら、さらにご機嫌になって運転のしぐさもきめ細やかになる。幼稚園や保育園では、各自が想像の世界でごっこ遊びを盛んにやるのがよく理解できる。子どもどうしの関係性が弱いごっこ遊びだが。

秩序への関心  友達の意味

2005-02-05 06:20:16 | 子どもからの発見
秩序への関心    (2005年02月05日 (土) 06時20分)

 停車の車に乗ってドアが閉まったのですぐ発進したら、かいは
「すわってないのにうごいたらだめだよ」
と言った。チャイルドシートなしの車に、自分が座らないのに発進したことに注文をつけたのだ。急いで発進したのは、一方通行の狭い道に停車していたら、後に車がつかえていたという事情が発生したからだ。
 チャイルドシートに慣れているせいもあってか、座らないのに動き出したことは、あるべき秩序と違うことなのだ。そんな状況に自分が遭遇した時、的確にとらえて言葉にできるようになったということだ。
「かいの言うとおりだよ。後ろの車がとまってこの動くのを待ってたから、急いで動き出したんだよ」
と説明をした。

友達の意味

 牛丼屋さんの前を通ったら
「ぎゅうどんやさん!」
と2歳のふーちゃんが言った。
「よく知ってるね。食べたことあるの?」
「うん!」
と弾んで答えた。連想が生じて
「マクドナルドって知ってる?」
と聞くと、かいが
「たべたことあるもん」とのこと。
「まえ、おかあさんのともだちの○○さんと。いまふつうだけど」
「前友達だったのが、友達じゃなくなったの?」
「・・・・・・」
 言葉として返ってこなかったが、横向きに一点を見つめていた。親しかった人がそうでなくなったということを知っていて、それを話したようだ。友達という言葉の意味をとらえていることに、感心したのだった。

*いつもとは違う知的なコミュニケーションになって、成長を感じた。風邪を引いて気分が優れないので、このようなやり取りになったと思われる。機嫌のよいときだったらこんなに内省的なやり取りにならない。たまの体調を崩す機会が、内なるものを育てる言う側面がある、と思ったのだった。


鳥のえさへの関心  見よう見まね  鉢植えに合掌

2005-02-03 06:29:20 | 子どもからの発見
鳥のえさへの関心  (2005年02月03日 (木) 06時29分)

 <ワシ・タカのなかま>の関心は、餌にも広がった。餌を何にするかということを、ウサギ、カエルなどと語ると、固唾を呑むように聞いた。「これは子鳥も餌にするんだって」と説明したら、「ふーちゃんの好きな小鳥も?」と言って、そうとうびっくりしたようだ。妹(2歳8カ月)であるふーちゃんが、小さい小鳥のおもちゃを大事にしている。妹への思いやりであるとともに、そう言って自分が受けた衝撃を緩和しているようにも思えた。
 庭に来るスズメの餌である粟を時々まいているし、メジロがリンゴやミカンをついばんでいるのを見ているので、それだけではないものを知った瞬間でもある。
 庭でメジロがヒヨドリに追われているのを見ているが、やがて生物界のおきてと結びついて注目できるときが来るのだろう。

見よう見まね

 ふーちゃんは、2歳なので大人の動作などの真似を好む年齢である。母親の靴をはいて危なっかしいのに得意げである。エプロンのように布をしただけで変身した思いである。言葉の理解はほとんどできているが、外言化(しゃべる)がうまくできない。そんな時期であることから、歌をうたってもらうことをとても好む。言葉をため込んでいるようでもある。自分でもうたい、大声を出すこと事体の快感を楽しんでいるようだ。

鉢植えに合掌

 かいは、大人と仕事を一緒にやることが好きだ。2歳頃は、ぬかみそを手をビニールで覆いながらかき混ぜたり、キウリなどを取り出すのを好んでやっていた。粘土あそびもやっていたが。
 今はまきを運んだり鉢植えの植え替えをしたり、仕事らしいことを好んでするようになった。先日鉢植えを植えた後、かまぼこ板を見つけてきて、何を思ったかそれを立てて合掌をした。去年飼っていたカメが死んだので土に埋め、その上に石を置いて墓のようなことをしたので、その体験を再現したのだろう。
 土を扱ったのを、遊びに終わらせないで、鉢植えに整えたことがそういう儀式的行動を誘発させたのだろう。そういえば時々「カメしんじゃったんだよね」ということがある。

抽象性の芽生え

2005-01-19 05:16:39 | 子どもからの発見
抽象性の芽生え  (2005年01月19日 (水) 05時16分)

 庭に来る野鳥の観察に興味を持っているが、3歳まではまとめてチュンチュンといっていた。それが『かがくのとも』通巻395号(02・2・1発行)の『みぢかなとりのずかん』を繰り返し見ては、野鳥を区別して名前を呼ぶようになった。
 このところ『ポケット版学研の図鑑5 鳥』をじっくり見るようになった。最初は表紙の鳥の名前に興味を持ってたびたび聞いたが、何回も見ているうちに<ワシ・タカのなかま>のページに興味を持った。姿かたちへの関心なのだが、猛禽類なので物語風に動物を餌にしていることや、住んでいる場所のことなどを話をしたら興味が膨らんだようだ。
 そしてワシ・タカの本を見たいと言い出した。そこで『野鳥の四季』(薮内正幸画・文 82年講談社発行)探し当てて、ワシ・タカの部分を見せた。ペン画のモノクロなので、最初は物足りないようだったが、じっと見るようになってきた。
 ここでは鳥の名前を個別にあること、分類があるということもちょっと気がつき始めているようだ。少なくても犬などとは異なる、鳥類という区別を前提に話をするようになっている。
 ところで、幼稚園の名前を自分が4月から行く園の名前しかいわなかったのが、いくつかの幼稚園の名前を言うようになった。急に個別のことの共通点に気がつく、抽象力が芽生えつつあるようである。別な言い方をすると、概念を身につけつつあるということか。

危険回避と用心深さ

2005-01-02 11:04:47 | 子どもからの発見
危険回避と用心深さ (2005年01月02日 (日) 11時04分)

■小学校の校庭の遊具に、つり橋のような部分がある。歩くとゆれるほどではないが、足元がキャツウォーク(すのこのように間が空いている)になっている。以前はためらいなく歩いていたが、今回は怖がって歩けない。
 高さによる危険が分かり、それを自分で回避(防衛)しなければ、という気持ちが育ったのだ、と解釈してみた。知的になったのと自律心の芽生えなのだろうとも。

■ヤマト運輸の宅急便の配送車には、荷物とともに喜びも配達してくれるように幼いときからなじみ、愛着も持っているようでもある。クール宅急便のダンボールには、自社の配送車デザインの絵が施されている。その段ボールを手に入れたので、それに入って動かしてもらうことを喜んでいた。
 ところが最近は、ダンボールを外に出して配送車に見立てて、モノを積んで道路を押しては喜んでいる。配送車の運転手気取りで、力をこめて押すのである。
 社会的道理と想像の世界を行ったりきたりできるようになったので、ごっこ遊びが面白くなったのだ。園でいえば3歳児のごっこあそびが、子どもどうしの関係性が未熟だが、発想をおもしろく展開するのがよくわかった。

■最近会ってまもなくは「まじ」「やばい」という言葉を、頻繁に発する。わたしは使わない言葉なので注意深く聞いているが、状況にふさわしく使っている。子どもにとっては、「まじ」も「やばい」もすでに使われている言葉なのである。
 こうして言葉が変化していく、いや言葉だけでなく時代も変貌していくのだ、としみじみ思うのだ。おもちゃの電話も、ケータイが標準になっているし・・・。


延長戦が園長先生になる

2004-12-25 10:37:35 | 子どもからの発見
[49] 延長戦が園長先生になる (2004年12月25日 (土) 10時37分)

■かねてから3歳児(年少組)の子どもの、自分が大きくなることへの期待は、ことさら強いものだと思っていた。4歳の誕生日の喜びは大変なものということが、かいを通して改めてわかった。
 自分の実感をくぐらない知識にも関心を持ち、言葉を獲得し理解しようとする。午前、午後、それに昨日、明日を使いこなす。
 それに「きのうはありがとう」と言ったり、社会的秩序にも敏感になっている。「なんだっけ」「わすれた」「かんがえる」と言う言葉が出てくるし、言葉で考えをめぐらしていることが読み取れる。大きくなったということを誇りに思っているので、その気持ちにフィットすると励むようになるようだ。
 『ちびゴリラのちびちび』(ほるぷ出版)というたわいもないような本は、この大きくなることへの満足を子どもの気持ちに即して描き出している。この本を3,4歳の子どもが喜ぶわけがわかると言うもの。

■セブンイレブンの看板を見て「しちだ!」と言った。街の風景から自分に必要な情報、あるいは覚えたことをじぶんに取り込むことができるようになってきたのだ。

■サッカーは、以前はボールに関係なくひたすら走ったことがあったが、今度はボールに近づいて転んだ。スライディングタックルをしているつもりなのだろう。アスファルト上でやるので痛いだろうし、はらはらした。
 いずれもテレビのサッカーを見た印象を、再現しているのだ。テレビの影響がいかに強いものか、驚くだけだ。
 ところが4歳なので、ボールをキックで交換するなどをしたら、テレビではない、ボールを扱うおもしろさに興味を示した。サッカーが現実の自分のものになって行きそうだ。

■サッカーを見ていて「延長戦か・・・」といったらそれが耳に入って、「えんちょうせんせい、えんちょうせんせい」と笑いながら繰り返した。同音異語のおもしろさ、言葉遊びがもう始まっているのだ。このようなおもしろさに気づくのは、わたしがこれまで考えていたより1年ぐらい早いと思った。



言葉への関心

2004-11-09 17:58:45 | 子どもからの発見
言葉への関心   (2004年11月09日 (火) 17時58分)

 2歳半の子どもが写真を見て「これなあに」という。すかさず「宇治平等院」と言うと、「うじのびょうどういん?」と反応した。
 本当にその写真を知りたいというよりは、会話を楽しみたい感じだった。構音がスムースになり(「ほくえん」が「ほいくえん」と言えるようになる)、言葉を発する心地よさを感じる時期である。
 意味が分かるかが問題ではなく、大人が難しいと思っていることでも反復して、言葉を声にすることが快感なのである。だから語呂のいいこと(韻をふむリズム感のある言葉)を言ってあげるといい。それも強く発する箇所や声の出し方やテンポなどを工夫するとおもしろがる。「うじのびょうどういん」の場合、早めに言って「いん」を強調する言い方をしたら、おもしろがって「またいって」と催促して、何回か繰り返した。
 早教育の場合はこのような時期をとらえて、難しいことを教えて覚えさせて「脳がどうのこうの」というのだろう。わたしには、外国語だって言うとおもしろがってまねすると思えた。
 将来のきれいな話し言葉の獲得のために、日本語の語感を身につけさせることが重要に思えているのだ。
 ついでながら1歳半ぐらいからわらべ歌をうたうと、声をよく出してうたった。2歳過ぎから3歳半ぐらいまでは、絵本になっている子どもの歌をうたってやると、よく聞いて子ども自身もうたう。言葉を外言化する時期なので、とにかく声を出したい。そのとき歌でせいいっぱい声を出させる機会をつくると、子どもは満足する。そして言葉にも敏感になる。

文字を読めるようになる時期は

2004-10-13 14:40:58 | 子どもからの発見
文字が読めるようになる時期は    (2004年10月13日 (水) 14時40分)

 3歳過ぎから、言葉の能力が加速します。モノの名前を覚える、コミュニケーションの中心が言葉になる、世間や大人の暮らし仕組みの入り口に関心を示すなどがあります。たとえば、<あした><どこへ行ってきたの><ひるねしてから○○をする><かりる>といったことが理解できて、行為になります。
 また<チュンチュン>が<とり>に、<タータン>が<おとうさん>にというように、赤ちゃん言葉(ベビートーク)の言い換えをするようになります。
 この時期に生活の中では、食べたものを言葉に置き換える、野菜や果物あるいは魚の現物を目の前にして名前を親が言うことによって、結果として子どもが覚えていきます。知識を増やすだけでなく、行動の自覚化につながるという意味でもあります。
 絵本は子どもがなじんだものは、絵をじっくり見てつぶやいたりすることも見られるようになります。絵のない素語り(ストーリテーリング)にも耳を傾けます。多少話が崩れたとしても、親(大人)の語りは、子どもにとって想像の世界を持て安心したコミュニケーションとしても心地よい時間です。
 さらに文字についても、関心を持ちます。これは言葉の世界で理解を進められる時期であるとともに、あるものとあるものが「にてる」「おんなじだ」といった言葉が聞かれるようになるように、形の弁別力がつくためです。
 第1次文字を読めるようになる時期ですが、無理をして教え込む必要はありません。この年齢で読めるようになることの弊害として、文字を音にすることだけで言葉や文意に関心がいかなくなる場合があります。言葉を増やして絵を持て想像して子どもが語りだしたりする方が、価値があることです。文字を読めても、想像の世界を言葉にする子どももいることはたしかです。
 散歩をしているときなど電柱の広告や表示の文字を子どもが聞いたら、きちんと読んで答えてあげたいものです。文字があるということが分かっていき、やがて読むという行為につながっていく可能性を持っているのです。子どもが文字を、内容を読み解くという意味で、読みこなせるようになるのは、音韻抽出ができるようになる5歳過ぎからです。


「粘土をしまって」と言うと「とはしまってるよ」と返ってきた 

2004-10-03 14:08:29 | 子どもからの発見
「粘土をしまって」と言うと「とはしまっているよ」」と返ってきた (2004年10月03日 (日) 14時08分)

 粘土遊びが終わりにさしかかったので、「粘土しまってごらん」というと、見えない近くの戸のところへいって戻ってきて「しまってるよ」という。なるほど、いつも<片付ける>と言われているのに、わたしが<しまって>といったので、戸を<閉める>と思ったのだった。
 日本語は音韻がまれに少ない言語(一般的には4,500であるのが、日本語は120ぐらい)のため、同音異語が多い。大人になるとそれを漢字に置き換えて意味を区別している。わたしは片付けると言いかえをしたが、<しまって>という同音異語にひっかかっていたようだ。戸を閉める、粘土をしまうとは言ってみたが、まだ難しいのでちんぷんかんぷんのようだった。
 6歳前後から音韻抽出ができるようになるので、同音異語の言葉遊びが面白くなるだろう。でも何か言葉の知らない世界があることに気がついたみたいだし、たびたび同音異語に出くわし戸惑いを体験していくのだろう。大人が子どもの戸惑いに気づいてあげられれば、知的関心が深まるということではないか。(3歳11カ月)


あしたが分かる

2004-09-11 15:13:05 | 子どもからの発見
あしたが分かる  (2004年09月11日 (土) 15時13分)

 庭の朝顔のつぼみを見て「これはあしたさくね」といった。日頃から植物と野鳥などに関心を向けているので、適切な指摘だった。「あした」ということを適切に使うようになった。すぐ食べたい時に「○○をしてから」というと、時間の空間と結び付けられたのは、3歳を過ぎからのようだった。
 目下混沌としているのは、自分の家から「来る」なのに、家を出るときに使った「行く」と言う。自分の行動が、場所を移動することによって逆になり、しかもその言葉を使い分けられるのは、何歳頃からなのだろうか。
 ただし言葉の問題は、子どもの環境によって習得時期がまったく違います。2番目の子どもは習得が早いし、保育園の子どもはもっと早いのである。4,5歳児ぐらいになると子どもをめぐる環境による違いは、弱くなり他の要素が大きくなる。